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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
176/232

慟哭の暴走

 ―――――バシャリ。

 何かが勢いよく打ちつけられる衝撃と不意に襲った冷たさにリョウの意識は、ゆっくりと浮上した。重い瞼を静かに開く。そうして霞む視界にまず入ってきたのは、薄闇の中に仄かに浮かび上がるごつごつとした石造りの床の割れ目だった。

 ひんやりとして冷たい感触が頬に伝わった。体中が冷えて固まったかのようだった。

 どうやら横になっているようだ。少しずつ戻ってくる感覚にリョウは自分が倒れていることを認識した。頭の奥がずきりと痛んだ。纏まらない思考を無理にでも掻き集めるようにきつく目を閉じる。息を吸って吐きだした。

 起き上ろうとして身体が思うように動かないことに気が付いた。腕を動かそうとするとガチャリと金属の擦れる音がした。腕が言うことを聞かない。どうやら後ろ手に拘束されているらしかった。

 何だ、これは一体。どうなっているのだ。

 腹筋を使って起き上る。腹部全体に何故か鈍痛が走った。するとぼたぼたと額際、髪を伝って水滴のような液体が落ちて行くのが分かった。

 濡れている……のか。リョウは瞬きを繰り返した。

 思考は靄が掛かったように働かない。


 中は薄暗かった。天井付近から僅かに差し込む光が薄く伸び、埃が絶え間ない不可思議な軌道を描いてチラチラと舞っていた。その淡い光が、石造りの床を暴きだしていた。

 ここで漸く、暗闇に目が慣れてきた。目の前の床は、何故か、ぐっしょりと濡れていた。一面に薄い水溜りのようなものができていた。良く良く目を凝らせば、それは自分の身体を中心にして広がっているようだった。薄い暗がりの中で見る限り、それは透明の液体に見えた。匂いもない。

 水……なのだろうか。

 底冷えするような寒さが全身を這いあがって来るのが分かった。まだ完全には働かない思考の中で、リョウはゆっくりと辺りを見渡した。

 ごつごつとした石壁に囲まれていた。遥か上方に小さく切り取られた場所があり、そこから溢れるように光が集まっていた。明かり取りの小窓のようだった。

 右側も正面も石壁だった。それからゆっくりと首を動かして左側を見た。

 そこには錆びた金属の棒が、細かく等間隔に並んでいた。仄かな錆びの匂いが鼻先を掠めた。

 そして、格子が並ぶ中に一つの大きな真っ黒い影が立っていた。視界がぶれて黒い影が膨張するように揺らいだ。

 リョウは瞬きを繰り返した。拡散した闇が収束し、その場所に一人の男の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。

 長靴を履いた足。直ぐ傍には長剣がぶら下がっていた。反対側の足元には小振りの木桶が転がっていた。

 少しずつ目線を上げて行った。腰、上体、太い喉元から顎、そして口元に辿り付いた所で、不意に地を這うような低い声が鼓膜を震わせた。

「お目覚めか? このクソガキが」

 鬱蒼しそうに掻き上げられたうねった短めの髪が、重力に従い額際に流れた。

「あ……な…た…は………」

 燃えるような淡い茶色の瞳が、差し込む光に反射した。そこにある男の顔を認識した途端、もの凄い速さでリョウの脳裏を少し前の一連の光景が駆け巡った。

 男の口元が歪に吊り上がった。



 【アルセナール】の第二師団の執務室から強制的に連れ出された後、リョウが放り込まれたのは、どうやら牢のような場所らしかった。

 擦れるような囁きが交わされた後、牢屋を管理していると思しき兵士が鍵を開けた。そして、団長室でリョウに掴みかかってきた男が、ゆらりと中に入って来た。

 男は無言のまま、後ろ手に拘束されているリョウの細い腕を掴むと力任せにひっ立てた。強制的に立ちあがった。垂れ下がった鎖が軋み、ジャリという音が静まり返った室内に反響した。

「何の…真似…ですか?」

 目覚めてからの第一声は酷く掠れていた。

 男はリョウの問い掛けを無視して、独房の外に出た。そして、そのまま歩き始めた。

 力任せに掴まれた腕が軋みを立てた。身体を捻るような無理な体勢だが付いて行く他なかった。

 男はずんずんと格子のはまった石壁の間を歩き、突き当たりで石造りの階段を登り始めた。一方、リョウは、長時間無理な体勢でいた所為か、急な動作に痺れた足が上手く歩けずにもつれた。だが、それに構うことなく男はリョウを引きずって歩いた。コツコツと薄暗い建物の中に踏みしめた踵の音が反響した。

