出会いと別れ
不意に浮上した意識にゆっくりと瞼を開くと真っ白な空間にいた。ゆっくりと体を起して周囲を見渡してみる。どこもかしこも見渡す限り白一色だった。果てしない白がそこにはあった。手に触れる感触も足が触れる感触も臀部に当たる感触も何もない。冷たさも温かさも感じられない不思議な感覚。まるで夢を見ている時のようだ。
ああ。これは夢なのかもしれない。夢を見ている時にこれは夢だと認識することはままあることであるから。
そのようなことをぼんやりと思いながらリョウは自分の体を見下ろした。いつものようにシャツとズボンという簡素な姿だ。だが、くすんでいるはずのシャツも着古してくたくたになっているはずのズボンも、そして傷だらけの長靴までもが何故か輝くほどに真っ白で、このような新しい服や靴を持っていただろうかと不思議に首を傾げた。
やはり夢を見ているのかもしれない。そのようなことを考えて、不意に思い出した。自分がお伽噺に描かれているような煌びやかで華やかな宮殿にいて、綺麗なドレスに身を包み、夜会に参加していたということを。そこで毒草の入ったグラスを飲み干したということを。
私は死んだのだろうか? これは死後の世界なのか? あの世だというのか?
リョウは緩慢な動作でぐるりと周囲を見渡してみた。すると真っ白な世界の中で、遥か向こうに何かがあるような気がした。感覚的なものだったが、リョウは引き寄せられるように歩き出していた。
そして、どれくらい歩いただろうか。気が付いた時には、リョウは色に溢れた開けた空間にいることが分かった。
そこは川べりだった。大きな川が滔々と流れる少し高い堤の上にリョウはいた。
***
二人の男女が川のほとりを歩いていた。仲睦まじい様子で。
男はすらりとした背の高い青年で艶やかな長い黒髪をそよぐ風に靡かせていた。女の方は、柔らかな明るい金色の長い髪をゆったりと脇で束ねていた。
穏やかに微笑む男の瞳は、深い闇を映したかのような漆黒で優しく細められていた。その柔らかな眼差しの先にあるのは、明るい若草色をした円らな女の瞳だった。その瞳は喜びに溢れ溌剌とし、生き生きと輝いていた。
季節は春…なのだろうか。少し高台になった川べりには一面に草が青々と生い茂り、緩く傾斜のついた斜面には色とりどりの花が咲き乱れていた。爽やかで優しい風が青い草の海の表面を舐めるように吹いていた。
青年は路傍に咲いていた一輪の花を摘むとそれを隣を歩く女の耳元にかけた。小さな可憐な黄色い花だ。よく見るとその花弁には赤い無数の斑点が模様のように入っていた。
―よく似合っている。
そんなことを囁いたのだろうか。微かに弧を描いた青年の口元に娘はどこかはにかむようにそれでも嬉しそうに肩を竦めて笑った。
そうやって二人の若い男女は仲睦まじく歩いていた。それは喜びに満ち溢れた幸せの情景だった。
だが、その幸せな景色は突如として切り替わった。まるで瞬きをした瞬間に場面そのものが変わったかのようだ。
そして、入れ替わるようにして現れたのは、嘆きと哀しみに満ちた灰色の景色だった。
窓辺に佇む娘が一人、じっと窓の外を見ていた。娘の明るい若草色の瞳は哀しみに曇っていた。柔らかな明るい金色の髪もかつてのような艶が陰り、娘の心持ちを映すようにややくすんでいた。
娘はじっと窓の外を眺めていた。その心は遥か草原の向こう、あの川べりに飛んでいた。そこで自分を待っているであろう男の姿を目裏に思い描く。
恋い焦がれる愛しい相手に会うことは叶わなかった。何故なら娘は外出を禁じられてしまったから。一族の者に外であの男と会っていることが知られてしまったからだ。しかもその相手は、娘が属する社会とは違う川向うにある別の一族の男だった。若い娘が一族とは違う男と会い、親密な関係を築くことは、その掟の中で禁じられていた。掟を破った娘に一族の男たちは怒り、以後、一切の外出を禁じてしまったのだ。
娘の傍には一族の女たちがいて勝手な真似をしないように四六時中目を光らせていた。そして、もうこのような間違いが起こらないようにと娘の嫁ぎ先を急ぎ探し始めていた。
