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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
201/232

ガルーシャ・マライ

 宮殿での王との非公式な会談から暫くして、シビリークス家にいたリョウの元に大鷲のヴィーが伝令としてやって来た。

 以前、術師の最終試験を受けた後に話があった【チョールナヤ(黒き)テェニィ()】の長である【アタマン】からの呼び出しだった。

 【チョールナヤ(黒き)テェニィ()】についてユルスナールに尋ねた所、軍部の影の諜報活動を専門とする特殊な部隊であることが知れた。いつもふらりとどこからともなく現れては消えて行く風来坊のような男、ルークは、その組織に所属する人員(メンバー)ということだった。

 通常【黒き影】所属の男たちは、その名の通り影のように闇に紛れて活動をし、決して表舞台には現れて来ないのだという。一応、同じ騎士団の中にその名を連ねてはいるが、全てが謎に包まれている特殊な部隊で、それを取り仕切る中心人物は代々【アタマン】と呼ばれているということ以外は全くの不明で、その所属人員もそれを管轄する長も明らかにはされていないのだという。それを知るのは、将軍たちの上にいる国防大臣と(ツァーリ)のみという話だ。更に、その二人と(いえど)も、【黒き影】の所属兵士たちの顔触れを把握している訳ではない。その人員を掌握しているのは頭領である【アタマン】のみで、所属の兵士同士も自らその立場を口外することは固く禁じられているので、その組織の規模がどのくらいなのか、どういった者たちが所属しているのかは分からないのだそうだ。徹底された影に生きる男たち―全てが男という訳でもないのかもしれないが―である。

 本来ならば、その職務の性質上、所属兵士はそのことを声高に明かしたりしないものなのだが―それは即、命取りに繋がるからだ―ルークという男は例外的にユルスナールたち第七師団の兵士たちとは交流があるということだった。それは例外中の例外であるらしい。ルーク―意味はネギだ―というのも通り名で本名は決して明かさない。その他にもその風貌から【片目の鷲使い】と呼ばれているのを耳にした。リョウの所にやって来たお馴染みの大鷲はその相棒である。


 呼び出しの報せを初めて受けた時、リョウは首を傾げた。軍部の諜報機関、それもその長が自分に一体何のようなのだろうか。伝令としてやってきたルークの相棒であるヴィーにその事を訊けば、どうやらガルーシャのことが関係あるらしいということだった。リョウが術師の最終試験を受けた際にガルーシャがその昔掛けていたという術式が反応し、その結界が解かれた。その件で話があるのではないかとヴィーは言った。その後、セレブロにも【アタマン】のことを尋ねてみたが、今の【アタマン】とは面識はないということだった。だが、セレブロもヴィーと同じようにその用件はガルーシャの結界に関することだろうと言った。未知の得体のしれない組織ということにリョウは内心恐々としたのだが、セレブロはそのように気を張ることもないと笑った。

 ユルスナールも【黒き影】に関しては、ルークを通してその活動の一端を垣間見る機会があるということだけで、その頭領である【アタマン】については全く情報がないということだった。そこは、みだりに立ち入ることの出来ない領域であるということだ。


 それからリョウは、シビリークス家の執事であるフリッツ・リピンスキーに知り合いの大鷲から伝令が来たので出掛けることを言伝た。ユルスナールは例の如くアルセナールに出勤していた。行先はどちらにと聞かれたので、リョウは肩に乗ったヴィーに尋ねた。

「宮殿の方?」

『ああ。位置的にはそうだな。なにアルセナールから然程離れては居らぬ』

 それを受けてリョウはリピンスキーを見上げた。

「もし、先にルスランが戻って来たらヴィーが来たと伝えてください。それで分かるでしょうから」

 その言葉にリピンスキーは静かに頷いた。

「ではそのように。行ってらっしゃいませ」

「はい。行って参ります」


***


 そうして肩に乗せたヴィーの案内で辿りついた先は、宮殿の区画内の西の外れ、アルセナールの淡い色壁が遠目に望めるような一角だった。周囲は鬱蒼とした木立に囲まれており、このような所に建物があるとは思わなかった。ここに至るまで、衛兵が門番として立つような場所は通らなかった。俗に言う抜け道のようなものであるらしい。

