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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
196/232

【余興】の結末

 ちょうど時を同じくして、セレブロがリョウを連れ去った後、祝賀会が開かれていたはずの大広間では、大きな動揺が走っていた。暫し、人々は時間を止めたように身じろぐことすら忘れていた。中には呼吸の仕方を忘れてしまったような者もいた。正確には、何が起こったのか分からない者が殆どだろう。まるで悪い夢を見ていたような気分かもしれない。

 やがて息を吹き返した人々が、少しずつ己が【時】を取り戻していった。不特定多数の人々から発せられる例えようのない衝撃と不安と焦燥と驚愕の入り混じった感情が渦巻くようにしてざわざわとその場を支配しようとしていた。

 だが、そのような中でいち早く、この場の状況打開に声を上げたのは、この国の最高権力者【ツァーリ(国王)】だった。

「【ヴニィマーニィエ(静粛に)】!」

 (ツァーリ)のその重みある一言に広間内に満ちていた低い囁きがぴたりと止んだ。(ツァーリ)は、一人、玉座のある上段に足を進めるとその中心に立ち、広い会場内に点々と散らばる己が臣下たちを始めとする招待客を威厳ある立ち姿で睥睨した。

「状況を整理する。こたびの祝賀会はこれにて打ち切りとする。ご婦人方は速やかに別室へ。準備が整い次第、帰宅願おう。全大臣、将軍、各師団長、監察官、神殿神官(ユプシロン)、その他関係者はこの場に留まられたし。他の者は、速やかに帰宅のこと」

 そして、招待客の避難誘導を行っていた第二師団の兵士たちに別室に客人たちを移動させるよう命を下した。

 だが、その前に一言付け加えるのを忘れなかった。

「尚、この場での顛末、みだりに騒ぎ立てることは無用。追って沙汰を下す。それまではいかなることも不用意に口走らぬこと。皆の良識と節度ある態度に期待する」

 そして、祝賀会の散会と人々の移動が始まった。


 この広間に残ったのは、国王(ツァーリ)による執政の補佐機関である中央審議会の大臣たち、監察機関の官吏、神殿の神官(ユプシロン)たち。軍部からは将軍、そして各師団長とその部下。当事者となったシビリークス家からは、セレブロの後を追って神殿へと向かったユルスナールに代わり、父親のファーガス、そして二人の兄たちがこの場に留まった。勿論、この全ての発端になった直訴をした貴族タラカーノフもいた。

 残された人々の大半もまだつい今しがた起きた事態を上手く飲み込めていないようだった。どこか心ここにあらずという表情をしていた。これから何が始まるのか。未知に対する漠然とした不安のようなものが霞みのように漂っていた。

 辺りには乱闘の末、昏倒したタラカーノフ配下の男たちが点々と散らばっていた。

 まず始めに第一師団長のフラムツォフが中心になり、乱入した男たちを得物共々拘束し、別室に移すよう手配した。広間に残る他師団の兵士たちもそれに手を貸した。


 兵士たちが黙々と作業をする間、王の周りに残された人々は沈黙を貫いていた。発するべき言葉を持たなかったということもあるが、何よりも玉座の前に立つ王から発せられる空気が常になり緊迫感と苛立ちを顕わにしていたからだ。事態は深刻である。そのことだけは理解出来た。

 この場に残った貴族たちの中に大臣の任には就いていないが中央審議会に加わっている男が一人いた。その名をアファナーシエフという。交友範囲も広く、影響力を持つことから顧問的立場から議会の末席に名を連ねていた。

 その有力貴族であるアファナーシエフの隣に腹心の部下であるソルジェが気配なく立つと己が主にそっと顔を寄せて耳打ちをした。主はやや険のある眼差しで己が懐刀を見るが、何も言わずに小さく右手を振った。その右手の中指には鈍い輝きを放つ赤い石、【アルマ石】の付いた指輪があり、微かな男の手の動きに合わせて小さな煌めきを放った。それを合図に忠実な部下はそっと背後に下がった。

