絡み合う糸
翌日、武芸大会二日目は、個人戦一色の一日となった。
団体戦の方は、昨日一日で決勝戦に進む二組が選び出された。第一会場の組み合わせからは、ユルスナールたちの第七師団、そして第二会場の組み合わせから激戦を勝ち抜いたのは、前評判通り近衛の精鋭が揃う第一師団だった。両者は、翌日の大会三日目、国王を始めとする王族たちを前にした天覧試合でその頂点を決めることになった。
本日、試合会場では一日目に引き続き個人戦が行われ、参加者の更なるふるいが掛けられる予定だった。決勝戦に進む栄誉を与えられるのは、二人の剣士たちのみ。会場は宮殿前広場の西側二つの区域が主たる場所だが、この日ばかりは団体戦で利用された東側の二会場も使用された。
個人戦の方にも出場するというユルスナールの出番は、早くとも午後からになるだろうとのことだった。昨年の上位入賞者十名までは、その翌年も出場を望めば、最初の予選を免除されて最終的に参加者が五名から十名に絞り込まれた時点で参加をすることになるのだという。前年の上位者に対する特典のようなものだろう。
という訳で、リョウとしては二日目の朝はゆっくりしていようかと思っていたのだが、昨日の興奮を引きずるようにしてやってきたバリースの急襲を受けて、午前中の内から試合会場の方へと引っ張り出される羽目になってしまった。
一緒にいたヤステルとリヒターは無理することはないと言ったのだが、王都に滞在する機会などそうそうある訳でもなく、今後このような機会も滅多にはないだろうとの思いから偶にはいいかと思い、リョウはその誘いに乗ることにした。
これまで顔を見せなかったアルセーニィーとニキータの二人は、明日、合流することになるのだという。やはり最終日の天覧試合は、この国の男であるならば欠かしてはいけないようだ。
心配していた左頬の腫れは、一晩経ってすっかり引いた。侍女のイーラに塗ってもらった軟膏が大分効いたようだ。薬草の成分が身体の中に浸透した所為か、昨晩は身体が火照り随分と寝汗をかいていた。この国の薬草の成分は、やはり自分の体には馴染みがない所為か、その効用の仕方は前回に引き続き、少し極端でもあった。
昨日と同じ宮殿前広場では、既に多くの人々が集まっていた。個人戦が行われる西側の会場は、団体戦が行われた東側の会場と比べると大分その趣が異なった。
団体戦の方はれっきとしたこの国の軍部の兵士たちだったが、こちらは傭兵や集団には属さない一匹狼、風来坊と言った軍部には所属をしないが、剣の腕には自信があるという男たちが多く集まっていた。
大きな剣を背中に担いだいかにも荒くれ者といった風体の輩もいた。勿論、出場者の中には腕試しとして参加した兵士たちの姿もある。そして、軍人ではない貴族の子弟もちらほらとだが見受けられた。一言で言えば、様々な階層の男たちが集う雑多な集団だった。その中には、本当に珍しいのだが、女性剣士の姿もあるのだとか。
それでも目に付くのは、やはり、どことなく荒々しい粗野な雰囲気を持つ屈強な男たちが多かった。そのような男たちが点々と屯っていたりする様は、まるで場末の酒場や盛り場のような空気が醸し出されていた。
個人戦の会場の掲示板の所では、沢山の数字が並んだ布が張り出されていた。一桁台から始まり最後の方は二百番台の数字が並んでいる。個人戦の出場者は受付時に連番となっている番号札を貰い、それが試合中の名前に代わる個人の認識番号となった。全ての出場者が登録を済ませた後、番号の若い順から籤を引いて行き、そこで引き当てた番号が対戦者となり、声高に呼ばれた後に試合となった。そして、その後、審判たちは、ひたすら立ち会いの数をこなしてゆくという感じだった。
掲示板には、昨日の時点で戦いに勝ち残った勝者の番号が記されていた。最終的に出場者の総数は優に二百名を越えたようだ。
