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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
186/232

禍福は糾える縄の如く

禍福はあざなえる縄の如く。幸せと不幸せは撚り合わせられる縄のように交互にやってくる。有名な故事ですね。

「ルスラン、お話しがあります。ファーガス殿も、お兄様方も、ご同席頂けますか?」

 ―少し、お時間を頂けますでしょうか?

 ファーガスからの抱擁を解いた後、リョウは血で染まった襟元と首の包帯を隠すように手にした鞄と外套、そして上着を前に抱え直すと、口を開きかけたユルスナールを制した。

「ああ、その前に。お帰りなさい、ルスラン」

 そして、にっこりと微笑んでみる。心配は要らない。自分は大丈夫だからと言うように。

 ここでの出来事はその時にきちんと話す。そう言って一先ず、この場を収めようとした。

 ユルスナールは、リョウの傍にいる父とその直ぐ脇に立つ次兄を見た。そして、その少し後方に二人の姉妹を別室に移してから戻って来た長兄の顔とその隣に控える執事の顔を見た。

 誰も言葉を発する者はなかった。だが、この場に残るいつもとは違う肌を刺すような緊張感に、ユルスナールは己が考えを纏めるように無言のまま息を緩く吐き出した。


 アリアルダとリョウが鉢合わせをした。それに対するユルスナールの反応は、リョウにとっては未知数だった。ましてやアリアルダがまだ屋敷内に居るのだ。この一部始終を聞いたら、また無茶をした、莫迦な真似をしたと怒るだろうか。ユルスナールの怒りが自分に向けられるのならばまだいい。それがもしアリアルダに向かったら。それともアリアルダにそのようなことをさせてしまったことに心を痛め、自分自身を責めるのだろうか。

 だが、この一件で、リョウの決心は付いてしまった。これまで足掻くようにずるずると引き延ばしにしていた答えを、今、出さなければならないことを悟った。

 ここが潮時だった。

 口を開きかけたユルスナールは、いつになく真剣なリョウの雰囲気を前に言葉を発することを止めた。

 苦いものを飲み込んだような悲痛さえある表情をほんの一瞬だけ覗かせて、しかし、直ぐに平静を取り戻すと静かに頷いてみせた。

「では、場所は私の書斎にしよう」

 ファーガスがこの家の家長らしく場を取り仕切るように口を開いた。父親の提案に異存がないことを確かめるように三人の息子たちを順繰りに見て、そこで反対がないことを知ると傍に立っているリョウに囁いた。

「リョウ、お前はシャツを替えてから来るといい」

 着替えをしておいで。その言葉に小さく微笑んだ。

「お気遣いありがとうございます」

「大丈夫か? そのままで。少し時間を置くか?」

 さっきの今で、自分の怪我を案じる問い掛けにリョウは問題ないと返していた。

「はい。手当ては済んでいますから。それにこれはシビリークスの方々から見たら掠り傷程度のものでしょうから」

 剣を扱う軍人の家ではこのような傷など騒ぐほどのことではないに違いない。そう気丈に振る舞ったリョウにファーガスは少し眉を下げたが、咎めるようなことは何も言わなかった。

 そして、ファーガスは準備が整い次第、自分の書斎に来るようにと告げて、その場は一旦お開きとなった。

 何か言いたそうにこちらを見ていたユルスナールにリョウは、

「それでは後ほど、ファーガス殿の書斎で」

 と突き放すように微笑んでいた。

 それを見たユルスナールの瑠璃色の瞳が傷ついたように揺らいだのをリョウは気が付かない振りをした。胸の奥がきゅうと引き絞られるような気分を微笑みの下に隠した。


 それからリョウは自室に戻ると洗面所で短剣に付いた血糊を洗い流した。このようなことにガルーシャからもらったレントの短剣を使ってしまったことに罪悪感を覚えたが、それを小さく息を吐き出すことでやり過ごした。そして、首筋と手に付いた血液を拭った。

 あらましを聞いたポリーナは、リョウの元にも飛んで来て、痛ましい顔をして包帯の巻かれた箇所を見たが、何も言わずに傷の状況を再度改めてくれた。敏いポリーナのことだ、アリアルダとユルスナールの件は承知していたのだろう。

