8・5)小さな忘れモノ
前回の続きです。個人的に消化不良の所があったので、オマケ的な後日譚を加えました。それではどうぞ。
朝、養成所へ出掛けたきり、リョウが戻って来ない。
珍しく、いつもより早く帰宅したユルスナールが、いそいそとリョウの部屋を訪ねた所、そこはもぬけの殻だった。シビリークス本家の居間、ポリーナの居室、母親の傍にも、台所にもいない。納戸や厩舎など思いつく限りの場所を探してみたが、小さな黒い頭部とそこから伸びる馬の尻尾のようなさらさらとした髪は、どこにも見当たらなかった。
途中で顔を合わせた執事のフリッツ・リピンスキーに尋ねれば、リョウはまだ帰宅してないとのことだった。
その時点では、ユルスナールは珍しいこともあるものだと大して気には留めずに、だが、少々時間を持て余すようにしてリョウの帰りを待っていたのだが、日暮れ近くになってもその影が見えないどころか、連絡の一つも来なかった。通常ならば、少しでも遅くなる時や予定外のことが起きた時などは、大抵知り合いの獣たちに使いを頼んで言伝を寄越すのだ。その連絡すらなかった。
一体、どうしたことだろう。カッパとラムダの二頭の白い番犬もお気に入りのリョウの姿がないことにそわそわと玄関口から廊下を行ったり来たりしている。
そして、すっかり日が落ちても、リョウは戻って来なかった。
いつもとは異なる事態にユルスナールは一気に顔色を悪くした。リョウの身の上に何か起こったのではと嫌な予感が頭の隅を掠めた。
これまでユルスナールの与り知らない所でリョウが面倒なことに巻き込まれ、酷い時には怪我を負うということが何度かあって、その度にユルスナールは肝心な時に傍にいてやれない己が間の悪さを大いに呪い、そして歯噛みした。どういう訳かは知らないが、リョウには厄介事を引っ張って来るような所があるのだ。いや、もしかしたら、通常ならば避けて通れるはずの面倒事を気が付かぬうちに【うっかり】引っ掛けてしまうというような所だろうか。本人は全くの無意識であるし、こればかりは注意をしろと言っても出来るものでもない。
そして、今回もまた妙なことに巻き込まれたのではないか。
一つ悪い方向に考え出したら、拍車を掛けるように次々と心配事が湧き出して来る。元々心配症とは無縁の所にいた男だが、事が愛する婚約者のことになるとたちまち事情が異なって来るのは面白いものだ。
ユルスナールは居てもたってもいられなくなって、自室に戻ると外套を引っ掴み、足早に玄関へと向かった。これから己が愛馬・キッシャーに乗って養成所からの足取りを追ってみる積りだった。もしかしたら、また止むに止まれぬ事情により身動きが取れなくなっているのかも知れない。
血相を変えて廊下を通り過ぎたユルスナールをちょうど居間から顔を出したファーガスが見咎めて誰何した。
「ルスラン、出掛けるのか?」
―――――どうした、そんなに慌てて。
呑気なことこの上ない父親の言葉に、ユルスナールは立ち止まると振り返り、口早に答えた。
「リョウがまだ戻って来ていないんです。ちょっと探してきます」
「まだ帰って来ていないのか?」
「ええ。朝、養成所の方に出掛けたきり」
明らかに常とは違い焦りの色をその瞳に浮かべた息子に父親は呆れ半分、落ち着くようにと言った。
「もう少し待ってみたらどうだ? 今なら、行き違いになるかもしれん」
どうも息子は、愛する婚約者のことに関しては平静ではいられないらしい。そういう人間臭い所を見るにつけ、まだまだ子供だと思ってしまう。
「ですが、もうすっかり日が落ちていますし」
「伝令は来ていないのか?」
「ええ」
その時、ちょうど玄関口が騒がしくなって、長兄のロシニョールの次兄のケリーガルが帰宅したことが知れた。