もうあの約束をしていた川べりに行くことは出来なくなってしまった。もう何日、こうしてこの窓辺に佇み、あの川べりの方角を見つめているだろうか。窓の外、草原の遥か向こうに愛しい男の影を探して。
来る日も来る日も娘は窓辺に座り、そこからじっと男が待っているであろう川辺のある方角を見つめていた。
きっと現れない自分を心配して心を痛めているかもしれない。いや、それとも、もう諦めて束の間の戯れとして忘れてしまったであろうか。
そうこうするうちに娘は同じ一族の男に輿入れすることが決まってしまった。掟を破った女として後ろ指を指されながらも望まぬ婚礼の支度は日一日と整っていった。
それと同じ頃。男は一人、川辺に佇み、緩やかに吹き込む風に長い黒髪を遊ばせながら、きらきらと日の光に反射し揺れる川面を見ていた。
優しい面立ちをした青年の澄んだ黒い瞳は、この日、陰っていた。こうして一人川面を見つめていると必ず軽やかな声が青年の背に掛かるのだ。
だが、こうして待っていてもその鈴のように澄んだ響きを持った優しい声をもう何日も聞いていなかった。
ひょっとしたら、もうこれまでなのかもしれない。聡明さを宿した漆黒の双眸を持つ青年は、愛しい娘が現れない原因に薄々感づいていた。二人だけの秘密としてひっそりと持たれていた邂逅がきっと明るみになったしまったのだ。
青年にとってもあの娘に会うことは一族の掟からは外れた行為だった。青年には既に決められた相手がいたのだから。そして、この川は、娘の一族と青年の一族とを隔てる境界でもあった。
滔々と流れる大きな川。あちらと向こうを繋ぐ橋はない。あるのは少し下流にある小さな渡し場に係留されている小さな船が一艘。葦の間に隠れるようにしてもやっているそれを頼りに娘がこちら側にやってきたのだ。
あちらとこちらを隔てる大きな川。緩やかなその流れが下ってゆく先には【海】があるのだという。それは果てしない程の大きな水がたゆたう場所で、舐めると塩辛いのだと数年に一度、集落にやってくるという行商人から聞いた話を一族の男が口にしていた。
その果ての【海】という所にまで出てしまえば、こちらとあちらを隔てている境界はなくなる。女が器用に操る小舟を目にする度に、その小さな船に二人して乗って、この川が流れつく先に行けたらと男は一人夢想した。
リョウは、気が付いたらその青年の隣に寄り添うようにして立ち、同じ方向を見ていた。青年が恋い焦がれる娘の暮らす集落がある方角だ。諦観と哀しみと切なさとやるせなさと温かく優しい思い出が流れ出るようにしてリョウの体内にも注がれていた。悲喜交々の感情。それでも束の間の邂逅で育んだ娘への愛しさと慈しみが溢れ出てくる優しい気持ちの奔流だった。
どれくらいそうして立ち尽くしていただろうか。
ふとした気配に青年がゆっくりと顔を上げた。そこで一瞬、嬉しさをその瞳に滲ませたが、直ぐに顔色を曇らせて哀しい微笑みを浮かべた。
大きな川を隔てた向こう岸に想いを寄せる娘が立っていた。少し痩せたのだろうか。はりのある艶やかな頬が少しくすんでいるような気がした。記憶の中にあるはずのにこやかに輝く若草色の瞳が苦しさに歪み、淡い金色の髪を振り乱しながら、何かを懸命に青年に向かって叫んでいた。
だが、両者を隔てる川の上を吹く風が娘の声を散らし、その声は男に届かなかった。
やがて、その娘の後方から同じ一族の男だろうか、一人の男が現れた。精悍な顔立ちをした若い男だった。その若者は弓矢を手にして立っていた。矢をつがえた弓をその手に引き絞り、川向うに立つ男に狙いを定めていた。憎悪に満ちた燃えるような赤い眼差しだと青年は思った。
その間も娘は必死な顔をして弓矢を手にした同じ一族の男に叫び、掴みかかろうとしていた。だが、力では敵わない。すると今度は川を挟んで立つ愛しい男に対して大きく手を振った。早くここから立ち去るようにと告げるように。
