罪と罰
Господи помилуй господи.........Течение священного потока будет превратить в реку могучую. С неба на землю все мирно и спокойно и постоянно воротится, ожидая тогда, когда с ключом откроется дверь............
蝋燭の明かりが点々と小さな光を生み出している仄暗い室内には、複数の男たちの低い詠唱が響いていた。一定の抑揚に基づき流れるその声は、虫の羽音のように微かに絶え間ない振動の波を限られた空間に伝えていた。その音は四方八方を囲む周囲の壁に反響し増幅して行った。
その音は、この国の一般的な話言葉とは異なる人々には耳慣れない特殊な音だった。それは遥か昔の息吹に通じる最も古い形の言葉だった。発音も音の組合せも現代のものとは全く異なる言語だ。暗号文や呪文のように聞こえるかも知れないそれは、だが、ちゃんとした意味を持っていた。
暗い室内にぼんやりと複数の白い衣が浮き上がっていた。神官たちの装束である。一人が祭壇に向かって跪き、その後方に多くの男たちが同じように控えていた。
香だろうか。微かに煙をたなびかせながら一人の男が手にしている長い鎖の付いた小さな容器が振り子のように揺れ、白い細い煙と共に甘い匂いを振り撒いていた。周囲には集まった男たちの静かなる興奮を窺わせるように熱気が生まれ、香炉から漏れる甘い匂いが、それに拍車を掛けるように密度濃く立ち込め始めていた。
やがて同じ言葉を紡いでいた複数の声が、時間差で分裂を始める。一点より全方向に向けて、同じ文言を紡ぐ似て非なる音の波が複数生まれ、そして再び元の流れに戻るように収縮していった。
それを幾度となく繰り返し、ある極みに到達した時、突き抜けた先で新しい変化が訪れるのだ。集中を高め、自らの細胞一つ一つを音に同調させて、人としての意識を極限までに抑えることで、紡がれゆく音階の一つになり代わる。【私】を全て捨て去った後の境地を彼らは目指していた。
***
宮殿の祝賀会に参加していた仲間から報せを受けた神官たちは、直ちに計画を実行に移した。多少の変更を余儀なくされたが、基本的な方針は変わっていない。ただ、考えていた以上に状況が複雑になったのは否めなかった。
それでも諦める積りはなかった。この日の為に長きに渡り綿密な計画を立ててきたのだ。そして今回、これまでに注いできた情熱に報いるように類稀なる僥倖が重なった。この機会を逃す積りは更々なかった。それが集まった神官たちの共通認識であった。
【鍵】が攫われた。宮殿から神殿に届けられた情報は、かなり限定的であった。最も肝心な部分であるヴォルグの長を巡る部分は意図的に割愛されていた。鍵がヴォルグの長に連なる存在であることが分かれば、待機していた神官たちは自分たちがこれからやろうとしていることに恐れ慄き儀式を思い留まるだろうという危惧があったからでもあった。
だが、用意していた薬は服用されたのだ。今頃は別の所で深い眠りに就いていることだろう。それは不幸中の幸いだった。しかしながら、時間がないということで、早速残された儀式推進派の神官たちは準備を整えると勧請の祈りを唱え始めた。
儀式の詠唱が成功し、降臨が叶えば、大いなる存在がこの祭壇に現れることになるだろう。本来なら、その鍵となる寄り代が直ぐ傍にあった方が安定をするのだが、この際、そのような悠長なことを言っていられる場合ではなかった。
神官たちの使命は一つ。遥か昔に失われた男神、エルドーシスを呼び寄せることでリュークスの訪れを願うというものだった。そして聖なる御声を賜ろうというものだ。それは、時代が下った現時点でも【人】が神域へ働きかけることが出来るということを証明しようとする行為でもあった。
