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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
172/232

もう一つの試験


 術師の最終試験が終わった後、小さな庭先のようになっている花壇脇の石の縁に腰を下ろして、これから神殿裏の墓地にでも行ってみようかと算段していた時だった。

 上空を旋回するような影が足元に射したかと思うと甲高い鳴き声を一つ合図に上げて、こちらに向かって急降下してくる翼の姿があった。リョウは上方を見上げると逆光を透かして、そこにある影の姿を捉えた。

「ヴィー」

 差し出した腕に馴染みある重みがずしりと乗った。それは知り合いの大鷲・ヴィーだった。ここで会うのは暫く振りだった。以前、街中の治療院がある界隈でいざこざに巻き込まれた時以来だ。あれは武芸大会が始まる二日前の出来事であったから、約【デェシャータク(10日)】振りということになる。

「やぁ、ヴィー、久し振り。元気にしてた?」

 久々の訪いの理由を問えば、大きな鷲は平衡(バランス)を取るように羽を広げると胸を反らした。

『ああ。変わりない。なに。そなたが今日、試験であると聞いてな』

「心配して来てくれたんだ?」

 半ば苦笑を滲ませた問いにヴィーは答えなかったが、リョウは別段気にはしなかった。気位の高い獣たちとの会話は大体似たようなものであるからだ。全ての問いに対し、こちらが望むような答えが返ってくるとは限らない。

『もう終わったのか?』

「うん、ちょうどついさっきね」

 頬を緩めたリョウの鼻先で、ヴィーが空気を改めた。

『【アタマン】より伝令だ』

「……アタマン?」

 初めて耳にする言葉にリョウは首を傾げた。

『ああ。長のようなものだ。ルークの上役とでも思えばよい』

 あの神出鬼没なルークの上役と言われてもリョウはその長がどういう組織の長なのか全く想像が付かなかったが、取り敢えず話を進める為に頷いていた。

 それにしてもあの気ままな男が誰かに仕えているというのも妙な感じだ。あのルークという男は束縛を嫌うように思えたからだ。

 更にその長とやらからだという伝令は、リョウには不可解なことだった。

『時満ちて結界綻びぬ。ついては話したき儀あり、近々使いを寄越す故、参られよ』

 リョウはヴィーの口上を静かに聞いた後、頭の上に沢山の疑問符を並べた。【アタマン】と呼ばれる長からの呼び出しの通達であることは理解出来た。だが、そこに使われた語句が全く意味不明だった。まるで何かの暗号のように思えた。時が満ちるとは何のことだ。結界が綻びるとは何の話だ。そこで、ふとリョウの脳裏には試験会場でイオータが漏らした小さな呟きが過った。集まった青白い光の粒子がガルーシャの姿を描き出した時、確か、そのようなことを口にしていたような気がしたのだ。結界が解かれたと。

「ええと、ヴィー。それって、ワタシ宛ての伝令なんだよね?」

『左様』

 なんのことだかさっぱり分からない。呼び出しを受ける理由に心当たりもない。素朴な疑問を口にすれば、ヴィーは少し考える風に首を揺らした。

『先程、結界が解かれしことを我らは感知した。恐らく、その事で二・三、確認したき事があるのだろう』

「……結界?」

『ああ、そこからか?』

「うん」

『結界というのは、あの男がその昔、施した呪いのこと』

「あの男って?」

『無論、ガルーシャのことよ』

 ガルーシャの施した結界。それはもしかして森の小屋の位置を隠すような仕掛けのことだろうか。

 以前、ユルスナールとブコバルが言っていたのだ。森の小屋の近辺にはガルーシャが施した結界があり、無用な来訪者を選別し、弾き返しているのだと。ガルーシャが認めた者でない限り、あの小屋の場所は分からないようになっているらしいとのことだった。