だが、青年は動かなかった。恋い焦がれた相手にやっと会えたことへの嬉しさにその姿を目に焼き付けようとした。早く立ち去るようにと切れ切れに掛かる娘の声すら、男には長い間待ち通した甲斐の褒美のように思えた。それが聞こえなくなってしまうのは惜しかった。
そして対岸に立つ若者は、ぎりぎりと極限まで引き絞った弓をしっかりと溜めた後、その矢を放った。
手を離した瞬間、ヒュンと風を切る音がした。矢は真っ直ぐに飛び、対岸に立つ青年の身を貫いていた。真っ直ぐにその左胸を。
その口元に笑みを象ったまま、矢を受けた男の目は見開かれ、そのままゆっくりと後方に体が傾いでいった。男の長い癖の無い黒髪が撓んで緩やかな軌道を描いた。
全ての音が止んだ。そして、遅れて沈黙を破るように娘の甲高い絶叫が周囲に響き渡った。娘は足をもつれさせながらも斜面を駆け下り、川の縁に降り立った。そして、そのまま両者を隔てている大きな川をものともせずに中に入ろうとした所で弓を手にした若者に捕まり連れ戻されてしまった。
娘の泣き叫ぶ声がこだました。悲痛な慟哭の叫びだった。
リョウは、左胸に矢が突き刺さったまま倒れた男の傍らに膝を着くとその傷口に手を当てていた。ドクドクと滲むようにして流れ出てくる鮮血を止めようと止血の呪いを唱えたが、上手く行かない。薄らと目を開けた青年は苦悶に眉を寄せながらもその口元に微かな笑みを刷いて、首を緩く横に振った。まるで「もういいのだ」とでもいうかのように。
ずきりと胸の奥が痛んだ。そう思ったら、リョウの左胸にも同じようにじわじわと真っ赤な鮮血が滲み出し、白いシャツに大きな紅い花のような歪な染みを作っていった。
胸が痛くて仕方がなかった。だが、リョウが感じていたのは物理的な痛みではなかった。切なくて苦しくてどうしようもない程に哀しい心の痛みだった。
リョウは思わず声を上げようとした。突如として湧いた胸内に渦巻く混沌とした例えようのない気持ちの濁流を外に吐き出してしまいたかった。
だが、口を開いても声が出なかった。リョウは混乱し、恐慌状態に陥りそうになっていた。
リョウは鮮血が流れ続ける男の胸元に手を当てて、必死に止血をしようとしていた。
―こんな所で死なないで、お願いだから。兄……さん!
ありったけの願いを込めて、そう心の中で絶叫した刹那、パチリと瞼が開き、意識が唐突に覚醒した。
そして、瞳を開いた先に見えたのは、先程と同じ真っ白で何もない空間だった。
リョウは瞬きを繰り返した。心臓がドクドクと脈打ち、耳の奥がざわざわと鳴っていた。額際に冷や汗が伝い、髪が張り付いていた。それを緩慢な動作で拭う。手の甲にひんやりとして湿った感覚が伝わった。
それからリョウは深く深呼吸をした。そして、ゆっくりと体を起こした。再び、同じように周囲を見渡してみる。
夢…であったのだろうか。それにしては酷く生々しい感じだった。不可思議な感覚が体中にまとわりついていた。手の下にあった男の硬い胸の感触が残っていた。そして、それを確かめようとふと見下ろして開いた掌には真っ赤な染みが残っていた。
リョウは足の竦むような恐怖に戦慄した。そして、悪夢を振り払うかのようにゆっくりと頭を振ると再び意識がぐにゃりと歪み、場面がまた切り替わっていた。
それから再び目を開けた時、今度は、視界一杯に青い空が見えた。ゆっくりと煙のように細く流れる白い雲。それを囲むように周囲には青々とした草と色彩豊かな花々が咲き、額縁のようになって見えた。
リョウは再びゆっくりと目を閉じ、そして開いた。静かに深呼吸をする。
鳥の囀りが聞こえた。さわさわと吹き抜ける風の音が聞こえた。穏やかな日差しが降り注いでいた。肌をじんわりと焼くように暖かかった。立ち上る草の青い匂いと咲き誇る花の蜜の少しつんとした甘い匂い。むせ返るような密度の濃い草花の匂いから逃れるようにゆっくりと体を起こした。
辺り一面、草原が広がっていた。色とりどりの草花が咲き、吹き込む風にゆうらゆうらと揺れていた。