二人の息子たちは、廊下にいる父親と弟に帰宅の挨拶をしてから、その只ならぬ空気(若干一名の方が出している)に首を捻った。
「リョウを見なかったか?」
ファーガスの問い掛けに二人の兄たちは顔を見交わせると小さく肩を竦めた。
「いいえ」
「まだ、戻って来ていないんですか?」
闇に染まる窓の外を見て、ケリーガルが気遣わしげな顔をした。
兄たちが途中、何か聞いていればと思ったが、こういう時に限って欲しい情報はなかった。
「やっぱり、少し見てきます。もし、前のようにまた妙なことに首を突っ込んで帰るに帰れない状況でしたら大変ですし」
ユルスナールの中では既にリョウは窮地に陥っているらしかった。
今にも飛び出さんばかりの勢いで踵を返したユルスナールであったが、それをファーガスが不意に止めた。
「待て、ルスラン」
そして、突然、思いも寄らないことを口にした。
「今日は何日だ?」
三人の息子たちは突然の問い掛けに目を瞬かせた。
「第三【デェシャータク】の五日。25日ですが」
打てば響くような次男・ケリーガルからの返答に、ファーガスは何かを思い出しでもするかのように目を細めて低い唸り声を上げた。
「あの、父上?」
今日の日付がリョウの不在と一体、何の関係があるのだろうか。
不可解な沈黙が落ちること暫し、だが、そこで突然、目を見開いたファーガスは、大きな声を上げた。
「まさか!」
いつにない父親の驚きの声に三人の息子たちは目を瞠った。
「あの……父上? 何か御心当たりがあるのですか?」
するとファーガスの叫び声に呼応するかのように一陣の風が吹き抜け、シビリークス家の廊下に白銀に光る長い体毛を靡かせて、音もなくヴォルグの長であるセレブロが現れた。
「セレブロ殿!」
ユルスナールは、真っ直ぐにセレブロの元へと駆け寄った。
リョウはセレブロの加護をもらうことでこの長と魂が半分繋がっていた。リョウの身に危険が及ぶ場合はそれを感知できるし、リョウがどこにいてもその居場所をたちどころに認識できると聞いていた。
「リョウがどこにいるかご存知ですか? 朝出掛けたきり戻って来ていないんです」
ヴォルグの長の登場に焦れたような声を掛けたユルスナールを余所に、
『ファーガス』
セレブロは何故か家長のファーガスを真っ直ぐに見ていた。
灰色の光彩に煌めく虹色の光が、うっそりと細められた。何かを暗示させるように。
「……ま……さか」
虚を突かれた顔をしたファーガスの前で、
『思い出したようだな?』
セレブロが意味深に笑った。
『全く、途方もない迷子になりおって。世話が焼ける』
セレブロは急に年寄り染みたことをぼやいたかと思うと、
「では本当に?」
ファーガスの真面目な声に一つ頷きを返した。
『うむ。迎えに行って来る』
何故かファーガスとセレブロの間では話が通じているようだ。
戻りはいつになるか分からぬ故、先に休め―――そんな相手を気遣うようなやけに人間臭い台詞を口にして、セレブロは瞬く間にその大きな体を音もなくひらりと反転させた。輝く白い毛が残像のように空に舞った。
「あの、セレブロ殿!?」
ユルスナールは自分を抜きに交わされる話に焦れたように声を掛けたのだが、
『ファーガス、そなたの倅の首に縄でも付けておけ。よく引き絞れよ?』
―――――手出しは無用。大人しくしておれ。
そんな皮肉めいたからかいを口にすると心配は無用とばかりにその巨躯を軽やかに翻して、夕闇の中に姿を消した。
訳が分からないことを一方的に口にして姿を消したセレブロにユルスナールは虚を突かれた顔をしたのだが、直ぐに我に返ると何がしかの事情を知ると思われる父親に詰め寄った。
「父上! 今のは、一体何の話ですか? 父上は何かご存じなんですか?」
焦燥と苛立たしさをその声に滲ませた末息子にファーガスは、『まぁ待て』と鷹揚に向き直った。
