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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
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運命の悪戯

 正式に術師への登録を済ませた後、また三日後に訪れることを約束してリョウは登録・管理の部署からから外に出た。リョウはそこから進路を右に取って養成所に向かう積りだった。アルセナールは左側にあるので、ユルスナールとはそこで別れることになった。

「リョウ、用事を終えたらアルセナールに来い」

 ユルスナールの申し出をリョウは緩く首を振ることで断った。

「お約束は出来ませんよ。養成所の友人たちの方に顔を出しますし、その後、先生たちの方にもお邪魔をしますので時間がどうなるか分からないので」

 術師の試験に合格したことを伝えれば、ヤステルやバリース、リヒターたちは仰天するかも知れないが、きっとお祝いをしようとかご飯を食べに行こうというような話になるような気がした。なので、その後の予定は全く想像が付かなかった。それに、もし時間に余裕があれば、リョウは以前、ペンダントの加工を頼んでいた装飾品(アクセサリー)を扱う店に顔を出そうと思っていた。黒い【リール石】を加工したものに穴を開けて金具と鎖を通す作業を頼んでいたのだ。あの後、すぐに取りに行く積りであったのだが、イースクラの一件以降、なにかとごたごたが続いたのでずっと延び延びになっていた。

 それはユルスナールへの贈り物にする積りだった。出来ることならば、そのことは秘密にしておきたい。

 ユルスナールはその返答に苦い顔をしたが、何かあれば伝令を飛ばすし、戻る時はちゃんと連絡を入れると約束をして、少し強引ではあったが、最後には頷いてもらった。もしかしたら、自分の方が早く帰るかも知れない。その時は、帰宅の旨を庭先にいる小鳥にでも頼んで知らせると約束した。それからまだ納得いかなそうに引き結ばれた男の唇に掠めるだけの口づけを送ると颯爽と踵を返して駆け出したのだった。


***


 そうして所用を全て終えて、リョウは一足先にシビリークス家に帰った。最初に予想していたよりも時間が掛からなかった。友人たちは案の定、騒いだがー特にバリースが煩かったー後日改めてお祝いをするから外で食事をしようという話になり、それから彼らはまだ講義が残っているということですぐに時間切れになったからだ。

 その後、講師たちへお礼参りも済ませ、念願のペンダントも引き取りに行くことが出来た。これからシビリークスの家に帰るとの旨を街中にいる途中で暇を持て余していた【ヴァローナ(カラス)】に頼んでアルセナールに行ってもらった。勿論、ちょっとしたお礼に鞄の中に入れていた鳥たちが大好物とするスグリの実を渡すことは忘れなかった。

 そして、軽やかな気分でシビリークス家の玄関に辿りついたのだが、そこでいつもとは違う異変に気が付いた。

 玄関ホールの所でまだ年若いと思しき娘の甲高い声が響いていた。真っ直ぐに伸びた癖の無い淡い金色の髪が、激しく左右に揺れている。その若い娘のすぐ前には、この家の内向き全般を取り仕切る執事のフリッツ・リピンスキーが、職務に忠実な真面目くさった慇懃な顔付きで詰め寄る娘を宥めるように対峙していた。

 リョウはそれを不可解な面持ちで見遣った。随分と取り込んでいる感じだ。執事と揉めていた娘はこちら側に背中を向けていた為、その顔は良く分からなかった。背筋がすらりと伸びた淡い灰色の外套の下からは淡い黄色のドレスの裾が覗いていた。

