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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
番外編集
209/232

7)むかしむかしの乳母語り


 ―――むかし、むかし、あるところに。それは、それは綺麗な男の子がおりました。ほんのすこーし吊りあがり気味の瞳は、人によっては目付きが悪いとやっかみ半分、口さがない憎まれ口を利くお人もいたようですが、多くの女たちは、その男の子を見ては、御父上によく似た涼やかな面立ちだ。きっといい男になるだろう。将来が楽しみで仕方がないとその成長を心待ちにしたものでした。

 その男の子は、その御家の御血筋を強く引き継いだのか、余り表情豊かな方ではありませんでしたが、涼やかでつんと澄ましたお顔の下には、それは、それは温かくお優しいお心を持っておりました。そして、子供らしい無邪気さの中にも人一倍負けず嫌いな性格で、とても頑張りやさんでもありました。この家の旦那様が奥方様をお迎えになった時に奥様のお輿入れに一緒に付き従ってきた一人の乳母は、そのことを誰よりも一番理解しておりました。


 ある日、その男の子が乳母の元にやって来てこう尋ねました。

「なぁ、ポーリャ」

 ポーリャというのは乳母の呼び名です。男の子が気紛れに乳母の元を突然訪ねては、(大人たちにとっては)突拍子もない質問をするのは今に始まったことではなかったので、馴染み深い天使のような声を耳にした乳母は、にっこりと微笑みながら振り返りました。

 さてさて今度はどうしたというのでしょうか。

「どうかなさいましたか? ルー坊ちゃま」

 乳母が洗濯ものを干していた手を止めると、男の子は端正なお顔を微かに歪めて、斜交いに地面を睨みつけるように見ていました。

 好奇心旺盛なお年頃の類に漏れず、人生の命題的謎にぶち当たると、時折、男の子は、まるで大人顔負けの気難しそうなお顔をしてお悩みになったのです。そのような所は同じ年頃の子どもたちと比べるとすこーし大人びていらしたのかもしれません。

 難しいことを深く考えている時に視線を逸らすのは、その男の子の癖でもありました。

「ルー坊ちゃま?」

 声を掛けたものの珍しく口を開きかけたまま黙った男の子に、乳母は微笑みを深くすると再び洗濯ものを干すべく下に置いた籠に手を伸ばそうと腰を屈めました。こうなると男の子の中で何らかの区切りが付くまで質問はお預けであろうことをこれまでの経験上知っていたからです。乳母は気長に待つつもりでした。ちょうど干さなければならない洗濯ものがまだまだ籠の中に山ほどありました。

 そうやって手を動かしながら待ちつつ、籠の中の洗濯ものが【ルバーシュカ(シャツ)】一枚となったところで、漸く決心が付いたのか、男の子が声を発しました。

「恋って……なんだ?」

 大きな男物の【ルバーシュカ(シャツ)】を物干し竿に通していた乳母は、その問い掛けにそっと首だけ後ろを振り返ってみました。

 こちらを真っ直ぐに見つめる夜明け前の西の空のように深い青さを秘めた円らな瞳は、真剣そのものでした。頬を縁取るように揺れる細い銀糸のようなすべらかな髪は、日の光を一杯に浴びてきらきらと輝いておりました。

 まだまだ幼いその男の子の口から【恋】という言葉が出てくるとは思わずに、乳母は少し目を瞠りましたが、直ぐにその経緯に合点がいきました。

 男の子の上には二人の兄さまがおりまして、一番上の兄さまとは10も離れておりました。次の兄さまとは5つ離れておいでです。一番上の兄さまは、ちょうど少年から少しずつ脱皮して青年になろうとしているお年頃でございました。

 お近くに家族ぐるみでお付き合いをしている旦那様の御友人のお家がございまして、そこのお嬢様とそれは仲睦まじくしておいでなのです。男の子はきっとそのお二人の御様子を垣間見たのでございましょう。手と手を取り合って庭先を散歩している兄さまたちのお姿をご覧になったのかもしれません。それはそれは青く瑞々しい恋の溢れる微笑ましい光景でございましたから。