見渡す限りの平原の中、遥か向こうに大きな木が一本立っているのが見えた。遠目にもはっきりと長い梢が天高く、そして空を掴むように青々と茂った枝葉を伸ばしていた。
リョウは立ち上がると今度はその大きな木を目指して歩いていた。なぜかは分からない。だた、何かに引き寄せられるような気がした。とても懐かしい感じがしていた。
そして草を踏み、掻き分けながら辿りついた先で、懐かしい顔がリョウを出迎えたのだった。
「おや、りょうじゃないか。どうしたんだ。こんな所で」
大きな木の下ではテーブルと椅子が置かれ、そこで二人の男がお茶を楽しんでいた。
優雅な手付きで茶器を傾けていた男がカサリと草を踏む音に顔を上げると器用に片方の眉を跳ね上げた。
心底、驚いているのかもしれないが、その感情の機微が余り出ない声と表情は、余りにも懐かしい男の姿を良く表わしていた。
「…………ガルーシャ……………」
忘れる訳はない。この一年、ずっと会いたくて仕方がなかったガルーシャ・マライその人がそこにいた。
「ここは…………死後の世界……なの? あの世? 私は死んだ……の?」
リョウは呆けたように立ち尽くしていた。
「私はガルーシャの所に来てしまったの?」
今年の春先にガルーシャは旅立ったのだ。永久に。安らかな眠りに就いた。そのガルーシャがいる場所というのは、あの世ではないのか。奇しくもこの草原は色とりどりの草花が咲き乱れていた。お誂え向きな場所に思えた。
会いたかったガルーシャを前に嬉しいはずなのに心の隅が軋むように音を立てて揺らいでいた。
「りょう。なんて顔をしているんだ」
椅子から立ち上がったガルーシャは、記憶の中にあるそれと寸分も違わぬ同じ姿で、薄らと口角を上げて笑い、リョウの頬に手を伸ばした。そして、その顔を覗き込むように小さく首を傾げた。
「私に会えて嬉しくはないのか? 随分と哀しいことを言ってくれるじゃないか」
「……本当にガルーシャなの?」
「ああ。私だ。忘れたなどとは言ってくれるなよ?」
ゆっくりと回された長い腕がしっかりとリョウの体に回っていた。抱き締められる感触も変わっていない。突如として巻き戻ったかのような【時】にリョウは暫し、懐かしい男の胸に顔を埋めた。
暫くして落ち着きを取り戻したのか顔を上げたリョウにガルーシャは木の下にあるテーブルの方に来るように促した。
「それじゃぁ、折角だから少し話をしよう。ちょうどお茶をしていた所なんだ」
テーブルにはお茶の用意が並んでいて、丸いテーブルの上に茶器と茶菓子の乗った皿が並んでいた。
その場所にはもう一人、別の男がいた。その男はガルーシャの隣にいるリョウの方をじっと見ていた。
視線が交差する。その男の姿を目にした時、リョウの体には雷に打たれたような衝撃が走っていた。
黒い癖の無い長い髪を垂らした優しい面立ちをした男だった。年齢はよく分からない。若いような年老いているような掴みどころのない不可思議な印象だ。男の瞳はリョウと同じ漆黒だった。
「あ…なた……は……」
この場に辿りつく前に見た光景の中にいた、川べりに立ち、射かけられた矢に崩れ落ちた男だった。
自分と同じ色彩を持つ男をまじまじと見たリョウにガルーシャは「おや?」という顔をした。
「リョウはエルドーシスを知っていたか?」
「………エルドーシス?」
それはどこかで耳にしたことがあるような名前だった。どこで聞いたのだろうか。目を瞬かせながら、促された席に着いた所で、ガルーシャの対面に座っていたその男が苦笑のようなものを滲ませた。
「ああ。君はここに来る前に【あちら】に迷い込んでしまったのだね」
「……【あちら】?」
穏やかな声が紡いだ暗号めいた言葉を繰り返せば、
「ああ。古い古い昔話の断片。ここに漂っている私の記憶に繋がった時間軸の【時】だ」
益々訳の分からない説明にリョウは一人、目を白黒させた。
器用にリョウの為にお茶を淹れながら、ガルーシャが間に入るように言葉を継いだ。
「りょう。この国のお伽噺や神話の話はどのくらいまで聞いたんだ?」
「……あ……」
