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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
200/232

裁定と和解

 その日、リョウはユルスナールに付き添われて宮殿の区画内にある役所に向かった。術師として登録を済ませた後、その証となる登録札を貰いに行っていなかったからだ。予定では祝賀会の翌日にでもと考えていたのだが、諸事情により大幅に遅れてしまった。

 役所の窓口には、以前と同じ細面の官吏が受付台(カウンター)の後ろに陣取っていた。

「ああ。お待ちしていましたよ」

 リョウの顔を見ると覚えていたのか、官吏は笑みを浮かべて立ち上がった。そして奥に引っ込むといそいそと例の透明の箱をその手に戻って来た。

「こちらがあなたの登録札です」

 ―どうぞ、御確認ください。

 差し出された箱の中には小さな親指の大きさ程の細長い楕円形をした銀色に輝く薄い札状のものが入っていた。そこにはリョウが印封として利用する【印】が彫り込まれたかのように刻印されていた。その裏側には虹色に輝くセレブロの印封のような紋様が入っていた。

「素敵な形になりましたね」

 表裏を確認したリョウに官吏はにっこりとやけに愛想よく微笑んだ。他者との比較対象を持たないリョウにはこの札の形が一般的なものなのかそうでないのか、はたまた何が素敵なのかは理解できなかったが、初めて手にするこの地での己が身分証明に嬉しさを隠すことはしなかった。

「はい。ありがとうございます」

 満面の笑みで答えていた。

「ちょうどいい具合に小さな通し穴が開いていますのでそれに鎖を通して首から下げてはいかがですか?」

 今後、術師としての証であるこの札は肌身離さず身に着けておくものであるという。そこに厳格な決まりはなかったが、皆、慣例のようにそうしていることが多いということだった。

 その勧めにリョウは一も二もなく頷いていた。そして首から下げていた鎖を取り出すと留め金を外し、そこに真新しい登録札をぶら下げた。

 以前、ユルスナールからもらいお守りのようにずっと大事にしていたキコウ石のペンダントは、気が付いたら跡形もなく消えていた。そして、この首には鎖だけが残っていたのだ。シビリークスの家に戻り、それに気が付いた時は、もの凄く驚いて大きな叫び声を上げてしまったくらいだった。あれはガルーシャの形見でもあり、ユルスナールの気持ちが沢山込められたものでもあった。リョウにとってはとても大切なものであったから、失くしてしまったことが悲しくて、残念で仕方がなかったのだが、セレブロと東の翁の話では、それはあの宮殿の騒ぎの際に砕け散ってしまったのだという。リョウの身に降りかかった災いをその守り石が身代わりのように一部引き受けてくれたのではないかという話だった。


 その話を聞いた後は、それならば仕方がないかと諦めたのだが、それでも残念な顔をしていたリョウにユルスナールが言った。

「あれはただの石だ。形あるものはいつかは壊れる。きっと潮時だったのだろう」

 そして宥めるようにリョウの頬に触れるだけの口づけを落とした。

「今度お前にちゃんとしたものを贈ってやる。首飾りではなくこっちの方にな」

 そう言ってユルスナールはリョウの手を持ち上げるとその右手の薬指の部分にそっと口付けを落とした。

 この国の男は好いた女に己が瞳と同じ色の石が付いた指輪を贈るのだ。それが婚約、ひいては婚姻の証となった。ユルスナールはペンダントではなく指輪をくれると言った。それは自分がこの男の妻になることの証でもあった。

 熱の籠った眼差しにリョウは擽ったそうに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 だが、不意に思い立ったように顔を上げた。

「あ、ならばイオータ先生の所に行かなくては」

「イオータ殿の所に?」

 突然のことで話しの繋がりが見えず、ユルスナールにとっては脈絡のないように思えたのか、怪訝そうな顔をした男の鼻先でリョウは微笑んだ。そして、男にとってはとんでもないことを言い放ったのだ。

