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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
195/232

投げられた賽

「リョウーー!!!」

 愛する唯一無二の大切な人の名を連呼しながら、ユルスナールは囲む人垣を抜け出した。

「クソッ」

 制止をしようと掴みかかる男たちを勢いのままに殴り倒し、少しでも早く、崩れ落ちたリョウの傍へ駆け寄ろうとしたが、その進路を塞ぐように槍を手に周りを囲んでいた男たちが前に立ちはだかった。

「どけ! 邪魔をするな!」

 ユルスナールは、腰に佩いた長剣の柄に手を掛けるとタラカーノフの私兵と思しき男たちを眼光鋭く睨みつけた。

「退け。それ以上邪魔をすれば、容赦なく斬り捨てる」

 宮殿内での剣を手にしての乱闘、そして私闘は御法度とされていた。ユルスナールとて厳罰は免れないだろう。だが、そのような事など、今は瑣末なことだった。

 真正面からぶつけられた(ほとばし)るような殺気に周りを囲んでいた男たちが怯んだ。相手は武芸大会で優勝を果たした猛者だ。格の違いは明らかで個別に剣を交えたら敵う相手ではなかった。何よりも放たれる気迫が凄かった。槍の切っ先が逡巡するようにぶれる。

 その隙にユルスナールは囲みを抜けるように走り出した。

 だが、足止めをしようと直ぐに男たちが躍りかかって来た。

 加減などしなかった。立ちはだかる男たちに対し、乱闘さながらの様子で自分を抑えつけようとする輩を殴り、そして蹴り倒した。辛うじて残る最後の理性がこの場で剣を抜くことを止めさせていた。だが、それはいつ切れるともしれない綱渡りのような細い糸だ。

 ユルスナールは必死だった。早く、一刻も早くリョウの下に行かなくては。リョウが口にしたのは、本当に単なる【判じ薬】だったのか。それとも悪魔の毒薬だったのか。心臓が煩いくらいに鳴っていた。脈打つ血液が耳の奥をガンガンと鳴らしていた。

 前方、崩れ落ちたリョウの傍にどこからともなく白い上下に身を包んだ神官たちの姿が現れた。

 その足さばきに揺れる白い衣が目に入った瞬間、

「ふざけるな!」

 ユルスナールの怒りは頂点に達し、一気に爆発した。

「リョウに触れるな! お前たちの好きにはさせない! リョウを儀式の贄になどさせるものか!!」

 獣の咆哮のようなびりびりとした怒声が広い空間に響き渡った。


 辺りはさながら乱闘のような様相を呈し始めていた。このままではいつこの神聖なる宮殿で血が流れてもおかしくない。第一のフラムツォフを始めとする各師団長たちとその上の将軍、そして大臣たちが事態を収拾すべく動き始めた。

 まず、タラカーノフの私兵たちと揉み合いになっている第七の兵士たちを引き離そうと試みる。

「タラカーノフ殿、今すぐ、兵を引きなされ! これ以上はただでは済まされない。貴殿を厳罰に処することになりますぞ!」

「第一、速やかに両者を拘束せよ!」

「第二、客人の誘導を!」

「第七の兵士を拘束しろ!」

「皆さん、どうか落ち着いて下さい!」

「静まれ!」

 進路を阻もうとするタラカーノフ配下の男たちと第七を始めとするユルスナールの友人たちが揉み合いになっていた。

 突然の暴動に中にいた招待客たちが驚き、逃げまどうように後方へ避難し始めた。女たちの恐怖に満ちた叫び声や悲鳴で辺りは錯乱状態になった。第一と第二の兵士たちは速やかに王族たちを避難させ、同時に招待客たちの誘導を行った。

 立ちはだかる他師団の兵士たちやタラカーノフの私兵たちを前に、ユルスナールは声を張り上げた。

「ブコバル! シーリス!」

 だが、ブコバルもシーリスも行く手を阻まれて、身動きが取れない状態だった。

「【チョールト(クソッタレ)】!」

 ユルスナールは呪詛の言葉を吐いた。

 そして今度は別の方角に叫び声を上げた。

「父上、兄上でもいい。リョウを、リョウを!」

 神官たちの手に渡してなるものか。

 ユルスナールが目の前に飛び込んできた男の足を払い、次にやって来た男の腹に拳を突き入れて相手を伸した所で、神官たちが衛兵を連れてリョウの傍に近づこうとしているのが見えた。


