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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
159/232

救護班の天幕にて


 さて、一方、急ぎ救護班の天幕に戻ったリョウは、中にいたスタースに声を掛けると何事もなかったように洗ったものの片付けを始めた。

 スタースは、中で怪我人の治療をしているようだった。対面の長椅子に腰を下ろしていた男が包帯を巻き終えた左腕を外套の中にしまう。

 ふとそちらを見て、その男の顔にリョウは見覚えがあることに気が付いた。街中の治療院の界隈で共にいざこざに巻き込まれて―――元はと言えば、その男のとばっちりを食ったのだが―――怪我をした所を手当てするようにと治療院の中に招き入れた相手―――縮れた(にび)色の髪に尖った鼻と顎をもつ鋭角(シャープ)な印象を与える男だった。

 リョウは、男の顔を認識すると血相を変えて歩み寄った。

 リョウがあの時、男と共に負った怪我は、刃先に傷口を塞がり難くするという毒の成分が塗り込められていた刃物によるものだった。それを知らずに適切な処置が遅れた為、中々に面倒なことになって快方が遅れてしまったのだ。あの時、この男も同じように二の腕に怪我をしていた。相手は違う男だったが、それでもあの刃に同じように毒が仕込まれていたということも考えられた。こちらの男の方は大丈夫だったのだろうか。

「あの、この間の傷は大事ありませんでしたか? その後、傷口が塞がり難くなることはありませんでしたか?」

 いきなり顔色を変えて捲し立てたリョウに灰色の髪をした壮年の男は、その特徴的な縮れ髪を揺らして低く否定の言葉を吐いた。

「いや、問題はない」

「そうですか」

 その言葉を聞いて少し安堵した。

「どうかしたのか?」

 鼻先で男は一人怪訝そうな顔をしたが、

「いえ。なんでもありません」

 リョウは、こちらの思い過ごしであったから気にするなと首を振っていた。刃に塗られた毒のことを告げるのはどうしても躊躇われてしまった。

 それから話を変えるべく男の方を見下ろした。

「あの、もしかして、大会に参加なさっているのですか?」

 街中で会った男が、このような場所にいる理由が他に思い当たらずに首を傾げた。天幕の外で見掛けたのならば観戦に来たのだろうと思ったのであろうが、よりによって天幕の中だった。

「ああ」

 言葉少なに男が答えた。

「そうですか。ということは、今日もこれから試合に?」

「ああ」

 ということは、あの掲示板の中に男が持つ番号札の数字があるということなのだろう。昨日の試合に勝ち残っているということだ。それは驚嘆すべきことに思えた。

 リョウの思ったことを肯定するように、

「イースクラさんは凄いですよ。予選からここまで残るんですから」

 いつの間に知り合いになったのか、親しげに男の名前を呼びながら、飲み薬となる薬草をすり下ろしつつ、スタースが感心したように言った。

「上位十名までに入れるといいですね」

「そうだな」

 治療を施したまだ年若い神官の邪気の無い笑みに男は言葉少なに返した。

その後、服用する為の薬を受け取り、謝意を口にしてからその恐ろしく無口な男は天幕を去って行った。


 リョウは去ってゆく男の背中を見ながら、不意に疑問に思ったことを口にしていた。

「十位までに入ると何かあるんですか?」

「ああ。リョウは知らなかったか」

 そう言うと手を動かしながら、スタースがその理由を教えてくれた。

 神官は、序でにリョウを傍らに座らせて、他の飲み薬を作る為の調合を手伝うように依頼した。傷口が早く塞がるようにする為の薬草である乾燥させた【レザーニエ】を箱の中から取り出すとその隣で同じようにすり鉢で磨り潰し始めた。

 スタースの話によると個人戦の上位十名までには大会を主催した軍部から報奨金が与えられるとのことだった。そして、その個人が軍部への入団を希望すれば、実技試験を抜きにしてその個人の資質を鑑みた後、優先的に登用されるとのことだった。諸国を渡り歩く傭兵たちの中には、この報奨金目当ての参加者も少なくないのだとか。その金額の程は明らかになってはいないが、優勝者には、それこそ一般庶民には一生掛かっても手にすることが出来ないような金額が与えられるのだとか。なので十位でもその金額は、かなりの額になるらしいとのことだった。