 思った以上に深かった傷口にポリーナの細い女らしい眉がしんなりと寄ったが、直ぐに術師らしく平常心を取り戻すとてきぱきと処置をしていった。

 止血の呪いは上手く作用していたようで出血は止まっていた。そこに化膿止めと傷を塞がりやすくする軟膏を塗り込んで、油紙を貼り、その上から再び包帯を巻き直した。

 そして手当てを済ませた後、シャツを取り替えた。着ていたものは脱いでみたら思った以上に血の染みが大きくて、リョウは少し驚いた。

 脱いだものを取り敢えず洗面所内の水を張った盥の中に入れて、新しいシャツを着込んだ。洗うのは全ての用事を済ませてからになるだろう。

 それからシャツにズボンという出で立ちでファーガスの書斎に向かった。その前にズボンのポケットの中に帰宅途中で引き取りに行った黒い【リール石】のペンダントを忍ばせることを忘れなかった。


***


 リョウが書斎の扉を小さくノックしてから中に入ると、三人の息子たちは既に顔を揃えていた。書斎にある重厚感のある広い机を前にファーガスが腰を下ろし、その手前にある小振りの応接用の長椅子に長兄と次兄が座っていた。ユルスナールはその長椅子の前にある小さなテーブルを挟んだ反対側の壁一面に据えられた本棚の前に立ち、厚みのある本の背表紙を落ち着かない様子で指先で叩いていた。

「お待たせして申し訳ございません」

 一番最後になったことをリョウは詫びた。それにファーガスが鷹揚に返した。

「なに、構わん。それ程待ったという訳でもない」

 長兄のロシニョールと次兄のケリーガルが座る長椅子の前には、もう一つ、同じような長椅子が置かれていたが、ユルスナールは本棚を背に立ったまま、その場で腕を組んだ。

 ファーガスは、リョウにその空いている長椅子に座るようにと目線で促したが、リョウはその場で揺るく首を左右に振って、今は、まだこの場所でよいと返した。

「すまなかったな、リョウ。お前をこちらの事情に巻きこんでしまった」

「いえ、とんでもありません。アリアルダさんは大丈夫ですか?」

 その問いにロシニョールが頷いた。

「ああ、今、ジーナが傍にいる。疲れが溜まっていたのだろう。あれから直ぐに眠りに就いた」

 それを聞いてリョウは少し、安堵した。

「全て私の責任だ。済まなかった」

 深く謝罪の言葉を口にしたファーガスにリョウは静かに首を横に振った。

「いいえ。ワタシも徒に煽るようなことをしてしまいましたから」

 アリアルダを物理的に傷つけることは阻止できたが、落ち着いてみれば、もう少し上手いやり方があったかもしれないと思ったからだ。

「リョウ」

 どこか焦れたようにユルスナールが口を開いた。こちらを見つめる瞳は、抑え切れない苛立ちと哀しみと苦悩をその濃紺の揺らぎの中にちらつかせていた。

「お願いだからもっと自分を大切にしてくれ。一歩間違えば、お前が死ぬ所だったんだぞ。どうしてお前は怒らない? アリアルダがあのようなことをしたのは俺の所為だろう? 何故、お前は自分を傷つけて尚、平然としていられるんだ? どうして俺に怒りをぶつけない!?」

 ユルスナールの声は抑制されたものだが、湧き上がる様々な感情に駆られるように早口になっていた。

 その言葉で、リョウは自分が来る前にユルスナールが大体のあらましを聞いたことを理解した。

 リョウは少しだけ悲しそうな顔をして、だが、小さく微笑んだだけだった。

 ユルスナールに対して怒りはなかった。アリアルダに対してもあのような場で当てつけに自害をしようとしたことに怒りを覚えたが、今は、怒りよりも哀しみの方が大きかった。

 何よりも心が痛かった。アリアルダがあのような暴挙に走った原因の一端は間違いなく自分にあると思っていたから。ともすれば罪悪感のようなものさえ覚え始めていた。それは身を切るような切なさだった。

「リョウ、何故黙る?」

「ルスラン」

 尚も焦れたように言葉を発しようとした三男を父親の低い一喝が押し止めた。窘めるような声音にユルスナールは口を噤んだ。

「話があると言ったな?」

 そう言って空いた長椅子の後方に立つリョウを見たファーガスに、リョウは小さく頷くとこの場の主導権をこの部屋の主から引き継いだ。

 リョウはズボンのポケットから黒い石の付いた首飾り(ペンダント)を取り出すと、それを手に本棚の前に立つユルスナールの傍に歩み寄った。

「ルスラン」

 男に上体を少し屈めるようにと頼んでから留め金を外すと黒い【リール石】がひっそりと鈍く輝く細い鎖を上着を脱いでシャツ一枚になった男の逞しい首に回した。

「これはなんだ?」

 ユルスナールは己が首にぶら下がったペンダントを手にリョウを見た。

 リョウは柔らかく微笑んだ。

「ルスランに贈り物(プレゼント)です。日頃の感謝の気持ちを込めて。ルスランにはいつもお世話になりっぱなしですから」

 そう言うと、その小さな石にはお守りになるようにとささやかながら呪いを掛けているのだと自分の首にぶら下がる【キコウ石】の付いたペンダントを引っ張り出しながら明かした。

