千客万来の一日 1)
―――――閣下……!?
淀みない口上を述べた後、ゆっくりと顔を上げたその女は、円らな瞳を見開いて心底驚いた顔をしていた。特徴的な黒い髪が、さらりと吹き込む風に揺れた。深い闇を閉じ込めたような双眸は静寂なる光を湛え、木漏れ日のように密かに輝いて見えた。
それを真正面から捉えた男は、たっぷりとした豊かな顎髭を撫で摩りながら、してやったりというようにほくそ笑んだ。男の隣には、長年連れ添った妻が静かに座し、『ああ。また悪い癖が始まった』と夫のちょっとした悪戯に呆れながらも優雅に茶器を傾けていた。
「リョウ? そんなに驚くようなことか?」
その場で固まったまま立ち尽くした相手にこの家の主である男は、からかうような笑みを浮かべていた。
生成り色のたっぷりとした生地を使った簡素な女物の服を着たその女は、俄かに我に返ると、
「これは失礼いたしました」
薄らとその口元に笑みを刷きながら流れるような所作で小さく礼を取った。
良く考えてみれば、それは軍部の人間が上官に対して行うような武ばった敬礼で、女物の服を着た見るからに普通の女性が行うには些か違和感があったのだが、主はそのようなことは気に留めなかった。寧ろ、それだけこの女性が軍人のしきたりに通じていることを実に興味深く思ったのだった。
「私とアレはよく似ているだろう?」
「そう……かもしれませんね」
目が合えば、髭で覆われた口元が薄く弧を描いた。それに対し、その女は苦笑ともとれるような曖昧な笑みを浮かべながら小首を傾げたのだった。
かねがねこの家の主に滞在の挨拶をしたいと申し出ていたリョウの願いは、その日、叶えられることになった。体調も良くなり、顔の痣も消えたので人に会っても恥ずかしくないくらいになったということも大きいだろう。
息子の一存とはいえ、余所者を屋敷内に入れていたのだ。執事やユルスナールを通じて、話が行っているだろうとは思っていたが、礼義的にそこを素道りする訳にはいかなかった。
迷惑を掛けたことを詫び、一室を間借りしていたこと、丁寧な看病を受けたことを感謝する積りだった。
この家の主は、家督を長男に譲り第一線からは退いてはいたが、それなりに充実した日々を送っているようだ。リョウが滞在中には色々と用事があり、中々自由な時間が取れなかった。そして、この日、久し振りに一日在宅とのことで目通りの時間が取れるという言葉をポリーナ経由でもらったのだ。
この家の旦那様と奥方様はどのような人か。リョウがその問いを口にしなくともおしゃべり好きのポリーナが、例によって自発的に色々と話をしてくれたお陰で、大体の輪郭は知ることができた。何と言ってもユルスナールの両親だ。以前、宮殿内で出会った二人の兄たちは気さくな人たちだった。そこから想像するに、その二親も立派な人たちなのだろう。厳しくも優しく慈愛に満ちた人たちではないだろうか。
ユルスナールの家は、代々軍人を輩出する家で、その歴史もこの国と同じくらい古いものであるという。そこでリョウは、この国には東西南北の方位を司る名家と目される一族があることを知った。其々将軍を輩出する国防の要を担う一族で、名家は其々守護する方位をその家名の中に入れているらしい。【北】のシビリークス、【南】のナユーグ、【東】のボストークニ、【西】のザパドニークの四つだ。
その講釈をポリーナから改めて聞いた時、リョウはもしかしなくとも聞き覚えのある名字に複雑な顔をした。ブコバル、ドーリン、レオニード、そして、ユルスナール。指折り数えて自分が良く知る男たちの顔が直ぐに浮かんだ。
ブコバルはともかく、皆、貴族でもかなりいい所の出なのだろうとは踏んでいたが、自分のその認識はまだまだ甘かったかも知れないとリョウは今更ながらに痛感したのだった。国を代表する名家ということは一般庶民にとってはまさに雲の上の人々だろう。ユルスナールもブコバルも普段から上流階級であることを鼻に掛けたりはしなかったのでつい忘れてしまいがちだが、武芸大会での若い娘たちや若者たちの熱狂ぶりを思い起こせば、両者が共においそれと近づくことの出来ない相手であることが理解出来た。
