千客万来の一日 2)
―――――ハッ……クシュン!!!
その日、【アルセナール】にある第七師団の執務室では、一際、豪快なくしゃみ音が響き渡った。それは、ただでさえ静かな室内に反響するように轟いた。窓ガラスが震えたと後日、中で仕事をしていた若い兵士が語ったという。
「ブッチェ・ズダロフ」
「ブッチェ・ズダロフ」
そして間髪入れずに、同じ部屋で机に向かっていた部下の兵士たちから次々に労わりの言葉が掛かった。
―――――ブッチェ・ズダロフ。
それは、この国でくしゃみをした相手に周囲の(特に親しい間柄で)人々が必ず掛ける決まり文句である。直接的な意味は、【健康になって下さい】だが、意味合いとしては【どうぞお大事に】という所だろう。
すっと伸びた高い鼻をひくつかせて顰め面をした団長―――先程の豪快なくしゃみの主である―――に傍にいたグリゴーリィーは書類に走らせるペンを止めないまま、からかうように上司を一瞥した。
「どうやら噂をされているようだな」
その言葉にユルスナールは、面白くないとばかりに目を眇めた。
風邪をひいた覚えはない。元より軍人として鍛え抜かれた身体は、滅多に風邪などひかぬものだ。最後に熱を出して寝込んだのはいつのことだっただろうか。ざっと己が記憶を探れば、それは直ぐに幼少期にまで遡った。
くしゃみが出るのは、誰かに噂をされているからである。そんな迷信が、民間では広く信じられていた。
ユルスナール自身は、そのような迷信など単なる偶然だと信じてはいなかったのだが、不意に背中を走り抜けた悪寒のようなものに頗る嫌な予感がした。これは恐らく軍人として培われてきた生来の勘に依るものである
「おうおう、これだから色男は。隅に置けねけなぁ。おい」
書類とにらめっこするのはもう飽き飽きしたのか、手にしていた紙の束を前のテーブルに放り投げて長椅子の背凭れにどっかりと身体を預けたブコバルが、ニヤニヤとしながら盛大なくしゃみをした幼馴染を見遣った。ブコバルは先程のくしゃみの原因をどこぞで女たちが噂をしていると見做したようだ。ブコバルらしい捉え方である。
そして、ここにもう一人、その会話に乗る人物がいた。
「そりゃぁ決まっているでしょう。大方、本家の方ではありませんか?」
同じように机に座って書面を繰っていた副団長のシーリスは、顔を上げると万人受けする微笑みを浮かべながら己が上司を流し見た。
仲間たちの容赦ないからかいをユルスナールは黙殺した。実家でされる噂話など碌なことがないに違いない。
そして、嫌な予感を振り切るように急に話題を変えた。
「スヴェトラーナの方はどうなっている?」
ユルスナールにとってはどうも触れて欲しくない事柄のようで、本音から言えばシーリスはもう少し突いてみたかったのだが、苛立たしげに机を叩いた長い指先に相手の不機嫌の度合いが知れて、それ以上のからかいは現時点では諦めることにした。
そして、少々胡散臭くはあったが、表情をごく真剣なものに改めた。
「どうも暗礁に乗り上げたようですよ。侍女の部屋で【妙なもの】が見つかったと言っていましたが、それを鵜呑みにするには状況的にかなり怪しいでしょうねぇ。まぁ、それを手掛かりにあちらのしっぽを掴めるようなことを言っていましたが、それをスヴェトラーナにやらせて良いものか。些か荷が重すぎるような気がします。スヴェトラーナにしてはとんだ貧乏くじといった所でしょうか。宮殿の方からも捻じ込みがあるようですし。ですがまぁ、このくらいは頑張ってもらいましょうか」
―――――リョウのことを思えば、このくらいはね。
そう言って最後に取ってつけたような笑みを刷いた。
ユルスナールは、シーリスのその冷え冷えとした微笑みに何とも言えない顔をした。つまりシーリスにとっては、この間のリョウが受けた理不尽さを思えば、このくらいのことは罪滅ぼしとしてさせようということなのだろう。ユルスナールとて割に合わない仕事を振られたスヴェトラーナを多少、気の毒に思わないでもなかったが、リョウの一件では憤りを覚えたのも確かなことであったので、その分はきっちりと働いてもらう積りだった。
