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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
178/232

静養の一日


 秘密裏に持たれた同僚たちの会合から更に三日後、シビリークス家に滞在していたリョウは、漸く熱も下がり、少しずつだが食事も喉を通るようになっていた。

 高熱を出して寝込んだのは久し振りのことだった。約三月ほど前のプラミィーシュレ滞在中以来ではないだろうか。だが、あの時は打ち身に良く効くとされる薬草の成分が身体に行き渡った為という外因性のことで、今回のように自発的に風邪のような症状を起こして熱が出たのは本当に久々だった。

 症状が快方に向かったのには、術師が処方してくれた薬蕩が効いたということもあるのだろうが、常に付きっきりで看病に当たってくれた存在があったからだろう。心細い思いをしなくて済んだのが大きかったかもしれない。

「まぁ、リョウ。起き上って大丈夫なの?」

 ふっくらした丸顔の中に行儀よく収まった円らな灰色の瞳を大きく見開いて、一人の恰幅の良い女性が部屋の扉を開くと軽やかな声を上げた。

 この女性の名はポリーナという。シビリークス家に仕える使用人で術師でもあるのだそうだ。とうの昔に成人した息子と娘が一人ずついる母親でもあった。そして、リョウがこちらに移送されてから、熱にうなされている間もずっと傍にいてくれた(ひと)だった。


 この日、リョウは寝台から起き上ると部屋の中を歩いてみた。顔を洗いさっぱりとした気分になってから、窓を少し開けた。長い間、寝込んでいた時特有の立ち眩みがあり、足どりが少々覚束なかったが、ふらふらとしながらも窓辺に近づいた。

 あの日、【アルセナール】の一室で冷え切った体を温めたことまではちゃんと覚えていたのだが、その夜に熱が出てからのことは記憶が曖昧だった。体中がかっかと熱くて息をするのも苦しい程で浅い眠りを繰り返した。ユルスナールに場所を移動すると言われた時も半ば夢現の状態だった。

 術師を目指している者が、聞いて呆れる。普段、このような時の為に自分でも薬草を見繕って持ってきていたのだが、肝心な時にそれらが手元になかった。多分、色々なものと一緒に第二の団長室に置きっ放しなのかもしれない。簡素なテーブルの上に並んだあの薬類は、その後どうなったのであろうか。鑑定に回されたのか、それともそのままなのか。いずれにせよリョウにとっては大事な品ばかりで、あの古ぼけた鞄共々早く自分の手元に戻って来ることを願わずにはいられなかった。


 それにしてもえらい目に遭った。四日ほど前のことを思い出して、リョウは複雑な気分になった。あのまま下手をしたら殺されていたかもしれなかった。あのように強い怒りと憎しみを真正面からまともにぶつけられたのは初めてのことで、生きた心地がしなかった。

 後にあれは錯綜した情報による混乱が招いたちょっとした誤解ということで、自分に掛けられていた嫌疑は一先ず晴れたようだったが、その安堵感を差し引いても、苦い記憶が頭の片隅にこびりつくようにして残っていた。

 本当にあの時の相手の激情を思えば、今は五体満足でいられることが有り難かった。所々、あの暴走した兵士から受けた傷が痛みを訴えてはいるが、これはやがて癒えるだろう。

 思い返せば、これまでなにかと面倒なことに巻き込まれては来たが、中でもあの激高した兵士から植えつけられた恐怖は、中々消えそうにはなかった。

 それでもいつまでも引きずっていては仕方がない。リョウは少し前の恐怖を敢えて封印するように心の中に押し留めた。


 そうして、ゆっくりと窓の外へ目をやった。そよぐ風が微かに吹き込んでくる。朝特有の湿気を含んだ清冽な空気をゆっくりと吸い込んだ。

 草と土の青くほんのりと甘い匂い。鳥のさえずりが聞こえてくる。

 そこからの景色は、リョウにとっては見慣れないものだった。裏庭のような広い開けた空間を囲むように大きな木々が立派な枝ぶりを伸ばしていた。何の花だろうか。名前は知らないが、青い色をした小振りの花がたわわに咲き誇っていた。