「これと同じです」

 ユルスナールは小さな金属の輪が三つ連なった先にある黒い石を(てのひら)の上に乗せた。

「【リール石】か?」

「はい。鉱石処理の講義の過程で形の良いものができたので」

 ユルスナールの大きな(たなごころ)の中では、その黒い【リール石】は非常にちっぽけなものに見えた。

 石を留めている金属の三つの輪は、過去、現在、未来という三つの時を表わしていた。それは、その後のユルスナールの人生が恙無いものになるようにとの願いを込めたものだった。たとえ自分が傍にいられなくとも。

「リュークスの加護がありますように」

 最後にお馴染みになっている台詞を口にした。

「ありがとう、リョウ。大切にする」

 そう言って微笑み返したユルスナールにリョウも柔らかく笑った。ユルスナールは、このリョウの微笑みの裏にある秘めた決意については、当然のことながら思い至ることが出来なかった。


 リョウはその場から一歩下がるとゆっくりと顔を上げた。そして、どことなく嬉しそうな顔をしているユルスナールを真正面から見つめた。父親と二人の兄たちはその様子をじっと見守っていた。

 リョウは背筋を伸ばした。そして、その場に集う男たちを順繰りに見渡した。父、長男、次男、三男。同じ血で結ばれた優しさ溢れる高潔な男たち。この男たちの姿を最後に目に焼き付けるかのように。

「ルスラン……いえ………ユルスナール・ファーガソヴィッチ・シビリークス殿」

 リョウはユルスナールの本名を口にした。初めて出会った時のように。

 あの時は、単なるガルーシャに繋がる記号に過ぎなかった男の名前も、今ではすっかり別の意味を持つものになっていた。大きすぎるほどの意味を持っていた。その変遷を感慨深く思い返した。

「愛しています。あなたを。心から」

 真摯で偽りのない言葉を口にした。これ以上、自分の心に嘘をつきたくなかった。

 ユルスナールの目が大きく見開かれた。だが、そこに喜色が浮かぶ前に、リョウは残酷で非情なまでの決意を告げていた。

「ですが、ワタシはあなたの手を取ることは出来ません。これが、あなたの申し込みに対するワタシの正式な答えです」

「な…ん…だと……」

 思いも寄らない結果に虚を突かれた顔をしたユルスナールを前にリョウは更に言葉を継いだ。

「ワタシがあなたの手を取ることは、きっとあなたを余計なことに巻き込んでしまう。そして、あなたを苦しめることになるでしょう。今日のように」

 そこで少し哀しそうに目を伏せた。

「ワタシがあなたの気持ちに応えることは、多かれ少なかれ、どこかで犠牲を伴うことになるでしょう。ワタシの所為で、今後、あなたが不利益を被ってしまうことが心配なんです。ワタシは貴族のしきたりを知りません。まだこの国の常識さえ覚束ない部分が多々あります」

「そんなことちっとも構わない。瑣末なことだ。知識などこれから幾らでも吸収できる。これから学んでいけばいいだろう?」

 ―これまでお前がそうしてきたように。

 だが、リョウはその問いには返さなかった。

「それが第一の理由です。そして、もう一つ最大の理由は………」

 そう言うとリョウはシャツの釦を上から外し、己が左半身を胸のふくらみが始まるぎりぎりの所まで大きく開いて見せた。そこにあるセレブロの加護の印をこの場に集う男たちに見せる為に。