そこに執事がやって来て、夕食の仕度が整った旨を知らせた。
ユルスナールは『呑気に夕食を取っている場合ではない』と思ったのだが、家長はどうも違ったようだ。恭しく畏まった執事に直ぐに食堂に向かうと返事をして、息子たちを促すように見た。
「後でちゃんと説明する。その前に腹ごしらえだ」
そう言って踵を返した衰えを見せない大きな背中にユルスナールは何とも言えない複雑な顔をしたのだが、父親の決定は絶対である。
三男坊のぐっと引き結ばれた下唇を見て、次男のケリーガルは弟の傍に行くと肩を軽く叩いて穏やかに微笑んだ。
「ルスラン、父上がああ言っているんだ。心配は要らないだろう」
「ああ、お前は少し心配が過ぎるぞ。もっと男ならどっしりと構えていろ。禿げても知らんぞ?」
そして長兄からは、からかうように腰の辺りを叩かれた。
ユルスナールは『何を呑気なことを』と思ったのだが、大人しく従うことにした。だが、仏頂面であることには違いなかった。
それから家族揃っての夕食を終えた。母親のアレクサーンドラは、食堂のテーブルにリョウがいないことを不審に思ったのだが、男たちは女たちに無駄に心配をさせない為に、事情により遅くなるようだと濁しておいた。
その後、シビリークス家の男たちはファーガスの書斎に集まっていた。
ずっとどこか落ち着かない風であったユルスナールは、そこで父親の口からとんでもないことを聞かされることになった。自分が生まれる遥か前の昔話である。
それによるとこうだ。
その昔、まだファーガスが独身を謳歌していた時代(別名、【古き良き時代】とも言う)、ファーガスは風変わりな人物に出会ったと語った。これまですっかり忘れていたが、それを先程思い出したと。今にして思えば、あれはリョウであったと。
三人の息子たちは当然のことながら目が点になった。
「独身時代の父上が、どうしてリョウを知っているんです?」
―――――そんな馬鹿な。
言っている意味が全く理解できずに眉間に深い皺を寄せて、膝の上に組んだ両手の上に顎を乗せたユルスナールの隣で、同じ長椅子に座っていたケリーガルが可笑しそうに笑った。
「それじゃぁ、まるでリョウが時を超えて過去に行ってしまったみたいじゃないですか。幾らなんでもそんなこと………」
―――――あるわけないじゃないですか。
と続けようとした所で、独りソファに座ったファーガスがやけに真面目な顔をしていることに気が付いた。
「いや、その時、迷い込んだ子供を保護し、世話をした私の友人が、後日、その子がどうも未来から来たらしいのだと言っていた。それも四十年先の世からだと」
「まさか!!!」
「は?」
目を丸くしたロシニョールの斜交いで、ユルスナールも素っ頓狂な声を上げていた。
「では、セレブロ殿は、時の狭間を跨いでリョウを迎えに行ったと言うんですか?」
リョウは過去に迷い込んだというのか。そもそもそんなことが可能なのだろうか。
驚愕に口を開けた息子たちを見て、ファーガスは小さく笑った。
「恐らくな」
そこでその迷い子を保護した友人が、後にその子に迎えが来て無事に帰ったようだと語ったのだ。その迎えというのは、お伽噺の中のヴォルグの長を彷彿とさせる真っ白な毛並みの大きな獣だったと言っていた。
「そんな……ことが…………あるんですか?」
ユルスナールは俄かには信じられなかったのだが、そもそもリョウ自身、そうやって全く違う次元から現れた稀有な存在であることに思い至った。そうして少し冷静さを取り戻すと、父親の話を『そんな馬鹿な』と一笑に付すことは出来なかった。
こうして男たちは不思議な気分に浸りながら、まんじりともせずに書斎で新しく出来た家族が帰って来るのを待つことにしたのだ。