「はい。キコウ石の元となる原石をもらってこようかと思いまして。あの研究室の箱の中にごろごろ転がっていましたから」

 それを見繕って自分で鉱石処理を行い同じようなキコウ石を結晶化させようと思ったのだが、それを聞いたユルスナールは、微妙な顔をした。

「リョウ、俺はそんなに甲斐性がないか?」

「はい?」

 リョウとしてはイオータの所で埋もれている石をもらえば元手が掛からないし―一般的に市場に流通しているキコウ石は恐ろしく高価だと聞いていた―何よりも自分が気に入ったものでキコウ石を作れると思ったのだが、それを贈ろうとしていたユルスナールは、いたく自尊心(プライド)を傷つけられてしまったようだ。

「自分で鉱石処理をした石ならば愛着が湧くと思ったのですが……いけませんか?」

 石が出来たらそれをユルスナールに渡すから、それを指輪に加工してもらうのでは駄目だろうか。それを加工してもらうにも専門の術師に頼むことになるのだ。その方が手軽に済むと思ったのだが。

 無意識にか、じっと強請るように見上げた漆黒の瞳を前にユルスナールは暫し、たじろいで、少し逡巡した後、好きなようにすればいいと最終的には折れてくれた。

「じゃぁ、一緒にリール石のものも作ってルスラン用にしましょう」

 リョウが以前、ユルスナールに贈ったものは黒い石の付いたペンダントだったが、かつての故郷の習慣を踏襲するように女だけではなく男の方にも指輪を作ろうと考えた。

 その思いつきをリョウはかなり気に入ったようで、嬉しそうに口元を緩めたリョウにユルスナールは全面降伏するような気持ちで目を細めたのだった。


***


 それから二日後、リョウは再びユルスナールと共に宮殿を訪れることとなった。

 この日、ユルスナールは正装をしていた。その後の第三者による厳正なる調査の結果、祝賀会の時に掛けられていた嫌疑が晴れて、この度、正式に謹慎解除の申し渡しがなされるということだった。

 ユルスナールはリョウにも共に来るようにと言った。あの騒ぎの当事者で、唯一の被害者でもあったリョウが息を吹き返したという報せを受けて、王族から改めて話をしたいという申し出があったのだ。ユルスナールはリョウが受けた精神的苦痛を考慮して、無理に顔を出さなくてもいいと言ったのだが、けじめを付ける為にも共に行くことを承諾した。そして、いつもと同じズボンにシャツ、上着という簡素な服装で赴いたのだ。

 場合によっては国王(ツァーリ)への拝謁があるかもしれないということで、アレクサーンドラはそのような男と同じ格好では申し訳が立たないと言ったのだが、リョウはこれでいいと言った。普段はこのような格好をしていたのだ。今ではこれが板に付き、自分の中では素に近かった。あるがままの自分と向き合う為にもこのままでいいと考えた。それでもかなり気を使って一番綺麗なものを身に着けた。


 ユルスナールと共に訪れたのは宮殿の大広間からは少し離れた一室で、中には調査を担当していた中央審議会の一人であるオスターペンコと第一師団長のフラムツォフ、そして第二師団長のスヴェトラーナの姿があった。

 そして、オスターペンコよりやや格式ばった形式的なもの言いで次のような言葉が下された。

「スタルゴラド騎士団第七師団長、ユルスナール・シビリークス。その方に掛かっていた斥候に通じ他国に我が国の情報を流していたという嫌疑は、この度、全くの事実無根であることが判明した。よって、これより(ツァーリ)より申し付けられていた謹慎を解く。以後も変わらずこの国への忠誠を誓い、その職務に励むよう期待する」

「ハッ、有り難きお言葉。謹んでお受けいたします」

 騎士としての最敬礼を取ったユルスナールにオスターペンコは表情を緩めると静かに付け加えた。

「良かったな、ルスラン」

「ありがとうございます」

 それからオスターペンコは、ユルスナールの後方にひっそりと控えるようにして立っていたもう一人の当事者に視線を投げた。細かい皺に囲まれた誠実そうな薄茶色の瞳が、リョウを捕らえていた。