いつもなら仕事に私情を挟むなと苦い顔をする所であったのだが、今回ばかりは事情が事情だけに些か例外的であった。スヴェトラーナにしてみれば運が悪かったとしか言いようがないだろう。
「目的は……撹乱か、誘導?………そして、標的は………」
侍女の死の裏に見え隠れする不可解、且つ不審な動き。相手は、どうもかなり慎重にことを運んでいるようで、中々その姿を輪郭さえも捉えることができていなかった。
「神殿の方から探りを入れるしかないか」
広い執務机の上で組んだ手の上に顎を乗せて、ユルスナールは見えない影を睨みつけるように目を細めた。
「だけどよぉ、あんま突き過ぎると却って不味いんじゃねぇ?」
相手を不用意に刺激し過ぎると勘繰られることを恐れて漸く表面に顔を出そうとした手掛かりが引っ込んでしまう恐れがある。そう言いたいのだろう。
ブコバルの言葉にシーリスが尤もらしく頷いた。
「ええ。それは勿論。加減が肝要でしょうね。まぁ、義兄上の方がどうなるか。そちらの動き次第になるでしょうが」
そうして三人は顔を見交わせると互いに大きく頷いた。
取り敢えずその日の内に処理すべき案件を全て決済し終えたユルスナールは、この日も同じように家路を急いだ。ここ数日、帰宅する足取りは非常に軽やかだった。
この日、ユルスナールの隣にはブコバルが並んでいた。
『そう言えば、リョウのヤツは元気になったか』とシビリークス本家で静養をしている顔馴染みのことを口にして、『いい加減暇を持て余してるだろうから退屈しのぎにからかってやろう』ということで帰宅するユルスナールに付いて来たのだ。
言い方はかなりぞんざいだが、ブコバルなりにリョウの事を心配していることが分かったので、ユルスナールは好きにさせた。
―――――そう言えば、ファーガス殿との顔合わせは済んだのですか?
―――――いや、まだだ。リョウの体調も戻ったことだし、これから折を見てと考えている。
―――――おいおい、お前んとこの親父殿のことだ。もたもたしてっと先を越されるぞ?
【アルセナール】を出る直前、執務室内で交わした会話を思い出して、ユルスナールは僅かに口の端を下げた。傍目にはいつも通り冷静沈着で落ち着き払っているように見えるユルスナールだが、付き合いの長いブコバルにはそのささやかな変化が筒抜けであった。
「なんだ? んなしけた面して。リョウと喧嘩でもしたのか?」
からかい混じりの声に、
「いや。それはない」
真顔で即答したユルスナールにブコバルは幼馴染を横目にちらりと流し見てから、
「へいへい。聞いた俺が莫迦だったよ」
とぶっきらぼうに返した。
だが、そこで不意に何かを思い出したように『あ』と声を上げた。
「そういやぁ、養成所の方のリョウの荷物を移したんだって? そっちに」
「ああ。それは既に済ませた」
「てか、よくリョウが頷いたな」
―――――あいつなら嫌がりそうなのに。
ひ弱で頼りなげな見かけの割に独立心の強いリョウの性格を良く知るブコバルにしてみれば、リョウがユルスナールの実家に世話になることを躊躇うだろうと思っていたからだ。まぁ、最後はなんだかんだと理由を付けてごり押しするのだろうが。
思ったことをそのまま口にした積りだったのだが、ぐっと押し黙ったユルスナールにブコバルは怪訝な顔をして相棒を振り返ると、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「あ? なんだ事後承諾か?」
歩調を緩めずに正面を向いたまま横目に相手を睨んだだけで、ユルスナールは言葉を発しなかった。ということは図星であったのだろう。
神殿側の不穏な動きがある所為で、いつになく神経質になっているのは分かるが、少し焦り過ぎだろうとブコバルは思った。リョウのことだ。勝手なことをしたと言って怒るだろう。
だが、まぁ突きつめれば相手のことを思っての行為ではあるので、当事者の二人でどうにかするだろう。いや、そうしてもらわないと困る。
「まぁ、なんとかなるんじゃねぇ?」