 この場所はユルスナールの実家、シビリークス本家の一室だった。目に映る調度類は洗練された優美なもので、いやらしい派手さや華美さはない。全てが調和したしっとりと落ち着きのあるもので、この家の気風をよく表わしていると感じた。

 まさか再びこの場所を訪れることになろうとは。初めて【アルセナール】に行った帰り、ユルスナールに連れられてこの場所を訪ねた時のことが、とても昔のことのように思えた。

 また、ユルスナールに迷惑を掛けてしまった。自分が窮地に陥った時、ユルスナールはいつもその手を差し伸べてくれた。そして、こうして今もあの男の優しさに助けられ、世話になっている。自分は甘えてばかりだ。

 そして、今まさに自分の身を案じてくれている恰幅の良い女性もユルスナールの優しさと心遣いの表れでもあった。


 部屋の中とはいえ、白い簡素な寝間着姿でうろうろとしていたのは不味かっただろうか。リョウはばつの悪さを誤魔化すようにして微笑みながら振り返った。

「おはようございます。ポリーナさん。大丈夫ですよ。もうすっかり」

「あらあら私ったら、朝の挨拶もまだだったわね」

 ポリーナは照れたように小さく笑うとリョウからの朝の挨拶に同じように返した。

「まぁまぁ、昨日までずっと寝たままだったのよ? 気分がいいのはいいことだけど余り無理をしてはいけないわ。まだ青い顔をしてる」

 そう相手を案じる言葉を口にして上品な笑みを浮かべているポリーナにリョウは擽ったそうに微笑んだ。

「そうですね」

 ようやく熱が下がったのは昨日のことで。それまでユルスナールにもこのポリーナにも散々心配を掛けてしまったことは分かっていたので、リョウは大人しく頷いた。

 ポリーナは寝台の枕辺に置かれていた肩掛け(ショール)を手に取るとそっと窓辺に歩み寄り、広げたそれをリョウの肩に掛けた。

「寒くはないかしら?」

 柔らかく保温性の高い肩掛け(ショール)の上から骨張った細い肩を温めるようにポリーナのふくよかな手が摩った。

 季節は冬の終わり。春はもうすぐ目の前にまで迫っていたが、まだまだ昼夜の寒暖の差は厳しかった。吹き込む風も冷たさを帯びている。

「ありがとうございます」

 リョウは肩に掛けられた上着の前を掻き合わせると開けていた窓をそっと閉じた。

 ポリーナが乱れていた黒髪をそっと手で梳いた。顔を洗った際に少し濡れてしまった所為か、所々湿り気を帯びていた。

「さぁ、朝ごはんにしましょう?」

 ―――――少しでも栄養のあるものを食べて早く元気にならなくっちゃ、ね?

 丸顔に浮かぶその優しい笑みは、リョウにはとても眩しく映った。

 ポリーナは多くを聞かなかった。幾ら主であるユルスナールの言い付けとはいえ、いきなり見ず知らずの女を看病しろと言われて驚いたのではないだろうか。

 だが、ポリーナはそのようなことはおくびには出さずに親身に接してくれた。まるで己が娘に対するかのように。

 おおらかで慈愛に満ちた温かな人だ。その姿にリョウはスフミ村にいるリューバを重ねていた。

 術師になる為に王都に行くことになった。そう告げた時、スフミ村のリューバは、初め驚いた顔をしたが、すぐに相好を崩した。王都の術師養成所で学ぶ機会を得たことを殊の外、喜んでくれたのだ。

 王都は様々な【知】が集まるこの国随一の大都市だ。いい機会だから色々なことを吸収してくればいい。そう言って背中を押してくれた。ふっくらとした温かな手で。その温もりを貰ってから、凡そ一月が経過していた。