立ち会いの勝敗は、団体戦の時と同じように寸止めで、相手の急所を先に突こうとした方が勝ちとされた。同じように審判が合図となる旗を持って、その勝ち負けを判定した。
ただ団体戦の時と違うのは、引き分けがないということだ。どちらかが勝つまでの勝負となる。そして、これは団体戦の時とは大きな違いの一つだと言えるのだが、こちらの試合では、大抵負傷者が出るのが常だった。
良く訓練された兵士たちとは違い、こちら側の出場者はそれこそ階級も違えば生い立ちも違い、其々が扱う得物も違う雑多な人々の集まりだった。そのような理由から、日頃から厳しい訓練をしている兵士たちのように必ずしも剣を止める間合いが上手く取れるとは限らなかったからだ。
往々にして刃が男たちの肌を掠める場合が多々あった。中にはそれを故意に行う性質の悪い場合もあるようだ。要するにこちらの方がより実戦に近い形となるのだ。
怪我を負った出場者たちの為に個人戦の会場では救護班の天幕が大々的に設けられていた。中に詰めるのは、王都に拠点を置く部隊―――この場合、第一、第二、第四師団だ―――の軍医と主に金創を得意とする神殿の神官たちが臨時に駆り出されるのだそうだ。その他、街中で治療院を営む術師たちも呼ばれたりするようだ。
救護班の天幕は、掲示板から見てもすぐ脇の目に付く所にあった。その入り口には大きく覆いが片側に寄せられていて、中からは白い神官の装束に身を包んだ者や術師と思われる長い外套を羽織った者たちが出入りしているのが見て取れた。
万が一、重傷を負った場合は、応急処置をした後、状況を見て、そして怪我を負った人物の出自や所属などを鑑みてから街中の治療院や宮殿内の医務室など適当と思われる場所に移されるのだという。
掲示板での数字を見る限り、昨日の時点で出場者たちは三十人前後にまで絞られていた。これを午前中で一桁台にまで絞り込み、そこから昨年の上位者を加えての対戦となるのだ。
救護班の天幕の入り口を何気なく眺めていると、中から赤い帯を締めた一人の神官が現れた。
リョウはたなびくその赤い色に吸い寄せられるようにその男の方を見た。
視線が合った瞬間、その柔和な面立ちが穏やかな笑みを刷いたのが分かった。
そのまだ年若い神官には見覚えがあった。街中の治療院に祈祷治癒師として治療に当たる為に入っていたスタースという神官だった。
「スタースさん!」
「リョウ。ちょうど良かった」
挨拶をする為に近づいた小柄な人物にスタースはあからさまに顔を綻ばせた。
開口一番に思ってもみないことを言われてリョウは内心首を傾げた。
「今日はこちらで治療をなさるんですか?」
この天幕の設置理由やその性質については、先程ヤステルとリヒターから教えてもらったばかりだった。
街中の治療院の方ではなく、今日はこちらに駆り出された形になったのだろう。優秀で仕事熱心、そして身軽なスタースは、神殿の内外を問わずに何かと重宝をされている存在なのだろう。
「ああ。そうなんだ」
特徴的な片笑窪を右の頬に浮かべて小さく首を傾げながらスタースが微笑んだ。
その瞳がついと期待交じりにリョウを見ていた。
「リョウ。今、暇かい?」
「はい?」
「いやさぁ。試合を観に来たんだろうとは思うんだけど、こっちも何かと人手が足りなくってさ。良かったら、手伝ってもらえないかなぁ……なんてね」
思ってもみない申し出にリョウは驚いたのだが、別に反対をするようなことでもなかったので快く承諾をしようとして、はたと思い、後方を振り返った。そこには掲示板の前辺りで次はどの会場を観に行こうかと相談をしているヤステル、リヒター、バリースの三人がいたからだ。
「ちょっと待ってて下さいね。多分、大丈夫だとは思うんですけど。一応、友人達に断りを入れておきたいので」
「本当かい?」
好感触の返事にスタースはその優しげな顔に喜色を浮かべた。