 そして、急激に襲った眩しさに目を閉じ、再び開いた時には、もう外に出ていた。


 そこは見たことの無いがらんとした場所だった。周囲を鬱蒼とした木々に囲まれていた。

 何も言わない男にリョウは底知れぬ恐怖を感じだ。何をする積りなのだろうか。這い上がって来る得体の知れない恐ろしさに足が震えた。

 水場のように四角く区切られた場所にやって来ると男は拘束していた腕を突き離すように放した。不意を突かれて、リョウは地面に転がった。

 何をする気なのだろうか。リョウはじっと男の行動を恐々と目で追った。

 男は水場に置かれていた桶のようなものを掴むとつかつかとこちらに歩み寄り、いきなりその中身をリョウ目がけてぶちまけた。

 ―――――バシャン。

 大量の水を頭からしこたま被った。反射的に目を瞑り衝撃をやり過ごした。真冬の水はかなり冷たかった。痛いくらいに肌を刺した。

 この時の感覚から、先程も同じように水を掛けられたのだと悟った。

 この真冬の寒空の下、濡れた身体は急速にリョウの体温を奪っていった。寒さで震えそうになる唇を噛み締めた。もしかしたら、その震えは余りに理不尽なことをする男に対する怒りから来るものかもしれなかった。

「何をする!」

 転げた地面から出来るだけ素早く上体を起こして、下から睨み上げるようにして声を荒げたリョウに男が鼻で笑った。そして、息を吐く間もなく再び桶からの水を掛けられた。男の傍にはいつの間にかもう一人の兵士と思しき男がいて、せっせと木桶に水を汲んでいた。

 そして、男は水の溜まった桶を受け取ると順にリョウ目がけてぶちまけていった。一杯、二杯、三杯と続き、五杯目になった時には、すっかり全身ずぶ濡れになっていた。上着からズボン、長靴に至るまで、文字通り頭のてっぺんからつま先まで、大量の水を吸ってぐっしょりとしていた。髪からはだらだらと滝のように水が流れていた。相変わらず腕は後ろ手に拘束されている為、顔を拭うことも出来なかった。リョウは獣のように水気を払うべく頭を振った。

 からんと空になった木の桶を放り投げる音がして、気が付いた時には男がぐっしょり濡れたリョウの襟首を掴み、その鼻先へ引き寄せていた。

「何故、イーラを殺した?」

 低く問われた声が鋭い刃物の刃先のようにリョウの耳を削いだ。

 この男は自分がイーラを殺した犯人だと疑っていないのだ。そして、今、怨みを晴らそうとしている。行き場の無い怒りをぶつけているのだ。そう理解した瞬間、リョウは絶望を感じた。

「ワタシはやってない」

 もう何度目になるかも分からない言葉を繰り返した。至近距離で突き刺さる男の強い視線を真正面から受け止めた。全ては男の思い違いだ。男の行動を全否定する言葉に首元が一層ギリリと絞られた。リョウは寒さで震えそうになる歯を噛み締めてその苦しさに耐えた。

「何だと?」

「ワタシじゃない」

 もう一度、はっきりと繰り返した。

 男の瞳が剣呑さを増したが、続けた。

「イーラさんに会ったのは一度だけだ。怪我の手当てをしてもらった。親切にしてもらった。恩を感じることはあっても恨むようなことなど有り得ない」

 第一、イーラのことはよく知らない。

「この後の及んでしらばっくれる気か?」

「あんたこそ、何故、何を根拠にワタシを疑う?」

 この男がここまで頑なに自分を疑う理由は一体何だ。

 頭の芯がびりびりと痺れてくるようだとリョウは思った。それほどまでに凄まじい憤りが皮膚のすぐ下をざわざわと駆け巡って行った。

「【黄色い悪魔】は常人には入手困難なものだ。術師見習いのワタシが手に入れられる訳がない」

「そんなものお前の伝手を使えば容易いんじゃないか?」

「グラスに花弁を残しておくなど、余りにも見え透いている」

 リョウは力強く男を見据えた。漆黒の瞳が冷酷さえある冷たさを帯びて細められた。

「それに、ワタシが実行犯なら、花弁を残すような莫迦な真似はしない」

 冷たく吐き捨てたリョウに男が逆上した。

「黙れ!」

 掴まれていた襟首が不意に緩んだと思ったら、左側に強烈な衝撃が走った。思い切り殴られたと理解した時にはぐわんぐわんと共鳴するように脳が揺れた。勢いのままに投げ出され、不自由な身体のまま受け身を取ろうとして失敗した。口の中に苦い錆びの味が広がった。今ので口の中が切れたことを知った。