神殿の西側、最も奥まった場所にある祈りの間、その中の隠し扉の中にある一室で、白い衣を身に纏った神官たちが祈りを捧げていた。いつもは階級を表わすはずの色とりどりの帯は、この時、白い帯にとって代わっていた。それは神の御前では人は遍く等しいという考え方に基づいていた。
儀式用の香炉を持った神官は、白っぽい煙をゆっくりとたなびかせるその小さな丸みを帯びた容器の付いた長い鎖を振り子のように揺らしながら、祭壇の前に跪いて頭を垂れ、祈りの文言を詠唱し続ける神官たちの周囲を大きく回るようにゆっくりと歩いて行った。
祭壇に向かって左回りに歩いて行く。ここではない時を遡り、神代に通じる道を見つける為だ。その神官の口からも同じように祈りの旋律が低く紡がれていた。
祭壇の中央には緻密な彫り物の施された白い楕円形の石が置かれていた。それは神を表わした聖なる石だった。神殿の表の区域に設置されている一般参詣客が祈りを捧げて行く大きな石をずっと小さくしたようなものだった。
その石は専ら儀式用に使われるもので神が降りることの出来る【場】であった。宣託の儀式の際にはその石に降り立った女神の声を神官たちが聞くことになっていた。
最後に儀式が行われたのは二年前だ。ここに集まる神官たちは、その時と同じ顔触れだった。皆、頭の上にはすっぽりと覆うように白い頭巾のような大きな布を被っていた。
室内に点々と灯された蝋燭の明かりが揺れ、辛うじて神官たちの絶え間なく動き続ける口元を照らし出していた。この儀式の間では、発光石ではなく蝋燭が明かりとりに利用される。空気に揺らぐ炎の影が、神との交信に欠かせないとされていたからだ。
詠唱を続ける男たちの意識は徐々に一つにまとまっていった。それぞれが一本の糸であり、その糸を縒り合せるように一本の太い意識の奔流の中に集約されていった。
男たちは静かなる興奮に包まれていた。音が少しずつ大きくなり、直ぐ傍に反響して、狭い空間そのものに同調していった。
術師としての素養というものは、この世界に流れ満ちている大きな自然の力に自らの意識を同調させ、その大いなる力をほんの少し借りる形で術を行うというのが基本的な形だった。その原理は、高位神官と呼ばれている素養持ちの男たちも同じだった。そして、ここで展開されている儀式もその同じ原理に基づいていた。
やがて全てが溶け合い肉体と精神が分離し、別の次元で混ざり合い、精神世界の麓に辿りついた。その時、神官たちの紡ぐ声は、より一層独特な旋律を刻み始めていた。
そして、ついにその時がやって来た。
祭壇に置かれていた聖なる石に淡い光が踊り始めた。祈りを捧げる神官たちの詠唱も佳境に入り、その額際には汗が滝のように流れて落ちていった。【人】であるものが【神】の領域に接触することは肉体、及び精神に相当な負荷が掛かった。快感とは紙一重の所にある麻薬のような常習性の苦しさに顔を歪めながらも、祈りは最終段階に突入していた。
ちょうどその頃、東の翁の結界が張り巡らされた界隈では、これまでとは違う空気の流れにセレブロと東の翁が顔を上げた。
横たわるリョウの傍に寝そべっていたセレブロは、伏せていた顔を上げると長い尻尾を一振りした。険しい顔をして睨むように宙の一点を睨みつけた。
結界を強める為に器の中に清め用の水を入れて戻ってきた東の翁もセレブロと同じ異変を感じ取ったのか、器を手にしたままぴたりと歩みを止めた。その間、リョウの手を取り己が額に押しつけていたユルスナールもただならぬ気の揺らぎを感じ取り、閉じていた瞳を開いた。
そこでユルスナールは息を飲んだ。
「こ……れ…は……? リョウ?」
リョウの体が薄らと光の膜に包まれ始めていた。淡い黄色と青い糸のような細い光だ。それらはまるで生きているかのように縦横無尽にリョウの体を覆い始めていた。