「それから……リョウ……と言ったか。君に掛かっていた疑いも綺麗に晴れている。我々中央の面倒なごたごたに巻き込んでしまったようで済まなかったね」

 ―何よりも君が無事でよかった。

 最後に付け足されたその言葉は、その男の正直な述懐のようにも思えた。オスターペンコの真摯な態度にリョウは、静かに頭を下げた。

 それからオスターペンコは、不意にその身にまとう空気を柔らかいものへと変えた。その口元に薄らと笑みのようなものを浮かべている。

「術師としての登録が正式に済んだようだね。登録機関より報告が上がっている」

「はい」

 リョウは胸元にぶら下がる真新しい登録札にそっと指で触れた。

「素養を持つ人材は我が国にとっても宝だ。これからの君の活躍に期待している」

「はい。勿体なきお言葉、精進する所存であります」

 淡々と紡がれた、それでも優しさの感じられる祝辞にリョウはすぐ脇に立つユルスナールに倣うかのように静かに敬礼をした。

「ああ。それから、リョウ。この後、少し時間を取れるかな? 陛下が少し君と話がしたいと仰っている」

 思いがけない申し出にリョウは少し驚いて、オスターペンコを見てから隣に立つユルスナールを見上げた。それを受けてユルスナールは、一歩前に出るとオスターペンコを真っ直ぐに見た。

「それは私的なお話しですか?」

「ああ。この一件のことでリョウに確認を取りたいことがあるそうだ」

 そう言うとオスターペンコは少し態とらしい咳払いを一つした。

 ―それから、これはここだけの話だが。

 前置きをしてからオスターペンコは意味深に目配せをすると声を一段と潜めた。

「図らずもヴォルグの長のお怒りを買ってしまったことに、陛下はかなり御心痛の御様子であられてね。君に直々に謝罪をしたいとのお言葉なのだよ」

 この国の最高権力者自らが謝罪の言葉を口にする。それはとても大変なことだとリョウは想像した。常に揺るがずに在ることを求められる国王(ツァーリ)が過去の行いを過ちと認めるのは、政治的にも大きなことであるだろうから。その謝罪相手が、他国の王族でも貴族でもない、自国の一般庶民なのだから尚更だろう。

 だから、ユルスナールはそれが【私的な】ものであるのかを尋ねたのだ。

 リョウとしては、最終的にはこの場に戻って来ることが出来たし、騒ぎの原因となった貴族達の陰謀の件に関しては、オスターペンコを始めとする中央の人々がこの国の規律に則り適正な処分を下すであろうから、自分が態々関わる必要はないだろうと思っていたので、その必要はないかと思っていたのだが、事がセレブロに関わることであれば少し違ってくる。

「少しお話をするくらいならば」

 非公式で内々のものであるならば構わない。そう思い、リョウはその話を受けることにした。

「本当か! それは助かる」

 安堵したように顔を綻ばせたオスターペンコとは対照的に、

「リョウ?」

 ―いいのか? 大丈夫か?

 案じるようにこちらを見下ろしたユルスナールにリョウはそっと微笑んだ。

「はい。避けて通れぬ道ならば、今の内に済ませてしまいたいと思います」

 (ツァーリ)はごく内々に話をしたいということで、リョウだけが忍ぶようにその場へ案内されることになった。案内人には、中にいたスヴェトラーナが名乗りを上げた。

 時間はそれ程取らせないということなので、リョウはユルスナールにその場で待っていてもらうことにした。ユルスナールは共に行きたそうな顔をしていたが、相手が(ツァーリ)である以上、それも敵わなかった。