 リョウは口に溜まった唾を吐き出した。乾いた地面に血の混じった染みができた。

「こんなことをしても時間の無駄だ」

 リョウは再び倒れていた上体をゆっくりと起こした。じんじんと男から受けた理不尽な痛みが体中のあちこちで熱を持ち始めていた。だが、今、そのようなことに構ってはいられなかった。突き抜けたような怒りがリョウの表情を冷たい仮面のように失わせていた。

「ワタシは関係ない」

 一貫して怯まない相手の強さに、連れ出した男の方がほんの少し狼狽えた様子を見せた。

「お前でなければ誰が………」

「そんなの知るか! それを調べるのがあんたたち第二の仕事じゃないのか!?」

「それなら……何故?」

 男が立ったまま茫然と呟いた。

 張りつめたような沈黙が静かに引き絞られて行った。吹き込む風に周囲を囲む木立の梢が影のようにざわざわと揺れた。


 そんな時だった。

 緊張を引き裂くような複数の人の足音が聞こえたと思ったら、こちらに向かって駆けてくる人影が見えた。

 徐々に大きくなってくる人影が、先だって別れたばかりの人物を象った。団長のスヴェトラーナだった。

「そこまでだ。ヴラジーミル・ボグダーノフ」

 鋭い一喝の後、つかつかと苛立たしげに長靴の踵が踏み鳴らされた。ここまで急いでやって来たのだろう。真冬だというのにその額際に汗が一筋流れ落ちていた。

 共に付き従ってきた紫の腕章を付けた第二の兵士たちが、二人がかりで先走った仲間の男を拘束した。

 団長のスヴェトラーナは、暴走した兵士に歩み寄るとその襟元を引き絞った。

「勝手な真似はするな」

 冷たく吐き捨てると男の頬をいきなり殴り付けた。鈍い殴打音がした。それは実に軍部の長らしいやり方だった。

「頭を冷やせ、ボグダーノフ。謹慎を申し付ける。追って沙汰があるまで静かにしていろ」

 これまで以上に容赦ない厳しい叱責の声が第二師団・団長から発せられたかと思うと、

「やれやれ、どうやら間にあったようですね」

 場違いな程にのんびりとした男の声と、

「リョウ!!!」

 焦燥に駆られたように自分の名前を呼ぶ低い男の声を聞いた。

 スヴェトラーナは、己が部隊の兵士の起こした騒動に渋面を作りながらも、後から現れた二人の男たちを前に神妙な顔をした。




「私は常々、キミは女性擁護論者だと思っていたのですが、どうやらそれは勘違いだったようですねぇ」

 スタルゴラド騎士団・各師団長を集めた定例会議が終わった後、気配なく隣に並んだ人物に第二師団・団長のスヴェトラーナ・クロポトキンスカヤは、冷ややかな視線を投げた。

「何が言いたい?」

 男にしては些か繊細すぎる顔立ちに感情の読めない笑みを浮かべた男を一瞥してから、スヴェトラーナは関心なさそうに突き離した。

 スヴェトラーナは、うんざりだと言わんばかりに大業に溜息を吐いた。不愉快だということを取り繕おうともしなかった。そのような事など今更だった。

 昔からねちねちと遠回しな厭味を口にするこの男とは頗る仲が悪かった。お互いに顔を合わせる度に静かな毒舌合戦が展開されるのだ。毛嫌いしているのならば、言葉を交わさなければいいだろうにと思うのだが、この二人の間には磁力のように引き寄せられては反発し、離れて行くという不可思議な現象が起きていた。当の本人たちにもそれは分からないかもしれない。本当は相通じるものが過分にもあるのだろう。喧嘩するほど仲がいい。詰まりはそういうことだ。だが、まぁ、当事者の二人は決してその事実を認めたがらないであろうが。

