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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
187/232

野分のあした

ノワキの明日ー嵐(台風)の翌日という意味合いです。

「お茶のお代りはいかがですか?」

 華やかなで温かな色合いの壁紙が天井から四方の壁を囲む広い室内、優美な印象を与える飴色の調度類に囲まれた中にある大きな寝台の中で、起き上った娘の背筋は、ピンと伸びていた。

 潔い程に真っ直ぐで頑なで硬い。その姿は、やや柔軟性に欠けるきらいのある娘の性分をそのまま体現しているようでもあった。垂らしたままになっている癖の無い金色の髪は、大きく切り取られた窓から差し込む柔らかな日差しに鈍く煌めいた。

 この国の女たち特有の少し厚めの唇。生来の気の強さを表わす吊り上がり気味の眦に大きな瞳。少し高めの鼻。全体的に見て、それはまるで繊細な人形のような造形だった。

 膝の上に置かれた白い手は労働とは無縁の傷一つない滑らかなものだ。大事に大事に両親からの愛情を一身に浴びて育てられて来たのだろう。

 昨日は蒼白となっていた頬は、一晩泥のように眠りに就いた所為か、本来の血色を取り戻し始めていた。

 掛けられた声に答えを返すことなく、娘は無言のまま、窓の外に目を向けた。

 そこからは常緑樹の緑濃い葉の付いた梢が、そよぐ風に揺れていた。小鳥たちの甲高い(さえず)りが聞こえた。外を気ままに走り回るこの家の番犬であるカッパとラムダの白い毛並みがちらついて見えた。その向こうに、春の先触れとして知られる淡い青色の花が咲いているのが見えた。

 長閑な昼下がりの光景だった。

「ずっと、ルーシャには私だけかと思っていたわ」

 ぽつりと漏れたのは、本当に微かな声だった。風の囁きのような声だった。

「でも、ルーシャは私じゃ駄目なんですって。大の軍人が私に頭を下げたの。この償いは何でもするって言って」

 ―あんな必死な顔を見たのは初めて。

 淡々とした突き放すように囁かれていた声音が、ここに来て微かに震えた。

 寝台の中にある娘の一人語りに、少し離れた所にある茶器の乗ったワゴンの前に立つ人物は、静かに耳を傾けていた。


「傷は……大丈夫なの?」

 窓の外を向いていた視線が、一瞬だけ室内に佇む(ひと)に向けられた。そこにある赤みを帯びた橙色の瞳は不安に揺れていた。昨日のような気丈さは全く鳴りを潜めていた。

 そして、怒りも。代わりにあるのは、ただ悔恨に似た深い悲しみだった。

「ええ、大丈夫ですよ。少し切れただけですから。掠り傷です」

 女にしては少し低めの、だが、耳触りのよい声を紡いだその(ひと)は、そう言って傍にある簡素な背凭れの無い丸椅子に腰を下ろした。

 そこにあるのは凪いだ空気だった。いつもと変わらない日常に溶けてしまいそうな静寂に満ちた空気。

 不意に落ちた沈黙に、寝台に居る娘が焦れたように口早に言った。

「ねぇ、どうして怒らないの? 私の所為であんなことになったのに……」

 娘の夕暮れ時を思わせる橙色の瞳は、対峙した相手の同じようにほっそりとした首元に回る白い包帯を見ていた。

 寝台から少し離れた所にある簡素な丸椅子に腰を下ろしていた黒髪の女性は、そっと微笑むと小首を傾げた。後ろで緩く束ねられた黒髪が、馬の尻尾のように左右に揺れた。

「アリアルダさん。あなたがルスランを想う気持ちはあなただけのものです。それをどうして咎めることができましょうか。それだけ、あなたは真剣だった。そして真っ直ぐでした」

