祝賀会への切符
翌日、アリアルダは両親に伴われて実家に帰って行った。
その日の午後、シビリークス夫人アレクサーンドラがリョウを呼んだ。
「ねぇ、リョウ。どちらがいいかしら?」
侍女に案内された部屋を覗くと、アレクサーンドラは大きな鏡の前でドレスを己が身に当てて、おっとりと微笑んでいた。
そこは、アレクサーンドラの私的な一室だった。衣裳部屋と呼ぶべき場所かもしれない。広い室内に大きな鏡が設けられ、部屋の奥、両扉の内、片方の扉が開いた先には、沢山の色とりどりの衣装が吊るされて、保管されているのが垣間見えた。夫人の傍らにはもう二人、身の回りの世話をするのだろう、同じお仕着せに身を包んだ側仕えの侍女が控えていた。
夫人が指示した所には、もう一着、ドレスが広げられていた。夫人が肩に宛がっているのは、淡い空色のもので、もう一着、長椅子の上に掛けられているのは、薄い紫色のものだった。色は、発色の良い明るめのものだが、施されている装飾が地模様の入った織生地の他は、繊細なレース編みの飾りのみという落ち着いたものだった。
「どのような所でお召しになるのですか?」
どちらも上等な部類のドレスに見えた。形としては共に胸元が大きく開いたもので、胸の直ぐ下からは、身体の線が程良く隠れるようにたっぷりとした衣が続いていた。
どちらがいいかと聞かれても、その目的が分からなかったので返答のしようがなく、そのような質問をした訳だが、かと言って、貴族階級の細かいしきたりを良く知らないリョウには、それを聞いても判別はつかないのかも知れないとも思った。だが、まぁ、それでも二つの内の一着を選ぶのだから、どちらもその予定に合うものを選び出しているのだろう。
目的を尋ねたリョウに夫人は鷹揚に首を傾げた。
「あら? ルーシャは何も言っていなかった?」
「は…い?」
何か特別な催しでもあるのだろうか。ここでユルスナールの名前が出てきて、リョウは益々首を捻った。ユルスナールからは何も話を聞いてはいなかったからだ。
「明日の夜、宮殿で祝賀会があるの」
「祝賀会……ですか」
「そう」
アレクサーンドラの話によれば、それは国王主催の夜会で武芸大会の団体戦と個人戦の優勝者や上位入賞者たちが招かれる毎年この時期恒例の催しであるとのことだった。そして、王都にいる貴族たちはその殆どが出席するらしい。それに団体戦に出場した軍部の兵士たちも招かれ、日頃の鍛錬や任務を労う目的もあるそうだ。そこで団体戦、個人戦の優勝者は国王直々のお言葉を賜る栄誉に浴するらしい。栄えある晴れがましいことなのだそうだ。
成る程、今年の武芸大会で個人戦優勝と団体戦での優勝を果たしたユルスナールは、多くの招待客の中でも随一の注目株ということになるのだろう。そうすると当然、名家で宮殿に近い所にいるシビリークス家の人々も出席をするのだろう。
「皆さんも参加なさるんですね」
「ふふふ。そうなの。だからね、この日の為にドレスを用意していたのだけれど最後までどちらにしようかと迷ってしまって」
そう言って夫人は、楽しそうに笑った。大きな姿見の前でドレスを広げて見せる様は、まるで可憐な少女のようで、年を重ねても尚このように御洒落心を失わないということがアレクサーンドラをいつまでも若々しく見せている秘訣なのだろうと思った。
「そうですねぇ。ワタシはそちらの空色の方が素敵だと思います」
リョウはアレクサーンドラが手にしている方のドレスを指した。そのドレスの生地は、ちょうど夫人の瞳の色より一段暗い色合いなのだが、光沢がありながらも年相応の落ち着いた感じで厭味がなく、夫人の肌の白さをより際立たせるように思えた。
「そう? リョウもそう思う? じゃぁこちらにしようかしら。ああ、でもこちらも捨て難いのよねぇ」
鏡の前で小首を傾げる夫人の様子をリョウは何とも言えない微笑ましい気分で眺めていた。ふと視線を逸らして、目が合った侍女とは思わず苦笑い。こうしていつも衣装選びには殊の外、時間が掛かっているのだろう。