「そうですね」

 リョウはそっと微笑みを返した。

「ええ。健康の基本は食事から。まずはちゃんと食べられるようにならなくっちゃ」

 それからポリーナはこの国の女性の例に漏れることなく、朗らかに歌うような旋律に乗せて、様々な言葉を紡いでいった。

 ポリーナの【(おしゃべり)】は続いていた。まるで小鳥のさえずりのように。甲高く強弱を付けて。

「そうして、ルーシャ坊ちゃんをあっと驚かせてあげるのよ」

 その思いつきは、かなりポリーナの気に入ったようだった。

「ええ。そうよ。それがいいわ。本当に。このお屋敷にお仕えしてもう大分経つけれども、ルーシャ坊ちゃんのあんなに必死な顔を初めて見たのよ?」

 『うふふふふ』―――そう言って鈴が鳴るように軽やかに笑った。

 あのユルスナールを【ルーシャ坊ちゃん】と呼ぶ。幼い頃はさぞかし可愛らしかったのだろうと思える男の子も、今や筋骨逞しい強面の男に成長していた。

 きっとポリーナは、それこそ赤ん坊の頃からユルスナールを知っていて、昔からの習慣は中々変えられないのだろうが、いい大人になった今でも親しみと慈愛を込めてルーシャと呼ぶ。そのような関係を内心微笑ましく思うと同時になんだか少し可笑しかった。自分の中にある現在のユルスナール像とルーシャという言葉から感じる幼さが重ならないからかもしれない。

 小さく含み笑いをしたリョウに、

「あら、どうかした?」

 何かおかしいことでもあったかしらとポリーナが不思議そうに小首を傾げた。ポリーナにとってはユルスナールをルーシャと呼ぶことは息をするのと同じように自然なことなのだ。

 年と共にふくよかになった首回り。そこに寄る皺さえも愛嬌あるポリーナのお茶目さを象る愛すべきもののように思えた。

「いえ」

「さぁどうぞ」

 リョウは小さく首を横に振るとテーブルの上に行儀よく並べられてゆく朝食を前に促されるようにして席に着いた。



 そうして消化によいとされている【カーシャ(おかゆ)】を食べ終え、保存用に作られた果物のシロップ煮(コンポート)に木の【ローシュカ(スプーン)】を入れている時だった。

 どこか忙しない感のある控え目なノックの後に扉が開き、中から銀色の頭部が見えたかと思うとリョウにとっては馴染み深い男の顔がひょっこり現れた。

「おはようございます。ルスラン」

「ああ。おはよう。気分はどうだ?」

 その口元に小さな笑みを浮かべながら挨拶を返し、室内につかつかと足を踏み入れたユルスナールは、リョウの傍に来るとその顔色を良く確かめようと覗きこんだ。

 額に手を当てて火照りがないことを確認すると薄い唇が更に弧を描いた。

「熱もすっかり下がったな」

「はい。お陰さまで。ありがとうございまず」

 額に当てられていた手がそのまま頬を撫で、まだ少し変色の残る打ち身の跡に触れた。

「腫れも大分引いてきたでしょう?」

 無意識だろう。微かに顰められる眉にリョウは明るい声を上げていた。

「まだちょっと見苦しい感じで痣が残ってますけど、これもあと数日もすれば消えると思います」

 ――――――何と言ってもポリーナさんの薬は良く効きますから。

 そう言って微笑んだリョウにユルスナールも笑みを浮かべた。

「そうだな」

 頬にあったユルスナールの手がそのまま首筋に下りた。そこで何を思ったのかユルスナールは小さく笑うと上体を屈め、リョウの右側の唇の端を舐めた。

「甘いな」

 ぽつりとそんな呟きが漏れた。

「あ……れ…付いてました?」

 リョウは、まだ男の唇の感触が残る辺りを指で触れた。

 ちょうどデザートとして出された【グルーシャ(梨に似た果物)】のシロップ煮を食べていた所だった。保存目的と栄養価を高める為なのだろうが、恐ろしく甘かったのだ。煮詰めたシロップが口の端に付いていたのかもしれない。

