迷走円舞曲
「あの、少し気になっていたんですが」
そう前置きしてから、リョウはこれまで疑問に思っていた事を口にしていた。
「ブコバルは、あのような所では言葉使いを変えているんですか?」
リョウの視線が向けられている方角には、紳士然りとした洗練された物腰で華やいだ顔立ちの豊満な女性に寄り添いながら軽やかに広間中央を踊るブコバルの姿があった。この日ばかりは、正装である詰襟の軍服を一糸の乱れもなく着込み、伸び放題であった無精髭も綺麗に剃り込まれ、ぞんざいに掻き上げられているだけの茶色い柔らかそうな髪もきちんと後ろに撫で付けられていた。
リョウが良く知るいつもの山賊の親玉のようなむさ苦しい姿は微塵も見られない。まるで違う人を見ているような気分だった。
主会場に入る前に言葉を交わした時は、普段通りのどこか粗野な口調であったのだが、ふとあのような貴婦人を前にした時は、大きな猫でも被って丁寧な言葉使いに変わるのだろうかと疑問に思ったのだ。
囁きを交わし合いながら対峙する女性も艶やかな笑みを浮かべている。そこにあるのは穏やかな空気で、貴婦人である女性を前にブコバルは寛いだ表情をしていた。
良く言えばざっくばらんで悪く言えば粗雑な口のきき方しか知らないリョウとしては不思議で仕方がなかったのだ。一体、あのブコバルは、どんなふうに女性を口説くのだろうと。ちょっとした純粋な興味である。
リョウの隣にはドーリンとウテナがいて、思わず漏れた疑問の声に両者はリョウの頭上で無言のまま視線を交わし合った。
取って付けたような咳払いを一つしてから、最初に口を開いたのはドーリンだった。
「ああ。ああ見えて貴族の男だ。ブコバルの御父上は躾に関しては人一倍厳しかったはずだからな。貴族としての礼節はしっかりと身体に叩きこまれていると思うぞ」
ユルスナール、ブコバルとは同期であるドーリンの言葉はかなり信憑性があった。それにドーリンは真面目な性質であるから、こういう所で嘘は吐かないだろう。
「つまり、ブコバルは紳士……なんですか?」
ドーリンを疑っている訳ではないのだが、どうにも信じられないという顔をして憚らないリョウに隣にいたウテナが可笑しそうに肩を震わせた。
「あはは。そんなことを言うのは、きっと、この中じゃぁ、リョウくらいだろうね」
ウテナの言葉は、ブコバルがこのような場所では素を隠している、いや、相当な猫を被っているというリョウの考えを肯定するものだった。
「ブコバルが女好きなのはよく分かりますけれど。何だか、紳士的な言葉使いをしているかと思うと妙な感じですね」
でもここまでの間でブコバルの女性の好みは大体把握が出来た。そのようなことを知ってどうするのだと思わないでもないが、まぁ、それは置いておくことにしよう。
ブコバルは、プラミィーシュレの娼館の女主イリーナのように豊満でたっぷりとした肉感的なー特に見事な臀部を持つー女性が好みのようだ。リョウは、以前、ブコバルが北の砦で行われたどんちゃん騒ぎの時に若い兵士たちを前にした猥談で「女と言えば尻だ」と豪語していたのを不意に思い出した。そして、プラミィーシュレでは別れ際に尻を掴まれてもっと肉を付けろとお節介な助言をもらったことも記憶に新しかった。
一曲終わると、恭しく女性の手に口付けを落としてからブコバルはリョウたちが談笑している方に戻って来た。噂の主のご帰還である。
ブコバルはリョウの前に来ると苦み走った野性味溢れる微笑み―とご婦人方には評判のようなのだが、リョウにとっては甚だ胡散臭いものだ―を浮かべた。