「そうなんですか」

 一攫千金を狙って剣を交える男たち。その出場理由は、人によって様々であろう。

 ユルスナールは何を思ってこの大会に出場しているのだろうか。名誉の為か、己が実力を試す為か。高潔な男の潔い背中を思い出しながら、リョウはふとそんなことを考えた。


 それから暫くは、細々とした雑用を天幕の中で行うことになった。薬草を磨り潰したり、水を汲みに行ったり、汚れものを洗いに行ったり、治療をするスタースの邪魔にならないようにと天幕の後方の奥まった所に控えていた。

 試合への参加者が随分と絞り込まれているので怪我を負う出場者の絶対数は少ないようだったが、その代り昨日の時点で救護班の世話になった男たちが、この場所を訪れていたので、それなりに忙しかった。

 水場が離れている分、水汲みには何度も往復をしなければならなかった。水の入った桶を運ぶのは中々に重労働で大変だった。元々、腕力には自信がないということもある。直ぐにへばったリョウを見て、年若い少年だと疑っていないスタースには、『だらしないなぁ』と笑われてしまった。その姿は(恐らく、へっぴり腰だったのだろう)、余りにも情けなかったようで、天幕の中にいた他の軍医や術師たちにも笑われてしまった。リョウは、誤魔化すように愛想笑いを浮かべるしかなかった。


 こうして暫くは、和やかな空気の中で過ごしていたのだが、

「怪我人だ!」

 飛び込んできた兵士の形相に天幕の中に緊張が走った。

 中にいた軍医たちは、すぐさま顔付きを改めた。

 そして担架に乗せられて運び込まれた男の状態を見て、リョウは顔色を失くした。男の脚(左側の太ももの部分だ)からは大量の血が流れ出ているようで、男が身に着けているズボンが真っ赤に染まっていた。

 アッカを拾った時の光景がリョウの目の前に重なった。

「こちらへ! 早く!」

「大量に出血している。止血を!」

「はい!」

「うあぁぁぁぁ………」

 軍医や術師たちの緊迫した鋭い声の合間に激痛に顔を歪める男の呻き声が混じった。

 リョウは、すぐさま自分の鞄を置いていた場所に戻るとその中から即効性の痛み止めが入った小さな瓶を取り出した。それは、まだ森の小屋にいた時に、ガルーシャの書斎の中にあった学術書の中からこれはと思うものを選び出して、森で集めた薬草を調合して作ったものだった。主成分には、森に薬草採集に行った時に本当に偶然にして見つけた【ジョールティ(黄色い)チョールト(悪魔)】が入っていた。

 黄色い可憐な花を咲かせるその薬草は、人体にとっては毒性の強いとされる毒草の一種で、その花の花弁数枚で人一人を死に至らしめることが出来るという恐ろしい代物でもあった。人がそれを口に入れるとまるで眠るように死んでゆくというのが専らの噂だった。証拠が残らない為に毒殺、暗殺に使われるのはもってこいとされている曰くつきの毒草でもあった。

 だが、この毒草も用い方によっては薬になり得たのだ。これをほんの数量―――この匙加減がかなり肝要になる訳だが―――他の薬草と一緒に混ぜて使うと麻酔代りや痛み止めになった。人体の感覚を一時的に鈍くさせるのだ。その配合量が難しく、少しでも【ジョールティ・チョールト】を入れ過ぎてしまうと昏睡状態になったり、そのまま死にいたる場合もあると本の中には、書かれていた。とある頁には、ガルーシャの導き出した配合がメモ書きのように残されていて、それを見つけた時に試みに作ってみたのだ。アッカの時は、良く効く痛み止めを作ることが出来ずに最初の段階でかなり苦しませてしまったので、その時の反省点を色々と踏まえた積りでもあった。

 これは試作段階のもので、実際に使ったことはない。自分で試した時は怪我をしてはいなかったので、その効果の程が良く分からなかった。精々、一時的に感覚が鈍くなるというのを確かめるくらいだった。

 リョウは小さな瓶を手に取ると低い戸板の上に横たわる男の元に歩み寄った。

 軍医が慣れた様子で男のズボンを切り裂いてから傷の状態を改め始めた。男の顔には苦悶の表情が浮かび、額には脂汗が滲んでいた。そのような中でもなるべく声を上げないようにしているのが見てとれて、リョウは苦しくなった。