そのような中に妻を尋ねて夫のファーガスがひょっこりと顔を出した。
「サーシャ」
妻を愛称で呼んだ夫にアレクサーンドラは相好を崩した。
「まぁ、あなた。ねぇ、あなたならどちらがいいとお思いになって?」
そして、夫にも同じ問いを発した。
その瞬間、ファーガスの片方の眉がくいと跳ね上がった。ファーガスはそろりと傍らにいたリョウに目配せをした。ああ。また始まった。そのようなところだろうか。しかしまぁ、そのような所も含めて奥方を愛しているのだろう。
ファーガスは、無言のまま指でどちらを勧めたのかとリョウに尋ねた。リョウはさり気なさを装って、左の淡い空色の方を指した。こういう時は多数決に限るのだ。
リョウの選択を知ったファーガスは何食わぬ顔をして言った。
「ああ。そちらの空色の方がいいな」
すると予想通り、
「まぁ、やっぱりあなたも? じゃぁ今回はこちらにするわね」
あれだけ悩んでいたのが嘘のように、夫人が決断をした。
こうして一先ずドレス選びが終わったことに控えていた侍女もファーガスも、そしてリョウも、そっと胸を撫で下ろしたのだった。
それから不意にファーガスがリョウを見下ろした。
「ああ、リョウ。お前はどうする?」
「何がですか?」
ファーガスから尋ねられたことの意味が分からずに首を傾げれば、
「まぁ、そうね。この際だからリョウもいらっしゃい。ええ、その方がいいわ!」
アレクサーンドラはその思いつきに己が両手を胸の前で合わせると途端に喜色を浮かべた。
リョウは内心、狼狽えた。それは、もしかしなくとも明日の祝賀会に自分も参加するということなのだろうか。
こちらを見下ろしたファーガスを前にリョウは慌てたように両手を前で横に振った。
「とんでもございません。ワタシは子供たちとお留守番をしていますから」
夜会であるから当然、幼い子供たちは参加をしない。出掛ける両親の代わりに侍女たちが面倒を見ることになるのだろう。リョウは子供たちと一緒にいようと考えた。宮殿で開かれる夜会など華やか過ぎて自分には分不相応だ。それに着て行くような服もない。プラミィーシュレ滞在時、エリセーエフスカヤで煌びやかな空気に当てられて肩が凝ったことを思い出して、とてもじゃないが無理だと思った。それに今回はあの時の比ではないのだ。国王直々のお声掛かりで宮殿で開催される夜会だ。王都にいる貴族たちが一堂に会することになるのだろう。
リョウはこれまでに垣間見た宮殿外縁部の華やかな装飾が散りばめられた空間を思い出していた。宮殿区画内の一番端の部分でもそうなのだ。夜会が開かれるような場所ではもう目がちかちかとして眩いばかりで目が開けられない事態になるかもしれない。
そんな恐ろしい所に出掛けるのは御免だと恐々としていたのだが、
「リョウ、いい機会だ。共に来るがいい」
ファーガスが簡潔に言った。
詰まり、ユルスナールが身を置く世界がどのような所なのか。そして、シビリークス家に入るということはどのような世界と関わりになるのか。それを肌で感じ取った方がいいということなのだろう。
「今回は国王も顔を出す。この国のことを知りたいのだろう? この国を治める治世者の顔を拝んでおくといい」
ファーガスの言葉に妻のアレクサーンドラも嬉々として合槌を打った。
「そうよ。こんなときでもなければ王のお顔を拝めないもの。元々、ルーシャは必要以上に社交界には近寄らなかったけれど、今後はそうも言っていられなくなるわ。だから今回は顔見せには絶好の機会になると思うわ、ねぇ、あなた?」
「ああ。そうだな」
リョウが茫然とするうちにファーガスとアレクサーンドラの間では話がどんどん具体的に進んで行った。
「いや……あの」
「なに、ちょっと覗いて中の空気を肌で感じてみればいい。そんなに気を張ることもない」
