6)ささやかな祝いの宴
「試験合格おめでとう!」
―――――乾杯!
唱和の後に打ち鳴らされた木の盃に付いた縁飾りの甲高く繊細な金属音が騒がしい店内にしめやかに響き渡った。
「おめでとう!」
「これからの良き人生の為に」
「新しい術師誕生を祝して」
「新しい一歩の為に」
「若き新米術師の輝かしい未来を祝して」
―――――試験合格おめでとう。
集まった各人が代わる代わる乾杯の為の音頭を取り、気の置けない仲間たちはその度に小振りの盃を一息に干していった。
「変わらぬ友情の為に」
其々が一巡した所で、集まった六人の中から一人の若者がやたらと勿体ぶるように立ち上がった。そして、再び並々と満たされた杯を手に、この小さな内輪の祝いの席の主役である友人を見遣った。
周囲の仲間たちは突如として始まった茶番のような、しかし、厳粛さえある空気に興味津々にその行方を見守り、その全てを向けられた主役は今にも笑ってしまいそうな口元を半ば必死に堪えながら敢えて神妙そうな顔を取り繕っていた。
「えー、では、最後に。ン…ンン……類稀なる幸運と素晴らしい才能を持って、我々の中から誰よりも早く、この度晴れて術師の認可を受けた友人をここに祝して………ってまどろっこしいことはやっぱ抜きにして。羨ましいぜ。コンチクショウ!…ってことで、やったな! リョウ! ほんと、おめでとさん!」
最初はやけに仰々しい台詞を口にしたと思ったら、最後は実に性格をよく表わしたざっくばらんでおちゃらけた号令にそれを向けられていた主役は、半ば呆れたような顔をしながらも嬉しそうに笑うと掲げた盃を小さく揺らしてから、周りの仲間たちと同じように一息に飲み干したのだった。
ここは、王都の街中にあるとある【スタローヴァヤ】の中の一角で。この日、養成所で共に学んだ仲間たちが集まって一足先に目出度く術師としての認可を受けた友人を祝おうとささやかな宴が開かれていた。一緒に机を並べ同じ目標に向かって勉学に勤しんだ期間は一月に満たないほどであったが、馬が合ったのか、交流を続けるうちに気の置けない間柄になっていた。
ここは街中でも安くて上手いと評判の店で、この国の民衆特有の赤い飾りが散りばめられた飾らない庶民的な店内には肉体労働に従事するような逞しい男たちが多く集まっていた。職人や傭兵のように剣を腰に下げた男たちの姿もある。野太い声が飛び交い、給士の女たちが威勢よく客からの軽口をあしらいながら賑やかで猥雑すらある空気の中をきびきびと忙しそうに動き回っていた。
この場所は、何でもバリースとヤステルのお勧めのお店であるらしい。店内はいつも賑やかで腹を空かせた様々な階層の男たちが集うのだそうだ。勿論、その繁盛振りから窺えるように味も抜群である。どうせなら上手いものを腹一杯食べようということで(実に若い男たちの考えそうなことだ)、少し外野が煩い気がしないでもなかったが、騒いでしまえば一緒だということでこの店に白羽の矢が立ったということらしい。
今回、主役となった友人が、蓋を開けてみれば自分たちと同じ男ではなかったと知って、それではあんまりだろうと友人達の中でも女性擁護論者のきらいがあるニキータとアルセーニィーの二人が、その選択は具合が悪かろうと非難の声を上げたのだが、当の主役である本人に『今更だろう』と笑って快諾されてしまった為、結局はこの場所に落ち着いた。
そしてこの日、昼間の少し早い時間帯に仲間たちは宮殿から真っ直ぐに伸びる大通りの中ほどにある噴水公園で待ち合わせをしたのだ。店はこの大通りから一本脇道に入った所にあるらしく、地元の者ならば名前を聞けば『ああ、あそこか』という有名店な訳だが、王都の地理に不案内な友人(勿論、今回の主役のことである)を案じて、一緒に行こうということになったのだ。
