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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
番外編集
210/232

8)とあるオオタカ使いの不思議な一日

ご無沙汰しております。思いの外、この番外編に手こずっておりました。ほんの少し、欲を出したばっかりに……どんどんと脱線して……。ある意味、いつものことです。普段の2.5倍強はある長いお話ですが、どうぞお付き合いください。

 その日、官舎の一室で身支度を整えていた一人の男の元に一風変わった客人たちがやって来た。

『ウーイマ、大変だ!』

『ウーイマ、一大事じゃ!』

『ウーイマ、()く!』

 男の名は、ウーイマ・サローヤンという。スタルゴラド騎士団の中にある諜報部隊の中で鷹匠の任務に就いている兵士であった。これから【アルセナール】の一角にある己が仕事場へ出勤しようとしていた男は、当然のことながら軍服に身を包んでいたのだが、その風貌は余り軍人らしからぬ優しく穏やかなものだった。普通のシャツにズボン、そして襟なしの長い上着でも羽織っていたならば、術師辺りに見えただろう。もしくは慎ましやかな宮殿勤めの官吏や養成所に籍を置く学者のように。

 体格は、この国の男たちの標準からみるとやや線が細かったが、上背はあった。第一印象としては、ひょろりとした男という所だろうか。お世辞にも押し出しのある方ではない。穏やかな外見に比例するようにその性格も大人しく控え目な性質だった。良く鍛えられた肉体を誇るように腰に長剣を佩く一般的な兵士たちの中では、明らかに埋もれてしまうような目立たない存在だった。

 そのような男が何故、軍部に所属しているのか。周囲の男たちはからかい混じりにそんなことを揶揄したりした。

 そして、このウーイマは軍部の中でも、ある種、変わり者と目されていた。それは、男が持つやや特殊な能力とその性格が合わさった産物でもあった。その一端が、こうして訪ねてくる【客人たち】に垣間見えるだろう。

 腰にベルトを締め、通常の兵士たちが持つような長剣ではなく、使い勝手の良い短剣を二本その帯剣ベルトに納めると開け放しにしていた窓辺に小鳥たちが降り立った。そして、しきりにウーイマに話しかけた。

 ウーイマ、ウーイマ、ウーイマと己が名前を忙しなく高音で連呼する小鳥たちに、優しい面立ちをした男は、可笑しさを堪えるように口元を微かに緩めながらも、いつものようにゆったりとした所作で身支度を整えていた。

 態度を変えない男に鳥たちは一斉に非難の声を上げた。

『ウーイマ、何を呑気にしておる!』

『そうじゃ、()くと参られよ!』

『急ぎ、参られよ!』

 ピーチク、パーチクと(さえず)る鳥たちの声音は、それこそ通常の兵士たちから見たら、姦しくも思えるだろう。もしくは、朝の賑やかな目覚ましのような声だと。

 だが、幼き頃より高い素養を開花させ、とりわけ獣たちの言葉をよく解するウーイマは、そのおしゃべりの内容をちゃんと理解していた。

「一体、どうしたんだ? そんなに慌てて」

 上着の襟元を整え終わった所で、ウーイマは緩慢な動作で窓辺に居座る三羽の小鳥たちを見遣った。

『悠長なことを言っている場合ではない!』

『左様、一大事じゃ!』

『やれ、大事(おおごと)じゃ!』

 小鳥たちはしきりに『大変だ、大変だ』と騒ぎ立てるばかりで、何が大変なんだか、ウーイマにはちっとも要領が得なかった。

 だが、これはある意味、いつものような遣り取りなのである。獣たちは、人とは異なる感性と思考回路を持つ。幾ら言葉が分かると言っても、互いに分かり合う為には、辛抱強く獣たちと会話を重ね、相手の言い分とこちらの理解をすり寄せて行かなければならないのだ。そして、彼ら特有の思考とその物言いを理解しなくてはならない。それは、酷く骨の折れることではあったが、ウーイマには苦ではなかった。寧ろ、獣たちとの交流を楽しんでいた。


 ウーイマには友人と呼べるような存在は殆どいなかった。元々寡黙で口下手ということもある。引っ込み思案な性格も災いしてか、心を許せる友は【人】の中には殆どいなかった。田舎の町から王都に出て、そこで騎士団に入隊して以降、王都スタリーツァ独特の都会風な煌びやかな世界と相手の腹を探り合うような権謀術数の世界は、単純で素朴なウーイマには中々馴染めないものだった。特に王都に暮らす貴族連中とは、そりが合わなかった。ウーイマのような田舎出身で鷹匠の任に就いている兵士にはそもそも余り接点がないかもしれないが、それでも同じ騎士団の中には多くの貴族出身の男たちがいた。

 ウーイマが所属するスタルゴラド騎士団は、現時点ではまだきちんとした組織編成が確立されておらず、兵士たちは王都を中心とした大きな括りの中で任務ごとに大まかな所属に分かれていた。宮殿への出入りを許されるような高い身分を持つ者たちの中には、素養を持つ人間を蔑視するような空気が見受けられた。それは、恐らく、未知のものに対する漠然とした【恐怖】のようなものが【反発】として表れたものだろう。【素養を持たぬ者】たちにとって、【素養を持つ者】の能力は、理解を出来ないものであるからだ。そこに羨望や妬みのようなものが織り混じり、屈折した感情を生み出していたとも言える。自分の優位性を確立させる為に相手を貶めるというのはよくある傾向だ。

 そういう風潮の中、ウーイマのような素朴な男は、中々都会の空気に馴染めなかったという訳だ。

 それでもウーイマは少しも淋しさを感じなかった。なぜならば、ウーイマの周りには常に野鳥や野良猫や鼠や犬や野兎、狐、珍しい所では黒(テン)など、その他多くの獣たちがいたからだ。獣たちがウーイマにとっては心許せる(ともがら)だった。

 ウーイマはいつも獣たちに囲まれていた。ウーイマにとっては彼らが仲間であり、友であり、よき相談相手だった。獣たちは決して嘘をつかない。人間のように笑顔で偽りを固めたりしない。いつも真っ直ぐに相手に対峙し、その心に向き合った。

 多くの獣たちが傍にいる時はいつになく楽しそうであった。そうして小鳥たちや小動物たちと戯れている男を同じ官舎に暮らす兵士たちは、呆れ半分に遠巻きに眺めた。それが仲間の兵士たちからは奇異な目で見られることの所以でもあった。


「ふむ。【きみたちにとって】大変なことが起きたようだな。それで、俺は何をしたらいいんだ?」

 ウーイマがのんびりと口にすれば、最初の興奮が収まったのか、小鳥の一羽がばたつかせていた羽を静かに納めた。もう一羽は、落ち着きがなく小さな身体を左右に揺すっている。そして、もう一羽は、今にも飛びたたんばかりの勢いで羽を空に向かってはばたたかせようとしていた。

『こなたへ!』

『ついて参れ!』

『急ぎついて参れ!』

 同じ台詞を繰り返した二羽の後に、三羽目が漸く、核心を突くようなことを言った。

『貴き御人が倒れておる!』

『急ぎ、助けねば!』

 ―――――なんだって!?

 人が倒れている―――その言葉にウーイマは、すぐに表情を改めた。

 と同時に思った。どうしてそれを先に言わないのだと。小鳥たちが態々自分に知らせてくるということは、その人間は鳥たちにとっても関係のある者なのであろう。そうでなければ、人と特別な関わりを持たない獣たちは無関心のままであろうから。獣たちは獣たちの理の中で暮らし、徒に人の世界に干渉しようとはしないのだ。

「場所は?」

 いつになく引き締まった顔をして短く問いを発した男に、鳥たちは一斉に言い放った。

『林の奥じゃ』

『げに。あの樫の木の下』

『樫の木じゃ』

案内(あない)する』

『ついて参れ』

 ウーイマが一つ頷いて戸口に向かったのを見計らって、姦しく囀りを続けていた三羽は、一斉に飛び立った。

 急ぎ足で官舎を出た所で、上空にひらりと影が差した。そして、甲高い特有の鳴き声が一つ聞こえたかと思うと、ウーイマ目がけて一羽の大きな猛禽類が舞い降りてきた。

 走り出した男の肩にずしりとした馴染み深い重みが乗った。左肩に着けられた厚みのある革の肩当てがギィーと擦れる摩擦音がした。

「リューリク」

 相棒のオオタカの姿にウーイマは目を細めた。

 普段ならばのんびりと【アルセナール】への道を辿るウーイマであったが、この日ばかりは先導する小鳥たちに急かされるように走っていた。きっとその姿を同僚の兵士たちが見掛けたら、我が目を疑うことだろう。それ程珍しいことだったのだ。焦燥や競争とは無縁と思われているような男である。