 忌々しい相手を振り切ろうと歩調を早めたスヴェトラーナの隣に犬猿の仲と呼び声の高い第三師団・団長、ゲオルグ・インノケンティがそつなく並んだ。両者共に身長は余り変わらない。恐らく、脚の長さもだ。

「何故、あの子を牢に入れた?」

 艶やかに弧を描いた口元から発せられた声は、いつになく低かった。そこにある変化にスヴェトラーナは足を止めて、すぐ隣にある細面の男の顔を振り返った。

 いつもそこにあるはずの人を食ったような笑みは消えていた。代わりにあるのは、久し振りに見る男の本質の欠片だった。普段はにこにこと人当たりのよい微笑みを仮面のように張り付けているゲオルグだが、この男の本質は烈火のごとき苛烈なものだった。凍てついた冷たさというよりも()けるような熱さだ。それは冷めた男の外見を裏切るような正反対のものだった。

 普段は上手い具合に隠しているその本質もごく稀にこうして僅かな隙間から顔を覗かせることがあった。この男のこんな表情を見るのも久し振りのことだった。

「何の話だ?」

 だが、スヴェトラーナにはゲオルグの言わんとしていることが分からなかった。

 あの子を牢に入れた? 誰を牢に入れたというのだ? そもそもそのような命令を出した覚えはなかった。

「惚けるな」

 口調もいつもの慇懃無礼ともいうべき丁寧なものから素に近いものに変わっていた。

 スヴェトラーナは、空色の目を眇めてじっと同じ高さにある薄い灰色の瞳を見つめた。

「リョウを尋問していたのだろう?」

 部下のカレーニンの話では、後でゲオルグも合流するとのことだった。

「ああ。それが何か?」

 と言いかけて、スヴェトラーナは途端に苦虫を噛み潰したような表情になった。

「そっちの兵士が一人暴走中だ」

 低く出された囁きに、

「あんの莫迦が……」

 スヴェトラーナは呪詛の言葉を吐いた。

 残念ながら、スヴェトラーナには心当たりがあった。普段の素行にはなんの問題もない優秀な兵士だ。その兵士をスヴェトラーナは今回の事件の捜査人員(メンバー)から外していた。それは指揮系統に支障をきたす恐れがあると判断した為である。何故なら、その兵士は、殺害されたとされる侍女の婚約者だった。その兵士は当然のように捜査に志願したが、スヴェトラーナは却下した。私情を持ち込む訳には行かなかった。

 その兵士が公正な判断ができるとは思えなかった。捜査の上で感情的になることは許されない。常に客観性が保てなければ、この一件で大切なことを見逃してしまう恐れがあった。

 これまでに集めた情報を精査してゆく内にスヴェトラーナは、引っ掛かるものを覚えた。尋問の為に呼び出した黒髪のリョウという人物は、侍女たちの言い分を肯定した。敢えて相手を怒らせるような揺さぶりを掛けてみても動じた様子は見せなかった。

 それにずっと少年だと疑わなかったその相手が、本当は女性だった。それを知った今、侍女との痴情のもつれや横恋慕といった可能性は消えた。

 あの者は、少なくともイーラの死に衝撃を受けていた。これまでの兵士として培った勘から言って、リョウが本当に何も知らなかったということが濃厚なのではと思えてきた。


「部下の監督不行き届きですねぇ、スヴェータ」

 無表情からは一転、鮮やか過ぎる程の笑顔でゲオルグが言い放った。

「私は怒っているのですよ。事前に何の相談もなくあの子を取り調べたことに。ねぇ、ルスラン?」

 ―――――そうは思いませんか?

 そう言ってゲオルグは後方を振り返った。そこには、会議後、他の師団長たちと立ち話をしていた第七師団長・ユルスナール・シビリークスがいた。

 急に端から声を掛けられて、ユルスナールが先を行く二人に注目した。

 なんと間の悪いことだろう。スヴェトラーナは、小さく舌打ちをした。

「先に行く」

 スヴェトラーナは、小さく口にすると長靴の底を蹴った。

 部下の失態は、即ち上長である自分の責任である。この会議に参加する前、室内に残して来たカレーニンとファイナの二人はスヴェトラーナにとっては有能な腹心の部下たちだったが、あの二人ならば問題ないだろうと思った自分の読みが甘かった。

