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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
183/232

夢の扉のその前に

「リョウー!」

「リョーウー!!」

 甲高い二つの声がして、ゆっくりと振り返ろうとした途中で、背後に衝撃が走った。そのまま前方にたたらを踏みそうになった身体は、だが、前からもたらされたもう一つの衝撃に吸収される形になった。

「うわわ!」

 何が起こったのかと目を白黒させているうちに背中に張り付いた温かさと後ろから腰の辺りに回った腕の感触の後、胸元に飛び跳ねる柔らかそうな銀色の頭部が張り付いているのが視界に入った。

「スラーヴァ? ユーラ? もう吃驚するでしょう?」

 突然飛びついて来た二人の正体が分かって、リョウは驚きに早くなった鼓動を宥めながら、窘めるように急襲をしてきた二人の男の子を見た。だが、その表情はいつになくにこやかだった。

「リョウ、出掛けるのか?」

「どこに行くんだ?」

「養成所か?」

「俺たちと一緒か?」

 ぎゅうぎゅうと前からも後ろからも自分の体を力任せに抱きしめながら口早に問いを発するきらきらとした淡い空色の瞳と薄い緑色の瞳。そして、さらさらとした銀色の髪。

 この二人の男の子は、シビリークス家・長兄ロシニョールの息子たちだった。後ろから背中に張り付いているリョウと余り背丈の変わらない方が長男のスタニスラフ。愛称はスラーヴァだ。そして、前に張り付いて、胸元にぐりぐりと頭を押しつけているのが次男のユーリィー。愛称はユーラ。元気一杯の無邪気な子供たちで、二人とも父親のロシニョールに良く似た―――つまり、シビリークスの血を多く引き継いだ顔立ちをした―――男の子たちだった。ということは、当然のことながら、この二人にとっては叔父に当たるユルスナールにもどことなく似ていたのだ。それがリョウの頬がいつになく緩んでいる理由でもあった。

 シビリークス家滞在中、番犬のカッパとラムダの二頭を従えて中庭でのんびりと読書をしていた時に知り合って、それ以来、何かと二人の子供たちの相手をしていた。見慣れない少し毛色の変わったリョウが珍しく映ったのか、どうやら完全に懐かれてしまったようだった。

 基本的に子供は好きだ。そして二人は共にどことなく自分の好いた男の幼少期を彷彿とさせる顔立ちをしているのだ。自分が知らないユルスナールの少年時代が目の前にあるようで、ついつい可愛らしく思えても仕方がなかった。だが、子供の頃から無愛想の塊のような男の子だったと聞くユルスナールとは違い、スラーヴァとユーラの二人は、好奇心が旺盛で表情豊かな子供たちだった。


 この日、リョウはズボンと上着を身に着けたいつもの姿になって出掛ける用意をしていた。昨日、レヌートから術師最終試験の合格通知をもらったので、早速、役所に赴き、登録申請をする積りだった。ユルスナールも【アルセナール】に出勤するということで、朝食を食べ終えたら一緒に出掛けようという話になったのだ。役所まではユルスナールが案内をしてくれるとのことだった。

 一足先に玄関ホールにいたリョウに二人の子供たちが興味津々に飛び付いてきたという訳だった。

「お役所にね、登録に行くんだよ」

「術師のか?」

 背後から顔を覗き込んできたスラーヴァの淡い空色の瞳にリョウは柔らかく微笑んだ。

「そう」

 リョウが養成所の学生で、この度、術師の試験に合格したということは二人の子供たちも知っていた。

 ユルスナールの母親であるアレクサーンドラがお祝いをしなくちゃねと夕食の席で嬉々として話した所為で、【お祝い(イコール)ごちそうが食べられる】という図式に食べざかりの子供たちが目を爛々として食いついたという訳だった。

 それから養成所の方にも顔を出す積りだった。学生寮を急に引き払うことになったことで突然いなくなった自分を不可解に思っているだろう友人たちに事情を話しておきたかったのだ。それに世話になった講師陣たちにお礼の挨拶をして回る積りだった。

