11)意外な素顔
ご無沙汰いたしております。今年もまた細々と番外編を続ける予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
新年明けてよりの書き初め。久々の番外編は、王都滞在中の出来事です。主役はもちろんあの二人+α。それではどうぞ。
そろそろ長期に渡った王都滞在を終え、北の砦に戻る時期が迫って来たとある日、リョウはユルスナールに伴われて【スタリーツァ】の街中に出てきていた。
宮殿から真っ直ぐに伸びる大通りに沿って市街をぶらぶらと歩いた。通りはいつもの如く賑やかで、数多もの行き交う人々で賑わっていた。身長差、体格差のあるでこぼことした二人連れの歩みは、ゆったりとしたものだが、当て所なく歩いていた訳ではない。この日は、こなさなくてはならない用事が細々としたものだが色々とあり、それなりに予定は詰まっていたのだ。
リョウはこの日、いつものように動きやすい格好と言うことでズボンにシャツと上着、そして外套を重ねた姿だった。外套の上から背中に斜め掛けにした鞄は使い古したもので飴色に光っている。そして、石畳の上をコツコツと音を立てて歩む長靴も焦げ茶色が程良く色褪せ、よく足に馴染んだものだった。
その隣を歩くユルスナールは、普段にも増して簡素な装いだった。このまま街中の働く男たちの中にすんなりと紛れることができてしまうような、そんなありふれたものだ。兵士であることを示すものは、腰に佩いた長剣くらいなものだろう。ただ、それだけでは傭兵の類と見分けが付かないかもしれない。
だが、そうやって身を窶していても、生来の男に備わる威厳と気品のようなものは、日常の普段着からも滲み出るようにして出ており、その特徴的な髪の色と王都内のとある筋ではそこそこ顔が知れ渡っているという事実から、細い路地裏の古ぼけた看板の前では、ややもすれば浮いてしまいそうな塩梅になっていた。
勿論、ユルスナール自身、そのようなことは全く気にかけていなかった。全くもって瑣末なことである。何故なら、今、ユルスナールの意識は常に隣を歩く人物に注がれていたからだ。
王都滞在が一月半以上になり、それなりにこの街の空気に慣れてきたと言っても、ユルスナールの目から見て、一人歩くリョウは、ふらふらと危なっかしく見えた。人混みは割と器用に抜けるが、直ぐに周りの喧騒に気を取られて余所見をするので、急ぎ足で歩く男たちとの間合いを測りかねてぶつかりそうになったり、はたまた飛び出した石の出っ張り等に足を掛けて転びそうになったりしているのだ。
好奇心が旺盛なことは微笑ましいことには違いないが、一つのことに集中すると注意が散漫になる性質なので、ユルスナールは内心、気が気でなかった。
「リョウ、手を貸せ」
そして、始めの内は大人しく隣を歩いていたのだが、街の中心部分に至るにつれて人や通りを占拠する物が増えてきて、ユルスナールはこのままでは不味いと判断した。
「はい?」
心が浮き立っているのか、半歩前を歩いていたリョウは、相変わらず能天気に振り返ってユルスナールを見上げたが、掛けられた声と同時に繋がれた手に大人しく従った。というよりも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
ごつごつとした骨張った男の手を掴む小さな手に若干、力が入る。そうして、緩く調子を取るようにして揺れる腕から相手の機嫌の良さが窺えて、ユルスナールは思わず口元を緩めた。
「上機嫌だな?」
「ふふふ。そうですか?」
「ああ」
逸れないようにという相手の意図をちゃんと理解しているリョウは、繋いだ手を下に引っ張るようにして振りながら、街行く人々や様々な意匠を凝らした店先を眺めていた。
こういう賑やかな所はワクワクする。こちら側で暮らすようになって二年近くになるが、北の辺境のど田舎とは違い、流石、この国の中心である王都は、様々な物珍しいもので溢れていたからだ。
それにユルスナールと王都市街を歩くのは、久し振りのことだった。養成所に通っている間は、無論、互いの予定は全くと言って良い程合わなかったし、いつぞやの王都見物もユルスナールは家庭の事情で都合が付かなかった。それから直ぐに武芸大会が始まり、打ち上げで夜の街を歩いた以外は、貴族の邸宅から宮殿付近までは何度か往復したものの、二人きりでこうして様々な階層の人々で賑わう街中を歩くことはなかった。
であるから、リョウとしては素直に嬉しかったのだ。こうして二人してのんびりと王都の街歩きをするのは、初めてのことであったから。まるで普通の恋人たちのようではないか。束の間の逢引きに胸躍らせる若い男女。見てくれは些か珍妙な取り合わせなのだろうが、リョウはもうその辺のことは気に留めていなかった。
ユルスナールも今日は非番扱いの日で、第七師団長という肩書を置いて来ている。隊服を着て兵士の格好をしていないユルスナールは、少し新鮮で、そのようなささやかな違いも、どこかくすぐったいような面映ゆさと嬉しさをリョウの心の中に沸き立たせていた。