「坊ちゃまはどのようにお考えですか?」

 きっと男の子のことですから、ここに来るまでにそれなりに【恋】という言葉を巡る背景を御母上や他の侍女たちにお聞きになっているのかも知れないと思った乳母は、まず男の子がどのようなことを思っているかを聞いてみることにしました。

「誰かを好きになるっていうことだろう?」

 その実に当たり障りのない答えに乳母は微笑みました。

「恋というのは、そうですねぇ。苦しいくらいに相手を愛しいと思うこと……でしょうか。普通は男と女の間にあるとされる気持ちです。勿論、例外もありますけれどね。その人のことがとても好きで好きで仕方がないという気持ちなんです。楽しくて、嬉しくて、それでも狂おしいくらいに苦しくて。とても沢山の気持ちが混じった複雑なものなんですよ」

 乳母の返答に男の子はじっと耳を傾けていました。

「僕がポーリャや母上を好きだっていうのとは違うのか?」

「ええ。それは違いますよ。私がルー坊ちゃまを好きなのとは、少し意味合いが違うのです。御家族や御屋敷に勤めている者や近しい御友人たちに対する【好き】とは別の、もう一つの【好き】という気持ちがございまして。それを人は【恋】と名付けているのですよ」

「好き……なのに苦しくなるのか?」

 上手く理解が出来ないのか眉根を寄せた男の子に乳母は近づくと頬にかかる髪を耳の後ろに撫で付けてやりました。

「坊ちゃま、また眉間に皺が寄ってますよ」

 顔を顰めた男の子の眉間を乳母はそっと指で撫でると柔らかく微笑みました。

 周囲にいる大人たちの世界を良く観察している所為でしょうか、それとも上に年の離れた大きな兄さまたちが二人もいる所為でしょうか、男の子は周りの大人たちが考えている以上に早く大きくなりたいのか、時としてとても背伸びをしているように乳母には見えました。

 そういう時、乳母は焦る必要はないのだと言ってやるのです。

「大丈夫ですよ。いずれ、そうですねぇ。もうすこーし大きくなれば、坊ちゃまもきっとお分かりになる時が来るでしょう。大好きな女の子が現れて、その子のことを一日中考えてしまったり、その子を見ると胸がドキドキしたり、ぎゅうとなったり、その子と一緒にいる時間がとても楽しかったりするんです」

 ―――――そうなったら坊ちゃまのここはとっても大忙しになりますよ?

 そう言って乳母は男の子の左胸の辺り、小さな心臓がトクントクンと穏やかで規則正しい鼓動(リズム)を刻む場所を指さしました。

「ポーリャもしたことがあるのか? 恋」

「ええ、それは勿論、ございますよ」

「母上も父上もか?」

「ええ、そうでございます」

「兄上もそうなのか?」

「ええ。ロシニョール坊ちゃまも、きっとそうでございましょう。溢れんばかりの笑顔を振りまいておられて、とても楽しそうですからね」

「ふーん。でもそれじゃぁやっぱり楽しいことなんじゃないのか?」

 少しもの思いに沈んだ後、男の子は合点が行かぬように首を小さく傾げました。対する乳母は、その様子が可愛らしくて仕方がないとでも言うように目を細めました。

「ふふふ。坊ちゃまにはまだすこーし難しいかもしれませんね。そうですねぇ。楽しくて嬉しくて、まるで背中に羽が生えて鳥になったかのように軽やかに空を飛んで行けそうな気分になるには違いないのですが、それと同じくらい切なくて苦しくて、この身が引き裂かれてしまいそうな、そんな真逆の気持ちも出てくるんです。それが【恋】というものなのですよ」

