夜更けの会合
―――――なんだ? 悪巧みでも始める積りか?
そこに揃った顔触れをざっと見渡した後、この家の主である男は、小さく片方の眉を跳ね上げて、からかうような笑みを浮かべた。
だが、室内には何故かその男の冗談を受け流すような弛緩した空気はなかった。張りつめたような緊迫感が僅かなブレを生じさせたのみ。
室内をぐるりと見渡して。主に良く似た面立ちをした若い男が、軽口を叩いた男、即ち己が父親を複雑な顔付きで見やっていた。
おや。どうやらお気に召さなかったようだ。主は心の中で肩を竦めた。
その一室に集う面々は、昔から知る子供たちの長じた姿だった。ルーシャ、ビーカ、シーリャ、ドーリャ、スヴェータ、ジョーラ。母や乳母たちが軽やかに抑揚を付けて呼ぶ子供たちの愛称は、つい昨日のことのように男の耳の奥に残っていた。其々が良くも悪くも個性的でアクの強い子供たち。幼い頃はそれなりにあった行き来も、大人になり其々に役職を得た今では、その交流の頻度は少なくなり、所によっては途絶えがちでもあった。
「これはこれは閣下。人聞きの悪いことを仰らないでください」
―――――ご無沙汰しております。
小さく小首を傾げて、かつてのシーリャ、神官の家系を引くレステナント家の中で唯一軍人になり、今は息子の片腕として第七師団の屋台骨を影から支えている男、シーリスが鷹揚に微笑んだ。
「ええ。本当に。私たちはもう悪戯好きな子供ではありませんよ」
その反対側で、男の割には艶めかしく整った顔立ちに人当たりのよい笑みを浮かべる軍人が一人。幼い頃はこの世のものとは思えないくらい愛くるしい仕草で屈託なく笑ったジョーラも大人になった今、その面影は随分と遠いものになってしまった。
「今でも大して変わりなかろうに」
その少し手前でぼそりと漏れた低い呟きは、故意か、それとも思わず音になってしまった自己内対話か。研ぎ澄まされた刃のように鋭利な印象を与える造形をそのままに今も昔も変わらない、いっそ清々しい程の雄々しい態度で紅一点のスヴェトラーナが鼻を鳴らした。
「父上、いかがなされましたか?」
言葉使いは丁寧だが、何をしに来たのだと言わんばかりの息子のつれない態度に父親は過ぎ去った年月の残酷さを暫し、噛み締めた。
「普段、家に寄りつかない放蕩息子と偶には盃を酌み交わそうってな魂胆だろうよ」
息子にとっては腐れ縁とも言える幼馴染がのんびりとした口調で茶化すように隣に座る友を見た。
「それはそれで実に魅力的なお誘いには違いありませんが、お楽しみは次回に取っておくということで」
―――――どうぞご心配なく。決して閣下を仲間外れにするようなことはございませんので。
最後にそつなくこの状況を締めくくったのは、相変わらず仮面のように微動だにしない顔立ちに薄らと微笑みのようなものを刷いたドーリンだった。
やれやれ。どうやら今回はお呼びではないらしい。いかにこの家の主とて、こうも客人たちにせっつかれては、大人しく首を引っ込めるしかあるまい。
「そうか。ではいずれまた次の機会に」
若干の寂しさと虚しさを胸内に抱えつつも、この家の主である男、ファーガス・シビリークスは開いていた扉の向こうに消えたのだった。
先走った兵士による強引な詮議の一件から解放されたリョウは、一先ず距離的に近い【アルセナール】の一室に運び込まれ、そこで冷え切った体を温めることになった。
軍医を呼び、手っ取り早く温まる為に湯に入れようと濡れて張り付いた衣服を脱がした際、ユルスナールはリョウの鳩尾の辺りにできた痣を発見して顔を顰めた。詳しい事情は後でスヴェトラーナに問い質す積りであったが、武芸大会に合わせたこの時期に毎年恒例となっている軍部の定例会議の後、不意に第三のゲオルグから声を掛けられて、その時に道々聞いた話では、過日、宮殿の奥向きで侍女が不審死を遂げた事件を巡り、内々にリョウを取り調べていたというユルスナールにしてみれば寝耳に水の仰天すべき事柄で、その途中、殺された侍女の婚約者であったという一人の兵士が暴走し、リョウを拉致したということだった。恐らく、この痣はその時にリョウの気を失わせる為に急所に入れられた一発なのだろう。
