団体戦 大将対決
ブコバルとドーリンの両者が立ち会いを繰り広げる中、ユルスナールは、ぐるりと周囲を取り囲む群衆の顔触れをざっと見渡した。その中に自分にとって唯一の色となる一色を見つけることを願いながら。
先の第一試合の時には友人達の中にあったその特徴的な黒い頭部も、一つ試合を挟んで第三試合目に入るとその姿を捕らえることが出来なくなっていた。何分、小柄ということもあり、居並ぶ男たちの中では直ぐに埋もれてしまうだろう。もう一度、試合前に控室となっている天幕の方に顔を出すかとも思われたのだが、その予想は外れてしまった。
再び、ユルスナールはその視線を会場の中央に戻した。
ブコバルはよくやっているが、そろそろだろうと踏んでいた。ドーリンは相手の動きを緻密に計算し、先回りをする。それを驚くほどの素早さでやってのけるのだ。あの頭の中には幾通りもの方法が瞬時に弾き出され、その中から一番適したものを選び出す。ブコバルの使う剣は本能に重きを置くので、中々その剣筋を予想するのは至難の技だったが、一度、本人が意識をしていない癖のようなものを掴んでしまえば、それを逆手に取って利用することができた。ブコバルがそのことにいち早く気が付かない限り、この試合はドーリンの方が優位だった。
ドーリンの剣が誘うように動く。それについ乗せられたブコバルは、案の定、次の瞬間、繰り出された攻撃をかわすことが出来なかった。少し冷静になって視野を広く取れば、それは対処できる範囲の攻撃であったのだろうが、一度頭に血が上ると中々その辺りの調整は難しいようだった。それがブコバルの欠点でもあった。
ブコバルが一際大きな咆哮を上げた所で勝敗に決着が付いた。審判の旗が高らかに上がり、空中にその特徴的な紋様が翻った。
漸く回ってきた己が出番に、ユルスナールの心は知らず高揚していた。周囲の興奮が静かに、だが、確実にこの男の心をも捕らえ始めていた。
「くっそう、ドーリンの野郎。相変わらず小賢しい攻め方してくるぜ」
悪態を吐きながら、のしのしとその大きな体を揺すってブコバルがこちら側に下がってきた。
だが、言葉の割には、余り悔しそうな顔はしていない。その分だと日頃の鬱憤をかなりの割合で発散できたのだろうことが見て取れた。
ブコバルの額から滴り落ちた汗が、その戦いの激しさを控え目に知らしめていた。
下がってきたブコバルにユルスナールは小さく口の端を吊り上げた。
「よう、相棒。あとは頼んだぜ?」
「ああ。任せておけ」
擦れ違い様、利き手とは逆の右手(ブコバルは左利きだ)で肩を軽く叩かれる。そのまま通り過ぎるかに思われた野性味溢れる顔を晒した幼馴染は、その場で少し足を止めると声を落として囁いた。
「あっち側にリョウがいたぜ。隣にけったいなもん連れてやがる」
―――――――あの野郎、ほんっと面倒なのを引っ掛けてくるぜ。
そう口にするや否やその顔を面倒くさそうに顰めて見せた。
密かに探していた相手がこの試合会場にいると知って喜んだのも束の間、ユルスナールはブコバルのその一言に高揚した気分を一気に急降下させていた。
だが、それを悟られないように(といっても長い付き合いであるブコバルにはバレバレであったが)、表情をそれとなく改めると、沸き立つ歓声の中、静かに中央へと足を運んだのであった。
「漸く出て来たか」
「ああ。待たせたな」
中央に立つドーリンの言葉にユルスナールは小さく笑みを刷いた。
ドーリンはブコバルとの戦いで身体が十分に解れたのか、いつになく表情豊かにその頬を上気させていた。灰色の瞳の奥には静かな興奮が煌めきのように小さく踊る。獰猛な笑みを隠そうともしない。
ユルスナールは相手の興奮に感染するように同じように口の端を吊り上げると、そこから視線を少し横にずらした。