『あやつらに先を越されたか』

 小さくぼやいた【ツレ】にウーイマは目を見開いた。

「なんだ? お前も俺を呼びに来たのか?」

『左様』

 誰かを気に掛ける素振りを見せた相棒にウーイマは意外なものを見るような顔をした。

「知り合いなのか?」

『分からぬ』

 知っている。知らない。その白黒付けた明快な解答ではなく、灰色の曖昧な返答。歯切れよく物事を見る相棒の常とは違う態度にウーイマは首を傾げたのだが、その場で考えることは止めた。とにもかくにも小鳥たちやこのオオタカが駆け付けて来るくらいだ。その人物は彼らにとって余程の人間なのだろう。

 そして、ウーイマは走る速度を上げた。




 それから暫く、ウーイマが辿りついた場所は、【アルセナール】から見て北方に位置する雑木林の中にある大きな樫の木の下だった。

 根元の所に寄り掛かるようにして人が地面に座っていた。その周辺には多くの獣たちが集まり、心配そうにそこにある人間を見守っていた。三羽の小鳥部隊が先触れを務め、ウーイマが息を切らすことなく追いついた頃には、集まっていた様々な獣たちが一斉に騒ぎ立てた。

『ウーイマ、遅いぞ!』

『何をもたもたしておった!』

『やれ、やっと来おったか』

 訳が分からぬままに懸命に走って来たというのに、彼らの第一声は非難轟々(ごうごう)の厳しいものだった。随分と理不尽なことである。

 溜息を吐き出したいのを寸での所で飲み込んで、ウーイマはその木の根もとに寄り掛かっている人間の傍に近寄ると声を掛けた。

「おい、大丈夫か?」

 その者は、小柄な少年のような風体だった。身に着けているものは、街中にいそうなありふれたものだ。洗いざらしのシャツにズボン。上着も随分と着古された感のあるもので、一目で庶民であることが分かる。それも田舎くさい感じだ。まずそのことにウーイマは親近感を抱き、内心安堵の息を漏らした。身分の高い相手は苦手であったからだ。

 その少年らしき若者は、癖の無い黒い髪を後ろで一つに束ねていた。色の白い顔を歪めて、苦しそうに大きな樫の木の根元に背中を預けている。

「おい、しっかりしろ、大丈夫か?」

 再度、ウーイマが呼び掛け、その少年の肩に手を掛けた。手の下に触れた相手の骨格は、恐ろしく細かった。

 浅い呼吸を繰り返していた少年が、外部からの小さな揺さぶりに薄らと閉じていた瞼を上げた。

 そこに現れた瞳の色にウーイマは息を飲んだ。それは余り見ない深い闇を閉じ込めたような漆黒であったから。黒い髪の人間は国内では偶に見掛けるが、その瞳が黒いものはウーイマが知る限り初めてだった。よくよく見ると顔立ちも明らかに見慣れないものだった。全体的にこじんまりとした造りをしていた。

 だが、ウーイマはそんな感想を即時に頭から追いやった。

「大丈夫か? 具合が悪いのか? どこか怪我をしているのか? 苦しい? 痛い?」

 慎重に言葉を選びながら相手の状況を確かめて行く。

「少し………立ち眩みがして………休んでいただけなんです」

 ―――――すみません。ありがとうございます。

 少年は気分が悪そうに青い顔をして掠れた声を出した。

 ウーイマは一先ずこの少年を【アルセナール】の医務室に連れて行こうと考えた。ここから一番近いのはそこだ。このようなじめじめとした場所ではなく、もう少し楽になれる所で休ませなければ。

 そう思ったら次の行動は早かった。

「場所を移そう。もう少しちゃんと休める所に運ぶ。横になった方がいい。起き上れるか?」

 穏やかな声に少年の頭が小さく頷いた。

「やって……みます」

 だが、その少年はゆっくりと立ち上がろうとした所で意識を失った。それをウーイマが慌てて支えた。ずっしりとした重みが体全体に圧し掛かる。幾ら相手が小柄で細かろうとも意識の無い相手を運ぶのは、かなり労力のいることである。田舎育ちなので脚には自信があるが、如何せん腕っ節はお世辞にも強いと言える方ではない。この時ほど、己が筋力の無さを恨んだことはないだろう。

 ウーイマはなんとかしてその少年を肩に担ぎ上げた。その時点で足がふらつき、『しっかりしろ』と周囲の獣たちから容赦ない野次が飛んだ。本当は背負った方が楽なのだろうが、相手が気を失ってしまっている今、それを頼むことは出来そうになかった。そうしてなんとか体勢を整えると慎重に一歩を踏み出した。

 周りに集まっていた獣たちがウーイマの後ろを付いて来た。だらしのない友人に悪態を吐いては、気を失った少年を案じるような言葉を漏らす。その割合は四対六ぐらいだろうか。微妙な比率なのは彼らなりの愛情なのか、それ以上は気に留めないことにした。小鳥たちは見張り番よろしく辺りを飛び、猫や犬、狐や栗鼠(りす)は、ちょろちょろとウーイマの足元を跳ね回った。

 ウーイマは慎重に足を運びながら、獣たちに事情聴取を行った。この少年がどこの誰であるのか、その辺りの情報を聞き出す為である。

 だが、獣たちはウーイマにとって有益な情報を持っていなかった。

 誰もその少年を知るものはいなかった。彼らが気付いた時には、その少年は既にそこにいて、苦しそうにしていたという。ならば、何故、この少年の周りにいたのだと問えば、皆、口を揃えて、その者は『特別な人間だ』と言った。『貴き御人だ』と言った。少なくとも獣たちの言葉を解する人間であると。

 何故、獣たちがこの少年を『特別』と認識しているのか、更に突っ込んだ質問をしてみれば、彼らは『それは明らか』だと言った。『そう感じるからだ』と。

 そして、付け足すように次のようなことを言った。『かの者が纏うは高貴なる気』、『我らのようなただの獣が近づくことあたわぬ雲上の気を纏う』と。

 その独特な獣たちの論理にウーイマは更に首を傾げることになった。だが、獣たちから見て、その若者が放っておけない程大事な存在であるらしいことは理解出来た。

 ウーイマは、相棒のオオタカ【リューリク】に、【アルセナール】への言伝を頼んだ。出勤が遅れる旨を伝えてもらうためである。真面目で仕事熱心なウーイマはこれまで無断欠勤や遅刻をしたことはない。同僚や上司は、ウーイマが刻限を過ぎても現れないことを不審に思うだろう。

「頼んだぞ、リューリク」

『承知。任せておけ』

 リューリクは合点したように頷いたのだが、ウーイマに余計な一言を付け加えるのを忘れなかった。

『うぬこそ、へばるなよ。無事、その方を送り届けよ』

「……………【ポーニャル(イェッサー)】」

 ウーイマは何とも言えない顔をしながらも、腹に力を込めると震えそうになる脚を叱咤しながら一歩足を踏み出した。

 それを横目にリューリクは、小さく笑うと大きな翼をはばたたかせて飛び立った。




 ゆっくりと意識が浮上して、そこでリョウは唐突に目覚めた。機械仕掛けの人形のように瞼が開く。そして、まず視界に入ってきた光景に目を瞬かせた。

 石造りの天井だった。優美な草花の紋様が抽象化された形で、淡いクリーム色の色調の中に様々な色を散らしている。

「気が付いたな。気分はどうだ?」

 不意に耳に入って来た男の声にリョウは緩慢な動作で首を動かした。

 そこには柔らかな空気を身に纏う穏やかな匂いのする男がいた。肩辺りまである緩くカールした明るい茶色の髪を後方に撫で付けて、深い森のような色をした瞳は優しさに細められていた。

 そう言えば。この男に木陰で休んでいる時に声を掛けられたことを思い出した。急に立ち眩みがして気分が悪くなり、大きな樫の木の根元に腰を下ろしていたのだ。波のように襲って来る吐き気のようなものを堪えて、浅い呼吸を繰り返していると、いつの間にか沢山の獣たちが周囲に集まっていて、【知り合い】を呼んで来ようと言ったのだ。

 そして、彼らが呼んで来た【知り合い】というのが、この男だった。深い森のような濃い緑色をした瞳。その色が残像のように目裏に残っていた。

「あ……の…ここ…は……?」

 この特徴的な壁紙の紋様を自分は知っている気がした。

「ああ、ここは【アルセナール】の中の医務室だ」

 男の声にリョウは合点したように息を吐いた。

 ―――――ああ、どうりで。

【アルセナール】の医務室には一度だけ世話になったことがあった。街中のいざこざで首に怪我を負った時に、毒消しの薬草をもらいに行ったのだ。あれはシビリークスの兄たちと初めて会った時のことだった。あの時はユルスナールに付き添われる形でここを訪れた。そして、軍医に傷を改めてもらった後、中和剤の薬草【プラチヴァーダ】を塗り込んでもらったのだ。

「ありがとうございます」

 リョウはゆっくりと起き上ろうとした。恐らく、途中で意識を失った自分をこの男がここまで運んでくれたということなのだろう。見ず知らずの人に随分と迷惑を掛けてしまった。