『この中だ』

 何の変哲のもない古ぼけた地味な外観のとある建物の前でリョウは足を止めた。その中に【アタマン】が待っている一室があるということだった。

 そして、ヴィーに促されるままに中に入り、その部屋があるという扉の前で再び止まった。

 リョウは肩にヴィーを乗せたまま、目の前にある重厚な扉を小さくノックした。

 するとすぐさま中からくぐもった感のある了承の声が聞こえた。そして、小さく唾を飲み込んでから、リョウは中に入った。


 まず目に入ったのは、大きな背凭れのある一人掛けの椅子だった。それからそこに降り注ぐ溢れんばかりの燦々とした日の光だった。刻限はちょうど昼を過ぎた辺りで、傾きかけた冬の名残、ソンツェ(太陽)の日差しが室内一杯に入り込んでいた。椅子が斜めにこちら側に背を向ける形で向いていた。

 リョウは思わず逆光に目を細めた。

 その間にゆっくりと背を向けていた椅子が回転し、真正面を向いた。後光が差すように光が滲む椅子の背凭れの中にあったのは、一人の男の姿だった。

 ゆっくりと目を開いたリョウは、その男を見て息を飲んだ。

「………ガ…ルーシャ?……」

 いや、そのような訳がある訳はない。ガルーシャは旅立って【ここ】ではない場所にいる。

 だが、そこに座る男は、自分が良く知っているはずの男によく似た背格好と面立ちをしていた。

 細面の線の細い顔。少し吊り上がり気味の切れ長な目。少し尖った顎。その色彩。

「おや? 私はそんなにあの男に似ているかね? あれに比べれば私の方が断然いい男だと思うのだが」

 その声を聞いた時、リョウは我に返った。口調はよく似ているが、その声が懐かしい人とは違ったからだ。

『何を戯けたことを』

 リョウの肩に乗るヴィーの横槍に椅子に座る男は片方の眉を器用に跳ね上げた。その仕草もガルーシャのものとよく似ていた。

「失礼いたしました」

 間違えたことをリョウは直ぐに詫びた。

 だが、男は別段、気を悪くした訳ではなかったようだ。男は、小さく苦み走ったような笑みを浮かべた。喉の奥を鳴らすように呼気が漏れた。

「はは。君が気にすることではないよ。君の答えはそうだな、半分正解だからね」

「……半分?」

 その言葉にリョウが尚も目を瞬かせれば、男は簡単に種明かしをした。

「ああ。私はあれの血縁なのだよ。何の因果かあれと同じ血が流れているからね。だが、実際、気が付くものは中々いない」

 ―君は中々に勘が鋭いようだね。

 そう言ってどこか愉快そうに小さく笑った。

「…………そう…なんですか」

 ガルーシャの血縁者。そのような存在があったことをリョウは初めて知った。共に暮らしていた時は、ガルーシャはずっと天涯孤独かと思っていた。自分には身寄りはいないと言っていたからだ。

