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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
153/232

水辺の囁き


 リョウは、騒がしい人混みの間を縫うようにして武芸大会の会場から足早に遠ざかっていた。緩やかな人の流れに逆流する。次はどこが勝つ、あそこだ、いやあっちだと対戦の行方に熱くなっている男たちの間をぶつからないように注意しながらすり抜けた。

 そして、会場の東側、目に付いた建物の陰に身体を滑り込ませるとその場で漸く大きく息を吐いた。

 会場が設けられている広場との空間を遮るように重厚な石造りの建物が並んでいた。この辺りまで来ると湧き上がる男たちの歓声も吹き込む風の通り道を塞ぐように随分と小さくなっていた。

 リョウは建物と建物が並ぶ間の隙間、石壁の一方に背中を預けるとそのままずるずると腰を下ろした。耳の奥ではうるさいぐらいに体中の血液がドクドクと巡る音が鳴っている。それに呼応するように左側の頬がちりちりとした痛みと熱を訴え始めていた。


 リョウの口元には知らず、自嘲めいた笑みが浮かんでいた。勢いに任せて言いたいことを言って逃げてきてしまった気がする。何故、もっと上手くあしらえなかったのだろう。差し出がましいことをしたと謝罪の言葉を型どおりに口にして、有耶無耶に濁してしまっても良かったのだ。何もあのように自分から突っかかる態度をとらなくともよかったではないか………と一人冷静になって考えてみれば、あのアリアルダのことをとやかく挙げる前に自分の方こそ、頭に血が上っていたことが分かった。

 それでも。相手が自分を男だと勘違いしていることは分かっていたが、あのままでは自分の気持ちまでもが全否定されるようで我慢がならなかったというのも正直な所だった。

 この想いは自分だけのものだ。その心の最奥で一番大切にしているものを徒に攻撃されて、反射的に反撃をしてしまった。自分の中で、まだこのような激情の類が存在していたことを少し可笑しく思った。

 このようなことでは先が思いやられる。身を引く覚悟など言っておいて、聞いて呆れるではないか。もっと冷静にならなくては。客観的になれ。瑣末に囚われるな。自分が今、一番優先しなくてはならないことはなんだ。それは、この国で術師として認められることではなかったのか。そこを履き違えてはいけないのだ。今更、恋だのなんだのと現を抜かしている訳にはいかない。残された時間があとどのくらいあるのかも分からないままであるのだから。

 そうやって一連の取りとめのない思考を集約していって、いつもの結論に落ち着かせる。そして再び同じように得られた結論にどこかで安堵の息を吐いていた。胸の奥に走る小さな軋みには、気が付かない振りをした。


 時折、思い出したように吹き付ける真冬の冷たい風が、火照りを帯びた頬には気持ちが良かった。

 そこでようやっと打たれた頬を冷やさなくてはいけないということに思い至った。

 この感じでは、恐らく赤くなっていることだろう。下手をしたら腫れあがるかもしれない。このようなみっともない顔を晒していてはリヒターやヤステル、バリースの三人と合流など出来ない。いや、あの三人なら綺麗な女の子に声を掛けて振られたとでも言えば信じてもらえるかもしれない。最初は吃驚するかもしれないが、笑い話くらいにはなるだろう。問題はユルスナールたちの方だ。見つかったら最後、誤魔化しなど効かないのだから。次の試合の時には、なるべく目立たないように端の方で見物をして、試合が終わったら直ぐに会場を後にするしかないだろう。