なんだかんだ言って二人とも相手に対しては頗る甘い所があるのだ。ちょっとした痴話喧嘩のようなものにでもなれば、却って間に入る方が莫迦を見る。
そう結論付けるとブコバルはあちこちに跳ねて飛んだ柔らかな茶色の髪をがしがしと掻いた。
そんないい加減ともとれる言葉で(その実、ブコバル自身はかなり考えているのだが)この話を締めくくったのだった。
そうしてユルスナールがブコバルを伴い実家に帰宅するとシビリークス家の執事である初老の男、フリッツ・リピンスキーが玄関先で二人を出迎えた。
「お帰りなさいませ。ユルスナール様」
「ああ。リョウはどうしている? 変わりはないか?」
この所、口癖のようになっている問い掛けに、執事は隣のブコバルにも同じように挨拶をした後、ユルスナールの傍で小さく耳打ちをした。
「ええ。今日も恙無くお過ごしのようでした。それと軍関係のお客様がいらしておりまして、リョウ様は南のテラスの方にいらっしゃいます」
その言葉にユルスナールは暫し、動きを止めた。言われたことを上手く処理できなかった。そんな風にも見えた。
「なんだ? リョウのやつ、いねぇのか?」
妙な反応をしたユルスナールにブコバルが訊けば、
「いや、いるにはいるが………あー……」
そう言って急に唸るような声を上げ、額に手を当てて天を仰いだかと思うと直ぐに表情を取り戻して、そこからまた苦々しい顔付きになった。
「お前の言う通りだ」
「あ?」
「どうやら先を越された」
怪訝な顔をしたブコバルを余所に一人自己完結したユルスナールは、そう言って真っ直ぐに目的の場所へと歩き出した。
ブコバルは廊下の向こうに遠ざかり始めた友の背中を見ながら、もの問いたげに執事のリピンスキーを見遣った。だが、長年、この家に仕えている執事の男もユルスナールの心の機微は分からなかったようで、力なく首を横に振る。
「南のテラス……って言ってたか?」
「はい」
それから、互いに顔を見交わせて、ブコバルは肩を竦めると先を急いだ幼馴染とは対照的にゆったりとした足取りでユルスナールの後を追ったのだった。
一人残された執事のリピンスキーは、その二人の姿を見送った後、再び己が業務に戻るべくピンと伸びた背筋に颯爽とした足取りで踵を返した。
左右に広く開け放たれた扉の敷居を跨いだ瞬間、ユルスナールはそこに広がる光景に暫し、言葉を失った。頭を抱えて大きく溜息を吐きたいのを我慢して、何食わぬ顔をして小さく咳払いをするに留めた。
室内には、自分の両親とリョウだけならまだしも、何故か第五のドーリンにウテナとイリヤの二人が寛いだ顔をしていた。そして、最も不可解であったのが、ソファに座り談笑している第三のゲオルグの存在だった。中では、応接間のテーブルを囲んで銘々が好きな位置に座りカード遊びに興じているようだった。
「お帰り、ルスラン。早かったね」
目の前の状況を上手く処理できずに立ち尽くしたユルスナールの隣に次兄のケリーガルが音もなく並んだかと思うと腰の辺りを軽く叩いてから、カードゲームに興じている人々の輪の中へと入って行った。
一度、中座していたらしい次兄が戻り、顔を上げたリョウは、そこで複雑な顔をして戸口に立つユルスナールに気が付いたようで、花が咲いたように顔を綻ばせると席を外して近寄ってきた。
「お帰りなさい、ルスラン」
いつになく上機嫌な笑顔だ。白い肌に血色良く上気させた頬を見て、ユルスナールはリョウが楽しんでいるのであれば仕方がないかと腹の底からせり上がってきそうになる不満をぐっと押し込んだ。
ユルスナールは足早に寄ってきたリョウの身体を軽く腕を広げて抱き締めるとさらさらと垂らしたままになっている髪に唇を寄せた。そして、その手を背中から腰、滑るようにその下に走らせた。
飾り気のない地味な普段着だが、ポリーナの娘マーシャのお下がりだという女物の服は、リョウに良く似合っていた。
ああ。こんなお下がりではなくて、近いうちにちゃんとしたものを作ってやらなくては。ユルスナールは一人、心の中でそんなことを思った。ズボンばかりではどうにも味気がない。