 玄関を開けて「ただいま戻りました」と上げた声は、少し先で立ちふさがるリピンスキーと娘を前に音にならずに掻き消えた。

「お姉さまはいらっしゃるんでしょう? ならばそちらに行ってるわ」

「ですが、今、ジィナイーダ様にはお客様がいらしております」

「大丈夫よ、大人しく待っているから」

「ですが、ユルスナール様のお戻りがいつになるのか分かりませんので」

「構わないわ。私はルーシャが帰って来るまで待っているわ」

「ですが、それではお嬢様を満足にお持て成しすることができません。ユルスナール様がお戻り次第、こちらよりご連絡を差し上げます」

「なぁに? 出直せって言うの?」

 不機嫌さを隠さずに急に跳ね上がった声の後に、老練な執事の慇懃な落ち着いた声が続いた。

「はい。日を改めてお約束をして頂いた方がよろしいかと」

「まぁ、フリッツ。あなたまで。そんな他人行儀なことを言うのね!」

 静かに淡々と言葉を紡いで行くリピンスキーに対し、詰め寄る女性は益々機嫌を損ねていった。

 興奮に高まった甲高い声が金切り声のようになるまであと一呼吸という所で、執事のリピンスキーが帰宅したリョウに気が付いた。

 挨拶の声を掛けようとしたリョウにリピンスキーは目配せをし、先に部屋に戻るようにと促した。相対する娘の剣幕に何やらただならぬものを感じ取ったリョウは、そのまま大人しく玄関ホールを横切ろうとしたのだが、急に動きを止めたリピンスキーの素振りに対峙していた若い娘が振り向いた。


 赤い燃えるような瞳だと思った。

 リョウの姿を認識した途端、その燃え盛る炎のような瞳を揺らめかせた娘、ユルスナールの許嫁であったアリアルダは、息を飲んだ。

 そして今度は、物凄い勢いでリョウに迫って来た。

「あなた! どうしてあなたがここにいるの!?」

 勢いのまま、肩のすぐ下、二の腕の上腕部をきつく掴まれて、リョウは痛みに顔を顰めた。

 そこにリピンスキーがすかさず間に入った。

「アリアルダ様、リョウ様は当家のお客さまです。縁あってこちらに滞在しておられます」

 初老の執事の丁寧な言葉にアリアルダは眦を吊り上げた。怒りの為か、白い頬が真っ赤に染まっていた。

「ここに滞在しているですって!?」

 執事の言葉は、どうやら火に油を注いだようだった。

「どうして? どうしてあなたなの! ねぇ、どうして私からルーシャを奪うの?」

 力任せに肩を揺さぶられ、少し上にあるアリアルダの華やかな顔がくしゃりと歪んだ。

「ねぇ、どうして?」

 最後に見た時ー頬を打たれた時だーよりもアリアルダの頬はこけていた。その燃えるような瞳からは止めどなく涙が流れ、激情に上気した頬を伝っていった。甲高い嗚咽が、静まり返った広い玄関ホールに切れ切れに響き始めていた。

 アリアルダの取り乱した様子を目の当たりにして、リョウは相手にユルスナールが自分に申し込みをしたことを知られてしまったのだということに気が付いた。

 そして、昨晩、寝台の中で耳にしたユルスナールの言葉が蘇ってきた。

 ―アリアルダとの許嫁の件は破棄した。正式に通達が届いているはずだ。

 きっとその事を知らされたのだろうと思った。

「……アリアルダ……さん」

 リョウには掛けるべき言葉が見つからなかった。アリアルダにしてみれば、リョウが憎くて仕方がないだろう。大事な男を目と鼻の先で攫ったような感じになってしまったのだから。

 自分の腕を掴んだまま咽び泣いていたかと思ったアリアルダは、リョウがその鼻先で沈痛な面持ちをしているうちに、その右の太ももに巻かれていたベルトにある短剣を手に取ると引き抜いた。

 そして、リョウがあっと思う間もなく、それを逆さに両手で握り込むと己が細い首元に宛がおうとした。

「アリアルダさん! 何を……」

 短剣を手にしたアリアルダは、リョウから勢いよく身体を離すと握り込んだ刃先を自分の首元に向けて、声を震わせた。

 橙色の瞳には、ぞっとするほどの冷たい絶望が浮かんでいた。憎しみがギラギラと唯一の動力の源のように光る。まるで幽鬼に取り憑かれたかのような表情だった。

「ルーシャの元に嫁ぐことが叶わないのなら、死んだ方がマシよ!」

 その願いが、望みが叶わぬのならば、このままこの場で自害する。

 そう言って興奮に荒い息を吐きながら、己が首元に短剣を押し付けようとした。

 それは余りにも自分勝手な言い草にリョウには思えた。自殺することでユルスナールに当てつけようというのか。それが残された者にどのような深い悲しみと苦しみを与えるのかも知らずに。残された者はその苦しみを一生抱えて生きて行かなければならないというのに。