 つらつらと今後の身の振り方を考えながら、ざわついた心を落ち着かせるべく壁に寄りかかって目を閉じていると、すぐ傍でシャリと土を踏む音がした。

 リョウは緩慢な仕草で瞼を上げると音がする方へ顔を向けた。

 そこには、悠々とした貫禄さえある足取りでこちらに向かって歩みを進めている小型の灰色の毛並みをした獣がいた。

「ティーダ」

『リョウではないか。如何いたした。かような所で』

 それはいつぞやの伝令を頼んだティーダだった。するりと近寄ってきた艶やかな毛並みをリョウはそっと手を伸ばして撫でた。

「ティーダ。この間はありがとう」

 【アルセナール】への使いを頼んだことを改めて口にすれば、

『なに、あのようなことなど、造作もない』

 些か面倒になったことは棚に上げておいて、ティーダは鷹揚に喉を鳴らしてみせた。

『それよりも、如何いたした。そなた、頬が腫れておるではないか』

 ついとこちらを見上げたティーダからの指摘にリョウはほんの少しだけ苦笑を滲ませるように笑った。

「綺麗な女の子とお話しをしていたらね、どうも相手を怒らせてしまったみたいで、気が付いたらバチーンてね。あはは」

 飄々と態とらしく口にしてから肩を竦めて見せた。

 その説明にティーダは胡乱気にリョウを見遣った。

『なんだ。そなた、女子でありながら、女子を誑かしたのか?』

 獣であるティーダは自分の性別を間違えたりはしない。だから同性から頬を打たれるという結果になった経緯を訝しく思ったようだ。

「人聞きの悪いこと言わないでよ。そんなことする訳ないじゃないか」

 ティーダのからかいにリョウは眉根を寄せた。

『ならば、何故、頬を打たれる?』

 それはこっちも知りたいくらいだ。だが、まぁ、大した理由など無かったのかもしれない。

 リョウは困惑気味に眉根を下げると天を仰ぎ見た。大きな二つの建物の陰に切り取られた空は、どこか遠く、余計に青く澄んで見えた。

「うーん。………多分。意見の相違ってやつだと思うよ」

 そう言うと小さく微笑んでティーダの顎の下を擽った。

 ティーダが怪訝そうな顔をしたのが分かったが、これ以上、この話を蒸し返されては敵わなかったので、リョウは話の流れを変えた。

「そうだ、ティーダ。この辺りに水場はないかな?」

 腫れた箇所をハンカチで濡らして冷やそうと思っていると告げれば、小さな灰色の気高き獣は首を巡らせた後、

『ふむ。ならば付いてまいれ』

 先導するように顎をしゃくった。リョウはティーダに促されるようにしてその場から立ち上がると、少し先を歩き始めた灰色の艶やかな毛並みを追った。



「そう言えば、ティーダはこんな所で何をしていたの?」

 歩きながら、あのような人気の無い建物の陰に現れたことを問えば、

『………ああ。散歩よ』

 若干の間の後、些か歯切れ悪くティーダが答えた。


 実の所を明かせば、ティーダが現在居候しているやんごとなきエクラータ嬢の命を受けてティーダを洗う為に風呂桶に入れようとした侍女たちの手をほうほうの体で掻い潜って逃げて来たのだった。

 ティーダは昔から風呂が大の苦手で、ましてや他人から洗われるというのがどうにも我慢がならなかった。素養を持たない侍女たちと意思の疎通が出来ないということも大きいだろう。そういう訳で、態と人目に付かない端の方にまで逃げて来たという訳なのだが、ティーダは外聞が悪いのか、その事をリョウには話さなかった。対するリョウもそのようなティーダの生活を知る由もないので、変だとは思いながらも然程、疑問には思わなかったのだ。

 それはさておき。


 そして、ティーダに案内されて辿りついた先は、昨日のシビリークス三兄弟とのお茶会を彷彿とさせる小さな噴水のある水場だった。だが、昨日とは場所が違うようだ。

『ここならばよかろう』

 ティーダは軽やかに駆けると水を湛えた石の縁に乗り上げて、そこで尻尾を揺らした。

 ゆらりゆらりと左右に揺れる灰色の長い尻尾を内心微笑ましく思いながら、リョウも促されるようにしてその縁に腰を下ろした。

 小さな丸い水場の中心からは時折、思い出したように細い鉄砲水が噴き出した。そして、小さな水の流れは、丸く囲いを施された石の辺縁から伸びる二方向の細い水路で繋がっていた。水量は余りないが、それでも作りは凝っている。

 この水場を囲むように色々な種類の庭木が点々と植えられていた。直ぐ傍には大木が見事な枝ぶりを伸ばしていた。微かな水音に木々に遊ぶ鳥たちのさえずりが混じる。静かな場所だった。


「ねぇ、ティーダ。ここはワタシのような部外者が立ち入ってもいい場所なんだよね?」

 この間、【アルセナール】行く途中に、うっかり間違えて関係者以外立ち入り禁止の場所に迷い込んでしまい第二師団のおっかない女性兵士(団長のスヴェトラーナのことだ)から叱られた時のことを恐々と思い出しながら尋ねれば、

