5)名もなき未来への讃歌
一人の男が、囁きに似た文言を紡ぎながらピンと伸ばした人差し指と中指を揃えて、空中で静かに十字を切った。
空間に僅かに歪みが生じる。
だが、それはほんの一瞬のことで、室内はすぐに何事もなかったかのように元の静寂に満ちたものに戻った。
その男の様子をじっと眺めていた灰色の四足の獣は、術が掛かったことを感じとると憚らずに胡乱な視線を男へと投げ掛けた。
『妙なことを考えたものだな』
だが、男は灰色の艶やかな毛並みを一瞥しただけで、何も言わなかった。いや、微かに上がったその口角を見れば、男の心の内は明らかであろう。
「人生にちょっとした愉しみは必要だろう?」
―――――このくらいはなんてことはない。
茶目っ気たっぷりに片目を瞑った男に灰色の獣はやれやれとばかりに鼻を鳴らした。
『ふん。かような古くさい罠にひっかかる奴があるかの』
あまりにも正直な顔馴染みの感想に男は小さく喉の奥を鳴らした。
「それも含めてだ。面白かろうさ」
もし、将来、男の施した術に反応する者が現れたら。そんなあるかないかの奇跡のような確率を信じてみるのも悪くはない。これより先の人生にそのくらいの余興はあってしかるべきだ。
それは、男が、己が【知】を引き継ぎたいと思える相手を炙り出す為の第一関門のようなものだった。
男は、未だかつて弟子のような存在を持ったことがなかった。天涯孤独を憚らずに公言し、自分の領域に他人が入るのを極端に嫌う性質だ。研究には独りで没頭するダイプだし、自分のペースを崩されることが嫌いだった。
他人からの干渉を嫌う男は、度重なる煩わしさから逃れる為にこの場所を去ることを決めた。だから自分が生きている間はその望みを叶えることは無理な話だろうと思っていた。
男はこれより先、王都を後にして遥か北方の僻地へと向かう積もりだった。人々が【帰らずの森】と呼ぶ太古の木々が眠る深い森の裾野だ。そこで隠遁生活を送るのだ。誰にも邪魔されない日々を送る為に。そこでは小さな庵を建てて、研究の拠点全てを移す積もりだった。そして、念には念を入れてそこに目眩ましの結界を張る積もりだった。この王都と小うるさい貴族連中からの永遠の決別だ。
そんな人嫌いの男でもこれまで集めた蔵書類や研究の成果を自分の旅立ちの後、このまま人知れず朽ちさせるのは少し淋しい気がしてしまったのだ。そこで思いついたのが、多くの知が集まるとされているこの場所に仕掛けを施すことだった。男の死後、どれくらいの時間が経過するかは分からないが、もし、それらを有効活用できそうなくらい高い素養を持つ者が現れたら、その者の為に道しるべを残しておこうと考えた。そして、見事、あの小屋にまで辿りつけたのならば、【おめでとう】という具合に。それは旅立ちの後、残された世界へのちょっとした贈り物のようなものだった。
それから男は養成所内にあった全ての私物を引き払った。すっかり空になった広い部屋はがらんとしていた。かれこれ10年近く、この場所で教鞭をとっていた。自分でもよく続いたと思う。その間に受け持った数多もの生徒たちの中には、これはと思う者もいたのだが、残念ながら知識を継承するだけの高い素養を持った者はいなかった。
だが、男は全く諦めてはいなかった。ここで得た見込みのある教え子にはそれとなく【仲立ち】としての役割を担ってもらおうと考えていたからだ。
そうやって、暫し空洞を見つめていた男の隣に音もなく人が並んだ。どこか老成したような雰囲気を身に纏う、だが、まだ年若い青年だった。
男は同じ高さにある青年の尖った鼻先を一瞥すると視線を真正面に戻した。
「いつ……立つんだ?」
青年が静かに問うた。
「明日にでも」
「………ったく、面倒なことばかり押し付けやがって」
悪態を吐いた青年に男は鼻で笑った。
「偶にはよかろう」
―――――偶にはだと?
