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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
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206/232

4)並行の景色

 口の端だけ微かに上げてキミは笑った。僅かに息が漏れるくらいの控えめさで。

 他の者には分かるまい。

 振り返るその背中、すらりと伸びたその首に駆け寄ってしがみつきたいのを態とぶっきら棒に振る舞って見せるのは私なりの照れ隠し。

 気付いていたかい?

 少し得意そうに横に並んで。眺めている景色はきっと違うけれど。キミの髪をそよいだ風は、私の頬に触れる。その涼しげな眦から零れ落ちる泪は、私の掌を濡らす。

 約束するよ。これからもキミの隣で。口にする言葉はないけれど、指先から流れる温もりくらいなら受け取れるだろう?

 ―――――だから。

 一人で先に行こうなんて思わないでくれ。

 私の隣で震えていた小さな手。その小指にそっと触れた。

 今はまだその程度。

 けれど。キミの小指は微かに動いて答えをくれた。

 それで十分だった。

 口の端だけ僅かに上げてキミは笑った。他人(ひと)には分からない控え目さで。

 キミの隣で同じように私も小さく微笑んでいた。


* * * * *


 その日、一人の男が淡い新緑に覆われた緩やかな丘陵に佇んでいた。春の先触れとなる暖かい湿った風が丘陵を舐めるように這い、そして男の元に戯れを掛けてはその硬い茶色の髪を揺らした。

 男は真っ直ぐに遥か平原の向こう、地平線に薄らと見える深い針葉樹林の連なりを見ていた。一年中変わることのない常緑樹。時の変化を感じさせないその青さが男にはとても眩しく映った。

 だが、男は知っていた。この世に不変なものなどないことを。そして、永遠に続くかと思われた幸せほど、手に触れた瞬間、脆くも崩れ去ってしまうことを。

 まるで夢を見ているようだった。繰り返し、繰り返し。終わりのない夢を。夢から覚めたと思ったら、それはまだ夢の中の出来事で。それを幾つも幾つも積み重ねて。入れ子のようになった覚めることのない永遠の狭間に、気が狂いそうな程の孤独と絶望を味わった。

 男の精悍な頬は少しこけていた。髭は辛うじてあたってある。だが、急いていた所為か、所々剃り残しがあった。

 厳しい軍部の懲罰規定に則り営倉入りをしていた男は、この日、漸く解放されたのだ。

 冬はもう終わる。枯れ草の上を覆うように新しい新芽が目にも鮮やかな淡い緑の絨毯を一面に敷き詰めていた。

 男の手には小さな花束があった。小さな草花を寄せ集めたそれは、幼女が戯れに摘み取って遊ぶようなものだった。けっして高価なものではない。だが、それこそが、この場には相応しいことを男は知っていた。

 それはかつて愛した(ひと)が、好きな花だった。野原にある小さな花。気を付けていないとそのまま通り過ごしてしまうような地味なものだ。

 この花を見ると故郷を思い出す。そう言って小さく笑うその控え目な微笑みが好きだった。

 今でも男は理解できなかった。どうして愛する人が逝ってしまったのか。どうして死ななければならなかったのか。どうして突然、その命を奪われなければならなかったのか。どうして自分を置いて行ってしまったのか。

 どうしてどうしてどうして。答えのない問いをこうして何度繰り返したことだろう。

 だが、そのような中でもけっして変わることのない事実が一つだけあった。残酷すぎるほどの現実だ。

 それは―――もう愛する(ひと)はこの世にはいない―――ということだった。

 男はその事実を完全に受け入れた訳ではなかった。信じられないというのが半分。嘘であってほしいというのが半分。理解をしようとしても感情がそれを簡単に裏切る。


 そのような気持ちを抱えながらも、この日、男はこの場所へ足を向けた。神殿の裏手に広がるなだらかな丘には、一面に点々と白い丸い石が等間隔に置かれていた。風雨に晒され色褪せた石が多く見受けられる中で、男が目指したその場所にある石は、まだ真新しいものだった。艶やかで滑らかな石の白さが降り注ぐ柔らかな初春の日差しに照り返されていた。

 その丸い石の傍で男は静かに膝を着いた。刻まれたばかりの墓碑銘をそっと指先で辿る。

 ―――――イーラ・タリコーヴァ。黒の第一の月。32日。享年xx。

 男より長じていたその(ひと)は、初め、男の申し込みを軽く笑って流した。自分のような行き遅れに一体何の冗談かと言って。

 儀礼的な挨拶を交わすだけの関係から、男は必死になってその(ひと)をかき口説いた。自分の本気の度合いと真剣さを分かってもらうために。

 男の視界には、もうその(ひと)以外映っていなかった。恋は時として人を愚かにも無鉄砲にもさせる。そして、若さ溢れる男は己が内に(たぎ)る想いを持て余しそうになりながらも、懸命になっていた。