 どういう経緯かは分からないが、ゲオルグの言を借りれば、リョウは今、牢屋にいるという。独特の情報網を持つゲオルグに己が部隊の内情をほじくり返されるのは業腹だったが、今はそれを感謝しなければならないのだろう。感情的な面は一先ず置いておいて、こういう所で素早く頭の切り替えができるのは、スヴェトラーナの良い所だった。

 事態が最悪の方向へ行かないように今はいち早く状況を把握し、対処する必要があった。

 殺害された侍女・イーラの婚約者でもあった兵士・ボグダーノフは、スヴェトラーナが知る限り、無駄な争いはしない穏やかな気性の男のはずだったが、腕っ節の強さは部隊内でも定評があった。あの寡黙で真面目な男が怒りに我を忘れるというのはどうもスヴェトラーナには想像が付かなかったが、団長室で主の戻りを待っている筈のリョウが牢やにいるということは、何らかの異常事態(トラブル)が発生したということなのだろう。

 スヴェトラーナは、駆け出した。ゲオルグがああやってお節介を焼くくらいだ。ことは緊急を要すると思われた。

 【アルセナール】の第二師団の区画(エリア)へ走り込み、団長室の扉を勢いよく開けた。

「カレーニン! 状況は?」

 室内に残っていたのは腹心の部下の一人、補佐官のカレーニンだけだった。

「ファイナはどうした? リョウは?」

 低く矢継ぎ早に発せられた問いに、カレーニンは正確な情報を淡々と上司に報告した。

 案の定、ボグダーノフが乱入し、リョウを連れ去ったということが分かった。もう一人の部下であるファイナにその後を追わせてから、まだ何の連絡も入ってきていないということだった。

「【フチュリィムー(牢屋だ)】、カレーニン。急げ」

 その一言で、待機していた第二の兵士たちが動いた。


 そうして、他に有能な部下数名を引き連れて、【アルセナール】の北西に位置する牢へと急いだ。この場所は兵士の懲罰や罪人の一時留め置きに使用されている留置所のような場所だった。周囲を鬱蒼とした木々に囲まれた薄気味悪い曰くつきの場所でもあった。

 諍う声が聞こえて、周囲を取り囲む木立の合間からボグダーノフの後姿が見えた。その左腕に巻かれた紫色の腕章を見て、スヴェトラーナは眉間に皺を寄せた。己が部下の失態ということがどうにも気に入らなかったようだ。

 そして、どこか茫然と立ち尽くしていたボグダーノフを速やかに拘束した。数多もの兵士たちを統率する団長として、違反を働いた部下に自ら鉄槌を下すことも忘れはしなかった。規律を乱す行為は軍部ではご法度だ。同情の余地、情状酌量の余地はない。兵士としてやっていいことと悪いことがある。それが厳しい軍の掟だった。

 暴走した兵士を拘束した後、スヴェトラーナは、連れ去られたというリョウの姿を探した。

 少し前方で駆けつけた第二の兵士に声を掛けられながら、身体を起こしてよろよろと立ち上がった所だった。

 その姿を一目見て、スヴェトラーナは顔色を曇らせた。一言で言えば、酷い有様だった。

 恐らくボグダーノフも自分と同じようにリョウを少年だと勘違いしたのだろう。だから躊躇いもなく手を上げた。殴られたのか左側の頬が真っ赤に腫れていた。唇の端が切れ、血が滲んでいる。何よりも全身がびしょ濡れだった。

 直ぐ傍に転がる木の桶。そして少し先にある水場で茫然と立ち尽くす牢屋番の兵士。スヴェトラーナは、大体の状況を一瞬のうちに把握した。


「やれやれ、間一髪だったようですねぇ」

 そこに場違いな程のんびりとした男の声と、

「リョウ!!!」

 鋭い声を一つ上げて駆け寄る急いた足音が重なった。

 スヴェトラーナは、これで、この一件を内々に済ませることが出来なくなったと悟った。

「命拾いしましたね、スヴェータ」

 自分の後を追って現れた第三師団長の冴え冴えとした冷ややかな笑みに第二師団長は苦い顔をする他なかった。リョウが取り敢えず無事でよかった。ゲオルグの言う通りである。

 だが、スヴェトラーナが思うよりも実際の所、状況はおもわしくなかった。それはゲオルグと共に現れたもう一人の男、第七師団長のユルスナールに負う所が大きかった。スヴェトラーナにとっては大きな番狂わせであったかもしれない。