 こうして一人、先導するスヴェトラーナの後に付いて行った。


「オスターペンコ殿」

「大丈夫だ、ルスラン。君が心配するようなことはない。約束しよう」

 扉の向こうに消えた華奢な背中をその目で追い掛けていたオスターペンコは、ゆっくりと振り返ると小さな笑みを浮かべた。あの少年のような格好をした小柄な女性とユルスナールとの関係は、オスターペンコも承知していた。ユルスナールの心配は分からなくもなかった。

 この度、この騒動の一件を調査する任を受けた中央審議会の一員であるオスターペンコの脳裏には、先日の緊急会議の模様が思い出されていた。あの女性が無事生還してよかった。この国を支える一貴族として、そう思わずにはいられなかった。

 全ての調査を終え、その最終報告の為に中央審議会とその関係者が招集されたのだ。その場所には神殿の神官長も重要参考人として召喚された。王族と並び立つ影響力を持つとされる存在である神官長が審議会に召致されるのは、前代未聞のことだった。


 室内は重苦しい沈黙に満ちていた。騒ぎの当事者となり御前での申し立てを行ったタラカーノフは、あの場で殺害された。事情を良く知ると思われた配下の男は、その日の内に屋敷で毒を呷って死んでいるのが発見された。宮殿内に押し入った私兵たちは、その後、アルセナールで取り調べを受けたが、タラカーノフの手足となり命令に従ったというだけで、その内容を知る者はいなかった。

 結局、タラカーノフの裏にいたと思われる人物については不透明なままだった。口封じ的にタラカーノフが死亡したことで真実は闇に包まれてしまったのだ。辛うじて繋がりが見えたのは神殿の神官たちで、あの場にいた神官たちに詳しい事情を聞こうとした矢先、最悪な事態が起きたという報せを受けたオスターペンコを始めとする宮殿内の貴族たちは震撼した。

 それは、神殿で先読みの儀式が行われたということだった。しかもヴォルグの長の【魂響(タマユラ)】であったあの黒髪の女を寄り代にして。


「とんだことをしてくれたものだな。イシュタールよ」

 一連の報告後、張りつめた緊張感の漂う中で、最初に口を開いたのは国王(ツァーリ)だった。ヴォルグの長の【魂響(タマユラ)】が、宮殿内で斥候との誹りを受け、判じ薬という触れ書きの毒物に崩れ落ちたという事態だけでも、ヴォルグの長直々の乱入に騒然としたのに、今度はその者を儀式の贄に利用とした。王族が代々守護者として崇めてきた存在に対する不敬。そして王族がその繁栄の為に代々守り抜いてきた長との約定に著しく抵触する事態に、この国の行く末がまさに天秤に掛けられたも同じだった。それだけ王族にとっては、ヴォルグの長との繋がりは神聖なものであったのだ。

 結果的に儀式は失敗に終わったという。だが、懸案となった長の【魂響(タマユラ)】の安否は不透明なままで、神殿の東の翁が結界を張った中で昏睡状態にあるとのことが、その傍にいると思われる第七師団長の関係者より漏れ聞こえてきていた。その間もずっと己が朋輩の傍らにいたヴォルグの長が、儀式を行っていた神官たちの中に突入し、更なる怒りを爆発させたということだった。

 その緊急事態を受けて神官長自らが、この場に赴き、儀式を行った神官たちの裁きを宮殿側に委ねることとなった。古くより治外法権的な大きな権力を持ち、神殿における神官たちの行為を直接的には咎め立てすることのできなかった政治的聖域を思えば、これは驚くべき譲歩でもあった。だが、それだけ事態は深刻であるということの裏返しでもあった。

 (ツァーリ)は、厳しい顔付きで審議会の面々が居並ぶ中、一席に着いた神官長を見遣った。元来穏やかな気性の王には珍しい臣下の大臣たちが震えあがりそうになる凍てついた視線に、だが、神官長イシュタールは動じることなく真っ直ぐに伸びた背筋をそのままに敬虔な信者である節度ある態度を崩さなかった。