 その時だった。

 広間の中に突如として獣の咆哮が響き渡った。そして、人々が動きを止めた瞬間、大広間の中央に一頭の大きな獣が白く輝く毛並みを波打たせるようにして飛び込んできた。

 ヴォルグの長、セレブロだった。

『この痴れ者めが!』

 空気を引き裂くようなびりびりとした一喝が雷のように落ち、天井から吊り下がる発光石の明かりを揺らした。

『その者に触れるな!』

 リョウの傍に膝を着き、その手を伸ばそうとした神官たちにセレブロの怒りがぶつけられた。

 その瞬間、室内全ての音がぴたりと止んだ。あれほどまでに騒然としていたのが嘘のように周囲に異様な程の沈黙が落ちた。まるで時が止まったかのように人々が動きを止めた。

 そして、広間にいた人々は、この中に突如として現れた人ならざる大きな四足の獣に意識を引き寄せられた。

 広間前方のぽっかりと空いた空間、リョウが崩れ落ちた傍らには、身の毛もよだつような恐るべき怒気を振り撒いた大きな白い獣が、光輝く毛を全身に逆立てていた。(こうべ)を低く垂れ、威嚇するように重低音の唸り声が人々の肌を舐めて行った。その大きな前足が音も無く床を叩いた。そうすると立ち上った神気の切れ端が、もうもうと波紋のように室内の空気を震わせ同心円状に派生し広まっていった。

 神官たちは驚愕に目を瞠り、その場で無様に尻餅をついたまま動けなくなった。

「あなたは………ヴォルグの長………」

 静まり返った中で漏れた唯一の音は、この国の最高権力者によるものだった。


 玉座に近い所からその獣の姿を見た国王(ツァーリ)は、驚きに目を見開き、そして震え上がった。

 (ツァーリ)はヴォルグの長を知っていた。というのも王族とヴォルグとは昔から深い繋がりを持っていたからだ。(ツァーリ)が代替わりをする際、戴冠式では必ずヴォルグの長が見届け人として立ち会うことになっていた。それは遥か昔、まだ人が森の獣たちと共にあった時代、【人の王】と【森の王】が末長い友好を願う証として交わした約定に基づくものだった。

 初代スタルゴラド王フセェミールとヴォルグの長セレブロとの交流は、この国のお伽噺の中にも連綿と謳われ、現在にまで受け継がれていた。時代が下った今では多くの人々はヴォルグを架空のお伽噺の中の存在だと思っている。だが、そのお伽噺は、かつての歴史をそのまま閉じ込めた史実であり、ヴォルグは今尚、この地に生きる気高き一族であった。この国が旗印に使う意匠は、このヴォルグの長を象ったものだ。

 そして、現国王(ツァーリ)もその位を父親より引き継いだ時、このヴォルグの長であるセレブロの立ち会いを受けたのである。それが現国王(ツァーリ)がセレブロと初めて対峙した時だった。人ならざる神に近い存在を前に(ツァーリ)は畏敬の念を抱き、人として驕りを持たぬように自らを戒めたのだ。

 それから約十七年の月日が流れていた。だが、(ツァーリ)はかつて出会ったその稀有な存在を一度たりとて忘れたことはなかった。ヴォルグは悠久の時を生きるとされる一族だ。遥か神代まで遡ることの出来るこの大陸最古の一族でもある。神々より太古の森の番人としてこの地に於いて天と地の理を説く役目を担った一族であった。

 王位を引き継ぐ時、新しい(ツァーリ)は誓いを立てるのだ。その昔、【人の王】が【ヴォルグの王】と交わした約定を守ることを。

『みそこなったわ、ツァーリよ。我が加護を与えし者へのこの仕打ち。我が同胞(はらから)をかような(むご)き目に遭わすとは。この報い、必ずや後日、受けてもらおうぞ』

「な…ん……と」

 王の顔がみるみるうちに色を失った。

「その者は……長の【魂響(タマユラ)】…なのですか?」

 絞り出された(ツァーリ)の声は震えていた。

 【魂響(タマユラ)】という言葉に床に尻餅をついていた神官たちは弾かれたように横たわるリョウを見た。

 約定の中の一節に、【徒に同胞(はらから)を傷つけること(なか)れ】という文言があった。獣たちと交わった人間もその中に含まれる。それは【獣】と【人】とを繋ぐ【仲立ち】として、尊重されなければならなかった。