こうして久し振りに友人たちは顔を合わせることになった。この日は、皆、養成所の講義がないということで自由な時間はたっぷりとあるらしい。机に齧りつき、頭を悩ませる勉学の日々の鬱憤を晴らすかの如く騒ごうと並々ならぬ気合の入りようだ。特に若干一名は(バリースのことである)それが顕著に表れていた。
「おお、すげぇ」
「それが登録札かぁ」
一頻り最初の乾杯の盃を重ね、祝いムード満載で盛り上がった後、食欲旺盛の年頃らしく食べる方に走った若者たちは、運ばれて来た大皿の料理を銘々の皿に取り分けながら、早速その料理に舌鼓を打ち始めた。そして、直ぐに行儀悪くも手と口とを同時に動かしながら、今回晴れて術師の登録を済ませた友人が首から下げているその【証】に注目をした。
リョウは、首から下げていたその小さな銀色の札を外すと隣に座るヤステルに手渡した。
「凄く薄いんだねぇ」
―――――僕の父さんが持ってるものは、もっと大きくて厚みがあったよ。ベルトに吊るして腰から下げているくらいだから。
リョウの右隣に座っていたリヒターは、この街でも大きな薬種問屋を営む父親の登録札を思い出しながら感心したように言えば、
「ああ。人によって随分と形状が異なるらしいからな」
学者肌のアルセーニィーが訳知り顔で合槌を打ち、
「確か、その術師の得意とする分野や特徴がでるんだったか」
ニキータがそのような豆知識を披露した。
皆が代わる代わるにその証を手に取り、最後に小さな楕円形の薄い札を手に取ったバリースは感嘆に似た溜息を吐いた。
「かっけぇじゃん。この裏にあるのはリョウの印封だろう?」
「うん。そうだよ」
そうして裏表をひっくり返して、そこにある虹色の煌めきに目を細めた。
「こっちはなんだ? 虹色に光ってる。彫られているのは……ん?………ひょっとして【ヴォルグ】の紋様か?」
バリースの声に隣に座るニキータがその手元を覗き込んだ。
「みたいだな」
そこにはこの国の軍旗に描かれているような勇ましいヴォルグの長の形が虹色の光と共に象られていた。
「うん」
「おお、すげぇ」
さっきから子供染みた感嘆の言葉しか吐かないバリースとは対照的に、知識欲と好奇心旺盛なアルセーニィーが珍しく興奮した様子で鼻の穴をふくらませていた。
「ヴォルグって言えば、王族の守り神的な存在だろう? そんな神聖な獣の印がどうしてリョウの印封の裏に出るんだ?」
「ああ、それはね」
リョウは白身魚のスープである【ウハー】を啜りながら、にこやかに答えようとした所で、すかさず前から茶々が入った。
「ってかさ、リョウ、もしかしてその顔で実はどっかのやんごとなき家の御落胤だったとか言うなよ?」
―――――実は高貴な血が入ってるとかさ。
突然の降って湧いたような話に虚を突かれたリョウの鼻先で、ヤステルが呆れたようにそんな莫迦げた事を言ったバリースを見た
「……なんだよその喩え」
リョウは、その言い回しが余程可笑しかったのか、苦しそうに腹を抱えながら、もう一方の片手で口元を覆っていた。
「ふふふ……そんな訳……あるわけないじゃないか!」
気の置けない仲間たちということでいつもの癖が出て、ついつい口調が男らしい方に変化しそうになる。シビリークス家に居候を始めてから元々の女としての素の部分を取り戻せていたと思ったが、やはり染み付いた習慣は中々に消えないもので、無意識に切り替わる言語感覚は盃を重ねたことでより混乱をきたし始めていたようだ。
この日もリョウはいつもと同じようにシャツに上着、そしてズボンを履いていた。それも理由の一つかもしれない。こうして仲間たちの中に混じれば、同じ若者のように見えていることだろう。
「あ、でもさぁ、同じようなものじゃないかなぁ」
最初に祝杯を重ねたことで滑りの良くなったのはリョウだけではないらしい。普段よりも上機嫌に口を開いたリヒターは、そう言って意味深にリョウの方を見た。
「だって、リョウ。婚約したんだよね?」
―――――聞いたよ?