『今しがた大きな気の乱れを感知した』

 試験の時に何か変わったことが起きなかったかと聞かれて、リョウは胸元のペンダントを取り出すと、ガルーシャの幻影が現れたことをヴィーに話した。

『ならばそれが契機だろう』

 ヴィーは何かに納得するように言った。リョウは理解出来た訳ではなかったが、ヴィーがそのように言うのならば間違いがないのではないかと思った。

 いずれにせよ、伝令は【アタマン】直々の要請ということだった。組織の内部以外の人間に長が自ら繋ぎを取ることは滅多にないことであるとも付け足された。そのことを聞いてリョウは心なしか緊張気味に肩に力を入れたが、少し話をするくらいだから気構えることはないと逆にからかわれてしまった。そういう呼び出しが今後あるということを頭の片隅に入れておけばよい。ヴィーの話を纏めるとざっとそのような感じだった。

 リョウは取り敢えず分かったと頷いていた。

「じゃぁ、また改めて連絡が来るのを待っていれば良いんだね?」

『左様』

「連絡はまたヴィーが?」

『それは分からぬ』

「ふーん」

『ではしかと伝えたぞ』

「うん、分かった。ありがとう」

 リョウはそれからポケットを探って中に入れていた小さな袋の中から干したスグリの実を取り出した。スグリの実は一般的に鳥たちの大好物で、猛禽類であるヴィーも好きなものだった。

「生じゃないけど食べる?」

 その実が取れるのは専ら夏の盛りの時期で、冬場はこうして保存用に干したものを摘むのだ。少々硬いが、噛めば噛むほど凝縮した甘みが増して、ちょっとしたおやつ代わりに重宝するものである。これは夏場、森の中で見つけた野生の実を取って乾燥させたものだった。森の小屋には他に煮詰めて瓶詰にしたものもあった。

 差し出した濃い紫色をした小さな実をちらりと横目に見て、

『干したものか』

 ヴィーはやや不満そうにぼやいたけれども、

「じゃぁ、いらない?」

 リョウがその手を引っ込めようとすれば、

『待て。要らぬとは言っておらんだろう』

 掌の上にあった小さな実は、瞬く間に黄色く湾曲した嘴の中に消えて行った。

『うむ。この間のよりはこなれておるの』

 この間、同じようにあげた実は、出来が良くなかったようで(干し加減にも色々あるようだ)美味しくないと言いつつもヴィーは出されたものを全て平らげたのだ。ヴィーは食い意地が張っているのかもしれない。その時のことを思い出してリョウは小さく笑った。

「それは良かった。当たりだったね」

『ではな』

「うん。ルークによろしくね」

『ああ。あやつに会ったら伝えておく』

 それから用件を終えた伝令は、大きな羽を伸ばして再び大空へと飛び立って行った。



 その軌道をぼんやりと追っていた時のことだった。近くで土を踏む足音がして、リョウはゆっくりと振り返った。

 そこには男が一人立っていた。その視線の先は、同じように飛び立って行った伝令の行く先を追っているようだった。

 初老の域に達しているかと思われるような齢の男だった。服の下からでも分かる大柄のがっしりとした体つきに髪の色は、銀色とも薄い灰色ともとれるような色合いで豊かにうねり、それをきっちりと後方に撫で付けるようにして緩く一つに束ねていた。

 束ねた先が吹き込む風に揺らいだ。

 存在感のある男だと思った。

「どうかされましたか?」

 いまだ飛び去ったヴィーの帰路を追っていた男に声を掛ければ、男の視線がリョウを捕らえた。

 そこにある男の双眸にリョウの鼓動は一つ不規則に跳ねた。自分でもよく分からない。だが、男の瞳は深い青さを秘めたものだった。そう、まるでこのペンダントの【キコウ石】と同じように。

 男の風貌は堂々としていた。男らしい真っ直ぐな眉。目尻には皺が多く刻まれている。すっと伸びた鼻筋の下には薄い唇が引き結ばれ、その周りを綺麗に整えられた髭が囲っていた。全体的に男らしい硬質な顔立ちだ。そこにある何らかの既視感のようなものを覚えた所で、男が静かに口を開いた。

「あれはキミの【ツレ】か?」

 その声は深く艶やかでもあった。語尾が少し掠れる。その独特な摩擦音に尾てい骨が震えた気がした。

 【ツレ】―――それは、軍部の中で伝令の任に就く鷹匠たちが、自分と組み(ペア)になる伝令に対して使う言葉だった。【相棒】と称するのが意味合いとしては最も近いかもしれない。