夜遅くになってリョウが戻って来た。
静まり返った室内にふわりと甘い匂いが漂ってきた。まず最初にその異変に気が付いたのは、ユルスナールの足元で蹲っていたカッパとラムダの二頭だった。耳がピンと動き、俊敏な動作で立ち上がると廊下の方へとまっしぐらに走って行く。
グラスの中の【ズブロフカ】を舐めながら長椅子に横たわり、ぼんやりとまどろみ半分の中にいたユルスナールは、その二頭の反応に弾かれたように顔を上げると、立ち上がり、その後を追った。
それを見た同じ室内にいたファーガスと二人の兄たちもゆっくりと顔を見交わせると安堵したように口元を緩めた。
「すみません。ただ今戻りました」
セレブロに寄り添われるようにしてひっそりと静まり返った玄関先に現れたリョウは、桁外れに遅くなってしまったことを詫びるように些か気まり悪げに微笑んだ。
ユルスナールは、朝方と変わらぬ笑顔を見て、リョウの無事に心底安堵して無言のままその体を抱き締めていた。幾ら大丈夫だと言われても、やはり、実際にその姿を目にするまでは心が休まらなかった。
「おかえり、リョウ」
少し掠れて震えた声にリョウはユルスナールにまた途方もない心配を掛けてしまったことを知った。
「ごめんなさい。とても遅くなってしまいました」
そう言ってユルスナールの胸に顔をすり寄せた。心なしかリョウの方も安堵の息を吐いたように思えた。
そこに廊下の向こうからファーガスと二人の兄たちが姿を現した。
ファーガスを目にしたリョウは、何とも言えない顔をして微笑んでいた。
「お義父さま」
吐き出された声が少し震える。若かりし頃のファーガスに拒絶をされたことが不意に頭を過って、仕方のないことだとは言え、鼓動が妙な具合に一つ跳ね上がった。
だが、その一抹の不安は当然のことながら杞憂に終わった。
「おかえり、リョウ。大冒険だったな?」
その台詞にファーガスが四十年前の出来事を覚えていた、若しくは、思い出したことを知った。
リョウは堪らずにファーガスに駆け寄った。
リョウの体を抱き止めたファーガスは、小柄な身体に腕を回して抱擁をきつくした。
「ウーイマさんに大変お世話になったんです」
「そうか」
顔を上げたリョウに穏やかに微笑むとファーガスは何を思ったのか、リョウをいきなり抱き上げて、あろうことか左の肩に担ぎ上げた。そして、呆気に取られている内にそのまま踵を返して歩き出してしまった。
「お義父さま!?」
「父上!? 何を……」
リョウが吃驚して体を起こそうとするとファーガスの大きな手が尻を軽く叩いた。そして、何かを確かめるように下半身、特に太ももから尻の辺りを大きな手で触った。
「ああ、確か……こんな感じだったな」
そう言って小さく笑う。
そこでリョウは唐突に理解した。ファーガスは、もしかしなくとも四十年前のことをなぞらえているのだと。リョウにとってはほんの数刻前の出来事だった。
ウーイマに部屋まで運んでもらったことに対して謝意を述べた時、ファーガスがリョウを運んだと言ったのだ。恐らく、こうやって荷を担ぐように肩に乗せたのだろう。
「父上! 一体、何の真似です!」
ファーガスの突然の行動に驚いたのは、リョウだけではなかった。
いきなりリョウを肩に担ぎ上げて、その小さな尻を撫で回し始めた父親に、ユルスナールは『とんでもない!』と眦を吊り上げたのだが、当のファーガスはそれに構うことなく悠々と廊下をしっかりとした足取りで歩いて行く。
「リョウ、お前に渡す物がある」
不意にファーガスの真剣な声がして、リョウは大人しくした。そうして、その言葉の意味に気を取られている内にがっしりとした身体つきの義父は、苦もなくずんずんと廊下を歩いて行った。
「あの、お義父さま? ワタシは十分歩けますよ? 下ろしてくださいな」