『おのれ。うつけどもが!』
セレブロは突然体を起こし立ち上がると大きく咆哮を上げた。広いはずの室内、四方八方にぐわんぐわんと長の雄叫びが反響した。それはまるで地鳴りのような響きだった。
『イシュタール!!!』
無数に伸びた光の糸に包まれてゆくリョウを前にユルスナールは仰天しながらも、突然凄まじい怒気を振り撒いたセレブロを仰ぎ見た。
「セレブロ殿? 一体、何が………」
白銀の王の身体は長い毛足が逆立つように揺れていた。鈍い発光石の明かりを受けて煌めきと共にうねるその白い体毛は、そこだけ風が吹いているかのように揺らいでいた。獣特有の低い唸り声を上げたヴォルグの長は、じっと虚空を睨んでいた。
一体、何が起きているのだ。突然の場の変化に内心、狼狽しながらも何か良くないことが始まっているということだけはユルスナールにも感じ取れた。
「シビリークスの末よ。離れなさい」
唖然としたままのユルスナールに東の翁が言った。静かながらも有無を言わせない迫力のある声音にユルスナールは大人しく従った。
「……東の翁殿?……」
「今、扉が開かれようとしている」
「…………扉?……」
怪訝な顔をしたユルスナールの前で、東の翁は柔和な面立ちに深い皺を多く刻みながら沈痛な面持ちで口を開いた。
そして、白い口髭が覆うその口から吐き出されたのは信じられない言葉だった。
「儀式を始めた者がいる。リョウの身を寄り代に」
「なん……ですって?」
深い青さを湛えた瑠璃色の双眸が驚愕に見開かれた。
「なぜです? そんなことが可能なのですか!?」
この場は、東の翁が結界を張ったいわば閉じられた空間だった。そしてリョウは、この中に横たわっているのだ。神殿の中でも常人の立ちいることの出来ない限定的な空間だ。そこは安全であると思っていた。
「ここには結界があるのではないのですか!?」
思わず低い声を上げたユルスナールに、東の翁は残酷な現実を告げた。
「我が結界は【人】にのみ有効。ここに降り立とうとしている【神】を防ぐ手立てにはなりませぬ」
「………神が?……降りる……?」
ユルスナールは、言われた言葉の意味がよく理解できなかった。
「だが、リョウはここにいて、神官たちとは離されている」
離れた場所にいるというのに神官たちが儀式を始めたというのか。そんなことが可能なのか。
余りの衝撃に口を小さく開いたまま言葉を失ったユルスナールに、東の翁はセレブロと同じように虚空を睨みながら眉を顰めた。
「向こうもかなりの禁じ手を使ったようですな」
禁域に手を染めることは、それを行う神官たちも無事では済まないだろう。
だが、二年前の過ちが再び繰り返されようとしていた。それほどのことまでをして神官たちは何を得ようというのか。
淡々と言葉を継いだ東の翁に対してユルスナールは不安に掠れた声を上げた。
「リョウは……どうなるんですか?」
詰め寄らんばかりの勢いのユルスナールに対し、東の翁は無言のまま力なくその首を横に振った。
「……まさ…か………」
つまり、器として一度神を降ろしてしまったら最後、人は人としての自我を失う。廃人となりそのまま命尽きるだろう。少し前にシーリスから聞いた話を思い出して、ユルスナールは愕然とした。
「これよりは神の領域。我々には手出しができませぬ」
「ならば即刻儀式を止めさせればいいのですよね?」
早く中断をさせなければ。術式が整ってしまう前に。弾かれたようにその場から駆け出そうとしたユルスナールの傍で、
『下衆どもめが!!!』
じっと虚空を睨んでいた白銀の王が、高らかに怒りの咆哮を上げ、光る毛並みを翻して跳躍した。
「セレブロ殿!」
そのまま飛び出して行った銀に輝く軌跡を追い掛けるように反射的に走り出したユルスナールは、一度、出口付近で後方を振り返った。