一緒にいた三人に救護班の手伝いを頼まれたのでそちらに行きたいと告げれば、ヤステルとバリースの二人は、その目を少し見開いて驚いたようだった。実家が街中で大きな薬種店を構えているリヒターは、この間、治療院でのお使いの為に訪れた店先でリョウとは顔を合わせており、リョウが神殿の【祈祷治癒】の授業を取っていたことを知っているので、『ああ、そうか』と訳知り顔でおっとりと頷いた。
ヤステルとバリースは少し驚いたようだったが、リヒターの説明で直ぐに納得をして、『好きにしていい』と笑顔で送り出してくれた。自分たちは会場の方にいるから、後で合流しようと約束をした。ユルスナールが個人戦にも出場することをバリースたちも知っていて、その時は必ず観戦をするとのことだったので、会場で会おうということになった。
それからリョウは、天幕の外側で待っていたスタースに友人たちと話が付いたことを告げてから手伝いをするべくその中に入ることになった。
中は質素な木の長椅子が並び、端の方には大きな細長いテーブルが置かれ、その上には薬草やらを詰めた持ち運びが可能な大きめの木箱と治療の為の器具や包帯や油紙などが入った箱、それから桶や盥等がきちんと並べられていた。ちょっとした野戦病院のような趣だ。怪我人を寝かせる為の簡易ベッドのような木製の低い戸板に足が付いたようなものも運び込まれていた。中には既に数名の男たちが居て、医者の治療を受けていた。まだ試合が始まってはいないとのことなので、昨日の経過を診てもらっているのかも知れない。
軍医や街中で術師をしている男たちも中にいるとのことで、その中で手伝って欲しいと言われたのだから、中には余程沢山の人たちが治療を待つことになるのだろうかと思ったのだが、その予想は直ぐに外れることとなった。
「ええと、オレは何をすれば?」
足りない人手というのは、薬草を磨り潰したりするような地味で根気のいる作業の為だろうか。
天幕の中をぐるりと見渡してから自分の存在意義を尋ねるべくゆっくりと振り返れば、スタースは、ほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた後、そっと天幕の中でも奥まった所にある一角を控え目に指示した。
「その……何と言うか、細々とした雑用…みたいなものなんだけどね」
そこは、持ち寄った薬草やら包帯やらが乱雑に散らばっている空間だった。最初に目に入った場所とは大違いの汚さだ。
「片付けをすればいいんですか?」
その周りには使用した器具や汚れた布などが積み上がっていた。取り敢えず合間にそこに置いたという感じだ。要するに治療を優先するあまりに片付けの方が追いつかなかったということなのだろう。それだけ昨日は大変であったということなのか。修羅場の名残りというようなものに見えた。
それにしても、その箇所だけは、医療関係者にあるまじき汚さだった。道具類は放っておいたら大変なことになる。使ったら昨日の内に全て洗浄を済ませて翌日に使えるようにすべきであるのに、それだけ昨日は忙しかったということなのだろうか。
「気が付いたら、そこだけそのままになってて」
弁明するようにスタースが頭を掻いていた。
「分かりました」
リョウは大きく息を吐きそうになるのを堪えて、取り敢えず、肩から斜めに掛けていた鞄を外し、外套を脱ぐと上着の袖を気合十分に腕まくりをした。
まず貴重な薬草類を所定の位置に戻す所から始めた。それから新しい布やら包帯やらを使い勝手がいいように然るべき場所に配置し直した。
そして、汚れた布やら使ったすり鉢やらの器具類を桶の中に入れるとリョウはスタースを振り返った。
「こちらは洗った方がいいんですよね?」
「ああ、そうだな」
それから簡単に水場となっている場所を教えてもらい、言われた道筋を頭の中に叩き入れてから、