ブコバルの言う通り、第五の兵士たちが並ぶ側、少し外れた所にその特徴的な黒い頭髪を見つけた。大柄な男たちに埋もれるようにしてその華奢な体躯が杭の後ろに立っていた。
だが、ユルスナールは直ぐにそこにある『異変』に気が付いた。一つ目は、その者の左側の頬に大きな当て布が貼られていたこと。軟膏を塗った後に張るような湿布のようなものだった。そして二つ目は、その華奢な肩にとある男の手が乗っていたこと。
ユルスナールは、リョウの隣に当然のようにして立つ男を認識すると冷え冷えと剥き出しの感情のままに睨み付けていた。それに相手がおどけたように『おお怖い』とばかりに肩を竦めてみせたのが見て取れて、尚更ユルスナールの神経を逆撫でしたのだった。
だが、すぐにそこから意識を逸らして、暫し、その黒い瞳を見つめた。
中央に進み出る途中、ユルスナールは自分の左腕を飾る黒いリボンの先に小さく口付けを落としていた。あの距離であるならば、こちら側の意図が相手にも伝わったことだろう。
あれは自分なりの意思表示であった。この左腕には不本意ながら二本のリボンが揺れているが、自分が心から慕い、想いを寄せる相手はこの黒いリボンの贈り主である。そのことをこの場で声高に表明した積りだった。
深い漆黒を湛えた瞳が、ユルスナールの視線を受けてゆっくりと細められた。そこに浮かぶ苦笑に似た控え目な微笑みに、ユルスナールは、気持ちを込めて密やかに微笑み返していた。
その小さな薄い唇が、何事かの文言を紡いだ。それに応える形でユルスナールは一つ頷きを返すと、その視線を再び舞台中央へと戻したのだった。
「なんだ? 決意表明でもする積りか?」
一連のユルスナールの行動を静かに見ていたドーリンが、からかうような声を上げていた。
「まぁ、そのようなものだ」
同じようにユルスナールの視線の先を追い、そこにある光景に形の良い眉が小さく上がった。
「前途多難のようだな?」
「そうか?」
向けた視線の先、その相手から社交辞令的な笑みでも返されたのか、ドーリンが珍しくその顔を微妙に歪めた。
「ああ。俺にはそう見えるが。…………まぁいい」
ユルスナールが然程気にした様子を見せていないのを横目にドーリンは意識を戻すように首を小さく傾げた。
「ならば、早くこちらの片を付けねばなるまい」
「ああ。その提案には賛成だな」
それが合図であったのか、両者すらりと剣を抜いて、間合いを取った。
ユルスナールが徐に腰に佩いていた剣を引き抜くと、それまでざわついていた周囲の雑音がぴたりと止んだ。その対面でドーリンも同じように剣を構えた。
長剣の切っ先が日の光を鈍く反射してきらりと瞬く。
―――――始め!
審判の試合開始の合図が、やけに耳に響いた気がした。
対峙した二人は、じりじりと相手の隙を窺うように間合いを詰めていった。
リョウは、知らず握り締めた拳に力を入れていた。ユルスナールの動きを寸分も見逃したくはないという気持ちと出来ることならば目を背けていたいという二つの相反する気持ちが心の中でせめぎ合っていた。それは、これまでの試合中では感じることのなかった変化だった。
ユルスナールがそう易々と膝を着くことになるとは思わない。それでも、あの切れ味抜群であろうドーリンの剣の切っ先があの男の肌を掠めることがあるのだと思うと不意に言い知れぬ恐怖のようなものがリョウの心を捕らえたのだった。ブコバルやロッソ、アナトーリィー、アッカたちにはこのようなことを思わなかったというのに。不思議なものだ。