「今、向かっているのは【アルマーズ】というお店でしたっけ?」
居並ぶ石造りの建物の軒先に小さく掲げられている看板を確かめるようにきょろきょろとしたリョウに、ユルスナールは、まだ先だと言いながら小さく笑った。
「ああ。そこで少しお前の服を見繕って、それから、もう一件、石の加工を行う術師の所だ」
【アルマーズ】というのは、シビリークス家が懇意にしているという仕立屋で、男物の服しかないリョウの為に女物の服を誂えようというユルスナールの提案だった。動きやすいからという理由だけで、リョウはガルーシャのお古であるズボンを穿いていたのだが、これから新妻になる婚約者にせめて普段着だけでも女物の物を用意してやりたいということらしかった。
実際の所、服飾関係に多大なる興味を持ち、これまで色々とリョウに贈り物と称して己が情熱をぶつけてきたドーリンの叔父、オリベルトの影響もあったのだろう。自分の恋人、もとい婚約者が、他の男が誂えた服を身に着けるというのは男の対抗心を刺激するものであったらしい。同じようなことで御洒落に煩いシーリスからも色々と女心を擽るような贈り物をされていて、また、それがリョウに似合っていたものだから、流石シーリスと思う反面、なんだか癪な部分もあって、ユルスナール自身、リョウが普段使うものには自分の好みと意見を少しくらいは反映させてもいいだろうと思うようになっていたのだ。オリベルト将軍の趣味から始まった一連の騒動は、とんだ副産物を生みだしたというところだろうか。
リョウ自身、着る物に関しては然程気に留めていなかったのだが、ズボンを穿いている間はいつも少年と間違われるので、これから先、第七の隊長の妻となる者がそれではあんまりだろうと思わないでもなかった。ということで、普段着を誂えようというユルスナールの申し出に頷いたのだ。
これから訪れるのは、シビリークス家が普段贔屓にしている仕立屋だということで、リョウは最初、【プラミィーシュレ】の時のようにとんだ高級店に連れて行かれるのではと恐れ入ったのだが、普段着に使うような簡素な生地も豊富にあると聞いて、ほんの少しだけ胸を撫で下ろした。それでもやはり、少し緊張していた。こればかりは仕方がないのだが、リョウの中では服を仕立てるというとやはり贅を凝らした一張羅という想像が先行してしまうからだ。
スフミ村のリューバやアクサーナたちは、行商でやって来る生地屋から反物を買って、それを自分たちで仕立てているという話を聞いていたので、リョウもいずれは裁縫を覚えなくてはと思っていた。北の砦や森の小屋近辺で暮らす間は、以前と早々生活が変わることはないだろう。元のように慎ましやかで穏やかな日々だ。普段着は自分で手入れが出来るような簡素なもので十分だった。その辺りの心積もりを一応ユルスナールに話せば、未来の夫は微かに笑い、裁縫を覚えるまでの間用に少しは誂えておいた方がいいだろうと言った。そして、ユルスナールとしても女らしい格好をしたリョウを見たいと言われてしまえば、それに否なをいう理由はなかった。
「ねぇ、ルスラン、あんまり仰々しいのでなくていいんですからね?」
―――――ごく簡素な普段着でいいんですから。
義母のアレクサーンドラや長兄の妻であるジィナイーダ、次兄の所のダーリィヤたち義姉たちのような王都在住の貴族の奥方が身に着けているような立派な衣服は必要ない。働く庶民の日常着で十分だ。
余程の懸案事項であったのか、同じことを再び繰り返したリョウにユルスナールは、苦笑をするように笑った。
「分かっている。生地はお前が好きなのを選べばいい。形だって色々と注文を付けられるからな」
―――――お前の好きにすればいい。
同じような問いに同じように返して。そうして、いつの間にか目的の【アルマーズ】の店先に辿りついていたリョウは、ユルスナールに背中を押されるようにして店内の扉の中に入った。
「これはこれは、シビリークスの坊ちゃま!」
入店を知らせるベルが鳴り、来店した客の顔を見るなり仕立屋の主が素っ飛んで来た。
作業の為に着けている白い前掛けと首から下げている計測尺がひらりと揺れた。
「ご連絡を頂けましたらお伺い致しましたのに。態々御足労頂けるとは。申し訳ございません」
都会風の細面の顔に気障ったらしく(と言ってもその実、それは主人に似つかわしかったのだが)ピンと伸びた口髭を生やした主は、突然、現れたユルスナールに驚いて、頻りに恐縮していた。
「いや、出掛けた序でだ。それに偶にはここに来るのもいいだろうと思ってな」
そう言って鷹揚に微笑んだユルスナールに、主は少し大げさに手を広げてから揉み込むようにして組み合せた。
「そうでございましたか。本日はどのような御用件で? 新しくお誂えになりますか? 工房の方からいい染色の生地が上がって来ているんですよ。色もこれからにぴったりの涼やかなものでして……」
さすが客商売を専門とする仕立屋の主だ。寡黙な職人という路線からは外れて弁も立つようで、お得意様に滑りよく売り込みをしてゆく。