 そんな一途で真っ直ぐな男の想いに打たれてか、女が漸く首を縦に振ってくれた。そして、男は天にも昇るような気持ちで、この後自分を待っているだろう女との幸せを思い描いては、日々の厳しい訓練や任務に耐えてきたのだ。

 だが、漸く得られたかと思った幸福は、まるで男の必死さを嘲笑うかのようにするりと手の中から零れてしまった。

 人は余りの衝撃を受けると却って頭の芯が冷えることを知った。突き抜けた哀しみは、後からやって来るのだということを初めて知った。


 婚約者が死亡した。その一報を受けた時、男は何の冗談かと思った。そんなことがある訳がないと。その(ひと)は宮殿奥勤めの侍女であったが、誰からも好かれる優しい(ひと)だった。侍女たちの中では中堅で、面倒見が良く、細やかな心遣いが出来ることから多くの侍女仲間に慕われていた。大きな病気をしたこともない至って健康な(ひと)だった。なによりも小さく口の端を上げる控え目な微笑みが好きだった。

 そして変わり果てたその姿に対面した時、亡き骸を前にしても男はまだ信じられなかった。何故ならその(ひと)はまるで眠るように安らかな顔をして横たわっていたから。死後硬直が始まっていたが、紫斑が出てくる前だった。

 男は横たわる女に近づくといつものようにそっと声を掛けた。

「イーラ、起きてくれ。イーラ」

 幾度となく繰り返して来たその名を呼ぶ。既に己が血肉と同じようにこの身体に刻み込まれたその唯一の固有名詞を唇に乗せた。

 眠るイーラの身体はまだほんのりと温かかった。それが余計に男を混乱の極致に押しやった。

「イーラ、イーラ……イーラ? イーラチカ?」

 幾度となく肩を揺さぶっても、その(ひと)が瞳を開き、その薄い緑色の光彩に男の姿を映すことはなかった。

「起きてくれ、頼むから。イーラ? 嘘だろう? なぁイーラ、お願いだから」

 男が我武者羅になってそのほっそりとした肩を揺さぶった。それは見兼ねた同僚の兵士が止めるまで続いた。

「ヴァロージャ!」

「イーラ?」

 真っ直ぐに愛する人を見つめたまま、男は途方に暮れたような顔をした。その顔がだんだんと悲痛に歪み始めた。

 ―――――イーラ!!!

 そして、その(ひと)が割り当てられていたこじんまりとした侍女部屋の一室で、若い男の獣のような慟哭の咆哮が響き渡ったのだった。


 それから男がしたことと言えば、殺害されたという婚約者の恨みを晴らすべくその下手人を突き止め、報復をすることだった。復讐の為に男は辛うじて息をしていた。愛する人の死は後宮での不審死事件として捜査が開始された。その一件を担当した男の上官でもある第二師団長は、男がその侍女の関係者であり、公正な判断ができないという理由から男を捜査の人員(メンバー)から外した。

 男はそれに黙っていなかった。婚約者が殺されたというのにそれを黙って指を銜えて見ていろというのか。そのようなことなど絶対に我慢できなかった。犯人を挙げるのならば必ずこの手で。そして同じ苦しみを味わわせてやるのだ。

 復讐の炎を燃やした男は、独自に捜査を始めた。そして狂気と正気の狭間、紙一重の所で暴走する激情のままに当たりを付けた人物を見つけ出した。そして迸る気持ちのままにそれを相手にぶつけたのだ。

 それから後のことは、広く知られたことである。

 軍律違反で、男は営倉入りを申し渡された。男の先走った行為が第二師団の兵士としてあるまじき理性を欠いたもので、無実の者を徒に巻き込み暴力を振るったということを重くみた上層部が厳しい処分を言い渡したのだ。

 男は混乱した。この抉られるような哀しみをどうしたら良いのか分からなかった。来る日も来る日も薄暗い牢屋に少し毛が生えたような営倉で、男は自問し、苦しんだ。


 そして謹慎が解けて、男が真っ先に思いついたのは、愛しいその(ひと)が眠る場所に花を手向けることだった。

 白い真新しい石盤の上に苦労して見つけて摘んできた草花を置いた。まだ春が来たばかりの頃合いで、愛する人が好きだと言ったその花が咲くのは、時期的にはもう少し先のことだ。大の男が必死になって汗を流しながら草原のただ中にこの草花を捜し歩いたのだ。