 そして理由なく【人】がその【仲立ち】を傷つけた場合、必ず、相応の報復を受けることが古文書の中でも伝わっていた。

 (ツァーリ)は愕然とした。配下の大臣が斥候呼ばわりしたあげく崩れ落ちた女は、長の情けを受けていた。その者を亡きものにしようとしたとは。れっきとした約定違反だった。スタルゴラドの(ツァーリ)として失格である。ヴォルグの長の怒りは王族にとって天罰と同じだった。

 誰も言葉を発する者はいなかった。王族と近しい大臣たちは、自分たちのしでかした不手際に青くなり、そして、周囲に集う人々は初めて目にする伝説のヴォルグの長の神々しいばかりの威厳ある姿に意識が釘づけになっていたからだ。息をするのさえ忘れたように広間前方を見ていた。


 苛立ちを顕わに吐き捨てたセレブロは横たわるリョウをその背に担ぎ上げた。

「セレブロ殿! リョウをどこへ?」

 堪らず上がったユルスナールの声にセレブロは答えなかった。

 そして、まるでどこかに合図をするかのように一つ遠吠えをすると後ろを振り返ることなく、現れた時と同様にたちまち姿を消した。

「セレブロ殿!」

 ユルスナールの叫び声に突如として広間中央に灰色の小型の獣が躍り出た。宮殿内に住まうとされる獣ティーダだった。

『神殿だ』

 そう低く一言呟きを漏らして、長の後を追うように同じく広間を走り抜けて行く。

「ルスラン! ティティーについて行け!」

 いち早くそれに気が付いたスヴェトラーナがユルスナールに向かって叫んだ。

「神殿だ!」

 そして、ユルスナールは弾かれたように立ち上がると闇に消えたティーダの後を追うように神殿へと走った。


***


 リョウをその背に担いだセレブロは、神殿最奥の東の翁が結界を張った中にリョウを運んだ。この場所は人である神殿の神官たちには立ち入ることの出来ない最奥の神域だった。

「可哀想に…………」

 冷たい石の台の上にそっと横たえられたリョウを前に、東の翁はその傍らに跪くとそっとリョウの乱れた髪をかき上げた。綺麗に結い上げられていたはずの髪は、頸木が放たれたように解かれ、散らばっていた。

 リョウの胸に燦然と輝いていたはずの強い青みを帯びたキコウ石のペンダントは、跡形もなくなっていた。それを繋いでいた銀色の鎖が辛うじて残るのみ。それが強烈な光を放ち砕け散った瞬間、東の翁とセレブロはリョウに掛けられていた守りの結界が同じように砕け散ったことを感知した。

 リョウはまるで眠っているかのように意識を失っていた。昏睡状態に近かった。辛うじて即死は免れていたが、命が尽きるのも時間の問題だった。【黄色い悪魔】の毒の成分は、元々、この大陸の気候風土に生える薬草類に対して全く免疫を持たないリョウの体には予想以上に浸透し、その効力を発していた。

 東の翁には、リョウの魂が発する生命力が著しく下がり、今や消え入りそうな程に弱くなっていることが感知出来た。風前の灯火のようだった。

「口にしたのは、【ジョーティ・チョールト】ですな?」

「ああ。だが、それだけでもあるまい」

 静かに問うた東の翁にセレブロが低く言い放った。

 大きく開いた胸元の左側に浮き出ていたセレブロの紋様が、淡い光を発し、肌の表面に立ち上り揺らぐように漂い始めていた。

「【時】が尽きようとしているのやも知れぬ」

 その揺らぎに呼応するかのようにリョウの身体は、少しずつ部分的に透度を増し、不規則な形でその実体が集まった細かい粒子の塊のように揺らぎ始めていた。それは、術師が具現化させることで現れる人の【想い】を実体化させたものに似ていた。吹き込む風に揺れる蝋燭の炎のような揺らぎだった。

 辛うじてこちら側に留まっていた魂が離れ始めているのかも知れない。その可能性を想起させるには十分な現象だった。

 時間がなかった。直ぐに手を打たなければならない。

「解毒の用意を致します」

「頼む」

 言葉少なに立ち上がった東の翁に、セレブロも頷いた。

 その間、セレブロは己が加護の印が表れている部分に鼻先を当てると静かに祈りの文言を紡ぎ始めた。低い抑揚のある不可思議な旋律が流れ始めた。そうして己が魂を相手の魂の波長を同調させ、重なった波長に力を注ぎこむ。上手く作用するかは分からない。だが、リョウは半分セレブロによってこの地に留め置かれていた。両者を繋ぐ魂の道筋は、辛うじて残されている。それに懸けるしかなかった。