 (ツァーリ)の傍には、二人の息子、皇太子と第二皇子が立った。

 やがて闖入者の拘束を終えた第一師団長が戻り、場の空気が一段と引き締まったものに変わった。


 (ツァーリ)は集まった男たちをぐるりと見渡した後、その視線を先の北の将軍、シビリークス家・家長へ向けた。

「ファーガス、かの者は?」

「我が息子、ユルスナールの婚約者です」

「そなたは、その者が長の【魂響(タマユラ)】であることを知っていたのか?」

「御意」

 肯定として小さく下げられたファーガスの頭に王は沈痛な面持ちで緩く長い息を吐きだした。

「ヴォルグの長に会いまみえるは、先の即位以来、十七年ぶりだ。二度目の邂逅がこのような事態になろうとは……」

 絞り出されるようにして零れた述懐は苦渋に満ちていた。

 ヴォルグの長の情けを受けるということは、その者が何者にも縛られない自由な身であり、その心根清き証でもあった。政治的、軍事的な策謀蠢くきな臭い領域に身を置くような者ではないはずだった。

 あの突き抜けたような怒り。激しい憤怒の怒気を真正面からぶつけられて正直生きた心地がしなかった。こちらを低く見据える瞳は、かつての記憶通り虹色に煌めきならがも、そこにあるのは冷酷さえある禁色だった。

 ここに集まる者たちの中で、王族と縁戚関係にある大臣を始めとする貴族たち、そして長きに渡り受け継がれて来た王族とヴォルグとの深い繋がりを知る者たちは、王の心の内を思い、同じような沈痛さに目を伏せた。

 そこでファーガスが念を入れるように一歩進み出た。

「陛下。高潔を信条とするヴォルグの長の【魂響(タマユラ)】であるあの者がノヴグラードの斥候であるはずがございません。あの者は、我が息子が生涯の伴侶として選んだ者。ここ暫く我が屋敷で面倒をみておりましたが、私の目から見ても曇りなき純真な心根の者です。我が息子に掛けられた嫌疑共々、お門違いもいいところ。何故、かようなる侮辱を受けねばならぬのか、甚だ理解に苦しみます」

 確固たる決意を秘めた深い瑠璃色が王を真っ直ぐ見ていた。


「陛下。恐れながら申し上げます」

 そして、そう言ってその場で騎士の最上級の礼節に則り床に片膝を着いたのは、ユルスナールの片腕である第七師団副団長のシーリス・レステナントだった。

 シーリスはその場で普段の柔らかさの欠片もない引き締まった顔を上げた。

「第七師団長ユルスナール・シビリークスの身の潔白は、我ら第七師団所属の部下一同、この命に代えましても保証致します。ユルスナールとはこれまで長きに渡り部下として行動を共にしておりましたが、スタルゴラドに忠誠を誓い、その職務に忠実な立派な男です。おかしな素振りを見せたことなど一度もありません。何よりもその仕事ぶりが証明してくれるでしょう。隣国に通じているなぞ、とんでもない。莫迦げた話もいい所。それはここにいる兵士たちも認めることです」

「「「是」」」

 その言葉に第七の兵士たちは一斉にシーリスに倣うようにその場で片膝を着いた。

「身内の話など当てになるものか」

 沈黙の隙間を突くように吐き出すようにして小さく漏れた呟きをシーリスは的確に拾い上げると寒々しい程の冷笑を浮かべた。口元は辛うじていつものような笑みに象られていたが、その目は烈火の如き熱い怒りを秘めながら、不躾な言葉を吐いた中央審議会の一人である大臣、イリューヒンを見据えていた。

 レステナント家特有の苛烈な菫色の瞳にイリューヒンはばつが悪そうに小さく咳払いをした。


「陛下、私からも一言申し上げたき儀があります」

 次に静かに一歩前に踏み出でて敬礼をしたのは、南の将軍を拝命するオリベルト・ナユーグだった。堂々たる風貌をそのままに武骨さの中にも気品を滲ませながら深みのある声で語った。

「ユルスナールは、あのラードゥガ・シビリークスの甥であり、幼き頃から叔父であるラードゥガを慕っておりました。私の目から見てもあの男の魂と遺志を引き継いでいるのは、ユルスナールであると言っても過言ではないでしょう。先の戦でこの国の為に戦い、最後の一線で志高く散っていったラードゥガをこのような茶番で辱めることは断じて許せません」

 そのやや後方から間髪入れずに別の声が上がった。

「私からも一言、申し上げます」

 その後を引き継いだのは第三師団長のゲオルグ・インノケンティであった。

「タラカーノフ殿が、斥候だと主張したあの者は、ここより遥か北方、我が国の軍事拠点である北の砦よりもさらに北東、太古の森が始まる辺縁に暮らしていると聞いております」

 ―ですよね、シーリス?