それでもユルスナールが、この日の為という訳ではないのだろうが、日夜厳しい鍛錬をしていることは知っていた。北の砦での任務は、常に危険と隣り合わせだ。砦内に滞在していた時は、兵士たちの賑やかさや持ち前の陽気さについついそのことを忘れてしまいがちだが、リョウが彼らと知り合うことになったそもそものきっかけを考えてみても、そこには綺麗事では済まされない過酷な現実があったのだ。
きっかけは、負傷したアッカを拾ったことから始まったのだ。あの時のようにその任務の性質によっては、兵士たちは無傷では済まない。下手をすれば命に関わることだってあるだろう。アッカが負った傷は刃物によるものだった。この国で剣を抜くということは、目の前に同じように己が命を懸けて対峙する相手が存在するということなのだ。
ユルスナールたちも時と場合によっては、その腰に佩いた剣を抜く。今、その相手が完全な敵でない分、ここでの状況は遥かにマシというか、次元の違う話になるのだろう。
少なくともこれは実戦ではないのだ。
「リョウ、大丈夫ですよ。そんなに硬くならないで」
これまで以上に張りつめた緊張のようなものを感じ取ったのか、ゲオルグが穏やかに微笑んで、殊更柔らかく言葉を紡いだ。
「……そうですね」
指摘をされて、肩に入る力を抜こうとするが、どうも上手くいかなかった。宥めるように隣から腰の辺りを軽く叩かれて、リョウは苦笑を滲ませた。頭では理解している積りなのだが、身体の方へそれが上手い具合に伝わらなかった。
やがて高らかに剣の打ち合いが始まった。金属のぶつかり合う音が高低を持って周囲に響き渡る。そこに男たちの気合いを発する声や踏ん張る時の息使いが、低く合間に挟まっていた。
洗練された無駄のない動き。恐らく何百回、何千回と繰り返されてきたでたあろう軌道だ。
ドーリンとユルスナールの剣さばきは似ているようでやはり違った。
あの一撃は相当重いものなのだろう。その昔、北の砦で戯れに立ち会いの練習をした時の手の痺れをリョウは思い出していた。自分が経験したものは本当に子供騙しのものに違いなかった。あの時、ユルスナールは全く本気を出したりはしなかった。こちらが非力なのを重々承知の上で持ったこともないような剣を握らせ、相手の攻撃を流せと口にした。その時のことを少し懐かしく思い出した。
二人の男たちがここで交わす一撃は、あの時の比ではないのだろう。自分など最初の一振りすらまともに受けることが出来ずに剣を落とすことだろう。
打ち合う音の感覚が徐々に狭まって行った。二人の間合いが詰まって行く。
先に懐に飛び込んだのはユルスナールだった。だが、ドーリンの方も相手の動きを予測済みであったのか、すぐさま繰り出された一撃を寸分違わずに受けた。
至近距離で剣の刃と刃が擦れる摩擦音がした。相対する二人の男たちの食いしばる歯からもぎりぎりとその音が聞こえてきそうだ。
ブコバルとの対戦の時と比べて、ドーリンの表情は大きく変化していた。涼やかなところは欠片もない。対するユルスナールもいつもの無表情な仮面を剥ぎ取って剥き出しの漢の顔をしていた。猛々しい荒々しさ、そして無骨さが二人の男たちを支配している。
きっちりと撫で付けられていたはずのドーリンの髪も戦いの激しさに乱れ、その一筋が、額際に落ちかかっていた。
男たちが剣を打ち合う度に額から流れ出る汗が周囲に散り、ほんの一瞬だけ地面を点のように湿らせた。だが、その小さな染みもすぐさま踏み出す長靴の底に削られてしまう。
ユルスナールとドーリンは共に一歩も引かなかった。周囲の観客たちは息を呑んで舞台中央で繰り広げられる二人の男たちの勝敗の行方を見守っていた。
迸るような気迫がぶつかり合う。それだけで共鳴するように腹の内側がゾクリと震えるような錯覚に囚われた。
相手の一撃を受けた時に目測を誤ったのか、ユルスナールの足がやや後方にずれて踏み止まった。そこへすかさずもう一撃が入る。
―――――ルスラン!