リョウは、その日もポリーナの娘のお下がりの服を着ていた。飾り気のない実用性重視のワンピースだ。スカートは踝の少し上まである丈の長いたっぷりとしたもので、脇を共布で後ろに縛るような形になっているので腰回りは調整ができた。
手櫛で整えていただけの髪にもしっかりと櫛を入れた。ここでは髪は束ねることなく垂らしたままにしていた。リョウは、最初わずらわしいかと思ったのだが、ポリーナにその方がよいと言われて、そのままにしていたのだ。靴も編上げの【バチンキ】を借りた。少しくすんだ色合いの生成り色のワンピースは、リョウの髪の色と瞳の色に映えた。こうして屋敷内には、少し毛色の変わった女が一人、誕生していたのだ。
そうしていると本当にお伽噺の中の【夜の精】のようだとうっとりとした表情でポリーナに言われて、リョウは何とも言えない気分を味わいつつ苦笑を漏らしていた。
というのも、自分がこれまでに読んだ物語から受けた印象では、【夜の精】は可憐でとても儚い存在だったからだ。通常、人とは交わることのない闇の世界の住人。大気の精霊や風の精霊、光の精や水の精と同じように【ここ】に実在するのだが、人にとっては触れることの出来ない透明な存在だ。そこから考えると自分のように高らかに笑い、カッパ、ラムダの二頭の番犬と庭先を走り回る姿はどうにも重ならなかった。
身支度を整えるとポリーナに先導される形で、広い邸宅内の廊下を歩いて行った。初めてこの屋敷の外観を遠目に見た時も、その桁外れの大きさに驚いたものだが、中は、その予想を裏切ることなく一見単純なようで複雑に入り組んでいた。リョウが知るのは静養している一室とそこから中庭へと通じる通路のみ。一人だけではきっと迷子になるだろう。室内の装飾が統一され似通っている所為か、暫く歩いているとどこがどこだかすっかり分からなくなってしまった。
歩みに合わせて左右に揺れるポリーナのふくよかな臀部とそこから垂れ下がる前掛けの蝶々結びになった白い紐を眺めながら、リョウは静々と廊下を歩いた。途中、カッパとラムダの二頭がやって来て、主人に挨拶をするのだと言えば、何故か『ならば、儂らも同行しよう』と付いて来た。
そうして辿りついた先は、広い応接間のような一室だった。庭先に面したテラスのような場所には、大きく開けられた解放感溢れる窓の向こうにテーブルと椅子が並んでいて、入口に背を向ける形で二人の男女が腰を下ろしていた。
リョウは入り口付近で一旦立ち止まると、そっと目を伏せてポリーナの取り次ぎを待った。
ここに来る前にこの国に於ける貴人に対する一般的な礼儀作法をポリーナに教わった。付け焼刃程度のものだが、礼を失しないようにするためには知らないよりはましだ。緊張に身体が強張りそうになる中、挨拶の手順を胸内で反芻した。
身分ある人に接する時、女性は相手の許しがあるまではその顔を真正面から見つめてはならない。そして、相手から話し掛けられるまでは声を発してはいけない。そういった暗黙の了解的な決まり事が多々あった。
戸口で立ち止まったリョウは、ポリーナが主に話しかけるのを息を潜めて待っていた。
日差しが燦々と降り注ぐ庭先は眩しい程で、逆光のようにそこにある男女の輪郭をぼやけさせていた。
一緒に付いてきたカッパとラムダの二頭は、主の方には行かずにリョウの両側にまるで衛兵のように控えていた。
リョウは二頭の白い毛でおおわれた頭部をそっと撫でた。極度に高まりそうになる緊張を紛らわす為でもあった。
やがてポリーナの取り次ぎに夫人の方がゆっくりと振り返る。そこでリョウの傍にいた二頭の姿を見て上品に笑ったようだった。
「まぁ、あなた。カッパとラムダがすっかり懐いているわ」
少し低めの柔らかな声だった。その声に主が同じように振り返る。
「おやおや。我らが男どもはすっかり骨抜きのようだな」
「まぁ」
忍び笑いのように小さく漏れた男の声音にリョウは何故か聞き覚えがあった。
「リョウ、こちらが旦那さまと奥さまですよ」
ポリーナの声にリョウは淑女の礼に則り、小さく膝を折り曲げると目を伏せたまま、これまで何度も頭の中で復唱していた言葉を述べた。