「ガルーシャはそのようなことを一言も言いませんでしたから」

「はは。それはそうだろう。私はあれとは縁を切った仲だ」

 飄々とした口振りから漏れる言葉は、意外に多くのものを含んでいるのだろう。

 だが、きっと自分はそのガルーシャとの縁のお陰でここに呼ばれた訳だから、その縁は向こうにとっても言葉とは裏腹に切っても切れないものに違いない。

『無駄口はそのくらいにせんか』

 中々に進まない話に焦れてかヴィーが口を挟んだ。

 そこでリョウは話の流れを元に戻す為、改めて背筋を伸ばした。

「ワタシに…なにか御用があるとか」

「ああ。他でもない」

 そう言うと男は、リョウの目の前に置かれたソファーを手で差して座るように勧めた。リョウは小さく頷いてそれに従った。

「あれが遺したものについて少々確認をしておこうと思ってね」

 それからガルーシャの血縁者だという男は、先日、ガルーシャが掛けていた呪いが発動し、施されていた結界が解かれたことを語った。

 ガルーシャは元々人嫌いで孤独を愛していたという。宮廷政治特有の人間関係が煩わしくなって、王都スタリーツァから隠居を決め込んだガルーシャがまず初めに行ったことは、余計な詮索から逃れる為に意に染まぬ外部からの接触を断つということだった。その為に遥か北方の僻地、人々が【帰らずの森】と恐れ近寄らない場所に居を構え、隠居場所となる庵の位置が分からないようにと目くらましになるような結界を張ったのだ。類稀なる高い素養を持ち、そして研究熱心だったガルーシャは、その探究心が赴くままに様々な術式の利用と応用を研究していたようだ。その成果は、ガルーシャの書斎を埋める膨大な書物や資料、そして標本の類いに体現されていた。

「君は術師の認可を受けたそうだね」

「はい」

「今後は、あの森の小屋に戻るのかな? それともシビリークスの家に入るのかな?」

 諜報部隊の長らしく、そこには沢山の情報が集まり、把握されているようだ。元より隠すようなこともなかったが、リョウのことは既に調べがついているのだろう。

「一度、森の小屋に戻る積りです」

 今後のことはユルスナールとも相談しなければならないだろうが、ユルスナールはまた赴任地の北の砦に詰めることになるだろう。リョウも森の小屋に戻って、ガルーシャの遺したものの整理をしたいと考えていた。

 昏睡状態にあった時、界と界の狭間でガルーシャに出会ったことを話せば、【アタマン】は興味深そうに体を少しだけ前に傾けた。

「なんということだ。私がこうして日夜職務に励んでいるというのにあれは優雅にお茶を飲んでいるというのか」

 ―なんて世の中は不公平なんだろう。そうは思わないか?

「……どう…でしょうか?」

 リョウはなんと答えたものか分からなかったので曖昧に微笑んだ。そして、話しの流れを戻すように、そこでガルーシャに書斎にある蔵書類は好きにしていいと言われたことを語った。

「そうか」

 【アタマン】は、机の上に肘を突くと片手の上に顎を乗せ、緩く息を吐き出した。

「あれの結界が解かれたことで、君が暮らすあの小屋は丸裸になった。ああ、言っている意味が分かるかな? 目くらましがなくなってよく見通せるようになったのだよ」

 理解の程を確かめるようにこちらを見た男にリョウは小さく頷き返した。

「ガルーシャの安否、若しくはその行方を尋ねてこれからは伝令が自由に飛んでくることになるだろう。もしかしたら押しかける者も出てくるかもしれない」

「ガルーシャの遺したモノを手に入れたいということですか?」

 ガルーシャの小屋がある場所は北方の僻地だ。そこまで人が訪ねてくるというのだろうか。しかもその口振りからすると客人は余りよろしくない種類のようだ。

「ふむ。まぁ、早い話がそういうことだ」

 そこでリョウはその蔵書類を自分一人が持っていても仕方がないので、中にあるものの中から特に必要と思われるものを除いた分は養成所の方に引き取ってもらおうかと思っていると言った。あれは一術師が一人占めしていいものではない。あのまま管理が行き届かずに埃塗れにしてしまうのは勿体なさ過ぎる。貴重な知識は、共有するべきだ。それらを喉から出るほど欲しい人たちもいることだろう。図書館のような場所に保管し、誰でも自由に閲覧することが出来れば有効活用できるのではないかと考えていた。

「勿論、これはワタシの個人的な考えで、そちらから見て不適切ならば助言を頂きたいと思いますが」

「なるほどね」

 【アタマン】はそこで机の上に再び頬杖を突いた。

「基本的には君が思うようにしていいだろう。だが、あれが溜めこんでいたものの中には恐らく人目に触れてはいけないものも含まれているだろうからね。外に出す際には、出来れば私が立ち会いたいものだが……」

 さて、どうしたものかと言葉の割には大して困っていないように首を小さく傾げる。

「あの、セレブロやヴィーでは判別がつかないでしょうか?」

 勿論、今すぐどうこうということも別段急ぐようなことではないので、可能ならば【アタマン】自身が自らその選別をしてもらっても構わない。そう付け加えることも忘れなかったが、セレブロ辺りは、どうなのだろうかとふと疑問に思ったことを口にした。