 小さく礼を述べて微笑めば、男も幾分安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。

「気分はどうだ?」

 そして、再び、こちらを案じるように声を掛けられた。

「大丈夫……だと思います」

 リョウは寝台の上に起き上ると緩慢な動作で両手を握ったり開いたりしてみた。手の痺れもなくなっている。気持ち悪さもない。平衡感覚も戻って来たようだ。


「お、目が覚めたかい?」

 そこにこの医務室にいた軍医と思しき医師が顔を覗かせた。

「あ、はい。ありがとうございます」

 軍医の顔を見て微笑もうとした所で、リョウは不意に何がしかの違和感のようなものを感じ取った。

 リョウが最後、ここに赴任している軍医の顔を見たのは、確か、半月ほど前のことだった。その時に薬草関連の話をしたので、顔はよく覚えているはずだった。

 軍医は、壮年の域に入る男だった。少し濃い茶色の髪を邪魔にならないように後ろで一つに結え、髭の無い顔立ちは男を若々しく見せていた。瞳の色は薄い灰色だった。それが、興味ある話題になるとまるでセレブロの虹色の光彩のようにきらきらと小さく黄色に光るのだ。

 だが、目の前にある軍医の顔は、記憶の中にあるそれと幾分違っていた。その認識のずれというか誤差のようなものが、非常に気持ち悪く感じられて、それをどうしてだろうと思った。

「……アソーリ……さん?」

 確かめるように名前を呼べば、軍医はその灰色の目を驚きに見開いた。

「おや、君は私を知っているのか?」

「……………え?……」

 リョウは思わず目を瞬かせた。記憶の中にあるあの時の軍医よりもこの目の前の男は随分と若かった。目尻に刻まれていた皺がない。そして、肌も艶やかではりがあった。この人は、あの時の軍医ではないのだろうか。

 だが、それだけではない。半月程前の邂逅をこの軍医は覚えていないようだった。

「覚えて……いらっしゃいませんか?」

 リョウは念の為、前回、治療を受けた時のことを口にしたのだが、あの軍医と同じようにアソーリという名の男は、不思議そうな顔をして益々首を捻った。

「私がここに任命されたのは、ほんの【デェシャータク(10日)】前のことだからね。半月前は、まだここにはいなかったんだが」

 ―――――うーん、記憶にないなぁ。人違いじゃないかと記憶の中にあるものと同じように小さく眉を下げて言った。

「は………い?」

 その台詞にリョウは益々混乱した。

 そして、軍医は直ぐ傍にいた男に同意を求めるように声を掛けた。

「なぁ、ウーイマ?」

「ええ、そうですね」

 リョウはもう一度、ゆっくり周囲を見渡した。ここは前回と同じ【アルセナール】の医務室だ。柔らかな壁紙の色とそこにある草花模様がとても綺麗だと思ったので印象に残っていたのだ。

「ここは【アルセナール】なのですよね?」

「ああ、そうだ」

「きみは、ここに来たことがあるのか?」

 軍医の肯定に続いて、リョウをここに運んで来てくれた親切な男が訊いた。

「はい」

「きみは…………見習いか何かか?」

「あ、いえ。ここに来たことがあるのは知り合いがいるからで。ワタシは…術師です」

 そう言うとリョウは己が首元から銀色の鎖を引き出して、そこにぶら下がる術師の登録札を見せた。

「きみは術師なのか!?」

 軍医と親切な男が驚いた顔をした。

 そんなに驚かれることなのだろうか。リョウがその思いがけない反応に内心首を傾げていると、

「………そうか」

 軍医と男は無言のまま目配せをした。そして、その合図を正確に受け取った男は、リョウの傍にある簡素な丸椅子に腰を掛けると穏やかな口調で言葉を継いだ。

「きみはこの街の人間か?」

「あ、いえ。出身は違いますが、今、とある知り合いの所に厄介になっていまして。今日はその家のお使いでこの近辺に用事があったものですから」

 あの樫の木の下に辿りついた経緯を掻い摘んで話す。

「そうか。因みにその知り合いが誰か聞いてもいいか?」

「ああ、はい」

 リョウは寝台から起き上り、脱がされて脇に置かれていた長靴を履きながら、滞在中のシビリークス家の名前を告げた。

「シビリークス家に!?」

 するとまたしても軍医とその男に先程以上に驚かれてしまった。

 リョウは首を捻るばかりだったが、これ以上は気にしないことにした。今頃、あちらでは帰りの遅い自分のことを心配しているかもしれない。窓の外は薄らと茜色に染まり始めていた。

 ユルスナールは、まだ第七の執務室にいるだろうか。そう思ったリョウは、【アルセナール】内にいるのならば、序でに第七の所に顔を出そうと思った。

「これから第七の執務室の方に顔を出します。きっと知り合いがいると思いますので」

 そう言うとリョウは再び軍医と親切な男に礼を述べて、男の名を聞こうとした。後日、改めて礼をしに来ようと思ったからだ。

 だが、にこやかに微笑んだリョウに反して、親切な男はどこか困惑したように眉を下げていた。そして、無言のまま、軍医と視線を交わす。

「第七……というのはなんだ?」

 その問い掛けに、リョウは長靴を履いていた手を止めた。

「第七師団のことですが?」

「第七師団………というのは?」

「勿論、スタルゴラド騎士団の部隊のことですけれど…………」

 親切な男は訳が分からないという顔をしていた。

 ―――――何かが違う。何かがおかしい。もやもやとした気味の悪い漠然とした違和感が胃の腑に沈んだ。

「あの……兵士の方ですよね?」

「ああ」

 リョウの問い掛けに男は諜報部で鷹匠の任に就いているとした上で、ウーイマだと名乗った。そこでリョウも自分の名を相手に告げた。

「ここはスタルゴラド……ですよね?」

「ああ」

「ここは王都、スタリーツァですよね?」

「ああ」

「その中にある軍の詰所【アルセナール】ですよね?」

 少しずつ事実を確かめるように段階を踏んで行く。

「諜報部……というのは、【チョールナヤ(黒き)テェニィ()】のことですか?」

 そこで男の顔に変化が訪れた。

「いや、諜報部は諜報部だが? なんだそれは?」

 逆にリョウの方が問い返されてしまった。

 リョウは混乱する思考を纏めるように片手を額際に当てて、天井を仰いだ。

「あの、確認したいのですが、スタルゴラド騎士団の軍部は、第一師団から第十師団までに分かれているのではないのですか?」

 一縷の望みを掛けたようなその問い掛けに返って来たのは、信じられない答えだった。

「いや? 騎士団にそのような部隊分けはないぞ? 今あるのは【青】、【赤】、【黄】、【白】、【黒】の暦と同じ五色による五つの部隊とそれに【諜報部】だ」

「……………は……い?」

 今度はリョウの方がおおいに驚く番だった。

「え、そんなことがあるんですか? だって……ワタシの知り合いは第七師団の団長で、北の砦にいる第七の兵士たちとも全員顔見知りですが………」

 吃驚して言葉を継いだリョウの前で、軍医アソーリと親切な男ウーイマは、顔を見交わせると訳が分からないとばかりに肩を竦めた。

 リョウはまるで狐に抓まれたような気分だった。アルセナール勤めの兵士という男とまるで話が噛み合わなかった。だが、男は嘘や冗談を言っているようにも見えない。

 なんだ。どうしたというのだ。何かがおかしい。まるで依って立つ前提条件が違うかのようだ。

 リョウの鼓動は募る漠然とした不安に早鐘を打ちだした。

「あ、そうだ。知り合いに会えば分かります。きっと何かが違っていて。ルスランに会えば………」

 全てが上手く行くはずだ。

「ルスラン?」

 リョウの口から漏れた名をウーイマが訊き咎めた。それにリョウは突破口が見つかったかと思い喜色を浮かべたのだが、それが余計に混乱を巻き起こすことになるとは思いも寄らないことだった。

「あ、はい。シビリークス家の三男、ユルスナール・シビリークスのことです」

「シビリークスに三男などいないぞ? あそこは、息子が二人だけだからな」

 不意に軍医の声が水を差すように耳に飛び込んできた。

 それにウーイマが鷹揚に頷いた。

「ええ。上がファーガスで、下がラードゥガ。確か、その二人だけのはずです。新しく子供が出来たという話も聞かないし、第一、あそこの奥方にはもう無理だからな」

「………え…………」

 リョウの背中に冷たいものが走った。脚が竦みそうになる。耳から入って来る言葉が理解できなかった。そんなことがあっていいはずがない。

「ファーガス……さんに………ラードゥガ……さん?」

 二人とも十分聞き覚えのある名前だった。だが、自分が良く知るのはファーガスだけだ。その下のラードゥガという弟御は、先の戦で亡くなったと聞いていた。

 リョウの脳裏には出掛ける前に玄関ホールで挨拶を交わした銀色の髪をした初老の体格の良い男の顔が浮かんだ。沢山の皺に囲まれた深い瑠璃色の瞳が優しく細められている表情が。