華奢な身体を抱えるようにして浴槽に沈めれば、ぐったりしながらも意識のあったリョウはほうと小さく息を吐いた。
「……あったかい」
そう口にして目を閉じたリョウにユルスナールは湯を掛けながら血の巡りを良くする為に肌を摩った。
切れて血の滲んだ唇に腫れ始めた左頬。ついこの間も左側の頬を腫らしたばかりだというのに。白いきめ細かな柔肌に浮かぶ傷跡がとても痛々しかった。
スヴェトラーナの勝手な振る舞いにユルスナールは非常に腹を立てていた。そもそも自分に一言話を通してしかるべきだった。挙句の果てに謂われのない嫌疑を受けて怪我を負わされる始末。行き過ぎた取り調べに腸が煮えくり返りそうだった。第三のゲオルグがあの時知らせてくれなかったら、もっと大変なことになっていたやもしれない。それを考えるとぞっとした。また自分の知らない所でリョウが傷を増やしてゆく。それは己が不甲斐なさを知らしめられると同時に耐えられないことだった。
その日、リョウは、そのまま【アルセナール】の一室に泊った。
真冬の寒空の下、冷たい水を沢山浴びせられた所為か、リョウはその日の夜から高熱を出して寝込んでしまった。そのままでは満足な介抱ができないと判断したユルスナールは、翌日、リョウを自分の実家であるシビリークス本家に移した。
実家に運んでからもリョウの熱は一進一退で中々下がらなかった。大きな寝台の中で目を閉じながら苦しそうに荒い息を吐く。
リョウには信頼の置ける熟練した使用人を看病に付けた。術師の資格を持つユルスナールも良く知る侍女だった。ユルスナールとてリョウの傍にずっと付き添っていてやりたいのは山々だったが、己が職務の関係上、そういう訳にもいかなかった。
今回の一連の騒動の経緯をしっかりと把握しておく必要があった。そして、その必要があれば暴走した兵士を始めとする第二の面々に然るべき処罰を要求する。ぐったりとしたリョウのことがなければ、自分の大切な人を酷い目に遭わせた第二の兵士にあの場で自ら報復をする所だった。女相手に手を上げるなど言語道断。リョウが受けたであろう恐怖と痛みを思えば、一発殴るくらいではとてもじゃないが、気が済まなかった。
しかも罪人の如く後ろ手に枷をはめられて、よろよろの状態で立ち上がったリョウの姿を目の当たりにした時は、一気に怒りが心頭した。髪の毛の末端まで逆立つのではないかというくらいの衝撃だった。自分でもよくあの場で抑えることができたと思う。
その夜、シビリークス家の一室では、ユルスナールを始めとする六人の同僚たちが密かに集まっていた。
「具合はいかかです?」
開口一番、心配そうに病人の容態を尋ねたのは【アルセナール】の執務室でこの一件を驚きと共に耳にしたシーリスだった。
「今、ちょうど眠った所だ。熱は相変わらずだな。一時期よりは下がったが、注意をしていないと直ぐにまた上がる」
ユルスナールの言葉にシーリスは柳眉を下げ、顔色を曇らせた。
この場に集まったのは、ユルスナール、ブコバル、シーリスのお馴染みの第七の面子と第五のドーリン、第三のゲオルグ、そして第二のスヴェトラーナだった。スタルゴラド騎士団を代表する錚々たる顔触れである。
この面々が一堂に会するのも珍しいことかもしれない。今しがた顔を覗かせたこの家の主も驚いた口だったに違いない。
「これを渡しておいてくれ」
スヴェトラーナは懐の中から二本の短剣と付属のベルトを取り出すとそれらを対面のソファに座るユルスナールに渡すべくテーブルの上に置いた。
それらはリョウが肌身離さず身に着けていたものだった。取り調べの際に外すようにと言われたのだろう。
「自分で返さないのか?」
その問いにスヴェトラーナは苦い顔をした。
「いや。まだ落ち着いていないのだろう? そんな時に私が顔を出しては却って治るものも治らない。良くなったら改めて謝罪に伺う」
―――――まぁ、許可をもらえればの話だが。
そう言って自嘲気味に形の良い厚めの唇を歪めた。スヴェトラーナなりに今回の件を反省しているらしいことが読み取れた。
「中は改めたか?」
「ああ。一本はな。そっちの小さい方だけだ。もう一本はどうしても鞘から抜けなかった。主ではないと駄目らしい。小さくとも律儀な剣だ」