 ただ、それを好いた相手に分かって欲しくて仕方がなかったのに。そのやり方を少し間違えてしまったのだ。

 その言葉に寝台の中の娘は小さく息を飲んだ。そして、何かを堪えるように顔を歪めるとその顔をそこにいる相手に見せまいとでもいうように再び窓の外へと向けたのだった。


***


 シビリークス家の玄関で刃物を手にしたアリアルダが力なく崩れ落ちたその日、姉に寄り添われながら別室に移されたアリアルダは、緊張の糸が切れたように意識を失った。

 ここに至るまでずっと睡眠不足が続いていたのだろう。食事も思うように喉を通らなかったと聞く。青白く、こけた頬を晒したまま、寝台の中で眠りに就いた己が妹の姿に姉のジィナイーダは心を痛めた。そして、枕辺に膝を着くと、すっかり女らしくなった妹の額際に掛かる髪をそっとかき上げてやった。

 夫のロシニョールから弟・ユルスナールの秘めた決意を聞かされた時、ジィナイーダは耳を疑った。ジィナイーダも妹のアリアルダがいずれはユルスナールに嫁ぐものと疑っていなかったからだ。アリアルダはユルスナールに恋をしていた。それは幼い頃から周囲の人間が意識的に、そして無意識の願望によってそうなるように仕向けてしまった結果でもあった。

 アリアルダは、ユルスナール以外の若い男を知らなかった。アリアルダは貴族の社交界でも華やかな顔立ちをした美しい娘であったから、若い男たちはこぞってその手を取ろうと躍起になったが、いつも門前払いを受けていたのだ。それは見目麗しい有力貴族の娘に悪い虫が付かないようにとする周囲の人間の弛まないお節介と言う名の努力の為でもあった。また、アリアルダが想いを寄せるユルスナールは、この国の独身貴族の中でも有能な軍人で、第七師団長を拝命するという立派な男であったので、そのような男と比較されてしまう普通の貴族の男たちには、アリアルダに自分を認識してもらえるように仕向けるのは、中々に労力と機転の必要なことだった。

 武芸大会最終日、ユルスナールが古式に則り求愛をしたことは当然のことながらジィナイーダの耳にも入っていた。試合中、その腕には、アリアルダのものではない黒い色のリボンが回っていたのだという。

 黒いリボン。黒い色彩を持つ女の影。そこでジィナイーダは、少し前に王都の噂好きな貴族たちの間を賑わせた義弟の話を思い出した。

 プラミィーシュレのサロンで義弟はお伽噺の【夜の精】を思わせる(ひと)を同伴していたという。それは、それまで浮いた話の無かった義弟の背後に初めてちらついた女の影だった。思えばその頃から、ジィナイーダの中には、ある種の女の勘とでも形容すべき一抹の不安が生まれていた。

 義弟は昔から独立心の強い男だった。自分の進むべき道は、自らの力で切り開いてきた。そして、生涯の伴侶と成るべき女性も、恐らく自らの手で探し出してくるだろうという予感はあった。

 そしてその予想は、図らずも的中することになってしまった。それは、また、妹の初恋が破れた瞬間でもあった。

 ジィナイーダは、仲の良い男親たちの徒な口約束の通り、シビリークス家の長男ロシニョールに恋をして、そして、男の元に嫁ぐことができた。貴族社会の中では、その婚姻は、往々にして政治的、経済的な意味合いを持つことが多い。そのような因習がある中で、恋愛感情を優先させた婚姻というのは珍しい部類に入るのだ。ジィナイーダは、偶々、運が良かったに過ぎないのだ。顔も見たこともないような相手に嫁ぐ場合だってあり得る。だが、そこから互いを知り合うことで夫婦として愛を育むこともできるのだ。そういう例をジィナイーダは、多々知っていた。

 ジィナイーダは、妹に掛けるべき言葉を探しあぐねていた。男などユルスナール以外にもこの国には沢山いる。そのことを知ら示すことができればいいのだろうが、それを先に恋を実らせた自分が口にするのは却って妹の傷を抉るようで躊躇われた。