 噛み砕くように言葉を選んだ積りであっても、幼い子供の世界に恋の景色が現れるようになるまでにはまだまだ時間が掛かるでしょう。理解を出来なくて当然です。ですが、それでよいと乳母は思っておりました。理解をしたか否かよりも男の子がそのようなことを考えたことの方が重要で、その問いを茶化したり態と言葉を濁したりせずにちゃんと真正面から向き合って差し上げることがとても大切なことだと乳母は常々思っていたからです。

「ふーん」

 暫く上空を見上げて、はためく色とりどりの洗濯ものが吹き込む風に翻るさまを眺めながら、男の子は自分の中で何らかの着地点を見つけたようでした。

 ここまで来れば乳母の役目は済んだことでしょう。

 すっかり空になった大きな籠を抱えながら、乳母は立ち上がるとどこか楽しそうに茶目っ気たっぷりに微笑みました。

「坊ちゃまに好きな女の子ができたら、このポーリャに教えてくださいな。その時は女心というものをすこーしだけ、教えて差し上げますから。ね?」

「うん。分かった」

 男の子は真面目な顔をして一つ頷きを返すと、問題が解決してすっきりしたのか、来た時と同じように元気一杯に走り去って行きました。

 あっという間に小さくなるその背中を目で追って、それが厩舎小屋の中に消えたのを見てとると、乳母はそっと微笑みながら母屋に戻るべく洗濯場を後にしたのでした。




「―――それで、ルスランは、その後、相談に来たんですか?」

 それから約二十年近い年月が経ったある日、シビリークス家の一角にある洗い場に二人の女性の姿がありました。一人は恰幅の良いもうすぐ初老の域に入るかと思われる女性で、年齢を感じさせない艶のある頬に迫力ある腰回りを象る白い前掛けを揺らしながら、洗いあがった洗濯ものを若かりし頃と同じように物干し台に掛けようとしておりました。

 そしてもう一人は、随分と小柄なまだ若い女性で、腕まくりをしたシャツにズボン姿というこの国の女たちの一般的な服装基準から見れば少し珍しい格好をして、洗い桶の中の洗濯板と格闘をしていました。

 最初の問い掛けは、この若い女性の方から出たものでした。長くなった黒髪を邪魔にならないように後ろで一つに束ねて、ごしごしと洗い桶の中で手を動かすたびにその髪が馬の尻尾のように揺れています。

 洗濯ものを干す手を止めないままにポリーナは昔を思い出すように小さく含み笑いをしました。

「うふふふ。どうなったと思う?」

 長い眠りから目覚めて暫く、シビリークス家で少しずつ回復を果たしたリョウは、この日、ポリーナの洗濯を手伝いながら昔話を聞いていました。内容は、以前から機会があれば知りたいと思っていた愛しい男の子供の頃のお話です。

 シビリークス家に輿入れをしてきた奥方・アレクサーンドラと一緒にこの屋敷に入ったというポリーナは、今ではもうこの家にはなくてはならない熟練(ベテラン)の侍女で、シビリークスの三人の息子たちの面倒を良くみた乳母としても大いなる地位を得ていました。当然、三男坊であるユルスナールについても母親のお腹にいた時から知っています。

 好きな相手の子供の頃の話というものはとても興味深いもので、男の過去を全く知らない身からすれば、そこには抗いきれぬ魅力がありました。当然のことながら本人のユルスナールは、そのようなことを自分の口からは話そうとはしません。お世辞にも愛嬌のある方ではなかったと言って、昔のことを色々とほじくり返されるのは余りいい気分ではないようです。

 リョウとしては、その気持ちも分からなくもありませんでした。幼い頃の出来事というものは、時として語られるには恥ずかしすぎる人生の汚点的場面にも成り得るからです。こうして周囲の人々の記憶に残る話というものは、大抵、本人にとっては些か不名誉なものであることが多いということも関係しているでしょう。昔の恥を晒されるというのは、大人になった今では随分と居た堪れないものでもあります。ましてや、それを、見栄を張りたい恋人相手に語って聞かせるなどとは自殺行為のようなものに違いありません。妙な所で【格好つけ】で自尊心(プライド)の高いユルスナールは、間違ってもそのような昔話をリョウに聞かせてくれる訳がありませんでした。

