陽炎の下
第一会場、第三試合で勝ちを収めたユルスナールたち第七師団は、そのまま翌々日に控えた決勝戦に臨むことになった。その時の対戦相手は、隣の第二会場での結果を待ってからになるのだろう。
始まりの時と同じように審判を中心に第七と第五の選手たちが整列をした。皆、汗と埃に塗れていたが、表情はすっきりとしており、全力を出し切って戦ったという充実感に満ちているように思われた。
この日、第一会場は、これで試合終了となった。観客たちは、いまだ興奮冷めやらぬ様子で口々に目にした対戦の話で盛り上がりながら周囲に屯っていた。少しでもこの興奮を分かち合おうと新たな同志探しに余念がなかった。
リョウも半ば呆けたように立ち尽くしていた。間近で耳にした歓声が耳の奥で鳴っているようだ。『手に汗握る』とは良く言うが、まさにその通りで、固く握り締めた掌を開けば、真冬だというのにそこにはじっとりと汗が滲んでいた。リョウはポケットの中からハンカチを取り出すと汗を拭った。
「さて」
空気を入れ替えるように口にしたゲオルグに、リョウは再び『ありがとうございました』と謝意を口にした。
ゲオルグならば、なにもこのようにむさ苦しい人混みの中に混じらなくとも特別席の方で観戦できたのだ。周囲に着飾った女たちを侍らせて。それこそこの男の得意とする分野だろう。それを態々こちらの個人的な事情に付き合わせる羽目になってしまったのだ。相手に気を遣わせてしまったことを少々、心苦しく思っていた。
「本当に。キミは他人の心配をしてばかりですね」
恐縮することしきりのリョウの言葉にゲオルグはおかしそうに笑い、気にすることはないのだと微笑んでいた。
「お陰で収穫もありましたし、それに面白いものが見られそうですからね」
そう言って意味あり気に目配せをすると徐に人気の無くなった試合会場の方へ顔を向けた。
「ほら」
リョウは、ゲオルグが何を言わんとしているのかが分からなかったのだが、その視線の先にこちら側に歩いて来る一団を見てぎょっとした。
そこには試合を終えたばかりの第七の面々がいた。先頭を切ってやって来るのは、もしかしなくともユルスナールだった。乱れた銀色の髪を鬱陶しそうに掻き上げて、その隣に並んだブコバルも何やらニヤニヤと妙な笑みを浮かべながらこちらに向かって来る。その後ろにはアッカやロッソ、アナトーリィーの姿もあった。
一体、どうしたというのだろう。皆、まだ防具を着けたままの物々しい姿だ。
こちらに近づいてくる迫力ある一団に周囲にいた人々が何事かと目を白黒させて小さく囁きを交わしていた。
ユルスナールはリョウを真っ直ぐに見据えると脇目も振らずにやってきた。男の強い視線に晒されたリョウは、何故かその場から逃げ出したい気分に駆られてしまった。
その理由を探そうとして、不意にもしかしなくとも隣に第三の団長がいるのは非常に不味い事態なのではということに思い至った。この間の【アルセナール】での一悶着でユルスナールたちとゲオルグの間には、なにやら含みがありそうだと感じたばかりであった。少なくともユルスナールたちは、ゲオルグに対して余りいい感情を抱いていないと思ったのだ。
だが、時既に遅し。
妙な焦燥感を抱えたリョウを余所に、ユルスナールは、ちょうど見物客と出場者たちを隔てる杭と綱が張り巡らされた境界の所まで来ると徐に手を伸ばして、無言のままリョウの大きな当て布がしてある左側の頬にそっと触れた。
男の形の良い眉が痛ましそうに下がったが、リョウは気に留めないように微笑んでいた。
「お疲れさまでした。ルスラン」
そして、朗らかに微笑むと先の団体戦で勝利を収めたことを労った。
「まずはおめでとうございます」
相手に疑問を差し挟む間を与えないようにと立て続けに口を開いた。
「今度はいよいよ決勝戦なんですよね。すごい」
そして、隣に立つその相棒を見上げた。
「ブコバルもお疲れさまでした」
「おう」
「それにしてもドーリンさんには驚きましたよ。まさか、あのように剣を得意とされるとは思ってもいませんでしたから。普段の様子からは全然想像が出来なかったので、本当に吃驚でした」