その言葉にリョウは不意に思い出したことがあった。確か、リュークスの恋人として目されていた男神がいたのだ。その名は、エルドーシス。かつてこの地がエルドシアと呼ばれていた時にその大地を治めていた神だと神話にはあった。エルドシアは、別名テラ・ノーリとも呼ばれていたのだ。【テラ・ノーリ】とは【零の大地】、【循環する大地】、から転じて、【魂巡る大地】という意味を持っていた。
「【テラ・ノーリ】………の神さま?」
その言葉にエルドーシスは静かにどこか自嘲めいた笑みを零していた。
「今では【あちら】ではそのように呼ばれてはいるが、私もかつては普通の【人】であったのだよ。ただ、【ここ】ではない別の世界の話だ。私は【そこ】で【人】としての一生を終えた。思い出すことも出来ないような遥か昔の出来事だよ」
―君はその時の私を見たのではないかい?
その言葉にリョウはここに来る前に目にした光景を思い出した。そして、それを自らエルドーシスと名乗った男とガルーシャに語って聞かせた。
エルドーシスはどこかほろ苦いものを思い出すような懐かしい顔をして目を細めた。
「そうか。君は私の最期の時にいたのだね」
「恐らく」
「私も単なる恋に焦がれた男であったという訳だ」
それから、エルドーシスは、そっとリョウの方を見るとその手を伸ばし、頬に触れた。顔立ちは大分異なるが、同じような癖の無い漆黒の髪に互いの瞳に映るその色彩は同化するように同じ闇を湛えていた。
「君の元々の魂は私に少し似ているのかもしれない。魂の在り方が同じような気がする」
「初めてお会いするのに何だか懐かしい感じがするのはその所為なのでしょうか」
リョウも不思議とそのような気分になっていた。若きエルドーシスが矢に倒れた時、リョウは無意識にエルドーシスを【兄】と呼んでいた。実際に自分に血を分けた兄はいなかった。それなのにとても近しい近親者のような気がしてならなかったのだ。
それを少し照れながら明かせば、エルドーシスは穏やかに微笑んだ。
「そうか。だからかもしれない。きっと。君は私に似た所があったから、リュークスの強い呼び声に引き摺られてしまったのかもしれない」
「リュークスというのはあの若草色の瞳の女の人ですか?」
「ああ」
【人】としての禁じられた恋の結末は、余りにも哀しかった。あの後、嫁ぎ先を強制的に決められたもののエルドーシスの種を宿していることが知られてしまったリュークスは、産まれてくる我が子の運命を思って集落を抜け出そうとした所を一族の者に見つかり、掟を破った愚かな不義の女として私刑に処されたのだそうだ。
時間差で【人】としての短すぎる生涯を閉じざるを得なかった二人は、その後、途方もない程の長い時を経て、違う場所で神という存在になっていた。人と神とは尺度の異なる【時】と【場】の中で、その役割を変えながら生まれ、一生を終える流転の中では同じ存在なのだとエルドーシスは語った。
「すまなかったね。恐らく、君を巻き込んでしまったのは私の所為なのだろう」
リョウが界を跨いだ存在であるということをガルーシャから聞かされたエルドーシスは、真摯な顔をしてリョウを見た。そして、リョウがこちら側に来てしまった原因の一端は自分にあるのかもしれないと打ち明けた。
二年前の下界で起きた【芽吹きの時】に偶然にも人の世界では【黒】を寄り代に使った儀式が行われた。そこで【人】の世界への道を見つけ現れたリュークスが、恋い焦がれた相手であるエルドーシスと同じ色彩を持つものに引き寄せられて、その面影を探して、地中から吸い上げられた膨大な力をその探索に利用した。そして、その時にひょんなことからこの界の狭間に漂っていたリョウの魂をこちら側に引きずりこんでしまったのではないかとエルドーシスは言った。
それはあくまでも仮説に過ぎなかったが、リョウにとっては納得の行きそうな説明でもあった。それでも今度はどうしてそのような狭間に己の魂が彷徨っていたのかという疑問が残るが、それについてはガルーシャが鍵となるような事を言った。