 リョウの脳裏には神殿裏の墓所で見たブコバルの横顔が浮かんでは消えた。ブコバルと同じ隠された懊悩をユルスナールに与えるのは許せなかった。

 だが、それは一方で、それだけアリアルダも深く傷つき、自棄になっていることの表れでもあった。

 リョウは深く息を吸い込むと莫迦な真似をしようとしているアリアルダを一喝した。

「馬鹿な真似はおよしなさい」

 腹の底から出た厳しい静かなる怒声に周囲の空気がびりびりと震えた気がした。

 アリアルダの手は震えていた。前屈みになって泣きじゃくりながら、燃えるような瞳でリョウを強く見つめ返していた。

「あなたに何が分かるの? ルーシャに選ばれたあなたに。あなたの所為で、私の人生は滅茶苦茶になった。ルーシャのいない人生なんて生きている価値がないわ!」

 ああ。とうとう恐れていたことが起きてしまった。リョウの心は軋みを立てて揺らいだ。

 アリアルダは、ユルスナールの元に嫁ぐことが出来ないのならば、命など要らないと人を傷つけたことの無い真っ白な柔らかい手で、手にしたこともない武骨な短剣を持ち、自らの命を終わりにしようとしている。

 自分がユルスナールの手を取るということは、きっとこの娘の人生を狂わせてしまうことになるのだろう。

 リョウは込上げる息苦しさを堪えるように緩く長く息を吐き出した。


 リョウは、肩から身体に斜めに掛けていた鞄を外すと床の上にそっと滑らせた。そしてその場で外套を脱ぎ、上着を脱いだ。

 相手の突然の行動にアリアルダが動きを止めた。怪訝な顔をしてこちらを見ていた。その隙にリョウは身に着けていたシャツの釦を上から二つ三つ外すと寛がせた外套の襟元の下、胸元の大きく開いた服を着ているアリアルダと同じように日に焼けていない己が喉元を晒した。それから徐に腰に佩いていた短剣を引き抜いた。

「なんの……真似…を?」

 驚きに見開かれた橙色の瞳を前に、リョウは艶やかに切れ味の良い光を放つ抜き身をアリアルダと同じように己が右の首元、頸動脈の上に宛がった。

「アリアルダさん」

 思ったよりも静かで落ち着いた声が出ていた。

「な……によ?」

 アリアルダの意識が自分に向いたことにリョウは少し安堵した。

「自らの命を断つなど、悲しいことは言わないでください。残された御父上や御母上、あなたを愛しているご家族はどうなるんです?」

 そう言うと静かに手にした短剣を自刃の角度に握り直した。そして、そのまま真っ直ぐにアリアルダの瞳を見据えた。己が覚悟を知ら示すように。

「あなたがここで自害するというのならば、ワタシも共に死にましょう。この場で」

 それはアリアルダにとっては思いも寄らない言葉だった。

「なん…ですって……? どうしてあなたがそんなこと……」

「あなたは自分の命だけでなく、ワタシの命も道連れにする。あなたの手の中にもう一つ別の命があることで、あなたにこの莫迦げた行為を思い留まって欲しいからです」

 ―自分の所為で他人が死んだというのは余り気持ちのいいものではないでしょう?