ぎょっとして顔を青くしたリョウの背中に大きな手を当てて、ファーガスは大したことではないと宥めるように軽く叩いた。
「ですが、ワタシにはそのような晴れがましい場所に着て行く服がありませんので」
だから、出席は無理だと尤もな理由を口にした積りだったのだが、
「ああ、それならば問題ない。サーシャのものを借りればいい。少し詰めれば大丈夫だろう」
「ええ。それでも構わないわ。ああ、でもルーシャはちゃんと用意しているようなことを言っていたわよ。そうそう、以前着たドレスを持ってきたって言っていたかしら」
ファーガスに続いたアレクサーンドラの発言にリョウは耳を疑った。
もしかしなくとも、それはプラミィーシュレで身に着けたあのドレスのことを指しているのだろうか。シーニェイェ・マルタの生地で作った。あれは北の砦のユルスナールの部屋にある衣装箪笥の中に入れてあったはずだ。あの一式を持って来たと言うのだろうか。それが本当ならば、何とも用意が良すぎるだろう。
「プラミィーシュレの時の……ですか?」
半ば唖然と恐る恐る口にしたリョウの横で、
「ふふふ。噂の【夜の精】の姿を私たちも見られるのね。楽しみだわぁ」
そう言って柔らかく微笑んだアレクサーンドラとその横で穏やかに目を細めているファーガスに、リョウは自分の祝賀会への参加が本決まりになってしまったことを認めない訳にはいかなかった。
そして、その日の夕方、念の為アルセナールより帰宅したユルスナールに明日のことを尋ねれば、ユルスナールは形の良い眉を顰めて、「また先を越された」とぼやいたのだが、「ああ、お前も連れて行く積りだ」とシビリークス夫妻の言葉を肯定した。そして、案の定、自室の衣装箪笥の中からプラミィーシュレ滞在時に着たドレス一式をリョウの目の前に取り出して見せたのだ。勿論、ご丁寧にも対になっている履物であるトゥーフリまであった。
「ルスラン、どうしてこれを?」
北の砦にあったはずのものを王都にまで持ってきたのか。
その問いに、ユルスナールは万が一のことを考えてそれらを持参したのだ返した。
万が一…要するにユルスナールとしては事前にこのような事態を予想していたということなのだろう。
とんでもないことになったと急に不安そうな顔をしたリョウに、ユルスナールは心配することはないとその頬に手を宛がいながら柔らかく微笑んだ。
ユルスナールはプラミィーシュレでのことを思い返して、リョウが驚くほど淑女らしく振る舞えることを知っていた。以前、リョウがどのような暮らしを送っていたのかは皆目見当が付かなかったが、王都に暮らす流行に敏感な街娘も足元に及ばない位のしっかりとした素地を持っていると思っていた。
エリセーエフスカヤでは上品に微笑み、貴族の男連中の誘いを実に感心するほどそつなくあしらっていた。言葉使いも女らしく丁寧なものに変わっていた。
普段のリョウは基本的に丁寧でややもすれば堅苦しい言葉を使った。元々、言葉を教わった相手があのガルーシャ・マライであったし、普段から言葉を交わす獣たちはセレブロのようにかなり古めかしい言葉使いをすると聞いている。だが、北の砦にいる時は、基本形は変わらないながらも、若い男が使うようなものに変わっていた。恐らく、非常に耳が良く、そして器用な性質なのだろう。対峙する相手と場所に合わせて言葉だけでなくその振る舞いに至るまで、まるで演じているかのように変化させているのは大したものだった。それを然程苦労なく、ごく自然にしてみせるのだ。そして、閨の中では、普段の凛とした物腰が嘘のようにぐずぐずに甘くなり、甘えたように口調がより砕けたものに変わるのだ。その時の口調が、ユルスナールは堪らなく好きだった―――というのは余談であるが。
また、言葉使いだけでなく、リョウは食事をする際の作法も洗練されていた。器用にノーシュカとビールカを使う。どこに出しても恥ずかしくない位だとユルスナールは思っている。後はこの国の貴族の習慣や宮殿内のしきたりを教えれば完璧になるだろう。