 アリアルダは、昔から気の強い性質だった。笑顔の絶えない朗らかで明るい性質だった。貴族の淑女たるべく淑やかに振る舞うことを教え込まれてはいるが、その本質が変わることはない。そして、普段は規律の中で抑えられているはずのその本質が、この日、勢いよく噴き出してしまったのを姉は目の当たりにしたのだ。


 アリアルダが目を覚ましたのは、翌日の昼を過ぎた頃だった。枕辺にはシビリークス家より連絡を寄越されて、余りの事態に仰天して素っ飛んで来た両親の姿があった。

 丸顔で癖のある薄茶色の髪を乱した父の姿とハンカチを握り締め、薄らと眦に涙を溜めた母の顔を目の当たりにした時、アリアルダは自分がとんでもないことをしてしまったことに気が付いた。そして、両親に大きな心配を掛けてしまったことを思い知った。

「パーパ、マーマ」

「……アーダ」

 自分の手をきつく握り締めていた母の眦から、一筋の涙が流れた。目を覚ました娘に母は安堵して微笑もうとしたが、咄嗟に口元を手で覆った。漏れる嗚咽を殺す為だった。

「アーダ、気分はどう?」

「………平気よ」

 母親を安心させようとしたアリアルダの笑みは、どこかぎこちないものになった。

「まだ青い顔をしているわ」

 母親の温かい手が、娘の顔に伸ばされた。額際を優しく撫でる。

 そこで傍にいた父からも小さな声が漏れた。

「アーダ、済まないことをしたね」

 それは毅然とした態度を崩さない厳しくも立派な平生の父とは思えない程の弱弱しい声だった。

 アリアルダはゆっくりと目を閉じると枕に頭を埋めながら首を緩く左右に振った。


 その後、アリアルダが意識を取り戻したという報せを受けて、侍女のポリーナが術師としてアリアルダの容態を診た。少し、食事をした方がよいということで、中にいた両親は別室で待つことになった。


 ズィンメル夫妻が案内されたのは、この家の立派な応接室だった。そこには、シビリークス家の主であるファーガスとその妻・アレクサーンドラ、そして、三男のユルスナールがいた。

 ファーガスは竹馬の友であるラマン・ズィンメルと挨拶の抱擁を交わした。そして同じようにズィンメル夫人・アントーニナとも挨拶を交わした後、二人を来客用のソファに促した。

「申し訳ございませんでした」

 斜交いの一人掛けの椅子に腰を下ろしていたユルスナールが、徐に謝罪の言葉を口にした。

「私からも謝罪をしよう。済まなかった」

 この度、自分の屋敷内で起きた騒動に主のファーガスも静かに頭を垂れた。

 それに慌てたのはラマンの方だった。

「止してくれ、ファーガス。それにルスランも。今回のことは我々にも責任がある」

 徒に娘の心を弄んでしまったという意識は父親のラマンの方にもあった。シビリークス家のユルスナールと娘のアリアルダは正式な許嫁の関係にあった訳ではなかった。それなのに親たちや周囲の勝手な願望を子供たちに押し付けてしまったのだ。

「寧ろ、謝罪するのは私の方だ。ルスラン、キミをアリアルダに縛りつけようとしてしまったのだから」

 だが、真摯な声を滲ませた父親の傍らで、

「ねぇ、ルスラン、アーダにはもう望みがないの?」

 娘の気持ちを良く知る母親が藁にも縋る思いでユルスナールを見ていた。その手は不安げに夫の太い腕を掴んでいた。

「申し訳ございません」

 ユルスナールは静かに、だが、毅然とした態度を崩さなかった。

「私にはもう既に心に決めた(ひと)がいるのです。その(ひと)以外に、生涯の伴侶となるべき女性はいません」

 揺るがない程の真っ直ぐな眼差しにズィンメル夫妻は、己が娘に一縷の望みがないことを認めない訳にはいかなかった。

「………そうか」

 可愛い娘の心中を思えば、心は苦しかったが、ここで我儘を言える訳はなかった。何よりもユルスナールには既に他に愛する(ひと)がいるのだ。そうなった以上、父親としてはこの件をどうすることも出来ない。