 尻尾を振り切れんばかりにぶんぶんと振る犬のように興奮気味に齧りついてくる二つの体温の高い身体を宥めるように軽く叩いて、リョウは二人に離れてくれるように頼んだ。

 まだまだ細いと(いえど)も男の子だ。腕っ節の強さは父親譲りなのか、加減なく回される腕の力は強くて、苦しくなっていた。

「ほら、二人とも離れて」

「ええー、いいだろ、リョウ、ケチケチするな」

 少し尊大に毒づきながらも甘えるような言葉を吐くのは長男だ。

「スラーヴァ、苦しいから。ユーラも、ね?」

「リョウ、今日はズボンなんだな。俺たちと一緒だな」

 そう言って顔を上げた弟にリョウは苦笑を滲ませた。

「そうだね」

 脈絡なく話が唐突に飛ぶので、二人一度に相手にするのは中々に骨の折れることだった。其々、性格も興味の対象も異なるからだ。そこに子供特有の無邪気さが加わる。

「俺はあっちの地味なワンピースの方がいいと思うぞ? それじゃぁ、まるで男だ」

 昨日身に着けていたポリーナの娘、マーシャのお下がりの服のことを言っているのだろう。

「そう?」

「だがまぁ、そっちもそれなりに違和感ないくらいにはなってるがな。似合わないとは言っていないぞ?」

 そう言ってどこか照れたようにそっぽを向いた少し険のあるスラーヴァの愛くるしい顔立ちをリョウは微笑ましく眺めた。


 そうやって玄関先で思わぬ悪戯っ子たちの襲撃に拘束をされていると支度を整えたユルスナールが颯爽と現れた。いつもの正式な詰襟の軍服を身に着けている。

 ユルスナールは、団子のようにリョウの前後に張り付いた甥っ子たちを見て妙な顔をした。

「何をしている?」

 それはリョウが聞きたいくらいだった。

 リョウは少し情けなく眉を下げて、困ったように笑った。

「ほら、二人とも離れて。もう行かなくっちゃ。ルスランも来たから、ね?」

 後ろに張り付いていたスラーヴァは何を思ったのか、リョウの耳元に顔を寄せると意味深に囁いた。

「なぁ、リョウ。ルーシャ叔父さんってさ。やっぱり、あっちも凄いのか?」

「はい?」

 リョウは振り返ると目を白黒させて訳の分からないことを言った長男を見た。

「何の話?」

 尋ねたリョウにスラーヴァは、目を細めてどこか悪戯っぽい顔をした。そうすると右側の発達した犬歯の尖りが小さく覗いた。

「そりゃぁ、もちろん決まっているだろ。あれだよ、あれ」

 そう言って少年のまだほっそりとした指が指示した場所は、あろうことかこちらにやって来るユルスナールの下半身で、

「なっ……」

 仄めかされた事柄にリョウは絶句した。

 だが、その衝撃には更なる追撃が待っていた。

「なぁ、リョウ、ルーシャ叔父さんは【ゼツリン】なのか?」

 前に張り付いていた弟も顔を上げると淡い緑の瞳を好奇心一杯に煌めかせながら会話に入って、リョウはぎょっとしてユーラの口を塞いだ。

 こんなまだ年端の行かない子供たちの口から、【絶倫】などという性的な言葉を聞くことになるとは。おませにも程がある。目眩がしそうな気分だった。

「ユーラ、キミ、その言葉の意味を分かって使っているの?」

 狼狽しながらも信じられない気分ですぐ下にある柔らかい頬を抓れば、痛いと言いながらも無邪気な顔をして笑った弟は、

「んー? 夜もすごいってことだろ? 母上が話してたぞ?」

 その言葉に再度、絶句する羽目になった。

 どうしてそのようなことを長兄の奥方が子供たちの前で話すことになったのか。そういう方面の教育を既にしているということなのか。リョウは、やや挙動不審気味に目の端を赤らめて狼狽するように視線を彷徨わせた。そして、こちらに向かって歩いてくる瑠璃色の瞳にぶつかった。その瞬間、リョウの脳裏には、昨晩、ユルスナールと過ごした濃密な時間が唐突に蘇ってきて、余りの居た堪れなさに勢いよく顔を逸らした。

「リョウ? どうした?」

 急に顔を赤らめて余所を向いたリョウにユルスナールは怪訝そうな顔をした。

「なぁ、リョウ、どうなんだ?」

「どうなんだ?」

 兄の真似をするように弟からも同じように問いを重ねられて、リョウは直ぐ傍にある二つの頬を思いっ切り抓った。

「もう、そんなの知りません。そんなに知りたいのなら、ルスランに訊いてみればいいでしょう?」

「ん? なんだ?」

 すぐ傍に来たユルスナールに、二人の子供たちは漸くリョウから離れた。リョウは、ユルスナールにちょいちょいと指を拱いて耳を近づけさせると二人の子供たちから聞かれた言葉をそのまま囁いた。