「それでは、ちょっと洗ってきますね」
「ああ。済まない。頼んだよ」
尚も申し訳なさそうな顔をしている人の良い神官に気にすることはないと微笑んでから、洗い物の入った桶を手に、颯爽と救護班の天幕を後にしたのだった。
スタースから教えてもらった水場は、会場から西の方角に進路を取り、黄味がかった柔らかな乳白色をしている【アルセナール】の外壁がよく見える所にあった。目印となる細い石畳の道を辿ってゆくと建物の陰になった場所に小さな水場がひっそりと備えられていた。注意をしていないとうっかり通り過ぎてしまいそうな程の控え目さだった。
石で囲まれた小振りの囲いとそのすぐ脇には人の膝の高さ程の四角い石柱が設置され、そこに小振りの青い【注水石】と水が出る穴が開いた部分があった。石柱には溝が穿たれており、緩やかに斜めに走る注ぎ口から水が流れ出て、その下の囲い部分に溜まるようになっていた。囲いの部分には可動式の小さな堰があり、それを動かすことで中の水を排出する仕組みになっていた。
リョウは注水石に手を翳すと水を流した。そして囲いの部分にある堰を止め、ある程度水が溜まった所で桶の中のものを洗い始めた。
真冬の水は冷たかった。指先がじんじんと痺れるようだ。薬草をすり下ろす時に使った乳鉢の中のこびりついたものを洗い流す。それから血や薬で汚れた布巾の類を濯いだ。
遠く切れ切れに会場の方から歓声が聞こえ始めていた。どうやら個人戦の試合が始まったようだ。
それにしても、この汚れものの量を見る限り、個人戦の方ではかなりの頻度で負傷者が出てきているようだ。団体戦の方は、リョウが観戦をした限りでは、誰も怪我らしい怪我を負ったものは見受けられなかった。
こちらの方は随分と趣が違うのだろうか。
不意にリョウの背中を冷たいものが走った。万が一、ユルスナールが怪我をしたら。そう考えると急に恐ろしくなったのだ。
だが、すぐに下らぬ想像を追いやるように目を閉じた。心配をしてもきりがない。それがここでのやり方なのだから。自分が出来ることとしては昨日と同じように怪我をせずに男が無事試合を終えられるようにと祈るくらいだろう。そう考えると益々あのリボンを渡さない訳にはいかなかった。
リョウはそっと上着のポケットの中に忍ばせている黒いリボンを服の上からその感触を確かめるように触れた。今朝方目が覚めて、寝台のすぐ脇に置いていたこのリボンに祈るような気持ちで願いを込めた。少しでもあの男の助けになるように。厄除けになるようにと心を込めて祈ったのだ。
そして粗方洗い物を終えて、天幕の方へ戻ろうと立ち上がった時だった。
遥か後方からこちらに向かって石畳の上を歩いてくる人影があることに気が付いた。
この付近には薄く石畳が小道のように敷かれ、宮殿前広場に通じる場所と【アルセナール】一帯を結んでいるようだった。この水場はその小道からは少し離れた所にあったが、それでも大股で十歩も行けばぶつかるというようなすぐの距離である。小振りな建物と建物の間、ちょうど木陰になったぽっかりと空いた空間だった。
多くの見物客で賑わう広場とは打って変わって、こちらの【アルセナール】近い区域には人通りが全くなかった。この場所を教えてくれたスタースも水場の付近は滅多に人が立ち入らない場所なのだと話していた。だからこそ、ここでは宮殿の区画にありながらこのような洗い物が出来るのだと言っていた。
こちらにやって来るのは三人の男たちだった。
一人は防寒用にたっぷりとした襟無しの外套を羽織ってはいたが、その下に覗く簡素な丈の長い白の上着に同色のズボンを身に着けていることから神殿の神官であることが知れた。こういう時、神官たちの服装は一目瞭然だ。帯の色は濃い紫色だった。自分が知るレヌートのものよりももう一段濃い色のようだ。ということはかなり位の高い人なのだろう。その直ぐ隣を歩く男は、貴族の男たちが身に着けているような膝上丈程の丈の長い上着にズボンを佩いて、その腰には剣を下げていた。上着は深緑色をしていた。その後ろから静かに歩みを進める男も色合いは濃い灰色で地味だが、似たような形の服に身を包んでいた。