本家滞在中、生来の性別に合った服を着ているリョウの姿は、ユルスナールには新鮮に映っていた。折角だから、普段着の他に余所行きのものも拵えておこう。出入りしている仕立屋を呼ぶか、いや、どうせなら街中を案内がてら店まで行くのもいいかもしれない。様々な色合いの数多もの生地の中からリョウに似合う色合いを選び出すのはきっと楽しい一時になるだろう。澄ました顔の下、仕立屋行きを今後の予定に加えるべくつらつらと思い巡らせて下降した気持ちを急激に浮上させた。
細く括れた腰を挟んでいるのは柔らかな成熟した女の膨らみだ。少女のようなあどけなさをどこかに残しながらも、そこには男を知る女の艶めかしさがあった。
指通りの良い髪を梳き、頬に掛かった一房を耳の後ろに撫で付けてやるとリョウは顔を上げて柔らかく微笑んだ。そこにある少し薄めの唇にユルスナールは吸い寄せられるように己が唇を寄せた。
触れるだけの口づけを名残惜しそうに解いてから、ユルスナールは小さく笑った。
「どうした? やけに上機嫌だな?」
「はい。今日はレヌート先生がいらして鞄を持ってきて下さったんですけれど、嬉しいお知らせを頂いたんです」
それから、いそいそとスカートのポケットを探ると厚い青みがかった小さな紙切れを取り出し、効果音を付けて少し誇らしげにユルスナールへ差し出して見せた。
「どれどれ」
そこには、術師が専ら印封に使う古代エルドシア語で試験に合格したとの旨が記載されていた。紛れもない術師養成所が発行する最終試験の合格通知だった。
「そうか。受かったんだな?」
「はい」
「良かったな。おめでとう!」
ユルスナールは明るい笑みを浮かべるとリョウの腰を掴み軽々と上へ抱き上げた。
「わわ、ルスラン」
まるで幼い子供をあやすように上方へと身体を持ち上げられて、急な浮遊感にリョウは慌ててユルスナールの逞しい肩に手を置いた。何を思ったのか、そのままステップを踏むようにくるりと一回転したユルスナールにリョウは声を立てて笑った。
レヌートより試験合格の報せを受けてから、リョウは早くそのことをユルスナールに知らせたくて仕方がなかった。言葉にならない嬉しさが膨らんで、この喜びを誰かと共有したくて、受け止めて欲しくて仕方がなかった。そうして男が帰って来るのを心待ちにしていたのだ。
ユルスナールが結果をまるで自分のことのように喜んでくれて嬉しかった。
身体を下ろされて、リョウは少し年甲斐もなくはしゃぎ過ぎたかと照れたように笑った。
二人にとってはいつものような遣り取りであったのだが、同じ室内でカード遊びに興じていた両親と兄たちにはユルスナールの行為は非常に珍しく映ったようだ。柄にもないことをしているという自覚がある所為か、目を丸くしてこちらを見ている両親(特に母親)にユルスナールは居心地の悪さを誤魔化すように小さく咳払いをした。そして、リョウを促すようにほっそりとした背中から下に手を滑らせてさり気なくその柔らかさを堪能しながら、カード遊びに興じている人々の中に入っていった。
「一体、どういう風の吹き回しだ?」
傍にいたドーリンに突然の来訪の理由を問えば、相変わらず鉄仮面のような真面目くさった顔付きで、リョウのことを小耳に挟んだ部下(ウテナとイリヤの事だ)にどうしても見舞いに行きたいとせがまれたので、念のために付いて来た。そう言って、テーブルを囲むように輪の中に入り、にこやかに己が母親と談笑しているウテナとその反対側で自分の手札を真剣な表情で睨みつけているイリヤの二人を見遣った。リョウはイリヤの隣に座り、その手持ちの札を覗き込んでいた。
「お前たちのことは分かった。だが、何でアレまでいるんだ?」
百歩譲って、第五の関係は【プラミィーシュレ】でのこともあるから良しとしよう。だが、あの男はどういう腹積もりなのか。
小さく囁かれた声は、耳聡い相手には筒抜けていたようだ。悪口ほど、それを聞かれたくない相手に届いてしまうという不思議は、ここでも健在だった。
