朝靄の中で 1)
翌朝、厩舎の仕事を終えたリョウは、馬場の柵に寄りかかり、中で疾駆する砦の馬の群れを眺めていた。
「すっかり短くなったな」
掛けられた声に振り向けば、団長のユルスナールが立っていた。
昨日の帰還の時の服装とは違い、砦の兵士達が着用しているような簡素な上着とズボン、それにシャツを身に着けていた。格好だけを見るならば、朝、食堂を賑わせていた年若い兵士達と何ら変わりはなかった。
「おはようございます」
馬場の柵に凭れていた身体を起こして、リョウは挨拶を返した。
つと前方より伸びてきた手が、感触を確かめるように髪に触れ、離れていった。
昨日とは違い、耳の下、襟足ギリギリのところで切り揃えられた髪は、直ぐに指を離れて行く。
ここまで髪を短くしたのは久し振りのことだったが、別に気に病んではいなかった。
これまでは毎日が必死であったから、正直、髪のことまで気に掛ける余裕がなかったのだ。気が付けば、伸びていたという感じで、今は、背中にある重さが無くなって、実に爽快な気分でもある。放って置けば、また伸びるのだから、この軽さを暫し楽しみたいという感じだ。
「器用なものだ」
その言葉にリョウは小さく笑った。
「セレブロが揃えてくれたんです」
ざんばらであった、まちまちの長さがそれなりに揃っているのは、セレブロのお陰だ。人の姿を取ったセレブロは、意外な程に長い指を器用に動かして、どこから借りてきたのか、この世界での鋏なるものを操った。その形は昔の糸切り鋏に似ていた。
思いも寄らないことだったのか、ユルスナールの眉がほんの少し上がった。
「セレブロ殿は?」
「一旦、森へ帰りました」
このままこの砦に居るには、他の兵士達の手前、具合が良くないだろし、そもそもセレブロは自由気ままな立場だ。ふらりと現れては、また消えて行く。今では帰る時には、ちゃんと自分に一言残してから行くが、基本、何ものにも縛られない存在だ。
だが、リョウにはセレブロの加護がある。胸の上にある印は、あの白銀の王と確実に繋がっているのだ。森の小屋に帰る頃に呼べば、また颯爽と現れるだろう。
それこそ一陣の風のように。
「そうか」
小さく頷いてから、ユルスナールは柵の中を見ると口笛を吹いた。
甲高い音が響く。
と、それに応えるようにして、馬場を駆けていた馬の中から一頭が、小さく嘶いた。
立派な体躯を誇る黒毛がこちらに向かって駆けて来る。
あれは見紛う筈がない。キッシャーだ。
朝日を浴びて、その体は艶やかに黒光りしていた。
キッシャーは、柵の傍で止まると己が主に向けて、鼻面を突き出した。対するユルスナールは、穏やかな眼差しで手を差し伸べ、一撫でする。端から見れば、実に絵になるような主従だ。
「おはよう、キッシャー」
『リョウ、そなた、髪はどうした?』
主から、つと視線を流して、横に居たリョウにキッシャーは怪訝な声音で問うた。
この馬も中々に目敏い。
「ああ、切ったんだ。昨日。さすがに重たくなったからな。さっぱりしただろ?」
今朝から、もう幾度も繰り返された台詞を口にする。あれだけ長かった所為かは分からないが、皆から一様に驚かれたのがリョウには意外であった。
ここの兵士達の髪の長さは実に様々だ。男だから短く、というような固定観念は無いらしく、長い髪を後ろで軽く束ねたり、肩ぐらいの長さを無造作にそのままにしていたりが多い。
現に自分の目の前に居るユルスナールもそんな感じだ。
短く刈っている者もいるが、余り多くは見かけなかった。恐らく、散髪の習慣とそれに用いる器具の違いの差なのだろう。理髪店というものがあるのかどうかさえ疑わしかった。
また、以前、ガルーシャに付き添って訪れた町や村の女達は、皆、一様に長い髪をしていた。
仕事をする女達は一つに束ねたり、編んだり、スカーフを巻いて邪魔にならないようにしていたが、決して短くはしていなかった。そういう習慣なのかも知れない。
髪の長さが女性性の象徴であったりするということは想像に難くない。
そうすると益々髪を切った自分は少年にしか見えなくなるのだろう。そう思うと少し可笑しかった。
『そうか。中々に似あっておる』
「ありがと」
兵士達にも馬達にも、一先ず好意的に受け入れられたようで、リョウは内心ほっとした。
厩舎番のエドガーが持ってきた鞍を受け取るとユルスナールは、それをキッシャーに宛がった。
「リョウ、付き合え」
そう言って、颯爽と己が黒毛に跨った。
これから馬場で馬を走らせると言うことなのだろう。もしくは早駆けか。
「……あの、オレ、馬に乗ったことが無いので」
多分、無理だ。
そう思って困惑気味にユルスナールを見上げれば、
「なに?」
『なんと!』
ユルスナールとキッシャーが同じタイミングで、同じような表情をしてリョウを見下ろした。
主従相似る。そんな言葉が思い浮かんだ。
「ここまではどうやって来た?」
「セレブロの背に乗って」
『ヴォルグの長か。成程、そなたの身には、長の気が残っておる』
動物の世界でも白銀の王の名は轟いているらしい。
「ならば問題あるまい」
ユルスナールはそう言うと実に器用にリョウの身体をひょいと持ち上げて、自分の鞍を跨がせるように前に据えた。
突然、上昇した視界に声を上げる間も無かった。
「あの背に乗ってここまで辿りつけるのであれば、これしきの揺れなど造作あるまい」
言うが早いが、鐙を蹴って、駆け出した。
「うわ」
主の合図に、キッシャーが自慢の脚を持って疾駆する。
爽やかな朝の空気が、頬を刺すようにぶつかってくる。上下する規則的な揺れにリョウは驚く間もなく、その鬣を掴んだ。
「これに掴まれ」
差しだされた手綱に慌てて手を添えた。
どうにかして体勢を整えた頃、気が付いてみれば、ユルスナールの膝の間に抱えられる様にしてその鞍の前に収まっていた。
逞しい左腕が、支える為にか腹部に回される。その右手は、手綱を器用に操っていた。
「キッシャー、早い」
思わず上ずりそうになる声を上げれば、
『心地ちよかろう』
上機嫌に黒毛が嘶いた。
速度を緩める積りは微塵もなさそうだ。
揺れる視界の中、リョウが必死に身体の平衡を整えようとしていると、
「体の力を抜け」
低い囁きが耳を擽った。
腰に回された手に力が入る。後ろに押しつけるような力が掛かり、リョウは言われるままに体の力を抜いた。
そして、馬の疾走する揺れに身体を任せた。
「それでいい」
ユルスナールが小さく笑ったのが、震えた空気から感じ取れた。
セレブロに跨ってアッカと共に砦に来た時は、落ちないようにしがみつくのに必死で、周囲を見渡す余裕など無かったが、今は、後ろに大きな壁があり、そこからくる安心感からか、景色の移り変わりが目に入って来た。
ユルスナールは馬場を軽く一周した後、キッシャーの鼻先を丘陵の方へ向けた。