その間、リョウはその主人の顔を見ながら、はてと首を傾げていた。その主の顔をどこかで見たような気がしたからだ。さてどこであったか。
そのようなことをつらつらと考えていれば、長くなりそうな主の専門的な話を適当な所で切り上げたユルスナールが、リョウの背中に手を当てて、主の前に出すように押し出した。
「女物の普段着を幾つか誂えたい」
そこで漸く主はユルスナールの傍にいたリョウに注目した。
「これは…これは!」
主は揉み手をしながら、そこで何故か顔を輝かせた。
「毎度どうも」
胸に手を当てて恭しく一礼した主の少し後退した額際を見た時、リョウはあっと思った。
「オリベルトのおじさまの所の?」
どこかで見たことがあると思っていたが、それはナユーグ邸でのことだった。
偶々、オリベルト将軍の趣味に付き合うことになった時に、依頼を果たしに訪れていたこの仕立屋の主を見掛けて、軽く会釈をしたのだ。実に嬉々として趣味の相談をしていた二人の男たちの姿がとても印象的だった。要するにあちら関係の人だった。
「はいはい、左様でございます。その節はどうもありがとうございました」
主は晴れやかにいい笑顔で微笑んだ。
「するとこちらのお嬢様用でございますね? ええ、よろしゅうございますとも! 私と致しましても願ったり叶ったり、やっと正確な計測が……いや、オッホン(態とらしく咳払い)……ということは採寸ですね!」
―――――さぁさぁ、どうぞこちらへ。
こちらが用件を伝えない内に、主から嬉々として促されるように案内されて、リョウは内心慌てた。勘違いをされたら困るからだ。
「あの…………今日はオリベルトのおじさまたちの【愛好会】とは全く関係がなくて…ですね。ワタシの普段着と言いますか、仕事着で、庶民風の一般的で簡素な物をお願いしたいのですが」
オリベルト将軍の恐ろしく緻密で意匠に富んだ高級路線の豪華な仕立物を思い出して、全く真逆の物を作りたいのだと必死になって説けば、主は不意に立ち止まって、ユルスナールの方を確かめるように見た。
ユルスナールはそこで一つ大きく頷いた。
「今回はこれまでとは些か傾向が違ってな。なるべく丈夫なものが良いそうだ。すまないが、あれの言う通りにしてやってくれ」
「左様でございますか。それならこちらへどうぞ。今、あちらから生地を持って参りますので。普段着でございますね。お若いお嬢様がお好きなような柄ものを沢山ご用意してございますから」
―――――暫し、お待ちを。
客の要望を的確に理解した仕立屋は、玄人の商売人らしく慇懃に頷き返すと、軽い足取りで店の奥の方へと消えた。
何故かやたらと上機嫌な仕立屋にリョウは一抹の不安を感じないでもなかった。オリベルト将軍の高度で高尚な要求に的確に応えているような一流の仕立屋だ。そんな主が、果たして自分が望むような簡素な物を理解してくれるだろうかと。
だが、それは最終的には杞憂に終わった。職人である仕立屋は、客の要望をできるだけ忠実に具現化させることを一番とする。片やオリベルトのような趣味人の前衛的な分野もあれば、その逆もまた然りということだ。まぁ、相対的に見ても後者の方は明らかに稀であろうが。それでも顧客を満足させるという点に於いては、生粋の職人の沽券に違いはなかった。
店の奥から戻って来た主は、その長い腕に沢山の生地の反物を抱えていた。
「さぁ、どうぞ。お手に取ってご覧ください」
―――――お好みのものがあればよいのですが。
普段着用だという生地をテーブルの上に並べられて、リョウは恐る恐る手に取った。
確かに庶民の日常服に近いものと言うことで丈夫な【リョーン】を紡いだ生地が主流だった。手紡ぎのように素朴な粗さを出しているものから目の細かい柔らかなものまで様々だ。それでも手触りは滑らかで温かみのあるものが多く、地模様の織柄が入っていたりとリョウがこれまで目にしてきた庶民の服よりも凝っていた。中には先染めで草花模様が描かれているものもあった。
その中で地の色合いは変哲のない生成りの地味なものだったが、繊細な紋様が所々に染め付けられている反物があった。
リョウの心は、その可愛らしい模様に擽られた。始めはどうせ汚れるのだから無地の物にしようと思っていたのだが、こうして目の前に沢山広げられるとやはり目移りして、どうしても柄が入っているものに目が行ってしまう。こういう所は、一度は忘れかけたお洒落心が頭をもたげてしまう現金さに自分でも苦笑した。
「素敵ですね」
小さな紋様の入ったそれを手に取り感嘆の溜息を吐いたリョウに、主が相好を崩した。
「さすが、お目が高い。それは少し凝ったものでしてね。小さくとも可憐なものでございましょう? お勧めの一品ですよ」
―――――さささ、肩に当てて御覧になって下さい。
隣にある大きな姿見を示されて、リョウはそっと後ろを振り返ると腕を組んで様子を見ていたユルスナールを見た。
ユルスナールは穏やかな表情で静かに目を細めていた。
「それが気に入ったか?」
「はい。ルスランは、どう思いますか?」