「いかがですか、お嬢さん? 私と一曲。それとも、より記憶に残る一夜にしますか?」
今、噂をしていたばかりの口調で意味深な目配せと共にそんな甘い誘いの言葉を吐いたブコバルにリョウはあからさまに嫌そうな顔をして剥き出しになった肩から腕を摩った。ご婦人方には効果てき面の口説き文句もリョウには掠りもしなかった。
「そうやってブコバルは女の人を口説いているんですね。ううう……でもワタシには勘弁です。鳥肌が立ってきましたよ」
それを聞いて隣にいたウテナが吹き出した。ドーリンもどこか愉快そうに目を細めている。
失礼極まりないが正直な感想を口にしたリョウに、
「あ? なんだと?」
直ぐにいつもの口調に戻ったブコバルは明らかにムッとした顔をした。そして、本当にその腕に鳥肌が出ているのを確認して、苛立たしげに舌打ちするとリョウを半眼に見た。
「この俺の美声で鳥肌が立つなんてぇほざきやがるのは、リョウ、お前くれぇなもんだよ」
そう言って腹立ち紛れにリョウの片頬に手を伸ばすと摘んで引っ張った。
ブコバルはそれなりに良い声をしているのだが、それを考慮しても尚、その性格を知るリョウとしては他の女たちのようにブコバルを紳士として憧憬と敬意を持って接することはとてもじゃないが出来そうになかった。
「だって、いつものブコバルを知っているんですよ? 急にそんな風に口調を変えられても胡散臭いだけですよ。なんのお芝居かと思ってしまいます」
「あ? そう言うお前だって、人のこと言えねぇだろうがよ」
「ああ。確かに。言われてみればそうですね」
尤もな指摘にリョウも苦笑した。
リョウとしても時と場合に合わせて、口調を変えている自覚はあった。だが、それも意図せずして男に間違われるのだから仕方の無いことだったのだ。それに今夜は特にこれまで以上に女らしい丁寧な言葉使いをして、振る舞いもそれに見合うように変えている。
だが、リョウ自身にしてみればこちらの方が素に近いのだ。
「でも、ワタシとしてはこの方が自然なのですけれど」
これまでの方が少し作った感があったのだ。そう言ってにっこりと微笑みながら小さく首を傾げたリョウを前にブコバルはドーリンと顔を見交わせてから口の端を少し下げたのだが、不意にニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
目の前で豹変したブコバルの表情にリョウはたちまち嫌な予感がした。
「……で、リョウ。んなとこでボケっと突っ立ってねぇで一曲くらい踊れ。折角そうやって着飾ってるんだ。付き合ってやるぞ?」
急に何を言い出すかと思えば。
リョウは慌てて後じさった。
「いいえ。無理です。踊れる訳ないでしょう?」
「あ~、そうか。でも覚えちまえば簡単なもんだぞ。それにいずれは必要になんだろ。覚えといて損はねぇ」
第七の兵士たちのように運動神経が特別良いわけでもないのだ。反射神経は、昔からそこそこ良い方だとは思っていはいたが、それでも訓練された軍人と比べるのはおこがましい程のものだ。
「いや。無理ですよ。絶対、ブコバルの足を踏んでしまいます」
妙な所で自信満々に言い切れば、
「それはいい。今の内に思う存分こいつの足を踏んでおけばいい。そうやって練習すれば上達するぞ? 勘を掴むまでは練習するしかないからな」
今度は何故かドーリンまでもが悪乗りしてブコバルを体の良い練習相手にすればいいと言う始末。