 同意を求めるように振り返ったゲオルグにシーリスは真面目な面持ちで頷いた。

「ええ。間違いありません」

 太古の森の辺縁と聞いて心当たりのある者は顔を見交わせ密やかに囁きを交わし合った。

 そこに更なる動揺の切れ端のようなものを見て取ったゲオルグはうっそりと目を細めて男にしては鮮やかな笑みを浮かべた。

「ええ。皆さんの御想像の通り、あの者は故ガルーシャ・マライ殿と共に暮らしておりました」

 それを引き継ぐ様にシーリスが姿勢を正した。

「はい。かの者は、あのガルーシャ・マライ殿をして【最後の家族】と言わしめました。そして、その最期を看取ったそうです。どうかこれ以上、故人の名を穢すことはなきようお願いいたします」


「それは………真か?」

 それまでずっと沈黙を貫いていたタラカーノフが、絞り出すように掠れた声を上げた。口を小さく開いては閉じを繰り返すが、それ以上、音として認識出来るような言葉は出て来なかった。

 どうやらタラカーノフは、それらのことを知らなかったようだ。

「タラカーノフ殿、お聞かせ下さいませんか? 一体どなたからどのような情報を得て、このような奇想天外なお話しを創り上げたのか。私としては非常に興味があります」

 冴え冴えとした冷ややかな眼差しを投げたシーリスの隣で、ゲオルグも姿勢を正すと口を開いた。

「ええ。それは私にも是非お聞かせ願いたいものですね。あの者、リョウはこの度、術師養成所を優秀な成績で修め、見事術師としての認可を得ました。我が国にとっても貴重な人材と言えるでしょう」

「まさか……あの者はガルーシャ・マライに師事していたというのか?」

 少し前に耳にしたガルーシャ・マライの弟子に関する噂を思い出したのか、監察機関を統括する大臣であるイジューモフが驚きの声を発した。

「師事していたというのは若干語弊がありますが、リョウの素養の高さを見込んで、それなりの事をしていたようです」

 事情を良く知るシーリスが静かに頷けば、イジューモフは豊かな髭が生えた頬を形容し難い苦々しい表情で撫で摩った。

「ああ、それから。イジューモフ殿、貴殿にお聞きしたいのですが」

 今度はゲオルグが、明るく波打つ茶色の髪を緩く束ねた壮年の男を見遣った。小首を傾げたゲオルグの顎の辺りで切り揃えられた淡い金色の髪がさらりと揺れた。

「最近、何でも神殿の方では儀式を予定していると専らの噂ですが、その件はそちらに報告が届いているのですよね?」

 神殿、儀式。その二つの単語に反応したのは、王族の皇太子だった。

「儀式………だと? そのような話はこちらには届いていない。どういうことだ?」

 皇太子が気分を害したように半ば憤慨しながら神官たちを見た。

 神殿が行う先読みの儀式は、宮殿の意向を確認した上で行われるというのが決まりであった。神殿による宣託の儀式は、この国の行く末を左右させる王族にとっては重要な意味合いを持つものだからだ。そこで得られた宣託は神聖且つ貴き賜りものとして王の政治に強い影響力を及ぼした。

 二つ前の春、その慣例を覆した神官たちの勝手な振る舞いに宮殿は神殿に対して不信感を募らせていた。その後、両者の一部穏健派によって関係修復が目指されたが、未だぎくしゃくした影を落としていた。