 だからと言って何も舐めとることはないだろうに。

「教えてくれれば自分で拭いたのに」

 そう言ったリョウの鼻先で、ユルスナールは飄々と嘯いた。

「味見だ」

「……もう」

 そうして再び離れたかに見えた男の硬質な顔が近づいて来たかと思った時だった。

 唇が触れ合うほんの少し手前で、再びガチャリと部屋の扉が開いた。

「まぁまぁ、ルーシャ坊ちゃま。まだお食事も済まないうちから、お部屋にお入りになるなんて」

 ポリーナが目を丸くして中にいるユルスナールを窘めた。

「硬いことを言うな、ポーリャ」

「このように軽々しく若い女性のお部屋にお入りになってはいけません。私はそのようにお育てした覚えはございませんよ?」

 部屋に入って来るなり早々、眉を顰めて説教染みたことを言い始めたポリーナにユルスナールは、ぐっと押し黙ったかと思ったのだが、

「ポーリャ、そう朝からカリカリするな。リョウが吃驚するだろう?」

 話の矛先を逸らすようにリョウのことを挙げてから、何やら意味深な目配せをした。

「それにリョウとはそのような遠慮を挟む間ではない。なぁ?」

「……は…い?」

 ポリーナに向けていた顔を戻して、同意を求めるようにこちらを見たユルスナールにリョウは虚を突かれた顔をした。

 確かにユルスナールにしてみば今更かもしれない。リョウが世話を焼かれるのはいつものことで。

 これまでに具合の悪い時は付きっきりで看病をしてもらった。そして、情けない姿を散々晒してきたのだ。今更、寝間着姿に肩掛け(ショール)を羽織った体で片頬に痣が残っているような顔を見せるのも、恥ずかしくないと言ったら嘘になるが、ポリーナのように取り立てて騒ぐほどのことにも思えなかった。

 だが、まぁ、普通に考えて、独身の若い男が身支度の整っていない女の部屋に入るのは、褒められたものではないのだろう。特にユルスナールが身を置く貴族階級のしきたりでは。

 リョウがつらつらとそのようなことを考えている間に、

「まぁ! では本当ですのね?」

「ああ」

「まぁまぁ、それは素敵ですわ! ああ。でもルーシャ坊ちゃま。だからと言って最低限の礼儀は守って頂かなくてはなりませんわ」

「分かっている」

 ユルスナールとポリーナの間では何らかの意思疎通が図られていたようだった。

 先程までのしんなりと寄った眉からは一転、喜色さえ浮かべた輝かんばかりのポリーナの表情に、リョウは一人シロップ漬けを口に運びながら小首を傾げていた。

 それにしても甘い。甘いものは嫌いではなかったが、甘過ぎるものは苦手だった。べっとりと染み込んだ密度の濃い【サーハル(砂糖)】。こちらの人々の基準からみたら驚くほど食が細いリョウの為に苦心して拵えてくれたものだとは思うのだが、過ぎる甘さには閉口した。

 だが、量が食べられないのならば、質を高めるしかないということで。折角工夫して用意してくれたものを前にそのようなことを言える訳もなく、小さく刻みながらお茶を飲みつつ口に運んでいた。