小首を傾げたリョウに、
「ああ、いいんじゃないか?」
ユルスナールは傍に来ると姿見の中にその顔を覗かせた。
服飾に関してはからっきしだったが(ここではそれは重要ではないのだ)、恋人の頷きにリョウも嬉しそうに顔を綻ばせた。
それからもう二・三生地を選び出して、採寸をした。仕立屋の主は、やっとこれでオリベルト将軍の情熱に精確に応えることが出来ると喜んだのだが、当然のことながら、呑気なリョウはそのことに気が付いていなかった。
形については、装飾の類を一切省いた簡素なものにした。襟の無い丸ぐりに頭からすっぽりと被るような形で、腰回りは自由が利くように共布で縛るようにする。前身ごろに少し切り込みを入れて、空き具合を釦で調整できるようにしてもらうことにした。
そうして出来上がったら【アルセナール】の第七の方に届けてもらうことにした。本当は仮縫いをして最終的な微調整をした方が良いのだが、そうするには日数が足りなかったので、そのまま最後まで縫い上げてもらうことにしたのだ。そして、【アルセナール】で北の砦向けの荷物の中に序でに入れてもらう予定にした。
やたらと上機嫌な仕立屋の主から見送りを受けながら、リョウはユルスナールと店を後にした。
それから、今度は貴金属や石の加工を専門に行っているという術師の元を訪ねる予定だった。
リョウの指輪を作る為だ。
この国、スタルゴラドでは、男は愛する女性に自分の瞳の色と同じ石を使った指輪を贈り物にする風習がある。それは通常、求婚に使われ、婚約・結婚の証となった。
正式な婚約が成立した後、リョウは本当にイオータの所でペンダントとして付けていた物と同じ【キコウ石】の原石となる石を見繕って、自らそれを【キコウ石】の中でも純度のかなり高い【カローリ】に加工処理してしまったのだ。ユルスナールは、その石を結婚の証となる一生ものであることから自分で用意したかったのだが、元より高い素養を持ったリョウの処理能力の高さとそうして生み出された原石を無碍にすることはできなかったのだ。なんと言ってもリョウが処理を施した石は、一般的に流通している【キコウ石】よりも遥かに純度が高く質の良いものだったからだ。それならば、それを加工して指輪にしてもらう所は自分が引き受けようと軍部の中でも然るべき伝手を頼って、専門の加工を受け持つ術師を探し出して来たという訳だ。そして、実際の指の大きさを測り、好みの形に誂える為にリョウを伴うことにしたのだ。仕立屋の方も大事であったが、未来の夫であるユルスナールとしては、こちらの方が更に重要だった。
そのような男の意気込みはともかく。
こうして二人は、大通りを離れて、その石屋が居を構えるというひっそりとした裏通りの工房を訪ねようとしたのだが、その途中、ユルスナールは運悪く、顔見知りに捕まってしまったのだ。
ユルスナールを引き留めたのは、治安維持の為に市中の見回りをしていた第四師団の兵士たちだった。ユルスナールが正式に婚約をしたことを耳にしていた仲間の兵士たちは、からかい半分、彼らなりのやり方で一足先に春を迎えた幸運男に祝福を捧げたと言う訳だ。その中には、祝賀会の夜にあの【バール】の中にいた男の顔もあった。
気の置けない仲間たちに絡まれて、ユルスナールとしても適当な所で切り上げようとしたのだが、多勢に無勢。
リョウは最初に軽く挨拶をしてから、そんな男たちの遣り取りを遠巻きに眺めていたのだが、ふと足元に感じた違和感に顔を下ろせば、そこには珍しい客人が小さく畏まっていた。
『不躾を承知でお願い申しあげまする』
『お願い申し上げ候』
小さな円らな二対の瞳にリョウは上体を屈めるとそのまま地面に片膝を着いた。
「こんにちは」
そこにいたのは二頭の小さな子猫のような形をした四足の獣だった。ティーダよりもずっと丸い顔をした愛くるしい形をしている。
『我らにどうか御慈悲を』
『御助力を賜りたく』
森の長であるセレブロの加護の影響もあってか、初対面の獣たちはリョウに対して慇懃な態度を崩さなかった。
小さな身体で平身低頭して必死になにやら懇願をしている。その様子にリョウは半ば苦笑を洩らしながら、小さな二つの頭を撫でた。指先に触れた毛並みは、柔らかで触り心地が良かった。
「そんなに畏まらなくてもいいよ。ワタシはセレブロとは違うもの」
リョウはそう断って、柔らかく微笑んでから言葉を継いだ。
「どうかしたのかな? ワタシに何か頼みごとがあるの?」
『貴公のお力をお借り致したく』
『はい。どうぞ我らが母上をお助け下さい』
どういう訳で助けを求められたのかは知れないが、リョウとしても出来ることと出来ないことがある。出来る限りのことはしたいが、生半可な返事はしたくなかった。
状況を理解するために更に言葉を重ねた。
「お母さまがどうかしたの?」
『臥せっておりまする』
『産後の肥立ちが悪く』
『長の患い』
「…………そう」
哀しげに目を伏せた二頭にリョウも同じように目を伏せながら考えを巡らした。