 つまり、ヴィーは自分の相棒かと聞かれたのだ。

 リョウは小さく微笑むと緩く首を横に振った。

「いいえ。あれは知り合いの伝令です。ワタシに用事があったようなので」

 リョウも同じようにヴィーが消えた彼方へと視線を向けていた。そこにはもう大きな羽の影はなく、少しくすんだ明るい空色の蒼穹が広がっている。

「そうか」

 男はゆっくりと振り返ると徐にリョウの傍に歩み寄った。


 男は静かにリョウを見下ろした。瑠璃色とも思われる深い青さを湛えた瞳がすっと細められた。何かを見定めるように。何かを重ねるように。

 この瞳の前では、何もかも見透かされてしまいそうだと思った。自分が良く知る男と同じような色合いをしているからかもしれない。

 男は黙ってリョウを見下ろしていた。それは静かな眼差しだった。深い水面の底を覗いているようなひっそりとした凪ぎの色だった。

 それから長いこと無言のまま見下ろされて、リョウは流石に居心地の悪さを感じ始めていた。

「あの………何か?」

 ―――――ワタシに御用でしょうか?

 怪訝そうな顔をしたリョウに男が微かに口元を緩めた。

 そうするだけで男の印象はかなり様変わりした。近寄り難い硬質な空気がそれだけで柔らかく変化した。

「キミは、軍部の人間ではないのだな」

 小さく漏れた確認のような呟きにリョウは自分が養成所に通う学生で、今、最終試験を受けたところなのだと答えた。

「そうか。キミは術師を目指しているのか」

「はい」

「その後は軍部入りをするのか?」

「いいえ。それは考えていません」

 怪訝そうに小さく上がった眉にリョウは誤魔化すように笑った。

「まだどうするか、今後の道筋をはっきりと決めた訳ではないので。一度、家に帰ってからゆっくり探して行こうと思いまして」

 ―――――時間だけはたっぷりとあるものですから。

「そうか。キミはまだ若い。大いに悩めばいい」

 きっと男が想像しているよりも自分の実年齢は高いはずだった。だが、初老の域にいると思われる男の方から見たら、それは余り変わりがないのかもしれない。

「そうですね」

 リョウは同意するように微笑んでいた。



「キミは、どんな術師を目指しているんだ?」

 立ち話も何だからと言って、促されるようにしてすぐ傍にあったベンチに腰掛けることになった。

 それは初めて聞かれた問いだった。今までは術師としての資格と地位を得ることに重点を置いていて、その先にある道筋や自分が取るべき方向性を具体的に詰めていた訳ではなかった。

「そうですねぇ」

 リョウは遠く霞むようにたなびく薄い雲を目で追いながら、ゆっくりと口を開いた。

「今、そこにある人に寄り添うことのできる術師になりたいと思っています」

 ここでは術師が世の中で果たす役割は大きく、しかもその分野は多岐に渡っていた。それこそ日常の細々としたことを始めとして、術師とその施術によって生み出されたものは巷に溢れていて、知らない間にその恩恵に預かっているという具合だ。人がその一生の中で常に関わり、そして多くの機会で接する存在であるとも言えた。

 この場所では形にならないはずの人の想いが時として形を持ちえたが、それを具現化させる為には、術師の介在が必要だった。

 時には近しい他者としてその者が抱える傷に寄り添い、時には理解者としてその者の苦しみ、悲しみ、そして喜びに立ち会う。そのような存在になりたいと思った。草の根のように目立たないけれども、気が付いたら深く入り込んでいて欠かせないものになっている。そういう存在になりたいと思った。

「と言っても、まだ術師になれたわけではないのですけれど」

 今は、試験を受けたばかりでまだ合否の判定が出ていないのだ。つい一人で熱く語ってしまったことに気が付いて、リョウは込上げてくる恥ずかしさを誤魔化すように小さく首を傾げた。