「リョウ」
周囲の観客たちの興奮が乗り移ってか、いつになくやたらと饒舌に言葉を紡いでゆくリョウに、ユルスナールが低く声を掛けた。その大きな手は、いまだ頬から首の辺りを躊躇いがちに彷徨っている。
「アッカもロッソもアナトーリィーも。皆さん、お疲れさまでした」
「ああ」
ユルスナールたちの後ろから顔を出した三人は、若干一名から発せられる何がしかの不穏な空気を感じ取ったのか、顔を出すと直ぐに身に付けた防具類を外すべく、足早に天幕の方へと去って行った。
「リョウ」
「それにしても…」
「リョウ」
そこで漸くユルスナールは焦れたように些か剣呑な声を発していた。
「これはどうした?」
「何がですか?」
その返答にユルスナールの片眉が器用に跳ね上がった。
「これは、どうした?」
もう一度、はっきりと音節を区切って口に出された問い掛けをリョウは何事もなかったかのようにさらりと流していた。
「ああ、これですか? すみません。お見苦しいものを。単なるちょっとした事故のようなもので。大したことではないんです。ちょっとぶつかってしまっただけで。ただ、手当てをして下さった方が随分と丁寧な方でして、少し大げさになってしまっただけなん……で……す」
ユルスナールは親指を伸ばすとリョウの口元に宛がい、その後も滔々と続きそうになる弁明を封じた。
普段、口数の多くない者がこのように淀みなく言葉を紡ぐのも却って不可解に思うことだった。肝心な所でお茶を濁して有耶無耶にしてしまいたいのだろうが、ユルスナールがそのような見え透いた策に引っ掛かる訳がなかった。
「ごちゃごちゃとした御託はいい。何があった? あ?」
試合後のことでいつになく気が立っているのか知らないが、普段の倍増しの怖い顔で凄まれて、リョウは一瞬、怯みそうになったが、それでも小さく息を吐き出すときっぱりと笑顔で答えた。
「いえ。なんでもありません」
それはある意味、完全な拒絶だった。
リョウとしては、ユルスナールを前に本当のことなど言える訳がなかった。ここでアリアルダの名を口にしてはいけない。それは本当にちっぽけな自尊心から端を発するのかもしれなかった。
それにこのような瑣末な事で大事な試合を控えている男を煩わせることはしたくはなかった。
リョウは、少し視線を下げると男の左腕に揺れる橙色のリボンをそっと見つめた。ユルスナールがリボンを受け取り、そこに巻くくらいだ。男にとってもアリアルダは大切な存在であるのだろう。それをまざまざと見せつけられた気がした。だが、そのことをこの場で口にしようとは思ってもいなかった。
それから再び、リョウはユルスナールに視線を合わせると『何でもない』のだと笑った。
そこからは、やたらと愛想よくにこにことして『気にするな。大したことではない』の一点張り。その顔を腫らすことになった原因やら経緯やらについては一切、口を割ろうとしなかった。
一度、こうと決めたら余程のことでない限り己の考えを覆そうとしない頑なな所がリョウにはあった。このことを本人が明かさないと決めた以上、相手が素直に口を割るとは思えなかった。自分も大概にして頑固な方だが、リョウにも似たような所があるというのはこれまでの経験上ユルスナールが感じていたことでもあった。
ユルスナールは大きく息を吐き出すと、この場ではそれ以上の追及をすることを諦めた。他にやり方は幾らでもあるのだ。
そうやって一旦は大人しく引いて見せたものの、その内心は心穏やかではなかった。
少し目を離した隙に傷を拵えて帰って来る。ユルスナールには、それは非常に胆の冷えることだった。この間の治療院の実習で街中に下りた時に負ったという首の傷も漸く癒えた頃合いだというのに。首にはその時の名残の包帯が巻かれていた。
肝心な時に傍にいてやれない自分がとても不甲斐なく、そして歯痒かった。だからこそ、どんな些細なことでもいい、相手に隠し事をして欲しくはなかったのだが、こちらの気持ちとは裏腹に向こうは心配を掛けまいとしてか、自分一人で解決をしようとする。それが、ユルスナールにはどうにももどかしくて仕方がなかった。