ドーリンはいつになく口の端を吊り上げてあくどい感のある笑みを浮かべていた。それに対してブコバルは嫌そうに友人を睨みつけたのだが、ドーリンは慣れているのか歯牙にもかけなかった。
「それならボクが教えようか? 足を踏まれるくらい、キミからの愛の鞭だと思えば痛くも痒くもない。それにリョウ、キミは軽いものだろう?」
そう言って片目を瞑って妙な申し出をしたウテナにリョウはぎょっとした。
「いいえ、とんでもない!」
元々王都の貴族階級の出身であるウテナは、このような社交界でも知り合いが多いようで、久し振りに会う知己に相変わらずの人のよさそうな笑顔で接していた。そして、まだ若いウテナは、ここでも若い女性の人気を集めているようだった。
リョウとしてはこれ以上、無駄に敵を増やしたくはなかった。ただでさえ、ユルスナールを始めとするシビリークスの人々やドーリンやゲオルグと言った華々しい男たちが傍にいて、突然、現れた異国の女の存在にこの場に集まった女たちは心穏やかならざるものを感じているようで、興味、好奇、敵愾心、その瞳の色は様々だが、時には不穏すらある囁きも聞こえてきていたのだ。リョウは今日の所は分を弁えて大人しくしていようと思っていた。
リョウはぐるりと広い室内を見渡して無意識にユルスナールを探していた。そして、反対側にある人の輪の中に特徴的な銀色の頭部と精悍な男の横顔が見えた。
ユルスナールの前にはどっしりとした恰幅の良い老年の紳士が対峙しており、その横には妻と思しき老年の貴婦人が立っていて、にこやかに言葉を交わしているようだった。
忙しくなると分かっていてもこのような場所で頼りになるユルスナールが傍にいないのは、少し心細かった。隠している積りでもそんな縋るような本音が出てしまったのだろうか。往々にして鋭い所のあるユルスナールがこちらの視線に気が付いて、ゆっくりと振り返った。それにつられるようにして話をしていた老夫婦の視線もこちらに向いた。
リョウは咄嗟に笑みを浮かべて軽く会釈をした。ユルスナールが柔らかく微笑み、何事かを老夫婦に囁いた。夫人はそれに何度もにこやかに合槌を打ちながら、こちらを見ていた。リョウもにこやかな微笑みを向けられて同じように返していた。
だが、リョウが同じようにのほほんと呑気な笑みを浮かべていた対面で、ユルスナールの顔が不意に苦々しいものに変わった。すると今度は老夫婦が互いに顔を見交わせて可笑しそうに笑っている。
どうしたのだろうと思った矢先、リョウは隣から逞しい腕に腰を掬われるようにして抱き止められ、気が付いた時には広間中央の方へ向かって歩かされていた。
「リョウ、折角だからな。私と踊れ」
黒い艶やかな詰襟の軍服に煌びやかな金糸の装飾が施された袖と肩。何よりも銀色の髪と同じ色の艶やかな髭、そしてユルスナールと同じ濃い青色の瞳が、してやったりというように細められて、こちらを見下ろしていた。そして、刻まれた皺に囲まれた瑠璃色の双眸の中には、驚きを顕わに呆けた顔を晒した女がみっともなくも映り込んでいた。
「ファーガス殿!?」
思いがけず吃驚した声を上げたリョウにファーガスは小さく笑った。
「リョウ、そろそろ父上と呼んでくれても良いだろう?」
「え、いや。そうですか?」
「ああ」
驚く間もなく話を挿げ替えられて、それに乗せられてしまうリョウも大概単純なのだろう。
「では、お義父さま」
そう言った瞬間、ファーガスが相好を崩した。
「ん?」
「あの……これは一体?」
―何をなさるお積りですか?