「お相手はどちらの方なの?」

 過日もたらされた書簡には相手のことは全く触れられていなかった。娘の代わりに選ばれた女性をズィンメル夫人・アントーニナは知っておきたかった。何が娘には足りなかったのか。そして、ユルスナールの心を捕らえた女性はどのような人なのか。

「どちらの家の方?」

 夫人のその問いにユルスナールは苦笑するように小さく口の端を上げた。

「いえ、貴族の娘ではありません」

「まぁ、それでは商人の娘?」

 貴族の人間でないのならば、裕福な商人の娘か。それはこの王都に暮らす貴族であるならば、誰もが考えるような思考回路だった。

「いいえ」

「一体、どんな()なんだ?」

 貴族の娘でもなければ、商人の娘でもない。ならば、ユルスナールの心を射止めた女性はどのような人なのだろうか。父親のラマンも興味を惹かれたように身を乗り出した。

「ふふふ。とっても可愛らしい方よ?」

 そこで、ズィンメル夫妻の対面のソファに優雅に腰を下ろしていたシビリークス夫人・アレクサーンドラが含み笑いをして、長い付き合いのある友人たちを見た。

「まぁ、サーシャ、あなたはご存じなのね?」

 アントーニナが、アレクサーンドラを驚きと共に見た。

「ええ。今、うちに滞在しているの」

 ―ねぇ、あなた?

 そう言ってアレクサーンドラは悪戯っぽい光をその淡い空色の瞳の中に覗かせると隣の座る夫のファーガスを仰ぎ見た。

 それにつられるようにズィンメル夫妻も対面のファーガスに注目した。

「ルスラン」

 ファーガスは、だが、そこで自身は口を挟む事はせず、続きを当の息子に振った。最後まで責任を果たせということだろう。

 ユルスナールは父親の意図を読み取ると、話を引き継ぐようにゆっくりとズィンメル夫妻の方を見た。

 そこで不意に柔らかく微笑んだ。その微笑みは、ユルスナールのことを幼い頃からよく知るズィンメル夫妻にとっても驚くべきものだった。昔から感情表現の乏しいと評されることの多いシビリークス家三男坊が初めて見せた心からの笑みだった。

「家柄も、後ろ盾もない、身一つの(ひと)です。この国の者でもありません。強いて挙げるならば、術師でしょうか」

「まぁ」

 驚きに目を見開いたアントーニナの横で、夫のラマンも呆けたように小さく口を開いた。そして、その真意を確かめるように友のファーガスを見た。

 驚きを隠せない友人夫妻にファーガスはたっぷりとした髭に覆われた男らしい口元を綻ばせて愉快そうに笑った。

「先日、晴れて術師になった新米だ。だが、優秀と聞いている」

「………術師」

 この国で、術師として登録されている女性は多くはなかった。王都には、術師を養成する専門の学問所があるが、そこで学ぶ生徒たちの多くは、王都にいる貴族や裕福な町人の子息たちだった。

「ルスラン」

「ああ、そうですね。実際にご覧になって頂けた方が早いかもしれません」

 目配せをしたファーガスの意図を汲み取ったユルスナールは、鷹揚に頷くと椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄るとガラス窓を開けた。

 そして、その場から外に向かって良く通る声を張り上げた。

「リョウ! 【イディーシュダー(こっちに来い)】!」

 それから程なくして、この応接室にやって来た人物にズィンメル夫妻は、良くも悪くも度肝を抜かれることになった。

 だが、それは同時にその相手が自分たちの娘がどう逆立ちしても敵わない真逆の魅力を備えた(ひと)であることを認める契機にもなったのだった。


***


 嵐のような一夜から明けて、ゆっくりと起床したリョウは、遅めの朝食をユルスナールと共に取ると、昨日の顛末を聞きつけて慌てて駆け着けて来たアリアルダの両親ズィンメル夫妻との話があるとのことでファーガスがいる応接間へと向かった。