ふふふと彼らの中では一番男らしさから離れた柔らかい笑みを浮かべるとにこやかに果実酒【ヴィノー】の並々と注がれた盃を傾けた。
「だから、こっちのお祝いもしなくちゃね」
リヒターの言葉は他の仲間たちの意表を突くものであったようで、
「あ?」
「……え…」
「……はい?」
ヤステルとニキータとアルセーニィーが目を点にした所で、
「あ~~~!」
バリースがいきなり椅子から立ち上がったかと思うと鼓膜を震わすような大きな声を上げた。
騒がしい店内でもそれは余りにも大きな音量であったようで、店内が一気に静まり返り、何事かと立ち上がった若者に注目した。
不意に落ちた沈黙に、
「ちょっ、バリース! 声が大きい」
すかさず立ち上がったリョウはバリースを着席させるように肩に手を掛け、慌てて周囲の人たちに騒がしくして済まないと謝った。
「ってかさ、婚約って………………………あ……」
そう言ったきり口を大きく開けたまま言葉を失くしたバリースに代わり、
「勿論、決まってるじゃないか」
訳知り顔のリヒターが鷹揚に間に入り、
「もしかしなくとも……第七の隊長と…か」
ヤステルが大きく息を吐き出して最後を引き継いだ。
そして友人たちは、その真意を確かめるべくリョウの方を見た。
五対の色とりどりの瞳からじっと見つめられて、リョウは妙な迫力にたじろぎながらも、嬉しさもあってか小さくはにかみながら頷いた。その仕草は酒の助けも借りてかやけに艶めかしく友人達には見えてしまい、初めて垣間見る相手の女性としての一面にお年頃である仲間達の何人かはどぎまぎした様子で慌てて視線を逸らしたのだった。
「なんだい、なんだい、随分と盛り上がってるみたいじゃないか?」
そこへ新しい料理の皿を片手にこの店の女店主が現れた。喧しい客は今に始まったことではないが、この日の顔触れは常連客達よりも一回りは若い連中で、女店主もそれなりによく知る若者たちだった。
アツアツの揚げたての【ピラジョーク】の乗った皿を手にした女店主はそれをテーブルの真ん中に置きながら、興味津々にそこに居並ぶ少し変わった顔触れを眺め回した。
「ああ、すみません。騒がしくして」
この中では常連でもあったヤステルが人好きのする笑みを浮かべながら女店主に挨拶をすれば、おかみは丸顔の中に埋もれる小さな灰色の瞳を細めながらにこやかに返していた。
「いや、べつにかまやしないさ。あんたたちみたいなのは可愛いもんだからね」
そう言ってちらりと後方にいるかなり年嵩のアクの強い男たちを見遣った。
「あ? なんか言ったか? マルーシェンカ?」
すかさず入った野太い声に女店主は無言のまま気だるげに片手を振った。
だが、直ぐに視線を前に戻して、バリースの隣に立ったリョウに目を止めた。
「おや、新入りだね。中々可愛い顔してるじゃないかい」
その言葉にバリースがリョウを指して、今日の主役だと女店主に紹介した。
「そうかい、そうかい。術師さまになったんだね。若いのに大したもんだ」
「いえ、ありがとうございます」
リョウとしては照れながらも小さく微笑んだ。
「で、誰が婚約したんだって?」
―――――目出度い話じゃないかい。
このテーブルの話題は奥にいたおかみさん連中にも筒抜けていたようで、急に好奇に瞳を光らせて着席した若者たちを見比べた。さすが女の端くれとしておかみもこういう恋の話には目がないようだ。
言っていいものかどうか、良識あるヤステルはチラチラとリョウの方を見る。それに女店主が気つかない訳がなかった。
「おや、ひょっとして坊やかい? おやおや、まぁまぁまだ若いのに。しっかりしてるじゃないかい」
だが、リョウの顔付きとその色彩から他国の人間(恐らく隣国のキルメク辺りだろう)だと思った女店主は、異国はそんなものかと大して疑問に思うことなく鷹揚に笑った。
「じゃぁ、二倍に目出度い訳だね?」
「ええ、そうなんですよ」
女店主の問い掛けにリヒターがそつなく合槌を打てば、最初の好奇心が納まったのかおかみは『たんとお食べ』とにこやかに微笑みながら大きな体を揺らし厨房の方に戻って行った。
「ええと………で?」