人に施す祈祷治癒などの力が、獣にも作用するのだろうか。薬草の類は万が一の為に一揃え、鞄の中に入っていた。それらは多少の違いはあれども獣たちにも同じように効くことが分かっていた。
この場所では遥か昔、獣と人は同じであったという。現在ではお伽噺の中に伝わっている夢物語のような事象でも、それが真実であったのだろうことは、人の形を取ることが出来るヴォルグの長、セレブロを知るリョウには理解が出来た。となると、実際に上手く行くかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。何よりもこうして必死になって自分を呼んだ獣たちを放っては置けなかった。
「分かった。力になれるかは分からないけれど、きみたちのお母さまの所へ案内してもらえるかな? 出来る限りのことはしよう」
『まことにござりますか!』
『やや、ありがたや』
「ただ、ワタシは新米だから、上手く行くかは分からないよ?」
自分は何でもできる魔法使いではないと釘を刺しておいたのだが、
『なんとお優しき方』
『噂に違わず慈悲深き方』
小さな二頭は感極まったように顔を上げて、薄紫と黄緑色の瞳をきらきらと輝かせた。
その期待に満ちた瞳にリョウは内心早まったかと冷や汗をかいたのだが、直ぐに苦笑のようなものをその口元に浮かべた。
「……と、その前に」
リョウはちらりと後方を振り返って、未だ隊服に身を包んだ厳めしい男たちの間にいる銀色の頭部を確認すると鞄の中から小さな紙切れと鉛筆を取り出した。ユルスナールへ伝言を残す為である。いきなりこの場からいなくなったら、また大騒ぎになることは目に見えていた。声を掛けても良いのだろうが、ユルスナールは予定が崩れたことに余りいい顔をしないかもしれない。ひょっとしたらこの予定外の用事も彼らが話を弾ませている間に終わるかもしれない。
そう思ったリョウは、几帳面さを滲ませたお手本のような丁寧な字でさらさらと用件を書き、これを二頭の内の一頭にあの男の元へ銜えて行くように頼んだ。
「お使いを頼んでもいいかな?」
『御意』
茶色い毛並みに白い斑が入った一頭が、合点したように頷いて小さな紙切れを銜えると雑踏の中に姿を消した。
「それじゃぁ、行こうか」
そうして残った白色に黒い毛が混じったもう一頭に促されるようにして、リョウは立ち上がると、小さな背中を追うべく人気のない路地裏に入り込んだ。
光溢れる大通りからは一転、人一人が抜けるのがやっとのような薄暗い細い隙間(要するに獣たちの通り道だ)をリョウは四苦八苦しながら通り抜けた。小柄の獣には、リョウくらいの大きさの人間が通れるかどうかまでは頭になかったようだ。ひょっとしたら彼らなりの最短距離を取っているのかもしれない。身体が小さくて良かったと思った。
軽々と壁を越えたかと思うと次には木の板の穴が開いた所をなんとか潜り抜けて(こんな場所で匍匐前進をするとは思わなかった)、まるで小さな子供が未知の探検に出掛けるような気分になりながら、リョウは必死になってその白い背中を追った。
『こちらでござる』
そうして、あちこち埃まみれになったり、外套を引っ掛けたりしながら、やっとの思いで辿り付いた先は、高い壁に四方を囲まれたひっそりとした空間だった。どん詰まりには、空になった古い木箱が乱雑に積み上げられている。まるで小さな城塞のようだと思った。
赤茶色の煉瓦作りの壁が遥か上空にある空を歪に切り取っていた。
リョウは思わず後ろを振り返った。そこは、高い石壁の間の狭い隙間だった。もしかしなくとも自分はあそこを潜り抜けてきたのだ。そうして不意にユルスナールのような大柄な男には土台無理だろうと思ってしまった。
『リョウ』
焦れたように名前を呼ばれて、リョウは直ぐに我に返ると小さな案内者へ視線を移した。
「ごめんごめん」
『こなたじゃ』
そうして連れて来られた所には、彼らより大きな四足の獣が一頭、古ぼけた毛布の上に横たわっていた。真っ黒な毛並みをした獣だった。ぐったりとした様子で浅い呼吸を繰り返している。その息使いは苦しげであった。
『母じゃ、大事ないか?』
闖入者の気配に目を閉じていた黒い雌猫は、薄らとその瞳を開けた。上空から差し込む日の光に黄色い色合いの玉のような瞳が反射した。
彼ら二頭の母親と思しき獣は、緩く長い息を吐き出した。
リョウはそっと横たわる獣の傍に片膝を着くと囁くように口を開いた。
「ベェーラに呼ばれて参りました。お加減が芳しくないそうですね。少し診させていただいてもよろしいですか?」
ベェーラというのは、リョウをここまで連れてきた白い毛並みの子猫の名前だった。要するに【白い】という意味の単語である【ベェールィ】という言葉から来ているのだろう。
『そなたは…………』
どこか気品ある母猫は、直ぐ傍で跪いたリョウを見て、その身に纏うヴォルグの長の気配を的確に感じ取ったようだった。
『あい…すまぬ』
そう口にして再び目を閉じた母猫に、リョウはそっとその体に手を当てた。