目を白黒させながらも、腰をしっかりと掴まれているので足は自然と促されるままに広間の中央に向かっている。
どうしたというのだろう。そんな疑問を抱いたのも束の間、
「いつまでも壁の花ではつまらんだろう? 一曲くらい付き合え」
そんな恐ろしいことを言ったファーガスにリョウは仰天した。
「え、いや、でも、ご存じでしょうが、ワタシ、踊れませんよ?」
ユルスナール以外のシビリークス家の人たちにも、その旨を事前に伝えてあった。
しどろもどろになりながらも狼狽したリョウにファーガスは男らしい笑みを浮かべた。
「ああ、それは承知だ。だが、大丈夫だ。次の曲はゆっくりとした簡単なものだからな。初心者にはもってこいだ。なに、心配することはない。私に任せておきなさい」
「…でも………」
「ルスランはあの通り忙しいからな。お前を放っているあやつに見せつけてやればいい」
そんなことを言ってファーガスは上機嫌に足を進めた。そして、踊りの輪が出来上がっている場所で止まるとリョウの腰にしっかりと手を回して体を支え、そのほっそりとした右手を己が左手に取り少し上に掲げると姿勢よく背筋を伸ばし、体をより密着させる為にか回した腕に力を入れた。
ファーガスの背丈はユルスナールと余り変わりがなかったが身幅はずっとある。リョウの身体はファーガスの詰襟の黒色と同化するように大きな体の中にすっぽりと埋まるような感じになっていた。
ザワリと空気が揺れた気がした。だが、リョウはそれに気を取られている暇もなく、流れ始めた曲に合わせるようにファーガスから足さばきの指示が入り、ゆっくりとステップを踏みながらごく自然に流れに乗っていた。
そうやって無理のない速度で広間の中をゆっくりと移動する。腰をしっかりと支えられている所為か、曲が思ったよりも緩やかなものであったということもあるのだろうが、ファーガスの足さばきと的確な指導の囁きに促されるようにして、なんとか無様な真似を晒すことなく、自発的に踊るというまでにはいかないが、そこそこ合わせることができていた。それでも意識は足元と曲の調子に集中していた。
「リョウ、体の力を抜け」
低く渋みのある声に耳元で囁かれ、剥き出しの背中をファーガスの大きな温かい手が宥めるように摩った。
リョウはなんとか笑みを作った。必死でややぎこちないものになっていたが仕方がないだろう。
「こういうときは男に身を任せておけばいい。身体を相手に委ねるのがコツだ」
―閨でのようにな。
ひっそりと付け足された囁きにリョウは居た堪れない気分になって目の端を赤らめながらも、窘めるように相手を見上げた。
「もう、お義父さままで、なんてことを仰るんですか」
甥っ子の子供たちといい、ファーガスといい、女性相手になんというあけすけな仄めかしをするのだろう。シビリークス家では性的な話題に寛容すぎはしないだろうかと埒もないことを考えてしまったのはちょっとした現実逃避かもしれない。
「だが、その方が分かりやすいだろう?」
「うう…………はい」
リョウは暫し、恨めし気にファーガスを見上げながらも最後には小さく肯定した。
だが、そのような際どい感のあるファーガス流の軽口に緊張が解れたのも事実だった。
それからはあれよあれよという間にファーガスのペースに乗せられて、広間中央の踊りの輪の中に加わっていた。少し前までは、この中で踊る人たちを眺めていたというのに。予想外もいい所だ。
立場が逆転すると面白いもので、意外に周囲の人々の様子が分かるものなのだということが知れた。それだけ余裕が出てきたのかもしれない。もうこうなれば一曲踊り切るまでは粗相をしないように気を付ける他ないだろう。ファーガスは年老いても尚、現役の兵士たちのように逞しい身体をしており、小柄な体格のリョウの重みは然程苦にはならないようで、軽やかに先導してくれた。
リョウは、小さく息を吐き出すと肩の力を抜いた。
「そう、それでいい」
それを感じ取ったファーガスは、どこか満足そうに男らしい笑みを浮かべたのだった。