煌びやかで人の多い所は苦手である。そう言って困った顔をしているリョウを余所にユルスナールはそのようなことを澄ました顔の下で考えていた。
堂々としていればいいのだ。自信を持って。リョウは既にそれだけのものを持っている。
だが、本人はかなり控えめな性質なのでーともすれば控え目過ぎる程だー「とんでもない。恐れ多いことだ」と慌てふためいている。そういう慎ましやかさもユルスナールはリョウの愛すべき美徳だと思っていた。
それにユルスナール自身、今回の祝賀会への出席はいい機会だと思っていた。リョウを伴うことでユルスナールの正式な婚約者であることを周囲に知らしめることが出来るからだ。自分に決まった相手がいることが分かれば、これまでせっせとその方面での渉外活動をしていた貴族連中は諦めるだろう。そして、何よりもリョウの存在を周囲に知らしめることが出来るのだ。特に妙な企てをしていると思われる神殿の神官たちに対してはいい牽制になるだろう。
明日の夜会は、神官たちも多く招かれることになっていた。リョウの後ろにシビリークス家があることを示せば、迂闊には手を出せまい。このような所で実家の名前が良いように作用するとは思ってもみなかったが、この際、使えるものはなんでも利用する積りだった。
「リョウ、大丈夫だ。明日の午前中にでも儀礼的なことをお浚いしておこう」
「……分かりました」
ユルスナールがそう言えば、リョウはもうこの件は決定事項なのだと諦めたのか、ぎこちないながらも少し緊張気味に微笑んだ。
こうやって少しずつ、リョウには自分が身を置く世界のことを、そして、この国の中枢に近い所のことを知ってもらいたいと思った。リョウが考えているよりも恐らく、この貴族社会が、柔軟で懐が深いということを知ってもらいたかった。上手く行けば国王の姿も遠目に垣間見ることが出来るかもしれない。王族は連綿と長きに渡って続くこのスタルゴラドを治める一族だ。その良い所も悪い所も含めて、今あるこの国の現実を見てもらいたいと思った。
夕食前にユルスナールとはそのような遣り取りがあった。
そして夕食後、リョウはシビリークス家の女たち、夫人のアレクサーンドラと長兄の妻ジィナイーダ、そして次兄の妻、ダーリィヤと束の間の時を過ごしていた。
話題の中心は、貴族の若い娘たちの間の流行や明日の打ち合わせだ。装飾品をどうするか、髪形をどうするか。そのような男にとっては取るに足らないことだが、女にとっては実に切実な議題でおしゃべりをしながら過ごしていた。
リョウにとっては、それはこれまで忘れていた女心を刺激されるものだった。女友達と服や流行を話題に他愛ないお喋りという名の情報交換をする。昔の楽しくて軽薄ですらあった時を思い出させるには十分だった。懐かしい感覚だ。大勢の女たちに囲まれてワイワイとおしゃべりをするのは正直な所、余り得意な方ではなかったが、シビリークス家ではそれなりに楽しんでいた。何よりも気ままで基本的に善良で優しい女たちだ。どこか貴族らしい能天気さもリョウは嫌いにはなれなかった。元よりのんびりとした気ままな性質でもある。こういう空気感は肌に合っていたのだ。
母親のアレクサーンドラも二人の兄嫁たちも然るべき教育を受けた聡明な人たちだった。特に次兄ケリーガルの妻であるダーリィヤは、上品で落ち着きのある淑女の見本のような女だった。アレクサーンドラとジィナイーダのあちこちに飛びながら絶え間なく続くおしゃべりを柔らかな微笑みと共に聞きながら、脱線し過ぎる話をそれとなく元の軌道に乗せるように修正してみせるのだ。とても聞き上手で、俯瞰的に場を眺めることが出来るのだろう。決して出しゃばる訳ではないが、ダーリィヤが居ることで、会話にメリハリが付き、浅いお喋りの内容にも時折ハッとさせられるような深い洞察がなされたりする。ようするに好き勝手な方向に行こうとする二人の手綱をよく引き絞り、的確に場を作り出しているのだ。それをごく自然に当たり前のようにさり気なくしてみせるのだ。とても知的で頭の回転が速い人なのだとリョウは感心することしきりだった。