仕切り直しとばかりに席に着いた若者たちは、揚げたての【ピラジョーク】を手に取りながら、脱線した話しの続きを促すように今回の主役を見た。
アツアツの【ピラジョーク】に齧りつき、その中身に好物の【ミャーサ】と【グリビィ】が入っていたことに一人ほくほくとしたリョウは、じっとこちらを見ている友人達のもの問いたげな視線にやはり誤魔化されてはくれなかったかと苦笑いした。
そこで小さく笑うとリヒターを見た。
「リヒターの言う通りだよ」
近隣で評判の上手い料理に舌鼓を打ちながらリョウはそっと周囲にいる友人達を見回した。
「って、いうことはだな」
「う…ん?」
急に声のトーンを落としたヤステルにリョウはいつも通りの呑気な顔をして【ピラジョーク】に齧りついた。
「っていうことはだぞ?」
「うん?」
「つまり……その……だな」
いつになく煮え切らない態度で言葉を切ったヤステルに業を煮やしたのは、バリースだった。
「お貴族さまになるのか!?」
素っ頓狂な声を上げたバリースをすかさずヤステルが頭を引っ叩いて窘めた。
バリースの言葉は良くも悪くも直球である。そこに悪意は含まれていないのでリョウは苦笑を滲ませた。
「ううん。そんなことにはならないと思うよ。単にルスランの妻になるというだけで、ワタシはワタシだろうから」
自分の心の在り方が変わる訳ではない。ただ術師のほかに肩書が一つ増えるだけだ。
そう言って穏やかに微笑んだリョウにヤステルたちは不意に押し黙って、それから真面目な顔をすると小さく笑った。
「……そっか」
「ま、そうだよな」
「リョウらしいね」
「ああ」
「だな」
まるで本人が幸せそうであるのならば外野が色々な詮索や心配をする必要はないというように。仲間たちは静かに顔を見交わせると肩を竦め合った。
温かで穏やかな空気がテーブルを包み始めていた。
「ふうん。じゃぁ、あの【シービリ】の家に嫁ぐのか」
「そういうことになるのかな」
でも恐らくあの家で暮らすのはずっと先のことになるだろう。自分の生活はきっと夫となるユルスナールの傍にあるであろうから。そうなると暫くはまた北の砦やあの森の小屋を行ったり来たりすることになるだろう。いずれにしても王都からは遠く離れた北の辺境であることには違いはない。
取り敢えずの今後の予定をそう語れば、
「そっかぁ」
バリースが大きく体を逸らして両手を頭の後ろにやった。
「じゃぁ、リョウともこうして気軽に話したりすることもできなくなるかぁ」
どこか眩しいものを見るように目を細めて、そんな淋しい感想を漏らした友人をリョウはからりと笑い飛ばした。
「そんなことはないよ。ワタシは庶民だし。ただ結婚をするというだけで。何よりも術師だから。まぁ距離的な問題はあるだろうけどね。繋ぎを取る時は伝令を飛ばしてもらえればいいから」
その飾らない言葉にバリースは喜色を浮かべた。
「じゃぁ、またこうして機会があれば集まるか。そうそう、リョウがこっちにいる間に聞いておこうと思ってたんだよ。術師の最終試験ってどんな感じだった? 是非、後学のために助言が欲しい、いや、ホント切実に」
「ってか、その前に講義の試験を終えることが先だろうが」
身を乗り出して急に調子を良くしたバリースにすかさずヤステルが冷静な突っ込みを入れた。最終試験云々の前に各講義修了の為の試験に通らなければならない。バリースが術師の認可を受けるにはまだまだ超えなくてはいけない関門があるようだ。
「……ぐはぁ」
それを指摘されて【リャグーシュカ】が潰れたような声を上げたバリースに、リョウは小さく微笑んだ。
「まぁ、全部の過程が終わったらね」
「マジ?」
「いつの話になるかな」
嬉々としたバリースの出鼻を挫くようにニキータが辛辣に言い放った。
「ああ、でも、今度、王都に戻って来ているかもしれないぞ?」
その隣でアルセーニィーもからかうようにニヤリと笑った。
要するに今は北の砦に赴任している第七師団長がその任期を終えて、いずれ王都に戻ってくれば、その妻であるリョウも必然的に王都暮らしになるであろうから、その時は助言をもらえるかもしれないということなのだが、そんないつになるか分からない先の先までバリースが養成所で燻っている訳がない。いや、そんな悠長なことは言っていられないだろう。