こちらを真っ直ぐに見ていた東の翁は大きく頷いた。
「ここより西、この場と対になっている西の祈りの間の奥でしょう。隠し扉があります」
恐らく儀式はそこで行われているのだろう。
東の翁の助言にユルスナールは真剣な面持ちで頷きを返していた。そして、少し離れた所に横たわる己が愛する人を一瞥した。深い眠りに就いたリョウの身体は、脚先から膝の辺りまで黄色と青の光の糸が細く絡みつき、これから蛹になるかのようにその輪郭を覆い始めていた。
時間がない。本能的にユルスナールは悟った。きっとあの二色の光が全てリョウの体を覆いつくしてしまったら終わりだ。そんな気がしてならなかった。
「リョウを頼みます!」
ユルスナールは短く吐き捨てると勢いよく長靴を蹴った。
「【チョールトバジミー】!」
ユルスナールは神官たちが儀式を始めたという一室を目指して全速力で駆けながら、自分の考えの甘さを呪った。宮殿での出来事に気を取られていて、まさかこの期に及んで神官たちが儀式を同時進行的に行うだろうとは思ってもみなかった。全ての危機はひとまず去ったかと思っていたのだ。
リョウが自分の目の届く場所にいる。それなのに危険な目に遭わせてしまっているという事実に戦慄さえした。神殿という本来ならば神聖であるはずの場所に巣食う得体の知れない闇とそこに蠢く神官たちの強欲に自分の認識が足りなかったことを痛感せざるを得なかった。
だが、今は、そのようなことを考えている暇はない。物凄い形相で飛び出して行ったヴォルグの長の様子を見る限り、状況は危機的であるのだろう。今は、一刻でも早く、術式が整い、何らかの効力を発揮してしまう前にその儀式を妨害し、中断させなければならない。
こんな形で繋がりかけた糸を断ち切ってしまう訳にはいかない。リョウを失う訳にはいかなかった。
ユルスナールは左の長剣の柄に手を置きながら、必死になって走った。焦燥からくる脂汗と走っていることからくる汗が混じり合い、点々と夜間用の発光石の明かりが鈍い光を発する薄暗い回廊の中、白い壁際に象られる投影に飛び散っては消えた。
暫くそうして走り、天井の低い長い回廊を抜け、解放感に溢れた闇が濃淡の影を織りなす空間に出た所で、こちら側に向かって来る複数の長靴の足音が聞こえた。
ユルスナールは長剣の柄に手を掛けると鞘ごとベルトから引き抜いた。神官であれば容赦なく昏倒させる。本来ならば出会い頭に斬って捨てたいというのが本音であったが、それをどうにかして理性で抑えた。だが、迸る殺気は隠そうともしなかった。邪魔をされる訳にはいかない。
そして大きな柱の影から出てきた相手に鞘ごと剣を振り下ろした瞬間、
「うっわっとっとと。あっぶねぇなぁ!」
間一髪のところで避けられたと思ったら、剣の軌道を避ける為にかごろりと床に体を転がせた男から、場違いな程の呑気な感のある声が上がった。
間違えるはずがない。聞き覚えのあり過ぎる声だ。
「ブコバルか」
思わず漏れた舌打ちに幼馴染からはたちまち非難の声が飛び出した。
「なんでぇ、ルスランかよ。たまげたじゃぁねぇか。殺されるかと思ったぜ」
いつにない殺気を真正面から向けられたブコバルは、すぐさま体勢を整える為に起き上った。
ユルスナールが剣を左手に持ち替えた所で、
「ルスラン!」
一番先頭を走っていたブコバルの後に続いていたシーリスが顔を出したかと思うと、後ろから続々と顔馴染みの面々が現れた。ドーリン、ウテナ、イリヤにゲオルグ、そしてアッカ、ロッソ、ヤルタ、グント、アナトーリィーの第七の兵士たちだった。
「西の祈りの間へ向かう」
仲間たちの顔を見るとユルスナールは駆け出した。今は、説明をする間も惜しかった。
ユルスナールから只ならぬ緊迫感を感じ取った男たちは、反射的に同じように走り出した。