「ま…………さ……か」

 自分は夢を見ているのだろうか。これは何かの悪戯か。

「ファーガスとも知り合いか?」

 ウーイマがどこか案じるように突然、顔色を悪くしたリョウを見ていた。

 リョウは少しでも状況を整理しようと瞬きを繰り返してから、ゆっくりと首を縦に振った。

「お義父さま………です」

 絞り出した声が掠れていた。思わず口元を押さえたリョウにウーイマは近寄るとそっと宥めるように肩に手を回した。大きな男の手が肩口を摩る。

 だが、ウーイマは酷く困惑したような顔をして軍医を見た。

 ウーイマが知るファーガスは自分と同じくらいの年頃で、まだ独身のはずだった。あの男は貴族だから婚約者のような相手はいるのだろうが、妻を娶ったという話は聞かなかった。ウーイマの脳裏には、男らしい精悍な顔付きに険のある眼差しの、要するにどこか近寄りがたい雰囲気を持つ強面な若い男の顔が浮かんでいた。あの男を【お義父さま】と呼ぶ。なんの冗談だろうと思わずにはいられない。この子はありもしないことを妄想する心の病に懸かっているのだろうか。話が噛み合わないのもこの子の中の夢という名の現実が、ウーイマの属する本当の現実と異なるからで。ふとそんなことを思った。

 きっと同じようなことを思ったのだろう。軍医のアソーリは、不意に顔付きを医者らしい穏やかで落ち着いたものに改めて、二人の傍に来た。

「リョウ…………と言ったね。君は今、少し混乱しているのかもしれないな。少し落ち着こう。酷い顔をしている」

 相手を刺激しないよう優しく宥めるようにアソーリの大きな手がリョウの頭を撫でた。さらさらとした指通りのよい繊細な髪だった。

 そうして人は頭を強く打ったりすると目覚めた時に記憶がごっちゃになって混乱する時があるのだと噛み砕くように説明した。

 ―――――きみも少し記憶が混乱しているのかもしれない。

 だが、軍医の優しい声も功を奏さずに、リョウは何を思ったのか、不意に顔を上げるといきなり医務室を飛び出した。

「あ、おい。リョウ?」

 ウーイマは素早く、まだ若き軍医に目配せをして、その黒(テン)のように飛び出していった小さな背中を追い掛けるべく、その後に続いた。




 今日は朝から走ってばかりだ。ウーイマは頭の片隅でそのようなことを思った。

 ―――――一体、なんなんだ。

 前方を物凄い速さ(スピード)で駆けて行く小さな背中を追いながら、ウーイマ自身も混乱していた。

 具合が悪そうだった少年を医務室に運んで。頃合いを見計らって様子を見に顔を出せば、ちょうど目を覚ました所だった。そして、顔色も良くなったのを確認して安堵の息を吐いたのも束の間、今度は訳が分からないことを言い出して、ウーイマと軍医のアソーリを驚かせた。

 そして、混乱が極限に達したのか、突然、医務室を飛び出したのだ。

 ウーイマは慌てて後を追いかけた。ここにあの少年を運び込んだのは自分なのだ。人助けをした積りだが、あの子にここで無茶なことを仕出かされては敵わない。基本的にここは騎士団所属の兵士以外、立ち入ることの許されない場所であるからだ。下手をしたら自分の首が飛ぶ。

 あの少年は、この【アルセナール】をそれなりに知っているようだ。その事実はウーイマを酷く驚かせたが、あのリョウと名乗った少年が嘘を吐いているようにも思えなかった。

 相手が嘘を吐いているかいないかは、その者の瞳を見れば分かる。それは獣たちと意思の疎通ができるウーイマの隠されたもう一つの素養のようなものだった。

 それでもその少年の言葉は、ウーイマの理解を遥かに超えていた。

 一体、あの子は何者なんだ。あのような若さで術師だと名乗り、この国の有力貴族であるシビリークス家との繋がりを口にした。登録札だというような小さな札を見せられたが、ウーイマにはそれがなんだかよく分からなかった。第一、この国では術師は登録制ではない。素養を持つ人間がそれなりに修業を積んで、自ら術師として名乗るのだ。登録をするというのは街中にある組合(ギルド)の方だけだろう。

 しかも、驚くべきことにあのファーガスを知っているような口振りだった。

 ファーガスがあのような少年と知り合いなのか。軍部所属の兵士として、それなりにあの男の人となりを知るウーイマにとっては、信じられないようなことだった。

 とにかくこのままで放ってはおけない。

 前を走る少年は、迷いなく館内を進んでいた。辺りをきょろきょろと確認したり見回したりすることはない。ただ真っ直ぐ前を向いて、立ち止まることなく走り続けていた。脚力に自身のあるウーイマは、それに難なく追いついた。

 そして、とある扉の前で急停止した。その扉を勢いのままにノックしたかと思うとなんと了承の返事が返ってくる前に開けたではないか。

 その部屋の主が誰であるかを瞬時に理解したウーイマは、それこそ飛び上がらんばかりに鼓動を跳ね上げさせた。

 ―――――不味い! 非常に不味い!!

 何故なら、その部屋は………………。

「リョウ!」

 ウーイマは珍しく上擦った声を上げて、開け放たれた扉が閉まる前に扉の取手に手を掛けた。




 ウーイマが室内に入った時、リョウは部屋の入口直ぐの所で立ち竦んでいた。円らな漆黒の瞳がこれでもかというくらいに見開かれていた。

「ル……スラ…ン?」

 震えるような小さな声が再び聞き慣れない男の名前を紡いだ。

「いや………ち…が………う」

 室内には、二人の男たちがいた。その内の一人が、剣呑な顔付きをして睨み付けるように突然の闖入者に厳しい視線を向けていた。

 緩く波打つ銀色の髪。そして深い青さを湛えた瑠璃色の鋭い眼差し。造り物のようににこりともしない冷たい表情。見るからに威圧感のある押し出しの強い軍部きっての美丈夫がそこにいた。

「誰だ?」

 底冷えするような誰何(すいか)の声が静まり返った室内に響いた。

「ファー……ガス……………さん?」

 男らしい眉がその声に訝しげに上がる。

 そこにすかさず、ウーイマのきびきびとした声が被せられた。

「失礼いたします。申し訳ございません。こちらに間違えて迷い込んだ者がおりまして、回収に参りました。何分、右も左も分からぬ不慣れな子供故、度重なる御無礼、どうか平にご容赦を」

 形通りの最敬礼をしたウーイマは、すぐさまリョウの腕を掴んで、外に引っ張り出そうとした。

「おい、リョウ。こっちに来い。ここはきみが立ち入っていいような場所ではない」

 頼むから面倒を起こしてくれるな。そんな切羽詰まった懇願がウーイマの声に滲んでいた。

 室内に立っていたその強面の男は、闖入者に続いて入室した男を認めると、空気を少しだけ緩めた。

「ウーイマではないか」

 その声の響きには、【珍しい】という相手の感情がありありと乗っていた。

「なんだ、この子は? お前の知り合いか?」

 厳しい表情を一転させ、今度はからかい混じりの好奇に似た視線を若き鷹匠に投げる。

 室内にいた男たちの不興を買った訳ではないことを知り、ウーイマは独り、安堵の息を吐いたのだが、そこに予想外の展開が待ち受けていた。


 それから屈強な肉体を誇る強面の男は、執務室の奥に座る同じような髪色をした威厳ある男(この部屋の主だ)に小さく断りを入れると、素早く退室したウーイマの後を追うように廊下に出てきたのだ。

 銀色の髪を持つ男の問い掛けに、ウーイマは何とも言えない顔をして、心底弱り切ったように情けない表情を晒しながら笑った。

「ちょっと……その……色々……あってな」

 軍部の中で唯一、日頃から言葉を交わす相手である男に濁すように曖昧な笑みを浮かべた。

 その間、ウーイマに腕を掴まれたままのリョウは、じっと廊下に出てきた男、ファーガス・シビリークスを見ていた。穴が開きそうな程の食い入るような強い視線だった。

 その意味を計りかねてファーガスは首を傾げた。

「で、このガキはなんだ?」

 ファーガスがやや居心地が悪そうに自分に注目している珍しい色彩を持った瞳の主を小さく顎でしゃくった。

 その瞬間、

「………【ゴースパジ(そんな莫迦な)】!」

 まるでこの世の終わりとでも言うくらいの悲痛な声を漏らしたかと思うと、少年が両手で頭を抱えた。そこで大きく息を吐き出した。

 暫し、不可解な沈黙が落ちた。

「………ウーイマさん。今日は、何年の何月何日ですか?」

 震える声と共にやけに静かに問われて、ウーイマは思わず隣に立つファーガスと視線を交わした。

 ファーガスの顔には、珍妙なことを聞く子供だということが憚らずに出ていた。きっと気が触れた狂人だと思われているかも知れなかった。いきなり室内に乱入してきたと思ったら、今日は何日かと尋ねるのだ。常軌を逸した行動に思われても仕方がない。