 そんなリョウの隣で男は目を細めていた。

「そうか。良き術師になれることを祈っている」

「ありがとうございます」


 それから男とは他愛ない話をした。男はその後も何故か立ち去る素振りを見せなかった。

「キミは不思議だな」

 不意にこちらを見た男がそのようなことを言った。

「不思議………ですか?」

 それはどういうことだろうか。

「顔立ちを見る限りこの国の者ではないようなのに、ここに溶け込んでいる」

 それはリョウにしてみれば最上級の褒め言葉に思えた。

「ありがとうございます」

 何故そこで謝意を口にされるのか、そんな不可解そうな顔をした男に、リョウはこれまで誰にも明かしたことのなかった本心を漏らしていた。

「ワタシは、見た目がこれですから、少しでもここの人たちの中に馴染んで行きたかったんです」

 自分の異質さは変わることがない。それが己の寄って立つ自己認識(アイデンティティー)でありながらも、それを肯定し、そこに縋りつくことは出来なかった。この国に、この地に溶け込もうと必死になって言葉を覚え、風習を学んで来た。

「だから、嬉しいんです」

「そのようなことなど気にすることはない。この国は我々のようなスタルゴラドの民だけで成立している訳ではない。それにこの国の民はそこまで閉鎖的でもない」

「ええ。そうですね」

 それは自分が一番良く理解していた。ここの人々は総じて懐が深い。その最たる男の顔を思い浮かべて、リョウの口元には微かな笑みが浮かんでいた。胸の奥がじんわりと温かくなるようだった。


「私には息子が三人いてな」

 急に始まった男の一人語りにリョウは耳を傾けると静かに相槌を打った。

「上の二人は既に結婚をして家族を持っているのだが、三人目がいまだ独り身でな」

「心配をされているのですか?」

 親にとって子供は幾つになっても子供だ。そして、その中でも末子というのは可愛いものなのだろう。父親であるこの男にとっても。

「心配? いや、どうだろう。あれは私に似て酷く頑固で一途な所がある」

 そう言うとどこか愉しそうに小さく笑った。

「その末が、一人前に好いた女子(おなご)ができたと私に直談判してきおった。その女人を妻にしたいとな」

 そして、リョウをじっと見下ろした。どこか相手の反応を探るような視線であったが、リョウはそこに潜む意味合いに気が付くことは出来なかった。

 その息子の申し出は、父親としては驚くべきことであったのだろうか。まだ若い末息子の告白。何とも情熱的な一面を持つ男なのだろう。

 どっしりと落ち着いた貫禄ある男からは、その息子とやらの様子を想像するのは難しかった。

「若さ故の情熱……でしょうか?」

 リョウはそう言うと隣に座る男を振り仰いだ。

 こちらを見ていた男の目尻の皺が一段と深くなった。

 若い頃には、思いのままに突き進むだけの体力(パワー)精神力(エネルギー)がある。それを時に人は、【若気の至り】と称したりもする。燻し銀のような父親の向こうに薄らと垣間見える末息子の若さにリョウは眩しいものを見るように目を細めていた。

 それは既に自分が失ってしまった年月でもあった。ほんの少しの懐かしさと羨ましさに思いを馳せる。

 もし、自分にも同じだけの情熱があれば、何かが変わるのだろうか。そんなことを思ってしまった。


「キミには恋人がいるかね?」

 不意に転じた矛先にリョウは暫し逡巡した後、口を開いた。

「恋人と呼べるかは分かりませんが、お慕いしている人はいます」

 これまでユルスナールと自分の間にある関係性を具体的に言葉にして表わしたことはなかった。向こうからもはっきりとした形で自分の存在を確定するようなことを言われたことも無かった。

 思えば、武芸大会最終日のあの告白が初めてのことだった。衆人環視の中で、妻になってくれと言われた。リョウにしてみれば、それはいきなり過ぎる展開で、ユルスナールがそこまで考えているとは思いも寄らなかった。だから、吃驚してしまったのだ。自分の中では、とても不安定で曖昧な感情の下に成立している甘い疑似的な恋人関係―――その位の認識だったからだ。現実問題、今の距離をこれまで以上に詰めて、男の人生に踏み込むようになることまでは考えていなかった。