『ああ。案ずるな。ここは宮殿内でも浅い区域故、立ち入り自由な場だ』

 その言葉に一先ずほっとした。

 リョウは外套のポケットから小さなハンカチ(といっても飾り気のない布地を断ったものだ)を取り出すと噴水の小さな流れの中に浸した。大きな木の影が張り出しているということもあるのだろうが、水はとても冷えていた。これならば冷却石を使うまでもないだろう。そうして緩く絞った布切れをそっと左の頬に宛てた。その気持ち良さに緩く息を吐いた。



 そうやって暫くハンカチを濡らしながら患部を冷やしていた時だった。

「ティティー?」

「ティーティー、どーこー?」

「ティティー?」

 切れ切れに幼い少女のものと思しき甲高い声が木立の合間から響いて来た。

 その瞬間、石の上でのんびりと寛いでいたティーダの背中がぴくりと反応して毛が一気に逆立った。ティーダは石の上に身体を起こすとそわそわするように小刻みに尻尾を揺らし始めた。

「ティーダ、呼ばれているみたいだよ」

 人より何倍も鋭い感覚を持つ獣であるから分かってはいるだろうが、念の為声を掛けてみる。

 その呼び声は段々と大きくなってきている。こちらに近づいてくるようだった。

 ティーダはせわしなく尻尾を揺らしていたが、それをぴんと立てたかと思うと、次の瞬間、勢いよくリョウの懐の中に逃げ込むように飛び込んできた。

「うわわ。ティーダ?」

『リョウ、匿え』

「はい?」

『今、見つかってはかなわん』

 小さな獣はそんなことを言うと外套と上着の間に潜り込んでその場で息を潜めた。

 リョウは突然のことで目を白黒させた。懐が急に暖かくなって、くすぐったさに身を震わせた。

 見つかりたくないのならばさっさとこの場から去ればいいものを。態々人の懐の中に入り込まなくともと思わないでもなかったが、どうやら、それだけティーダも余裕がなかったようだ。

「ティーダ?」

 リョウは、頬に冷やしたハンカチを宛がいながら小さく囁いた。

 小さな水場を囲む石の上に腰を下ろしたリョウの外套の中、身体を折り曲げた膝の上に蹲りながら、灰色の獣がそっと顔を上げた。小さく尖った灰色の耳がぴくぴくと外の声を捕らえるように動く。そして、すぐに引っ込めてしまった。随分な警戒ぶりである。

「いいよ、隠れてて」

 リョウは小さく笑うと外套の上から腹部に当たる温かいもう一つの体温をそっと撫でた。


 そうこうするうちにいよいよティーダを呼ぶ声が大きくなってきた。そして、こんもりとした手入れの行き届いた庭木の向こうからひょっこりと現れたのは、大きな白いリボンが揺れる小さな頭部だった。

 明るい柔らかな少し赤みがかった黄金色の髪がふわりふわりと頭の動きに合わせて揺れる。小さな頭部が、庭木の下を覗いたり、茂みの中を覗いたり。青々とした緑の中で、その明るい髪色と白い大きなリボンがやけに目立って見えた。

 あれはこの間の幼い少女だろうか。エクラータ様と呼ばれていた。

「エクラータ嬢?」

 リョウが懐で身体を小さくさせている灰色の獣に囁けば、

『左様』

 服の合間からくぐもった囁きが返ってきた。

「なにか悪戯でもしたの?」

 これだけ必死になって隠れているということは、悪さでもして叱られるのが嫌で逃げているのかと思ったのだが、

『たわけ。左様なことがあるか!』

 心外であったのか、不満そうに声を荒げたティーダに、

「しっ」

 リョウはすぐさま声量を下げるように注意をした。

『侍女もおるか?』

「うん」

 小さな少女の周囲には御付きと思われるお揃いのお仕着せに身を包んだ女性が三人いた。濃い灰色の首まである服に白い前掛け(エプロン)を掛けている。その遥か後方に護衛の兵士と思われる男の頭部がちらりと見えた。

「一生懸命探してるよ。いいの?」

『かまわん』

 小さな頭部がひょこひょこと高低のある庭木の間を動き、時には地面に這い蹲っている。それを侍女たちが、『おやめ下さい』など『もう戻りましょう』などと言って宥めているようだった。だが、その度に小さな頭部は頑なに『いやいや』と横に揺れる。そしてまた小さなティーダ探索隊は振り出しに戻っているようだった。