 その瞬間、ユルスナールは目を見開いて、何とも言えない顔をしたかと思うと唇を引き結び、興味津々にまだ若い叔父を見上げている二人の甥っ子たちの頭上に左右の拳を落とした。

 ゴチンといい音がして、二人の子供たちからすかさず痛いと声が上がった。

 そして、窘めるような口調で低く言い放った。

「スラーヴァ、ユーラ。滅多なことを口にするな」

 そして、全く義姉上も兄上も子供のいる前で一体どんな話をしているのだと半ば呆れたように毒づいたのだった。

 スラーヴァとユーラの二人は、これから養成所の近くにある貴族の子息たちが主に通うという学問所に行くのだそうだ。強面の叔父からの叱責もなんのその、遅れてやって来た御付きの男と共に元気一杯に出掛けていった。




 それからリョウはユルスナールと二人連れ立って、ひんやりとして澄んだ朝の爽やかな空気の中、術師登録機関がある宮殿区画内の役所へと向かった。

「それにしてもえらく懐かれたものだな」

 二頭の番犬カッパとラムダのように嬉々としてリョウに張り付いていた二人の甥っ子たちの姿を思い出してか、ユルスナールは面白くない顔をした。

「元気一杯のやんちゃな盛りですものね」

 あの二人の相手をするのは母親のジィナイーダもさぞかし大変なことだろうとリョウは小さく笑った。

 それに対して、ユルスナールは何とも言えないような微妙な顔をした。

 普段、余り顔を合わせることのなかった甥っ子たちだが、シビリークス家の家訓に則り、それなりに厳格な躾の下、教育をされているはずだったからだ。長兄はああ見えて真面目で父親の方針を誰よりもよく理解し、そして踏襲しているはずだった。そこから考えると、あのように子供であることを全面に曝け出してリョウに絡む様も珍しかった。義姉のジィナイーダは、二人の息子たちのことを【手の掛からない子】だと評していたのだ。それがどうだ。あのように甘えて。尻尾を振り切らんばかりに興奮と喜びを表わす獣のようだった。

 リョウはまだまだ子供だと思って甘い顔をしているようだったが、長男のスラーヴァは今年で12になる。次男のユーラは10だ。貴族の子息は往々にして早熟な所があるが、ユルスナールから見れば、あの二人がリョウに懐く様は、異性への興味が憚らずに出ているように思えて仕方がなかった。リョウは笑っていたが、前後でぴったりと身体を寄せて抱きついたあの二人、特に長男のスラーヴァの方は、確信犯である。リョウはこの国の女たちと比べるとその骨格は華奢だが、十分成熟した女の肉体を持っている。触れればとても柔らかでそれなりの肉感があった。

「全く、油断も隙もない」

 そう言って、不満そうに口の端を下げたユルスナールに、男が二人の子供たちに嫉妬のような感情を抱いていることが知れて、リョウは可笑しそうに笑った。

「まだまだ子供じゃないですか?」

 軽く笑い飛ばしたリョウにユルスナールは目を眇めた。

「馬鹿を言え、あのくらいの年頃になれば十分男だ。無暗にベタベタと触れさせるな」

 リョウとの閨での行為を仄めかされて呆れるやら腹立たしいやら。ユルスナールの心配を余所にどこか甘く寛容すぎる所のあるリョウは呑気に笑う。人の気も知らないでとユルスナールは口から出そうになった台詞を喉元で押し止めた。

「ルスランもあのくらいの頃には、異性への興味で悶々としていたんですか?」

 ふいに変わった矛先にユルスナールは妙なことを訊いてきたリョウを横目に見下ろした。

「そんなこと聞いてどうする?」

 苦り切った様子を眦に浮かべたユルスナールにリョウはからりと笑った。

「だってワタシはルスランの子供時代を知りませんから。ちょっとした好奇心です」

 そう言って少しはにかんだように顔を綻ばせた。それはユルスナールが全面降伏の白旗を上げてしまいたくなるような可愛らしい笑みだった。

 自分の事を知りたいと言っているリョウに悪い気はしなかった。だが、相手を好ましく思っているからこそ、幼い頃の恥ずかしい話など、口にできる訳がなかった。それは男としての見栄である。一つ不規則に跳ね上がった鼓動を誤魔化すようにユルスナールは小さく咳払いをした。

 黙り込んだ相手をいいことにリョウのおしゃべりは続いていた。

「ルスランは小さい頃からさぞかし女泣かせだったんでしょうねぇ」

「俺はブコバルとは違う」

 過去をほじくり返されて面白くないのか、ぶすりと漏れた一言に、そう言えば、ユルスナールとブコバルの二人は幼馴染であったことを思い出す。そして、今度ブコバルにユルスナールの小さい頃の話を聞いてみようかと思った。それは、とても良い思い付きのように思えた。