改めることのできた小振りな方の短剣は、スヴェトラーナの目から見ても非常に良いものだった。鞘の作りを見る限り、恐らくその二本は対になっているのだろう。無駄な装飾の類は一切ない実用性一辺倒のものだが、それがいっそ清々しかった。
「呪いが掛けられているのですね?」
―――――貸してみてください。
この六人の中で唯一、術師としての高い素養を持つゲオルグが鞘から抜けなかったという少し長めの一振りを手にした。
「【プゥースチィ アトクロイェッツァ(解放せしめよ)】」
解除の呪いを小さく唱えると赤みを帯びた淡い光が鞘の周りを取り巻いたかと思うと弾けるように掻き消えた。
そして、ゲオルグはゆっくりと短剣を鞘から引き抜いた。
「………ほう」
どこからともなく感嘆に似た溜息が漏れていた。
「それは、レントの作ったものだ」
ユルスナールの言葉に対面でスヴェトラーナが大きく目を見開いた。
「プラミィーシュレのあの偏屈鍛冶屋か?」
稀代の鍛冶屋、レントの名前は遠く王都にまで達していた。
「成る程。さすが名人と謳われるだけありますねぇ」
短剣を透かし見ながらゲオルグが言った。
「見事なものだ」
その横でドーリンも合槌を打つ。
「ではその小さな方も?」
「ああ。そうだ」
「珍しいこともあるのですね。あの人は生粋の刀鍛冶だったと聞いています。専ら作成するのは長剣で。このような短剣を作っていたとは」
「ああ。そうだな」
レントの弟子であるカマールさえも知らなかった程だ。恐らく、この世にレントの魂の籠った短剣はその二振りしか存在しないのだろう。
それらの二本の短剣の注文主を知るユルスナールは、昔を懐かしく思い出すように目を細めた。どちらも一風変わった頑固者同士、反発し合いながらもその根底では、お互いを認め合っていた。
「でもそいつはリョウにとっちゃぁただの短剣だ。果物の皮だって躊躇いもなく剥きやがる」
プラミィーシュレでの顛末を思い出したのかブコバルが飄々と言った。
「だが、それでいいのだろう」
ユルスナールが小さく息を吐いた。
軍人ではない一般人が刃物を手にする理由はそのような日常生活に根差したものだ。これは生活の道具であって人を傷つける為のものではない。この短剣も元々そういう目的の為に作られた。
ここで漸く何らかの口慣らしが済んだようだった。
「スヴェータ」
「ああ。分かっている」
ユルスナールの一声にスヴェトラーナは小さく咳払いをして背筋を伸ばすと、この度の顛末について第二師団長としての見解を交えながら語り始めた。後宮に於ける侍女の不審死の一件についてこれまでの調査で分かった諸々のことだ。
一通り時系列的に語り終えた所で、
「しかし、どうしてそれだけの材料でリョウが犯人だということになったのですか?」
全くもって心外だとばかりにシーリスの菫色の瞳が厳しく第二師団長を射抜いた。
リョウを良く知る第七の面々からすれば余りにも馬鹿らしく、そして腹立たしいことだった。リョウのように自分よりも他人を優先する善良なお人好しが殺人に関わるなどとは有り得ないだろう。
「犯人と決めた訳ではない。あの時点では他に有力な手掛かりがなかった。だから重要参考人として召致した」
「全て内々にあなた自ら先頭に立って進めていたのでしょう?」
「ああ」
「当然、例の兵士については監視を付けていた」
「無論だ」
ドーリンの言葉にスヴェトラーナは、そこに抜かりはなかったと息巻いた。
「だが、あのような事態を招いたのだから、結果的にはお前の読みが甘かったということだ」
一時の怒りは収まったが、それでもユルスナールはスヴェトラーナを許した訳ではなかった。そして、あの兵士のことも。あのような見るからに非力な相手に対して暴力でねじ伏せようなどとは断じて許せることではなかった。
「ああ。そこは面目次第もない。私の責任だ」
スヴェトラーナもその点は認めざるを得なかった。結果が伴わなければなんの対処もしていなかったのと同じことになる。
「ですが、あなたとあの兵士では随分と温度差があったようですが?」
ゲオルグの斬り込むような鋭い指摘にスヴェトラーナは苦いものを飲み込んだような顔をした。
あの兵士はリョウを犯人だと思って疑わなかった。その根拠は一体、何だったのか。