 必死に探している様は何やら不憫でもあったが、ティーダがこれだけ嫌がっていることを考えれば、リョウは口出しをしないことにした。

 リョウは取り敢えず口を挟まずに温くなったハンカチを再び流水に浸した。

 立派な枝ぶりの長い梢を通して差し込む柔らかな木漏れ日が、小さな水場の表面を揺らし独特な斑模様をその水面に作り出していた。

 その模様を指先で弾くように弄びながら、小さなハンカチを絞っていると、

「あー!!!」

 甲高い少女の声が響いて、リョウはどうやら見つかってしまったようだと思った。


 淡い空色の円らな瞳が大きく見開かれたかと思うと、勢いよく駆けてきた。

「おにーちゃん!」

 リョウは顔を上げると微笑んで、小さくひらひらと手を振ってみせた。

「どうしたの? また迷子になっちゃったの?」

 少女の第一声に苦笑をする。前回の印象がどうも色濃く残っているらしい。

 勢いよく突進してきた小さな体に抱きつかれて、リョウは突然のことに流水がさらさらと流れる噴水の縁から水の中に落ちそうになった。慌てて体勢を整える。齧りついてきた大きな塊に懐にいるティーダが圧迫されたのか、ぐっとくぐもった呻き声を上げたのが聞こえた。

「こんにちは。エクリー」

 侍女たちがまだ追いついて来ていないのを確認して、リョウは少女の腕を外しながら、その耳元に小さくとっておきの挨拶の言葉を吹き込んだ。

 今度、会う時はエクリーと愛称で呼んで欲しい。この間の台詞を覚えていたからだ。

「覚えててくれたのね?」

 エクラータが嬉しそうに目を輝かせた。

「勿論、約束だったからね」

 そう言ってリョウはさり気なく服の下にいる小さな獣を庇う為に身体を横にずらした。


 そうこうするうちに茂みの向こうから御付きの侍女たちが慌てて駆けつけて来た。

「まぁまぁ、エクラータ様、なにをなさっておいでですか?」

 そして、噴水脇に佇む見慣れない少年リョウのことだと仲睦まじそうに寄り添うエクラータを見て、眉を潜めた。

 三人の御付きの侍女の中で一番位が上だと思われる年嵩の女性が、エクラータの傍にやってきた。

「さぁ、エクラータ様。もうお戻りになりませんと。ティティーならば直ぐに帰ってきましょう」

 年配の侍女の声に反応したのか、懐に中にいる小さな獣がピクリと身体を震わせた。どうやらこの侍女はティーダが苦手とする人物のようだ。

「駄目よ。ティティーをお風呂に入れるって決めたんですもの。今日こそは捕まえてみせるんだから!」

 少女は並々ならぬ決意と情熱に小さな拳を胸元で握り締めていた。


 お風呂とな。リョウは、内心脱力しつつも事の次第を理解した。どうやらティーダは洗われるのが嫌で逃げ回っていたようだ。風呂に入って汚れを落とすの気持ちのよいことなのだが、この灰色の獣は、それを苦手とするようだ。

 リョウは小さく微笑むと直ぐ前に立つエクラータに声を掛けた。

「ティーダに逃げられちゃったんだ?」

「そうなの。もうティティーったら、長いことお風呂に入ってないのよ。気持ちがいいのに」

 不服そうに口を尖らせた少女にリョウは微笑んだ。

「ティーダはお水が得意じゃないのかもしれないね」

「でも、駄目よ。綺麗にならなくちゃ!」

 エクラータは並々ならぬ使命感に燃えているようだ。

 リョウは懐の中に入り込んだティーダがそこまで薄汚れているとは思わなかったのだが、この目の前の少女の許容範囲を超えてしまったのかもしれない。宮殿内は煌びやかであるから、余計にその辺りのことが目立つのかも知れないと思った。


 直ぐ傍に集まっていた三人の侍女の内、年嵩の女性がこちらを信じられないという面持ちで見ているのに気が付いて、リョウは慌てて口調を丁寧なものに改めることにした。エクラータは身分ある女の子なのだ。

 リョウはちらりと横目に侍女たちを見た後、エクラータに向き直り、小さく微笑んでから諭すように言葉を継いだ。

「エクラータ様。ティーダは獣です。人とは違ってティーダにはティーダなりのやり方があるのですよ。そこを無理に人のやり方に合わせようとすれば、ティーダも納得がいかないでしょう。ティーダとお話をされましたか? どうしてお風呂が嫌なのか」