その表現が不適切であったのか、そんなことを言った男を青年はギロリと睨み付けた。
「何を言う」
だが、男は気分を害した様子はなかった。
「少なくとも、こうして顔を合わせることはなかろう」
「ハッ、どうだか。たいして違いはなさそうだがな」
「まぁ、適当にあしらっておけ」
「それが面倒なんだが?」
いつものように好戦的な態度を崩さない相手に男は顔だけ振り返ると不意に真面目な色をその瞳に乗せた。
「お前だからだ」
―――――こんなことを頼むのは。
青年の顔が忌々しげに歪んだ。
その言い方は卑怯だと隣に立った青年は思った。
「あの部屋に種を播いた」
「……みたいだな」
男までとはいかないまでもそれなりの素養を持つ青年には男が施した仕掛けというのが感じ取れた。
「後で連動させる積もりだ」
「あばら家とか?」
「ああ。全ての鍵はそこに繋がる」
そう言って一人満足そうな顔をした男を横目に、青年はこれ見よがしに大きく溜息を吐いた。
「やっぱり面倒なことじゃないか!」
その言い草に隣に立つ壮年の男は、静かに口の端を吊り上げた。分かる者だけには分かる控え目な微笑みだった。
男は隣に立った青年が、文句を言いながらも自分の申し出を断らないことを知っていた。同じ術師同士の距離感。何よりもその両者の間に流れる同じ血が、否応なしに二人の男たちを結びつけていたから。
「まぁ、適当にやっておくさ」
青年はぞんざいに言い放った。
その言葉の裏に込められた本当の意味を男はちゃんと理解していた。この青年ならば手を抜くはずはなかった。病的なまでに神経質な性質は男とよく似ている。
だが、青年は厭味を付け加えることを忘れなかった。
「そっちこそ、しくじるなよ?」
「ああ。分かっている」
男はちらりと横に立つ青年の顔を一瞥した。
「落ち着いたら報せを寄越そう。森に住まう鷹にでも使いを頼むとするか」
「ハッ、あんたの顔を見なくて済むんだ。清々するぜ」
「それはこっちの台詞だ」
互いの意見が珍しく一致した所で、男たちは肩を竦め合った。
それから約20年の歳月が流れていた。
その時の青年があの男と同じ年齢に達した時、思いがけない噂話が伝令として飛ばしていた猛禽類たちよりもたらされた。
あの男が子供と暮らしている―――それは、仰天すべき話だった。
あの我儘で自己中心的でいい加減で研究一筋で他人からの干渉を厭うあの男が、他人と暮らしているだと!?
なんの冗談かと真っ先に耳を疑った。だが、元々獣たちは嘘を吐くことはない。真実をありのままに伝えるのだ。その表現方法は些か変わっていたりはするが。
伝令たちは一様にあの男と暮らすという者を『心清き者』だと言った。そこで男は理解した。【人】という括りではなく【獣】という括りなのだろうと。そうでなければあの男が誰かと共同生活を営むなど考えられなかったから。
それから約半年後、男の元にあの男から伝令が飛んで来た。それは約二十年ぶりのことだった。中には小さな封書が一通入っていた。この印封を目にするのも随分と久し振りのことだった。
そこに施されていた印封はご丁寧にも最上級のものだった。随分と気合が入っているものだ。
それを目にした時、男は何やら嫌な予感がした。あの男からこうして態々寄越される報せというのは、過去の数少ない経験を思い返してみても大抵、男にとっては碌なことにはならなかったからだ。
男は、暫しその封書を机の上で睨みつけていたが、やがて決心が付いたのか、手に取ると古代エルドシア語で施された飾り文字の宛名に触れた。開封の呪いに反応して強固なまでに施されていた印封が解けた。
そして気が進まないながらも、ざっと文面に目を通して。
かつて青年だった男は、内容を読み終えると額に手を当てて天を仰いだ。
―――――【ゴースパジ】!
その一語には、かつての青年の様々な想いが閉じ込められていた。驚きと呆れと腹立たしさと苛立ちと哀しさと嬉しさとやるせなさと切なさと。そして、ほんの数滴程の愛しさに似た温かさと。ごちゃ混ぜになった感情の洪水のようなものだった。
だが、一時的な嵐が過ぎ去った後、
―――――あの男らしい。
男がまず思ったのはその事だった。いつも一方的なやり方。意思の疎通は一見、成立しているかのように思えて相互理解という点からするとまるで成立しない。
それは、あの男からの一方的な通告だった。
近いうちに【旅立つ】ことになるということ。その為の準備をしているということ。唯一の心残りは、今共に暮らしている子を後に残してしまうということで。それだけが気がかりで、気乗りをしないがこうして男に手紙を書いているということ。願わくば、その子が自らの足で立つことが出来るようになるまで万事、よろしく頼む。
―――――ヨロシク タノム。
たった一文。だが、そこに含まれるであろう諸々は男にしてみれば途方もないことだった。
「あんの莫迦男。簡単に言いやがって」
腹立たしさを滲ませながら吐き捨てると男はガシガシと髪をかきむしり、手にした封書を壁に叩きつけた。
だが、柔らかく薄い紙で出来たその封書は、投げようとした所で男の手を離れると直ぐにひらりと空を舞った。