身体がとても冷たかった。温めなくては。そう瞬時に判断したリョウは、羽織っていた外套を脱ぐとその温かで柔らかな布で母猫の体をそっと包んだ。そして、外套の上からそっと掌を当てた。
「お腹の調子はどうですか? 食欲はありますか?」
『胃の腑が時折ちりちりとするわ。食は進まぬのう』
『母上は、ここ数日、まるで物を食されておられぬ』
「……ふむ」
リョウはその言葉に鞄を漁ると薬草の入った袋の中から、胃腸の調子を整える為の薬草【ジェルーダク】を取り出した。
「気持ちが悪くなったりはしないですか? 吐き気がしたりとかは?」
リョウは慎重に言葉を重ねた。
『それはないが、胸の辺りがなにやらせつのうてな』
「息をするのが辛いですか? それとも苦しい?」
『それはない』
「最近、お産をされたのですよね?」
ここに来る前に産後の肥立ちが悪いともう片方の茶色に白い斑のある子猫、カリーチィが言っていたのだ。リョウは辺りを見回したが、産まれたばかりの小さな獣たちの気配はしなかった。
『ああ。一月ほど前じゃ』
「お子さんたちは?」
リョウを呼びに来た二頭の子猫は、小さくともそこそこ年齢が行っているはずだった。生まれたばかりではない。
母猫は顔を上げるとすっと左の方向を見た。そこには深い影が色濃く立ち込める空間があった。
じっと影の方を見ていた母猫が目を眇め、鼻をひくひくとさせた。
『ああ、こなたに』
母親がそう言った瞬間、遥か後方で大きな影が揺らいだ。そして、驚いたことにその濃い闇の中から、ゆうらゆうらと何かがこちらに向かって来るような気配がした。
そちらは行き止まりではなかったのだろうか。あちら側にこちらに通じる場所があるとは思わなかった。
―――――人……だろうか。
いや、この母猫の番いということも有り得る。だが、それにしても影の揺らぎはとても大きい。
リョウはその影の中にある揺らぐ何かを確かめようとじっと目を凝らした。やはり人のようだ。母猫や傍にいるベェーラが動じていないということは、怪しい人物ではないのだろう。
そうこうするうちに微かに子猫の甲高い鳴き声がして、影の中から人間の男の低い声が聞こえてきた。
「チェーラチカ、加減はどうだ?」
それは……どこか聞き覚えのある声だった。
「ちびどもはもう痺れを切らしたぞ」
そうして闇の中からにょっきと現れた大きな男の姿に、リョウは思わず息を飲んだ。余りに予想外の出来事に心底、驚いた訳だが、それは向こうも同じであったようだ。
「あ? なんでぇ、【チョールナヤ】じゃねぇか! こんなとこでどうした?」
それはこちらの台詞でもあった。
少し掠れた低い声に厳めしい顔と大きな体つき。浅黒い艶やかな肌に明るい薄茶色の髪を跳ね上げさせて。何よりも特徴的なのは、その吊り上がり気味の灰色の瞳の右側部分を縁取る刺青のような黒い紋様だった。
今、その雄々しい顔の乗った太い首が繋がる肩辺りには、小さな小さな子猫がみゃうみゃうと鳴きながら齧り付いていた。良く観察すれば、もう片方の肩、そして男が懐に抱えた両腕の中にも同じような小さな小さな子猫が欠伸をしたり、目を閉じてまどろんでいたり、じゃれついたりしている。
それは、なんというか、実に意外な組み合わせだった。だが、珍妙ではあったが、リョウの目には、妙に馴染んでいる不思議な光景に映ったのだった。
その大きな兵士の体に纏わりついているのが、母猫が産んだと言う子猫たちなのだろう。よく懐いている所を見ると、この男の素の部分が意外にも純粋で優しさに溢れるものなのだということが透けて見えてきた。獣たちはそういう所に敏感だ。特に生まれたばかりの子供たちを預けられている。性質の悪い無頼漢のように思っていたザイークという男の認識を改めなければならないとリョウは頭の片隅で思った。
「ザイークさんこそ、こんな所で………」
二の句を継げなかったリョウに傍にいたベェーラが目を丸くした。
『やや、リョウ。そなた、ザイークと知り合いか?』
「知り合いって言うほどでもないけれど…………少しね」
ユルスナール経由で少々。精々顔見知りと言った所だ。
驚いているリョウを尻目にザイークは慣れたように子猫たちを体のあちこちにぶら下げながら、母猫の傍に膝を着いた。そこで案じるように存外優しげな眼差しで横たわる獣に声を掛けた。
「チェーラ、具合はどうだ?」
大きな手を伸ばして外套の隙間から出た母猫の顔をそっと撫でる。母猫は目を閉じると緩く息を吐き出した。
そこでリョウは我に返ると中途半端に止まっていた診察を続けた。
診た所、出血などはないようだった。吐血している様子もない。全体的に衰弱している感じだ。乳を良く出す為にも食べられるようにならなければならない。
リョウは取り出した薬草の【ジェルーダク】を鞄の中に入れていた乳鉢ですり潰すと水筒の水を垂らして伸ばした。それを指に付けて母親の口元に持って行った。
「少し苦いですけれど、お腹の調子を良くするために舐めてください」
母猫は匂いを嗅ぐように顔を近づけて、ほんの少しだけ顔を顰めたが、大人しくそれを舐め始めた。それを何度か繰り返して。乳鉢の中の薬草が空になると水を飲ませた。