団長と部下の間にあった温度差について、スヴェトラーナはこの日、一日、この件に関わった兵士たちの聞き取り調査をした。そこで出てきたのは、侍女の中にリョウが件の侍女・イーラに小さな花のようなものを手渡していたという話やリョウからイーラに小さな花が届けられたとする侍女仲間の話があったということだった。
スヴェトラーナは初めて耳にしたそれらの情報を前に居並ぶ兵士たちを見据えた。何故そんな重要とも思えることが自分の方にまで届いていないのか。
良く良く聞いてみれば、それは裏付けの取れていない曖昧な噂のようなもので実際にその現場を目撃したという侍女が誰かは分からなかったということだった。
スヴェトラーナは実しやかに入り込んだ流言に作為的なものを感じた。敢えて捜査から外されていたボグダーノフは、その噂を耳にして逆上したらしい。
「何故、報告が上がらなかった?」
この件で陣頭指揮を執るのは団長である。全ての情報はスヴェトラーナに一元化され集約されなければならなかった。
厳しい言葉を紡いだスヴェトラーナに部下の兵士たちは神妙な顔をした。そして、自分たちがその噂を耳にしたのもボグダーノフと同じ昨日のことだったと口にした。誰かが悪意を持ってそのような噂を流した。黒髪のリョウが犯人であるかの如く見せかける為に。スヴェトラーナにはそう思えた。
「リョウには何か恨みを買うようなことでもあるのか?」
穏やかに微笑む人当たりの良い……と言えば聞こえがいいが、自分の目から見たら警戒心の欠片も無い能天気な顔を思い出して、スヴェトラーナは眉を顰めた。ここに集まる連中ならともかく、どう考えても敵を作るような性質には見えなかった。
『何を莫迦げたことを言っているのだ』とでも言いそうな顔をしたシーリスの隣で、
「ああ。そう言えば」
そこでユルスナールは、かれこれ四日ほど前に第四の管轄下で男が一人殺害された件を思い出した。
リョウが恨みを買うというのとは少し趣が違うがと前置きして。スタリーツァの裏通りで斬殺された男はリョウの知り合いで、その死の間際に実に意味深な言葉を残されたのだと語った。
―――――【ユプシロン】に気を付けろ。それが最期の言葉だったという。
「武芸大会の個人戦で十位内に入賞していた男だった」
その言葉にシーリスが、
「そこそこの剣の使い手が斬殺ですか?」
考え込むように顎に手を当てた。
【ユプシロン】とは神殿に仕える神官たちのことを言い表わす隠語のようなものだった。
「神官がリョウに危害を加えるというのか? 一体何の為に?」
訳が分からないとばかりにドーリンが首を傾げれば、
「うーん……繋がりそうで繋がりませんねぇ」
その隣でゲオルグも沈思黙考していた。
「どういうことだ?」
ゲオルグの言葉をユルスナールが聞き咎め、集まった皆が一斉にその発言者に注目した。
身を乗り出したユルスナールにゲオルグは『まぁ焦るな』と笑ってから、次のようなことを語った。
武芸大会が始まる数日前に(ゲオルグ曰く)生臭神官が密かに接触を持ってきた。そこで自分に【黄色い悪魔】を融通出来ないかと持ちかけてきたのだ。
「なんだと?」
【黄色い悪魔】と聞いて眦を吊り上げたスヴェトラーナは、ゲオルグを鬼のような形相で睨みつけた。
「まさか、お前が流したのか?」
「まさか。そんな莫迦なことをする訳ないじゃないですか? これだから短絡的な人間は嫌ですねぇ」
「なんだと!?」
ドーリンを間に置いて、厭味たっぷりにスヴェトラーナを流し見たゲオルグに言われた当人は声を荒げたが、
「スヴェータ。一々相手にするな。話が逸れる」
ユルスナールからの静かに窘められて、スヴェトラーナはぐっと押し黙った。
「神官が【黄色い悪魔】を探していた―――その使用目的については何か言っていましたか?」
シーリスが考えを引き継ぐように口にした。
「ああ。そこは上手くはぐらかされてしまいましたねぇ。残念ながら」
少し間を開けて、ゲオルグは意味深に笑った。それはゲオルグを良く知る同僚たちにしてみれば悪どい感のある笑みに映った。
「使えん」
ぼそりと漏れた呟きは敢えて流された。
「ですが、その時に実に興味深いことを小耳に挟んだのですよ」
―――――なんだと思います?