「ならば、もし、その相手から結婚を申し込まれたら、その男といずれは一緒になるのか?」

 それは、男がこちらの性別を間違いなく理解しているような口振りだった。

 リョウはちらりと横目に男を見るとそっと目を伏せ、小さく首を振りながら微笑んだ。悲しみともどかしさを内に隠したような儚い感じの笑みだった。

「いいえ。多分、それは無理だと思います」

「何故だ?」

 間髪入れずの低い問い掛けに、リョウは苦笑を漏らした後、遠くを見るように視線を空へと向けた。

「ワタシとあの方では住む世界が違います。幾ら情が通じていようとも、状況的に難しいでしょう」

「では、諦めると言うのか?」

「どうでしょう? この気持ちを捨てようとは思いません。ですが、想いだけではどうにもならないことがあるというのは世の中の常でしょうから」

 そう言って達観したような透明な笑みをその口元に刷いた。


 それからリョウはさり気なく話の矛先を変えた。

「反対……なのですか?」

 ―――――――その息子さんの申し出に。

 隣に坐する初老の男は、身分ある人物のようだ。身に着けている衣服も落ち着いた色合いだが、生地は光沢があり上等なものだ。何よりも男から発せられる雰囲気は、洗練された優美なものだった。

 惚れたはれたということで、すぐさま息子が願うように婚姻の許可を与えることが出来るような場合ではないのかもしれないとリョウは思った。個人の自由が保障されると言っても、それは決められた枠組みの中でのことなのだ。そこからの逸脱は許されない。家名を負い、家に縛られるというのはそういうことでもある。この隣に座る男もその家族も同じような義務を背負っているのかもしれない。

 男はちらりとリョウに視線を流すと何故か意味深に目配せをした。

「条件を一つ、出した」

 たっぷりとした髭に覆われた口元が薄く弧を描いた。

「条件………ですか」

 それは息子の願いを聞き届ける為の対価ということだろうか。

「何だと思う?」

 そこで秘密を打ち明けるかのように男が硬質な顔を寄せた。そのにある深い青さを湛えた瞳は悪戯っぽく輝いているようにも見えた。

「とても簡単なことだ」

 リョウは少し考えると一般的な人の真理(心理とも言う)に触れた。

「そのお相手の方が、閣下のお眼鏡に適ったら……という所でしょうか」

 早い話が、舅が気に入るか気に入らないか。家柄の釣り合いということもあるのだろうが、一番単純で、だが、外すことのできない条件だろう。様々な装飾を取り払った後に見えてくる本音は、あけすけではあるが、真実だ。

 ずいと鼻先に寄った瞳が正解とばかりに細められた。

「ハハハ。私とて、ただの男親に過ぎない」

「なれど閣下は、酸いも甘いも嚙み分けていらっしゃる」

 それが年の功というものだ。

 そう言えば、

「キミは見かけによらず年寄りに理解が深いのだな」

 と笑われてしまった。

 だが、リョウも負けてはいなかった。

「はい。ワタシもそれなりに年を重ねておりますので」

 笑顔でさらりと口にされた台詞に男が目を丸くしてその顔をまじまじと見た。

「キミも中々に言う」

 そうして顔を見交わせると、どちらからともなく小さな笑いを零しあった。

 初めは堅苦しいように思えたが、口を開くと意外にひょうきんな所のある御人だと思った。

 どうやらこれで気が済んだらしかった。

「いや、中々に楽しかった。年寄りの戯言に付き合わせて済まなかった」

「いいえ。こちらこそ楽しゅうございました」

 ベンチから立ち上がった男に倣うようにリョウもその場で立ち上がった。

「これでよい土産話ができた」

 そんなことを言ってほくそ笑む。その上機嫌の理由は当然のことながら、リョウには見当も付かなかった。

「ああ、そうだ」

 去り際、男が足を一歩踏み出しかけた所で徐に振り返った。

「キミの名を聞かせてはくれないか?」

 そう言われて、その必要があるのだろうかと思ったが、リョウは自分の名を口にした。

「リョウ………か」

 何度か口の中で含むように転がした後、男が言った。

「良き名だ」

「ありがとうございます」

 ここで名前を褒められたのは初めてのことだった。響きが変わっていると言われたことはこれまでにも何度もあったが、それ以外の肯定的な言葉を掛けられたのは初めてのことだった。