 ですが、幸運にもリョウには強い味方がいました。それが乳母であるポリーナです。

 ポリーナはこの国の女たちの類に漏れずおしゃべりな方でした。次から次へと歌うように紡がれる他愛ないお話は、それこそお伽噺のようで聞いているだけでとても面白いのです。きっとポリーナのことですから、リョウがほんのすこし水を向けるだけで、何十倍もの豊富なお話しが湧きだす泉の如くその口からは滾々(こんこん)と飛び出すことでしょう。


 そしてリョウは、この日、ユルスナールが、【アルセナール】へと勤めに出掛けて留守にしている間を見計らって、お手伝いをしながらポリーナの昔語りに聞き耳を立てたのでした。

 それは想像以上に面白く、そして、実に興味深い話の数々でした。

 リョウは、初めて、目の前に少し気難しそうな顔をした小さいルー坊が現れたような気分になっていました。

 シビリークス家の長兄と次兄の所の三人の甥っ子たちと仲良くなって以来、常にユルスナールの子供時代は気になっていました。シビリークスの男たちは、老いも若きも皆一様に似た形質を引き継いでいると聞いています。一番下の天真爛漫なオーシャから元気一杯悪戯盛りのユーラ、そして少し大人びた皮肉屋のようなスラーヴァ。そしてその上にいる彼らの父親であるケリーガル、ロシニョール。そしてその上のファーガス。少しずつ交流をする中で理解を深めていったシビリークス家の男たちの中で、リョウが愛するユルスナールもまた、その血を良く引き継ぐ男のように思えました。

 ポリーナの口から知らされた小さい頃のユルスナールは、好奇心旺盛で学習意欲の旺盛な少しおませな男の子であったようです。そして周囲の人々の心の機微にとても敏感だったのでしょう。そのような特質は既に子供の頃からのものであることが知れました。

 小さなルー坊の初恋。男の子であるならば誰でも通るであろうその道筋を、幼いユルスナールはどのようにして辿って来たのでしょう。

 リョウは嫉妬のような感情は不思議と持ちませんでした。現在のユルスナールを形作っているのは、過去から連続して続く男の人生です。今のユルスナールがあるのは、こうして辿って来た過去の土台があるから。それらの時の積み重ねを含めて今のユルスナールを愛していました。過去の出来事も今のユルスナールに繋がる重要な要素であるからです。

 ポリーナが語るようにユルスナールはとても繊細で優しい心を持っています。そして、その澄ました、冷ややかさえある外見を裏切るように、その中身は驚くほど熱い魂を持った男なのです。

 初恋の炎は、恐らくパッと火が付いたように勢いを付けて灯り、メラメラと燃え立ったことでしょう。


 せっせと手を動かし、洗いと濯ぎを終えたリョウは、水をたっぷりと含んだ大きな【ルバーシュカ(シャツ)】を絞り終えるとそれをポリーナに手渡しました。

 ポリーナはニコニコして、いや、ニヤニヤと言った方がいいかもしれません。今にも笑いだしてしまいそうな顔をして、それを受け取りました。

「そんなにおかしなことなんですか?」

 それとも微笑ましい愛すべき出来事であったのでしょうか。

 いつになく頬を緩めたポリーナにリョウは焦れたように問い掛けていました。

「うふふふふ」

 意味深に小さな笑い声を漏らしながら、ポリーナが歌うように言葉を継ぎました。

「こうして思い返してみれば………かしらね。今だから、笑い話にできるのでしょうけれど。当時は、それはそれは真剣に悩んだものなんですよ」

 要するにユルスナールはその後、初恋を経験し、思春期の年頃らしく大いに悩んだということなのでしょう。当時のユルスナールは恋心をその相手に打ち明けたのでしょうか。それともそれを秘めた想いとして心の中にしまいこんでしまったのでしょうか。