どうも王都に帰って来て以来、自分とそしてリョウを取り巻く環境は己の与り知らぬ所で随分と変化を見せているようだ。それも余りおもわしくない方向へと。
―――――そして、この男も。
ままならぬことの多い自分の周辺事情。今やその一つにも挙げられる男の存在をユルスナールは忌々しげに見遣った。
「こんな所で何をしている?」
抑えている積りでもかなり低い声が出ていた。
ユルスナールは、リョウの隣に我が物顔で立つ男へ冷ややかな視線を投げた。
この男がこのような場所で試合観戦をしていたと聞いたら第三の連中も度肝を抜かれるに違いない。それほどまでに珍しいことなのだ。第三の団長がこういった武ばったことを厭うのは、軍部内でも有名な話で、これまでこのような試合の真っ只中に顔を出したことはなかった。端から出場しないこともそうだが、己の部下たちが戦う様も見物しないのだ。元々第三師団は剣の実力を問われることの無い特殊な部隊だが、それでもこの大会期間中は、毎年、同じ軍の一団としてその参加者の中に名前を連ねるのだから、団長としては少しくらい興味を持っても良さそうなものである―――というのが、面と向かって口にはしないまでもユルスナールが常々思っていたことでもあった。
そんな男があろうことかリョウの隣にいた。恐らく、引き続きリョウに接触を持って色々と嗅ぎ回っているのだろう。この間の伝令騒ぎの一件も記憶に新しい。
人当たりの良さそうな外見を最大限に有効活用して上手い具合に相手の懐に入り込むのだ。ブコバルの言ではないが、本当にリョウは厄介な輩に目を付けられたと思う。術師に並々ならぬ関心を持つ強かなこの男の事だ。ひょっとしたらリョウとガルーシャの繋がりについても薄々感づいているのやもしれない。いずれにせよ、ユルスナールの目から見ても食えない男だった。
「いやですねぇ、ルスラン。あなたたちの雄姿を見る為に決まっているじゃありませんか」
お得意の万人を魅了すると揶揄されている笑みを浮かべて、しゃあしゃあと白々しい台詞を口にしたゲオルグをユルスナールは胡乱気に見遣った。
「うっへぇ、妙なことぬかすなよ、ゲオルグ。お陰でこっちは鳥肌が立っちまったじゃねぇか、おい」
ユルスナールが口を開こうとした所で、隣にいたブコバルが一息先にそのようなことを言って、あからさまに顔を顰めつつ己が太い腕を摩り始めた。
急激に体感温度が下がったのは、恐らく気の所為ではないのだろう。
試合が終わり防具を身に付けた押し出しのある男たちは、その額際に汗を滲ませていた。向こうとこちら、互いを隔てているのは、細い杭とそこに渡された細い綱だ。その綱の部分には、所々出場者の健闘を称える為に結ばれた色とりどりのリボンが、ひらひらと風に靡いていた。
「おやおや、それはいけませんねぇ。ですが、見るからに暑苦しいくらいですから、いっそその位でちょうどいいのではありませんか?」
ああ言えば、こう言う。ゲオルグも笑顔のままさらりと辛辣なことを言ってのけた。
ゲオルグが小首を傾げると癖の無い淡い金色をした髪がさらりと揺れた。
妙な緊張感が辺りに漂い始めていた。近くにいたゲオルグの知り合いだという兵士たちが、恐々としてこちらの様子を窺っているのが見て取れた。
徐々に剣呑さを増してゆく空気をなんとなく放っておくことが出来ずに、リョウは勇気を振り絞って間に入ることにした。だが、若干、腰が引けそうである。
「あの、ルスラン。ゲーラさんはワタシに付き合って下さったんです。宮殿の侍女の方々の控室のような所で偶々お会いしまして。ワタシが会場への道のりが不案内だったものですから、ここまで連れて来て頂いたんです」
ゲオルグを庇うように間に入ったリョウにユルスナールはあからさまに面白くないという顔をしたのだが、すぐにその台詞を聞き咎めた。そこには思いも寄らない単語が含まれていたように思えたからだ。
「宮殿の侍女部屋に行ったのか?」
「はい。手当てをして下さった方がエクラータ様付きの侍女の方だったので」