リョウは、このまま直ぐに小道の方に戻るのではなく、その男たちの一団が通り過ぎるのを待ってからにしようと考えた。余り深い意味はなかったのだが、何となく背後に人の気配を感じるのは嫌だったからだ。
だが、すぐにその事を後悔することとなった。
リョウは小道の手前で顔を伏せて、男たちが取り過ぎるのを待った。だが、歩いていた男たちの足取りが少し離れた所で突然止まった。そこでどうしたのだろうとゆっくりと顔を上げた時、リョウの身体は突然鉛のように動かなくなった。
三人の男たちの視線がこちらに向いていた。その内の一人は、あからさまに驚いた顔を見せたが、次の瞬間には嘲るような高慢さえある笑みを浮かべて皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
「これは。これは。こんな所でお前に会うとは」
あの時と変わらぬ剣呑さを隠そうともしない強い視線が、その特徴的な色彩と顔立ちを捕らえていた。
対するリョウも信じられない気分でその場に固まった。
何故この男がここにいるのだ―――そう思いかけて、そう言えば、【エリセーエフスカヤ】で、食事中に乱入してきたこの男は、一室を去り際、ユルスナールに武芸大会の話を振っていたことを思い出した。
「お前までここに来ていたとはな。ルスランの腰巾着が。この間は随分と嘗めた真似をしてくれたものだ」
吐き捨てるようにして出された言葉を頭が理解するのを拒否していた。あの時の理不尽な怒りと恐怖が沸き上がりそうになって体中がざわついた。何やら貶めるような酷い言葉を吐かれたとは思ったが、その実、それらはリョウの耳を素通りしていた。
その後も男は憎々しげに言葉を紡いでいたが、幸か不幸か、リョウの意識には到達していなかった。
「これも何かの巡り合わせか」
―――――まぁいい。
一頻り悪口を口にして気が済んだのか、男が不意に口を噤んだ。
リョウはじっと息を潜めるようにして立っていた。足が棒のように竦んで動かなかった。洗い終えたものを入れた桶を強く握り締めていた。
一際鋭く男がこちらを睨みつけた。あの時と同じ凍てついた瞳だった。
「小僧、ルスランに会ったら、精々首を洗って待っていろと伝えておけ」
男の高揚に共鳴をするようにかちゃりと腰に佩いた剣の柄の部分が鳴った。
「おや、こちらはボストークニ殿のお知り合いですかな?」
男の隣を歩いていた神官が、ぎょろりとした魚のような大きな目を糸のように細めた。
どこか執拗な視線にリョウの全身は鳥肌が立ちそうになった。舐めるような不躾な視線だった。高位であることを示す濃い紫色をした男の帯が小さく視界の隅で揺れた。
神官は、恐ろしく背の高い男だった。ひょろりとした枯れ枝のような体つきがそれを助長させているようにも見えた。
隣からの問い掛けに貴族風の男は不服そうに鼻を鳴らした。
「知り合いという程でもない。あの男の所の者だ」
「ほほう、ということは第七の?」
あの男―――それだけで話は通じたらしかった。
「ああ」
「そうでございましたか」
神官は何やら思案するように頷いて見せた後、不意にリョウの方を見た。
「それにしても見事なお色ですなぁ」
男の視線が自分の頭部に注がれている気がした。
まるで舌なめずりをするようにその目を細められて、リョウは無意識にあとじさっていた。
これ以上、この場に長居はしたくなかった。
「オレはこれで失礼します」
リョウは、そう言って桶を抱え直すと、その場から逃げるようにして天幕へと戻るべく小道を宮殿広場の方へ向けて駆け出したのだった。