 そして、最後の一口を食べ終えた所で、

「よし。全部食べたな」

 ちゃっかりと椅子に座り、いつの間にやらポリーナから出されたお茶を飲みながらユルスナールが満足そうにリョウを見ていた。

 往生際悪く小さく刻んだものを少しずつ口に運んでいた様子をつぶさに観察されていたかと思うと非常に居た堪れなかった。リョウは居心地が悪そうに視線を逸らした。

「……ルスラン。何だか…お父さんみたい」

 微妙な顔をしたリョウの傍で、

「あらまぁ、ルーシャ坊ちゃま。もうそんなお積りだなんて。まぁまぁ、どうしましょう? いやだわ」

 何故かポリーナがリョウのその言葉に過剰なまでに反応をして頬を赤らめる始末。

 リョウは目を白黒させた。

 付き合いの長いユルスナールにはポリーナの心の動き(早とちりとも言う)が直ぐに分かったようで、深々と呆れたような溜息を吐いた。

 訳が分からなかったリョウは『どうしたのだ?』と男の方を見たのだが、視線が合ったユルスナールは、『気にするな』と苦笑を滲ませた。

 まぁ、いいか。リョウは深くは気に留めないことにした。

 そして、話題を変えた。

「ルスラン。今日はお仕事ですか?」

 ユルスナールはいつぞやの正式な軍服を着こんでいた。光沢のある明るい灰色の生地のものだ。

「ああ。【アルセナール】にいる。何かあったら使いを寄越せ」

「はい」

 どこまでも過保護な男の申し出に苦笑を洩らしながらもリョウは素直に頷いていた。



「行ってらっしゃい」

 部屋の戸口まで見送りに立ったリョウにユルスナールは暫し、掛けられた言葉を噛みしめるように浸っていた。束の間の疑似的幸福にこうして見送られるのもいいものだと一人、頭の中では勝手な未来予想図を描き出していた。だが、当然のことながら相対しているリョウには、男が澄ました顔の下で、そのようなことを夢想しているなどとは分かるはずがなかった。

「出来るだけ早く帰って来る」

 まるで新婚家庭の夫のような言葉にリョウは苦笑した。

「無理はしないでください」

 ―――――大人しくしていますから。

「ではな。いい子にしていろよ?」

 そのような言葉を残して、ユルスナールは掠めるだけの口づけをリョウに与えるとやたらと上機嫌に半病人の部屋を後にしたのだった。

 そして、ゆっくりと振り返った先。部屋の中では、ポリーナが主の出立もそっちのけで相変わらず一人、何やらもの想いに耽っているようだった。すっかり自分の世界に入っているようで、しきりに指折り数えながら何やらぶつぶつと呟いていた。

 ―――――ああ。忙しくなるわぁ。

 そんな呟きが聞こえた気がしてリョウは益々首を捻った。




 午後からは、久し振りに湯を使いさっぱりとした。ここに来る際に着ていた服はどうなったのだろうかとポリーナに聞けば、運ばれて来た時から既に寝間着姿だったと笑われてしまった。そして、代わりにと言って差し出されたものは生成り色の女物の服(ワンピース)だった。

 それはポリーナの娘がその昔に着ていたものだという。お下がりで申し訳ないけれど、ちょうど合いそうな大きさのものが差し当たりそれしか見つからなかったのだと言った。

 リョウは有り難くその服を借りることにした。少しくすんだ柔らかな色。何度も洗濯を重ねた為か、硬さの取れた生地は肌に馴染んで心地よかった。

 それから【突っ掛け】のような【ターパチカ(サンダル)】を借りて、外に出ると暫し、日光浴をした。

 場所は中庭の片隅で柔らかい下草が生えている所だ。枯れて茶色になった古い草の下から、青い若葉が生え始めていた。

 春はもうすぐだ。ささやかな所でその息吹が感じられた。温められた地面は、ほんのりと熱を持ち、草の青い匂いを微かに立ち昇らせていた。

 リョウの傍には、カッパとラムダ、シビリークス家の二頭の番犬が寄り添い寝そべっていた。外に出たいと言ったリョウにポリーナは余りいい顔をしなかったのだが、ちょうど(タイミング)よく部屋の中に入って来た二頭を連れて行くならばと最終的に許可を出してくれた。まだまだ寒いのだから肩掛けを持ってゆくこと、そして、寒さを感じたら直ぐに室内に入ること、その二つをリョウに約束させた。