この武芸大会の会場にいた筈であるのにどうして宮殿なんかに、しかも侍女たちの控えの間などに行くことになるのか。ユルスナールにはリョウの足取りが全くもって見当付かなかった。
思いがけないことであったのか、虚を突かれた顔をしたユルスナールの傍らで、ブコバルがニヤニヤとその笑みを深くした。
「なんだリョウ。お前、俺たちが汗水垂らして頑張ってる間に侍女とよろしくやってたのかよ。あ?」
ブコバル流の性質の悪い冗談にリョウはそれが態とだと分かっていながらも心底呆れたような顔をした。
「人聞きの悪いこと言わないでください。そんなことある訳ないでしょう?」
―――――誰かさんとは違います。
かなり心外であったようで口を尖らせるとふいと横を向いてしまった。
そうこうするうちに天幕の方からシーリスがやってきた。シーリスは試合が終わったものの中々帰ってこないユルスナールとブコバルの二人組に業を煮やしたようだ。
「ルスラン、ブコバル。こんな所で何をやっているんです?」
開口一番、両者を窘める言葉を吐いたのだが、その視線がついとその杭の向こうに立つ小柄な人物を捕らえると小さく息を詰まらせた。
「リョウ! そんな所に………一体、どうしたんです?」
目敏く―――と言っても左の頬の湿布は存外人目を引くには違いなかったが―――リョウの左頬の状態に気が付いたシーリスが、慌てて駆け寄ってきた。
「可哀想に。こんな所に怪我をするなんて。おや、少し腫れているではありませんか」
そう言って痛ましそうに柳眉を下げた。
リョウは、その反応に小さく苦笑を浮かべていた。
自分が男であったら、このようなものなど本当にちょっとした掠り傷くらいの認識で全く問題にされないのだろうが、本来の性別を知っているシーリスは女が顔に怪我をすることはどうにも許せないことであったらしい。
シーリスの余りの仰天ぶりに却ってリョウの方が驚いてしまった。
これは少し大事を取って軟膏を塗ってもらったので、ベタベタするのが嫌で貼ってあるのだ。少しぶつけたくらいで何ともないのだとこれまでに繰り返した言葉を再び口にしていた。
シーリスは心配そうな顔をしながらもその説明で一応は納得したらしかった。
そこで漸くリョウの隣に立つ見慣れない人物の存在に気が付いたようだ。
「おや、ゲオルグ。珍しいこともあるものですね。明日は大雨が降るのでしょうか?」
「いや、大雨なんてもんじゃぁ済まねぇだろ。槍ぐらい降ってきそうだぜ」
この国でこの時分に雨が降ることは滅多になかった。シーリスとブコバル、二人の口振りから、どうやらゲオルグがこの場に顔を出すのは相当に珍しいことであるとリョウは悟った。
辛辣な言葉を吐いた二人にゲオルグは返すことなく感情の読めない笑みを浮かべていた。
その時、隣の第二会場の方から大きな歓声と野次が上がった。どうやら向こう側でも試合が終わったようだ。
不意に集まった面々の意識が逸れた所で、シーリスが空気を入れ替えるように言い放った。
「ほら、ルスラン、ブコバル。いつまでもそのままではみっともない。それを外してらっしゃい」
防具を外す為に控室である天幕へと戻るように促される。
シーリスの催促にユルスナールとブコバルは渋々と頷いた。第七の中でその実権を実質的に握るのは、影で北の砦を支えるシーリスであるのだろう。ここに図らずも第七の精神的序列が垣間見えたこととなった。
だが、ここですんなりと終わらないのが、ユルスナールという男である。
「リョウ、こっちに来い」
冷酷そうな薄い唇が唐突にそのような言葉を口にしたかと思うと前方から二本の腕が伸びてきて、あろうことかリョウの身体を脇の下から持ち上げ、瞬く間に杭と綱の境界線を跨がせた。硬い胸当てのひんやりとした感触がしたと思ったのも束の間、気が付けばその足元に下ろされて、リョウはその手を取られるとそのまま踵を返したユルスナールの後を引っ張られる形で付いて行く羽目になっていた。
「……ったく」
それを見たブコバルは小さくぼやくように口にしてから、のんびりと二人の後を追った。