 何だか認めてもらえたようで嬉しかった。

 そこで付け足すように小さく男が言った。

「愚息を今後ともよろしく頼む」

「………はい?」

 そこで男は微笑みのようなものをその口元に浮かべると片手を一振りしてから颯爽と去っていった。

「機会があればまた会おう」

 そんな社交辞令ともとれる謎めいた囁きを残して。

「あ……の……」

 一人残されたリョウは、狐に抓まれたような顔をして遠ざかってゆく男の後ろ姿を見送った。

 日の光を浴びて輝く銀色の髪が目に焼き付いた。そして、少しずつ小さくなってゆく後ろ姿に、自分が良く知るもう一人の男の影が、重なるようにして伸びたのだった。




 ファーガス・シビリークスは、足取り軽く宮殿内を歩いていた。艶やかな照りを反射する回廊の床に男の影が歪んで映っている。だが、豪華な調度類も煌びやかな装飾も天井や壁を彩るこの国の植物を模した優美な紋様も男の目には映ってはいなかった。

 ファーガスが思い返していたのは冷たい風にそよぐ癖の無い黒髪だった。繊細な糸のように細いその髪が象るのは、色の白い穏やかな女の横顔だった。男のようにズボンを履いて地味な格好をしていたが、その者はれっきとした女だった。ファーガスには一目で分かった。間違えようがなかった。

 愛くるしい顔をしていた。優しい面立ちをしていた。まだ若いが老成したような落ち着きがあった。

 黒い瞳に黒い髪。その色彩で思い出したのは、末息子の打ち明け話だった。

 過日、久々に実家に帰って来た末息子が、惚れた女がいると自分にそっくりなふてぶてしい無表情さで言ったのだ。それから感情の余り乗らない顔がいつになく表情豊かに好いた女のことを口にした。まるで自分の若かりし頃を見ているような気分になり、ほんの少しのほろ苦さが喉元を通って行ったのも記憶に新しかった。

 そして、息子の王都滞在中に父親の耳にまで届いた噂では、息子が想いを寄せる女性は黒い色彩を持つ、恐らく異国の女。そして、術師になるべくこの地にある養成所で学んでいるということだった。


 ファーガスがあの庭先に足を運んだのは偶然だった。今日は宮殿に所用が合って、偶々近くの回廊を歩いていた時に、窓の外、遠目にその者の姿を見かけたのだ。

 その者の腕には伝令で使われていると思われる猛禽類が一頭乗っていた。仲睦まじく語らうその姿を見た時、そこにかつての朋輩の姿が立ち上るようにして現れていた。

 高い素養を持ち、獣の言葉をよく理解した男だった。人よりも獣たちに囲まれていることの方が多かった。術師ではなく同じ軍部の人間で、伝令の役目に就いていた。兵士ではあったが、穏やかな気性の男だった。控え目で寡黙な性質で争いごとを好まない。そんな心根の優しい男が軍部に籍を置いていること自体、ファーガスには不思議で仕方がなかった。

 腕に伝令を乗せ、にこやかに対峙しているその者の姿を見た時、ファーガスはかつての友人が時を越えて現れたかのような錯覚を覚えた。そして、それを確かめようとして一人と一頭がいる場所へ近づいたのだ。

 廊下から外に出て、一歩足を踏み出した時、かつての友人の横顔は煙のように消え失せていた。そして、変わるようにしてそこに現れたのは友人とは似ても似つかない細面の女の横顔だった。

 興味を惹かれて声を掛けていた。かつての友と同じく伝令の鷲をその腕に語らいをしていたから。

 姿形は全く違う。だが、口を開いたその者はかつての友を彷彿させる柔らかく静謐な空気を身に纏っていた。こちらを見る瞳は黒く澄んでいて従順で聡明な駿馬のような眼差しだった。言葉を交わせば、その者がしっかりと己を持った芯の強い者であることが分かった。