リョウは足早に歩きながら(走らなかったのはなけなしの意地だ)、先程の男たちの事を思い出していた。
あれはレオニード・ボストークニ。二か月ほど前に滞在していた【プラミィーシュレ】で散々な目に遭う原因となった男だった。
王都は広い。何もこのような場で鉢合わせしなくともいいだろうに。何の因果であろうか。
あの時の極度の緊張と怖さを思い出してか身体が震えそうになった。あの男の直ぐ後ろに静かに控えていたのはあの時の従者であった。
それにあの隣にいた神官の男。あのぎょろりとした魚のような大きな目が爛々と怪しい光を湛えてやけに不気味に見えた。
神殿に仕えている神官たちの中で、あのような得体の知れないいかがわしさのようなものを醸し出している男がいることにリョウは少なからず衝撃を受けていた。自分がこれまでに相対したレヌートを始めとする神官たちは、皆、どこか高潔で浮世離れした感のある穏やかな空気を持っていたからだ。
あの男から注がれた不躾な視線を思い出してリョウの身体は震えた。
それにしても、ブコバルによればあの昔からユルスナールを敵対視しているというレオニードという男も武芸大会に出場しているのだろうか。格好を見る限り軍部の人間には思えなかった。ということは個人戦の方に出場をしているのかもしれない。そこでユルスナールと対戦することを待ち望んでいるのか。何やら不穏な空気を滲ませていた男にリョウの中で小さな不安のようなものが生まれていた。
「おや、逃げられてしまいましたな」
―――――残念ですな。
その言葉ほど感情が籠っているでもなく、いや、寧ろ、思わぬ掘り出し物に一人心躍らせるように神官のクルパーチンが言った。
その視線の先には、足早に遠ざかってゆく小さな背中とそこに揺れる黒い頭髪が見え隠れしていた。
「あの者は第七の兵士ですかな?」
「さあな。兵士というには若すぎるだろう」
「確かに。漸く見習いに入ったという位でしょうな」
「こんな所で顔を合わせることになるとはな」
二か月ほど前の屈辱を思い出すようにレオニードの歯がぎしりと鳴った。
腕利きと評判の鍛冶職人の男の弟子だと聞きつけて些か強引な手段ではあったが、あの少年と接触を持った時のことは今でも歯がみするほどに良く覚えていた。
頑固で偏屈だと有名な鍛冶屋へ口利きを頼んでもらう積りだった。だが、そこであの少年には散々にコケにされたのだ。鍛冶職人から剣の製作を断られた末での苦肉の策ではあったが、あの時は使えるものならば何でも使う積りでいた。それだけ切羽詰まっていたのだ。そんな中、あの少年は自分の申し出を断ったばかりでなく、こちらを憐れむような目をして言ったのだ。侮蔑に似た寂しい目をして言ったのだ。
あの鍛冶屋は、決して自分の依頼を受けたりはしない。鍛冶職人たちは、己が命を懸けるべき相手を自らの目で選んでいる―――要するに自分はそれに値しないのだと大胆にも言ってのけたのだ。
恐喝まがいのようなことまでして作られた剣に意味はないとまで言ったのだ。
思い出すだけでも腸が煮えくりかえりそうだった。これほどまでの侮辱があったであろうか。しかも相手はよりによって年端の行かぬ小童だったのだ。
自分は鍛冶職人を志す者ではないと言っておきながら、あの者の首には良い剣を作る時に使う【キコウ石】がお守りのようにぶら下がっていた。そして、あの者が身に付けていた二本の短剣は、あの街でも有数の鍛冶職人が作った代物だった。それだけのものを備えておきながら、あの少年は自分は鍛冶屋とは関係がないと嘯いたのだ。
ならば、最終手段としてあの者を使って鍛冶職人にちょっとした提案を行おうと思っていた矢先、忌々しいことに【ツェントル】の邪魔が入り、ふてぶてしいあの男の仲間があの少年を連れて行ってしまった。