「いくら俺でもそんなにかかる訳ないだろ! 失礼な」
暗に習得の遅いことをからかいのネタにされてバリースはいくらなんでもそんなことがあるかと不機嫌そうに鼻を鳴らした。それを見た友人たちは一斉に声を立てて笑ったのだった。
「それにしてもリョウが人妻かぁ」
薄く切った黒パンの上に【マースラ】をたっぷり塗って齧りながら、ようやく少年の域から脱しようとしている若き友人はどこか夢を見るような心持でぼやいた。結婚などまだまだ遠い未来の話で、未知の領域に対する都合のよい憧憬のようなものを抱いているのやも知れなかった。
人妻という台詞に可笑しみを覚えながら、
「どうしたんだよ、バリース」
すっかり男っぽい口調のままにリョウが問えば、目が合ったアルセーニィーとニキータは態とらしく咳払いをして相手にするなとばかりに目配せをした。
まだ余り酒に慣れていないのに盃を重ねた所為で、バリースはすっかりいい気分になっているようだった。この国には飲酒に関する厳格な決まりごとはなく、その者が所属する階級や階層によってばらつきはあるようだが、大体養成所にいる友人達位の年頃になれば、少しずつ酒の味を覚えて、大人の仲間入りをすることになるらしい。ヤステルは意外に飲みつけているようだ。そして、リヒターはその仕事柄、薬草を漬けこんだ薬酒系統のものを昔から飲み慣れているようで、そこそこ耐性があるらしい。ニキータは目の端が赤くなっているがいつもと変わらないようだし、アルセーニィーは元々強いのかけろりとしている。まだ昼を回った辺りということでそれ程強い酒を頼んだ訳ではないのだが、リョウは食事をする前の空きっ腹で乾杯の杯を重ねた為、時間が経つに連れてアルコールが体に回り、すっかりほろ酔い気分になっていた。
要するにこのテーブルの中ではバリースとリョウが半ば酔っ払いのようになっていた。
「リョウはもうこっちにしておけ」
果実酒である【ヴィノー】の入っていた木の盃を奪われて、代わりに水の入ったカップを手渡された。リョウは一瞬、名残惜しそうな視線を遠ざかる盃に向けたが、意識を直ぐに新しい飲み物の方に移すとそれを口にしてから満足そうに一息吐いた。
「バリースも」
そう言ってすっかり顔を赤くしている友人の前に同じように水の入ったグラスを置いた。
こうしてヤステルが甲斐甲斐しく二人の世話を焼き始めた。
友人といえども片や人望厚く軍部のみならずこの王都の街中で絶大な人気を誇る軍人の婚約者である。先の武芸大会で優勝を果たした第七師団長のことを知らない者は、この王都にはいないだろう。こんな街中の庶民的な【スタローヴァヤ】の客の間でもその名は轟いていた。そんな途方もない相手の婚約者を預かっている身としては、気が抜けなかった。
それにしても良く今回リョウをこの友人たちとの食事会に快く出してくれたと思う。ヤステルは、第七師団長の心の広さに内心感心していた。幾ら一度紹介をされて顔を合わせているとはいっても、相手は若い男たちだ。そして酒が入る祝宴と分かっていれば、苦い顔をして止めるであろうと思っていたからだ。
リョウから術師の認可を受けたとの報せを聞いて、ではお祝いをしなくちゃなと声を上げたもののまさか当人から二つ返事で承諾が返って来るとは思いも寄らなかった。第七のユルスナールが新しい婚約者を得たという噂は街にもあっという間に広がっていたのだ。そして、とある筋では、男がその相手にぞっ込んであるというような話が聞こえてきていた。皆、あの武芸大会での熱烈な求婚を覚えていたようで、若い娘たちは自分も一生に一度はあのように情熱的な愛の告白を受けてみたいものだと相手の娘を羨ましく思ったのだとか、来年以降はそれに倣って古き慣習が見直されることになりそうだとかそんな話で持ちきりだったのだ。庶民たちの中ではてっきりそのお相手は同じ貴族の娘だろうと思っているようだ。まさか、こんな安っぽい(と言ったら女店主にどやされそうだが)裏通りに面した店で、むさ苦しい男たちに囲まれながら、わいわい騒いでいる中にその相手がいるとは思わないだろう。