男は、じっとその紙がひらひらと風を孕みながら落下する不規則な軌道を目で追っていった。
そして、磨き上げられた床に映るその紙切れを暫し眺めてから。徐に歩み寄ると手を伸ばして取り上げた。
かつての青年は、再びその手紙を手に取るともう片方の手の人さし指で小さく弾いた。男の顔には、苦いものを飲み込んだような複雑な表情が浮かんでいた。
だが、男は再び一人掛けの椅子に腰を下ろすと背凭れに体を沈みこませるように預けた。そうして、暫く経った頃には、男の顔にはすっかり真面目な色合いが上澄みのように乗っかっていた。
男は小さく口笛を吹いた。【人】には聴くことのできない高い音域だ。
やがてバサリという大きな羽ばたきの音と共に開いた窓から一頭の大きな鷹と鷲が入って来た。
「………イーサン…と言ったか」
男はこの度、遥か北方の森から伝令としてやってきた鷹を見た。
「あの男に伝えてくれ。―――万事引き受けたと」
『是』
鷹が小さく答えた。
そこで不意に男は空気を変えるとからかうような好奇に満ちた光りをその赤茶けた瞳に宿した。
「―――で、貴公から見て、かの者は、【後継】に値しそうか?」
『それは分からぬ』
鷹は小さく首を傾げた。
『素養はある。だが、その深さは未だ知らず。全てを明らかにするには【時】が足りぬだろうて』
「そうか」
要するに鷹から見ても可能性は零ではないということなのだ。今はまだそれでいい。いずれにせよ男にとって出来る限りのことをしておけばよいのだ。
男は、暫し瞑目した。
『なれど』
落ちた沈黙に鷹のイーサンが言葉を継いだ。
『【最後の家族】になるだろうと言っていた』
その台詞に男は虚を突かれたように目を瞠り、やがて堪え切れない可笑しさを吐き出すように大声を上げて笑った。
最後の家族―――あの男からそのような台詞を聞くことになろうとは思いもよらなかった。【家族】、【血縁】という繋がりをとうの昔に自らの意志で捨てたあの男が、そんな言葉を吐くとは。なんとも滑稽なことではないか。
この時、かつての青年は、初めてあの男よりもずっと年少であったことに感謝をした。あの男のこんな莫迦げた一面を垣間見ることが出来たのだから。
「―――で、その者の名は?」
その問い掛けに鷹は静かにその名を告げた。
―――――リョーウ。
不思議な響きだと思った。まるで出来そこないの呪いの切れ端のような。
それから男は精力的に情報を集め対応策を練り、積み上げて行った。縦糸と横糸を複雑に絡めながら慎重に対策を講じて行った。まるで村の女たちが機織りをするように。
気が付けば、男はその余りある知性と機転を利かせてあの男からの依頼に応えるべく励んでいた。
そして、それから一年になるかならないかという時に、男は漸くその件の人物と直接対面を果たすことになったのだ。
これまでその者に関する情報は、伝令や方々に散った部下たちから報告を受けてはいたが、『百聞は一見に如かず』というやつで、想像よりもずっと呑気で凡庸に思えるただの【人】だった。
だが、その者は同時にこの国にとっては類稀なる存在でもあった。生きながらにヴォルグの長の情けを受けた者。先祖返りのような素朴な時代の息吹を持つ者。何よりも獣たちに好かれる真っ直ぐな心根を持つ者。
予てより計画していた初めての邂逅を終え、頭上に沢山の疑問符を浮かべながらこの部屋を後にして行ったほっそりとした背中を見送った後、この国の影の諜報部隊【チョールナヤ・テェニィ】の【アタマン】である男は、ゆっくりと机の上に肘を着いた。
扉は開かれた。唯一の鍵によって。
あの男がどこまで先を見越していたかは分からない。だが、あの端迷惑な男【ガルーシャ・マライ】の元よりやって来たあの【女】は、その知を引き継ぐべくこの地で術師となり、そして、二十数年前にあの男が幾ばくかの期待を込めながらも戯れに張った結界を解く契機となったのだ。
奇しくもあの者が、この世界で新しい一歩を踏み出した瞬間にそれは重なった。まるでその者の門出を祝福し、その小さな背中をそっと押してやるように。閉じられ、守られた小さな箱庭の世界からより大きな開かれたこの地へと一歩踏み出すことが出来るように。
それは、あの男が遺した【名もなき未来】への讃歌のように男には思えた。
今回はガルーシャ・マライと影の諜報部隊【黒き影】の長【アタマン】の間の小話をお送りいたしました。
以前とある方より、ガルーシャの結界が解かれることになった理由についてご質問を頂きまして、本編を補う形で裏事情を小話にまとめてみました。説明をするのも野暮かもしれませんが、ガルーシャの結界が解かれたということに、リョウが森の小屋という隠され閉じられた小さな世界から外に出て、改めてスタルゴラドという国に受け入れられるようになる、その新しい一歩ということを重ね合わせました。
このことに関連して本編第202話に登場した【アタマン】との邂逅の一場面をイラストにしてみました。といっても描いたのは【アタマン】だけですが。
もしよろしければご笑覧下さい。
http://3415.mitemin.net/i35143/