「お初にお目に掛かります。リョウと申します。この度は、こちらに御厄介になりまして並々ならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございます。ご挨拶が遅れましたこと、どうかお許しください」
自分の中での最大限の敬意を持って堅苦しい最上級の言葉使いで挨拶の口上を述べれば、少し先で空気が揺らいだ。
『ふふふ』と奥方の方から忍び笑いのようなものが漏れた。
「リョウ、そのように畏まらなくともよい」
―――――面を上げよ。
聞き覚えのある深みのある掠れた声音にリョウはゆっくりと伏せていた目を上げた。そして、そこにある男の姿に息を飲んだ。
「あ…なたは……」
円らな黒い瞳がこれでもかというように見開かれていた。
「あの時の……」
知らず、リョウの声は掠れていた。
たっぷりとした髭で覆われた端正な中にも男らしさを窺わせる顔立ちの初老の男。年経ても尚、貫禄ある体つきに顔に刻まれた皺までもが匂い立つような男の色気を醸し出していた。
自分が良く知る男と同じ銀色の髪に深い青さを湛えた瑠璃色の瞳が細められ、男はどこか愉快そうに微笑んでいた。
それはリョウが術師の最終試験を受けた直後に宮殿区画内の中庭のような所にあるベンチで暫し言葉を交わした御人だった。
不意にその時の会話を思い出し、リョウは赤面した。何ということだろう。あの時の御人が、ユルスナールの父親であったとは。知らなかったとはいえ、その外見的特徴から気が付いても良さそうなものだ。ぼんやりとしていた自分に今更ながらに呆れた。
あの時に仄めかされた息子の話。そして、自分が語った恋の話。バラバラになった欠片が急に集まりだして一つの情景を描き出そうとしていた。
まさか、この御人はあの時からユルスナールと自分の関係を知っていたのだろうか。それを知らずに随分とあけすけに本心を吐露していたような気がする。それを思うと込上げてくる羞恥に居た堪れなくなった。
青くなったり赤くなったり、忙しなく様変わりするリョウの顔を見て、シビリークス家の家長、ファーガスとその妻、アレクサーンドラは、可笑しそうに互いの顔を見交わせた。
救いの手を差し伸べてくれたのは、奥方の方だった。
「リョウと言ったかしら? どうぞこちらにいらしてちょうだい。顔を良く見せて」
リョウは弾かれるように顔を上げると差し伸ばされた奥方の細くて白い手に引き寄せられるようにその年配の婦人の元へと歩み寄った。
緩く波打った明るい茶色の髪に春の空のような淡い水色の瞳。既視感を覚えた顔立ちにユルスナールの次兄であるケリーガルの姿が浮かんだ。きっと次兄は母親の形質をよく引き継いでいるのだろう。
奥方は上品な女だった。落ち着いた雰囲気の中にも小さな光を湛えた瞳が聡明さと少女のような天真爛漫さを覗かせている。三人の息子たちを産み育てたとは思えないようなどこか浮世離れした空気が感じられた。
リョウは椅子を勧められて、奥方の隣に座った。
触れた手は、労働とは無縁の柔らかで傷一つない滑らかなものだった。指先が少し冷たい。その中指には、強い青みを帯びた鮮やかな色の【キコウ石】、【カラレェーヴァ】が存在を主張するように鈍い光を湛えていた。
不意にリョウは、薬草ばかりいじっている自分の手が、酷くかさついていてみっともないような気がして恥ずかしくなってしまった。そんなささやかな心の動きに自分がまだまだ女であることを捨てていないことが分かって、なんだか可笑しかった。
裕福な貴族の奥方と比べる方が間違っているのだ。そもそも住む世界が違うのだから。それは自分とユルスナールの間に横たわる見えない壁を浮き彫りにさせる小さな、だが、非情な現実でもあった。
どうやら二人は夫婦水入らずでお茶をしていたようだ。テラスに設置されたテーブルの上には飲みかけの茶器が置かれ、その傍らにはお茶受けの焼き菓子が添えられていた。
午後の日差しが燦々と差し込むこの場所はとても温かかった。
「あなたのことは息子たちから聞いているわ」
そう言って意味あり気に目配せをした奥方にリョウは内心、ドキリとした。一体、どんな話がなされていたのだろうかと恐々としていれば、