「【ここ】は、様々な界が重なった歪みの中にある淀みのような場所と言えばいいか」
そう言ってガルーシャは静かに茶器を傾けた。
「どの世界にも曖昧な綻びというものがある。普段は見ることが出来ないし、感知することも出来ないが、その境界は常に存在し、時に収縮し、拡大をする。そして、時に違う界同士が衝突や接触を繰り返し、何らかの反応を生む場合がある。そのような異なる界では当然のことながら流れている【時】は違う。複雑に折り重なった無数の層がいつもどこかで口を開いているという感じだろうな。だから、りょうもその合間を縫ってこちらに来たのかもしれないな」
「ガルーシャもいずれは【ここ】からまた別の場所で生まれ変わるの?」
ふと気になった疑問を口に乗せたリョウにガルーシャは小さく笑った。
「はは。それは御免だな。私はこの場所が気に入ったからね。まぁ飽きるまではここにいるだろう」
そう言って肘を突いた手の上に顎を乗せると片目を瞑った。
その余りにも【らしい】返答にリョウは小さく笑った。
それからお茶を一杯、御馳走になった所でガルーシャが真面目な顔をしてリョウの方を見た。
「さぁ、りょう。ここはまだお前が来るべき場所ではない。お前が戻るべき場所は分かるね? お帰りなさい。お前を待っている者がいる。ほら、ご覧、聞こえるだろう? いい男がみっともなく情けない顔をして泣き喚いている」
―あの男のあんな顔を拝むことになるとは思わなかったぞ。いやいや人生何が起こるか分からんものだな。
そう言って、どこかからかうような表情をして飄々とガルーシャが指示したのは、大きな木の直ぐ傍にあった小さな泉で、促されるままに中を覗きこめば、滾々と清らかな水が湧き出でる透明に澄んだ水面が揺らぐその表面には、水鏡のようにリョウにとっては馴染み深い男たちの姿が映っていた。
冷たいきらいのある顔立ちに少しくすんだ銀色の髪がそこには映っていた。いつものような澄ました冷静さの欠片も無い悲壮に満ちた瑠璃色の瞳とその男らしい精悍な横顔が見えて、リョウは胸がじわりと熱く、そして苦しくなった。ユルスナールの傍には、ブコバルやシーリスもいた。それからセレブロにティーダの灰色の尻尾が見えた。静かに横たわる夜会用のドレスを着た抜けがらのような自分の傍らで皆、じっと心配そうな顔をしていた。
そこでリョウはここに来る直前の出来事をはっきりと思い出していた。
「りょう。戻りたいのだろう? 君を待つ者たちの所へ」
隣に立ったエルドーシスはそう言ってそっとリョウの肩を抱いた。
「ひょっとしたら元の世界へ帰る道も残されているかもしれない。ここは【揺れ動く時】と【静かなる時】の狭間で数多もの世界が集まり重なる場所だ。我々と共にここにいれば、君がかつて暮らしていた世界への手掛かりが掴めるかもしれない」
かつての恋人、リュークスがリョウをこの世界に引きずり込んでしまったのではないかと考えて、その罪滅ぼしのような積りであったのかもしれないが、ひょっとしたら帰る道も残されているかもしれない、その可能性は零ではないと言ったエルドーシスの言葉にリョウは顔を上げると否定の意味合いを込めて小さく首を横に振った。そこには薄らと優しい笑みが浮かんでいた。
「いいえ。もう前の世界に戻りたいとは思いません。未練がないと言ったら嘘になるのかもしれないですが、私の中ではある程度、折り合いが付いているので」
それよりも大事なものが自分にはあった。大切な人がいた。この命を懸けてもいいと思えるほどの大切な人が。
今、一番の心残りは、その人を残して来てしまったということだった。それ以外は、何もいらない。それほどまでに想える人に出会ってしまったのだ。もう後戻りは出来なかった。
「出来ることならば、あの場所に戻りたいと思います。【こちら】に来たのは本当に偶然で、当時は理解を超えた事態に正直絶望したこともありました。でも、今ではすっかり私は【こちら】の人間で、あの場所で生きて行く覚悟ができているんです」