 だが、それを口にした当人はえらく真面目なようだった。

「リョウ、大丈夫か?」

 覆っていた手を下ろした少年は酷く青ざめた顔をしていた。まるでそのまま卒倒してしまいそうな程に見えた。

「今日は、何年の何月何日ですか?」

 薄い唇を微かに震わせて、少年が再び問うた。そのどこか思い詰めたような悲壮感漂う表情にウーイマが気を取られている間に、隣に立つファーガスが事も無げに答えを告げた。

「青の八、………27年、黒の第二の月。第三【デェシャータク】の五日だ」

「青の八…………27年?」

 まるで言語の習得をしている赤子のように同じ言葉を繰り返す。

「ええと……ってことは同じ青の八の67だから………40年…ま…え?」

 どこか心ここにあらずという具合に呆けた顔をして、何やら小さくそのような呟きを残したかと思うと。

 そこで気を失った。

 いきなり倒れ込んだ体を今度はファーガスが抱き止めた。そして、訳が分からないという顔をしてウーイマと腕の中にいる小柄な少年を見た。


 振り出しに戻ってしまった事態に、いや、ともすればより混乱をきたすことになった事態にウーイマはとっぷりと深い溜息を吐いていた。

 仕方がない。行き掛かり上、自分が責任を持って面倒を見る他あるまい。どうも半錯乱状態にあるようだ。こうなったら、その子が少し落ち着きを取り戻してから、家に送り届けることにするしかないだろうと腹を括った。

「すまない、ファーガス」

 ウーイマはそう言ってリョウを再び受け取ろうとしたのだが、ファーガスは何食わぬ顔をしてぐったりとした少年を己が肩に担ぎ上げると、そのまま歩き出してしまった。

 思わずウーイマは苦笑を漏らした。この強面の男は自分を手伝ってくれる積りであるらしいことが理解出来たからだ。

 目付きが鋭く余り表情豊かな方ではない為、初対面の相手には取りつきにくい印象を与えるが、この男が見かけによらず、人の感情の機微に敏く、相手を労わることの出来る優しい心を持っていることをウーイマは知っていた。シビリークスというこの国では名門の貴族の出身だが、その他大勢のよくある貴族たちのようにその出自を鼻に掛けたり、庶民を見下したりするようなことがなく、分け隔てなく接してくれる男でもあった。また、唯一、軍部の兵士たちの中で、獣たちに囲まれるウーイマを変人扱いしない男でもあった。そして、何が面白いのか知らないが、ウーイマが一人でいたりすると話しかけてきたりするのだ。

 ファーガスは見事な剣の腕前を持ち、騎士団の中でも精鋭(エリート)の近衛隊に所属していた。通常なら完全なる裏方部隊である諜報部の鷹匠とは、まるで接点がないはずなのだが、ひょんなことから初めて言葉を交わして以降、なんだかんだとファーガスはウーイマを構い、まるで友のような交流を持っていた。

「この子はなんだ? 迷子か?」

 頑丈な身体に苦もなく意識を失った少年を担ぎ上げて、足取り軽く歩みを進めながらファーガスが口を開いた。隆々とした力瘤があるであろう太くがっしりとした腕をちらりと横目に見て、ウーイマは、体格の違いを見せつけられるようで内心、面白くなかったが、それを面に出さずに淡々と口を開いた。

「恐らくな」

「お前の隠し子とするには……年がいっているか」

 そんな冗談めいた軽口を叩いた男にウーイマは呆れたような視線を投げた。

「当たり前だ。どう見てもこの子は十四・五だろうが」

 自分との年齢差を考えれば、有り得ない話だ。

 男との会話はいつも他愛ないことばかりだった。こういう軽口の類も偶には飛び出るくらいには二人は気心が知れていた。

「どこから紛れ込んだんだ?」

 その問い掛けにウーイマは、ファーガスがこの件に関わる積りがあることを知った。

 普通ならば面倒事は避けて通りたがるであろうに。懐が広いというか、無駄に好奇心が強いというか、男気があるというか、面倒見がいいというか。こういう気の使い方をされるとこの男の度量の広さを再認識させられる。だが、まぁ、この男も少し変わっているのだろう。

 ファーガスは基本、真面目な男だった。宮殿の区画内に近い軍部内に不審者が紛れ込んだということを重く見たのかも知れない。この辺りの区画は、常に厳重な警備が敷かれているはずだからだ。

 ウーイマは、ちらりと隣に並んだ男を見た。目線はファーガスの方が若干上だ。ウーイマは上背がある方だが、この男は縦にも横にも大きかった。縦にだけひょろ長いウーイマとは違い、良く鍛えられた肉体を持つ大きな男だった。

 吊り上がり気味の鋭い瑠璃色の双眸と目があった。無言のまま続きを促すように視線で合図を送られる。

 ウーイマは、少し困ったように眉を下げると、今朝方の小鳥たちの急襲から始まったこの不可思議な出来事を淡々と語り始めた。

 この少年がシビリークス家に世話になっていると語った(くだり)では、ファーガスは男らしい眉を盛大に顰めた。

「うちにはそんな居候などいない。この子供と知り合いになった覚えもない」

 ―――――なんだ、随分と御大層な作り話じゃないか。

 そう言って皮肉たっぷりにどこか可笑しそうに小さく笑う。

「……そうか」

 ウーイマには、この少年が嘘を吐いているようには思えなかったが、ファーガスの言葉を信じた。ファーガスは高潔な男だ。いい加減なことは絶対に口にしないことをこれまでの交流から知っていた。どちらの言い分を取るかと聞かれれば、勿論、付き合いの長いこの男の方を取るだろう。

「取り敢えず、俺が預かるしかあるまい」

「お前の所に連れて行くのか?」

「ああ、そうするしかないだろう」

 ウーイマは、官舎の自分の部屋に連れて帰る積りだった。

 落ち着いたら、もう少し状況が明らかになるかもしれない。この子供にも家族がいるであろうし、もし、この子が通常とは違う特殊な子であったとしたら、家族は必死になって探すだろう。後で街中の治安維持を担う部隊の方に連絡が入るかもしれない。何と言っても獣たちが並々ならぬ心配をしたくらいだ。彼らにこの子の身元を捜してもらうという手立てもある。

 ウーイマがつらつらとこれからの算段に思いを巡らしていると、不意にファーガスが思い出したように口を開いた。

「術師だと言ったのか?」

「ああ」

「確かめたのか?」

「いや。登録札だと言って何やら小さな銀色の札のようなものは見せられたが、俺にはそれが何だかは分からなかった」

「登録? 組合(ギルド)の方にか?」

「いや、分からん」

 組合(ギルド)の方は通常、登録を済ませた術師に木札を渡すと聞いている。だが、それも所属する組合の種類によって大分異なるようで、ウーイマにはその辺りの事情はよく分からなかった。

 とにもかくにもウーイマには少年の言っていることが一つも理解できなかったのだ。言葉が通じるのにおかしなものだ。まるで初めて出くわす獣と話をしているようだった。

 獣たちと言えば、彼らは、並々ならぬ関心をこの少年に抱いていた。そして、口を揃えてこの子が獣たちの言葉を解すると言ったのだ。

 その辺りの事情をもう少し掻い摘んで語れば、ファーガスは左肩に担いだ少年の太ももの裏を軽く叩きながら神妙な顔をした。

「ならば、その線で当たった方が早いかもしれんな。同じ術師の筋を当たれば、この子供の師匠か関係者に辿りつくだろう。見掛けも随分と特徴的だ。直ぐに身元が分かるに違いない」

「そうだな」

 ファーガスの尤もな言葉にウーイマは幾分沈みかけていた気分を浮上させたのだった。




 その後、ファーガスはご丁寧にも少年を担いだまま、官舎の中のウーイマに宛がわれた一室までやって来た。

 精鋭(エリート)の近衛隊の中でも何かと有名なファーガスと変人と目されているオオタカ使いのウーイマという珍しい組み合わせに、既に帰宅して中で寛いだ表情をしていた兵士たちは、ぎょっとした顔をして、関わり合いになりたくないとばかりに目を逸らし、ひそひそと囁きを漏らした。

 だが、勿論、ファーガスもウーイマも外野の反応を気にすることはなかった。そういう所では二人はよく似ていると言えるかもしれない。


 それからウーイマの部屋に入った。

 中は必要最低限の作りで、簡素な寝台に小さな机と椅子があるだけのがらんとした空間だ。そこそこ広さがあるのが唯一の救いであると言えるだろう。これで狭かったら、目も当てられないことになる。大きな体の男たちが肩を縮込め膝を突き合わせなければならないのは、悲壮なことこの上ないだろうから。