「え? あの、ルスラン?」
突然のことにリョウは驚いて少し前を行く男を見上げたのだが、相変わらず澄ました硬質な男の表情からは、相手が何を考えているのかを読み取ることは出来なかった。
リョウはそっと後ろを振り返った。そこでゲオルグに小さく頭を下げて突然その場を去ることになった非礼を詫びた。ゲオルグは人当たりの良い笑みを浮かべて、こちらにひらひらと手を振っていた。
一人、その場に残されたシーリスは、足早に遠ざかってゆく体格の良い男とそれに引きずられるようにして半ば小走りに駆けて行く小柄な背中、そして、その後ろからのんびりと天幕の方へ向かって歩いて行く大柄な男の背中を視界に入れながら、小さく溜息を吐いた。そこには若干の呆れのようなものが混じっていた。
そして、徐に肩を竦めたかと思うとゆっくりと杭と綱で区切られた向こう側に立つ男を振り返った。
同じように小さくなって行くちぐはぐな三体の背中を追っているその眼差しは、心なしか和らいでいるようにも見えた。そのことを少し意外に思った。
「随分と良いことがあったようですね」
相手の機嫌が恐ろしく良いことには直ぐに気が付いた。そうでなければ、この男がこのような人混みに紛れているはずはない。日頃からむさ苦しいのと暑苦しいのは御免だと公言して憚らない輩だ。
「ええ。それはもちろん」
繊細な面立ちをしたその口元が、艶やかに弧を描いた。
すると何故か言い知れぬ悪寒のようなものがシーリスの背中に走った。相手の機嫌の良さに反比例をするかのようだ。
シーリスはこれ以上、この男とは関わりになりたくないと思った。
「それでは、私もこの辺で」
柔和な面差しに儀礼的な笑みを刷いてから静かに踵を返した。
同じような略式の詰襟の軍服を身に着けたその背中に柔らかな声が掛かった。
「ああ、シーリス。先程、ザガーシュビリ殿をお訪ねしたんですよ」
その言葉にシーリスは足を止めると緩慢な動作で振り返った。態々そのようなことを宣言した相手の意図を透かし見ようと菫色の光彩が細められた。
ゲオルグは、相変わらずその顔に男にしては艶やかな笑みを浮かべていた。だが、そこにあるこの男の本心は中々に読む事が出来ない。
束の間の戦士たちがいなくなった会場に風が吹き込み、顎の辺りで切り揃えられたゲオルグの細い髪を揺らし、その顔を半分覆った。
暫し、菫色の瞳と薄い灰色の瞳が静かに見つめ合った。
やがてどちらからともなく交差した視線が外される。両者共にそこにある表情は、判じ難い曖昧な微笑みを浮かべたままだった。
「………そうですか」
ただぽつりと小さく口にして、シーリスは何事もなかったかのように背中を向けると先程の仲間たちの後を追うべく天幕の方へと足を進めたのだった。
一方のゲオルグも、その口元には相変わらず微かな微笑みのようなものを浮かべながら、多くの人たちで賑わう試合会場を一人後にしたのだった。
有無を言わせない強引さで天幕の中に連れていかれたリョウは、第七の面々が身支度を整える傍で、臨時に置かれた木製の低い簡素な長椅子の上に控え目に腰を下ろしていた。
大きな体躯の男たちが周囲をうろうろとする中、その片隅で防具を取り外すユルスナールの姿を所在無げに眺めていた。
これから待っているのは説教だろうか。それともこの頬を腫らすことになった経緯についての詮議だろうか。いずれにしても自分にとって余りいいことではないに違いない。それは黙々と身に付けた防具を外し、汗を拭う男から発せられる空気からも感じ取れていた。
リョウは頬を張られることになった顛末は、決して口にはしまいと決めていた。そこはどうしても譲れない一線であったからだ。
だが、たとえ本人がそう固く決意をしていたとしても常にそれが上手く行くとは限らないというのが世の常である。
伏兵は思わぬ所に潜んでいた。
「よぉ、聞いたぜ、坊主。お前、えれぇ別嬪にこっぴどく振られたんだってなぁ、おい」
不意に頭上に影が差したかと思うと座っていた椅子がぎしりと音を立てて傾いだ。