「まぁまぁ。珍しいこともあるものね」
新しく始まった踊りの輪の中で見つけた顔触れにパーシヴァル夫人は、隣に立つ夫を見上げた。
「おやおや。ファーガス殿はすっかり骨抜きのようだな。それにしてもなんとも可憐なお嬢さんではないか。一体どこで見つけてきたんだ、え? ルスラン?」
「ええ。本当に。なんとも不思議な感じの方ね。ああ、あれだわ。あなた、お伽噺にあるじゃない。風の王の娘よ。黒い髪に黒い瞳の美しい娘」
「ああ、あれか。確か…夜の精か」
「ええ」
今夜の主役に祝いの言葉を掛けていたパーシヴァル夫妻は、婚約者を連れてきたというユルスナールの打ち明け話にその相手の方を見ていたのだが、向こうがこちら側に気が付いて小さな会釈をしたのも束の間、颯爽と現れた夫妻もよく知る人物に攫われる形になってしまい、目を丸くしながらもからかうようにユルスナールを見た。
そこには、己が掌中の珠を目の前で攫われた所為か普段の澄ました表情を変えて苦々しい顔をしたまだ若い男の精悍な横顔があった。
周囲に集まった人々が、広間の中央をゆったりと流れる旋律に合わせて踊る一組の男女に注目し始めていた。
初老の域に入る男は、若かりし頃、氷の微笑を持つ美貌の貴公子と揶揄され社交界を賑わせた男だった。現役を退いた今でも鍛え抜かれた屈強な肉体は昔のままに年齢を重ねた重みが貫禄として備わる燻し銀のような美丈夫だった。今でも社交界では一目置かれている。男の銀色に鈍く輝く髪色はその一族特有の色だ。
男がこのような華やかな場で踊るのは別段珍しいことではないのだが、いつもその組みとなる相手は、奥方のアレクサーンドラと決まっていた。夫婦仲が良いというのは昔からの評判で、今日も若々しい笑顔を振りまきながら二人して優雅に仲睦まじく踊っている姿が垣間見られていた。
だが、今回、その男が相手に選んだ女性は奥方ではなかった。そのことがまず周囲の人々の目を引いた。
女性の方は随分と小柄のようだ。華奢で少女のような線の細さだが、体つきは十分成熟している。すらりと伸びた背中と上方に掲げられたほっそりとした腕。身に着けたドレスの色合いも黒に近い濃紺で、華やかな女たちの色とりどりの衣装の中ではかなり地味な方だったが、それが逆にその女性の艶やかな黒い髪の色と相まって他の女性たちにはない独特な雰囲気を醸し出していた。
一言で言えば、その衣装はひっそりとしたその女性の美しさを引き立てていた。ともすれば埋もれてしまいがちな慎ましやかさだが、一度、その隠れた美しさに気が付くと目が離せなくなる。そういう類の静的な魅力を持っていた。
そして、その姿を垣間見た人々が一様に思い浮かべるのは、この国に伝わるお伽噺の中に出てくるという夜の精のことだった。闇色の衣装を身に纏う初老の男に寄り添う姿を見て、まるで闇から抜け出てきたようだと人々は口々に噂した。
それではこれより少し、周囲の様子を眺めてみよう。
パーシヴァル夫妻がいた場所より少し南側に離れた所では。
「ふふふ。さすがファーガス殿。かつて社交界を賑わせた貴公子の名は健在のようですね」
壁際に寄り掛かり腕を組んでじっと広間の中央を見据えていたユルスナールの横にやってきたシーリスは、相手の不機嫌もなんのその、そう臆することなく言い放つとからかうような視線を投げながら己が上司の目の前にズグリーシュカの入った濃い紫色の液体が揺れるグラスを差し出した。
ユルスナールは、無言のままグラスを受け取ると中身を一息に呷った。その視線は相変わらず広間中央に注がれている。
そして、その隣に逞しい体つきの幼馴染が大きな図体の割には音もなく並んだ。その野性味溢れる精悍な顔にはニヤニヤと人の悪い笑みが憚ることなく浮かんでいる。
「ははは。またしても先を越されたか。お前んとこの親父殿は顔に似合わず手が早いからな。あ~、でも、そう言う意味じゃぁ、お前も血は争えねぇっつうことか」
一人勝手に自己完結したブコバルにユルスナールは無言のまま冷ややかな視線を送ったのだが、何も言わなかった。