 ファーガスはウーイマの取り敢えず整えられた寝台に、思いの外、優しい手付きで肩に担ぎ上げていた少年を下ろし、そっとその華奢な体を横たえた。

 ファーガスは少年の顔に掛かった黒髪を梳き、そっと枕を直してやった。ご丁寧に履いていた長靴も脱がしてやる。

 荷物運びが終わったら、用は済んだとばかりに帰るかと思ったのだが、何を思ったのかファーガスは寝台の脇に浅く腰を下ろすと、横たわるリョウの顔を覗き込むように見た。 

 それから何かを確かめるようにその全身へ視線を滑らせた。

「ウーイマ、お前、本当にこの子の面倒を見る積りか?」

 大きな手の甲でそっと眠りに就くリョウの頬を撫でながら、やけに神妙な顔付きをしたファーガスに、ウーイマは楽観的に微笑んだ。

 大きな図体に似合わず、妙な所で繊細な部分を見せる男をからかうように見る。こういう細やかな気遣いのできる所が数多もの同僚や部下から慕われる所以でもあるのだろう。

「面倒を見るといっても別に大したことじゃないだろう? 一晩限りだ。ずっとここに置く訳じゃないし。気が付いたら、もう少し慎重に話を聞くさ。そしたら家に送り届ける積りだ」

 ―――――直ぐに解決するさ。

 そう言って呑気に微笑んで肩を竦めたウーイマに、

「……だが…………」

 ファーガスは珍しく逡巡するかのように尚も言葉を続けようとしたのだが、それは叶わなかった。

 何故なら、窓辺に突如として飛び込んできたウーイマの【愛すべき友人たち】によってかき消されることとなったからだ。

『ウーイマ、あの御人は如何した?』

『やや、こなたにあられる』

『寝ておるようだ』

『ややや、寝ておるようじゃの』

 丸々と太った栗鼠(りす)が一匹、枕辺に辿りつくとリョウの顔を覗き込むようにして太い尻尾をふさふさと左右に揺すった。今朝、ウーイマを急襲した小さな小鳥三羽は寝台の枠に飛び降りると点々と等間隔に止まった。

『大事ないのじゃな?』

『見れば分かろう、すやすやとよく寝ておるではないか』

『ならばよいか』

『うむ、一先ずはな』

 小さなおしゃべりが続く中、

『何か分かったか?』

 ウーイマの【ツレ】である相棒のオオタカ【リューリク】が、窓辺に大きな羽を窮屈そうに縮込めて舞い降りた。

 ウーイマが常日頃から獣たちに囲まれていることを知るファーガスは、少し変わった友人たちの登場に別段、驚かなかった。

 だが、ファーガス自身は素養持ちではない為、獣たちの言葉を解することは出来なかった。

「あーああああ~」

 珍しくウーイマは困惑したように情けない声を絞り出すと、柔らかな明るい茶色の髪をかき乱した。

「お前たちは、何か分かったのか?」

 勿論、この風変わりな少年の身元についてだ。

 若干の期待を込めて小さな友人たちを見れば、

『ふん、その分ではおぬしの方は埒が明かぬということか』

『ああ、情けなや』

『この御人に尋ねればよかろう』

『その通りじゃ』

『至極明快なこと』

『何をもたもたしておるのじゃ』

『これだからおぬしは使えん』

 容赦なく切り捨てられた。

 ウーイマはムッとした顔をして小さな、だが、かなり辛辣で毒舌な友人たちを半眼に見た。

「俺だって出来ることはしたさ。ただ、話をしてもどうも噛み合わなくて、俺はこれっぽちもこの子の言うことを理解できなかった。そんなに気に掛けるなら、お前らのほうこそ、手伝ってくれよ」

 ―――――ひょっとしたら、自分が話すよりも獣たちと話した方が意思の疎通が上手く行くのではないかとの思いを込めてそう口にすれば、小さな小鳥たちは相変わらず『情けない』『役に立たない』『使えん』などとピーチクパーチク悪態を吐いてはいたが、相棒のリューリクだけは、『ふむ』とどこか同意を示すように尊大な息を吐いた。

『そうさな。では、使えぬおぬしの代わりに我らが相手をするとしようか』

 一々、余計な一言が多いのは、今に始まったことではないので、

「ああ、その方がいいと思う。頼んだぞ」

 ウーイマは諦めたように軽く手を振った。

 そして小さな机と対になっている背凭れの付いた木の椅子に逆向きに座るとぐったりとした様子で両肘を椅子の上部に置いた。


 そうこうするうちに顔見知りの野良猫や犬や狐、黒(てん)などの動物たちもやって来て、寝ているリョウの周囲を囲むように寝台の上や下に蹲った。ウーイマの部屋は一階にある為、獣たちの出入りはかなり自由なのだ。

 室内が様々な獣たちで一杯になった。まるでこの部屋が雑木林の一角になったかのようだ。

 さすがに居心地が悪くなったのか、ファーガスはゆっくりと立ち上がると、『手伝えることがあれば、力を貸す』とだけ言い残して、ウーイマの居室を後にした。

 予想以上の親切心を見せたファーガスにウーイマは感謝を込めて礼を述べたのだが、去り際、その少し変わった【人の友】は、ウーイマに小さく耳打ちをした。

 ―――――妙な気を起すなよ。

 その途端、ウーイマは目を瞬かせた。

 ―――――妙な気とは……何の話だ? 

 仄めかされたことが理解できなかったようだ。

 だが、ファーガスは気に留めることなく、寧ろ、どこか面白そうな顔をして小さく笑うと軽く片手を振って、その大きな背中を夕暮れの日差しが差し込む簡素な石造りの廊下の向こうに消したのだった。


 朋輩がいなくなった後、ウーイマは再び窓辺の方を振り返って、己が寝台を占領するように横たわる一人の少年とそれを囲むようにちゃっかりとシーツの中に入り込む獣たちを目にして、軽く目眩がしそうな気分で溜息を吐いた。

 だが、その困惑顔は直ぐに苦笑のようなものに変わった。どういった経緯でこんな所に紛れ込んだのかは分からないが、これだけ獣たちに好かれるのを目の当たりにして悪い気はしなかった。ウーイマとしては妙に親近感が湧いたのだ。獣たちと会話が出来る鷹匠たちは普通の兵士たちからどこか奇異な目で見られていることを知っていた。敢えてそれを口に出さなくとも、何となく、そういう相手の持つ壁というのは分かるものだ。

 ウーイマは軽く肩を竦めると夕食をもらいに食堂に向かうことにした。

 食堂を預かる料理長に客人がいる為、部屋で食事をするという旨を話せば、料理長は合点したように頷いて、いつもより多めにスープとパンをくれた。ここにいる職員たちにもウーイマが獣たちと仲がいいということは知れ渡っていて、【客人】をそういった部類のものだと理解したようだ。


 そうやって温かい食事の乗ったトレイを手に自室に戻ると、そこは幾分賑やかなことになっていた。

「お帰りなさい」

 少年は気が付いたのか、寝台の背凭れに体を凭せ掛け、獣たちに何やら小さな実を分け与えていた。

「気が付いたのか?」

 ウーイマが声を掛ければ、

「すみません、ウーイマさん、ご迷惑をお掛けしてばかりですね」

 少年は申し訳なさそうに眉を下げて、情けない苦笑のようなものを浮かべて寝台の中から出ようとした。それを目で制して、ウーイマは机の上に食事の乗ったトレイを置くと小さな丸椅子を持って少年の傍に座った。

「気分はどうだ? 気持ち悪かったりはしないか?」

 ウーイマは、少しかさついた大きな手を伸ばすとそっと少年の頬に触れた。顔色を確かめるように覗きこむ。顔を近づけるが、少年は動じた様子を見せなかった。

 吸い込まれそうな位に澄んだ漆黒だとウーイマは思った。まるで聡明な馬の円らな瞳のようだ。そこでウーイマは、あのファーガスが持つ黒毛馬を思い出した。全身艶やかに光る黒毛の立派な軍馬だった。その気性の荒さと気品高き立ち姿から【黒き(いかずち)】と呼ばれている。

 一度だけファーガスが仲睦まじくその馬を厩舎に繋いでいるのを見たことがあった。

 そう名前は確か。

「…………キッシャー」

 思わず漏れたその名に、少年が身じろいだ。

「キッシャーって………あの……黒毛の馬ですか? シビリークスの家にいる」

「知っているのか?」

 今度はウーイマの方が驚く番だった。

「はい。何度かその背に乗せてもらいました」

「あの黒毛にか?」

 あの馬は己が主以外は決して乗せないことで有名だった。それだけ誇り高い馬なのだ。

『あの気位の高い黒毛か』

 オオタカのリューリクが鼻を鳴らせば、

「ふふふ、ちょっと押し出しが強いからね。でも優しいよ?」

 少年は顔を顰めたオオタカの方をちらりと横目に見ながら小さく笑う。

「ワタシはまだちゃんと馬には乗れないんですが、キッシャーが練習するぞなんて言って」

 ―――――練習に付き合ってくれているんです。まだまだへっぴリ腰で、からかわれっぱなしですけれど。

 穏やかに淡々と語られたその言葉に、ウーイマはまた始まりそうになる不可解な話の入口に立っている気がした。

 キッシャーの主であるファーガスは、この少年を知らないと言った。それなのにこの少年はあの馬のことを知っているという。そう言えば、医務室でも頻りにシビリークス家のことを口にした。少年の口振りは嘘を吐いているように見えなかった。ここまで壮大な作り話をしているというようにも見えなかった。