「ちょうどいい。こちらにユプシロンの方々がいらっしゃいますからお尋ねになれますね。いかがでしょう、クルパーチン殿?」

 ゲオルグは白い上等な正装用の上下に濃い紫色の帯を締めた高位神官を見た。集まった人々の視線が一斉に白い衣に身を包んだ神殿関係者に注がれた。

「おやおや御冗談を。何を仰ることやら。いけませんねぇ、インノケンティ殿」

 クルパーチンはぎょろりとした魚のような目を細めて、肉の薄い皺だらけの頬を緩めた。シラを切る積りであるらしい。

「おや、この後に及んでお惚けになるのですか? 先日、私に教えて下さったではありませんか。そちらで儀式を予定していると。その時、【黄色い悪魔】を融通出来ないかとお尋ねになりましたよね?」

 ―痴呆になるにはまだまだお若いはずですが? それとも健忘症ですか?

「そして、リョウをその色彩から贄にしようと企んでいたのではないのですか? その為に一人の侍女の命を弄んだ」

 ここぞとばかりに畳み掛けるようにシーリスが言い放った。

「なんだと?」

 贄という言葉にシビリークス家の男たちは一斉にその身に纏う気に剣呑さを含ませた。


「さて。では今度はそなたたちの意見を聞こうか? イジューモフ、タラカーノフ」

 一連のユルスナール支持者たちの擁護の主張を聞いた後、(ツァーリ)は騒ぎの原因を作った直訴の張本人とその訴えの元になったとされる監察官を見た。

 タラカーノフは、口を小さく開いたまま震えていた。心底、忌々しげに顔をくしゃりと歪めるとだらりと垂らしたままの腕の先、己が拳をきつく握り締めた。顔色は一度蒼白を通り越して、再び怒りにか斑な赤みを帯び始めていた。

「では、監察に届いた申し立ては………」

 低く漏れたイジューモフの声に、

「今となっては、その中身の信憑性は当然のことながら疑うべき点が多いでしょうね。その証拠となったとされる暗号文も怪しいものです」

 シーリスが堂々と言い放った。

「ええ。同感です。そもそもあの会議は大した秘密などない確認のようなものでしたからね。知られて困ることなどなかったはずです」

 そこで初めて財務官として件の鉱脈関連の会議に出席していたケリーガルが間に入り、補足的な説明をした。

「ということは、全てが仕組まれたものだったと?」

 そう言って、確認をするように疑念の目でタラカーノフを見たイジューモフに、当事者のタラカーノフは、

「【カァコーイチョールト(チクショウめ)】!」

 (ツァーリ)の御前であるにも関わらず低く絞り出すように呪詛の言葉を吐いた。

「おのれ(たばか)ったか!」

 そう言って自分の周りをぐるりと見渡すと、とある一点を睨み付けるようにありったけの憎悪を込めて見据えた。燃えるような瞳が貫いた視線の先で、豊かな長い髭に覆われた男の口元が微かに動いた。

 だが、タラカーノフが再び呪詛の言葉を吐こうとした次の瞬間、

「……クッ……………」

 突然、タラカーノフが胸を押さえて苦しみ始めた。そして、がくりと片膝を着くと瞳を限界まで見開いて、悶え苦しむように空いた手を前方へ伸ばした。

「……グァハッ………」

「タラカーノフ殿?」

「いかがなされた?」

 近くにいた第一のフラムツォフが、配下の兵士に傍に行くように目配せをした。

「タラカーノフ殿?」

「旦那さま!?」

 少し離れた所に控えていた従者が急ぎ駆け寄って来た。

 だが、第一の兵士が傍に跪き、蹲る男に手を伸ばした所で、タラカーノフは動かなくなった。

「どうした?」

 一通り、状況を改め頸動脈の辺りで脈を測った兵士は、顔を上げると緩く首を横に振った。

「こと切れております」

 どこかで舌打ちの音が聞こえた。

 各師団の兵士たちの間に突如として緊張が走り、辺りに侵入者の気配がないかどうかを改め始めた。

「先手を打たれたか」

「消されたか」

「どうやら即効性の毒を盛られたようですね。しかもかなりの劇薬だ」

 何が使われたかは実際に調べてみないと分からないだろう。

 部下に続いてタラカーノフの遺体をざっと改めたフラムツォフがその首の所に刺さる小さな針のようなものを見つけて手袋をはめた手に取った。広間にいる間、タラカーノフの後ろには誰もいなかった。吹き矢のようにして飛ばしたにしては距離があり過ぎる。が、念の為、フラムツォフは即刻部下の兵士たちに付近を捜索し不審な人物がいないかどうかを改めるように命じた。