 昨晩、ユルスナールと共に過ごした濃密な一時の証である気だるい身体の余韻を引きずりながらも、リョウは満ち足りた気分で目覚めた。

 残っていた秘密を全て残らず男に打ち明けた。そして、その非情なまでの過酷な定めを相手に伝えた上で尚、リョウの人生は丸ごとユルスナールに受け入れてもらえたのだ。

 そうしてリョウは男の手を取ることを決心した。ユルスナールの妻になることを受け入れた。

 ―残された時間が限られているのならば、それを全て俺に寄越せ。それが定めならば、俺の前で逝け。

 今でも身を焦がすような熱い男の純粋な想いが耳の奥に残っていた。


 食事を終えた後、この所、日課になっているように番犬のカッパとラムダを連れて、庭先を散歩した。そして、偶に二頭と追いかけっこをしていたのだが、リョウがいつになく気だるげにしていることに早々に気が付いたカッパとラムダの二頭は、その理由に思い当たる節があるのか、したり顔で目配せをし合い、リョウに自分たちに寄り掛かって読書をするなり、のんびりするなりして休むようにと言った。

 リョウは二頭からの並々ならぬ気遣いに気まずそうに眦を赤らめながらも素直に頷いて、以前のように部屋から持ち出した大きな布を草の上に広げて、そこに腰を下ろした。

 そうやって二頭と他愛ないお喋りをしながら日向ぼっこをしつつのんびりと過ごしていると、母屋の方の窓が開いて、そこから馴染み深い男の顔が覗いたかと思うと自分の名を呼ぶ男の声を聞いたのだ。


 リョウは少し緊張した。昨日の今日で、ユルスナールはアリアルダの両親と話し合いするとのことだった。そして、自分がそこで呼ばれるということは、新しい婚約者を紹介するということなのだろう。

 アリアルダの両親に自分の姿はどのように映るだろうか。娘の恋が破れることになった原因として憎しみをぶつけられることになるのだろうか。

 しかし、それはリョウがきちんと向き合わなければならないことだった。真正面から。ユルスナールの手を取るということは、アリアルダとその家族が自分に対して抱くであろう感情を受け止めなければならない。たとえそれが負の感情であっても。それは避けては通れないことだった。

 許してもらえるとは思っていない。それでも自分がユルスナールを心から慕い、その後の人生を男と共に過ごすことを決めた選択が、生半可なものではないことを知ってもらいたいと思った。


 半ば不安を抱えながら緊張した面持ちで応接室を訪ねれば、詰られることを覚悟していたリョウの予想に反して、アリアルダの両親であるズィンメル夫妻は、リョウに落ち着きのある抑制された態度で接してくれた。