「失礼します。痛み止めを少し使ってもよろしいですか?」

 傍にいた軍医に許可を貰うべく声を掛けた。

「痛み止め?」

 こちらを目線だけで振り返った軍医に簡単な成分と効用を説明した。

「はい。少しだけ痛みを感じる感覚を鈍くさせるものです。感覚を麻痺させるといいますか。その方が、多分楽になると思うので」

「それは助かる」

 軍医が頷いたのを見て取って、リョウは男の鼻先に小瓶を近づけるとその蓋を開けた。

「少し吸い込んでください」

 手を宛がって風を送るようにすると周囲に何とも言えない強烈な匂いが漏れた。これは薬草の苦みを抽出して後から付けたものだった。

 厄介なことに【ジョールティ・チョールト】は、無味・無臭の為、その成分を摂取する時の加減が難しいのだ。余り吸い込み過ぎると意識を失う可能性もあるので、苦肉の策として編み出したのが、この苦い匂いを付けるということだった。これならば吸い過ぎるということにはならないだろうと思ってのことだった。

 それにしても強烈だ。森の小屋でこの作業をしているときは、セレブロも一緒に薬草採りに行った狼のアラムやサハーたちも決して近づいてこなかったのは記憶に新しい。まだまだ試作段階であったので、この匂いはもう少し調整をしなくてはと思っていた所でもあった。

 周りにいた男たちが、一斉に顔を顰めてむせたのが分かった。

「すみません。まだ試作段階で、匂いの調整が終わっていなくて」

 だが、吸い込んだ瞬間小さな呻き声を発したものの、怪我負った男の息が少しづつ落ち着いたものになっていた。

「痛みはどうですか?」

「ああ、大分楽になってきた」

「少し痛みが残るくらいの方がいいと思いますので、この辺にしておきますね」

 そう言ってからリョウは小瓶を仕舞った。

 痛覚は人間の防衛機能の一つであるから、身体からの信号を見逃さない為にも、少し痛みが残るくらいの所で止めてほいた方がいいだろうと考えた。

 その間、傷口を簡単に洗い、術師の男が調合した薬を軟膏と混ぜ、油紙に塗り、それを男の開いた傷口に張り付けた。術師の男が使ったものは、止血と傷口の癒着を促す薬草に化膿止めを混ぜたものだろう。男の体が痛みに跳ねたが、そこをすかさず軍医がきつく包帯を巻いていった。

 一先ず止血をすることが最優先事項だった。男の脚を抑えてくれと言われて、リョウも足元の方に回ると加勢した。

 一通り、包帯を巻き終えた後、軍医が促すように神官であるスタースを見た。

「後は頼む」

 この段階で【祈祷治癒】の処置を行えば、一時的に人の持つ自然治癒の力を高めることで傷口が塞がりやすくなるということだった。こちらでは、刃物による傷でも縫合を行うことはないようだった。その代わりにあるのが術師の使う【施術】だった。

「リョウ」

 軍医からの視線を受けて、スタースはリョウに振った。

「やってごらん」

「ワタシが……ですか?」

 吃驚して顔を上げたリョウにスタースが穏やかに微笑んだ。

「ああ。大丈夫。キミの能力はザガーシュビリ殿のお墨付きだから」

 誠実さえある静かな眼差しで言われて、

「分かりました」

 リョウは小さく頷くと男が怪我を負った左脚の方へ行った。そして、跪くと血が滲み出し始めている箇所にそっと掌で触れた。微かな刺激の為にか男の脚がぴくりと動いた。

 リョウは目を閉じると意識を集中させる為に小さく息を吐きだした。そして、緩く息を吸い込むと男の怪我の回復を願いながら呪いの文言を紡ぎ始めた。

 【我 古の約定に従い母なる大地の名の下に希う そが力の源 巡りて元の流れに還らんことを 古きには再生を 新しきには更なるしなやかさを】

 ―――――――【ゴースパジ、パミルーィ。ウマリャーユー】

 掌の下がじんわりと熱を帯びてくるのが感じ取れた。温かい。いや、ともすれば熱い位だ。

「……………はぁぁぁ」

 横たわった男が、大きく息を吐いたのだ分かった。

 ゆっくりと閉じていた目を開くと、リョウは怪我を負った男に微笑みかけた。

「これで少し様子を見ましょう」

 あとは男の体力次第だった。

 男は、小さく頷いてから目を閉じた。


「お疲れさま。ありがとう」

 スタースから肩を軽く叩かれて、リョウはそこで漸く全身の力を抜いた。

 薬草の成分が効き始めているのか、男は目を閉じたまま、ゆっくりと長い息を吐き出し始めた。呼気に熱が籠っているように思えた。

 リョウは再び男の頭の方へ移動すると、冷たい水で濡らした布巾で男の顔から首筋を拭い始めた。埃と痛みで出た脂汗を綺麗にしてゆく。水の冷たさが心地よいのか、男の息が緩くなった気がした。