「ねぇ、ヴィーはどう思う?」

 肩から腕に移動したヴィーに尋ねれば、

『ヴォルグの長ならともかく、我は細かい文字を読むのは御免だぞ』

 目が痛くなるわと嫌そうに口にされて、それもそうかと思った。

 だが、【アタマン】は少し違ったようだ。

「ああ、その手があったか。まぁ、セレブロ殿の了承を得られればだな」

「では聞いてみますね」

「まぁ、別段、急ぐという訳でもないのだがね。ふむ。その辺りは追々でよいか」

「他に何か気がかりな点はありますか?」

 一先ず落ち着いた所で、そのように話を振れば、【アタマン】は頬杖を突いたまま、その場でニヤリと意味深に口の端を吊り上げた。

「第三が君をかき口説いているだろう?」

「ゲーラさんのことですか?」

 リョウは思わず苦笑を滲ませた。

「以前より軍部に登録しないかとは誘われていましたが」

 だが、それは向こうが自分を少年と勘違いしていた時の話だ。色々と状況が変わった今は、ゲオルグの考えも違うような気がしていた。

「そのお話しを受ける積りはありません」

 同じ術師として打診を受けたならば協力は惜しまない積りだが、新米術師の力量と経験値では大した力添えにはならない気がする。それでも気持ち的にその用意があることを伝える積りではあった。

「君は第三とも随分と親しくしているようだね」

「どうでしょうか?」

 ユルスナール繋がりで王都に来てから軍部の知り合いは増えたが、それが親しいと形容すべきものであるかというとどうも違う気がする。精々面識があるという所だろう。

「まぁいい。あの男は術師としてはかなり熱心な部類に入る。そういう意味で君に興味があるようだが、心配するようなこともないだろう」

 ―何よりも君には立派な【番犬】がいるからね。

 最後に付け足されたからかいの言葉に、リョウの脳裏には祝賀会の時に言われたブコバルの言葉が過ったのだが、それを慌てて打ち消して、曖昧に微笑んでおくに留めたのだった。


 そうこうするうちに、

『話しは済んだか?』

 二階の薄く開いた窓から一頭の小型の灰色の獣が体を滑り込ませて来た。お馴染みのティーダである。そして、リョウが座るソファの所まで歩いてくるとその膝の上に飛び乗った。

「君は随分と獣たちに好かれているようだね」

 腕から肩に移動したヴィーと膝に乗ったティーダ。其々中々に目方があるのでリョウとしては軽々という訳にはいかないが、それでも獣たち特有の手触りと温かさは好きだった。

 意外なものを見るような顔をした【アタマン】にリョウは小さく笑みを零した。

 こうして【アタマン】との邂逅は終わりを告げた。思い返してみても雑談の域を出なかったと思う。話した内容はとりとめのないことで、顔合わせのようなものであったのかもしれない。

「ああ。それから」

 去り際、【アタマン】は、リョウを呼び止めて指を一本上に上げた。

「私のことは…」

「内密に、ですね」

 その台詞にガルーシャによく似たその人はうっそりと目を細めたのだった。


「ねぇ、ティーダ。結局、あの人の用件ってなんだったのかな?」

 帰り際、その後、用事があると言ったヴィーに代わって途中まで道案内を買って出てくれたティーダに、リョウはつい今しがたの【アタマン】との不思議な邂逅を思い出していた。

 ガルーシャの血縁だと言った故人によく似た雰囲気を持つ男。若いようで年老いているような年齢不詳な感じだった。何よりも掴みどころのない変わった佇まいだった。それでも畏怖のようなものを感じなかったのは、やはりその姿にガルーシャが重なったからかも知れない。

 話した内容も世間話の域を出ないもので、長直々の呼び出しということで気構えしていた分、何だか拍子抜けしてしまった感もある。それこそセレブロが言った通りであった。

『なに、いつもの気紛れであろう。ガルーシャと暮らしたというそなたを一目見ておきたかったのやも知れぬな』

 ―あやつは何かとあの男と張り合っておったから。

 それは二人の関係性を仄めかす言葉だったが、リョウは深くは聞かなかった。

「ふうん?」

『まぁ、気にすることはあるまい』

「そうだね」

 世の中、知らなくてよいことはままある。過ぎる好奇心は身を滅ぼすことに繋がりかねないのだから。追々、時の流れの中で機が満ちたら明らかになるかもしれない。その時を待つのも悪くないと思った。