 白い肌の上に銀色とも蒼色ともつかないような不思議な紋様が浮かんでいた。

「ファーガス殿、これが何だかお分かりになりますか?」

 ファーガスであれば、この印封に使われる古代エルドシア語の更に古い形の文字を読めるのではないかと思った。

 だが、その答えは、同じくリョウの左胸の上に刻まれた銀色とも蒼色ともとれる不可思議な色合いに注目していた次兄が先んじることになった。

「セェ…リェ…ブロ。……セレブロ。(しろかね)……か。とても古い形だね」

 次兄の言葉にファーガスがゆっくりと目を見開いた。

「まさか………ヴォルグの………」

 やはりファーガスはセレブロの存在を知っていたようだ。そして、この刻印が意味するところを。

「はい。ここに刻まれているのはヴォルグの長、セレブロの名です」

「キミは、長の【魂響(タマユラ)】なのか?」

 ファーガスの低い美声は驚きに掠れていた。

「はい。セレブロは、ワタシに加護を与えてくれました。この世の理から外れたワタシの魂をここに繋ぎ留める為に」

 案の定、訳が分からないという顔をしている男たちを前に、リョウは息を一つ吸い込んだ。

「東の翁を御存じですか?」

「神殿にいるという賢人のことか?」

「はい」

「確か、先読みを得意とするという」

「はい」

 リョウは東の翁が、人の魂の在り方を視ることの出来る特殊な能力の持ち主であることを語った。そして、過日、自分もその鑑定を受けたことを語った。その結果も含めて。

「そ…んな」

 その非情なまでの宣告にユルスナールが目を見開いた。

「リョウ、どういうことなんだ?」

 長兄のロシニョールがこちらを見ていた。

 ユルスナール以外のリョウの秘密を知らない男たちは要領を得ない顔をしていた。それも仕方がないことだ。そこでリョウは簡単に己が身の上を掻い摘んで語った。

「ワタシは、元々、この世の理からは外れた存在です。ワタシの魂は、『大いなる揺らぎの中にある』と東の翁はそう評しました。翁には、ワタシの過去も未来も視えなかった。ワタシの魂は未だ漆黒に包まれた闇の中にあるそうです」

 それは、この魂が不完全な状態で、この世に留まることなく、やがて消えてしまうだろうことを意味した。

「セレブロは、ワタシに加護をくれることで、この魂を半分、こちらに繋いでくれました。ですが、それはやはり不完全なのです。ワタシはいずれこの世界から消えるでしょう。それが明日なのか、明後日なのか、一年後なのか、十年後なのかは分かりません。ですが、残された時間は少ないと思っています」

 こちら側に転げ落ちてから一年で、セレブロはリョウの魂の異変に気が付き、加護を与えた。そこから予想をすれば、残された時間は多く見積もっても数年という単位なのではないかと思えたのだ。

 だが、本当の所は誰にも分からない。リョウ自身にも知る術はなかった。

「セレブロ殿はなんと? 東の翁は? なんとかする方法はないのか?」

 ユルスナールの焦れた声にリョウは緩く頭を振った。

「セレブロにも東の翁にもどうすることも出来ないそうです」

 東の翁は、あれ以来、神殿の書庫で古文書を調べてくれているそうだが、目ぼしい収穫は上がっていないとのことだった。

「そ……んな……」

 明らかに色を失くしたユルスナールにリョウはそっと歩み寄った。そして利き腕を上方に伸ばすと精悍な頬にそっと己が手を滑らせた。

「そして、もう一つ。二年前からワタシの時は止まったままなのです。その関係で、ワタシの身体は女としての機能を失っています」

 言われた言葉が良く理解できないのか小さく眉を顰めた鋭いきらいの眼差しにそっと微笑んだ。

「今のワタシは子を成すことの出来ない身体ということです」

 誰かが息を飲む音がした。

 これまで幾度となくこの男と肌を合わせた。そして、その精を身体の中に受け入れていた。一時期は避妊の心配さえしたというのに、それは全く意味がなかったのだ。

「だから、ルスラン、もう終わりにしましょう? ワタシはあなたに子供を残すことができません。ワタシはきっとあなたを置いて先に逝ってしまうでしょう。だから………だから……」

 徒に別れを引き伸ばして辛い思いをするくらいならば、いっそのことこの時点で終わりにした方がいい。今ならまだ引き返すことが出来る。アリアルダでもいい、れっきとした然るべき家の娘を娶り、シビリークスの血筋を繋いで行くことが出来る。何よりもユルスナールは家族を持つことが出来る。そして新しい家庭を築くのだ。それは今のリョウには叶えられない眩しい程の未来だった。

 リョウの頬にはいつしか涙が伝い、静かに流れて行った。

「だから………」

 それ以上は、言葉にならなかった。


「勝手な事を言うな!!!」

 沈黙を貫く雷鳴の轟きのような怒声が広い書斎に響き渡り、壁にある本棚に並ぶ書籍類を震わせた。

 それは初めてリョウに向けられたユルスナールの厳しい叱責の言葉だった。突き抜けたような怒りだった。

「そうやってお前はいつもいつも一人で何もかもを抱えて。他人の心配ばかりして。お前はどうなる? 俺を愛しているんだろう? ならば何故、その荷を俺に分けようとしない? 俺はそれ程までにお前にとって取るに足らない存在か? 俺はそれ程までに頼りない存在か?」