 【若きユルスナールの悩み】―――かの有名な小説をもじった表題(タイトル)が直ぐに頭の中に浮かんで、リョウは思わず可笑しくなってしまいました。

 リョウが初めてユルスナールと出会った時、ユルスナールに特定の恋人がいるような噂は北の砦の兵士たちの間からも耳にしませんでした。ですが、ユルスナールのように地位も家柄も人望もあるような立派な男ならば、その過去に恋人の一人や二人は必ずいたはずです、いや、いなければおかしいとリョウは思っていました。

 今のユルスナールから想像するに、少年の頃も行動力はあったでしょう。物怖じをしない性格も早々変わりがないはずです。

 そして、何よりも、ポリーナの言う通りであれば、ユルスナールは美少年だったということなのです。

 少し険のある、涼やかな眼差しの端正な顔立ちをした美しい少年。少年期特有の成長途中の線の細さと大人になりきれない未発達の危うさ。そのような脆さも含めて、きっと背筋を伸ばしてピンと立つ姿は、切れ味のよい刃物のようで、触れてはいけないのについ手を伸ばしてしまいそうになるような、そんな不思議な魅力を持っていたことでしょう。

「初恋は実らないもの………というのはこちらでも同じなんですね」

 リョウは立ち上がると、どこか過ぎし日々を懐かしむように目を細めて洗い桶の中の水を空けました。 ひょっとしたら恋破れたという若きユルスナール少年の(くだり)に己が昔を思い出して、重ねていたのかもしれません。

 それから長い間屈んでいて強張ってしまった体を伸ばすように大きく伸びをして、天を仰ぎました。

 洗濯をするにはちょうどいい日和です。春がすぐそこまで来ていることを思わせる暖かな日差しに心地よい風が吹いておりました。物干し竿に翻る色とりどりの洗濯ものを眺めながら、リョウは眩しそうに額際を手で覆い、そして目を細めました。

 そのうら若き娘の姿を見て、ポリーナは何かを思い出すように小さく笑いました。

「そうしていると似ているかもしれないわね。【麗しきかの君】に」

 ―――――あの(ひと)もそうやって良く空を眺めていたわ。眩しそうに目を細めて。

 リョウは何と答えたものか、分かりませんでした。女心は複雑でしょう。愛する男がその昔恋破れた(ひと)に雰囲気が似ているかもしれないと言われても素直に喜ぶこともできません。

 ―――――その(ひと)は誰? どんな(ひと)? 今、どこでどうしてる?

 過去に囚われても仕方がないというのは、お互いさまであることをリョウはよく分かっていました。それでも初めて知らされる恋人の昔話に凪いだ心に小さな漣が生まれたのを認めないわけにはいきませんでした。

 リョウは後ろを振り返ると曖昧な笑みを浮かべました。敏いポリーナは、そこにあるリョウの心の揺らぎを見逃したりはしませんでした。

「今晩にでも聞いてみるといいわ、ルーシャ坊ちゃんに」

 そう言ってポリーナは軽やかに微笑みました。リョウが気に悩むようなことではないというように。

 ユルスナールにとっては、それは思い出の中の一コマに過ぎず、ひょっとしたらすっかり忘れているかもしれないと付け足すのも忘れませんでした。

 そしてポリーナは、取って置きの秘密を告げるように、まるで少女のような悪戯っぽい表情をすると歌うような囁きをその厚みのある唇に乗せました。

「【ああ 麗しき君 美しき君 伏せられしそが瞳に映るは 哀しき調べ………我が心もちても 慰めにはならず 君が心は 静寂の平原に沈みしまま 独り 窓辺に佇み 憧憬に背を向ける…………いかでか その心をば 慰めむ】」