 術師を目指す養成所の生徒であるとその者は言った。最終試験を受けた所だとその場所にいる理由を明かした。

 友人は術師ではなかった。いや、あの頃はまだ素養持ちと術師の境界は曖昧なままで、はっきりとした区別が付けられてはいなかった。

 信念も持った人物であることは分かった。そして、その心根も美しいのだろう。獣たちに好かれるというのはそういうことだ。

 息子からしかと聞いていた訳ではない。だが、ファーガスはこの女性が件の相手ではないだろうかと思った。噂に違わない小柄で愛くるしい顔立ち。凛とした背筋に透明感のある佇まい。何よりもその者を包み込む空気が柔らかかった。だが、それと同時にそこには内なる強さも秘めていた。

 父と子で通じるものを感じていたファーガスは、その息子の好みに成る程と合点した。自分があと二十年若かったら、同じようにその小さな手に口付けを強請って跪いたかもしれない。血は争えないというところだろうか。

 ファーガスの耳にも武芸大会の最終日、息子が慣習に則り勝者のリボンを使って申し込みをしたという噂は届いていた。

 あの夜の戯れに出た一言をやはり息子は真に受けたようだった。そのように仕向けたのは紛れもない自分であったが。

 身持ちの固い、ともすれば朴念仁とも目されていた末息子の行動は、社交界の人々の度肝を抜いたようだった。その珍しさだけが注目されて、その後がどうなったかということは曖昧だったのだが、方々で聞いた話を寄せ集めてみれば、その場で了承の言葉をもらった訳ではないことが分かった。

 どうやら、確約の言葉を取り付けた訳ではないらしい。振られはしなかったが、受諾もされなかった。それが余計に噂に拍車を掛けることに繋がった。

 あれだけ認めてくれと自分に言い募った割に、どうやら息子はその相手の心を完全に掌握した訳では無かったようだ。

 そこで先程交わした会話と黒い睫毛に縁取られた少し影を帯びた表情を思い出していた。

 好きな相手はいるが、一緒になれるとは思ってはいない。それを耳にした時、ファーガスは胸を突かれた気がした。

 恐らく、思慮深く慎重な性質なのだろう。息子を取り巻く状況と現実をしっかりと認識している。単に感情に惑わされているだけではないことが読み取れた。

 何をどこまで話したのかは分からないが、肝心な所で相手には息子の覚悟が上手く伝わっていないようだと思わざるを得なかった。息子の詰めの甘さと不甲斐なさが却って際立つことになった。

 ―――――――やれやれ、これでは先が思いやられる。

 だが、それは若さの特権でもあった。大いに悩み、苦しめばいい。そして、得られたものを大事にすればいい。その経験はその後の人生にとってまたとない糧になるであろうから。


 ファーガスはそっと窓辺を振り返った。先程、あの者と話をしていた場所には、もう人影がなかった。そこにあった筈の場所からは忽然と姿が消えていた。

 【夜の精】のようだとあの夜に次男が噂に聞いたと言う文言が、不意にファーガスの頭の片隅を掠めた。確かに色彩だけを見ればそのような想像をしたのも頷けた。だが、ファーガスにはあの女性がそこまで儚い泡沫の存在のようには思えなかった。

 あの者は笑いもすれば泣きもする。感情のままにその表情を変化させる実体を持った人だ。

 だが、本来なら交わることのなかった存在なのかも知れない。そんな思いも頭を掠めた。あの者がどのような人生を歩んできたのかは分からない。息子もその辺りのことは伏せたままだった。だから、お伽噺の結末と同じく、その心を手に入れるのは至難の業なのかもしれない。

 それでも少なくとも、息子は慕われているようだ。それが分かったことは救いだった。後は、末息子がきちんと状況を整理し、場を整えてから、どこまで食い下がれるかに懸かっているのだろう。

 あの夜、自分と兄たちを前に打ち明けた熱意を欠片でもいい、真正面から相手にぶつけることが出来るのか。

 自分に良く似て執念深い所(諦めの悪い所とも言う)のある息子の性格を思い出して、今後はどう転ぶかは分からないが、親としては陰ながら様子を見守ろうと思った。まぁ、余りにだらしがないようであれば、横槍を入れてみるのも一興といった所だろう。

 そんなことを結論として出した所で、ファーガスは小さく息を吐き出すと、止めていた足を再び繰り出したのだった。


ご無沙汰いたしておりました。本人の知らない所で、リョウはもう一つの試験を受けたようです。

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