 アリアルダが、信じられないというように目を見開いた。

 ―【ザシィータ イ ペェレェホート】

 リョウはその隙に小さく呪いの言葉を唱えていた。アリアルダの手にした短剣とリョウが持つ短剣が微かな囁きに反応して同時に薄い光の膜を纏った。

 すぐ傍で揺らいだ淡い黄色い光にアリアルダが狼狽えた。

「な…にを…したの?」

「この二本の短剣は対になっています。これはその昔、ワタシの知り合いの鍛冶職人が己が命を削って鍛えたものです。この一振りにも、あなたが手にしている一振りにもその職人の魂が籠っている。ですから、どうか自害などという愚かなことにこの短剣を使わないでください。あなたがやろうとしていることは、この短剣の造り手を侮辱する行為だ」

 この二振りの短剣はレントが己の命を削って造り上げたものだった。それを人を傷つけ、(あや)めることに使うことをリョウは絶対に許せなかった。

「そんなの、あなたには関係ないわ。鍛冶屋がなんだっていうのよ! 私が何を使おうとあなたの知ったことではないわ!」

 だが、鍛冶職人の話は、上流階級の貴族の娘には、やはり馴染みのないものだった。当然のことながら理解をしてもらえなかったことにリョウは哀しく微笑んだ。


 リョウは出来るだけ時間稼ぎをしようとしていた。アリアルダのような細い腕で自害など出来る訳がなかった。自分で死に至るまで頸動脈を傷つけるというのは大変に力が要ることだからだ。一息に行かなければならない。余程の覚悟を持つか、訓練された者でない限り無理な話だろう。幾らレントの刃物がその切れ味が抜群であろうとも。自害など上手く行くはずがない。

 こうやって話をすることで相手が少しでも落ち着いてくれればと思った。その間に有能な執事であるリピンスキーが然るべき手立てを打ってくれるのではないかと期待した。それが吉と出るか凶と出るかは分からなかったが。

 だが、リョウの言葉はその意図に反して相手の神経を逆撫でしてしまったようで、次の瞬間、アリアルダが自分の喉元にその剣を突き立てていた。リョウの喉元に鋭い痛みが走った。と同時に先程掛けた術が、成功したことを身を持って知った。

 リョウの首筋を赤い鮮血が伝い始めた。曝け出していた首筋を通り、白いシャツに赤い染みを作って行く。アリアルダがそれを見て、息を飲んだのが見て取れた。自分が死ねば相手も同じように自害するという言葉を口先だけだと信じていなかったようだ。

「ど…うし…て? 何を…してるのよ!」

 恐怖混じりの苛立たしげな掠れた声が切れ切れに響く。

 アリアルダが自分の喉元を突いたはずのその場所には、なんの傷も見当たらなかった。ただ傷をつけようと自分の首に刃先を滑らせたはずであったのに、そこにあるはずの痛みがなく、何故か、目の前で同じように短剣を構えているリョウの方が傷ついている。

 深くめり込んだ切っ先にリョウは熱い痛みに顔を顰めながらも言葉を継いだ。

「術を…掛けました。あなたが自らを害しようとした傷が、ワタシに…移るように」

 それはこの二本の剣が対になっているから出来たことだった。短剣同士に強い結び付きがあり、波動が同調しているから。

 これは、その昔、万が一の時の為にとガルーシャから教わった呪いの一つだった。本来の目的は、術師の身に刃物を寄せることでそこに生まれるはずの傷を対峙する相手に移すというものだった。ガルーシャはそれを護身の為にリョウに教えたのだ。リョウはそれを逆に自分に移るようにしたのだ。

 信じられないという顔をしたアリアルダに、リョウはその理由を口にした。

「ワタシは術師です。それなりに傷や血を見てきています。これまで必死になって怪我を治療する為の(すべ)を学んできました。そんな術師であるワタシがあなたを傷つける訳にはいかないでしょう?」

 人の病を取り除く助けをする為に、人の命を助ける手助けをする為に術師の技を学んできたのだ。それを人殺しになど使ってなるものか。それはリョウの中で生まれた術師としての覚悟(プライド)だった。