艶やかな笑みに弧を描いた口元にユルスナールが目線だけで続きを促した。勿体ぶらなくてよいから早く言えとばかりにその眼差しが険を帯びた。
それを気にすることなく、ゲオルグはたっぷりと相手を焦らすような間を開けてから、低く囁いた。
「神殿ではどうも近々儀式を行う腹積もりのようですよ?」
「……儀式、だと?」
その言葉に集まった一同は耳を疑った。
「まぁた、けったいなことでもおっぱじめるつもりかよ? あっちのジジイ共は」
何やら心当たりでもあるのか、ブコバルが心底嫌そうに口の端を歪めた。
「神殿で最後に宣託を得る儀式が行われたのは二年前のことだろう?」
己が記憶を探ったドーリンに、
「ええ。そのように聞いていますが」
シーリスがその問いを肯定した。
当時、プラミィーシュレに赴任していた第五のドーリンと北の砦に赴任していた第七の面々は、王都にはいなかったので、その時の話は伝令を介した事務的な報告や噂話に聞く程度だった。
「ああ。お前たちはこっちにいなかったか」
長椅子に凭れかかり肘当てに肘を突いたまま、いまいち理解の浅い当時の不在組をスヴェトラーナが緩慢な動作で見渡した。
当時、儀式で得られた宣託の内容は、蓋を開けてみれば実に曖昧なものだった。宮殿側に事前に何の連絡もなく、唐突に儀式を行ったことで、宮殿と神殿の間は一時は一触即発のように緊張が高まったのだ。
神殿側の高圧的な態度に宮殿側は不信感を抱いた。神官たちに対する不信感は、そのまま同じ素養持ちの術師に対する不信感に繋がった。元々宮殿内部には術師に対する偏見もあった。その時の軋轢と対立の余波を一番に被ったのは第三のゲオルグだった。
「こっちは大変だったんですよ。もうあの時の二の舞は踏みたくありませんねぇ。懲り懲りです」
二年前とはいえ余程腹に据えかねることがあったのか、つい昨日のことのようにしみじみと口にしたゲオルグを見て、同じく軍部で上に立つ者としての苦労が分かるのか、ドーリンが同情的な視線を送っていた。
「こっちでは特にそんな話は聞かなかったぞ?」
生まれてからこの方、ずっと王都暮らしで宮殿の貴族たちともそれなりに太い繋がりを持つスヴェトラーナが、不信感も露わに眉を上げた。
「ええ。ですから問題なんですよ」
そう言ってゲオルグは肩を竦めた。
自分に接触を持った神官は神殿でも高位の者で、単なる疑似餌的な撹乱の為の情報という訳でもなさそうだった。それなりに信憑性が高いものだとゲオルグは判断していた。
「その辺りのことを一度、ザガーシュビリ殿にもそれとなくお聞きしたのですが、こちらもまぁ、上手い具合にはぐらかされてしまいました。本当にあそこの方々は秘密がお好きなようだ」
―――――そうは思いませんか、シーリス?