***


 それから用事を終えたリョウがシビリークス家に戻ると客人が来ていると執事のリピンスキーが慇懃に告げた。

「お客人ですか?」

「はい。第三師団長のゲオルグ・インノケンティ様です」

 まるで計ったかのような間合い(タイミング)での訪問にリョウは思わず苦笑い。シーリスの言では、ゲオルグは軍部の中でもかなりの情報通であるらしい。どこかで見張っていたのだろうか。まぁ単に偶然が重なったということなのだろうが、そのように言われても思わず信じてしまいそうになるくらいの強かさをゲオルグは持っていた。


「お帰りなさい、リョウ」

「ただいま戻りました」

 そのまま応接室に顔を出せば、男性にしては(あで)やかな笑顔がリョウを出迎えた。

「すみません。遅くなってしまって。出掛けていたものですから」

「いいえ。構いませんよ」

 ソファーの対面に腰を下ろせば、早速ゲオルグが口を開いた。

「【アタマン】の印象はいかがでしたか?」

 切り込むかのような鋭い視線が、リョウを射抜いていた。いきなり正攻法で来たことに内心驚きながらも、リョウは苦笑を漏らすと緩慢な動作で首を横に振った。

「ワタクシの口からは申せません」

 そして、しっかりとゲオルグの淡い灰色の瞳を見つめ返した。

 【アタマン】との接触は他言無用だ。その人物を象るかのような言葉は決して他人に告げてはならない。

 見つめ合うこと暫し、均衡を破ったのは仕掛けてきたゲオルグの方だった。

「冗談ですよ。私もその辺りはちゃんと心得ていますから」

 前のめりの体勢を崩すとゲオルグは背凭れに背中を預けて鷹揚に肩を竦めた。ちょっとした悪戯のようなものであったというような軽い空気だったが、そこには薄らとゲオルグの本音が見えているような気がしないでもなかった。

 そうこうするうちにリョウの帰宅を知ったシビリークス家の番犬、カッパとラムダの二頭が室内に入って来て、リョウの横に陣取るように座るとその頭を膝の上に乗せあった。どうやら二頭はゲオルグが妙なことをしでかさないか見張っている積りであるらしい。

 ゲオルグはそれに対しても持ち前の寛容さを持って穏やかな笑顔で受け入れていた―と思っていたのは、恐らくリョウだけで、二頭とゲオルグの間には一瞬、何がしかの目配せ的遣り取りがあったのだが、それは敢えてこの場では触れなくともいいだろう。


 そのようなちょっとした口慣らしが済んでからリョウは姿勢を改めると真面目な顔をして真っ直ぐにゲオルグの灰色の光彩を見つめ、そして、これまで延び延びになっていた件への最終回答を告げた。

「ゲーラさんには申し訳ありませんが、軍部に籍を置く積りは全くありません」

 そこで補足的に、次のような譲歩的な言葉を告げていた。

 軍部への登録はしないが、術師としての依頼や要請であれば、もし、自分の力になることがあれば、出来る限りの協力はしたいと考えている。

 少しの間の後、ゲオルグは人好きのする笑みを浮かべた。

「……そうですか。残念ですが、仕方ありませんね」

 だが、言葉尻程残念がる様子もない。

「ルスランが許してくれる訳もないでしょうからね」

 幾ら術師と(いえど)も、己の妻となる大事な女性を陰謀と策略の渦巻く政治の場に晒すことを黙って見ているはずがない。軍部は宮廷政治からはある程度距離を置いているが、仕えるべき相手が宮廷の長たる(ツァーリ)である限り、無関係ではいられないだろう。ユルスナールの気性を良く知るゲオルグは、当然、猛烈に反対するだろうと思っていた。