「リョウはどうなったんだよ?」
走りながら隣に並んだブコバルが低く発した問い掛けに、
「儀式が始まった」
ユルスナールは前を向いたまま簡潔に吐き捨てた。
「「なんですって!?」」
シーリスとゲオルグから驚きの声が漏れた。
「ぶち壊しに行く」
前を向きながらユルスナールは心底忌々しげに吐き捨てた。
「ハッ、そうこなくっちゃぁ」
どこか残忍な顔をして舌なめずりをしたブコバルの隣で、ユルスナールは横目にちらりと後方を一瞥すると、シーリスたちに向かって言い放った。
「説明は後だ。時間がない」
「「【ポーニャル】」」
上長の命令に部下たちが低く頷きを返した。
そして集まった総勢十二人の男たちは、儀式が行われているという神殿の西にある祈りの間のその最奥を目指した。
仄暗い回廊の闇の中には、セレブロが振り撒いた怒気の切れ端が点々と差し込む日の光に遊ぶ塵のよう煌めきを放ちながら漂っていた。それは神殿内部の構造に余り詳しくはないユルスナールたちを導く標になった。
その頃、西の祈りの間の隠し扉の中に設えられた祭壇では、神官たちの詠唱が最終段階に入ろうとしていた。中で祈りを捧げている神官たちは全部で十三人。その内の既に二人が、崩れ落ち倒れていた。
だが、力尽きた同僚に構うことなく男たちの詠唱は続いていた。白い頭巾の合間から辛うじて覗く一人一人の表情は苦しそうだ。それでも恍惚に似た高揚感があったのも確かだった。
室内には【ここ】とは違う【気】が立ち込め始めていた。男たちが懸命に祈りを捧げる聖なる石が仄かな光を発し始めていた。黄、青、白、黒、そして赤。この国の暦と同じ五色の光が術式と祈りの文言が彫り込まれた楕円形の石の上に踊り、揺らぎ始めた。
五つの光はやがて混ざり合い一つの大きな光となるだろう。そして、その時が、勧請の祈りが天高く神の世界に通じ、寄り代を下界の目印としてこの場に降臨する証となった。
中心になって祈りを紡いでいた男が、声量を上げて行き、それに合わせるようにして残りの十人が声を揃えていった。
そして、小さな鐘を手にしていた男が最後の仕上げにそれを振り鳴らそうと手を上げた瞬間、小さな祈りの間の扉が粉々に砕け散り、辺りに轟音が響き渡った。
『させるものか!!!』
光輝く白い毛並みを振り乱しながら飛び込んできたのは大きな獣で、祭壇前の神官たちを横倒しにし、中心となっていた一人の男の上に圧し掛かった。
虚空を見つめ精神離脱状態にあった神官の瞳の中では瞳孔が収縮し、抜けかけていた意識がこの場に戻って来た。そして、今度ははっきりとした意識の中で見開かれた灰色の光彩には、憤怒の形相をしたヴォルグの長の顔が映っていた。
『そこまでだ。異端者どもが』
「あ……な……た……は?………」
圧し掛かって来た大きな白い獣を前に神官は息を飲んだ。信じられないという具合に目を見開いた。
「………ヴォルグの……長?」
セレブロは鼻先を神官の間近に寄せて残忍な笑みを刷いた。剥き出しになった犬歯が室内の微かな光を吸収してきらりと反射した。
「どうして……?」
なぜこの場にヴォルグの長がいるのか、神官はまるで理解できないというようだった。
『ほう? いい度胸だ。愚か者めが。莫迦げた儀式など即刻止めよ。これ以上、我が同胞を害すること許さぬ』
今にもその喉笛を噛み切らんばかりの勢いで低く唸り声を上げたセレブロに神官が虚を突かれた顔をした。
「長のはらから……?」
『うぬらが贄に定めしは、我が朋輩』
「な……ん…と?」
「セレブロ殿!」
そこに後から駆けてきたユルスナールたちが飛び込んできた。
こじんまりとした室内には、心身共に消耗しきった神官たちが散らばるようにして倒れ、蹲っていた。術の途中でセレブロの急襲を受けた彼らは吹き飛ばされ、意識朦朧としたまま起き上れずにいたのだ。
「シーリス」
