11・5)秘密の暗号文
本格的に舞台を北の辺境に移す前に、前回の続きでオマケ的な小話を挿もうかと。
スタリーツァでも指折りの仕立屋であると評判の【アルマーズ】の主人、ログダーイ・ドルガルーキーは、その日、足取り軽く、店から程近い通りを歩いていた。
白いシャツの映えた身体にぴったりと合った三つ揃いに中折れ帽を被り、背筋を伸ばした姿は、重厚な石造りの町並みによく似合っていた。そして、ゆったりとした大きめの歩幅を繰り出しながら、時折、恐らく無意識だろう、満足そうな面持ちでよく手入れの行き届いた繊細な口髭を指でぴんと伸ばしていた。
何やら立派な鶏冠を持つ雄鶏が威風堂々と歩いているかのように思えなくもない気障ったらしい仕草だが、その光景は不思議とこの男に似つかわしかった。
そんな男からは、微かに鼻歌が漏れ聞こえてきた。
―――――タンッタラ~ タッタン タララタララタラララ~ タタタタ~ン♪
曲調に合わせるかの如く、石畳を蹴り上げる靴の踵と爪先が束の間の浮遊に遊ぶかのように小さく揺れる。
今にも地面を蹴って踊り出してしまいそうな男の隙なく着こんだ【ピッジャーク】の胸元には小さな封書が一通入っていた。
それは、封書と言っても仕立屋の主らしく繊細な布を折り畳んだものだった。小さな【サルフェートカ】のような布切れも、男にとっては立派な封書と言う訳だ。そして、それはとても重要な意味合いをもつものだった。
男はその足で、その大事な封書の配達を頼む為に街の伝令屋へ向かっていた。王都内にはこうした手紙の配達や荷物の配達を請け負う民間の伝令屋があちこちにあり、王都と各地とを結ぶ流通の重要な一端を担っていた。
軽い封書の伝達には、専ら訓練された鳥たちが使われる。軍部で伝令として利用されるのはその殆どが猛禽類であったが、民間では【ゴールビ】や【ヴァローナ】の類が一般的だった。伝令である鳥たちは、その首に荷を請け負う伝令屋の屋号ともいうべき色とりどりのリボンを結んでいるので、その筋のものならば、空に翻るリボンを見て、あれはどこどこの伝令だということが知れた。伝令たちが首に巻いたリボンは、傍目には蝶ネクタイのように見えなくもなかった。
この仕立屋の主にも仕事柄贔屓にしている伝令屋があり、今回もそこへこの胸ポケットの中に忍ばせた布切れを持ち込み、然るべき場所へ配達してもらう積りだった。
それにしても、この主の上機嫌ぶりは珍妙を通りこして些か気味が悪い程だった。
仕立屋の平生を知る街の人々は、男が、己が仕事に心血を注いでいることを承知していたが、それでもこのように浮かれぶりを顕わにすることは珍しかった。根の詰め過ぎでとうとう頭がおかしくなったか。それとも一足早く春の陽気に触れた所為だろうか。男が足取り軽く曲がった角にある花屋の女房と偶々店先を掃いていた小間物屋の主は、顔を見交わせると目配せをして軽く肩を竦め合った。
そんな顔見知りが挨拶の声を掛けるのを躊躇ってしまうようなある種異様な空気を身に纏っていた男を呼び止める猛者がいた。
「やぁ、ログ、調子はどうだ?」
「これはシメオン様! 御機嫌うるわしゅう」
仕立屋の主に声を掛けたのは、体格の良い初老の域に入るかと思われる男だった。身なりは地味な色合いだが細部に意匠を凝らした立派なもので、一目でお洒落な貴族であることが分かる。
二人の男たちは親しい様子で抱擁を交わし、その頬に軽く触れるだけの口づけを落とし合う。
通常、街の仕立屋と貴族の間では、そのように砕けた(親密過ぎるような)挨拶は有り得ないのだが、それだけこの二人の間には身分を超えた友情に近い交流があることの表われでもあった。
この二人は強い絆で結ばれていた。同じ使命を持っていたと言えば理解が早いだろうか。崇高なる人生の命題である。
「出掛けるのか?」
「はい。角の【ポチタリオーン】の所に。オリベルト様の所です」
「そうか」
―――――熱心だな。
【南の将軍】オリベルト・ナユーグの最大の理解者で個人的にも同じ趣味を持つシメオン・ブロツキーは、親友とその望みを具現化させる仕立屋の遣り取りを半ば感嘆に似た面持ちで聞いていた。
