朝靄の中で 2)
暫くして木立の中を抜けると突然、視界が開けた。
そこには鬱蒼とした木々に囲まれるようにして泉が広がっていた。
穏やかな水面は、吹き抜ける風に揺れ、空を鏡のように映し出す。揺れる白い雲の合間から日の光が反射してきらきらと輝いていた。
泉の近くまで来るとユルスナールはキッシャーの歩みを止めた。
眩いまでの美しい景色に、リョウは馬上で息をするのも忘れたように前を見つめた。
ユルスナールが先にキッシャーから降りる。
そして、行きと同じように徐にリョウの腰を掴むとその腕に抱えて下ろした。
何かの花の香りだろうか。風に乗って微かに甘さと清涼感の混じる匂いが届いた。
凪いだ水面には、森の木立が映り、揺らいだ蒼い空の中を水鳥が飛んでゆく。
とても静かだった。
木々のざわめきと風の音。そして、泉のせせらぎの音。
こういう自然の景色は、【向こう】も【こちら】もそんなに変わらない。
そうしているといまだに自分がどこに居るのかが分からなくなる時があった。ひょっとして【ここ】にいるのは長い夢の途中で、瞬きをすれば、また耳に馴染んだ機械音、エンジン音が聞こえてくるのではないかなんて。
身じろぎしないリョウの傍ら、柔らかい土を踏みしめて、ユルスナールが隣に立った。そして、同じように、空に合わせて姿を変えて行く揺れる水面の景色へと視線を向けた。
「ガルーシャのこと、感謝する」
低く静かに紡がれた一言に、リョウは我に返ると軽く頭を振った。
「いいえ。感謝するのは、オレの方です。今、オレがここにあるのは、全てガルーシャのお陰で。ガルーシャがいなければ、オレはこうして生きてはいなかった。本当に世話になりっぱなしで、幾ら感謝をしてもし足りないくらい」
「最後の家族だ…と、そう書いてあった」
それは、きっとあの託された封書の手紙のことだろう。勿体ない言葉だ。
リョウは、あの穏やかな日々を懐かしむように微笑んでいた。
決して色褪せることのない大切な記憶。想い出などにはなりはしない。
「俺にとってもガルーシャは、父であり、母であり、そして、師でもあった」
訥々と故人との過去がつまびらかにされてゆく。
そっと見上げたユルスナールの横顔は、冷たい陶器のようだった。
だが、その瑠璃とも形容できる瞳には、愛する者を失った哀しみの色が滲んでいるように思えた。
「だが、人としての定めには逆らえん」
それは当然の理だ。命あるもの、いつかはその終焉を迎える。たとえ、特殊な力を持っていようとも。死は万人に平等だ。残された者は、いつだってその悲しみを抱え、乗り越えて行くしかない。
流れゆく時と共に。やがて訪れる己が最期と共に。
「お前が傍にいてくれてよかった」
そう言ってユルスナールは振り向いた。口元に微笑みの切れ端のようなものを浮かべながら。
見下ろした瑠璃色と目が合う。
リョウは、それに応えるように小さく微笑みを返した。
ユルスナールにとってもガルーシャは特別な存在だったのだ。ここに自分を連れてきたのは、整理した気持ちを吐き出す為であったのかもしれない。
ガルーシャという糸で繋がる適度な距離感を持った他者に。
哀惜の共有者として。
素を曝すには、砦の兵士達では具合が悪かったのだろう。
ついと伸びてきたユルスナールの手が、リョウの髪を梳いた。
何度も手触りを楽しむように。ごつごつとした骨ばった感触が頬に伝わる。剣を扱うことで出来たのだろうタコのような固さが所々にあった。
「勿体ない事をした」
それは、短くなってしまった髪のことを言っているのだろうか。
「放って置けばすぐに伸びます」
砦の兵士達の大げさとも思える反応を思い出して、小さく笑う。それほどまでに長く伸ばした髪を切るということはここの男達にとっては衝撃だったようだ。
ユルスナールも何がしかの罪悪感のようなものを感じてしまっているのだろうか。気まずい思いなどする必要はないのに。
「キッシャーは誉めてくれましたよ」
からかうような声音で態とおどけて見せれば、
『世辞など言わん』
「ほら」
少し離れた所で、ゆったりと草を食んでいたキッシャーが本当のことだとばかりに合いの手を入れる。動物達は聴覚が発達しているので、囁き程度の音でもこの距離であれば十分聞きとることが出来るのだ。
それを後方に仰ぎ見たリョウに、ユルスナールは、やや不満そうな顔をした。
「リョウはアレの言うことが分かるのか」
今更のことだが、面と向かって尋ねられたのは、それが初めてだった。
「はい。昨日、皆さんがセレブロと話をしたように。オレには同じように聞こえます」
「ガルーシャもそうだった」
「獣たちは元々、我々の言葉を理解しています。人に飼われている動物なら尚更。獣たちが話す声を聞き取ることが出来なくなってしまったのは、人の方だと。ガルーシャは、そう教えてくれました。恐らく、かつての人の祖先は、その能力を【要らないもの】として認識してしまったのでしょう。都合の悪いことには耳を塞ぐ。そうしたい気持ちも分からなくはありませんから」
だが、失ってみて初めて、その本当の大切さに気が付く。その事実を重大だと認識した時点では、もう大概、手遅れになっているものだ。
それでも、その事実に向かいあって、どうにかしようという気持ちを持ち続けることは尊いものだ。
そうやって人は過ちを繰り返しながら生きて行く。
「その能力はガルーシャが引き出したのか」
術師であったガルーシャには、その人が持つ潜在能力を見極めることが出来たようだ。そしてそれを引き出す素養を教えることが可能だった。
かつてはもっと人の大勢いる賑やかな街に居たことがあると語っていたガルーシャも、そういった仕事を引き受けたりしたのだろう。
「いいえ。オレの場合、気が付いた時にはそうなっていました。どうやら無意識のようです」
その言葉に、ユルスナールは意外そうな顔をした。どうやら驚いたようだ。
通常、術師は自分の能力を意識して制御することで、その力を発揮させる。獣達との会話もそういった統制の上で行われるものらしい。情報の取捨選択といったところだろう。
だが、リョウの場合は違った。
この世界に紛れ込んで、初めて言葉を交わしたのは森に住まう狼達だったのだから。
その時は、動物達と意思の疎通が図れたことに感謝をし、そのことをしきりに感心をしていたのだ。そうでなければ、とっくに森で飢え死にか、他の獣の餌食になっていただろう。
それから、森の片隅で暮らしていたガルーシャに拾われた。その時になって初めて、その違いを教えられたのだ。
運が良かった。今にしてはそう思う。
「砦の馬達は実に個性的で面白い。皆、結構なお喋りですよ」
喉の奥を小さく鳴らすとリョウは隣の人馬主従を見比べた。
「キッシャーは、貴方に似ている。熱狂的な信奉者がいるところとか」
リョウの脳裏には鼻息荒く【黒き雷】、キッシャーの武勇伝を熱く語るスートの姿と砦の兵士達が隊長を噂する情景が重なるようにして過っていた。
その言葉にユルスナールは、微妙な顔をしてみせた。