「全てはリュークスの御心のままに」

 ユプシロン(神殿神官)流の独特な言い回しに王は不快感を露わにした。

「では、貴公の考えでは、この事態も起こるべくして起きたということなのか?」

 ヴォルグの長の怒りを買う事態を防ぐ手立てはなかったということなのか。

「全ての流れには因果があり、大いなるその流れを堰き止めることは出来ませぬ。過ちには必ずや報いあり。神の鉄槌は下されました。我々はそれをあるがままに受け入れるのみ」

「それは随分と受動的で消極的な話ではありませんか? 神殿の長たる者の責務をなんと心得ておられるのですか?」

 監察機関の大臣であるイリューヒンが徐に口を開いた。神殿内部での不穏な動きは前々からあったと聞いていた。それを神官長が知らない訳がない。その事態を認識していながら何の打開策も打たなかったというのは、長としての職務怠慢に思えた。

 厳しい糾弾にもイシュタールは堪えた様子を見せなかった。

「我々は慈愛の女神リュークスへの忠誠を第一義としております。こちらの政治とは異なる規律の中にあります」

 その言を受けて苛立たしげに円卓の端を指で叩いた(ツァーリ)に神官長は静かに言葉を継いだ。

「こたびの儀式は一部の神官の暴走によるもの。神殿の総意とは異なります。異端には既に天からの裁きが下されております」

 それは余りにも厳しいやり方だった。神々はその約定違反には、容赦がない。雷の神ペールンが放った矢に射抜かれ、黒き灰に成り果てたかつての弟子の末期に、イシュタールは神の怒りを真摯に受け止めることで応えようとした。

「あの者たちの裁きはこちらに委ねます。それが神の御心に沿うものであるのならば」

 儀式実行の中心的役割を果たした弟子は死亡した。そしてその他の神官たちも禁忌に触れた勧請の儀式の代償として、その精神を崩壊させていた。今は、アルセナール管轄下の留置場に留め置かれているが、廃人となった者たちのその命が尽きるのも時間の問題だと思われた。そういう意味では、神官たちは既に報いを受けているのだ。宮殿側の裁定は形式的で体面的なものであると言わざるを得ない。が、それを宮殿側の権力誇示の為に利用することについては否と強く出ることはできなかった。

 一件、譲歩を引き出したように思えて、その実、対等である強かな神殿の態度に、(ツァーリ)は苦々しい溜息を吐いた。

 だが、その決断は早かった。

「よかろう。神の怒りは共に同じ。神官たちは今後の見せしめにに極刑に処す」

 大きく揺らいだ天秤の平衡が、再び元の位置に戻ろうとしていた。

「全てはリュークスの御心のままに」

 安定までには、まだ小さな揺り戻しがあるだろうが、それも時と共に一時的な停止に向かうだろう。

 こうして神官長への糾弾とその処分についての裁定は終わりを告げた。


 それからオスターペンコの報告に基づき、今後の方針と対策が話し合われることになった。後宮を騒がせた侍女の不審死もタラカーノフの策略によるものであることが結論付けられた。そして、第七師団長のユルスナール・シビリークスに掛けられた嫌疑、その婚約者に掛けられた斥候の嫌疑も事実無根であることが判明した。

 イジューモフとイリューヒンはタラカーノフに上手い具合に踊らされた形となった。特に監察機関の責任者であるイリューヒンにとっては、その職務の性質上、中立であることが常に求められる。その認識の甘さを露呈させることになった。だが、今回の失態についてはこれまでの仕事ぶりを鑑みて解任までには至らなかった。イリューヒンは、情報の精査と公正さを改めて(ツァーリ)に誓うこととなった。


 そして一同の懸案事項は、自ずとヴォルグの長に関することとなった。

「こたびの責任の一端は私にもあるだろう」

 宮殿内の政争に何の関係も無い人々を巻き込んでしまったのだ。タラカーノフは元々シビリークス家を良く思っていない節があった。恐らくその辺りの含みがあったのだろう。本人が死亡した今、その理由を明らかにすることは出来なくなってしまった。全ては憶測の域を出ない。