 そして、男物のシャツと上着の合間から覗く白い包帯を目に留めた父親のラマンは、リョウの手を握り締めると苦渋に満ちた顔をしながらも感謝の言葉を口にした。

 ―ありがとう。娘を守ってくれて。

 自暴自棄になった娘が自害をしようとした。その時、本来なら娘が受けるはずの傷を術師であるリョウが引き受けてくれたということを知ったのだ。

 ラマンは心が震えた。己が娘と然程変わらない、いや、娘よりも一回りは華奢な身体で、娘を守ってくれたのだ。何という寛大さ、そして懐の深さだろうか。

 ラマンの目には、その首にある包帯が痛ましく映った。同じような娘に傷をつけてしまった。刃物の傷だ。きっとそこには薄らと痕が残ってしまうだろう。

 抑え切れない気持ちに頭を垂れ、肩を震わせた父親に、リョウは労わるようにその肩に手を置くと言った。

「どうかお顔を上げてください。怪我は大事ありません。ほんの掠り傷ですから」

 実際は思ったよりも深かったのだが、そう偽りを口にした。それを声高に告げる必要は全くない。優しい嘘だった。

 そして、穏やかな表情のまま言葉を継いだ。

「それよりも謝らなくてはならないのはワタシの方です。昨日のことに関しては、その原因の一端はワタシにもあるのですから」

「リョウ、それは違うぞ」

 ユルスナールが鋭く訂正をするように口を挟んだが、それを笑って制した。

「いいえ、同じことです」

 そこでリョウはズィンメル夫妻が座るソファの前に片膝を着いた。そして、真っ直ぐに誠実さを滲ませた漆黒の瞳を持って夫妻を見上げた。

「ですが、ワタシは、ルスランを諦める積りは微塵もありません。アリアルダさんには申し訳ありませんが、これがワタシの本心です」

 ハンカチを握り締めたアントーニナの拳が震えていた。これほどまでの静かな、そして確固たる心を示されては、それを認めない訳にはいかなかった。

 ラマンはそっと片膝を着くリョウの肩に手を置いた。そして、もう一度、同じ言葉を繰り返した。ズィンメル家当主に相応しい毅然さと一人の娘の父親としての誠実さと慈しみを持って。

「キミにも済まないことをしたね。ありがとう。娘を守ってくれて」

 その言葉にリョウはそっと微笑みを浮かべた。その眦には、薄らと涙が滲んでいた。


 その後、ユルスナールはアリアルダが休む部屋に赴いた。そこで改めて自分の気持ちを告げるとのことだった。

 その間、リョウはシビリークス夫妻とズィンメル夫妻と共に応接間に居たのだが、何故かユルスナールとアリアルダが話をしているその場に呼ばれることになった。アリアルダがリョウと二人きりで話をしたいとのことだった。

 序でにお茶の用意をして欲しい。ユルスナールのその言葉に頷いて、用意を整えた後、アリアルダが休んでいるという部屋に入った。


 半日振りに顔を合わせたアリアルダは、どこか憑きものが取れたような顔をしていた。昨日のような厳しいまでの剣呑さは見受けられなかった。小柄な体躯が一回り小さくなったような、そんな印象を受けた。例えるならば、(しぼ)んだ風船のようだった。

 その変わりようを見たリョウは、昨日の出来事をアリアルダなりに反省しているのだろうと思った。一夜明けて落ち着きを取り戻してみれば、自分のしたことが大変なことだということに思い至ったのかもしれない。

 お茶を用意して室内に入れば、ユルスナールが無言のまま一つだけ頷いて、そして部屋を後にした。どこか案じるようにこちらを見下ろした瑠璃色の瞳にリョウは心配要らないと微笑み返した。