 土と草の露に塗れた男の太い武骨な指が刻まれたばかりの墓碑銘をなぞった。

「……………イーラ」


 そんな時だった。かさりと草を踏む男がして、男の傍に人の立つ気配がした。

 男は緩慢な動作でゆっくりと顔を上げた。

 そこにいたのは一人の女だった。地味で簡素な女物の服を着て、編上げの靴を履いていた。

 逆光になってその表情は良く分からない。だが、ちょうど自分が愛したあの人と同じように少し薄めの唇が微かな笑みのようなものを象ったのを男は見逃さなかった。

「イーラチカ?」

 掠れた男の声にあからさまな落胆の色が落ちた。何故なら、そこに立っていたのは、自分が愛した人ではなかったから。

「お花を手向けさせては頂けませんか?」

 落ち着いた低い女の声が、男の鼓膜を震わせた。

 よく見れば、女の手には同じような草花があった。大輪の花を咲かせる訳でもない、小さな、小さな野に咲く花だ。それも霞んだ春の空のように淡い色をした花だった。

 男はその問いに答えなかった。

 だが、訪れた女の方は、それを肯定と捉えたのだろう。女はそっとまだ真新しい石碑の前に跪くと、そっと手にした草花をその石の上に置いた。

 その横顔は、深い哀しみと懊悩のようなものが滲み出るようにして表れていた。

 友人か知り合いだろうか。男はぼんやりとそのようなことを思った。

Саёнара(サヨナラ)……Аригатоу(アリガトウ)……… Гоменнасай(ゴメンナサイ)

 男が耳にしたことのない音の羅列を女が紡いだ。不可思議な呪文のような言葉。そして小さな草花を墓石の上に置いた女のか細い指がそこに刻まれた古代文字による銘をなぞった。

「安らかなる永久の眠りを」

 ―――――【イースクレンナ(心から)ウマリャーユー(願って)

 女がそう口にした瞬間、名前の刻まれた石から小さな明かりが出たと思うとそれは徐々に大きく光り、細かい粒子のように揺らぎ始めた。

 そして、男が呆気に取られている目の前で、ぼんやりとした淡い黄色い光が、男の愛した女の造形を象り始めていた。

「イーラ!?」

 男は虚を突かれたように掠れた声を上げた。柔らかな光の中に揺らぎ、佇むその女は、記憶の中にあるのと寸分違わぬように少し唇を吊り上げて微かな微笑みを浮かべるとそっと男の頬に手を伸ばし、その唇に触れた。そして、名残惜しそうに唇と唇を触れ合せてから消えた。

 その口元に儚い、哀しげな笑みを残して。

「ッ……………イーラ?」

 男はハッと我に返ると墓石の上に屈みこんだ。光の幻影はすうっと石盤に吸い込まれるようにして消えて行ったのだ。まるでその軌跡を追うかのように男は何の変哲もない白い石に齧りついた。

「イーラ!」

「今のは、ここに残っていたイーラさんの残存思念です」

 隣に跪いた女が囁くように言った。

「あなたを愛していたと。………約束が守れなくてごめんなさいと………」

 そう伝えたかったのだろうと女は今にも泣きそうな顔をして微笑んでいた。

「…………お前は……………」

 そこで男は初めて隣にいる女の顔をまじまじと見た。深い闇を閉じ込めたような漆黒の瞳。そして濡れたような夜の色を模した黒い髪。哀しみを閉じ込めた優しい女の顔の中に、かつて男を睨みつけた苛烈な若者の影が重なった。

「まさか…………あの時の……………」

 それ以上は声にならなかった。

 だが、尋ねられた方は、男の問い掛けの意味が分かったのだろう。静かに目を伏せると再び視線を白い石の上に落とした。そこでほんの少し懺悔に似たような笑みを浮かべると静かに目を閉じた。

 先に逝った知り合いの旅路が恙無いことを祈りながら。




 口の端だけ微かに上げてキミは笑った。僅かに呼気が漏れるだけの控え目さで。

 それはきっと男にだけ分かるその(ひと)特有の合図。

 ―――――ねぇ、ヴァロージャ。私よりずっと背の高いあなたは、こうして並んで立っていても、きっと私とは違う景色を見ているのでしょうね。

 ―――――私とあなたの景色は同じようで違う。けっして重なることのない平行な景色なの。それでも…………あなたはいいの?

 躊躇いがちに不安を滲ませながら男を見上げる淡い緑色の瞳。

 男の中で愛する女の声が頭の中にこだました。


 口の端だけ僅かに上げてキミは笑った。

 ―――――ああ。イーラの見えているものを教えてくれよ。そうしたら俺も同じようにキミに話すから。そうしてお互いのものを共有すれば、一つのものが二倍になる。これってちょっと得してないか?

 ―――――まぁ、ヴァロージャったら、欲張りなのね。

 口の端だけ微かに上げてキミは笑った。他人(ひと)には分からない控え目さで。

 そして、あの日、男も同じように微笑んでいた。


 独り残された男は、この日、初めて涙を流した。そして声が枯れるまで泣いた。その傍にはずっと黒い髪を風に靡かせた一人の女の姿があったという。


暴走した兵士ヴラジーミル・ボグダーノフの後日譚をお届けしました。なんだか少ししんみりしてしまいましたね。

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