「長の怒りは、真摯に受け止める他あるまい」

 臣下の失態は、その上に立つ王の責任である。それをすぐさま認めた点に於いて、この国の(ツァーリ)は、潔く、数多もの民を抱える国の最高権力者に相応しい心を持っていたといえるだろう。

「【魂響(タマユラ)殿の安否は?」

 王の補佐機関である中央審議会の大臣の一人が、静かに問うた。

 それに答えたのは、関係者として末席に着席していたシビリークス家・家長ファーガスだった。

「いまだ深い眠りに就いているそうです」

「では……最悪の事態は……」

「現時点では、そのような報告は受けておりません」

 そしてファーガスは、昏睡状態の長の【魂響】の傍にはヴォルグの長セレブロと東の翁と共に己が愚息が付き添い、その様子を見守っていると語った。あちらで出来る限りの手は尽くしたそうで、今は、皆が祈るような気持ちでその目覚めを待っているとのことだった。

「………そうか」

 王は深い息を吐き出しながら静かに目を伏せた。その面持ちは相変わらず沈痛なままだが、そこには神の慈悲に縋るような祈りの気持ちが込められていた。まるで一筋の薄い光明を頼って闇の迷路から抜け出そうとでもいうように。それはこの場に集う他の臣下たちも同じことだろう。

「我々としても今は、その回復を祈るほかあるまい」

 そう口にすると王は改めてファーガスを見た。

「出来る限りのことはしよう。必要なものがあれば、なんなりと申し出よ。その者の早い回復を願っている」

「勿体なきお言葉」

 真摯な(ツァーリ)の言葉にファーガスは恭しく(こうべ)を垂れた。


 最終的にユルスナールの謹慎を解く旨が議決された。アルセナールに留め置かれているタラカーノフ配下の私兵たちは然るべき処分を下すことで一致。タラカーノフ家は、主死亡によりその家督を一時、宮殿預かりに、残されたその妻と三人の息子たちの処遇については、この一件との関係性を精査した後、正式に処分を言い渡すと決められた。

 そして、ヴォルグの長との関係修復に関しては、もう少し【魂響(タマユラ)】の目覚めを待ってから改めて方策を探ることに決まった。

 こうして緊急会議は散会となった。

 その去り際、ファーガスが中央審議会に名を連ねている一人の男を呼び止めた。ファーガスの前にはその指に特徴的な赤い指輪を嵌めた一人の初老の男が立った。

 その男、アファナーシエフは、会議中、一言も口を開かなかった。顧問としての立場から静観を貫いていたのかと思われたのだが、それを横目に見たオスターペンコは、両者の間に走る緊張感にそっと二人の会話に聞き耳を立てた。

 二人は無言のまま見つめ合った。ファーガスの視線は鋭くアファナーシエフの瞳を射抜いていた。

「この借りは必ず返す」

 剣呑な調子で低く囁いたファーガスにアファナーシエフは余裕たっぷりに鼻で笑った。

 そして、二人は再び何事も無かったかのようにこの会議が開かれた一室を後にした。


***


 その頃、スヴェトラーナに先導される形で宮殿内の廊下を歩いていたリョウは、不意に足を止めた第二師団長に並んだ。

「身体の方は大丈夫なのか?」

 ―その様子ならば尋ねるまでもないが。

 そう言ったスヴェトラーナにリョウは少し驚きながらも小さく微笑んだ。

「はい。もうすっかり」

 まさかスヴェトラーナからこのように案じるような言葉を掛けられるとは思ってもみなかった。

「お前が無事でよかった」

 リョウの頬に指先で触れると珍しく優しい笑みを浮かべた。その女性らしい温かさえある仕草にリョウは笑みを深めた。

「ご心配をお掛けいたしました」

 だが、直ぐにスヴェトラーナは空気をいつものやや硬質なものに改めると再び何事も無かったかのように歩き出した。

「ふん、ルスランがあのまま腑抜けになったのならば、容赦なく蹴り上げていた所だ」

 そのようないかにも軍人らしいことを淡々と吐き出しながら口の端を吊り上げたやや険のある美貌にリョウは内心目を丸くしながらも、その長い脚から繰り出されるであろう渾身の一撃を想像して、かなり痛そうだなどとしょうもないことを考えて可笑しくなった。