 それはどこか切ない響きを持った歌のような調べでした。吟遊詩人【バヤーン】の弾き語りのような。

 ――――いかでか その心をば 慰めむ。

 まるで片恋に苦しむ若き青年の告白のような台詞です。もしかしたら、それは若きユルスナール少年が初恋の相手に贈った熱烈な恋文の内容かもしれないとこの時、リョウはふと思いました。そして、こういう所では限りなく鋭い勘を発してしまう女というものの性を恨めしく思ってみたのでした。




 そのような遣り取りがあった夜、共に休もうとリョウの部屋にやって来たユルスナールに向かって、リョウはポリーナの語った一節をそのまま一言一句違えることなく復唱してみました。

 水差しからグラスに水を注ぎ、それを口元に持って行ったユルスナールは、水を飲もうとした所で、急にむせました。

 リョウは慌てて寝台の中から飛び降りると布巾を手に駆け寄り、咳き込んでいる男の背中を摩り、その振動で水を飛び散らせているグラスをその手から奪いました。

「ルスラン? 大丈夫ですか?」

 どうやら飲もうとした水が気管に入ってしまったようです。突然咳き込んだユルスナールにリョウは慌ててしまいました。

 ユルスナールは酷く動揺したようです。しかし、これは燻っていたリョウの不安を的中させてしまうような出来事でした。リョウの顔色がさっと青ざめました。

「あ……ああ、ンン……ン……もう大丈夫……だ」

 口元を覆いながらどっかりと寝台に腰を下ろしたユルスナールに倣うようにリョウもその隣に腰を下ろすと、その顔をそっと横から覗き込みました。心なしかユルスナールの顔は、目元と頬の辺りが赤くなっている気がしました。

「ごめんなさい。吃驚させてしまいましたね」

 ユルスナールは珍しく目の縁を羞恥に赤く染めたまま、リョウに恨みがましい視線を投げてしまいました。片手で顔を覆ったまま大きく息を吐き出すと指の間からその瑠璃色の双眸を覗かせました。

「リョウ……………今の…………誰から聞いた?」

 思いの外低い問い掛けにリョウは小さく肩を揺らしました。それでも内心の動揺を悟られないように表情を取り繕うと何食わぬ顔をして微笑みました。

「今日の昼間にポリーナさんから」

 すると何とも形容し難い獣のような呻き声がユルスナールから漏れてくるではありませんか。リョウは吹き出しそうになるのを必死でこらえました。やはりそれはユルスナールにとっては隠しておきたい過去であったのかもしれません。

「あんのおしゃべりポーリャめ」

 小さく呪詛のような言葉を吐き出して。それきり黙りこんでしまったユルスナールに、リョウはそっと体を預けるように頭をその二の腕の部分にすり寄せました。そうして男の膝の上にそっと手を滑らせました。

「ルスランって………ロマンチストだったんですね。感傷的(センチメンタル)なロマンチスト。恋文にしては少し切ないですもの。片恋に身を焦がしたルーシェンカは、……想いを伝えることが…できたんですか?」

 ―――――かの麗しき君に。

 それは、少し意地悪な問い掛けかもしれないとリョウは思いました。それでもずっと武芸一辺倒であったと思われた相手が思いの外、文学的な一面を持っていることをこの一件で知ることができたのです。それは新しい発見でもありました。

 リョウの目裏には、思い詰めた顔をして切ない息を吐く銀色の髪をした少年の姿が描かれていました。

 膝の上に乗せたリョウの手の上にユルスナールはそっと自分の手を重ねました。

 そして、ちらりと今愛して止まない(ひと)を横目に見てから、観念したように緩く長い息を吐き出すと、もう片方の腕をリョウの肩に回しました。

「古い話だ。昔の………子供の頃の話」

 ―――――自分でもすっかり忘れていたくらいだ。

 ユルスナールは密やかで苦笑に似た微笑みを震える息に乗せると抱き寄せた腕にほんの 少し力を込めました。薄い夜着越しにぴったりと合わさった肌と肌を通して、相手の緊張が伝わって来るような気がしました。