 やがて、結界で覆われたこの場所へ通じる入口に人影が現れた。灰色の獣ティーダとその後を追ってきたユルスナールだった。

『待て、シビリークスよ』

 入り口でぴたりと足を止めたティーダの制止の声に構わず、ユルスナールは開いた戸口を抜けようとして、だが、見えない壁にぶつかるようにして跳ね返された。大きな肉体がぶつかる鈍い殴打音が響き渡った。

『結界が張られている』

「クッソ」

 反動で勢いよく後方に転げたユルスナールは、すぐさま立ち上がると行く手を阻む透明の強固な壁に拳を打ちつけた。

「セレブロ殿! ユルスナールです。お願いです。私をリョウの傍に行かせてください。セレブロ殿!!」

 力任せにダンダンと見えない強固な壁を強く叩いた。そして大声を張り上げた。だが、無色透明の壁はびくともしなかった。ユルスナールの必死な声が、狭く薄暗い回廊にこだました。

『落ち付け。そう急くな。今、訪いを入れる故』

 ティーダが宥めようとするが、獣の言葉を理解しない相手にはそれは徒労に終わった。

 やがて、ユルスナールの祈りが通じたのか、それとも相手の執拗な掛け声に業を煮やしたのか、目の前にあったはずの壁がふっと消えた。その間も拳を打ちつけていたユルスナールは、突如として見えない障壁がなくなり、勢いのままに前にたたらを踏みそうになるが、すぐさま体勢を整えた。

『入れ』

 セレブロの声が暗い闇の向こう側からぼんやりと耳に届いた。

「セレブロ殿!」

『ついてまいれ』

 そして同じように先導するティーダの後を追う形で、ユルスナールも明かりの無い闇の中に飛び込んだ。


 そうして長い回廊をひた走ること暫し、やがて、ぼんやりとした明かりに照らされた白壁の空間に出た。

 室内は驚くほど広い空間だった。天井がとても高い。

 その中央付近では低い石の台の上に体を埋めて顔を寄せる白銀の王と東の翁の姿、その合間に横たわるリョウのドレスの脚先が目に入った。

「リョウ!!!」

 セレブロと神官と同じ装束に身を包んだ男の間でリョウの姿は、ゆっくりと立ち上る煙のように不規則に揺らいで所々希薄になっていた。その幻影のように揺らぐ姿にユルスナールは息を飲んだ。

 だが、直ぐに我に返ると傍に走り寄って来た。

「リョウ! 目を覚ませ! リョウ! 俺だ。分かるか?」

 掴んだ肩にはまだ感触があった。それなのに時折空間が揺らぐようにしてリョウの体は部分的に半透明になってはまた元に戻った。それをずっと繰り返していた。その状況にユルスナールは戦慄した。

「セレブロ殿! リョウは、リョウは!」

 まるでこの世の終わりのような顔をして詰め寄ったユルスナールに、セレブロは低く苛立ちを顕わに言い放った。

『喧しい。黙れ。集中出来ぬだろうて。邪魔をするな。小倅』

「長の言う通り、少し落ち着きなされ。そなたがいかに騒ぎたてようとも状況は変わりませんぞ」

 セレブロの傍にいた東の翁が、突然の闖入者を淡々と窘めた。

 それは余りにも相手を突き放すような冷酷にさえ思えるものだったが、その客観的な指摘が却ってユルスナールの興奮を鎮める効果があった。そこで少し落ち着きを取り戻したユルスナールは、表情を改めると先程よりかは抑制された声で問うた。

「リョウは、どうなったのです? 助かるのですか?」

「まだ息絶えてはおりませぬ。だが、非常に危うい状態ですな」

 淡々と発せられた冷酷なまでの宣告にユルスナールは愕然とした。呆けたように目の前に横たわるリョウを眺めた。言われたことが理解できない。いや、理解することを理性が拒んでいるのかもしれない。