首に腕を回されるようにして、大きな体格の男がどっかりと隣に座ったのが分かった。
リョウは無言のまま、ちらりと横目に妙なことを吹っ掛けて来た男を見た。
艶やかな飴色をした肌に吊り上がり気味の灰色の光彩がこちらを興味津々に見ていた。よく発達した頬骨の直ぐ上の辺りには、黒い複雑な紋様が刺青のようにして入っていた。
第四師団の兵士だった。名前は確か…………。
「ザイーク」
窘めるように鋭くユルスナールがその男の名を呼んだ。
そうだ。少し面倒な匂いのする男だった。
だが、男はユルスナールの方をちらりと見ただけで気にすることなく、からかうように絡んできた。
「おいおい、一体何を言ったんだ。え? 相手はいいとこのお貴族さまだったんだろう? そんなお上品な女から手が出るなんざぁ、よっぽどのことじゃねぇか」
人の不幸を面白がるような声音で首を絞めるように回した腕に力が入る。
リョウはぐっと押し黙った。相手は興味を惹かれたように好奇に満ちた瞳を向けてきたが、対するリョウの顔からは一切の表情が抜け落ちていた。
だが、相手の反応など気にも留めずに尚も男が続けた。
「それにしてもよぉ、横っつらを張られたか、え? 随分いい音がしたっていうじゃねぇか」
―――――バチーンてよぉ。
リョウは今すぐ、この男の口を塞ぎたい気分になった。
辛うじて無表情を保った下では様々な感情が渦巻いていた。まさか他人からあの場面を見られていたとは思ってもみなかった。いや、木組みをした雛壇の影とはいえそこに人の往来はあったから、それなりに人目はあったのだろう。それでも皆、試合の方に夢中で、その裏手で行われていたちょっとした密会(のように見えたことだろう)に興味を持つような者など滅多なことではいないと思っていた。
それなのに。まさかこのような近くで、あの場面を目撃した人物がいるとは思いも寄らないことだった。
その口振りでは男自身が目撃したわけではないのだろう。恐らく知り合いの兵士か誰かがあの時の様子を見て面白可笑しく吹聴したに違いない。他人の不幸は蜜の味。年若い少年が貴族の娘に平手打ちを食う。身分違いの恋だとか片恋の顛末だとか。絵図らだけを見れば滑稽な一幕に違いないからだ。
周囲には妙な沈黙が落ちていた。図らずも乱入した男の口からリョウが怪我を追った時の状況が少しずつ明るみになってきた。それはリョウの事を良く知る第七の兵士たちにしてみれば笑えない状況だった。当人ならば尚更のことだろう。それに勘の良い男たちにはその裏にある何がしかの事情に察しが付いた。
少しずつ見えてきた事態にユルスナールが口を開こうとした矢先、
「なんのことでしょう? 人違いではありませんか?」
そんな白々しい台詞がリョウの口から飛び出していた。その口元には薄らと余所行きの笑みのようなものが張り付いていた。
「嘘付けや。おまえ、そんな顔しておいて、よく言うぜ」
男の太い指が左頬の湿布の部分を叩いて、新たな外部からの刺激にリョウは思わず顔を顰めた。
だが、その痛みをすぐにやり過ごして、
「お言葉ですが、あなた自身がしかと見た訳ではないのでしょう? ならばその時の人物がオレだということにはならないのではありませんか?」
言い逃れとしては苦しいとは思ったが、周囲にいる第七の兵士たちの手前、その事実を認めたくはなかった。
シラを切る言葉に、ザイークが鼻先で残忍な笑みを刷いた。
「あ? 残念だったな、坊主。そいつは黒髪に黒い瞳のひよっこで腕に第七の腕章をつけてたって話だがな」
これだけ揃えば、考えられる該当者は一人しかいない。
剣呑そうに目を細めた相手と暫し見つめ合い、リョウは不意に視線を逸らした。これ以上は迂闊に口を開けば墓穴を掘ることになりかねないと判断したからだ。だが、それは相手の言葉を認めたことでもあった。
沈黙を貫いたリョウにザイークはしてやったりというような笑みを刷いた。
「あの、腕を放して頂けませんか?」
首に回っていた太い腕が肩に滑り、そこから二の腕の辺りを撫で下ろされ、リョウの肌は言い知れぬ気味の悪さに粟立った。からかうにも性質が悪過ぎた。