「ええ」
ユルスナールの目配せにシーリスは静かに頷くと共にやって来た兵士たちに命令し神官たちを後ろ手に縛り上げ拘束していった。兵士たちは正装の軍服の腰に回っていた飾り紐を毟り取り、それを捕縛に充てた。
「キシニョフ殿」
ユルスナールはセレブロの前で横倒しになり片肘を突いて上体を起こした神官に近づいた。神官の瞳孔は再び収縮を繰り返していた。闖入者を認識した様子はなかった。
ユルスナールは神官の襟首を掴むと思いっ切り引き寄せた。視点の定まらない相手の正気を戻す為にその頬を思い切り張った。
「何をする? なぜ邪魔をした?」
意識が戻った神官は、目の前にある男の顔を見て、その顔を忌々しげに歪めた。
「なぜ邪魔をした? あともうすぐだったのだ。あともう少しで遥かなる高みに届いたというのに。扉があった。この手には鍵もあった。今まさに、その神聖なる扉が開かれんとしていたのだ。我々の長年の夢が叶う時が来たのだ。我々はいまだかつてない新たな境地に辿りついたというのに!」
術式完成の手前で邪魔が入ったことへの恨みを込めるように己が持論を繰り返した神官の自分勝手な言い草にユルスナールは激高した。
「ふざけるな!!」
掴んだ襟元をぎりぎりと引き絞り、苦しみに歪む男を睨み付けるように凄んだ。
「儀式などクソ食らえ。何の縁もない人間の命を贖いに何が得られるというのだ。神はそのようなおぞましい犠牲に応えるというのか。慈愛を謳うリュークスはかようにも残酷なのか!」
ユルスナールの怒りは頂点に達していた。
「そんなことがあってたまるか! どうせやるならあんたたち神官中から選べばいいだろう。敬虔なる信者なのだろう? あんたらの中では殉教は名誉ある死ではないのか? 神の為に自らを捧げるんだ。嬉々として手を挙げる者がいるんじゃないか? なぜ無関係の人間を巻き込んだ?」
だが、その時、祭壇に置かれていた【聖なる石】が突如として眩いばかりの光を発し始めた。五色とは違う虹色の光彩が煌めきながら立ち上り、少しずつ何かの形を取ろうとしていた。
それを横目にした神官は、狂喜とも驚喜とも思える恍惚の表情を浮かべた。
「素晴らしい! おおお。やはり我らが祈りは通じたのだ。道が繋がった。扉が開かれたのだ! リュークスは我らが想いに応えてくれた!」
狭い祈りの間の中に突如として出現した膨大な光に、黙々と捕縛作業に当たっていた仲間たちは意表を突かれ、眩しさに顔を腕で覆った。
ユルスナールはその光景に愕然とした。
「そ……ん…な!」
神の降臨は、即ち、己が愛する人の永遠の死を意味していたからだ。
儀式が成功してしまったというのか。間に合わなかったのか。リョウはもう戻っては来られないのか。
放たれた膨大な光が集約し、少しずつそこに人のような造形を描き始めた。ぐにゃりと何かが生まれ出るように歪み、徐々に髪の長い【女】の姿を象り始めていた。
女神の降臨だった。何よりも狭い室内に充満し始めていた体が竦むような威圧感と圧迫感に息をするのが苦しくなるような気がした。金縛りにあったように体の自由が利かなかった。足が鉛のように重くなり床に張り付いたようだ。
『我が愛しの背の君はいづこ? 懐かしき気を辿ってきたと思いしが。妾を呼ばったのではないのか?』
直接脳内に響いた声は、高い鈴のように澄んでいた。揺らぐ小さな粒子の中に現れた女性はぐるりと首を巡らせて、室内にあったとある存在に目を留めた。
『やや。珍しいのがおる。長ではないか』
そこには白銀の艶やかな毛並みを持ったセレブロがいた。
『リュークスよ。こたびの召喚は人の理より外れたこと。即刻戻られよ。そなたの尋ね人はこなたにはあられぬ』
女神の降臨に頭を低く垂れながらもセレブロは静かに言葉を紡いでいた。
『久方振りに降りたというに即いねと言いやるか。相変わらず無粋な輩よのう』