「俺の過去が……気になるか?」

 その問い掛けにリョウはそっと目を伏せると苦笑を滲ませました。

「気にならない……と言ったら嘘になってしまいますけれど……昔の話なのでしょう? それを含めて、ワタシは今のルスランが好きですよ? だって、そうでないと今のあなたはここにはいないから」

 リョウのその正直な告白にユルスナールは肩の力を抜いたようでした。心なしか緊張をしていたようです。

「そうか。俺も今のお前を愛しているぞ。その過去も含めて丸ごとだ」

 男らしく自信たっぷりにそう告げたユルスナールをリョウはそっと見上げました。二人の表情は穏やかで相手を愛しく思う慈しみの気持ちを憚らずにその瞳に乗せていました。

「ふふふ。じゃぁ、同じですね?」

「ああ。そうだな」

 そうして暫し、二人は見つめ合いました。それからそっと互いの今の気持ちを代弁するように口付けを交わしました。

 するりと論点がずれたことでユルスナールはほっと胸を撫で下ろしたようでしたが、ここで上手くはぐらかされてくれないのが、女という生き物です。

 一頻り互いの想いを確かめあってから、そのまま寝台の中に沈み込もうかという時にリョウはふと思い出してしまったのです。

「ねぇ、ルスラン。その初恋のお相手って………どんな(ひと)?」

 純粋に好奇の光を湛えた円らな黒い瞳にかち合って、ユルスナールは思わず狼狽しました。

「教えてはくれないの?」

 ―――――それとも言いたくない?

 覗きこんだ瑠璃色の双眸が、小さく揺らぎました。

「そんなこと聞いてどうする?」

「純粋な好奇心…かしら? ルスランの元々の好みを知っておきたいもの」

 恋をすると人は時としてとても貪欲になります。些細なことでも、それが好いた相手のことであるならば、知りたいと思ってしまうのです。

 二人は再びじっと見つめ合いましたが、無言の圧力に負けてしまったのは、どうやらユルスナールの方だったようです。

 どこか観念したような息を吐き出すと昔を懐かしむように目を細めました。

「もうここにはいない。既に天に召されているからな。今頃、きっと叔父と二人で仲睦まじくやっていることだろう」

「叔父様……って、ラードゥガさん?」

「ああ」

「じゃぁ、ルスランの初恋の人って………その叔父さまの奥さん?」

「そういうことになるな」

 それはリョウにしてみれば予想外の答えでありました。だって、随分と年が離れているような気がしたのです。

「ルスランって…………年上の(ひと)が好みだったの?」

「それは………違うぞ。偶々…だ」

「ふうん?」

 珍しく動揺に掠れたユルスナールの声にリョウはからかうように男を見上げたのですが、

「もうこの話は終いだ」

 分が悪くなったのか、それとも痺れを切らしたのか。恐らく、その両方であったのかもしれませんが、ユルスナールは都合の悪い話を強制的に終了させると、一時中断となっていた作業を再開するべく、リョウを再び寝台の中に深く沈みこませたのでした。

 あからさまに話を逸らされたことが分かりましたが、リョウもそれ以上は強いて聞き出そうとは思わずに、照れた様子のユルスナールを内心、可愛いと思いながらも男の提案に乗ったのでした。

 こうしてささやかな好奇心から始まった乳母の昔語りは、その後立派に長じたユルスナール本人によって幕を閉じることになりましたとさ。おしまい。


今回は少し趣向を変えまして昔話風にしてみました。ポリーナの語る子供のころのユルスナール。思わぬ所で文学青年のようなセンチメンタル・ロマンチストな一面が現れました。

「ルーシェンカ」というのはもしかしなくとも「ルーシャ」をよりかわいらしくした呼び名です。こういう指小形がロシア語には豊富にあるのです。日本語で言う所の「ルー坊」というのが近いかもしれません。

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