 そして、淹れたお茶をアリアルダの居る寝台脇の小さなテーブルに置いた。


 こうして場面は冒頭に戻る。

 お茶を淹れたものの、アリアルダは寝台の中に身体を起こしたまま、口を開かなかった。

 沈黙が落ちた。だが、それは耐えられないものではなかった。リョウの方も黙って相手の出方を待った。

 それから暫くしてアリアルダは淹れられたお茶に手を伸ばし、一口飲んだ。

 そして、アリアルダの一人語りが始まった。

 訥々と漏れ出した気持ちの切れ端。手探りをするように散らばったその破片を拾い上げ、繋げて行った。

 その日、リョウは初めて素のアリアルダに向き合った気がした。


 それから何故か、他愛ない話をすることになった。

「ねぇ、どうやってルスランと知り合ったの?」

 その問いにリョウは少し驚いて、そして一瞬の狼狽を誤魔化すように微笑んだ。

「お知りになりたいんですか?」

 恋敵の相手との馴れ初めなど、知っても面白くはないだろうに。

「だって気になるんですもの」

 寝台の中で、アリアルダは小さく口を尖らせた。そうするとアリアルダはずっと幼く見えた。

「私がルスランに出会ったのは、今年の春の終わりのことでした」

 そう言って、リョウは当時を懐かしく思い出すように目を細めた。

「当時、一緒に暮らしていた人が旅立って、一通の書簡を預かったんです。これをとある人物に渡してくれと。その相手がルスランでした」

 切っ掛けはそんな些細なことだった。普通ならそこで終わり得た掠めるような出会いだった。

「私はこのようにズボンを穿いて男と同じ格好をしていましたから、北の砦滞在中は、男として過ごしていました。誰も疑問に思わなかったんですよ?」

 だが、その中でユルスナールだけは違ったのだ。ユルスナールだけは、唯一、リョウが女であることを暴いた。獣のような鋭い本能で。

「ねぇ、北の砦ってどんなところなの?」

 北の砦は、この国の北方の辺境。ごつごつとした岩壁の続く自然の要害だ。峻厳なる険しい山脈を遥か前方に望むこの国最北端の軍事拠点で、殺風景な場所だった。王都に安穏として暮らす貴族の娘には想像が付かないに違いない。

 リョウは、自分が知る北の砦の雰囲気を思い出すように窓の外へ視線を投げた。

「賑やかな所ですよ。駐屯しているのは、若い兵士たちが多いですからね。皆、個性的で元気な若者ばかりです」

「男ばかりなのでしょう?」

「ええ」

「そんな中にいたの?」

「ええ」

 むさ苦しい男ばかりの中に。そのような副音声がはっきりと聞こえてきそうな雰囲気にリョウは微かに笑った。

「ワタシはこの見てくれですから。兵士たちの中では一番下っ端の弟分みたいな感じだったようで。よく厩舎番のお手伝いをしていました」

 そこで何故か話は思わぬ方へと逸れた。自由気ままな貴族の娘との会話は、ロシニョールの二人の子供たちとの会話のように脈絡なくあちらこちらに飛んだ。

「あなた、馬に乗れるの?」

「あー、ちゃんとは乗れませんね。多分」

 これまで馬に乗ったのは、ほんの数えるほどで。初めてはユルスナールの鞍の前だった。その次は、鞍の無いキッシャーの背だ。あれは馬に乗るというよりも首にかじりついていただけだったので乗馬とは程遠いだろう。

「まぁ、なのに厩舎番?」

 抑揚の付いた問い掛けにリョウは不意に真面目な顔をした。

「おかしいですか?」

「変なの」

「アリアルダさんは乗馬を?」

「ええ。一人では無理だけど、昔、ルーシャに教わったわ。あの黒毛の背に乗ったの」

「キッシャーですか?」

「そう。あの逞しい大きな黒毛」

 寝台の中にいるアリアルダは、そこでじっと傍らに座すリョウの方へ顔を向けた。

「あなた………あの黒毛みたいね」

 不意に変わった矛先にリョウは目を瞬かせた。

「そうですか?」

 キッシャーに似ていると言いたいのだろうか。恐らく髪と瞳の色から。

「ルーシャは昔から、殊の外、あの黒毛を気に入っていたわ。騎士団に入る前から」

 そう言って再び窓の外を眺めた。

 ―だから、あなたもそうなのね。

 最後に付け足された言葉は余りにも小さくて、少し離れた所にいるリョウの耳には届かなかった。

 それから再びリョウの方を向いたアリアルダは、小首を傾げた。

「あなたって不思議ね。見た目は私と大して変わらない感じなのに、とっても年寄り染みた感じがするんですもの」

 アリアルダの率直で遠慮の無い言葉にリョウはなんとも言えない気分で笑った。そして、取って置きの秘密を暴露するように片目を瞑った。

「こう見えてワタシはそれなりに年を取っていますからね」

「え……あなた、幾つなの?」

 その打ち明けは思いも寄らないことであったのか、アリアルダの夕焼けのような瞳が大きく見開かれた。

 対するリョウは誤魔化すように笑った。

「アリアルダさんよりもずっとずっと上ですよ」

「まぁ………」

 アリアルダは心底、驚いたようだった。

「………そう」

 だが、次の瞬間には、何かを諦めるように柳眉を寄せて、そして、その厚みのある唇に微笑みの残骸のようなものを浮かべていた。

「あなたって変な人。あんなにあんなに、あなたのことが……」

 ―憎くて、疎ましくて仕方がなかったのに。

 続くかに思えた言葉は音になる前に掻き消えた。

 と言うのも。

 その時、部屋の扉を小さくノックする音がして、室内から了承の返事が聞かれる前に重厚な扉が開き、そこから銀色の光輝く頭髪が見えたからだ。そして、直ぐに室内にいる二人が良く知る男の顔が覗いた。