 この認識の差は、何であるのか。

 ウーイマは小さく唾を飲み込むと慎重に言葉を選んだ。

「なぁ、リョウ。お前は一体、何者なんだ?」

 適切な言葉を色々と探したのに口から出てきたのは、陳腐で余りにも人を食ったような問い掛けだった。

 だが、それだけで相手はウーイマの中にある違和感をちゃんと分かっているようだった。

「ああ……そうですね。………そうでした」

 そこでリョウはゆっくりと天井を仰いで、心底困ったような情けない顔をした。それから小さく息を吸い込むとウーイマの目を真っ直ぐに見返した。

「あの、驚かないで頂きたいのですが…………と言ってもきっと俄かには信じられないことだとは思いますが。とにかく、笑わないで聞いて欲しいことがありまして……」

 そう言うと、少し言いあぐねるように言葉を濁して、これでも自分は大真面目で精神的に病んでもいないし、心身共に健康であると言い切った。

 小さく拳を握り締め、小さな身体から発せられる妙な気迫に押されるようにして、ウーイマは思わず頷いた。そして、目線で続きを促した。

「ワタシは、ひょんなことから【時の狭間】に迷い込んでしまったようなんです」

 ウーイマは再び目を瞬かせた。

「う…ん?」

 何が言いたいのかさっぱり分からない。

「……つまり?」

「ワタシが知っているファーガスさんは、さっき見たようなあんなに若い人じゃなくって、立派な髭を生やした初老の御父上なんです」

 ウーイマの頭上に大きな疑問符が二つ立ち上がった。

「…というと?」

「ですから、ワタシが知っているシビリークスの家は、今あるシビリークスの家ではなくて………」

 そう言って少し黙り込んだかと思うと、途方に暮れたような顔をして小さく笑った。

「【ここ】から少し先………そうですねぇ……多分……四十年くらい後の時間軸の中にある世界なんです」

 四十年。さっきも似たような数字を耳にしなかったか。

「…………………………は?」

 それきり言葉を失ってしまったウーイマの前で、寝台の中に潜り込んでいた獣たちが口々に囃したてた。

『ややや、そなた、時を跨いだというのか!?』

『しかも未来から過去にか!?』

『なんともまぁ不思議なことよのう』

『奇特なことよのう』 

『それであのキッシャーを知っておるのか』

『どうりで』

『そなたのその御印は、長のものだな?』

『ということは、そなたの傍には長がおるのだな』

 姦しく騒ぎ立てる小動物たちを余所に、

『なれど、いかにして?』

 冷静に言葉を紡いだオオタカのリューリクにリョウは首を傾げた。

「うーん、それはワタシが知りたいくらいだよ。てっきり夢を見ているのかと思ったのに。どうやらそうじゃないみたいなんだもの」

『その割には動じてないようだな』

「そうでもないよ。医務室で気が付いた時は、すごく吃驚したし。口から心臓が飛び出るかと思ったもの。でもね。これと同じくらい驚くようなことを一度経験してしまっているからね。それが余りにも途方もないことだったから、時を少し遡ったくらいなら何とかなるかなってね」

 そんなようなことを自嘲気味に言えば、

『はは、中々に胆が据わっておる』

 オオタカはどこか愉快気に喉を鳴らした。

 それからリョウは今日一日の行動を思い返すように語った。今日は朝から養成所の方に用事があって、それを済ませた後、【アルセナール】に顔を出そうと道を歩いていた途中、小さな獣たちにこっちに来てくれ、見せたいものがあると言われてほいほい付いて行ったら、ちょうどあの大きな樫の木の根元に辿りついて、そこで急に地面が歪むように気分が悪くなったのだ。

 もしかしたら、あの樫の木に何かがあったのかもしれない。自分をこの時間に引き寄せる何か大きな切掛けが。

『ふむ。で、そなたに心当たりは?』

 淡々と聞いたリューリクにリョウは肩を竦めた。

「残念ながらないんだ」

 自分は元々王都の人間ではないし、この国の人間でもない。あの樫の木にあった何かに引かれてしまったのかもしれない。それが何であるかが分かれば、元の時間軸に戻れると思うのだが。いや、そうでなくては困るのだ。

「だから、明日、夜が明けたら一番にあの樫の木の所に行ってみようと思って」

 生来の楽天的な性格のままに笑みを浮かべれば、リューリクは『そうするほかあるまい』と鷹揚に頷いた。

『なれば、腹ごしらえじゃ』

『腹が減っては戦が出来ぬ』

『そうじゃ、準備万端整え、【時】を待つべし』

 小さな小鳥三羽が、英気を養えと言った所で、リョウの膝の上に悠々と頭をもたげていた黒(てん)が、顔を上げると黙りこくったままのこの部屋の主を見遣った。

『のう、ウーイマ?』

『そなたの飯が冷えるぞ?』

『冷めたのでは不味かろうに』

 野良猫と犬も尤もらしく茶々を入れる。

 急に静かになった方を見遣れば、ウーイマはあんぐりと大きな口を開けて、じっとリョウの顔を見ていた。

「ウーイマさん?」

 リョウが男の目の前で小さく手を振って見せた。

『固まっておるな』

『魂が抜けたようじゃの』

『やれ、情けない』

『全く腑抜けにも程がある』

『相変わらず胆の小さい奴め』

 散々な言われようである。だが、それだけお互いに仲が良く、気心が知れているということなのだろう。リョウは辛辣な言葉を紡ぐ可愛らしい獣たちとこの兵士との間の関係をそう肯定的に捉えた。


 ウーイマは、顔を手で覆うとゆっくりと長い溜息を吐いた。そうやって様々な消化しきれない感情をなんとか鎮めようとしているかのようだ。

 それを見てリョウは申し訳なさそうに口にした。

「すみません。きっと混乱させてしまいましたね」

「つまり、きみは【時】の狭間に落ちて、きみからみた過去に来てしまったということなのか? きみはここから四十年先の世に暮らす人間だというのか?」

「その方法云々は抜きにして、あくまでも客観的事実から言えば、そうです」

「【ゴースパジ(なんてこった)】!」

 そんなことがあるのだろうか。ウーイマは人知を超えた途方もない事態に頭を抱えた。もし、それが本当だとするならば、あの少年の絶望的な悲壮感の理由も分かるような気がした。上手く言えないのだが、ウーイマの中では何故か、この少年が空想の夢物語を語っているようにも思えなかった。ウーイマを真っ直ぐに見つめるその黒い瞳は、余りにも澄んで、そして、凪いでいたから。狂気にはまり込んだ人間の目を知っているウーイマにはその違いが感じ取れたから。

「すみません、ウーイマさん。あのそれで、お願いがあるのですが」

 少し困惑したように、それでもどこか期待を込めた色をその漆黒の瞳に乗せて、リョウはウーイマを見ていた。

「一晩だけこの部屋に泊めてもらってもいいですか? ワタシは床で構わないので」

 ―――――明日、夜が明けたら一番に例の樫の木の所に行ってみる。そこで何か分かるかも知れない。それが駄目なら、まだ王都にいると思われる知り合いを訪ねてみることにするので。これ以上は迷惑をかけない。

 そんなことを言ったリョウにウーイマは慌てた。

「いや、ならば、お前がそのままそこで寝ろ。俺は寝袋を持ってくる。床で寝るのは慣れているからな」

 寝台の中から這い出そうとした小柄な体を制した。

「でも、それでは………突然お邪魔しているのはワタシの方ですし」

「いや、お前は今日大変な目に遭ったんだ。今夜はゆっくり休め。俺の方は気にするな」

 二人が会話をする間、じっと沈黙を守っていた獣たちは、じっとウーイマの方を見て、威圧感たっぷりに客人に特等席(寝台のことだ)を譲れと無言の圧力(プレッシャー)を掛けていた。その爛々と光る小さな様々な大きさの瞳を見て、ウーイマが内心、乾いた笑みを浮かべたのは、ここだけの話だ。


 それから、すっかり冷めてしまった食事を二人で分け合って、その晩は直ぐに休むことにした。ウーイマ自身、余りの出来事に頭が混乱してしゅうしゅと湯気を立てそうになったからだ。色々考えても埒が明かないと思ったウーイマは、睡眠を取ることで混乱した思考を落ち付けさせようとした。

 何を思ったのか知らないが、獣たちは一晩中寝ずの番をするような塩梅でリョウが横たわる寝台の中に共にいた。そして、そそくさと寝袋の中に入ったウーイマに『妙な気は起こすなよ』と奇しくもファーガスと同じような忠告をする始末。疲れていた(主に頭が)ウーイマは、それ以上考えることを放棄して、分かっていると適当な合槌を打ってから、床の上に横になった。

 そして、その夜、ウーイマは不思議な体験をすることになった。

 夜中、妙な気配を感じてウーイマは瞼を上げた。床に横たわったまま目線だけ、寝台がある窓辺の方に向ければ、そこには途轍もなく大きな白っぽい光る毛並みを持った四足の獣がいて、窓辺から寝台の上に降り立とうとしていた。