 そこでリョウは小さく微笑んだ。

「アリアルダさん、あなたは人の血など見慣れていないでしょう? これらの短剣は切れ味抜群です。こうして切れれば、当たり前のことですが血が出ます。そして、これは【痛い】ものなんですよ。自害するには力が必要です。あなたのような細腕ではまず無理だ。一思いに頸動脈を切ることは出来ないでしょう」

 徒に苦しむだけだ。だから思い留まってくれ。このような所で折角の命を捨てることはしないで欲しい。残されることになる家族の為にも、本来なら輝かしいはずのあなたの未来の為にも。

 そう訥々と説く間にもリョウの首元には血が伝い、白いシャツを赤く染めていった。リョウの額には脂汗が滲み始めていた。思いの外、アリアルダは強く喉を突いたらしかった。そこは少し計算違いであったかもしれない。急所からは外してあるが、大分深く入ったようだった。

 だが、ここで引く訳にはいかなかった。

「お願いです。短剣を離してください。もう止めましょう。こんな莫迦げたこと。人は血を流し過ぎると死ぬんですよ。ワタシもこのままでは助からないかもしれません。あなたはワタシを死なせたことを後悔するかもしれません。人の死を背負って、その後の人生を生きる覚悟がおありですか? それとも、今ここであなたを悩ませている元凶を消し去る方をお取りになりますか?」

 随分と意地の悪いことを訊いているという自覚はあった。だが、それだけリョウも必死だった。

 もう一息だと思った。短剣を持つアリアルダの手が震えていた。その震えが首元に当てられた自分の傷を深くさせた。

 そこでリョウはとっておきの事情を明かした。

「過日、ワタシはルスランより結婚を申し込まれました。ですが、まだ正式な返事はしていません。それが何故だか、お分かりになりますか?」

 アリアルダは半ば恐慌状態に陥りながらも首を小刻みに左右に振った。分からない。いや、分かりたくもないというように。

 そこでリョウは敢えて笑った。覚悟を決めて、最後の言葉を告げようと。

「何故なら、ワタシは…………」

 ―お断りする積りだからですよ。

 苦渋に満ちた決断は、だが、音として現れる前に、玄関ホールに響いた慌ただしい人の足音に掻き消えてしまった。


「まぁ、アーダ!」

 リョウの視界の中に顔を蒼白にした姉のジィナイーダとその夫ロシニョールが映った。そして、その後ろから騒ぎを聞きつけた家長のファーガスがやって来るのが見えた。その脇に執事のリピンスキーが控えていた。

 助かったと思った。二人の男たちは軍人だ。これでアリアルダをどうにかしてくれるだろう。

 張りつめた緊迫感の所為か、こちらに近寄ることが出来ずに少し離れた所で明らかに心配そうな顔をしているジィナイーダにリョウは言った。

「ジィナイーダさん、アリアルダさんは大丈夫ですよ。怪我はないはずです」

 それから、アリアルダに向き直った。

「アリアルダさん、もう止めにしましょう。人が傷つくのを見るのは余り気持ちのいいものではないでしょう? たとえそれが憎い相手だとしても。それともここで一思いに遺恨を断つお積りですか? 今なら引き返せます。だから剣を置きましょう」

 軍人であるロシニョールならば、アリアルダの手にある剣を奪うことが出来るだろうか。リョウはゆっくりと相手に気取られぬように移動してアリアルダの背後に立とうとしている長兄に視線で合図を送った。いや、それはひょっとしたらこの状況を打開して欲しいという救難信号に近かったかもしれない。

 その時になって漸くアリアルダの手から短剣が落ちた。静まり返った玄関先にカランと金属が打ちつけられる音が聞こえた。それをすかさず長兄のロシニョールが手に取った。

 アリアルダは、張りつめていた緊張の糸が切れたのか、その場で力なく崩れ落ちた。そこへ姉のジィナイーダがすかさず走り寄った。身体が小刻みに震えている。顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。