「それよりも、シメオン様、聞いてください!」
仕立屋の主は、昂ぶる気持ちのままにシメオンににじり寄った。そして、控え目な音量だが情熱たっぷりにシメオンの傍で囁き始めた。
小さく握り締めた拳が興奮に震えていた。
「ついに、ついに…………入手できたのですよ! ああ、芸術の女神【ムーザ】は我々に微笑んでくださいました! これでオリベルト様のご要望に【ストプラツェント】お応えすることができます! ええ、間違いございません!」
突然、そこで声を上ずらせたかと思うと同じように捲し立てた。
「つい今しがた、幸運の女神に御来店頂くという僥倖を得まして。なんと、正確な採寸をさせてもらえたのです!!! このことを直ちにオリベルト様にお伝えせねばと思いましてね」
―――――こうして伝令屋に馳せ参じていると言う訳です。
仕立屋の主の常にない怒涛のような興奮をぶつけられたシメオンは、だが、眉を顰めることなく、いや、寧ろ、その喜びを分かち合うかの如くたちまち相好を崩した。
「そうか! それは初春から縁起がいい! これで我々の芸術は一つ更なる高みへと繋がる階段を上ることになったのだな! 素晴らしい!!!」
「ええ、まさに左様でございますとも!」
二人の男たちはそこで両手をきつく握り合うと達成感たっぷりにいい笑顔で微笑んだ。その二人の口元から覗いた白い歯がやけに眩しく見えたのは、きっと気の所為ではないのだろう。
「ああ、それならば急がねばなるまい。火急の所、呼び止めて悪かったな」
仕立屋の主が持つ吉報を早く親友に知らせた方がいいと言って身を引いたシメオンに、ログダーイはにこやかに返した。
「いいえ。ここでシメオン様にお会いできましたのも我々の縁の浅からぬ所以。この喜びを分かち合うことが出来まして感無量の次第です。では早速、御報告に参ります。御機嫌よう、シメオン様」
そう言って胸に忍ばせていた布切れを引き出すとひらひらと振り、たちまち飛ぶような足取りで懇意にしている伝令屋があるという角の向こうに消えたのだった。
馴染みの伝令屋で、仕立屋の主は、いつものように伝令となる【ゴールビ】の首にその秘密の暗号文を刺繍した【プラトーチク】が巻きつけられるのを眺めていた。
「今回もよろしく頼みましたよ」
そして、満足そうに頷くといつもより少し多めに代金を払った。
『ふん、いつにも増して気味が悪い男だ。だが、勤めは果たす』
多めの代金をもらってたちまち愛想を良くした伝令屋の主を斜交いに見ながら、今回もナユーグ邸への役目を言い使った古参の伝令は、どこか呆れたように辛辣な言葉を漏らした訳だが、幸か不幸か、素養のない仕立屋の主には、その言葉は伝わらなかった。
やがて、重大な任務を負った伝令は、恙無くその役目を果たした。
そして、その秘密の暗号文の受け取り手であるオリベルト・ナユーグは、大きな手の中に小さな布切れを掲げて、そこに縫い込まれた一文を高らかに歌うように解き放ったのだった。
―――――【ダスチーグ イェディンストヴェンナバ アルシィーナ】
絶対基準獲得。
オリベルトは徐に目を閉じ、静かに息を吸い込むと、次の瞬間、歓喜の雄叫びをあげていた。
「ウラァー!!!」
第一次任務完了。影なる男の助力により、【隙間芸術愛好会】上級会員によるひめやかな企てが、今、始まろうとしている!?……………かどうかは、作者にも謎である。
前回の余韻が残るうちに…と上げてしまいました。色々スミマセン。リョウとユルスナールが店を後にしたあとの仕立て屋の主を追いかけてみました。始めはブログのほうに載せようかとも思ったのですが、こっちにしてみました。
仕立て屋の主が鼻歌で歌っていたフレーズは、kagonosuke 的にはショパンのポロネーズ第六番「英雄」に聞こえました(笑)
主の名前ログダーイは、ソ連映画「ルスランとリュドミラ」中にいたキエフの軍人から。ピンと伸びた口ひげが印象的だったので。
ドルガルーキーというのは「手が長い人」という意味合いの苗字です。