「傷心なら、俺が慰めてやろうか? あんな気位だけが高いだけの女のことぐらい直ぐに忘れさせてやるぜ?」
耳元に吹き込まれた低い囁きに、
「いえ、結構です」
間髪を入れずに淡々と返す。馴れ馴れしいにも程があった。それに口にする台詞がどう考えてもおかしい。やはりこの男は、ウテナと同じ系統の人なのだろうか。
そのようなことを半ば現実逃避のように考えていれば、目の前に影が差した。
「………ザイーク」
地を這うような低い声が頭上から降ってきた。それだけで相手が相当おかんむりであることが感じ取れた。
恐る恐る目線を上げる。そこには、もの凄い形相で仁王立ちをする銀色の髪の男がいた。
ユルスナールは有無を言わせずにリョウの肩に回った太い腕を掴むと捻り上げるように外したが、相手は簡単に掴まれた腕を外した。
「なんだよ、ルスラン。邪魔すんなよ」
そんな台詞を軽い調子で言い放った男をユルスナールは無言で睨みつけていた。それこそ人一人を射殺してしまいそうなくらいの鋭い眼差しだった。
「おっかねぇなぁ」
相手の本気の度合いを感じ取ったザイークは、両手を前に掲げてそそくさと座っていた椅子から退いた。
「ザイーク、止めとけ。本気で殺されるぞ」
防具を外してから身に着けていたシャツを脱ぎ、半裸で汗を拭っていたブコバルからも窘めるような言葉が掛けられた。そして、ザイークは、改めて周囲に並んだ第七の男たちを見回してからやってられないとばかりに肩を竦めて見せた。
「何でぇ、どいつもこいつも。そんなにこの【チョールナヤ】が大事かよ。ご大層なもんだぜ」
「そりゃぁ勿論、あなたのような者の毒牙に掛かると分かっていながら、みすみす黙っている方がどうかと思いますよ」
―――――うちは皆、その位の良識は持ち合わせていますから。
傍にいたシーリスが眩しい笑顔のままに毒づけば、多勢に無勢、一人敵陣にいるザイークは面白くなさそうに口の端を下げた。
「へいへい。じゃぁ、またな。坊主」
一頻りからかって気が済んだのか、第四師団のお騒がせ男は、周囲から冷たい視線を浴びながら天幕の外へと消えたのだった。
そして再び、沈黙の落ちた控え室では、男たちが黙々と着替えを始めた。ザイークの口から漏れた事柄に敢えて触れる者はいなかった。それは男たちの優しさでもあるのだろう。
リョウは心の中でそっと感謝の言葉を口にした。
ユルスナールが身支度をしていた場所では、同じような簡素な木の長椅子の上に男の左腕に巻かれていたリボンが二本置かれていた。
今日は朝から本当にこのリボンに振り回された形になった。自分の指二本分にも満たない幅の細長い色が付いた紐。ただそれだけのことであるのに。乱気流に呑まれたように上下した気持ち。感情の振り幅は、自分が思っていたよりも大きいものだった。それを再確認する羽目になったのは、果たして良いことだったのか。
「ルスラン、これはワタシがお預かりしますね」
リョウはついと手を伸ばすと今日一日散々己が心の内を悩ますことになった原因を手に取った。たかがリボン。されどリボン。手の中にある紐は、関係の無い者から見たら本当にただの紐に過ぎないのだ。そこに人の【想い】が付与されることで、新たな意味が付加されることで、この細長い紐は、酷く重みのあるものに早変わりする。
「ああ。明日も頼むぞ」
こちらを振り返ったユルスナールは、シャツの釦を止めながら小さく微笑んだ。
それは、また明日、同じように自分にリボンを巻いて欲しいということなのだろうか。
「お前の呪いは良く効く」
―――――ドーリンに勝てたのもそのお陰だ。
そんな軽口を叩いて笑った男にリョウは何とも言えない気分になった。だが、それをすぐに引っ込めて小さく笑うと首を横に振った。
「いえ。明日は止めておきましょう。ルスランにはそちらがありますし」
―――――態々二本も巻くことはありますまい。
リョウは黒いリボンを小さく折り畳んでポケットの中にしまうと椅子の上にあるもう片方のリボンを見遣った。その顔に浮かんだ笑みはどことなく影のあるものだった。
「リョウ、勘違いをするな」