そして、再び、口利きの依頼の為に訪れた【エリセーエフスカヤ】では、何とあの男の傍に似たような色彩と顔立ちの【女】が居たのだ。あの時、レオニードはかなり酒を過ごしていたので、しかと確かめることが出来なかったのだが、あれはあの時の小僧のようにも思えた。しかも驚くべきことに【女】の格好をしていた。
この際、男だろうが女だろうがどちらでも良かった。レオニードにしてみれば、あの少年があの男に繋がるものである―――それだけで十分だった。
鍛冶職人への口利きを断っただけでなく、人を散々愚弄したあの黒髪の小僧が、あの男とも親しげにしていた。これ以上の忌々しい偶然があるだろうか。
だが、それと同時に、レオニードはこれを好機とも捉えた。ずっとあの男に一杯喰わせなくては気が済まなかった。これまで世話になったことへの礼を込めてだ。
元々依頼をしようと考えていた鍛冶職人の男には結局険もほろろに突っぱねられたが、【プラミィーシュレ】滞在が徒労に終わった訳では無かった。運良く、街の有力者である男に他の優秀だと評判の鍛冶職人を紹介してもらい、その鍛冶屋が誂えたという剣の中からこれだと思う一振りを選んだのだ。
その時の一本が、今、レオニードの左側のベルトにぶら下がっていた。
もうすぐだ。もうすぐ。あの男と剣を交える時がやって来る。この時をどんなにか待ったことか。昨年の雪辱を果たすべく、日夜、剣の技を磨いてきたのだ。全てはあの男に己が目の前で膝をつかせる為に。あの澄ました顔に泥を塗りつける為に。
胸内に渦巻く高揚感に男の手が震えそうになった。それをギュッと拳を握り締めることで流していた。
「あの若者は第七の手の者なのですな?」
再び確認をするように神官の男が口にした。
「ああ。恐らくな」
兵士であるかは判別が付かなかったが、あの男と繋がりがあることに違いはなかった。
「そうでございますか。ヒッヒ」
枯れ枝のような細い男が、何やら愉快そうにそのぎょろりとした大きな目を細めていた。返す返すも生臭い匂いのする男だった。
「それでは序でと申しては何でございますが、面白い余興をご用意いたしましょう」
「ほう? 貴殿の口から余興というのも珍しいことだな」
神官にはあるまじき俗物的なもの言いにレオニードが興味を惹かれたようにその目を細めた。
「それだけ言うのであれば楽しめるのだろうな」
「ええ。それはもう勿論でございますとも。ボストークニ様にとっては特にお楽しみいただけるものになるかと。ヒッヒ」
神官の男が含み笑いをする度にその喉笛がひゅうひゅうと鳴った。
―――――それで、相談と言ってはなんですが。
クルパーチンはそう言って、レオニードの耳元に顔を寄せるとその耳元でなにやら囁きを吹き込んだ。
淡々としていたレオニードの表情が、一瞬の驚きの後ゆっくりと変化し、悪どい感の笑みがその口元に浮かんだ。そこには、どこか満足そうな愉悦を湛えた表情が浮かび上がった。
「ハッ、それはいい。さぞかし見物だろうな」
「ええ。それはもちろん。皆さんをあっと言わすことになりますでしょうな。ひっひ」
計画の成功を思い描いてか、恍惚に似た表情を浮かべた神官をレオニードはややさげずむような高慢さで流し見た。
「それにしても神官である貴殿が時としてかように悪どいことを思いつくものとはな」
それはレオニードなりの厭味のようなものであったのだろうが、神官は別段気にした様子もなく続けた。
「ヒッヒ。それ程でもございません。我らは崇高なる使命の為に日夜研鑽に励んでおりますからな」
その台詞は余りにも不釣り合いで白々しいとは思ったが、レオニードはさして気に留めずに小さく笑った。
「まぁ、いいだろう。そちらはそちらで好きにすればいい」
そう言って片手を一振りして見せた男に、
「ありがとうございます」
神官は小さく満足げに笑みを浮かべたのだった。