 途端に機嫌良く軽やかに足を繰り出したリョウにユルスナールは嫌な予感がして隣を流し見た。

「リョウ、妙な事を考えてはいないだろうな?」

「妙な事……ですか?」

 一体、なんのことかしらと小さく含むようにして笑う。

「別にルスランの小さい頃の恥ずかしいあれやこれやをブコバルから聞きだそうなんて思ってはいませんよ?」

「なんだ。俺はてっきりポーリャに……」

 と言い掛けて、いや、なんでもないと慌てて濁した。だが、リョウはその一言を聞き逃さなかった。

「ああ。その手がありましたね」

 ポリーナはユルスナールの乳母でもあったのだ。それこそ子供の頃の話は良く知っているだろう。おしゃべり好きなポリーナのことだ。一つ水を向けるような質問をすれば、何十倍にして驚くほど密度の濃い昔話が飛び出してくるに違いない。

 にっこりと微笑んだリョウの上方でユルスナールはあからさまにしまったという顔をした。常に冷静で思慮深いユルスナールにしてみれば、とんだ失態である。

「あ、おい、リョウ。待て!」

 ついと伸びてきた腕をかわすようにリョウはひょいと身体を反転させると可笑しそうに笑いながら駆け出した。

 急に駆け出した相手を捕まえるべく、ユルスナールも勢いよく長靴を石畳の上に蹴り出した。そして、実に不可解な組み合わせの追いかけっこが貴族の邸宅が点々とする界隈から厳めしい役所関係の建物が並び立つ辺りまで続いたのだった。




 ちょっとした予定外の軽い運動を挟んで、リョウはユルスナールに促されるようにして宮殿区画内外縁部にある役所に入ると術師の登録・管理を行っている部署を訪れた。

 入口の所でもう大丈夫だからとユルスナールを仕事に向かうように促したのだが、ここまで来たら同じことだと言ってリョウの後を付いて来た。ユルスナール自身も登録機関に興味があったようだ。

 登録受付をしている部署は、細長い受付台(カウンター)のある静かな場所だった。午前中で閑散としているということもあり、どこかのんびりとした役所らしい雰囲気が広がっていた。

 受付台の所には、登録を意味する【ザーピシ】の看板がぶら下がっていた。その後ろの小さな執務机のような所には、役所の人だろう官吏の制服に身を包んだ男が一人いた。

 リョウはユルスナールに一言『行ってくる』と言付けてからカウンターの所に向かった。

「おはようございます」

 声を掛ければ、役人らしい物静かな感じの男が徐に顔を上げた。リョウは小さく微笑んで、相手が何がしかの言葉を発する前に手にしていた試験の合格通知を受付台の上に滑らせた。

「術師の登録をお願いします。証書はこちらに」

 合格通知となる証書には、昨日レヌートに言われた通りに、自分の印封を施しておいた。

「術師の登録ですね」

 官吏はそう言うとついと手を伸ばしてその証書を改めた。男にしては白くか細い指が表裏とその少し青みがかった厚手の紙をひっくり返した。

「確かに。承りました」

 そう簡潔に言って一つ頷くとこれより登録の準備をするので、少し待っているようにと言い残してカウンターの向こうに姿を消した。そのどこか機械的で事務的な動きをリョウは不思議なものを見るような顔をして見送った。

 それにしても登録の準備とはどのようなものなのだろうか。レヌートは正式な登録の際には、正規の登録札が発行されると言っていた。リョウは申請書のようなものに新しく必要事項を記入することになるのだろうかと思ったのだが、その予想は外れることとなった。

 待っているリョウの傍にユルスナールがやって来た。

「これから登録をするそうです」

 これで晴れて術師として認められることになるのだ。どこか緊張した面持ちをしたリョウにユルスナールはそっと肩を抱くように腕を回した。そして無言のまま、大丈夫だというように小さく回した腕に力を入れた。隣を見上げれば、優しい色をした瑠璃色にぶつかり、リョウも同じように微笑み返していた。


 それから暫くして、戻って来た官吏の手には、小振りの透明な箱のようなものが抱えられていた。透明な箱の中には、同じような透明な液体が入っていて男の歩みに合わせてたぷんたぷんと揺れていた。