シビリークス家の三兄弟の中でも次兄のケリーガルは、代々軍人を輩出する武ばった所のあるこの家で、唯一軍人にならずに武ではなく文を磨き、財務官になっていた。柔らかい当たりだが、中々に強かで抜け目ない人物であることをこれまでの遣り取りからリョウは感じていた。そして、その妻であるということは、そういう次兄のお眼鏡にも敵う素晴らしい女なのだろうとこれまでの短い邂逅の中でも感じていたのだ。
「そうだわ、リョウ。プラミィーシュレでは髪はどうしていたの?」
アレクサーンドラからの急に降って湧いたような振りにリョウは内心苦笑しながらも答えた。エリセーエフスカヤでのことを聞かれていると思ったからだ。
「上の方に束ねて巻いてもらいました」
あの時は、仕立屋の妻、クセーニアが色々と面倒を見てくれたのだ。当時、クセーニアは身重だった。あれから約二月半は経過している。クセーニアは無事新しい家族を迎えることが出来たであろうか。
「じゃぁ、明日もそうした方がいいかしらね。その細い項を隠しておくのは勿体ないもの」
「…ですが、まだ傷が完全に癒えた訳ではないので」
首に巻いている包帯の下には、いまだ刃物による刃傷の痕が付いていた。傷は完全に塞がってはいるが、見るものが見れば、それが何による傷かは分かってしまうだろう。それは貴族の婦女子たちには無縁のもので、きっと眉を顰めてしまうようなものかもしれない。
その辺りの心配を躊躇いがちに口にすれば、
「それなら後れ毛を脇から垂らせばいいわ。アクセントにもなるし、上手く隠れると思うわ」
次兄の妻ダーリィヤがおっとりと微笑みながら助言をくれた。
包帯を巻いたリョウの首周りへ一瞬、痛ましげな視線を投げたが、女たちはその事には触れなかった。それを有り難く思った。
「そうですね」
相手からの好意を無駄にはしたくない。リョウもそっと微笑み返していた。
そして話題を変えるようにジィナイーダが言った。
「本当にあなたの髪はさらさらしているのね。素敵だわぁ。まるであの黒毛みたい。ほら、ルーシャが乗っている」
感嘆に似た溜息混じりの言葉にリョウは昨日のアリアルダとの一件を思い出して微笑んだ。アリアルダもリョウを見てユルスナールの黒毛馬キッシャーのことを口にしたのだ。こういう所は姉妹ということなのだろう。
こういうのも偶には良いかもしれないとリョウは思い始めていた。女であることの特典を余すことなく活かし、その恩恵に預かることができるのだ。それはリョウが半ば無意識に、そして半分は意識的に忘れていたことでもあった。こうなれば、この目でしかと貴族という人たちが身を置く社会を見ておきたいという気になっていた。
***
こうして女たちが実に女らしい話題でおしゃべりに興じている頃、ファーガスの書斎にはいつものようにこの家の男たちが顔を揃えていた。其々、グラスの中に薄く注がれた琥珀色の酒ーズブロフカを舐めながら、定位置となる場所に四人のシビリークスたちが腰を落ち着けていた。
「リョウを連れて行くんだって?」
口火を切ったのは次兄のケリーガルだった。
「ええ。その積りです」
話題は、勿論、明日の夜に宮殿で開かれる祝賀会のことだった。
「楽しみだね。ねぇ、兄上。噂の【夜の精】を拝めるのだから」
以前の噂話を揶揄しながら次兄が言えば、
「はは。そうだな。だが、気を付けなければなるまい。あそこには美しいものに目がない連中がうようよいる。うっかり攫われてしまうやもしれん」
長兄はたっぷりとした髭で覆われた顎を手で摩った。
その情景を思い描いてか、ユルスナールは嫌そうに眉を顰めたのだが、
「ああ。そうだ。お前は何かと忙しくなるだろうからな」
父親のファーガスも兄の心配を肯定した。