リョウが女性であることを知って以来、ヤステルはつくづく養成所で得たこの新しい友人が不思議で仕方がなかった。これまで男であると信じて疑わなかったから同じように接してきたが、よくよく考えてみれば、若い女であれば眉を顰めたり、場合によっては卒倒しそうになるようなことを平気で語り話題にしてきたからだ。それをリョウは動じることなく受け止め、時折苦笑のようなものを滲ませながらも落ち着いた穏やかな表情をして友人たちに接していた。
「しっかしなぁ。やっぱ人は見かけによらないってことだよな」
水の入ったグラスを握り締めながら、バリースはテーブルの上に頬杖を突いていた。その口元には小さな果物を運んでいた。
「ん? 何が?」
「あの第七の団長がさ、押しも押されぬ軍部の猛者がさ、少女趣味だったなんてさ」
その発言にヤステルは思いっ切り飲んでいたものを吹き出した。
「バッ、おま、なんてこというんだ! この莫迦!」
口から零れたものを慌てて拭い、窘めるようにその発言者を見たヤステルに、
「なんだよ。本当のことだろ? 別に悪いって言ってるわけじゃなくてさ、好みの問題なんだから。たださ。意外だなぁってことだよ」
酔った勢いのままに実に滑らかに口が回る。
バリースとしては、ユルスナールのような強面の男は、女性らしく淑やかで綺麗に着飾った貴族の女を求めると思っていた節があったようだ。そういう若者の憧れる女性像から見るとリョウはかなりかけ離れて見えるのだろう。
すっかり出来上がっているバリースは溶けた思考のままに口を滑らせていた。
その横でニキータはそっとリョウの方を見ていた。取り方によっては随分と侮辱的な発言である。きっと気分を害したのではないだろうかと心配したのだが、リョウは目を瞬かせて不思議そうな顔をしていた。
「ん? あれ? ワタシ、言ってなかったかしら?」
こちらも酒が回ってすっかり気分が良くなっているらしくバリースの暴言を気にした風はなかったようで鷹揚に小首を傾げている。
「あ?」
「何が?」
不意に真面目な顔をして聞き返したヤステルとリヒターにリョウは微笑みながら、この日最大の秘密を大暴露した。
「ワタシ、キミたちよりずっと上だよ?」
「へ?」
「何が?」
要領を得ていない二人に尚も言葉を継いだ。
「ん? だから年の話」
「え?」
「因みに幾つか聞いても?」
虚を突かれた顔をしたヤステルの反対側でにこやかに笑みを浮かべたリヒターにリョウは意味深に笑った。
「うふふふ。それは秘密」
直接的な数字は口にする積りはなかった。きっと友人達の中に大きな衝撃をもたらしてしまうだろうから。
「でも少なくとも、ルスランとは大して変りがないはずだから」
―――――だから少女趣味にはならないのだ。
そう言ってにこやかに締め括ったリョウの鼻先で、
「は…い?」
「うぇ?」
「マ…ジ…?」
「…………」
「うっそ」
友人たちは心底驚いたように息を止めた。
「うん。この際だから言っておくけど。キミたちよりはずっと長生きしてるよ」
そして茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。
そんな時、不意にザワリと騒がしい店内に新たなどよめきのようなものが走った。キィと鳴った木戸の音から客が入って来たのだろう。
「いらっしゃい!……って。ああ!」
それを肯定するように威勢よく女店主の声が上がったが、その最後の方は何故か驚きに裏返っていた。
「これはこれは。武芸大会の猛者の御出ましじゃないかい。ようこそ。我が【道草】亭に」
入って来たのは簡素な衣服に黒い外套を緩く羽織った逞しい体つきの男だった。男の身なりは、その辺を歩く傭兵連中を少し小奇麗にしたくらいの実に普通のものであったのだが、男から醸し出される生来の気品や威厳のようなものが、この場に溶け込むことなく突出した違和感を醸し出していた。
女店主が最上級の笑顔で空いた席に勧めようとした所で銀色の髪を緩く撫で付けた男は、険のある眼差しを細めながら小さく笑った。
「いや、済まない。人を迎えに来た」
そう言って男たちが食事をしている店内をゆっくりと見渡した。その深い青色を秘めた瑠璃の眼差しが、店の奥の方にある一点で止まった。客たちの意識もそこで朗らかに食事を楽しんでいる若者たちの集団へもの珍しそうに向けられた。