優雅な手付きで自分の持ち札を一枚、テーブルの上に置くと、揶揄された当人である第三師団長は、にっこりと人好きのする笑みを浮かべてユルスナールとドーリンの二人組を見た。
「私もそこのお三方と同じくリョウのお見舞いですよ。それに届け物もありましたから」
その対面で、リョウが同意するように微笑んだ。
「ああ。そうなんです。失くしたかと思った帳面を持ってきてくださって。大変助かりました」
先日の騒ぎで鞄の中から見当たらなくなっていたものを偶々ゲオルグが手にして持ってきてくれたということだった。
「ほう?」
ゲオルグの言い分をどこか白々しく感じたユルスナールであったが、両親の手前、それは敢えてこの場では表に出さなかった。
それから、ぐるりと室内を見渡して、不意に目が合った母親は、口元に手を当てながら上品に笑い、何ごとかを隣にいる父に囁いた。
そこでユルスナールはイリヤの傍にいたリョウを促して両親の元へと赴いた。
「いつの間に仲良くなったのですか?」
本来ならばユルスナール自らがリョウのこと両親に紹介するはずだったのだ。それなのにブコバルの予想通りどうやら先を越されてしまったようだった。二人の兄たちの時も然り。リョウに関しては何故か自分の思い通りに事が運ばない。
どこか拗ねたような響きを声音に感じ取ってか、父親のファーガスは小さく笑うと余裕たっぷりに末息子を見た。
「かれこれ七日前だな。なぁ、リョウ?」
―――――なんだって?
思いがけない言葉にユルスナールは驚きのままにリョウを見た。
リョウは、そこで小さく苦笑のようなものを漏らすと、正式に挨拶をしたのはこの日の午後のことだったが、父親のファーガスとは偶然にも七日前の試験直後に会って言葉を交わしていたのだと明かした。
「そう言うことだ」
父親はそう言うと茶目っ気を滲ませながら片目を瞑って見せた。それを目の当たりにした末息子は、湧き上がりそうになる様々な思いを昇華するように小さく息を吐き出した。
「リョウ、ちょっといいかしら?」
「あ、はい」
そんな中、母親のアレクサーンドラに呼ばれて、リョウはユルスナールの傍を離れた。
元々、母親は社交的な性質だったが、短い間にすっかりと打ち解けたようだ。リョウが母親と仲良くなるのは、ユルスナールにとっては喜ばしいことに違いないのだろうが、何だか自分の恋人を取られたようで、本音の部分では些か複雑でもあった。
その隙に父親のファーガスはユルスナールに無言のまま目配せをして、テラスの外に出るようにと合図を送った。信号を的確に受け取った息子は、一つ頷きを返すと立ち上がった父親に続いた。
閉められていた大きな窓ガラスを開けて、二人の男たちは室内から外に出た。冬の終わりの名残のような冷たい風が頬を撫でて行った。同じ銀色の髪に濃紺の瞳を持つ良く似た父子は、テラスの端のバルコニー部分にやって来ると並んで立った。
リョウを妻にしたい。そう告白した時、父親のファーガスは、ユルスナールに一つの条件を出した。それは、ユルスナールの選んだ相手が息子の生涯の伴侶たるに相応しいか否かを父親が直にその目で確かめるということだった。
父親の目に自分の愛する女はどのように映ったのだろうか。たとえ反対をされたとしてもそう簡単に諦める積りはなかったが、シビリークス家・家長である父の判断は同じくこの家、そしてこの国を支える息子にしてみれば、とても重みのあるものであるということも確かだった。
「ご存じだったのですね」
言い知れぬ緊張を吐き出した言葉の中に隠した。
「ああ。偶々だ」
本来ならば自分の立ち会いの下、然るべき時を選んで顔合わせをする積りだった。元より見え透いた小細工が通用するような相手ではないことは重々理解していたが、それでも両親の手前、形だけでも整えたいというのがユルスナールの本心であった。
だが、リョウはそのような自分の思惑をするりと抜けて、父と偶然ながらも邂逅を果たしていた。事前の余計な情報がない分、自然な形で言葉を交わしたのではないだろうかとユルスナールは思った。そのありのままの姿が、良い影響を及ぼしているといいのだが。そう願わずにはいられなかった。