「構わん」
頭に血が上りそうだと思いながら上体を起こそうとして、不意に静まり返った廊下の向こうを視界の隅に見止めたリョウは、そこで拗ねたような顔をしたユルスナールと、呆れたような顔をしたロシニョール、そして、可笑しそうに口元を吊り上げているケリーガルの姿を見たのだった。
そうして、ファーガスはリョウを肩に担ぎ上げたまま書斎の中に入ると、そこでリョウを下ろした。
ほの暗かった発光石に手をかざしてもう一段、光を明るくした。急に明るさを増した室内にずっと暗がりの中にいたリョウは眩しそうに目を細めた。すると背後から太い腕が体に回り後方に引き寄せられた。そして頭の上に硬い顎が乗る感触がした。
もしかしなくともユルスナールが張り付いたのだ。父親に張り合う積りらしいことを感じ取ってリョウは思わず苦笑をした。
ファーガスは、書斎の机の引き出しをなにやらごそごそと漁っていたかと思うと小さな木の箱を取り出して、その中から小さな袋を取り出した。それをファーガスはリョウに渡した。
「あいつからの預かりものだ」
それは、見覚えのある小袋だった。だが、記憶の中にあるものよりもずっと古ぼけて黄ばんでいた。まるで長い年月を経たかのように。
「あ…………ウーイマさんが?」
それは、乾燥させたスグリの実を入れていた袋だった。
リョウは慌てて自分の外套や上着のポケットを漁り、朝、携帯していたはずの小袋が無くなっていることに気が付いた。
「忘れものだと言っていた」
中を開けるとそこには小さな銀色の笛が入っていた。
「中身は全部獣たちにやったと話していた。だから代わりにそれを入れたと」
それは小さな【呼び笛】だった。
【呼び笛】とは主に鷹匠たちが相棒である獣、【ツレ】を呼ぶ時に使用するものだ。通常、人の耳では聞こえない高い周波数の音が出る特別なもので、専門の術師が加工して誂えたものだった。
「これをワタシに?」
「ああ」
―――――こんな大事なものを。
鷹匠たちが持つ笛は其々この世に一つしかない一生もので、それこそ一頭の獣に対して一つという形で作られる特別なものだった。
獣たちは人よりも緩やかな時の流れの中で生きている。往々にして人の方が先に寿命を終えるのだ。よって人が先に代替わりをする時、鷹匠は伝令となる獣と共にこの笛を一緒に先代から引き継ぐのだという。
これは、とある一頭の獣(通常は猛禽類だ)と繋がる証でもあった。
―――――こんな大事なものを。
再びそこまで考えて、不意にリョウはハッとした。
気が付いてしまったのだ。この笛がここにあることの意味を。
「…………お義父さま」
深い森の色を映した瞳を持ったあの心優しい青年は、既にこの世にいないのだ。
揺らいだ黒い瞳にファーガスはどこか昔を懐かしむような目をして小さく微笑んだ。それは、昇華されたはずの哀しみを呼び覚ますような、儚くも切ない微笑みだった。
ファーガスは、リョウの傍に歩み寄るとそっとその手を柔らかな頬に滑らせた。
「ウーイマは先の戦で死んだ」
あれから約二十年後、【ノヴグラード】と大きな戦に直面した【スタルゴラド】は、その渦中で多くの兵士たちを失った。当時、既に熟練した鷹匠であった諜報部隊の兵士・ウーイマは、数多もの部下を従える立場にあったが、戦いが長期に渡り、総力戦のような体を取るにつれ、その任務の性質上、常に前線以上に踏み込んだ場所で活動をしていた。要するに斥候のような特殊なものだった。そして【ノヴグラード】との境でもある遥か北方の峻厳なる山脈に通じる山の中に僅かな部下を連れて偵察に行ったきり、戻って来なかった。ウーイマの小隊は全滅で、ただ一頭のオオタカが、任務の失敗を伝えに戻って来たという。
【ツレ】が死んだとそのオオタカは言った。だが、それ以上は頑なに口を閉ざして、その詳細を語ろうとはしなかった。