何よりもあの男の傍に帰りたかった。これからどれほどの時間が残されているのかは分からない。元々異質な自分は、あの場所からは永遠に弾かれたままなのかもしれない。それでもやっとあの国で術師になることが出来たのだ。そこで暮らす最低限の身分証明は得られた。だから、この後は、自分の【時】が終わるまであの男の傍で共に生きて行きたかった。
迷いのない口調でそう告げたリョウにエルドーシスは柔らかく微笑むとゆっくりと一つ頷いた。
「そうか。では、これも何かの縁だ。私から君にこれをあげよう」
そう言って差し出された大きな掌をリョウは不思議そうな顔をしながらも両手で受けた。
「では、りょう。目を瞑っていなさい」
「はい」
言われるままにじっと瞼を閉じると受けた両の掌から温かいものが流れてきた。じわじわと指先から腕、体、そして血液が全身を巡るように足先まで伝わって行った。そして、その全ては巡り巡って左胸の心臓付近に溜まっていった。セレブロの紋様の刻まれている付近が薄らと熱を帯びた気がした。
「これで君は大丈夫だ」
もう目を開けていいと言われて瞳を開いたリョウは、体を巡る熱源の意味を問うようにエルドーシスを見上げた。
「あの……何を?」
「君に私の魂の欠片をあげたのだよ」
「……魂の欠片…?」
虚を突かれたリョウの鼻先で漆黒の双眸が優しさを滲ませていた。
「ああ。ほんのちっぽけなものだが、これで君の魂はあの場所に根付くだろう」
それは思ってもみなかった僥倖だった。
「本当ですか!」
吃驚して、それでも嬉しさに顔を綻ばせたリョウにエルドーシスは少し可笑しそうに笑った。
「これでも私はあの場所では【神】と目されているからね。それに君と私の魂は似ているからね。それは種のようなものだが、やがて君の中に根付き、そして君本来の輝きを取り戻すだろう」
「ありがとうございます」
「私からの餞別だ。幸せにおなりなさい」
―私が得られなかった分まで。
「はい」
そのような声が聞こえた気がして、そっと頬を辿る優しい指先の感触に、リョウの瞳には感謝に涙が滲みそうになったが、慌ててそれを押し止めた。そして、心からの笑みを浮かべたのだった。
その様子をガルーシャはどこか満足したような面持ちで眺めていた。
そして、再び別れの時が近づいてきているということをリョウは感じていた。だが、今回の別れは、先のように唐突でも絶望的でもない。温かな感謝の気持ちに満ちたものだった。
「ではな、りょう。達者でな」
「はい」
大きく広げられた両手にリョウは飛び込むようにして固くガルーシャと抱擁を交わした。
そこで不意にリョウは何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。私、術師の認可をもらえたんですよ」
「はは。そうか。おめでとう」
「あの、それでガルーシャの書斎の蔵書のことなんですけれど」
「ああ。好きにして構わない。必要なものとそうでないものを分けて、要らないものは養成所の奴等にでも引き取ってもらえばいいだろう」
「分かりました」
一先ず気がかりであったことの再確認が取れて、リョウはほっと安堵の笑みを浮かべた。
「りょう、お前は愛しい私の娘だ。それを忘れてはいけないよ。私はここからお前を見ているから」
「はい」
言葉にしたいことは多々あるはずなのに喉元をせり上がって来そうになる何かに、リョウが口に出来たのは簡単な肯定の一言だけだった。
リョウは一頻りガルーシャと抱擁を交わし、その後、エルドーシスとも同じように抱擁を交わした。
「それにもう君は私の娘でもある。小さな魂で繋がったのだから」
「ありがとうございます」
思いも寄らない温かい言葉にリョウは感謝の気持ちを込めて微笑んでいた。
そして、リョウはエルドーシスから翳された手の前で、再び眠るように目を閉じていた。身体がすっと軽くなるような気がして段々と意識が遠くなっていった。
こうして、ガルーシャとエルドーシスの前からリョウの姿は消えていた。