『もう一度言う。即刻戻られよ』
慇懃な態度を崩さないながらも剣呑な空気を醸し出した白銀の長に女神リュークスは白けた顔をした。
『道を繋いだのはその方たちであろう?』
『我が同胞をその器と導にしおってな』
怒りの籠ったセレブロの声音にリュークスは目を細めて白銀の王を見遣った。そして、そのまま首を周囲に散らばった神官たちに向けようとした。
その時だった。
祭壇に置かれた石から今度は別の青い光が強く出て、周囲に揺らぐ闇を飲み込むように輝きを放ち始めた。
『リュークス』
室内にもう一つ別の声が響き渡った。
『戻りなさい』
今度の声は、しっかりとした低い男のものだった。
強烈な思念のようなその音でありながらも音でない声音に、室内にいたユルスナールたち常人は咄嗟に耳を覆い、こだまする鈍い金属音のようなものから頭を庇うように体を低くした。中には膝を着き蹲るようにしている兵士もいた。それほどまでに【人】にとっては耐えがたい強烈な神気の片鱗が現れようとしていたのだ。
男の声に光の中のリュークスは嬉々として顔を上げた。
『おお、我が君! 探しましたぞ。いづくにあられまする? おお、そこな。参りまする故、今しばらく』
そこで突如として淡い黄色の光が揺らぎ、強い風が吹き抜けたように女神の姿を形作っていた虚像が消えた。
「リュークス! お待ちください!」
待ち望んだ女神の降臨に感極まり、魂が抜けたように呆けていた神官は、急に遠ざかってゆく高次元の存在に悲痛な叫び声を上げた。
「どうか今しばらく御猶予を!」
だが、神官の懇願も虚しく、再び、祈りの間は小さな蝋燭の明かりが揺れる仄暗い空間に舞い戻ったのだった。
網のように張り巡らされた重苦しい静けさと沈黙の中、中にいた男たちは金縛りが解けたように次々と息を吹き返して行った。
セレブロは一人静かに体を反転させると祈りの間を後にしようとした。
「セレブロ殿?」
不安と焦燥に駆られるように白銀の長を見たユルスナールに、セレブロはその虹色に煌めく光彩に象られた瞳を陰らせながら目を伏せると、無言のまま静かに首を横に振った。
ユルスナールの言いたいことは理解出来たようだ。元より、セレブロとユルスナールが思うことはだた一つ。リョウの身を案じることだった。
『我にも分からぬ。だが、覚悟をせねばならぬやもしれぬ』
悲痛さえある長の弱気な発言にユルスナールは固く拳を握り締めた。
「いいえ。絶対にリョウは戻ってくる。いや、呼び戻してみせる」
ここで全てを諦めたくはなかった。熱い決意を秘めながら、ユルスナールは再び愛する人の元へと戻る為に来た道を駆け出していた。
***
残された男たちは、無言のまま、縛り上げ拘束した神官たち引き立てて行った。昏倒している者は肩に担ぎあげ、意識のあるものは歩かせる。このままアルセナールにある牢の一室に留め置く予定であった。
ブコバルとシーリスは顔を見交わせると頷き合い、ユルスナールの後を追った。そして、ゲオルグとドーリンが中心となって神官たちの移送を行った。
「何故だ? 何故! 神は帰ってしまわれたのだ。我らが祈りに応えて下さったのではなかったのか。何故だ?」
邪魔が入ったにも関わらず術が成功していたという歓喜の後、宣託を得られぬまま消えてしまった女神を前に絶望の淵に落とされた神官は気が狂ったように戦慄いていた。
「何故邪魔をした! 忌々しい悪魔どもめが! お前たちの横槍さえなければ、我々は宣託を得られるはずだったのだ!」
第五のドーリンにひっ立てられながらもぶつぶつとうわ言のように繰り返していた神官が、突然金切り声を上げてドーリンに掴みかかろうとした。
「キシニョフ殿。お静かに」
ドーリンは拘束した後ろ手を力強く掴むことで相手の動きを封じた。元より鍛えられた軍人と肉体労働とは無縁の神官たちの力の差は歴然としている。