「リョウは、術師の試験に合格したそうです」
「ああ。聞いた。大したものだ。しかもこのような短期間で。養成所で学んだのは一月に満たないというではないか。優秀なのだな」
「ええ。そのように聞いております」
シビリークスの家では、高い素養を持つ者は出て来なかった。だからだろうか。術師という存在に畏怖と畏敬を感じるような所が少なからず存在した。
リョウのことを褒められてユルスナールは純粋に嬉しかった。父親の高評価に思わず口元が緩む。
息子のだらしなく下がった目元を横目に見て、父親のファーガスは、半分、可笑しみ堪えながらも呆れたように口にした。
「お前には勿体ないくらいだ」
ファーガスは、そう独りごちるように言うと男らしい笑みを浮かべた。
ユルスナールは弾かれたように隣に立つ父親を見た。
「それでは……お許し頂けるのですね?」
静かに喜色を浮かべた息子をちらりと一瞥してから、ファーガスは庭先に咲き誇る青い花へ視線を投げた。
息子が心奪われた女性は、あの花のように凛として潔い女だった。この国では冬の野に咲く花だ。正式な名前はあるのだろうが、巷では専ら【春待ち草】と呼ばれていた。冬の終わりに最盛期を迎える花で、春を告げる【先触れの花】としても知られていた。この花が咲くと人々は心を躍らせるのだ。もうすぐ春が来ると。灰色に沈みがちな風景の中で、その花が描き出す淡い青色は、明るい未来への希望の光のようにも見えた。
控え目な程の可憐な小さな花だ。春ではなく、夏でもなく、秋でもなく、敢えて過酷な寒さの厳しい時期に花を咲かせる。息子が選んだ女は、あの花のように小さくとも逞しい立派な女性だとファーガスは思った。誰かの言いなりになるのではなく、自らの力で考え、そして進むべき道を切り開いて行く。内に秘めた強さには、初めて言葉を交わした時に気が付いていた。
高い素養を開花させ、今回、晴れて術師の試験に合格した。優秀な人間はこの国では貴重な人材だ。神殿の方は、性別からして無理だとしても軍や養成所の方ではその去就に注目をするだろう。
安穏とした温室育ちの同じ貴族階級の娘では、ユルスナールのような最前線できつい任務を全うしようとする軍人の妻は務まらないだろう。あの女が息子の傍に並んで立ち、支えてくれるのであれば、それはとても心強いに違いない。
だが、肝心の息子はその相手の心をしっかりと捕まえることができるのだろうか。
ファーガスの脳裏には、悟り切ったように静かに微笑む聡明さの片鱗を覗かせた女の横顔が浮かんでいた。武芸大会で息子が古式に則り申し込みをしたという話はファーガスの耳にも届いていたが、その場で色良い返事をもらえなかったらしいことも伝わって来ていた。
慕っている男はいるが、その男と一緒になれるとは思っていない。冷静に、いや、冷酷な程に己が立場を突き離して明確にし、その立ち位置を模索していた。想いだけではどうにもならないことがある。そう言って、どこか老成したような表情で少し哀しそうに微笑んだ黒い瞳が頭から離れなかった。
「ルスラン、後は、お前次第だ」
ファーガスはゆっくり身体を反転させるとバルコニーに背中を預けた。
真剣な眼差しで息子を見つめた父にユルスナールはその言葉の意味を噛み締めるように胸内で反芻した。
「まだリョウからは色良い返事をもらえていないのだろう?」
父からの鋭い指摘にユルスナールは途端に苦い顔をした。だが、それを直ぐに改めて、ふてぶてしいまでの顔付きで言い放った。
「父上、私はあなたに似て諦めが悪いですからね。欲しいものは必ず手に入れてみせますよ」
「ハハ。そうか」
いつの間にか男らしい顔付きになった末息子に父は時の流れを身に沁みて感じながらも満更でもない顔をして笑った。
「精々、張り切り過ぎて嫌われぬようにな」
「勿論ですよ。その辺りの加減はちゃんと心得ています」
―――――ならばよい。
大口を叩いた息子の背中を父は思い切り張り倒した。父からの一風変わった、だが、実に軍人らしい激励にユルスナールは顔を顰めながらもどこか嬉しそうにしていた。