 そこで漸くリョウは小さく息を吐くと力が抜けたように床に片膝を着いた。そして、手にしていた剣を一先ず鞘に戻し、傷口を手で押さえると足元に落としていた鞄を探った。

 中から痛み止めと止血の薬を取り出した。瓶のふたを開けて、それを口に含み、残る全神経を集中させて自分に強制止血の呪いを掛けた。以前、自分の怪我には祈祷治癒の呪いが上手く作用しないと思っていたのが、後日、それは集中力が足りないからだということが分かったのだ。他人に作用させるのと自分に作用させるのでは、同じようで、その力の使い方が異なることを学んだ。

「……リョウ」

 リョウの白いシャツが鮮血に染まっていることに気が付いたファーガスが、近寄ろうとしたが、それを目で制した。

「ワタシは大丈夫です。アリアルダさんを別室に。落ち着ける場所に移してください。鎮静作用のある薬草をお茶の中に入れてあげてください」

 長兄のロシニョールが無駄なく動いて、アリアルダとその妹の肩を抱く姉を別の場所に移動させた。

 玄関ホールから立ち去る三人と入れ替わるように、騒ぎを聞きつけた次兄のケリーガルが現れた。廊下では術師であるポリーナを呼ぶ声がこだましていた。

 リョウは次兄を呼んだ。

「ケリーガルさん、お手数ですが包帯を巻くのを手伝って頂けませんか?」

 この場に残る張りつめた空気とリョウの格好を見て瞬時に何事かがあったことを理解したケリーガルは、リョウの傍らに膝を着くと包帯を巻く前にその傷をざっと改めた。応急処置がなされていることを確認するとリョウが望むように包帯を手際よくきつめに巻いていった。

「……リョウ。また無茶をしたのかな?」

 穏やかに微笑もうとしたものの痛ましげに顰められた眉にリョウは少し困った顔をして微かに笑った。

「そういうことになってしまうんでしょうか」

 無茶な事をした積りはなかった。リョウは精一杯のことをした積りだった。あの場でアリアルダから力任せに短剣を奪うことは物理的に自分には出来なかったからだ。却って相手を逆上させ、傷つけてしまうかもしれなかったから。あの場で、自分に思いついたことは、アリアルダが思い留まるように時間を稼いで説得することだった。

 だが、それは結果的には上手く行かなかったのかも知れない。アリアルダの剣を止めることが出来なかったのだから。

 このような騒ぎを起こしてしまうことになるなんて。やはりユルスナールにとって、自分は疫病神でしかないのかもしれない。そのようなことさえ頭を掠めた。


 包帯を巻き終えると、リョウは次兄に礼を言い、荷物を手にゆっくりと立ち上がった。足が震えそうになったが、なんとか誤魔化した。

「お騒がせいたしました」

 家の玄関でこのような騒ぎを起こしてしまったことを主に詫びたリョウにファーガスは何とも言えない複雑な顔をした。恐らくこのような騒ぎになった大体のあらましは執事のリピンスキーより聞いているのだろう。