「終わったか?」

 顔を覗かせたユルスナールに寝台の中にいたアリアルダは、呆れた顔をした。

「まぁ、ルーシャ。まだ終わっていないわ。邪魔をしないでちょうだい」

 ぴしゃりと言い放たれた険もほろろの応対にユルスナールは、ほんの一瞬、虚を突かれた顔をしてから、

「ああ、すまん」

 即座に謝った。そして、どこか困惑したように眉を下げた。

 そこへ助け船を出したのは、リョウの方だった。

「ルスランもお茶をどうですか? アリアルダさんは?」

「じゃぁ、いただくわ」

「はい」

 扉を中途半端に開いたまま半身を覗かせて怪訝な顔をしたユルスナールにリョウは柔らかく笑った。

「ルスラン、お許しがでたようですよ。中へどうぞ」

 リョウは、アリアルダの寝台の傍にあった椅子をユルスナールに勧めると再びお茶の用意をした。そして、手際よく発熱石で温めたお湯を茶器に注ぐと然るべき時間蒸らしてからカップに注いだ。

 淹れたお茶をまずアリアルダに手渡した。

 そうやって、三人で喉を湿らせた。

「………いい匂い」

「ああ。中に少し薬草を入れているのですよ。香り付けの為に」

「どこで買ったの?」

「いえ、これは外で求めたものではなくて、こちらにある茶葉にワタシが家で栽培している薬草を加えたものなんです」

 その昔、スフミ村のリューバから教わったやり方だった。

「そう。美味しいわ」

「お口に合ったようで何よりです」

 リョウは小さく微笑むと顔を上げた。

「今度、薬草を少しお届けしましょうか? いつになるかはしかとお約束は出来ませんが、同じように乾燥させたものが家に帰ればあるので、もしよろしければ。伝令を飛ばせば、ここまでは直ぐですし」

「まぁ、本当?」

「ええ」

「分かったわ。じゃぁ約束ね、きっとよ?」

 アリアルダはそう言って人さし指を立てるとそれをリョウの方に向けて差し出した。

 リョウはその子供染みた仕草を内心、微笑ましく思いながらも椅子から立ち上がり、寝台の傍に歩み寄ると差し出された指の腹に同じように自分の指の先をちょんと触れさせた。

 その場で、アリアルダは顔をユルスナールの方へ向けた。

「ルーシャ、認めてあげるわ。あなたがこの人と結婚することを」

 それは上から目線で横柄なもの言いであるには違いなかったが、アリアルダなりの精一杯の虚勢でもあったのだ。

 ユルスナールは口にしていたお茶を思わず吹き零しそうになったが、直ぐに表情を取り戻すと、安堵したように口元を綻ばせた。

「そうか。ありがとう」

 アリアルダは、そこで目を伏せると力なく笑った。

「まだ直ぐに諦めることはできないけど………」

「アリアルダさん、無理に想いを捨てることはありません。やがて時が折り合いをつけてくれるでしょうから。ワタシがこのようなことを口にするのはなんですが」

 そう言って相手を励ます言葉を口にしたリョウにアリアルダは、驚いて、そして、どことなく呆れたような顔をした。

「あなたってつくづく変な人。お人好しにも程があるわ。恋敵を励ますなんて。馬鹿じゃないの?」

 だが、辛辣なもの言いの中には、昨日のような毒気は含まれてはいなかった。精々、厭味のような、それでもからりとしたものだった。それが、アリアルダなりの強がりであることが見てとれて、リョウは嬉しそうに笑った。

「ふふふ。そうですね」

 アリアルダが、少なくとも自分のことを認めてくれたことが嬉しかった。

 そうして昼下がりの午後は、昨日とは打って変わって、予想以上に穏やかに過ぎて行ったのだった。


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