同じように壁際に寄り掛かったシーリスは、手にしたグラスに口を付けた後、穏やかに微笑んだ。
「ですがまぁ、ルスランの心中はともかく、これが一番効果的ではありますね」
シビリークス家の家長自らがその存在を認め、大事だと公言しているようなものなのだ。これ以上の分かりやすい主張もないだろう。
「何せ一目瞭然ですからね」
辛うじて慰めとも取れる言葉にユルスナールはまだ不満げな様子だが、半ば仕方がないとばかりに小さく息を吐き出した。
シーリスの言は尤もである。だが、本音の所では面白くないのも事実だった。
約一年ぶりに顔を出す社交界で、当然のことながらユルスナールはこれまでの無沙汰を返上するように方々から声を掛けられてその応対に忙しかった。本来なら、あの位置には自分がいてしかるべきなのだ。リョウのことを中々構ってやれず客たちの間で身動きの取れない状況になるだろうことは初めから予想が付いていたことだ。その隙間を埋めるように父が気を回してくれたのだろうということはよく分かる。
そして、そこに見え隠れする父親特有の不甲斐ない息子への当てつけも。
しかもそれは一番効果的なやり方だった。初めてリョウと踊るという権利をかくもあっさりと攫われてしまったことにユルスナールは婚約者としての自尊心を否応なく刺激されたのだった。ファーガスの方はそれを分かってやっている。だから本当ならば、父の行動に感謝しなければならないのだが、素直になるには業腹な気分だった。
シビリークス家の三男が婚約者を得た。その噂はこの祝賀会の広い会場内に瞬く間に広まっていった。
なんでもその相手というのは、予てより噂されていたズィンメル家の末娘ではなく、珍しい顔立ちをした異国風の女であるという。その話は並々ならぬ驚きと好奇心を持って招待客の間を駆け巡っていった。
そして、その噂話を肯定するかのように今、踊りが行われている広間中央ではシビリークス家・家長のファーガスが明らかに毛色の違った不思議な魅力を持つ女性の手を取り、ゆったりと舞台中央を進んでいた。
踊りの曲は、年配の客人たちにも余り負担が掛からなようなゆったりとした曲調のものが掛かっていた。ゆらゆらと揺れるように会場を思い思いに組みになった男女が散らばっている。これは専ら夫婦や恋人たちにもってこいとされる曲目でぴったりと隙間なく体を寄せ合う形のものだった。愛しい相手への囁きが、流れる曲の合間に交わされる雰囲気あるものだった。
シビリークス夫妻を良く知る人々は、ファーガスが若い女性に手を出して気を揉んでいるに違いないとその奥方であるアレクサーンドラを心配したのだが、それは何故か杞憂に終わった。というのも、ファーガスの妻、アレクサーンドラは夫が自分以外の女性と踊る様子を遠巻きにどこか微笑ましそうに眺めていたからだ。
アレクサーンドラの傍には長男の妻女であるジィナイーダと次男のケリーガルが居て、にこやかに話をしながら踊るファーガスとそれに付き合わされることになったリョウを見ていた。
その実、リョウが踊れないということはアレクサーンドラも聞き及んでいた。社交界の踊りなんて恐ろし過ぎると顔を青くしていたのだ。その時の様子を思い出せば、直ぐにファーガスが無理に誘ったというよりも強引に連れ出したのだろうということが分かる。悪戯を成功させた子供のように輝いている瞳とそこに浮かぶ表情を見て、奥方は「ああ、また悪い癖が始まった」と思ったのだった。
そして、その広間中央の踊りに注目している人物が他にもいた。
多くの客人たちに混じり、遠巻きにその様子を眺めていた男は、手にしたグラスを静かに傾けながら、ひっそりとした笑みを浮かべていた。この祝賀会への招待状の中には特に招待客の厳密な記載があった訳ではないのだが、予想通り目当ての人物がこの中にいることを確認することが出来て、一人ほくそ笑んでいたのである。
「それにしても見事な色だ」