 粗方、最初の処置が終わり、専任で様子を診ることになった軍医が背筋を伸ばして、今後の処置の指示を部下に出していた。

「気分は大丈夫ですか? どこか気持ち悪いところはありませんか?」

 男の汗を拭いながら、小さく囁くようにして声を掛けた。

「ああ。大丈夫だ。すまんが、水を貰えないか?」

「はい」

 リョウは立ち上がると飲料用に汲んでいた小さな水がめから木製のカップに水を注ぎ、男の口元に持って行った。横になった男が少し上体を持ち上げるのをどうにかして手伝った。

 逞しいがっしりとした身体つきの男だった。服越しに触れる肌はとても硬い。男の身体は、激しい戦いの為にか、とても火照っていた。しっとりと汗ばんだ肌が、身に付けたシャツ越しに伝わって来ていた。

「寒くはありませんか?」

「ああ。大丈夫だ。今は体中がかっかして暑いくらいだ」

 男から漏れた小さいながらも力のある言葉にリョウは少しほっとした。身体が熱いというのは薬草の成分が効き始めている証拠だった。だが、念の為に厚みのある大きな布を取りに行った。今は身体が火照って熱く感じるかもしれないが、やがて体の全機能が怪我を負った箇所を治そうとする方向へ働く為、患部以外の場所が冷えてくる筈だった。それに今は冬場なので、ただこの天幕内で横になっているだけでも冷えてくるに違いない。


 そうして男の身体に大きな布を掛けている時だった。

 天幕の外で高らかに鐘の音が鳴り響いた。それは、昨日の開会式の時に鳴り響いたのと同じ、兵士たちが手で振り鳴らす小振りの鐘の音だった。

 その合図にリョウはハッと顔を上げた。

「すみません、スタースさん。ちょっと外に出てもいいですか?」

 事前にユルスナールに聞いていたのだが、一旦、一桁台に選手たちが絞り込まれた後、昨年の上位者を含めた人数で再び対戦を決めるくじ引きを行う為に集合を促す時の合図として鐘が鳴ると言っていたのだ。

「すみません。また直ぐに戻ってきますから」

 戸板に毛が生えたような臨時の寝台に横たわる男に声を掛ける。

 男が小さく頷いたのを見て取ってから、リョウは慌てて天幕の外に飛び出した。そしてユルスナールがいると思われる選手たちの控えの天幕へと走った。

 その時、リョウは急がなくてはと気が動転していた所為か、自分がどんな格好になっているのかを良く理解していなかった。


 走って行くと、ちょうど掲示板の前の所に出場者たちが集まり始めていた。

 ユルスナールはどこにいるのだろう。特徴的な銀色の頭部を探す。そして、ちょうど天幕の方から出てくる男の姿を捕らえた。

 良かった。間にあった。

「ルスラン!」

 リョウは、勢いを殺すことなく駆けて行って、あわや衝突という手前で急に速度を緩めた。

 ぶつかりそうになった身体は、ユルスナールから伸びた二本の腕で支えられていた。

 リョウの姿を一目見て、ユルスナールの瑠璃色の瞳がこれでもかという位に見開かれた。

「リョウ、なんだそのザマは! どこか怪我でもしているのか?」

 驚くほどの速さで改めるように体中を男の手が辿った。リョウは、その時になって初めて自分の格好をまざまざと認識することになった。

「あ…………」

 先程の怪我を負った男の治療の際に飛び散ったのだろう。乾いて黒くなった血の染みが点々とあちらこちらに付いていた。特に腕を捲り上げたシャツの折り返しの部分とズボンの太ももの所には大きな染みが付いて赤黒くなっていた。上着は柿渋(カーキ)色をしていたので余り目立たなかったが、ズボンの方は薄い生成り(ベージュ)色だったので、鮮血の空気に触れてくすんだ色が、大きな花びらのように歪に滲んでいた。