 ウーイマは硬直した。狼を何倍も大きくしたような立派な体躯。きらきらと夜の闇に反射するような白い体毛。それはお伽噺やこの国の旗に描かれているものと同じような神々しい姿だった。

 ウーイマは息をするのを忘れた。そして、この部屋にやって来た真夜中の訪問者の行動をじっと目で追った。

 白い大きな獣は、寝台の中に横たわる少年に鼻面を向けて何事かを囁いた。すると少年はパチリと瞳を開き、ゆっくりと体を起こしたかと思うと、その獣の首に齧りついた。

 少年は微笑んでいた。心から安堵したように。まるで迷子になった幼子が母親を見つけた時のような、そんな喜びの顔に見えた。

 周囲にいた獣たちはいつの間にか寝台から降りて床の上に座っていた。まるで窓辺に現れたその獣に敬意を表すかのように。

 少年は徐に寝台脇にあった長靴を手に取るとそれを履いた。そして、音もなく立ち上がると窓辺に歩み寄った。少年の口元が微かに動き、何事かを紡ぐが、静まり返っているはずの室内にそれは何故か音にはならなかった。

 少年がゆっくりと振り返る。そこで床に横たわっているウーイマを見た。

 視線が合ったウーイマは緩慢な動作で上半身を起こしていた。

「帰るのか?」

 何故かは分からない。考えるよりも前にその言葉が口を突いて出てきた。

 少年が小さく頷いた。

 少年は窓から外に出るとそこで大きな白い獣の背中によじ登った。きらきらとまるでそれ自身が発光しているかのように輝く長い毛足の中に埋もれたその姿は、寒さの厳しい異国で毛皮がたっぷり敷かれた寝台にまどろむ幼子のようにも見えた。

 少年の小さな口元が再び何かを紡ぐ。今度はそれが音となってウーイマの元にも届いた。

 ―――――ありがとう。さようなら。

 そして、あっという間に大きな獣とその背に乗った小さな背中は、闇の中、鬱蒼と茂る雑木林の向こうに消えたのだった。

 ウーイマは、何かに憑かれたかのようにその白銀の描いた軌道を目で追っていた。それから、再び何事もなかったかのように己が寝台に横たわるとそこで眠りに就いていた。




 翌朝、ウーイマはいつも通り、日の出と共に目が覚めた。緩慢な動作で起き上り、寝乱れた髪を手櫛で梳く。いつもと同じ毎朝の光景だ。

 そこで室内の違和感に気が付いた。床には何故か寝袋が乱雑に置かれていた。そして、机の上には食堂のお椀が乗ったトレイ。自分が横たわっていた寝台には、点々と小さな足跡が沢山付いていた。

 ―――――何があったんだ?

 こめかみを揉むように目を閉じて暫し、寝台の中にあった手が何かに触れた。

 ―――――これはなんだ?

 引き寄せたそれは(てのひら)程の大きさの小さな布製の袋で、中には干したスグリの実が沢山入っていた。

 それを見た瞬間、ウーイマは唐突に思い出した。昨日、一風変わった客人をこの部屋に迎えたことを。

 夜中に不可思議で幻想的な夢を見たと思っていたのだが、あれは夢ではなかったのだろうか。

 この小さな袋はあの少年が持っていたものだった。これを周りに集まった獣たちに与えていたのだ。

「帰った…………んだな………」

 あの白い獣の背に乗って。お伽噺の中に出てくるように気高き獣【ヴォルグ】の背に乗って。

 ウーイマの中で、昨晩の出来事は夢と現実の狭間にはまり込んだような曖昧なものになっていた。あれが現実のことだったのか、はたまた夢の中の出来事だったのか、良く分からない。ただ、他者の存在を知ら示すようにこの手の中にはスグリの実の入った小さな小袋が残された。

 唯一の証として。

 ウーイマは緩慢な動作で寝台から起き上ると、大きく伸びをした。そして、獣の足跡が沢山付いたシーツを見下ろして、今日は洗濯だなとやたらと現実的なことを考えた。


 それから食堂で簡単な朝食を食べ終えたウーイマは、いつもより早めに官舎を出て、昨日と同じようにあの樫の木の根元に向かった。

 当然のことながら、あの少年の姿はどこにもなかった。そのことに安堵の息を吐くと同時に、心のどこかで一抹の寂しさを感じているもう一人の自分がいた。

 そんなことを思ったことに小さく苦笑い。

 一抱え以上は優にあるその太い幹に手を着く。すると、突然、一陣の強い風が吹いて、大きな枝葉を一斉に揺らした。

 ざわざわと鳴る梢の囁きの中で。

 ―――――ありがとう。

 控え目な微笑みと共に告げられた小さな囁きが、吹き込む風に乗って聞こえた気がした。




 かさりと落ち葉を踏む足音にウーイマは顔を上げた。そっと振り返ると、そこには銀色の髪を緩く束ねた男が、湿り気を帯びた冷たい空気の中に立っていた。

「どうしたんだ、こんな朝っぱらから」

 珍しいにも程がある。そんなからかいの意味を込めて、ウーイマは、その深い青さを湛えた瑠璃色の双眸を見た。その色は、代々、その男の家に受け継がれている血筋の色であると聞いた。

 不意にウーイマの脳裏に昨晩の取りとめもない会話の記憶が断片的に浮かんでは消えた。

 ―――――ワタシが知るファーガスさんは立派な髭を生やした初老の御父上です。

 ―――――ファーガスには子供がいるのか。

 ―――――はい。息子さんが三人。ワタシが良く知るのは、その三番目で。お孫さんもいらっしゃいます。

 ワタシがここに徒に介在することで未来を変えてはいけないので、余り多くを語ることが出来ませんが―――そう前置きしてから小さく呼気を震わせた。

 ―――――ですから、このことはワタシとウーイマさんの秘密です。

 ―――――そうか、ファーガスには孫がいるのか。

 ―――――ええ、みんなよく似た顔立ちをしています。

 この男の未来は、随分と賑やかなものであるらしい。思いがけずに知り得た男の秘密をウーイマはそっと己が心の中にしまった。

 この冷酷そうな眼差しをした強面の男が好々爺然りとする未来。

 そうして、足音軽く歩み寄って来た唯一の【人】の(ともがら)を見遣った。

「なんだ、やけに機嫌が良さそうだな?」

 挨拶もそこそこにファーガスは樫の木の根元に手を着いたウーイマを見ると器用に片方の眉を跳ね上げた。

「そうか?」

「ああ」

「昨日は、この世の終わりみたいな情けない(つら)をしていた」

「ハハ、違いない」

「例の迷子はどうした?」

 朝靄の静けさの中、しっとりと漏れた囁くような問い掛けに、ウーイマは何かを思い出すように朝の光に目を細めると小さく笑った。

「帰ったさ」

「帰った?」

 予想通り驚きの色が滲んだ反応に、ウーイマは独り、気を良くした。

「ああ、迎えが来てな」

 とびっきりのお迎えだった。そう言って軽やかに微笑んだ。

「今朝方、帰って行った」

 本当は夜中だったが、そんなことは瑣末なことだった。

「ほう?」

 思いの外、上機嫌な友人の態度にファーガスは、だが、それ以上の追及は止めて、小さく口の端を吊り上げた。

「……で、お前は、朝っぱらからここで何をしてるんだ?」

「ちょっとした挨拶……みたいなものか?」

「挨拶?」

「ああ」

 これからずっと先のとある未来に向かって。

 きっとこの樫の木は、変わらずにこの場にあり続けるのだろう。そして、その場からこの国の行く末を見ているのかも知れない。

 ―――――後で、改めてお礼に行きますから。覚えていてくださいね。

 眠りに落ちる間際、そんな歌うような囁きが聞こえた。

 今から四十年後の世界。ウーイマにはまるで想像が付かなかった。その時、自分がどこにいて何をしているのか。もしかしたら、そこまで生きてはいないかもしれない。

 それでも未来はこうして繋がっているのだ。そこに自分がどう関わるかは分からなかったが、これから先の人生に密かな楽しみが出来たような気がした。

 樫の木の太い幹に手を付いて、ゆっくりと枝葉の中から透かし見える空を垣間見る。二人の男たちはそうやって無言のまま、狭く区切られた果てしなく広い空を眺めていた。


本編の第5章の172話「もう一つの試験」の中で出てきたファーガスとその朋輩の昔話的なお話です。始めは二人だけにしようかと思ったのですが、どうせならファンタジーの醍醐味としてリョウを絡めようかと思ったら、なんだか中途半端なことになりました。個人的には、消化不良な点がありまして、リョウが戻った後の顛末を「おまけ的」に次回に加えようかと考え中です。長々とありがとうございました。

2011/12/7 とある方からご指摘を頂きまして、色々と年齢的に辻褄が合わないことに気が付きまして、過去を40年前(←35年前から)に直しました。作者失格です(トホホ)これでファーガスは晴れて独身です。

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