ゲオルグのその台詞は、代々神官を輩出してきた家系の生まれであり、その義兄が同じく神官の職に就いているシーリスには、かなり挑発的とも取れなくなかった。
だが、このような遣り取りは毎度のことで。その辺りの心得があるシーリスも負けてはいなかった。
「では、私の方でも義兄上に今一度、確かめてみましょう。詮索好きで腹黒い他人には言えないことでも身内ならば漏れるものがあるやもしれません」
そう締めくくるとにっこりと微笑んだ。
両者を隔てるテーブルの間に冷たい隙間風が吹き抜けた気がした。
だが、そのような日常茶飯事には頓着することなく、儀式で思い出したがと前置きしてドーリンが不意に顔を上げた。
「そう言えばあの時、何やら【黒】に関するものを集めていなかったか?」
久々に儀式が行われたという事実にどうしても注目が行きがちだが、思い返してみれば報告書の中にそのような記載があり、ドーリンはその使用目的に当時、首を傾げた覚えがあった。
「ああ。そうですね。確かお触れが出て、黒い色彩を持つ人や物、鉱石なども含めてですが、そういったものを集めていましたね。心当たりのある者は、それらを持って神殿に来て欲しいというようなことをやっていましたっけ?」
神殿の儀式そのものには関心のなかったゲオルグは、その辺りのことを話に聞いただけで、実際に何がどうなったかについては追って調べなかった。
ゲオルグの記憶を肯定するようにスヴェトラーナが続きを受けた。
「ああ。確かに黒いものを集めていたな。侍女たちの中にも黒い髪留めを神殿に寄付するのだと言っていたものがいた」
「………【黒】……だと?」
仄めかされた符牒にユルスナールは眉間に深い皺を刻み、その顔付きを険しいものに変えた。
「だから神殿の連中はリョウに接触を持とうとしているのか?」
その色彩故に。黒い深淵なる闇を抱えた双眸と細い糸のような艶やかな髪を思い描いて、ユルスナールは独りごちた。
「だが、そんなことをしてどうするのだ?」
その時、ユルスナールの脳裏についこの間、第四の詰め所で聞いたリョウの言葉が過った。
殺害されたイースクラという男には、リョウと同じような黒い色彩を持つ子供たちがいたという。二年前に行方知れずになったその子供たちを探す為に、辺境から遥々旅をして巡っていた。そして近々、その手掛かりが掴めるかもしれないと言っていた矢先に事件が起きた。久々の再会まで後もう少し。だから、あの場で死んで欲しくなかったのだとその目に涙を溜めながらリョウは言った。
―――――【ユプシロン】に気を付けろ。
同じ【黒】という色彩を持つ子供たちの行方を探って、あの男は神殿の行った儀式に手掛かりを求め、そこで何らかの事実に辿りついた。
だが、その途中で、消された。神殿の息が掛かった者に。恐らく、あちらにとって都合の悪い何かをあの男に察知されたのだろう。
その【何か】とは何か。
不均等に散らばる点と点が、これで繋がった気がした。
「てかさぁ、そんな【黒い】もんばっかし集めて、神殿の奴らはどうする積りだったんだ?」
訳が分からないという顔をしてどっかりとソファの背凭れに身体を預けたブコバルに、シーリスが事も無げに言い放った。こういう所はさすが代々神官を輩出する家の出である。
「それは決まってますよ。捧げるんです。宣託を得る為の祈りの対価として……」
とそこまで口にして、シーリスは不意に顔色を変えた。
「…………まさか」
不意に落ちた沈黙に、普段より勘の鋭い男たちはその言外に含まれる事柄に見当が付いてしまった。
「まっさかなぁ、おい」
突如として深刻さを増した空気をブコバルがいつもの如く冗談にして流そうとしたが、今回ばかりは、その機転は上手く働かなかった。
「そんなことが……」
―――――あるのか?
その後に続くはずのドーリンの言葉は、落ちた深い沈黙を前に音にはならなかった。
「シーリス」
「ええ。分かっています」
ユルスナールの低い呼び掛けにシーリスは真剣な面持ちで答えた。両者は視線を交わすと静かに頷き合った。
早急にこの件を調べなければならなかった。ことは神殿に関する一件だ。慎重に当たらなければならないだろう。
これ以上、大切なリョウを妙なことに巻き込むことはしたくなかった。
今度こそ、守ってみせる。この手で。
ユルスナールは奥歯を噛みしめ、拳を握り締めると決意を新たにした。
なんとか8月中にもう一本更新ができました。
ジョーラとはゲオルグの愛称です。ゲーラの他にもゴーラ、ユーラと多々あります。
それではまた次回に。