戦火が激しくなる最中、ある時、ウーイマが、当時【北の将軍】を拝命していたファーガスの部隊にやって来て、この小さな袋を預けて行ったのだという。
―――――これをあの子に渡してくれ。
きっとお前が持っていた方がいいだろうと。
己が死を予期していたのかは分からない。だが、高い素養を持つウーイマは、その独自の感性から何がしかを予期していたのかも知れない。いや、それとも、必ずまた帰って来るから、それまでは預かっていて欲しいということだろうか。げん担ぎでもするように。
今となってはそれすらも分からない。だが、こうしてかつての友が予感したようにファーガスの手に渡ったその小袋は、それからまた約二十年という長い年月を経て、再び元の持ち主に戻ることになった。
淡々とした昔語りを聞いたリョウは、その眦に薄らと涙を滲ませていた。それをそっと指で拭い去るとそこに残る温もりの切れ端を辿るかのようにそっと小さな呼び笛に指を走らせた。
「約束…………果たせなくなってしまいましたね」
戻ったら、ウーイマを探して礼をしに行こうと思っていたのだ。遥か昔の夢のような出来事を現実として上塗りする為に。
その翌日、リョウはセレブロと共に神殿がある方へ行くと、このスタリーツァを一望できる高台の上に立った。
そして、懐に忍ばせた呼び笛を取り出すとそっと吹いてみた。
風のような微かな音が聞こえた気がした。
それから程なくして、上空を大きな翼が旋回した。ぽっかりと空いた地面に長く歪な影が差した。
リョウは徐に左腕を上空へ掲げた。すると武骨な皮が覆う肘に大きな猛禽類が一頭、降り立った。
「リューリク」
あの時の青年がそうしたようにそっとその名を呼んだ。
『おぬしは………あの時の。無事戻ったのだな』
「うん」
オオタカのリューリクは、リョウのもう片方の手の中にある小さな銀色の笛に気が付いた。
『懐かしき音を聞いた』
「うん」
リューリクがこの音を聞いたのは二十年振りなのだろうか。
「元気にしてた?」
その問いに答えることなくオオタカは小さく独りごちた。
『あれから……四十年が経ったという訳か』
「そうだね」
『もうそんなになるのか』
オオタカは、かつての相棒を思い出すように目を細めた。そうして小さく喉の奥を震わせた。
『あやつが生きておったら、また間抜けな顔を晒したであろうな』
「そうだね。きっと吃驚してまた固まっちゃうかもね」
そうして、また集まった獣たちに野次を飛ばされるのだ。
でも、もうそれを目にすることは出来ない。あの賑やかで温かくもあった遣り取りを聞くことは出来ないのだ。
『約束は叶わなんだか』
ぽつりと漏れた呟きをリョウは拾った。
「そうでもないよ」
そして、不意に顔を上げると遥か天空を透かすように見上げていた。
「忘れ物は、ちゃんと受け取ったから」
大分遠回りをしたが、律義な男の残したものは、こうして自分の手の中にある。
「リューリクは、今も伝令をしているの?」
空を見上げたまま、リョウは尋ねた。
『そうさな。ま、気が向いた時だけだが』
残された者は、かつての記憶を抱えながら生きてゆく。それは獣も人も変わりがない。
それからゆっくりと顔を戻すと左腕に止まるオオタカの目を真っ直ぐに見た。
「これはワタシが持っていても?」
譲り受けた小さな呼び笛を示す。残されたオオタカと繋がる術を。
『ああ、好きにするがいい』
リューリクは小さく笑った。
「ありがとう」
リョウもそっと微笑み返していた。
そして、再び、かつての【ツレ】を失ったオオタカは、澄んだ上空に飛び立つようにしてその大きな羽を広げたのだった。
もっとコメディー寄りになるかと思ったのですが、最後はしんみりしてしまいました。