「証拠隠滅を図ったのかもしれません」

「死人に口無しという訳か」

「ということは裏にもう一枚あるな」

 険しい顔をした第一師団長の報告を受けて、西の将軍が眼光鋭く周囲を見渡した。まるでタラカーノフを操っていた透明な糸の先を辿るように。

 これで、タラカーノフの主張が不当なものであることが濃厚になっただろう。

 (ツァーリ)は顔を唇を引き結ぶと即決したように顔を上げた。

「即刻この一件を始めから洗い直せ。その任はオスターペンコ、そなたに任せる。関係者と第二は惜しまず協力せよ」

「ハッ」

「御意」

 第二師団長のスヴェトラーナが恭しく頭を垂れれば、その隣で一連の調査の指揮を取るように命を受けた中央審議会の一人であるオスターペンコも倣った。オスターペンコは、軍部にも属さず、宮殿内での立ち位置も比較的中立を保っている男だった。どちらにも左右されない公平性を重視しての人選のようだ。

 そして次に王はシビリークス家の男たちを見た。

「それまでシビリークスの末は謹慎せよ。良いな?」

「御意」

 ファーガスが王の命に静かに頭を垂れた。

 第三者による公平な調査の間は大人しくしていろということだろう。ファーガスとしてもその事に異論はなかった。

 引き続きタラカーノフ配下の男たちの身柄を拘束し、取り調べを行うよう命が下った。


 宮殿内関係の方は、これで一先ず方針が決まった。

 残るもう一つの懸案事項は、(ツァーリ)にとってはより大きな意味合いを持っていた。何と言ってもヴォルグの長が絡んでいる。長きに渡りこの地を治めてきたツァリョーフ一族の今後、引いてはスタルゴラドの繁栄と発展に関わる事態でもあった。

 神々の寵愛を受けたヴォルグの一族から見放されるということは、神々から見放されたも同じ。その噂が広まれば、周辺各国からは呪われた国との烙印を押され、今も尚、虎視眈々(こしたんたん)と国土拡大の機会を狙っている隣国ノヴグラードに再び付け入る隙を与えかねなかった。この国を滅びの道に進ませる訳にはいかない。

 一家臣の暴挙に長の同胞(はらから)を巻き込んでしまったことは、貴族たちを従える立場にある王としては監督不行き届きである。この償いはしなければならない。たとえどのような代償を払うことになろうとしても。

 王は新たに気を引き締めると顔付きを更に真剣なものへと改めた。


「では次に神殿からのお客人に尋ねるとするか」

 (ツァーリ)のその言葉に多くの臣下たちが広間に残る神官たちの一団に一斉に視線を向けた。明白な対立の図式が図らずもこの場に現れたこととなった。

 宮殿側の強い視線にあからさまに顔色を悪くしたような者も中にはいたが、このような宮殿側との渉外活動に当たる神官たちは、強かさという点では宮廷政治を泳ぎ回る貴族たちに負けないくらい豪胆で面の皮の厚い男たちが多かった。

 その最たる者が、多くの神官たちの前に立つ枯れ枝のように線の細い男、クルパーチンだった。交渉を得意とする男で巧みな話術で宮殿内の様々な男たちに接触を持ち、その影響力を触手のように伸ばして行った。