数多の招待客の中でもユルスナールは個人戦及び団体戦を制した兵士だ。主役級の扱いになることは違いなかった。集まる貴族たちからは次々に祝いの言葉を掛けられるに違いない。そして、そこでは実に貴族らしいやり方で新たな関係作りが模索されることだろう。着飾らせたリョウを傍に伴っていたとしてもユルスナールの注意が逸れた隙に他の貴族たちから声を掛けられ別の場所に移動させられてしまうかもしれない。
「その時は父上たちにお願いしますよ」
ユルスナールはそう言うとグラスのズブロフカを口に含みながら面白くなさそうな顔をした。
父親のファーガスや兄たちがリョウの傍に付いていれば、余計な虫を寄せ付けないようにするのにこれ程効果的な牽制はないだろう。
そのような他愛ない話から始めて、漸く、口慣らしが済んだらしかった。
「で、ルスラン。お前は何を企んでいるんだ?」
意味あり気に目配せをしながら、ファーガスが末息子を見た。
ユルスナールは父親の視線を受けて、その口元に薄らと笑みを刷いた。
「企んでいる―という程のことではありませんが、少し余計なものを炙り出せればと思ってはいます」
そう前置きをしてから、ユルスナールはリョウを実家に移すことになった経緯とその背景にある出来事を集まった男たちに掻い摘んで話した。
「リョウが標的にされていると?」
「ええ」
父親の問いに即答したユルスナールの横で、
「うーん」
ケリーガルが緩慢な仕草で首を傾げた。その手はグラスを揺らしていた。琥珀色の液体が波のように揺れ、独特な芳醇でふくよかな香りを微かに立ち昇らせていた。
「それにしては手が込んでいないかい?」
本当に純粋な意味でリョウを手に入れたいというのならば、神殿の神官たちはリョウをかどわかしてしまえばいいのだ。特別に訓練を受けた兵士でもなく見た目は細くひ弱だ。その外見通り、護身の術を持たないリョウなどその手の玄人に掛かれば、赤子の首を捻るよりも容易いことだろう。拉致監禁をして神殿で儀式が行われるその時まで行方不明にしてしまえばいいのだから。足が付かないようにするやり方はそれこそ幾らでもあるだろう。そして、そのような機会もこれまでには多々あったはずだ。そこに敢えて侍女の死を関連付けさせて罪人に仕立て上げるというようなまどろっこしいことをする必要はないはずだとケリーガルは言った。
その指摘には、ユルスナールも神妙な顔をして同意した。
「ええ。私もそのことには若干、違和感を覚えてはいます」
態々第二師団の管轄内で侍女を死なせた理由は何処にあるのか。奥向きで撹乱をしたかったのか。そちらに注目を集めさせて置いて、注意を逸らすように。だが、何からだ? それに、そもそも侍女の件とリョウの一件は繋がっているのか。
リョウが拘束をされた前後、実しやかにリョウが犯人だとされる噂が流された。それは考えようによっては後付けのようなものと思えなくもない。
ケリーガルの言うように、それがリョウを嵌める罠だと言うのなら、少し手が込み入り過ぎている気がしてならなかった。
だが、もしリョウがその切っ掛けでしかないとするのならば……。そして、その裏に別の本当の目的があるとするのならば。
考え込んだユルスナールに長兄のロシニョールが言った。
「向こうはお前を引っ張り出したいのかもしれんな」
「私……ですか?」
「ああ。これまで数々の縁談を突っぱねて来たからな。今年になって急にお前の傍にちらついた女の影に吃驚して、その相手を憎く思うこともあるだろう。そこにいち早く神官たちが敏感に反応し、協力を仰いだとも考えられる」
社交界で敵を作った積りはなかったが、その説は予想以上に説得力がある気がした。
「神殿の方は堅いのだな?」
確かめるようにファーガスが鋭く切り込んだ。
「ええ。恐らく」