 大きな布を下草の上に広げて、その上でごろりと横になった。両脇には、ふかふかとした温かい白い毛皮。リョウから見て右側に寝そべっているのが兄のカッパで、左側に寝そべっているのが弟のラムダ。長い尻尾に混じる灰色の毛がラムダであることを知らしめていた。

(ぬく)いのう』

『ああ。(ぬく)い』

 左右から漏れるのんびりとした呟きにリョウはゆっくり目を閉じた。

 ああ。気持ちがいい。ぽかぽかとした暖かな日差しに適度なそよ風。両側からも温かな毛皮に挟まれて、このままうとうとと眠ってしまいそうだ。

 小鳥たちのさえずり。風の音。木々の梢が擦れる音。そこに微かに混じる――使用人たちだろうか――人の声。

 そして、まどろみの中、左右から聞こえる深みのある重低音。まるで子守歌のようだ。

『もうじき春じゃ』

『やや。既に春ぞ』

(たわ)け。まだ匂いだけであろうに』

『なれど、先触れはここかしこに』

『嵐が来ておらぬ。春の嵐が』

『ああ。そうじゃ。春の嵐は来ておらぬ』

 それは文字通り、春を告げる嵐だった。とても強い風が吹いて、叩きつけるような雨が雷鳴と共に降るのだ。空が俄かにかき曇り、稲妻が閃光となって大地を突き刺す。それは、来るべき春を歓迎する天と大地の喜びであると共に居残っていた冬の最後の抵抗のようにも思えた。そして熾烈な鍔迫り合いを重ねた後は、必ず春の勝利で幕を閉じる。その季節交代の一幕を描いたお伽噺が、この国にはあった。

 今年の春の始め、この嵐を迎えた時は、まだ一人ではなかった。もうすぐ一年。そしてその後は二年、三年と、時は加速をつけてこの身体の中で進んで行くのだろう。

 ああ。でも。先のことは分からない。己が魂に残された時間は、自分では計れないのだから。


「………春の神と冬の神は、共に数多もの(しもべ)を従え、静寂の平原に対峙した。遥か(いにしえ)より続く大地の儀式が始まる。見物に集まった神々は時の太鼓を打ち鳴らし、風の笛を吹く。エルドシアの地に高らかなる雄叫びが轟いた………」

『エルドシア創世記の一節か』

『テラ・ノーリ伝承の一節か』

 左右の声にリョウは閉じていた目を開けた。

「そう」

 印封に使われる古代文字、エルドシア語を習った際に、講師が引用した一節(テキスト)がその物語からの抜粋だった。冬から春に移り変わる時に起きる嵐の激しさを神々の戦いになぞらえたものだ。


 雲がゆっくりと蒼穹を走り、束の間の日光を遮った。リョウの身体の上にも暫し影が走った。あの天空ではきっと強い風が吹いているのだろう。天の風は、地のそれよりも強靭で逞しい。


 ザワリと大気が震えたと思った。何かに呼応するかのように。無言のまま、両端にいるカッパとラムダの耳がピンと立った。二頭が身体を起こした。その鼻先は共に同じ方向を向いていた。