「本当に瞳も髪も真っ黒なのね。吸い込まれてしまいそうだわ」
奥方のアレクサーンドラは、そのほっそりとした手をリョウの頬に当てると覗きこむように顔を近づけた。
不意に縮まった距離に息が詰まりそうになったが、これもある意味、お馴染みの光景ではあったので慌てたりはしなかった。
リョウは大人しくしていた。目の端に笑い皺が寄る。年を重ねても尚、その頬は艶やかであった。滑らかな繊細な手が、今度は垂らしたままになっている髪を梳いた。
「ふふふ。本当にさらさらしているのね。不思議だわ。まるで【ノーチ】の糸を束ねたみたい」
【ノーチ】というのは、この国では専ら高級な服地に使われる糸だった。独特の光沢を持ち、色の染まりも良いという。女たちが行う刺繍にも使われるものだ。
そうこうするうちにポリーナがお茶のお代わりを持ってやって来た。リョウの前には新しい茶器を置き、ファーガスとアレクサーンドラの方にはお茶を注ぎ足した。
「お話しが弾んでおられるようですね」
ポリーナの言葉に奥方が嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。ルーシャったら、酷いわ。こんなに可愛らしい方を隠しておくんですもの」
「あれは昔から大事なものほど大切にしまいこんでおくからな。お気に入りの玩具を取られまいと必死な幼子のようだ」
どれだけ脳内で時を遡らせたのか、父親のファーガスが己が息子の性格をそう評した。
「まぁ。そんな所はあなたにそっくりだわ」
「そうか? 私はあそこまで頑なではなかろう? なぁ、リョウ?」
「……どうでしょうか?」
いきなり話を振られたリョウは、突然のことに目を瞬かせながらも曖昧に微笑むに留めた。そのような問いに答えられるほど、リョウは父親のファーガスのことを知らなかったからだ。
それから、流れでお茶を一緒にすることになった。テラスは広い中庭に面した一角で、手入れの行き届いた庭木の中に滞在している部屋の窓からも見えた青い小さな花が点々と咲いているのが見て取れた。
「もう身体の具合は良いのか?」
主の言葉にリョウは小さく頷いた。
「はい。ポリーナさんのお陰ですっかり良くなりました。突然、こちらに御厄介になりましてご迷惑をお掛けいたしました」
明日にでも養成所の学生寮の方へ戻ろうと思っている。そう口にしたリョウに奥方があからさまに残念そうな声を上げた。
「まぁ、もっとゆっくりしていらっしゃい。まだ一緒に食事もしていないわ。折角ですもの。ねぇ、あなた?」
お邪魔をしているという自覚はあったので早々に寮へ戻る積りでいたのだが、反対に引き留められてしまった。奥方はかなり寛容な方のようだ。
だが、リョウとしてはユルスナールの優しさに甘え、長く逗留し過ぎたと思っていたのでそういう訳にはいかなかった。
「いえ。お気持ちは大変ありがたいのですが……」
リョウは逡巡するように困った顔をした。
「養成所の授業は全てこなしたのだろう?」
前回、初めて会った時に試験を終えた直後であったことをファーガスは覚えていたようだ。
「そう言えば、先程レヌートが来ていただろう?」
どうやらレヌートは帰り際、主であるファーガスの元にも顔を出したようだった。
「はい。養成所の方は全て修了致しました」
それから、先程、レヌートより試験の合格通知を貰ったばかりなのだとつい嬉しくて、高揚のままに顔を綻ばせた。
「そうか。それは重畳。良かったな。おめでとう」
厳格な中にも温かみのある声音でファーガスが言った。
「ありがとうございます」
リョウも満面の笑みを浮かべていた。
「まぁ! では、あなたは術師なのね? 素晴らしいわ。合格ならお祝いをしなくては。ねぇ?」
両手を胸元で合わせて、俄然張り切り出した奥方にリョウは驚くと共に少々狼狽した。
「いえ。お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
まだ正式な登録を済ませていないのだ。そのことも含めて一度、養成所の方に戻らなくてはならなかった。だから、これ以上ここで厄介になる訳にはいかない。
そう固辞したリョウに、だが、主のファーガスは思いも寄らないことを言い放った。