汚れや染み一つない光沢ある白い上下に濃い紫色の地模様の入った帯を締めた神官の正装に身を包んだ男は、半ば陶酔するようにうっとりとした表情を浮かべていた。
その視線の先には漆黒の衣に隠れるようにして寄り添う見事な闇色を体現した女が映っていた。
神殿の方の準備は整いつつあった。後は鍵を手に入れるだけである。未知への新しい扉がもうすぐ開かれるのだ。
ぎょろりとした魚のような大きな目を細めて、神官は傍らにいたもう一人の同僚に耳打ちをした。
計画は万事恙無く進んでいる。高鳴りそうになる鼓動を宥めすかしながら、神官は、高い天井から吊り下げられた華やかな装飾の付いた発光石の明かりの向こう、広間の反対側にいる二人の男たちを流し見た。そして、そちらに向けて手にした盃を目の前で小さく掲げると音にならない言葉を口内に紡ぎながらその中身を干した。
―ブラーガ・ザ・リュークス(リュークスの恵みに感謝を)
全ては神の御心のままに。
枯れ枝のように細い首を晒した神官の男が小さく掲げた祝杯は、その男一人のものではなかった。
遥か後方、踊りの輪から外れた多くの客人が和やかに談笑をしている長椅子が並べられた付近では、これまた二人の男が同じように手にした小さな盃を胸の前に掲げていた。
繊細な彫り物が施されたグラスを持つ男の手は、深い皺に刻まれたごつごつとした無骨なもので、その中指には人目を引く大きな紅い石が鈍く光を湛えていた。
そして、もう一つ。その対面で同じようにグラスを手にしている男の手は、無骨さの欠片もない文官のような滑らかな手だった。指が恐ろしく長い。強いて言えばその指先には小さなペンだこがある。他には目立った特徴の無い男の手だった。
「そろそろだな」
「ええ」
主の言葉に影のように付き従う部下がそっと頭を垂れた。
年老いた主の男は広間中央を優雅に回る銀色の髪をした男の姿を見つめていた。
いつになくやに下がった感のある男の横顔。束の間の幸福に酔いしれているであろうあの男をその場所から突き落としてやるのだ。見事淑女然りとして振る舞っているあの女の化けの皮を剥がすのだ。
これから起こる事態を想像すると愉快で仕方がなかった。後はあの男が上手く手札を切れるか否かに懸かっている。手先の器用な魔術師のようにいかに【無】から【有】を生み出すことが出来るか。その為のお膳立ては一通り済んでいた。
「では、お手並み拝見といこうか」
「御意」
そして、年老いた男とその腹心の部下は、再び広間をぐるりと見渡すと対角線上よりやや前方に立つ一人の男を流し見た。
男たちの視線が向けられた先には、今宵の鍵を握る男が一人立っていた。別段面白味のない顔に無表情を装ってはいるが、近づきつつある【その時】を前に深緑色の上等な衣服の下では微かな胴震いをしていた。
これまで幾度となく頭の中で反芻してきた台詞と情景をお浚いするように思い返す。気分は初舞台前の役者だ。
これは、男にとってはちょっとした運試しのようなものでもあった。転がり込んできた幸運が本当に幸運であるのかを確かめる機会だった。
今宵、広間に集う人々の会話に耳を傾けてみると、そこから漏れ聞こえてきた言葉の切れ端は、男に味方をしているように思えた。風向きは確実に自分の方にある。
男は、深い緑色の上着の縁を軽く下に引っ張ると緩く息を吸ってから吐き出した。
そんな内なる興奮に震える男の元に配下の男がやって来て、小さなグラスを男に手渡した。甘い顔立ちをした有能な部下はグラスを満たす琥珀色の液体を揺らしながら人当たりの良い微笑みを浮かべて己が主を見た。
「配置は済んでいます。万事恙無く。問題はありません」
囁きは瞬く間に周囲の喧騒に紛れた。
「そうか」
男は大きく息を吐き出すとたっぷりとした髭に覆われた口元に笑みを刷いた。
「あちらからは?」
その問い掛けに部下の男は否定の意味を込めて無言のまま目を細めた。
「ふむ。上つ方は?」
「もうすぐお越しになるでしょう」
「第二皇子は?」
「勿論、御出ましになるかと」
「ならばよい」