 ファーガスはゆっくりリョウの傍に歩み寄るとその頬に手を当てた。ごつごつとしたかさついた肌の感触が伝わった。そして、緩慢な動作で華奢な身体を抱き締めた。

「済まなかった、リョウ」

「いいえ」

 思ってもみなかった謝罪の言葉にリョウは軽く首を左右に振った。

 だが、直ぐにハッとして慌てたようにファーガスの胸に自分の二の腕を突いて相手との距離を開けた。

「お召物に汚れが付きます」

 自分の手と襟元が流れた血で濡れていたことを唐突に思い出したのだ。ファーガスの着ているものに付いてしまう。高価で肌触りの良い服地に。

 そのような瑣末なこと(リョウにとっては重大なことだったが)に拘ったリョウにファーガスは沈痛な表情をするとより一層、離れた細い身体を抱きこむ為に抱擁を強めた。

「そのようなことなど気にするな」

「ですが……」

 小さく身じろいだリョウの背にケリーガルから声がかかった。

「リョウ、汚れなんて洗えば落ちるんだから、気にすることはないよ」

 ファーガスは何も言わなかった。リョウの後頭部に大きな温かい手を回すと己が胸に押し付けるようにきつく抱き締めた。

 そうしてそっとその大きな手で滑らかで手触りの良い髪を梳いた。

 リョウは小さく息を吐き出すとされるがままに目を閉じた。そして馴染みある体温と似たような温かさに暫し身を委ねたのだった。


 アリアルダがリョウに鉢合わせをして短剣を振りかざしている。その話を耳にした時、ファーガスは胆が冷えたと思った。ユルスナールとの許嫁の破談は思いの外、アリアルダの心を傷つけたようだった。恐らく、その辺りの理由を問い質しに自ら乗り込んで来たのだろう。だが、その怒りの矛先が向かうはずのユルスナールは生憎不在で、そこに偶々居合わせたリョウがアリアルダの激情をまともに向けられることになってしまった。

 いつになく険しい顔をしたリピンスキーの報せに急いで駆け付けてみれば、短剣の抜き身を其々己の喉元に添えて相対する二人の姿が目に入った。震えるアリアルダの前で、リョウは毅然とした態度を取りながらも何故かその首元から血を流していた。同じように刃先が食い込んでいると思われたアリアルダの方には、傷一つ付いていなかった。

 それを素早く目視で確認した時、ファーガスの脳裏には、術師が使うという呪いの一つが思い浮かんだ。相手が被るべき傷を己が身に引き寄せるというものだった。それは限られた条件下で成立する類稀な術だと聞いていた。詳細は後で本人に確かめてみないと分からないが、恐らく、リョウは、そうやってアリアルダを守ったのだろう。自分を傷つけることで。

 息子のユルスナールが惚れ込み、そしてリョウの行動を心底心配する理由が分かった気がした。

 アリアルダの一件は、元はと言えば、息子の至らなさから発したことだ。そしてその責任の一端は父親である自分にもある。政治的理由での婚姻、また金銭的理由などによる婚約の破談、そのようなことなどこの貴族社会ではよくあることだ。これはシビリークス家とズィンメル家との問題で、両家の中で解決しなければならないものだった。

 そこに息子が愛する人を巻き込んでしまった。それも自分の影響力が行き届いているはずのこの屋敷内で。

 なんということだ。ファーガスは己が不徳を恥じるようにリョウの細い身体を抱き締めた。このような小さな身体にどれほどの負担を強いてしまったのだろうか。

 それと同時に感じ入った。この小柄な体躯にこれほどまでの強い精神が息づいていようとは。

 感嘆に似た気持ちでファーガスは抱き締める腕に力を込めた。このか細い腕で、どれほどまでの寛容さを息子に対して見せて来たのだろうか。


 それから暫くして、リョウはそっとファーガスの胸元から顔を上げた。気遣われたと思った。騒ぎになった原因は自分にあるのにファーガスはそれを責めなかった。逆に、こうしてまた不用意に傷を負った自分を慰めてくれている。

 シビリークス家の人たちは優し過ぎた。そしてまた、その最たる男に心配を掛けることをしてしまったと思った。

「ありがとうございます」

 すみませんと謝罪の言葉を口にしそうになって。それを慌てて謝意の言葉に変えた。

「あの、お願いがあるのですが……」

 それから落ち着きを取り戻したリョウは、この場での一件をここで収めてくれるようにと頼もうと思い口を開きかけたのだが、そこで、玄関の重厚な扉が開いた音を聞く羽目になってしまった。

 恐る恐る振り返る。

 そして、そこに現れた男の姿に、何とも間の悪い思いをしたのだ。

 玄関先に現れたのは、今、自分を温かく抱き締めている初老の紳士と同じ銀色の髪に瑠璃色の瞳を持つその息子、ユルスナールだった。リョウはなるべく穏便に且つ内々に収めようとしていたこの一件が自分の手を離れてしまったことを知った。


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