神官の心はここにあらずといった具合でその目も焦点が合っていなかった。その間も呪詛のような罵り言葉が駄々漏れになっていた。
埒が明かないと悟ったドーリンがそろそろ強制的に相手を黙らせようかと思った矢先のことだった。
神殿の白壁が続く建物から出た所で、天を覆う夜の闇の中に突如として閃光と共に雷鳴が轟き、次の瞬間、バリバリと空を引き裂くような轟音とともに天より地へ向けて真っ直ぐに一筋の閃光が降り注ぎ、神官の体を貫いて行った。
ドーリンは咄嗟に体を伏せると地面に転がった。何が起きたのかはよく分からなかったが体が反射的に動いていた。
そして、すぐさま顔を上げた時、ドーリンの視界に入ったものは、真っ黒に焦げた人の形を辛うじて保っている黒い燃え滓のような塊だった。もうもうと煙のようなものが上がっている。
驚愕に目を見開くも、直ぐに鼻先を掠めた特有の生臭さと焦げ臭さにいつも以上に深い皺が眉間に寄った。
「ドーリン!」
「隊長! 大丈夫ですか?」
「隊長!」
ゲオルグと部下のイリヤとウテナからすかさず声が掛かった。
先程まで神官のキシニョフがいた場所には黒い塊があるだけで、それも突然吹き寄せた強い風に瞬く間に塵のようにして掻き消えて行こうとしていた。
一体、何が起こっているのだ。ドーリンを始めとする兵士たちは度重なる人知を超えた予想外の出来事に驚き、そして硬直した。
「天からの鉄槌じゃ」
その時、じゃりと地面の砂を踏む音がして、声のした方へ顔を向ければ、白い簡素な上下に身を包んだ小柄の老齢の神官が立っていた。
神官長のイシュタールであった。
「どれ、それがしも共に参りましょう」
―全てはリュークスの御心のままに。
そう言って集まった兵士たちを見渡した。
数多もの神官たちの頂点に君臨する老人は、セレブロの咆哮に最悪の事態が起きたことを知ったのだ。イシュタールは、キシニョフたちの無謀とも言える暴挙を止めることが出来なかった。それは数多もの弟子を束ねる神殿の長としては失格であると見做されるのかもしれない。だが、歴史ある神殿の長い伝統の中では、それは些か趣が違った。属する場が違えば、そこでの慣習も常識とされる考えも随分と異なってくるものである。神殿という場所は、その言葉使いからして外部の人間には分かりにくい論理がまかり通っていることで有名だった。
彼らの考えとしてはこうだ。滔々と流れ続ける川を堰止めることは出来ない。たとえ堰を作ったとしてもやがてそれは溢れ出し、また別の新しい流れを生み出すことだろう。そしてその川の流れは大海に注ぐまで続くのだ。
要するに弟子の間違いも必然的な大いなる流れの中で起こるべくして起こったもので、過ちには必ず神から相応の罰が下るという思想だ。それは神殿の中にある種独特な【自浄作用】というべき論理であった。
そして今、目の前でその【自浄作用】が行われたのだ。
神官長イシュタールの全てを悟ったかのような厳かな佇まいにドーリンは丁重に頷いた。
神殿は元より治外法権的な場でもある。神官たちの処罰は神殿の中でのみ行われ、宮殿の権力は及び辛い。それを敢えて宮殿側に委ねようということなのだ。これまでの慣習から考えれば、それは神殿側の決断としてはかなり思い切ったことだった。
「では参りましょう」
ドーリンの静かなる号令に神官長は同意し、そして兵士たちは拘束した白い衣の男たちを引き連れて神殿からアルセナールへと向かった。男たちは黙々と歩き続けた。
補足:最初の四行は神官たちの祈りの文言です。意味不明な古代文字が使えればよかったのですが、ロシア語で代用しました。
意味は大体次の通り。
「神よ、慈悲深い神よ。聖なる流れはやがて大いなる川となり、天から地へと万物は調和の中で静かに巡り続けけるだろう。やがて扉が開かれるその時を待ちながら……」