 官吏は、リョウの隣に立つ軍服を着た体格の良い男をちらりと横目に見て眉を少し跳ね上げたが、何も言わずに、

「それでは始めます」

 そう事務的に口を開くと、透明な液体の入った透明な箱を受付台の上に置き、その中にリョウが持ってきた合格証書を入れた。

 青みがかった厚めの証書は液体の上に浮いていた。

「それでは、右手か左手、お好きな方をこの箱の中に入れてください」

 ―――――上に乗っている証書を中に押し込むように。

 予想外の事を言われて、目を白黒させながらもリョウは右腕を捲ると言われた通りに紙を沈めるように手を入れた。

「……ッ……」

 その瞬間、ビリリと感電したような痛みが上腕に這いあがり、吃驚して咄嗟に引こうとしたのだが、

「どうかそのままで」

 低いながらも容赦のない淡々とした声が官吏から掛かった。

「そのまま証書を押し込んでください」

 何とも形容し難い痛みのような刺激に、リョウは歯を食いしばりながら指示された通りにした。

「リョウ? 大丈夫か?」

 すぐ隣で突然のことに驚きを隠せないユルスナールから心配そうな声が掛かる。

 こんなことが待っているなら一言事前に言って欲しかった。それならば少しは心構えが出来たというのに。一時の痛みは無くなったが、まだ続く妙な感覚に思わず受付台の前に立つ官吏を恨めし気に見遣れば、目が合った男は、そこでうっそりと目を細めた。どうやらこの男は非常に【心優しい】性格の持ち主のようだ。

 中に入れている右腕を左手で掴んで耐えていると透明の液体が躍るように跳ね上がり始めた。まるで沸騰している水のように上下運動を繰り返す。中に入れた証書が液体に溶けたようにふにゃふにゃになり、右手にまとわりついた。

「もう少しの辛抱です」

 酷く冷静な官吏の声の直後、透明の箱から突如として眩いばかりの光が漏れた。リョウは思わず目を瞑った。

「これは……凄い」

 ぽつりと漏れた小さな声に恐る恐る目を開けば、透明だった液体が虹色に変化しながら手の回りを躍っていた。初めのような無秩序な荒々しさではなく、緩やかに一定の法則に従い変化をしているようだった。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。

「もうよろしいですよ」

 官吏の声にゆっくりと右手を引き抜いた。驚いたことに濡れているかに思われた右手は何事もなかったかのように乾いていた。リョウは心底驚いて、暫く呆然と自分の右手と箱の中で生きているかのように揺らめいている光の塊を見比べた。

「これは……一体……?」

 何が起こっているのだ。

 面食らって頭の上に沢山の疑問符を浮かべたリョウに、官吏の男が愉快気に細めの眉を跳ね上げた。

「おや、もしや、あなたは事前に説明を受けてはおりませんでしたか?」

「説明……ですか? 何に…対する?」

「ああ、ならば驚かれても仕方がありませんね」

 そう言うと、この透明な箱の中にあるのは専門の術師が研究に研究を重ねた末に出来た特別な液体で、中に入れた証書とそこにある印封、そして登録する術師本人の潜在能力をほんの少し借りる形で、証書を強度な呪いの掛かった特殊な登録札に変化させる装置なのだと説明した。

 先程までの事務的な無表情からは一転、実に生き生きとした表情で詳細を語り始めた官吏に、リョウは目を丸くしながらも聞き入っていた。そして、この一連の登録作業の事には全く触れなかったレヌートの穏やかな顔を半ば恨めし気に思い返したのだった。

「いやいや、久し振りに大変興味深いものを見せて頂きました。私も長年この場所で様々な方の登録業務を担当させていただいておりましたが、このように実に珍しい発現の仕方をしたのは本当に久しぶりです」

「珍しい発現の仕方……ですか」

「ええ、このように虹色に煌めく光はとても珍しいですね。しかもとても強い」

「……はぁ」

 熱の籠った説明を終えた官吏は満足したように息を吐くと、最初の頃とは打って変わった実にいい笑顔で、また二・三日後に来るようにと言った。どうやらその間にこのゆらゆらと蠢いている光が収束し、登録札の形に落ち着くとのことだった。

 こちら側で生活するようになって、それこそ驚くことは沢山あったが、この登録業務もリョウにとっては予想もしなかったことで度肝を抜かれることになった。一口に術師と言ってもその世界は本当に奥が深いのだと改めて思い知らされた気分だった。


予定ではもう少し話を進めるはずだったのですが……。

リョウからはシビリークス家の男たちを籠絡するようなホルモンが出ているのではと思った今日この頃。無邪気な子供たちの直球にタジタジの回となりました。それでは、また次回に。

2011/9/21 脱字修正

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