「そなたはシビリークスの末とお見受け致しますが?」

「……はい」

「私は東の翁と呼ばれておる者。そこなヴォルグの長とは昔馴染みという所ですな」

 そこで翁は精悍な顔付きをした若者を見下ろした。

「そなたにとってリョウは?」

「生涯を誓い合った仲です」

 真剣な眼差しできっぱりと言ったその深みを帯びた青い双眸に、翁は静かに頷きを返した。

「そうか。良かろう。全く、手立てがないわけではない」

「本当ですか?」

 勢いよく顔を上げたユルスナールに、東の翁は手にしていたものを差し出した。それは、ぼんやりとした淡い光を帯びた小さな細長い青い葉で、周囲がぎざぎざの形状をしていた。全部で三枚ある。

「これはストレールカ……ですか?」

 職業柄齧る程度には薬草の知識があったユルスナールは、それを見て小さく声を上げた。何よりもそれはリョウが大事そうに鞄に忍ばせていた薬草でもあった。過日、効き目が抜群なのだと笑みを零して教えてくれたのだ。ただ、その時見せてもらったものは、このように光を帯びてはいなかった。

「ほほう。そなたは知っておるか。ならば話は早い」

 東の翁は口元を緩めると、この葉を口に入れて噛み砕き、出てきた液をリョウに口移しで含ませろと言った。

「それで目覚めるのですか?」

「いや。これは…そうですな。切っ掛けに過ぎぬでしょう。後はリョウ自身に懸かっておる。あの子が心よりこの地に留まりたいと強く思い続けることが出来れば、上手く行けば戻って来られるやもしれぬ。可能性は皆無ではない。全てはこの子次第ですな」

 そこに一縷の望みがあるのならば。

 ユルスナールは迷わずに手にしたストレールカを口の中に入れて噛み砕いた。えも言われぬ強烈な苦みが口腔内一杯に広がり、思わず顔を顰めた所で東の翁が口にした。

「ああ、それは恐ろしく苦いですぞ。生のものは特に。常人ならば一枚がやっとのこと。なれど我慢なさい」

 後出しで飄々と口にされても我慢するしかない。

 ユルスナールは言われるままに薬草を噛み砕いた。唾液に混じって浸み出した薬草の成分は仰天するほど苦いものだった。痛いくらいの渋みが口内に広がる。それを堪えながら咀嚼し横たわるリョウの上に顔を寄せるとその回復を願いながら唇を寄せた。舌先を捻じ込み歯列をなぞって隙間から口を開かせる。そして苦い薬の成分を口腔内に注ぎ込んだ。

 反射的にか、リョウの喉がごく僅かに飲み下すように動いた。その瞬間、リョウの指先がぴくりと動いた気がした。

「よし」

 それを見て東の翁は満足そうに息を吐いた。そして己が精力を注いでいたセレブロがゆっくりと顔を上げた。

「よかろう。後は待つのみ。我らに出来るのはここまでだ」

 白銀の王は、そう言い切ると光輝く白い毛並みを揺らし、リョウの傍らに静かに蹲るようにして横たわった。そしてその毛並み豊かな尻尾をリョウの足元に寄せた。

 冷たい床に横たわった体を少しでも労わる為に東の翁は奥に引っ込むと枕代わりになる大きなクッションと敷布になるような厚めの布、そして上掛けになるような毛布を手に戻って来た。そしてユルスナールの手を借りながら、それをリョウの上に掛けた。

「このままここに?」

 静かに顔を上げたユルスナールに東の翁は頷いた。

「ええ。ここは聖なる気が満ちた神域に近い場所。ここの方が邪気が入らなくてよいでしょう」

 その間もリョウの身体は時折、揺らいでいた。まるで砂漠の中に浮かぶ逃げ水や蜃気楼のようだ。それこそお伽噺の一節の中にある【夜の精】の最期のように、吹き寄せる風に塵の如く存在そのものがそのまま掻き消えてしまいそうだった。

 ユルスナールはそっとリョウの頬に手を伸ばした。触れた頬は柔らかく、そして、ほんのりと温かかった。こうして触れることの出来る存在が今にも消えようとしているなどとは信じたくなかった。

 ユルスナールはリョウの傍に跪いたまま、その手を取るときつく握り締め、己が額に押し当てた。そして、心から愛する人が再び目を覚ますことを祈った。

 ―どうか、戻って来てくれ。リョウの命を繋ぐ為ならば、自分の何を犠牲にしてもいい。だから。どうか愛する人を奪わないでくれ。

 この日、ユルスナールは心の底から、この地を統べると言われる数多もの神々に祈りを捧げたのだった。


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