シーリスの義兄レヌート・ザガーシュビリの話からは、そのような動きがあることが確認できた。レヌート自身もこの事態を大いに憂慮していると言っていたそうだ。だからこそ、シーリスに洗いざらい打ち明けてくれたのだ。その中の情報は、明らかに神殿の禁忌に触れるようなことだった。
「だが、単なる恋の腹いせにしてはやり口がいやらしいな」
深く息を吐きだしたロシニョールにケリーガルが頷いた。
「確かに侍女が一人死んでいますからね。しかも【ジョールティ・チョールト】で」
【黄色い悪魔】は普通の貴族には手が出ない毒草だ。手に入れるのは相当困難なことだろう。然るべき伝手と大金が必要になる。あの毒草を用いることは暗殺に足が付かないことで有名だが、そこまでして侍女を死なせておきながらも、これ見よがしに毒殺であることの証拠を残していたのだ。余りにも見え透いているとしか思えない。
そうすると侍女の死の裏には、神殿の単独の犯行ではなく宮殿内部に協力者がいると見ていいだろう。互いに利害が一致した。神殿の方の目的は明らかになったが、宮殿内の方はどうか。
つらつらと一連の出来事を思い返しながら、ファーガスは暫し瞑目した。
他に考えられることとしては一つ。
「私も敵は多いからな」
シビリークス家に恨みを持つ者の犯行かもしれない。生憎、心当たりはそこそこあった。長年この王都に暮らし、軍関係の仕事に従事しながら、宮殿内部に出入りしていたのだ。若い頃は、喧々諤々と丁々発止の議論をしたこともある。これまでに多少の軋轢は経験していた。
「それを言うなら私とて同じですよ」
どこか苦い顔をして見せた父の隣で、長兄のロシニョールが男らしい笑みを浮かべた。
「まぁ、誰にでも思い当たる節はそれなりにあるってことなんじゃないかなぁ」
その隣で次兄のケリーガルも父親の言葉を肯定するようににっこりと微笑んだ。
「それを言えば私とてそうでしょう」
そして、次兄の台詞を引き継いだのは末のユルスナールだった。
詰まり、四人ともそこそこ思い当たる節がある訳で。まっさらな人生を歩んでいるものなどいないということなのだ。
そして、男たちは互いに顔を見交わせた。
「ならば、明日の夜、向こうが何か仕掛けてくると?」
「ええ。そうなるかもしれないと考えています」
父親の問い掛けにユルスナールは真剣な顔をした。
相手が貴族ならば、この機会を逃すとは思えなかった。王都に暮らす多くの貴族たちが一堂に会する機会だ。リョウの参加までもを向こうが予想しているかどうかは分からなかったが、何らかの動きを見せるはずだと踏んでいた。そこで、少しでも相手の輪郭とその最終目的が掴めればと思っている。
「でも、それって、ちょっとした賭けだよね」
「ええ。それは分かっています」
「下手をするとリョウを巻き込むことになるな」
ケリーガルの隣で、ロシニョールも形の良い男らしい眉を寄せた。
リョウを危険な目に遭わせてしまうかもしれない。それはユルスナールとしても苦渋の決断ではあった。だが、シーリスやブコバルを始めとする軍関係の仲間たちとよくよく話し合って決めたことでもあった。黙っていても、今後、リョウの身辺が不穏な空気に満ちていることには変わりがない。自分の目が届かない所でまたもやひょんなことから大事に発展する場合も十分考えられた。それなら、ここで仲間たちが一致団結して攻めの姿勢を取ることで、これまでの憂慮を断つべきだ。そして、相手の顔が覗けば、ささやかながらこれまでの【返礼】をすべきだという意見が多かったのだ。それにリョウを一人、この家に残しておくよりもユルスナールを始めとする男たちの傍に置いた方がより安全だと思えた。
「ええ。ですから父上にも兄上たちにも少し気を付けて頂けたらと思いまして」
万が一、自分の注意が行き届かない場合はリョウのことを頼みたい。そう告げたユルスナールにファーガスも二人の兄たちも力強く頷いて見せた。
それから四人の男たちは、一頻り情報交換をした。要するに己が胸に手を当てて、心当たりがある人物たちを挙げ連ねて行くのだ。そして、現時点での宮殿内の人の繋がりと政治的な勢力図を確認し合った。