シャツを替え終えたユルスナールは、木の長椅子を跨ぐとそこに腰を下ろし、リョウに目線を合わせた。
ユルスナールは真剣な顔をしていた。
「あれは今日だけだ。それで義理を果たしたからな。明日以降は、お前のものだけだぞ?」
その言葉にリョウは何と答えたものかと思った。
男の言葉を素直には喜べなかった。もし、明日以降、男の腕に翻るリボンが自分のものではない他の色だったとしたら。あの娘はどれだけの衝撃を受けるだろうか。それを思うと胸の奥が締めつけられるように苦しくなった。
ユルスナールはきっと理解していないのだ。この細い紐の中に相手の気持ちがどれだけ込められているかを。
この紐と同じ色の燃えるような熱い瞳の色をリョウは目裏に思い描いた。まるで焼印を押されたかのように小さな傷口が疼いた。
「ルスラン、そのようなことを口にするものではありませんよ」
リョウは小さく微笑むとどこか哀しい顔をして窘めるようにすぐ傍にある深い青さを湛えた瞳を見つめた。
鼻先で男が、訳が分からないというように目を細めたのが分かった。それに力なく首を振る。
「リョウ」
そっと伏せた眼を上げるように男の掌が右の頬に掛かり、顔を上げさせた。
「こっちを見ろ」
いつになく真剣な響きを持った声音にリョウはゆっくりと視線を合わせた。男の声は凪いでいたが、そこには従わずにはいられない力があった。
そして、すぐにその事を後悔した。そこにある揺らぐことなのない真っ直ぐな瑠璃色を目にして、リョウは何故か泣きたい気分に駆られた。
二つの真摯すらある瞳には、困惑に眉根を下げた情けない顔を晒した自分が映っていた。
―――――ああ。お願いだから、そのような目でこちらを見ないで。
そこに潜む魔力は絶大で。これまで必死になって隠していた筈の本心をいとも簡単に引きずり出されてしまう。
「いいか、リョウ。俺が訊きたいのはお前の本心だ。周囲の雑音を気に掛けるな」
低い耳に馴染んだ男の声が、本当は欲しかった言葉を紡ぐ。この男のようにぶれることなく真っ直ぐに立っていられたら、どんなにかいいだろうか。
「お前は俺にこのリボンを巻いてはくれないのか?」
ここで頷いてしまっていいのだろうか。リョウは暫し逡巡した。と同時にそのような事を考えている自分が酷く打算的で狡猾な人間に思えて堪らなく嫌だった。
「リョウ?」
そっと返答を促すように男の無骨な指が、まっさらな頬を撫でた。そこから滲み出るようにして伝わって来るのは、この男の優しさだった。
「…………済まなかったな」
尚も返事をしない相手に、ユルスナールはそう口にすると、そっと大きな当ての布が貼られている方の頬を手の甲で撫でた。
それだけで十分だった。その一言で、男が、自分がひた隠しにしている事実の欠片を拾ってしまったことに気が付かされた。
「いいえ」
リョウは伏せていた目を上げると小さく微笑んだ。ユルスナールが謝るようなことではない。
そして、何かを決意するように小さく息を吐き出した。
「分かりました。それではまた明日、こちらに伺えばよろしいのですね?」
「ああ。ありがとう」
再びの約束に男が柔らかく微笑んだ。そして、そのまま当然のように距離を詰めてきた男の顔をリョウはその口元に指を宛がうことで押し留めた。少し困ったような苦笑に似た笑みを浮かべて首を横に振る。
ちらりと横目で周囲を見遣れば、どこか呆れたようにこちらを見ているシーリスとニヤニヤと成り行きを見守っているブコバル、そして、やや挙動不審気味にこちらの様子に対して見て見ぬ振りをしているロッソ、アッカ、アナトーリィーと控えとして残っていたグントとヤルタがいた。グントとヤルタは視線が合った途端、顔色を変えてばっとその顔を逸らした。
ユルスナールは、些かばつが悪そうに態とらしい咳払いを一つして見せると座っていた長椅子から立ち上がり、上着を取る為に背中を向けた。
リョウは取り繕うようにそんな仕草をした相手を見て、さもおかしそうに声を立てて笑ったのだった。
こうしていつの間にか、不穏さえあった空気は元に戻っていた。