「役所ならばここからでも十分近い。それに向こうは既に引き払ったと言っていたぞ?」
「は……い…?」
引き払ったとは何のことだろうか。言葉の意味が分からずにまじまじと精悍さと重ねた年齢により渋みの増した主の顔を見遣れば、
「おや、ルスランは伝えていなかったか?」
太い眉を上げて、少々気まずそうに視線を逸らした。
「何をですか?」
ファーガスの話では、ユルスナールは学生寮の一室にあるリョウの荷物を全てこちらに移すように手配をしたとのことだった。
寝耳に水の話にリョウは酷く驚いた。今朝、出掛け際に送り出した時、ユルスナールはそのようなことには一言も触れなかった。
自分に黙って荷物を移動させたというのか。何の為に? ここでの滞在が長引いた為、不便さを感じないようにとのユルスナールなりの配慮なのだろうか。
困惑に思考が止まってしまったリョウを尻目に奥方のアレクサーンドラは、
「まぁ、ルーシャったら。いつになく積極的なのね」
と何故か見当違いの呑気な声で含み笑いをした。奥方は究極に我が道を行く性質なのだろう。そういう所は、いかにも貴族の女のように思えた。
ファーガスは昨晩偶々耳にした息子の腹積もりを漏らしてしまったことを内心、不味かったかと思ったが、口にしてしまったものは仕方がない。
もしかしたら秘密裏に事を運んで、相手を驚かせようと思ったのかも知れなかった。それは、根回しを念入りに行い慎重さを大事とする息子には珍しいことだった。どうもこの娘に関することでは、理性よりも感情が先走るきらいがあるようだ。だが、それも息子の人間臭く若者らしい一面のように思えて微笑ましかった。
「いずれにせよ。リョウ、お前がこの屋敷にいるのに異存はない。部屋なら幾らでも余っているからな。この際だ、ゆっくりして行けばいい」
―――――歓迎する。
ファーガスはこの家の主らしくどっしりとした趣でそう締め括ったのだった。
そして、付け足すように末息子は昔から慎重な性質だから悪いようにはしないだろうと言った。
それは、父親なりの優しさなのかもしれなかった。身内に対する甘さと言えなくもないだろう。
リョウは自分の関知しない所で勝手に話を進められたことを少し腹立たしく感じたが、とにかく後で当のユルスナール本人に訊いてみようと思った。
そうして、シビリークス夫妻と予想以上に和やかな一時を過ごしていると、部屋の中にこの家の内向き全てを取り仕切る執事の男が現れた。所々髪に白いものが混じる初老の執事は、慇懃な態度で主の元にやって来ると身体を屈めて小さく耳打ちをした。
執事が再び背筋を伸ばした所で、ファーガスがリョウの方を向いた。
「リョウ、お前に客人があるらしい」
お客という言葉にリョウは首を傾げた。
「ワタシに…ですか? どなたでしょうか?」
リョウがシビリークス家に滞在していることを知る人たちの中で、ユルスナールの留守中、レヌート以外にこの場所を態々訪ねて来るような人物は思い当たなかった。第七関係ならば伝令か、若しくはユルスナールが直接言伝を寄越すだろう。
主以上に感情の乗らない能面のような顔を張り付けた初老の男は、リョウの問い掛けに丁寧な所作で一礼すると、軍部の第五師団・団長とその部下二名が見舞いに訪ねて来たと言った。
「ドーリンさんですか?」
「はい」
「ワタシにですか?」
「はい」
ユルスナールがまだ帰ってきていないのにどういう訳だろうか。ユルスナールを間に挟むならともかく、ドーリン自身が直接自分の元を訪れるのは、リョウにとっては不可解に思えた。
内心首を傾げたリョウの隣で、ファーガスは椅子の背もたれに身体を預けながら茶器を傾けつつ緩慢な動作で軽く片手を振った。
「ふむ。ドーリャか」
主から発せられたドーリンの愛称に思わず飲んでいたお茶を吹き零しそうになった。
「折角だからここに通せ」
主の一声で、客間で待つという客人たちがこちらにやって来ることになった。
前回のレヌートの訪問と同じ日の出来事です。とうとうユルスナールのご両親とご対面となりました。久々のほのぼのモードは暫く続く予定です。それではまた次回にお会いいたしましょう。