 だが、これでリョウとの繋がりが完全に切れた訳ではない。思いがけず引き出すことが出来た相手からの譲歩案―協力の申し出―にゲオルグは内心、ほくそ笑んでいた。

「今後はあの庵の方に?」

「はい。詳細はルスランと相談をしなければなりませんが、一度、森の小屋に帰ろうと思っています」

 そうして暫くは、以前と変わりない日常を過ごすことになるだろう。また素朴で穏やかな日常が戻って来る。だが、気持ち的には以前とは全く違った新しい日常だ。

「結界が解かれたそうですね」

「はい。詳しくは分かりませんが、術が発動してそのようなことになったと聞いています」

「そこで一つキミに相談なのですが」

 ゲオルグはそこで不意に空気を変えた。

「なんでしょう?」

 小首を傾げたリョウの鼻先でゲオルグが目を細めた。その瞬間、膝の上に乗っていたカッパとラムダの二頭が顔を上げた。室内に緊張のようなものが一瞬、走った。

「私がそちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?」

「森の小屋にですか?」

「ええ。以前からガルーシャ・マライ殿の足跡には個人的に非常に興味がありましてね。あの方がどのような研究をしていたのかを知りたいと言いますか。まぁ、ちょっとした好奇心というやつですよ」

 そう言って片目を瞑ってみせた。

「ゲーラさん御本人がいらっしゃるんですか?」

 そのような暇などあるのだろうか。リョウがまず疑問に思ったのはそこだった。

 第三師団の師団長であるゲオルグは忙しいのではないか。纏まった休暇や時間が取れるのだろうか。

 リョウが暮らす森の小屋は遠い。詳しいことはユルスナールに聞いてみないと分からないが、王都からは軍馬でも七日前後は軽く掛かるだろう。往復と滞在の時間を入れても軽く半月は超える。そのような時間を捻出できるのだろうか。

「スフミ村のその先ですから遠いですよ?」

「ええ。それは重々承知していますよ」

 だが、ゲオルグはリョウの疑問を余所に平然としていた。

 そこでリョウはこれまでに温めてきた自分の考えを【アタマン】に告げたのと同じようにゲオルグにも聞かせた。

 要するに、ガルーシャの書斎を少しずつ整理しようと思っていること。今、自分が手元に残しておきたい分とそうでないものをざっと分けて、必要のないものは取り敢えず養成所の方に預けようかと考えていること。そこの図書館に置くか、空いている講師陣の一室をその書斎代わりに利用させてもらうかをして、多くの術師や術師を目指す人たちに有効活用してもらいたいと思っていた。

 ユルスナールの妻となる以上、いつまでもこの森の小屋で過ごす訳にもいかないだろう。この場には様々な思い出や愛着があるので去るのは忍びなかったが、仕方がない。この先、どう転ぶかは分からないが、少なくともガルーシャが丹精込めて育て上げ、引き継いだ薬草園は定期的に手入れをして面倒をみる積りだった。いざとなったらセレブロの力を借りてヴォルグが抜け道に使う古代樹の【ウロ】の通路を使おうと考えていた。

 書斎の蔵書類は好きにして構わないとの言質をガルーシャよりもらっているので、もし、ゲオルグが必要と思うものがあれば、その蔵書類を持って行っても構わない。

 そう締め括ったリョウにゲオルグは瞬時に顔を輝かせた。

「本当ですか!」

「はい。折角の貴重な資料やガルーシャの情熱と努力の結晶をワタシだけが一人占めする訳には行きませんから」

 それに自分が有効活用できるとも思えない。

 ゲオルグは興奮気味にリョウの手を取ると珍しく早口で捲し立てた。

「リョウ! ありがとう! 是非お邪魔させていただきますよ。ああ、こうなったら近いうちに早速段取りを付けて長期休暇を申請しなくては! いや、それとも調査として申請した方がいいかな。その方が堂々と時間を取れますし、何よりも邪魔が入りませんからね。ああ、それがいい!」

 ゲオルグの突然の変貌にリョウは目を丸くしながらも、予想以上の喜びように嬉しそうに顔を綻ばせたのだった。


 ユルスナールがアルセナールよりシビリークス家に戻ったのは、ちょうどそんな歓喜の一幕が上演されている時だった。

 リョウに第三の客人があるというリピンスキーの報せにユルスナールがその一室に顔を出せば、ちょうど運悪く、ゲオルグが嬉々としてリョウの両手を取っている場面に出くわした。