それから黒い毛並みの腹の部分に外套越しに両手をやんわりと当てると意識を集中させる為に目を閉じた。それから、ゆっくりと息を吸い込んだ。
リョウの口からはガルーシャとレヌートの所で学んだ祈祷治癒の呪いの文言が紡がれ始めていた。体内を蝕む悪しき毒が外に出るように。そうして、全てが元の流れに戻るように。
リョウの手の下からは淡い光が出ていた。術が効き始めた証だった。それと同時に外套越しに触れた箇所が、じわじわと熱を帯び始めていた。
母親が緩く息を吐き出す。先程よりも呼気が安定している。
「【イースクレンナ・ウマリャーユー】」
最後に締め括りの呪いを唱えた。人の場合と違い手探りで感覚を繋いで行った所為か、いつも以上に神経を使った。一通りの工程を終えるとリョウの額には薄らと汗が滲んでいた。
少し柔らかな表情をして目を閉じた母猫に、リョウはそっと微笑んだ。
「気分はいかがですか? 気持ちが悪かったりしませんか?」
『ああ、なにやら…心地よい』
「これで少し様子を見ましょう」
『…かたじけ…ない』
うとうととそのまま静かな寝息を立てて眠りに就いた母親に、リョウは一先ず術が良い方向で効いたことを感じ取って安堵の息を吐いた。まだまだ経過を見なくてはならないだろうが、正直な所、効くかどうかは半信半疑だったからだ。
そっと黒い毛並みを撫でていれば、隣から強い視線を感じ取った。そのまま静かに横を流し見ると、ザイークがじゃれつく子猫たちの相手をしながら、じっと、リョウの方を見ていた。灰色の瞳が観察するようにこちらを向いている。
「なん……ですか?」
どうも苦手意識が先行する所為で恐る恐る尋ねたリョウに、ザイークはふっとその口元を緩めた。
「おめぇは…術師だったか」
「はい。まだまだ新米ですが」
「そうか」
まだ言葉を話さない子猫たちは、みゃうみゃう言いながらも実に機嫌よくちょろちょろと動くザイークの太い指にじゃれついていた。
遊びに飽きたその内の一匹がリョウの膝の上によじ登って来た。その余りにもか弱い、だが、強靭な魂の息づく小さな身体を手の中に抱いて、リョウは柔らかく微笑むとそっと頬をすり寄せた。
「大丈夫だよ。きみたちのお母さんは、きっと元気になるから」
やんちゃな盛りの子猫に、リョウは自分の言葉が通じたかは分からなかった。それでもそう口にせずにはいられなかった。
気が付くと子猫たちは静かに眠る母猫の周りに集まって、そこで丸くなっていた。やけに静かになったと思うとすぴぃすぴぃと微かな寝息のようなものが聞こえてくる。
子供たちが心安らげる場所は、やはり母親の傍なのだ。そんな根源的で当たり前の事実が妙にリョウの胸を突いた。
「………可愛いですね」
思わず口を突いて出てきた言葉に、ザイークはどこか嬉しそうに口の端を吊り上げた。
それからザイークに案内されるようにして、リョウは再び光溢れる裏通りに出た。何も来た時のように狭い隙間を通らなくともちゃんとザイークのような大柄な男が通れるくらいの道があったのだ。あちこち薄汚れた衣服の埃を叩きながら、リョウはまぁいいかと思った。
外套は母親の所に置いて来た。少し身軽になった背中に同じ鞄を背負う。思い出したように細い路地を吹き抜ける風はまだ冷たかったが、心の中はなんだかほわほわと温かかった。
「世話んなったな」
「いえ」
少し気まり悪げに剃り込みのある短い髪をがしがしとかいた大きな男に、リョウはそっと微笑んだ。ザイークの新たな一面を知った所為か、以前のような警戒心はリョウの中では失せていた。
「外套は、お前んだろ? 後で返す」
「別にあのままで構いませんけれど。でも、ちゃんと温かくしてあげて下さいね。冷えは禁物ですから」
「ああ」
それから不意に男の空気が変化を見せた。
「しっかし、お前がチェーラと同じだったとはなぁ」
―――――ぶったまげたぜ。
恐らく、リョウの性別のことを言っているのだろう。
「意外でしたか?」
「いや、まぁ……あいつとおんなじ面してたからな」
そう言ってリョウを遥か高みから斜交いに見下ろすとニヤリと笑う。
言われた意味が良く分からなくて小首を傾げれば、ザイークは更にからかうような笑みを浮かべていた。
「雌……つうか、女、いや、そうだな、母親の顔だな」
「そう……ですか?」
思いも寄らない指摘にリョウは目を瞠り、それから可笑しそうに小さく微笑んだ。
「意外と言えば…………」
―――――ザイークさんの方こそ。
「リョウ!」
そのまま続くかに思えた言葉は、狭い路地裏に突如として響いた自分の名前を呼ぶ男の声に阻まれてしまった。
「ほら、おめぇの旦那がお待ちだ。顔色変えて素っ飛んで来やがった。ざまぁねぇ」
どこか可笑しそうに飄々とそんな軽口を叩いたザイークの顔は、リョウがこれまでに見知っていた男と同じものだった。性質の悪い無頼漢のような強面の兵士。だが、今はそれだけではないことを知っている。
「あの野郎、見かけによらず心配性だよな。胆がちいせぇ。つーか、過保護? 溺愛体質? うっわ、きめぇ。自分で言って鳥肌立ってきたぜ、チクショウ」