 (ほとばし)る怒りを余すことなく伝えた声が、鼓膜を(つんざ)くように反響した。

 (たぎ)るような熱を秘めた瞳が燃えるように熱く煌めいていた。薄い肩を掴んだ剣ダコのある手が、男の熱を余すことなく伝えていた。触れた所から奔流のように男の感情が流れ込んでくるようだった。

「………ルスラン」

 次の瞬間、息が詰まりそうな程にきつく抱き締められていた。

「子供などいらない。俺はお前がいればそれでいい。お前の残りの時間を全て俺に寄越せ。消えるかもしれない? そんなことを聞かされて俺がみすみすお前を離すと思うのか? 愛してると聞かされてお前を手放せると思うのか?」

 慟哭に染まった獣の咆哮のような声だった。

「それにまだ分からないことばかりなのだろう? お前がいなくなることが確定したわけではないのだろう? ならば他に方法が見つかるかもしれないじゃないか。だから簡単に諦めるな。俺を捨てるな」

 そして、ユルスナールは苦しい程の抱擁を解くと、これまでにない真剣な顔をしてリョウの肩を掴み、その涙に濡れた黒い瞳を真正面から睨むように見つめた。

「いいか。もう一度言う。俺の人生にお前が必要なんだ。残された時間に限りがあるのなら、その時は俺の前で逝けばいい。だが、それまでは、俺の傍にいろ。そうすると約束しろ!」

「ッ………ルスラン」

 リョウの双眸からは、止めどなく涙が溢れだしていた。

 いいのだろうか。本当に。その言葉の通りにユルスナールの手を取っても。

「いいんですか? 本当に?」

 嗚咽混じりの声は掠れ、そして震えていた。

「ああ」

 自信たっぷりに微笑んだ男を前にリョウは咄嗟に両手で口元を覆った。歓喜と苦しさと切なさと躊躇いと様々な思いが噴き出すように湧き上がって来て、堪えなければ叫び声をあげてしまいそうだった。みっともなく泣き叫んでしまいそうだった。


「リョウ」

 深い艶を帯びた男の声がその名を呼んだ。声がした方にゆっくりと視線を向ければ、父親のファーガスが何かを堪えるような、それでも優しい眼差しをしてリョウを見ていた。

「私からも頼む。たとえ僅かでもいい。どうか最期のその時まで、残された時をルスランと共に過ごしてもらえないだろうか」

 父親の言葉を肯定するように長椅子に座った兄たちからも声が掛かった。

「僕からもお願いするよ。君に振られたんじゃ、ルスランの方が狂ってしまいそうだからね」

 そんな軽口を叩いたケリーガルの淡い空色の目には薄らと涙が滲んでいた。

「ああ。使い物にならなくなるだろうからな。こんな図体のでかいのが腑抜けになってみろ。とてもじゃないが扱いきれん。だが、お前が傍にいてくれれば心強い」

 辛辣な言葉を吐きながらも長兄は、少し困ったような、それでいて優しい表情をしていた。

「……いいんですか? ワタシで?」

「ああ」

 再びの問い掛けに父と兄たちがしっかりと頷いた。

「お前じゃないと駄目なんだ」

 覆い被さるようなユルスナールの声に、リョウは微笑もうとして失敗した。くしゃりと歪んだ顔を隠すように伏せる。だが、漸く男の申し出に応えるように何度も何度も頷いていた。その体をユルスナールが再び、きつく抱き締めた。


 そして一頻り、涙が止まるのを待って。少し落ち着きを取り戻したリョウは、そっと男の胸元から顔を上げた。

 ユルスナールの抱擁を解くと徐に姿勢を正してファーガス、ロシニョール、ケリーガル、そしてユルスナールと、シビリークス家の男たちにを前に礼を取った。

「不束者ですが、よろしくお願いいたします。ワタシを受け入れてくださいましたこと、深く感謝いたします」

 そうしてこの国の慣習に則り静かに一礼した。

 涙の余韻で瞼は腫れぼったかったが、再び上げられた顔は、過酷な運命を隠すほどの喜びと嬉しさを滲ませた穏やかな表情をしていた。


 こうして、リョウは、この日、残された余生をユルスナールの傍で生きることを選択したのだった。それは沢山の不確定要素と不安を抱えながらの出発でもあった。

 それでも、この日の選択を後悔する積りはなかった。

 そして、何よりも心が温かかった。


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