リョウは、思わず胸の前で祈るような気持ちで拳を握り締めていた。
だが、ユルスナールは直ぐに体勢を立て直すと反撃に出た。その口元に薄らと笑みのようなものが浮かんでいた。
その表情の変化をリョウの隣にいたゲオルグは見逃さなかったようだ。
「相変わらず、いやらしい男ですねぇ」
しみじみと小さく漏れた述懐のような言葉に、リョウは思わずゲオルグの方を見てしまった。
ゲオルグには、今の一連の動きがそのように見えたのだろうか。リョウにしてみれば、ゲオルグの口にした【いやらしい】という形容詞は、ユルスナールには対極にあるような言葉に思えたからだ。
そう思ったことが顔に出てしまっていたのかもしれない。つい非難がましく相手を見てしまっていたようで、ゲオルグが小さく苦笑をのようなものを浮かべたのが分かった。
どうもユルスナールに対しては感情の面で先立つものがあるので、リョウは男のことを客観的に見ることが出来なくなっていた。
「おや、キミを怒らせてしまいましたか?」
からかうような口振りだが、その目はそこに潜む何がしかの感情を探ろうと妙に真剣味を帯びていた。
リョウは出過ぎた真似をしたかと思い、咄嗟に目を伏せた。
「いえ、そういう訳では………」
剣のことは全く分からない。それにユルスナールのこともその実、自分は本当に少ししか知らないのでは。不意にそのようなことが頭の隅を過り、リョウは愕然とした。
恐らく、同じ王都の貴族出身ということで―――リョウは本人からしかと聞いた訳では無かったが、ゲオルグも貴族の出身だろうと踏んでいた―――ゲオルグはユルスナールに関してリョウの知らない多くのことを知っているのだろう。その事実は自分でも理解している積りなのだが、時として嫉妬に似た感情が、もどかしさのようにして渦巻いてくる。
そのような事を思う自分が嫌で堪らなかった。その度に自分はなんて矮小な人間なのだろうと思ってしまう。
リョウは、もやもやとしたものを敢えて微笑みの下に隠した。
「別に他意はないんです。ただ、ワタシは………あの人のことを本当に何も知らないのだと思ったものですから」
そう言うと少し困惑気味に眉根を寄せた。
そうだ。自分があの男の何がしかを理解したような気になっていたのが間違いであったのだ。あの男と過ごした時間というのは、冷静になって客観的に眺めてみれば、切れ切れのものを全て合わせてみても一月半を越えるか越えないかという位の短さだった。それは相手の事を理解したと豪語するには驚くほどに短い共有時間だった。たとえその時が濃いものであったとしても、この隣に立つ男のように相手を知る年月の長さには敵わない。そのように思い上がっていた自分がいけないのだろう。
リョウの口元には、自嘲気味な微笑みが浮かんでは消えた。
ひょっとしたら、自分はあの男の輪郭すら掴めていないのかもしれない。あの幼馴染だという娘の足元にも及ばないに違いない。それでも心の奥底であの男を想う気持ちを諦めたくはないというもう一人の自分がいるのだ。自分でも知らぬ間になんと欲張りになってしまったことだろう。
中央でぶつかり合う二人の男たちを眺めながら、リョウは不意にそのようなことを考えたのだった。
決着は、ほんの一瞬のことだった。些細な気の緩みが引き金であったのかも知れない。
不意にドーリンの動きが乱れた。そこを狙ったかのようにユルスナールが渾身の力を込めて踏み込んでいた。
そして、リョウが気付いた時には、ユルスナールの剣の切っ先がドーリンの喉元に向けられていた。
だが、ドーリンもただでは負けない。辛うじて挽回を図ったその剣先は、ユルスナールの太ももを突かんとしていた。これが実戦であったならば、ユルスナールも無傷では済まされなかったことだろう。
辺りがしんと静まり返ったように思えた。
―――――勝負あり!
一瞬の静寂の合間を突き刺すように審判の高らかな声が判定を告げた。
―――――ワァァァァァァァアア!!
観客たちは一斉に詰めていた息を吐き出すように大きな声を上げた。
「ウラァァァァァァアアー!!!」
どこかで歓喜の雄叫びが上がった。
「よっしゃぁ!!!」
第七を応援していた男たちが一斉に勝利の咆哮を上げる。そこに第五を贔屓にしていた男たちだろう、落胆のような声が混ざり合って辺りには混沌とした空気が満ち始めていた。
それを横目に熱い目の眩むような勝負を繰り広げていた二人の対戦者は、静かに剣をしまうと審判を間に挟んで元の位置に着いた。
動から静へ。その中心部分だけ周りの空気が急激に変化をした。
周囲の観客たちは、見事な剣技を披露した選手たちに盛大な拍手と声援を送った。
会場内が割れるような地響きに包まれた。それほどまでに観客たちの興奮の度合いは、最高潮に達していたようだ。
二人の男たちは作法に則り、静かに一礼をすると互いに固く握手をした。
ドーリンもユルスナールもいい顔をしていた。共に額際には滴る汗と共に前髪が落ちかかっている。だが、そのようなことなど微塵も気に留めてはいない。
ドーリンは徐にユルスナールの腕を取ると戦いの勝者であることを知ら示す為にその左腕を高らかに上空へと掲げた。
そこには、黒と明るい赤みを帯びた橙色の二本のリボンが、吹き込む風に誇らしげに揺れていた。
相手への無言の賞賛に観客たちからは一際、大きな歓声が上がり、惜しみない拍手が送られた。
そして、リョウも周囲の人々の陶酔に感染したように、半ば夢心地で心からの拍手を戦いを終えた選手たちに送ったのだった。