一人妙な悪態を吐いて剥き出しになった太い腕を摩り始めた男をリョウは何とも複雑な顔をして見上げた。
やがて、その顔が可笑しさを堪えるようなものに変わった。
迎えに来た男よりも先に足元にやって来た子猫の片割れ、カリーチィに母親の治療を終えたことを告げれば、まだまだ半人前にも程遠い小さな茶色の子猫は、丁寧な礼を述べた後、急ぎ足で母親が眠る、あの木箱の城塞の方へ走り去った。
その小さな背中を静かに見送って。
リョウは徐に振り返ると片腕を振り上げてにこやかに口を開いた。
「ルスラン!」
足早にやって来た銀色の髪の男は、リョウの格好を見た途端、眉を潜めた。
「外套はどうした?」
そう言い放つや否や、自分が着ていたものを脱いでリョウの肩に掛けようとした。
「大丈夫ですよ。寒くはありませんから」
必要ないと言ったものの、ユルスナールは風邪をひいたら困ると主張して、リョウの体を己が外套で包んでしまった。
「まだ風が冷たいだろう。油断は禁物だ」
「平気ですよ。このくらい」
「馬鹿を言え。寒がりの癖に」
「そうですか?」
「ああ」
そこへのんびりとした男の声が割るように入った。
「春だな、おい」
そんな甘ったるい恋人同士の遣り取りを端から見ていたザイークは、どこか胸やけしたような顔をしながら茶化すように口笛を吹いていた。
「なんでお前がこんな所に」
思いがけない人物が一緒であからさまに面倒くさそうな顔をしたユルスナールに、ザイークは自分のことは棚に上げて、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「偶々だよ。偶々」
だが、そんなぞんざいな態度とは裏腹に、ザイークはすれ違いざま、ユルスナールの肩を片手で叩くと小さく礼の言葉を口にしていた。
「あばよ、御両人」
そして、ごつごつとした大きな手を片方、ひらりと振ると何事もなかったかのように人々で賑わう大通りの雑踏の中を第四師団の詰め所がある方角へと消えたのだった。
「なんだ?」
不思議そうな顔をしたユルスナールにリョウは小さく笑った。そして、外套に仄かに残る馴染み深い男の匂いと温かい体温を感じながら、両手を男の腕に絡みつけるようにした。
「ごめんなさい。ちょっと寄り道しちゃいましたね」
甘えるように頬をすり寄せたリョウにユルスナールは少し呆れたような顔をしてから器用に眉を跳ね上げた。
「全く。お前が首を突っ込んだんだろうが」
そう言って下にある柔らかな頬をぐいと摘んで引っ張った。
獣の言葉を解することの出来ないユルスナールは、リョウの直筆の伝言を受け取ったとしても、その詳しい内容が分からなかったので、やはり想定外の出来事に心配をしたのだ。
勝手にいなくなるな。そんな戒めのお小言の意味合いがあった。
「だって、お願いされたんだもの。あんな可愛い子猫ちゃんたちに。断れる訳がないじゃないですか」
男の心配を余所に呑気に笑って自分の行いを正当化しようとしたリョウに、ユルスナールは態とらしく剣呑そうな声を出していた。
「ほほう? 可愛くお願いされれば何にでも応えるのか?」
「ん~、多分?」
「俺でもか?」
真顔でそんな問いを発したユルスナールにリョウは思いっ切り吹きだした。
「ルスランが? 可愛く?」
そして何を想像したのか、腹がよじれそうになる程に高らかに笑い始めた。逞しい男の腕を掴む手に力が入り、震える。
「何が可笑しい?」
「だって………ルスランが………あんまりなこと………言うから」
喉の奥を引き攣らせながら尚も笑い続けるリョウに、
「あ?」
ユルスナールは不機嫌そうな声を出してみたのだが。
だが、やはり自分でも可笑しくなったのか、笑い転げるリョウに釣られるようにしてユルスナールもその硬質な顔立ちに笑いを滲ませ始めていた。
そして、誤魔化すようにザイークが消えたのと同じ方角へ一歩足を大きく踏み出した。
大きな男の動作に釣られるように腕に齧りついたままのリョウも体勢を崩しそうになるが、それをどうにか持ちこたえて。
「ほら、行くぞ。まだ途中だっただろう」
「はいはい」
そうして、ちぐはぐな二人連れは、想定外の寄り道をした後、次の用事を果たすべく、目的の場所に向かったのだった。
その瞳に笑いの余韻を滲ませながら。
年明けから何故かザイークが気になっています。ザイークと子猫たちの組み合わせは以前より考えていたのですが、漸くここで少しお披露目することができました。本当はそちらをメインにしようとしていたのですが、リョウとユルスナールのデートの模様を始めに持っていったら、そちらに気を取られて中途半端になってしまいました。
さて、この話を書く前にザイークのイメージを「みてみん」さんの方に載せてみました。kagonosuke の画力のなさは相変わらずで、全く自分が考えるようなザイークらしさは出せていないのですが、もしご興味がありましたらご笑覧下さい。
http://3415.mitemin.net/i38519/
どうもありがとうございました。