 仰天したユルスナールは第二の兵士の手を借りて立ち上がったリョウに駆け寄ると、無事を確かめた後、その細い身体をきつく抱き締めた。

 銀色の髪の男は、びりびりと辺りを振るわせるような静かな怒気を抑えることなく撒き散らしながら振り返ると、第二師団長を睨みつけた。

「何の真似だ、スヴェータ?」

 低く、決して語気を荒げるような声音ではなかったが、その一言でスヴェトラーナは、ユルスナールが途轍もなく怒っていることを悟った。

「ああ、でも。これでは半殺しにされるかもしれませんねぇ。ルスランに」

 恋する男を怒らせてはいけない。今回、第二は一番やってはいけない禁域に手を出してしまった。

 そのようなことを飄々と口にしたゲオルグにスヴェトラーナは、これまで見聞きしたユルスナールとリョウの間にある親密すぎる程の関係性を瞬時に理解した。詰まり、あの二人は恋仲ということなのだ。リョウが女性であることを知ったスヴェトラーナは、それをすんなりと受け入れた。と同時にその事実を今更ながらに知った自分の間の悪さと至らなさを呪った。


 怒りに震える第七師団長は、近くで顔色を失くし立ち竦んでいた牢屋番の兵士から鍵をもぎ取るとリョウが後ろ手に拘束されていた手枷を外した。ずっしりと重い金属の手枷。罪人に嵌められるその器具を手にすると苛立たしげに牢屋番の兵士の足元に投げつけた。ガシャンと鈍い重みのある音が辺りに響き渡った。

 寒空の下、冷たい水を浴びせられたリョウの顔は真っ青になっていた。ユルスナールの登場に安堵したのか痛々しい傷跡の残る顔で情けなく微かに笑った後、痛みを堪えるように眉を顰めた。

 ユルスナールは水を吸い込み過ぎた上着を脱がせると自分が着ていた上着を脱いで華奢な身体を(くる)んだ。

 ずぶ濡れになって額際に張り付いた黒髪を掻き上げ、冷え切った身体全体を摩るように抱き締めながらこめかみの辺りに口付けた。そして、緊張の糸が切れてぐったりとしたリョウを腕に抱えると踵を返して歩き出した。

「すまなかった」

 全ては自分の監督不行き届きである。小さく謝罪の言葉を口にしたスヴェトラーナをユルスナールは冷ややかに見下ろした。ユルスナールの顔は、幼い頃から相手をよく知るスヴェトラーナから見ても初めて目にするような凄まじい形相をしていた。ぶちまけたい怒りを必死に抑え込んでいる。そんな顔にも思えた。

「事情は後で聞く」

 そう言ってスヴェトラーナの横を通り過ぎた。

 ユルスナールの現時点での最優先事項はリョウの状態だった。

「ルスラン、リョウの様子は?」

 ゲオルグが心配そうな声を掛けていた。

「身体が冷え切っている。至急、温めなければ」

「リョウ? 大丈夫ですか? もう少しの辛抱ですからね?」

 同僚の会話がどこか遠くに聞こえた。

 ―――――自分の判断は間違っていたのか。

 自分が尋問をしていた相手に同僚でもある第三師団長と第七師団長の二人が案じる声を掛けている様子を目の当たりにして、スヴェトラーナは自分の間違いを認めない訳にはいかなかった。第七のユルスナールだけならともかく、第三のゲオルグもリョウに心を砕いているようだった。二人が大切にしている人物を疑ったということは、即ち、あの二人を敵に回したということになる。

 ―――――いや、私は真実を掴もうとしていただけだ。自分の取った方法は正しかった。己が職務を全うしようとしていたに過ぎない。

 スヴェトラーナはその場に立ったまま、自問自答し、きつく両の拳を握り締めた。

 だが、こんな所で気落ちしている暇はなかった。こうなったらもう一度全てを洗い直す必要があるだろう。自分にはまだまだやらなければならないことがある。

 後でユルスナールからはきつい一発をお見舞いされることになるだろうと覚悟した。普段、女性には優しく紳士的な態度を崩さないユルスナールだが、第二師団を纏める団長に対しては容赦などしないだろう。

 スヴェトラーナは女である前に、スタルゴラド騎士団の第二師団長だった。その責任は著しく重い。

 こうして、スヴェトラーナは、覚悟を決めると迅速な事態の収拾を図る為に、一歩、足を踏み出したのだった。


2011/8/29 誤字修正

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