「何をしている?」

 ユルスナールの空気が一気に剣呑さを増したが、ガルーシャの書斎に立ち入ることが出来るという嬉しさと興奮の中にあったゲオルグには、その鋭い視線は痛くも痒くもなかった。

「ああ。お帰りなさい、ルスラン」

 憚らずに顔を顰めたユルスナールにリョウは少し可笑しそうに微笑んだ。

 そして、ゲオルグが訪ねてきた理由とそれまでの事をざっと簡単に話して聞かせたのだが、

「……なんだと?」

 森の小屋に立ち入る許可をゲオルグに与えたという(くだり)で、ユルスナールはぞっとするように冷たい笑みを浮かべた。

 それを見た時、リョウは、もしかしたらユルスナールに相談した方が良かったのだろうかと冷や汗が流れたのだが、もう約束をしてしまった以上、撤回は出来ない。

「約束はしましたからね。ね、リョウ?」

 態々確認をするように念を押されて、

「え、あ、はい」

 リョウは少々狼狽しながらも頷いた。


 そして、嬉々としてゲオルグがシビリークス邸を後にしたのだが。

 頗るご機嫌で帰って行ったゲオルグとは逆に残されたリョウとユルスナールの間には、微妙な空気が淀んでいた。

 ユルスナールはソファに座り、考え込むように腕を組んだままじっと宙を睨んでいた。

「あの………ルスラン? 勝手なことをしましたよね? ひょっとして怒っていますか?」

 不機嫌さを滲ませたままの男の空気にリョウは恐る恐るユルスナールの傍に近寄った。

 ユルスナールは傍に来た細い身体を掴むと己が膝の上に跨らせるように乗せた。

「………ゲオルグめ」

 低く呪詛に似た囁きを漏らしてから、じっと心配そうに男を見上げてくるリョウに小さく微笑んだ。

 ユルスナールはリョウを抱き締めるとその左肩の部分に顎を乗せた。そこで大きな溜息を漏らした。

「ごめんなさい」

 咄嗟に零れたリョウの言葉に、ユルスナールは無言のまま宥めるようにその背中を撫で、露わになった項の少し上から伸びる愛馬キッシャーの尻尾のような艶やかな髪を指で弄んだ。

「約束をした以上、仕方あるまい。但し、あいつを小屋になんか泊めるなよ? 北の砦に戻ってこさせるか。いや、野宿で十分だ」

 森の小屋から北の砦までも意外に距離がある。軍馬で一日半は優に掛かる程離れているのだ。その距離を毎日通うというのはさすがに無理な話だろう。ただ、ガルーシャの書斎は膨大な書物で埋まっているので、目録を作成するだけも膨大な時間と労力がかかりそうだ。いざとなったら泊りこみで腰を据えて掛からなければならない作業になるだろう。

 純粋に術師としての知識に興味があるゲオルグのことだ。居候をさせてもユルスナールが心配するようなことは起こりっこないのだが。セレブロや森の狼たちもいることだし。そうは思ってみても婚約者である男の心中はかなり複雑であるには違いない。

 だが、一応、リョウは腕の中でユルスナールを見上げると微笑んだ。

「ルスランも泊りに来ますか?」

 忙しいユルスナールのことだ。早々時間は取れないかもしれないが、そう提案することで気休めにはなるだろうか。

 そう思って告げたのだが。

「ああ。そうするか。それはいいな」

 逆にやけに乗り気な答えが返ってきてリョウは慌てたのだが、ユルスナールが急に機嫌を直してしまったものだから、その変わり身の早さに思わず噴き出してしまった。

 それでも、これまでガルーシャ以外の人と言えば、負傷したアッカくらいしか立ち入ることのなかった己が核となる領域(テリトリー)に馴染み深い男がやって来るということに心が沸き立ったのは事実だった。

 賑やかになるかもしれない。そんな少し先の未来を予想してリョウは一人嬉しそうに微笑んだのだった。


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