 だが、スヴェトラーナなりに今回の事に心を痛めていたことが感じ取れたのは確かだった。その表現方法はやや遠回りで分かり難かったが。


 そして案内された場所は、こじんまりとした静かな一室だった。内装も色使いも控えめで落ち着いた感じの部屋だ。

 室内には昼下がりの濃い影が濃淡を作り出していた。明かりは点けられていない。だが、差し込む光は十分だった。

 南側に面したテラスの向こうに一人の男が腰を下ろしていた。

「お連れ致しました」

『おお来おったか』

 第二師団長スヴェトラーナの慇懃な声に反応したのは、小柄な灰色の獣のティーダだった。

『リョウ、加減はどうだ? 悪い所はないか?』

 戸口脇に立ったリョウは、軽やかに走り寄って来たティーダのしなやかな身体をその腕に抱き上げた。

「ティーダ、ありがとう。もうすっかり大丈夫だよ」

 そこで中にいた男がゆっくりと振り向いた。

 そこにあったのは、あの祝賀会の夜に遠目に垣間見たこの国の最高権力者、ツァーリその人だった。

 リョウは咄嗟に腰を低くして頭を下げた。兵士たちがやるような敬礼になったのは身に付いた習慣と反射によるものだった。

「そう畏まらなくともよい」

 ―面を上げよ。

 その声にそっと伏せていた顔を上げた。

「こちらへ」

 そうして促されるままに王が座る椅子の向こう、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。

「今日はこの国の王ではなく、クチマ・ツァリョーフ、一人のこの国の民としてここにある」

 つまり公な人ではなく、私的なごく個人的な話をする積りだということがその発言から読み取れた。

 その宣言にリョウは真っ直ぐに(ツァーリ)を見つめ返すとしっかりと了承の意味合いを込めて頷き返していた。

 だが、そのような真剣な空気をぶち壊すようにリョウの膝の上にいたティーダが軽やかに尻尾を振った。

『勿体ぶりおって』

 さすが長い年月王宮に暮らすと言われているティーダだ。人とは違う理の中で生きる【獣】にとっては、この国の頂点に立つ(ツァーリ)といえども【人】であることに変わりはないので容赦がない。

 両者の関係がよく見えなかったリョウは、なんと答えたものか分からなかったので、宥めるようにその艶やかな灰色の毛並みを撫でた。

 (ツァーリ)、クチマ・ツァリョーフは獣の言葉を解するようだ。その資質は王族の中に脈々と受け継がれているのだろう。

 (ツァーリ)は、ティーダに恨めし気な視線を投げた。だが、直ぐに気を取り直したようにリョウの方を見た。

 案内をしたスヴェトラーナは戸口際に歩哨のように姿勢よく立ち、中にいた侍女がテーブルの上にお茶の入った茶器を静かに並べていった。穏やかで慎ましさすら感じる空気がそこにはあった。

「具合はもういいのか?」

「はい。すっかり」

 少しの間の後、王はゆっくりと口を開いた。

「君が無事でよかった」

 目覚めて以来、会う人皆にそう声を掛けられた。その意味合いはその発言者の立ち位置によって随分と趣が異なるだろう。純粋にリョウの身を案じた人々もいれば、その裏にある利害関係に胸を撫で下ろした人々もいた。国王の場合は、きっと後者であろう。王は何よりもセレブロの怒りを買ってしまったことを心配していたようだったから。