宴が中盤に差し掛かり、会場内の空気が完全に暖まった頃合いを見て、漸く、今回の祝賀会の主催者である国王を始めとする王族たちが会場に顔を出す予定になっていた。そして、今回の夜会の主旨でもある先の武芸大会で見事、勝ち抜いた剣士たちに国王自ら御言葉をかける表彰式が執り行われることになっていた。
もうすぐ男の人生を懸けた【余興】が始まる。
***
それと時を前後して。
部下の兵士と巡回を終えた第二師団・団長のスヴェトラーナは、同じく正装の光沢ある灰色の詰襟に部隊色である紫色の徽章を付けた立派な風貌で、祝賀会が開催されている会場へと通じる回廊を歩いていた。
宮廷楽師たちの奏でる軽やかな旋律が切れ切れに聞こえてきていた。流れている曲は弾んだ調子の心躍るような楽しそうなものだ。
だが、その曲調とは対照的にスヴェトラーナの表情はいつになく厳しいものだった。鋭い眼差しが、時折、闇に包まれた周囲を射抜くように照射されている。ピリピリとした緊張感に隣を歩いている部下の兵士は、改めて気を引き締め直した。
招待客の中の貴族が連れてきた私兵と思しき男たちが警備に配置された衛兵たちと二・三言葉を交わしているのを度々見かけていた。スヴェトラーナの方でも道々、任務に当たっている兵士たちに声掛けを行い、その都度、慇懃な敬礼と共に『異常なし』とのきびきびとした報告を受けていた。
今の所、不審な点は見当たらなかった。ただ気になることもある。それは、招待客の家中の者と思しき男たちが広間以外の廊下付近でも散見されること。そして、第一師団のマクシームの所にもたらされた宮殿の警備増強策の一環としてとある貴族たちから募った私兵を宮殿内に受け入れたという連絡事項だった。
通常ならば貴族が軍部に、中でも近衛の第一師団の任務に介入することは有り得ない。表向き貴族たちから協力の申し出があり、軍部はそれを快く受け入れたという触れになっていたが、それは余りにも見え透いたくだらない方便だった。明らかに越権行為で、第一の面目を潰すものである。受け入れ先は主に表の第一の区域ということだが、王族から直々の依頼があったということで、フラムツォフは外部からの介入を普通ならば排除する所なのだが、今回ばかりは強く突っぱねることが出来なかったようだ。
今宵の警備計画は、秘匿すべき最重要事項を除いて、四人の将軍たちとその上の軍事を統括する国防大臣にも伝えてある。現場で陣頭指揮を執るのは勿論、警備の一切を任されている第一師団長のフラムツォフだ。そして、第二師団長のスヴェトラーナは、全面的にフラムツォフに協力する形になっていた。
スヴェトラーナとしては土壇場で入った貴族の横槍がいたく気に入らなかった。大方第二皇子辺りが国王に進言し、大臣に捻じ込んだのだろうが、遠回しにこの間の第二の手落ち(後宮での一件だ)を指摘されているようで甚だ面白くなかったのだ。
あの御人は、ちくちくと厭味を口にするだけでは気が済まなかったらしい。
だが、相手は王族だ。しがない宮仕えの身では、上の決定事項に表だって逆らうことは出来なかった。
しかし、やり方は幾らでもあるだろう。
と同時にスヴェトラーナは確信した。今回、明らかな介入が入ったことでそれまで裏で動いていた貴族たちが表面に出てきたことが分かったからだ。フラムツォフによれば、私兵を提供したのは、中央でも要職にあるイジューモフとタラカーノフ、そしてアクショーノフだという。
彼らが何らかの動きを見せるとしたら、今夜を置いて他にないだろう。依然、相手方の目的は見えないままだが、これまで以上に覚悟を決めて事に当たらなくてはならないだろう。
「何を企んでいるのかは知れないが、煩い虫は潰すまで」
スヴェトラーナはそう吐き捨てると厚みのある唇を吊り上げて挑戦的な笑みを刷いた。
売られた喧嘩は買う主義だ。勿論、負けることは考えていない。
そうして、些か場違いな程に並々ならぬ闘志を燃やした第二師団長は、闇から一歩抜け出すと祝賀会の主会場となる煌びやかな大広間に足を踏み入れたのだった。