ユルスナールは北の砦に赴任以来、一年の殆どを辺境の地で暮らす為、王都の政治からは離れていたが、それでも常に情報交換は怠ってはいなかった。アルセナールにある第七の執務室を預かるグリゴーリィーが、重要な役目を担っていた。それでも入ってくる情報は常に間接的なものだ。父や兄たちのように現場で得られる生の情報は貴重だった。
それによると国王の側近で、この所、力をつけているのが、アクショーノフという貴族だった。宮殿中枢部の中でも国王の覚えも目出度く、発言権を強めているとのことだった。
アクショーノフは有能な政治家だ。権勢欲を徒に表に出したりはしていない。根回しが上手く、敵を作らないよう如才なく振る舞っている強かな性質だが、この所の躍進を余り快く思わない貴族連中も中にはいるようだ。
そして、ここ数年大人しくしてはいるが、再び宮殿に返り咲く機会を窺っているのがアファナーシエフ辺りだろうとのことだった。今は、半隠居状態で滅多に宮殿の方には顔を出さないと聞いているが、その影の影響力はまだ強く、ご機嫌伺いや助言を求めて男の元を訪れる貴族も多いという話だった。その水面下での精力的な活動を思わせる事例としてユルスナールはエリセーエフスカヤで男の懐刀と目されている男、ソルジェを目撃したことを思い出した。
他には、イリューヒン。この男は常日頃から神殿を煙たく思っている王族至上主義者だ。故に神殿側と手を組むことは考えにくかった。そして、大臣たちの中では、イジューモフ、タラカーノフ、ゴンチャロフ辺りが要注意とのことだった。其々程度の差こそはあれ、出世欲が強く、目的の為には手段を選ばないという所があるらしい。
現国王は、この国を建国した伝説の王フセスラフの末裔とされている一族だ。ここまで時代が下るまでに紆余曲折はそれなりにあったようだが、それでもその血筋を絶やすことなく脈々と繋いできた。数多もの人を従え、人の上に立つことの出来る有能さを失っていないと言えるだろう。
現国王は穏やかで聡明な君主との評判が高い。二十年前、隣国ノヴグラードと戦を交えた時はまだ皇太子だった。
平和な時代が長く続いた政権の特徴として時の王族は、野心を持たず、どっしりと豊かさの上に成り立つ安穏に胡坐をかいていた。先の戦は、この国の中枢部の弛緩し過ぎた危機感の無さを浮き彫りにする結果となった。だが、あのような戦を経験し、辛酸を舐めながらも、そこにはどこか大国の甘さが残ることになった。
ファーガスなど軍部を司る軍人たちは、それを常々苦々しく思っていた。そういう点で、強硬派や生粋の軍人の目から見たら、現国王は、対外的にやや臆病で弱気に映るかもしれない。
そして、そのような王を取り巻く貴族たちは皆、一様に一癖も二癖もある者ばかりだと言えた。
今の所、政権を簒奪しようなどという大それたことを企てる者はおらず、国王を中心とした政治がそこそこ機能している。古の約定に従い王をこの国の中心に据え、諸侯たちはその直ぐ下の限られた空間の中で、己が影響力を誇示しようとぶつかり合っている。
そして、明日の祝賀会のような宮殿主催の夜会では、その勢力図の一端が多かれ少なかれ明らかになることだろう。
ユルスナールは、長い脚を持て余すように組み替えながら、手にしたグラスを傾けた。
「売られた喧嘩は倍返しが基本ですからね」
それはこの家の男ならば誰もが知るシビリークス家の家訓でもあった。
見えない敵を睨み付けるように不敵に笑った末息子に、同じ血を引く父親のファーガスも二人の兄たちも顔を見交わせると似たような男らしい、そして実にシビリークスらしい笑みを浮かべたのだった。
第186話「禍福は糾える縄の如く」の続きの場面をInsomnia の方で更新しました。活動報告の方にも小話を付けましたので、もしよろしければそちらもどうぞ。