そして、先に室内へと戻ってゆく父の年経ても変わらぬ大きな背中をユルスナールはじっと眺めた。幼い頃から、ずっとあの大きな背中を目標にしてきた。あの父の背中を越えられる日は来るのだろうか。不意にそのようなことが頭を過った。
室内に戻った父は、先程と同じように母親の隣に腰を下ろした。母は明るい表情を浮かべながら父に話しかけていた。それをいつもと変わらぬ柔しい微笑みで見つめる父。二人は息子の目から見てもむず痒くなるくらい幾つになっても仲睦まじかった。
自分にもあのような幸せな家庭を築くことができるのだろうか。己が愛する女と共に。
「ルスラン!」
一人、バルコニーに残ったユルスナールに窓の所から声が掛かった。たっぷりとしたスカートを翻しながらゆったりとした足取りでやって来るのは、優しい微笑みを浮かべた美しい女だった。
血色の良い肌に引き締まった腰。無駄な贅肉の付いていない、だが、柔らかく魅惑的な肢体をその簡素な女物の服の中に隠して。華奢で脆くも見えるその肉体が、想像以上にしなやかで強靭であることをユルスナールは知っていた。そして、穏やかに微笑むその女がとても芯の強い人であることを知っていた。
自分の何を犠牲にしてもいい。その愛する人を失いたくはなかった。父親の言う通り、今後、思い描いた幸せを手に入れられるかどうかは、きっとこの己の手に掛かっているのだろう。
バルコニーのこちら側にやって来たリョウにユルスナールは手を伸ばした。
「リョウ」
もうこれまでに幾度となく口にして耳に馴染んだその響きを、掛け替えのない大切な名を、含むように舌先に転がした。
差し出された剣だこのあるごつごつとした大きな手に少しかさついた小さな手が乗った。その手をしっかりを握り締めて。ユルスナールは、ゆっくりとその手を引き寄せると華奢な身体を腕の中に抱き締めた。
「ルスラン? どうしたんですか?」
何も言わず、ただ自分を抱き締めた男にリョウは大人しく腕の中に収まりながらも怪訝そうな声を上げた。
無言のまま、抱き締める腕に力が入った。リョウは同じように男の背中に手を回すとそっと顔を上げた。小さく傾いだ首の角度に合わせて、癖の無い黒髪が滑るように流れた。ふわりと甘やかな覚えのある香りが微かにユルスナールの鼻先を掠めた。
「リョウ」
もう一度、ユルスナールはその唯一の固有名詞を紡いだ。
再び名前を呼ばれて、リョウは男の真意を測るように静かに相手の顔を見つめた。見上げた先、深い青さを秘めた瑠璃色にもう一人の顔が映り込んでいた。そこにあるいつもとは違う色合いに見惚れているうちに、近づいてきた男の顔が傾いて僅かに残っていた距離が消えた。
条件反射のように目を閉じていた。そうして下りて来たのは、そっと羽のように優しい、まるで許しを乞うかのような口付けだった。
「あら、あなた、ルーシャは?」
外に出たきり、中々に戻ってこない末息子の行方を尋ねた妻に父親であり夫でもある男は、意味あり気に目配せをして窓の外を指示した。
夕闇が迫る赤焼けに染まった庭先に二つの影が寄り添うように立っていた。遠目に見る末息子の横顔には、初めて見るような男らしくも優しい色が橙色に滲んでいた。
何事かを耳元に囁き、それに隣に立つ人物が小さく肩を震わせる。そうして笑い合う二人の姿は、とても自然で似つかわしく見えた。
「まぁ。いつの間にか、あんな顔をするようになったのねぇ」
これまでの長くも短くもあった年月に思いを馳せながら母親はしみじみと口にしていた。
「あの子にも一足先に春が来たということかしら」
「ああ。そうかもしれないな」
小さな呟きには、手塩にかけて愛しみ育てた息子が愛する人に巡り合えたという喜ばしさに混じり、その息子が、いつの間にかこの手を離れてしまったという一抹の寂しさのようなものが含まれていた。
夫は妻の傍に寄り添うとそっとその肩を抱いた。そして、新しい恋人たちの輪郭に心の中で過ぎ去った年月を重ねたのだった。
コメディー調で始めた予定が、しんみりとしてしまいました。
次回は、短編集のInsomnia の方に脱線するかもしれません。