男は、そのテーブルに座る一人の横顔を見つめると真っ直ぐに店内を歩いた。椅子を大きく外に出していた男たちは慌てて引っ込めてその男が通りやすいように道を開けた。そんな中、男は生粋の軍人らしく腰に長剣を佩きながらも物音を立てずに器用に足を進めた。
どんちゃん騒ぎをしていた六人の中でいち早くその異変に気が付いたのは、リョウの向かい側に座っていたアルセーニィーとニキータだった。
「「……あ」」
二人が同時に小さな声を漏らした所で、その真正面、ヤステルとリヒターに挟まれて座るリョウの上に影が差した。
リョウの肩にそっと大きな手が置かれた。
「リョウ、大分楽しんでいるようだな」
いつもより緩慢な動作で首を捻ったリョウは、そこに近いうちに夫となる愛しい男の姿を認めると花が咲いたように顔を綻ばせた。
「ルスラン」
そこでユルスナールは、リョウが予想以上に酒を過ごしていることに気が付いた。リョウから発せられる空気がいつぞやのようにゆるゆると溶けそうになっていたからだ。
「リョウ、迎えに来たぞ」
まるで恋人たちの閨での睦言のように甘い囁きを耳に吹き込まれて、リョウは擽ったそうに笑った。
「もう?」
「ああ。そろそろ時間だ」
ユルスナールがヤステルとリヒターに目配せをすれば、二人の若者たちは直ぐに体を椅子ごとずらした。
静かに立ち上がったリョウはその場で少し足をふらつかせた。
「あれ?」
それをすかさずユルスナールが抱き止めて支える。
「大分過ごしたようだな。歩けるか?」
「あれ? そんなに飲んだ積りはなかったんですけれど」
緩く息を吐き出しながら、逞しい男の胸元に擦り寄るように額を寄せ、体を預けた。そういう甘えた仕草を【スタローヴァヤ】の店内で行うこと自体酔っ払っていることの表れであるのだが、本人は当然のことながら気が付いていないようだ。
「担いで行くか? それともおぶって行くか?」
からかうように囁いた男に、リョウは少し拗ねたような素振りを見せた。
「もう、ルスランたら。少し風に当たって歩けば、このくらいすぐ醒めますよ」
「そうか?」
「そうなの」
ユルスナールは抗議をするように小さく尖った唇を摘むとひっそりと笑い、リョウの額際にそっと口付けを落とした。そして、ズボンのポケットの中から銀貨を取り出すとテーブルの上に置いた。
目を丸くしている若者たちにそっと男らしい笑みを浮かべた。
「リョウが世話になったな。ありがとう」
ここでの支払いはこれでするようにとこの五人の中でこの場を取り仕切る兄貴分であるヤステルを見た。
「これで足りるか?」
「とんでもない。今日はリョウのお祝いだったんで」
受け取る訳にはいかない。
六人の男たちが好きなだけ飲み食いしてもここではお釣りが来るような大金を前にヤステルは吃驚して首を横に振った。
受け取りを固辞しようとしたのだが、ユルスナールは小さく笑った。
「今まで世話になった礼も含めてだ」
そう言うと眠たそうな顔をしたリョウを腕の中に抱えながら颯爽と踵を返した。戸口際でユルスナールは立ち止まるとそっと腕の中のリョウに何事かを囁いた。
そこで顔を上げたリョウは店内を振り返ると楽しく騒いでいた友人達の席に向かって小さく手を振った。
―――――ありがとう。楽しかった。またね。
そんな他愛ない友人同士の別れの言葉を艶やかな唇に乗せて。
こうして一人の酔っ払いとその保護者は、余りのことに静まり返った食堂の店内をそのままに颯爽と姿を消したのだった。
残された若者たちの中に何とも形容し難い、直視するには眩し過ぎて、体全身がむず痒くなるような幸せの切れ端を振りまきながら。
今回は養成所の友人たちとのささやかな「どんちゃん騒ぎ」の場面をお送りいたしました。まるで計ったかのようなタイミングで現れたユルスナール。快く送り出したものの、心の内では心配で仕方がなかったのかもしれません(笑) 次回も軽めのものを小話にする予定です。その前にInsomnia の方へ脱線するかもしれませんが。その時は活動報告の方でご連絡いたします。