 リョウは慌てて何ともないのだと言った。

「これは、返り血で、ワタシのものではありません。救護班の天幕にいたので」

 顔見知りの神官に手伝いをお願いされて天幕の方にいた時に、怪我人が運び込まれてきたのでその治療を手伝っていたのだと言えば、ユルスナールはあからさまに安堵の息を吐いた。

「そうか」

「すみません。驚かせてしまいましたね」

「ああ。驚いた。だが、お前に怪我が無くて良かった」

 ―――――――この間みたいなのは御免だ。

 そう言って微かに頬を緩めた男にリョウは恐縮しながらも微笑み返していた。


「ああ、そうだ」

 そこで漸くリョウは駆けてきた当初の目的を思い出した。

「忘れられたかと思ったぞ」

 ポケットを漁り始めたリョウにユルスナールが軽口を叩いた。ユルスナールの方は、天幕の方で今か今かとリョウがやって来るのを待っていたようだ。

「すみません。もう少しで忘れる所でした」

 怪我をした男のことで、リボンのことは頭の中にちゃんとあったのだが、その時間感覚までは覚束なかった。あの鐘が鳴っていなかったら思うと冷や冷やする。

 本当のことを口にすれば、ユルスナールは少しだけ拗ねたような顔をした。小さく口の端が下がっている。

「冗談ですよ」

 男の子供染みた態度を軽く笑い飛ばして、

「ルスラン。腕を出して下さい」

 リョウは懐から昨日と同じ黒いリボンを取り出すと、ほんの少しだけ不服そうな顔をしながらも言われるままに腕を差し出した男の上腕部分にそれを巻き付けた。

「どうか怪我をしませんように。御武運をお祈り申し上げます」

 器用に結び目を作ってから、昨日と同じようにその端に口付けを落とした。

 リョウの頭の中には、先程の怪我を負った男のことがあった。どんな立ち会いだったのかは分からないが、男の左側の太もも部分は大きく刃物で切り裂かれていた。

 どうかユルスナールは無事試合を終えられますように。リボンに触れた指は微かに震えていたが、膨れ上がりそうになる不安を心の内側にぎゅっと押し留めた。

「ありがとう」

 機嫌を直して笑みを浮かべたユルスナールにリョウも微笑み返していた。


 そうこうするうちに、

「おーい、ルスラン!」

 掲示板の方に集まっている出場者たちの中から、大会運営に回っていると思しき兵士から声が掛かった。

 『今行く』と合図を送るように片手を小さく振って、そのまま踵を返したユルスナールの後ろをリョウも同じように付いて行こうと思ったのだが、あの集団の中にいる一人の男の存在に脚が竦んでしまった。

 こちらに鋭い視線を投げているのは、先程の水場で鉢合わせをしたレオニードだった。

 男たちの間に一体どんな確執があるかは良く分からなかった。だが、少なくとも【プラミーシュレ】での出会いが、その間を余計に拗らせてしまっていることには気が付かざるを得なかった。それも全て元をただせば、レオニードの勝手な思い込みというか、見当違いな逆恨みのようなものなのだろうが、周りがそう思っても本人がそれを真実だと思っている以上、どうしようもできないものなのだ。

 なんて面倒な男だろう。かつてブコバルがあの男のことをそう評したように、リョウは思わずげんなりとしたのだが、その憎悪と悪意の矛先が向かうユルスナールと自分にしてみれば、それを冗談として笑い飛ばすことなど出来ようはずがなかった。

 リョウはただただ、この大会が無事に終わってくれることを祈るしかなかった。

 そして、リョウは少し離れた所から、他に掲示板の周りに集まった野次馬たちの中に遠巻きに紛れるようにして、朗々と読み上げられてゆく対戦者の番号と試合会場のくじ引き結果に聞き耳を立てたのだった。

 ちょうどその時に、掲示板の前に集まった男たちの中に、リョウはヤステルの茶色い頭部に引き続き、リヒターの横顔とバリースのひょこひょことせわしなく動く頭部を発見した。そして、彼らに声を掛けるべくそちらに足を進めたのだった。


なんとかユルスナールにリボンを渡すことができました。ちょっとあっさり流し過ぎたかもしれません。それでは次回に続きます。ありがとうございました。

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