「なんなりと。我々の出来る範囲でご協力を致しましょう」

 クルパーチンは取って付けたように恭しく一礼すると皺だらけの口元に象られた薄い唇に笑みを浮かべた。

「儀式を予定しているというのは真か?」

 偽りは許さない。強く相手を見据えた最高権力者に対し、クルパーチンは顔付きを真面目なものに改めると淡々と口を開いた。

「神殿内部の急進派の中に一部そのような動きがあったのは確かなことですが、それもあくまでも過去のこと。今では収束しております」

 相手の発現の真意を確かめるように(ツァーリ)が目を眇めた。

「贄云々というのは?」

「我々は豊穣を司る女神であると同時に慈愛の女神でもある【リュークス】に生涯の忠誠を誓う敬虔な愚者。無用なる殺生は戒律で厳しく禁じられております」

 ユプシロン流の言い回しに王が鋭い視線を投げた。

「では、かの長の【魂響(タマユラ)】をその儀式の贄として得んが為にタラカーノフを唆したという訳ではないのだな?」

 核心を突くような質問にクルパーチンは動揺を見せなかった。

「それは余りにも酷い仰りようではありませんか。我々がそのような神を愚弄する野蛮に手を染める訳がございません」

「その言葉に偽りはないのだな?」

「御意。我が神リュークスに誓って」

 尤もらしい言葉を口にしてから静かに頭を垂れたクルパーチンに、王はその場でのこれ以上の追及を無駄だと判断した。

「良かろう。イシュタールに伝えよ。明朝、神官長を改めて召致し、この件を確かめることとする。良いな?」

「仰せのままに」

 俯いた神官の口元が薄らと笑みの形を作ったことに気が付いた者はいなかった。

「ではこれにて散会」

 (ツァーリ)が息子たちと側近を引き連れて広間を後にした後、残された人々も散り散りに広間を離れることとなった。事態究明の任を帯びたオスターペンコは早速第二師団長を捕まえて、今後の方針を話し合いながら足早に広間を後にした。そして中央審議会の大臣たちも其々派閥ごとに纏まりながらその場を離れて行った。

 その中の一人、アファナーシエフは、去り際、ファーガスの方を一瞥して小さく笑みの切れ端のようなものを浮かべて口角を上げた。無言のまま向き合うこと暫し、最初に視線を逸らしたのはファーガスの方だった。


 こうして最後に広間に残ったのは第七師団の兵士たちと第五のドーリンたち、そして第三のゲオルグだった。彼らは無言のまま顔を見交わせると小さく頷き合った。

 これより向かう先は決まっていた。ユルスナールの後を追うべく神殿を目指すことで一致した。彼らとしても崩れ落ちたリョウの身が心配だったからだ。

「ゲオルグ、あの判じ薬というのは本物ですか?」

 リョウが口にしたグラスの中身をシーリスは尋ねた。

「似たようなものがあるのは確かですが、我々の所では【黄色い悪魔】を使ったものではありませんよ」

 【黄色い悪魔】は、その成分研究と軍事的転用を含め、未だ調査試験中の代物だ。第三の中では、それらを有効利用する方法をまだ確立できていなかった。

「やっぱし、眉つばもんかよ」

 憎々しげに毒づいたブコバルの横で、シーリスは眉を顰めた。

「では、あれは本当に【毒薬】であったかもしれないと?」

「可能性は否めません」

 同じく険しい顔をしたゲオルグであったが、一縷の望みを繋ぐようにシーリスを見遣った。

「ですが、儀式の贄は生きていなければならないのですよね?」

「ええ。そのように聞いています」

 神を降ろす為に、その者を昏睡状態にさせるのだ。

「ならばまだ望みはあるかもしれません。ヒューイ!」

 ゲオルグは第三師団副団長のヒューイ・サフォーノフへ合図を送ると第三の薬草庫から至急、解毒剤を取りに向かうよう告げた。

 そして、部下の長身が広間を抜けたのを見て取った所で振り返ると、直ぐ傍に影が立った。第五師団の面々だった。

「ならば、あの神官の言動を見る限り、諦めてはいないのではないか?」

 第五のドーリンが眉間に深い皺を寄せて冷静に指摘すれば、

「クッソ、あのイカレ野郎め」

 ブコバルは盛大に舌打ちをして後方を振り返ると大声で叫んだ。

「シーマ! 万が一の場合がある。お前んとこ(第一師団)の手合いを神殿に向かわせろ。上に報告、神殿で不穏な気配あり。俺たちは先に行く!」

「分かった」

 そして、残った兵士たちは再び、神殿を目指して駆け出した。


補足:「シーマ」とは第一師団長マクシーム・フラムツォフの愛称です。「マクシーム」からの変化形。

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