 目覚めた後、王族とヴォルグの長との関わりをユルスナールやケリーガル、ファーガスから聞いたのだ。

 ツァーリとはそれまで面識もなかったので別段気にはならなかった。何よりもそれが正直な本音であるだろう。

「君には済まないことをした」

 勧められたお茶に口を付けながらリョウは緩く首を横に振った。

「もう済んだことです。それに関係者には然るべき処分が下されたと聞きました」

 ならば自分が関わることはもうない。政治に首を突っ込む気はなかった。

「我々を恨んではいないのか?」

「いいえ。ワタシはこうして目覚めることが出来たことだけで十分ですから」

 蓋を開けてみれば、神殿側の企てに巻き込まれていたということが知れたが、それが切っ掛けで魂の欠片を貰うことが出来たのだ。あのままではただ消える時が来るのをじっと手を拱いているしかなかったであろうから。禍転じて福となる。そう思うことにしていた。思わぬお目零しをもらった気分だった。

「そうか」

 穏やかに微笑んだリョウに(ツァーリ)は、その瞳を柔らかく細めた。

 そこで、それまで大人しくじっとしていたティーダが徐に顔を上げて、意地の悪そうな顔をして(ツァーリ)を見た。

『クチマよ。前置きはその辺で良かろう。早く本題に入らぬか。このままでは退屈で眠りそうだわい』

「ティティー、今日はやけに突っかかるな」

 (ツァーリ)は途端に苦い顔をして手にしていた茶器に口を付けた。

 どうやらティーダによれば、これまでの遣り取りは全て口慣らしのようなものであったらしい。

「ワタクシにお話しがあるとお聞き致しました」

 リョウはなんと切り出したものかと逡巡していたらしい(ツァーリ)に助け船を出していた。思い当たる節は一つしかなかったからだ。

「セレブロのことでしょうか?」

 (ツァーリ)は、ほんの少しだけ気まずそうな顔をしたが、それを曖昧な笑み一つで濁してから不意に真面目な顔をした。

「ヴォルグの長に取り次ぎを頼めないだろうか?」

「直接、お会いになりたいということですか?」

 リョウの問い掛けに王は静かに諾と答えた。

「ならば今、この場にお呼びしましょうか?」

「そんなことが出来るのか?」

 驚きに目を見開いた(ツァーリ)にリョウはそっと微笑むと左胸の上にある印封の上に手を当てて、そっとヴォルグの長の名前を囁くように呼んだ。

「……セレブロ」

 すると次の瞬間、開け放たれたテラスの向こうから午後の日差しを一杯に浴びて白く光輝く大きな獣の姿が現れた。

『やれやれ、待ちくたびれたわ』

 どうやらセレブロの方では呼ばれるのを今か今かと待ち構えていたようだ。

「長!」

 座っていた椅子から立ち上がり、前方に走り出てその場で恭しく片膝を着いた(ツァーリ)にセレブロは鼻を鳴らした。

『その分ではティーダにこってりと絞られたようだな』

 小さく肩を揺らした(ツァーリ)の向こうで、のんびりとリョウの膝の上に寝そべったティーダの尻尾がふらりふらりと揺れていた。

 リョウはその様子を見て、内心、妙なことになったと思いながらも静かにしていた。

『ならば我の出る幕はなかろう。以後は心せよ』

 リョウが無事であればそれでいい。単純明快なセレブロ流の理論を(ツァーリ)は寛大なる御心と思い感激したのだが、

『なれど、次はない』

 しっかりと釘を刺した一言に、

「御意」

 (ツァーリ)は再び胆に銘じるように神妙な顔をしたのだった。


 こうして一時はどうなることかと思われた王の懸案事項は一応、解決の糸口を見い出せたようだ。一度失墜した信頼関係は、再び弛まない努力によって少しずつ回復をさせて行く他ないだろう。

 リョウは、(ツァーリ)との個人的な面会を終えるとスヴェトラーナに案内されてユルスナールが待つという部屋に戻った。勿論、セレブロがその傍についていたのは言うまでもない。そして、その後ろからは子分よろしくティーダが軽やかについてきたということだ。


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