 リョウもゆっくりと上体を起こした。そして、その目に入ってきた姿に顔を綻ばせていた。

「……セレブロ」

 悠々と堂々たる風情でこちらに向かって近づいてくるのは、うねるように光輝く純白の毛並みを持った大きな四足の獣だった。

「セレブロ」

 リョウは腕を伸ばすと(こうべ)を垂れた白銀の王の首に齧りついた。

『大事ないか?』

 左胸の上にある紋様が薄らと熱を持った気がした。

「うん。もう大丈夫。セレブロにも心配を掛けたね」

 多くの言葉は要らなかった。

 傍にいた二頭は長の登場に背筋を伸ばすように畏まった。

『これは長。ご尊顔を拝し奉り恐悦至極』

『お初にお目に掛かりまする』

『その(ほう)らは、シビリークスのものどもか』

「そう。カッパとラムダ」

 セレブロの問い掛けにリョウはその首に齧りついたまま微笑んだ。

『リョウが世話になっている』

『勿体なきお言葉』

『有り難きお言葉』

 平伏しそうな勢いで畏まった二頭にリョウは手を伸ばすと宥めるように首の辺りを撫でた。



 それからリョウはセレブロの腹部に凭れるようにして座り、上体を白くて長い毛の中に埋めた。

「ねぇ、セレブロ」

 リョウは滑らかな毛並みの感触を楽しみながら口にした。燦々と光を浴びた毛先は、透明な虹色の光を反射して銀色に輝いていた。

「あれから、【東の翁】は何か言ってた?」

 この問いは恐ろしくもあったが、ずっと気になっていたことでもあった。目を逸らしてはいけない現実だ。

 セレブロは王都に来て以来、あちらこちらに出掛けているようだった。その中でも神殿の【東の翁】の所には頻繁に顔を出しているらしかった。二、三日帰って来ないこともあったが、大抵夜は学生寮の一室に戻って来た。術師の最終試験が行われた朝、寮の一室で『行ってくる』と別れを告げた時も、緊張の為にか硬い表情をしていたリョウに『案ずるな。普段通りにこなせばよい』と励ましてくれたのだ。

 あれから色々あって、寮の自室には戻っていなかった。いつもとはあべこべの状況にセレブロには心配を掛けたやもしれない。

『いや』

 リョウの問い掛けにセレブロはそっと目を伏せた。そして、静かに言葉を継いだ。

『あれよりあやつは神殿最奥の黴臭い書庫に籠っておるが、未だ収穫はないようだ』

「……そう」

『済まぬ』

「どうしてセレブロが謝るの?」

 急に沈んだ声を出したセレブロをリョウは柔らかく微笑みながら笑い飛ばした。セレブロが気に病むことはないのだ。如何にこの地に長く生を受けていようとも、この世界の(ことわり)を完全に理解していることにはならない。それに自分は恐らく、ここの(ことわり)からは外れた存在だ。

 セレブロも【東の翁】も自分の為に態々貴重な時間を割いてくれている。それだけで十分だった。それにセレブロは自分に加護を与えてくれた。この誇り高き白銀の王と繋がる術をくれた。これ以上、何かを望むのは罰あたりだろう。

『試験は如何であった?』

「ああ。最初はすごく緊張したけれど、いつも通りに集中出来たとは思う。最後の方は雑談みたいな感じだったし」

 ずらりと居並ぶ五人の講師たちと二人の立ち会い人に囲まれた時は心臓が妙な具合に跳ねたが、それも初めのうちだけだった。

 それからリョウは、最後の方で若かりし頃のガルーシャが現れたことを語って聞かせた。

『そうか。結界が解かれたのだな』

「うん。なんかそのことで【アタマン】から伝令を受けたよ」

 あの後、大鷲のヴィーが来たことを話せば、

『そうか』

 全てを理解したようにセレブロは虹色に光輝く灰色の瞳を細めた。

「また、後で連絡をくれるんだって」

 セレブロは【アタマン】を知っているのだろうか。その問い掛けに、

『ああ。今の代の者には()うたことはないが、ガルーシャより話は聞いている。まぁ、我よりも【東の翁】の方が詳しかろうて』

「ふーん」

『それよりも。身体の方は大事ないか?』

 不意に向けられた鼻先をリョウはそっと撫でた。

「うん。熱も下がったし、今日から少しずつ食べてる」

 そうは言ってみたものの、セレブロにはきっとリョウの体調は筒抜けだろう。印封に似た模様の加護のお陰だ。まだまだ本調子には程遠い。

『そうか。時はたっぷりとある。心ゆくまで休めばよかろう』

 ―――――精々、あの小倅を扱き使えばよい。

 ユルスナールのことを仄めかして笑ったセレブロにリョウは堪らず吹いた。何を言い出すかと思えば。

『のう? そうは思わんか?』

 首を巡らせた白銀の王に、

『御意』

『それは愉快』

 シビリークス家のカッパとラムダの二頭はしたり顔で同意をした。

「もうルスランには良くしてもらってるよ。また迷惑を掛けちゃったね」

 リョウは自嘲気味に小さく笑うと本心を零していた。

『気にすることはない。あやつにしてみれば迷惑どころか、嬉々としておるだろうて』

「そう…かな?」

『左様』

 ユルスナールに辛口なセレブロ節も相変わらず好調のようだ。


 そうやって久方振りの温もりと手触りを堪能しているとセレブロが小さく身じろいだ。直ぐ傍に控えていたカッパとラムダの二頭も頭を上げた。

『ポーリャだ』

『ああ。ポーリャだな』

 それを肯定するように自分の名前を呼ぶポリーナの高らかな声が切れ切れに風に乗って聞こえてきた。

「リョ~ウ~! アウ~(どこにいるの?)!」 

 もう戻って来いということだろう。外に出てから時間の感覚は良く分からなかったが、空を見上げれば、中天よりやや西にあった太陽(ソンツェ)が、更に西に傾いていた。

『そなたを呼んでおるな』

「うん。カッパ、ラムダ」

 術師でもあるポリーナは獣たちの言葉を解する。リョウは二頭の番犬に直ぐ戻ることを伝えて欲しいと頼んだ。

『『承知』』

 二頭は諾とばかりに(こうべ)を垂れるとポリーナの声がする方向へ白くて長い尻尾を翻し駆けて行った。

 それをそっと見送ってから。

『もう、行くのか?』

「うん。きっと心配をかけちゃうから。セレブロはどうする?」

 ここで別れるのはなんだか名残惜しかった。何でもない風を装っていてもそれはやはり相手には筒抜けであったようだ。

『なんだ? 独り寝が淋しいか?』

 セレブロは、からかうようにリョウを流し見た後、

『今宵、そなたの元へ』

 そう約束してくれた。

 体が本調子でない時は、何かと心細くなる。ユルスナールの実家とはいえ、馴染みの無い場所で一人過ごしているのだ。寂しさを感じない訳がなかった。

「じゃぁ、また夜にね」

 ゆらりと音もなく立ち上がったセレブロに続いてリョウも腰を上げた。下に敷いていた大きな布を手に取り、少し叩いてから器用に折り畳んで腕に抱えた。

 そして、ゆっくりと建物の方へ踵を返した。


 少し歩いた所で、リョウはそっと後ろを振り返った。

「セレブロ」

 くすんだ生成り色のたっぷりとしたスカートが吹き込む風に翻った。いつもとは違って背に垂らしたままの黒髪が風に煽られて再び元に戻る。

「ありがとう」

 顔に掛かる髪を掻き上げて、リョウは微笑んだ。

 一つ小さく頷いて見せる。自分は大丈夫だと無意識に言い聞かせるように。

 そしてまた、くるりと転じたほっそりとした背中が遠ざかってゆく。セレブロは黙ってその様子を見守っていた。

 やがて、リョウを探していた女術師の甲高い声が切れ切れに聞こえてきた。それを確認するとセレブロは、再び現れた時と同様に吹き込む一陣の風に紛れるようにしてその姿を消したのだった。

 その場所に己が存在を知ら示すきらきらと光る眩いばかりの光の残像を残して。


この所不穏な場面が続いていましたが、息抜き的な一コマになりました。

【ポーリャ】は【ポリーナ】の愛称です。

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