 静かに同じ目線にある空色の瞳を見つめれば、少女は小さく首を横に振った。

「エクラータ様はティーダの言葉がお分かりになるのですよね?」

 念の為、確認すれば小さな頭部が頷きに揺れた。

「では、今度、お尋ねになってみるといいでしょう」

 そこで言葉を区切ると、おどけたように小さく声を潜めた。

「それでもあまりにもティーダが汚れ放題で、ぷんぷん臭いにおいをさせていたら、『臭くてかなわん。鼻が曲がる』と言ってあげましょう」

 ティーダの声真似が可笑しかったのか、エクラータが可笑しそうに笑った。

「まぁ、湯に浸からなくとも浸した布で身体を拭ってやるだけでも大分違いますからね」

「ほんと?」

「ええ。それでも嫌がるようなら。ティーダに『臭いから絶交よ!』と言ってあげるといいかもしれません。素敵な淑女(レディー)に対して礼を失していますからね。そうすれば、きっと慌てて『綺麗にしろ』と言うでしょうから」

 そのたとえが可笑しかったのか、エクラータがからからと声を立てて笑った。その思いつきは、いたくお気に召したようだ。

 一方、懐の中にいるティーダは、余りの貶されぶりに腹が立ったのか、『そこまで不潔ではないわ』と抗議をするようにリョウの膝をガブリと噛んだ。

「いっ……冗談だってば」

 リョウは小さな痛みを堪えるように一瞬だけ顔を顰めてから、服の下に囁きを吹き込んだ。


 ティーダを探すことを諦めたエクラータに御付きの侍女たちは、安堵の息を漏らしたようだった。

 だが、それも束の間、エクラータの興味は、今度は直ぐに別の対象に移っていた。

「お兄ちゃんはこんな所で何をしているの?」

「ちょっとほっぺを冷やしていたんだ」

 そう言ってハンカチを当てた左頬を指して見せた。

「まぁ、赤くなっているわ。どうしたの? 痛いの?」

 矢継ぎ早に問いを重ねられてリョウは苦笑した。

「ちょっとね」

 まさか正直に話す訳にもいかない。

「さ、エクラータ様。参りましょう」

 これまで沈黙を守っていた年配の侍女が、痺れを切らしたように声を掛けた。

「その者は、大方、女性に声を掛けて振られたのでしょう」

 リョウの左腕にある第七師団の青い腕章を一瞥し、事も無げに吐き捨てた。

 男が頬を腫らす理由などそうそう種類がある訳ではない。相手が男であれば拳で殴られるであろうから少し腫れるぐらいでは済まされない筈だ。口の中を切ったり、ぶす黒く痣になったりするだろう。それが少しの腫れで済んでいるのだから、どうせ碌でもない理由で女に叩かれたに違いない。そう思ったのだろう。

 侍女が下した推測は強ち間違っていはいない。今日はお祭りの日だ。若い男女が見物客として、はたまた出場者として一同に会する会場がすぐ傍にある。その中で起こり得る戯れの一幕の結果として見做されたようだ。

「お兄ちゃん、そうなの?」

 興味津々に問い詰められて、リョウは曖昧に濁すように微笑んだ。

 それは、このような小さな少女に話すことではないだろう。

 心の中には、何ともいえない隙間風が吹いていた。後ろで同じように控えていた若い侍女たちから憐れむような視線を感じて、リョウは一人たそがれたように遠い目をした。

 リョウは、誤魔化すように当たり障りのない微笑みを浮かべると目の前に立つエクラータに向き直った。

「エクラータ様。ワタシは大丈夫ですから。どうぞご心配なく。さぁ、皆さん、心配をされているようですし、お戻りになった方がいいでしょう。途中、ティーダを見かけましたら、身綺麗にするように伝えておきましょう。あんまり臭うようならばワタシがお預かりして、責任を持って綺麗にいたしますから」

「本当?」

「ええ。お約束いたしましょう」

「じゃぁ、約束ね」

 そう言って、エクラータは、自分の小さな人差し指を前に差し出した。そして、期待するようにこちらを見ている。

 リョウは、その謂わんとする所が分からずに目を瞬かせた。

「あの、エクラータ様?」

「お兄ちゃんも早く指を出して。約束するんだから」

 要するに『指きりげんまん』みたいなものだろうかだが、そのような似た習慣があるとは思いも寄らなかった。

 どうしたらいいのか分からずに首を傾げれば、

「指をどうするのかな?」

「まぁ、お兄ちゃん、そんなことも知らないの?」

 驚きに見開かれた目に、リョウは曖昧に微笑んだ。

 子供同士のやり取りの習慣など知る由もなかった。

 困惑気味にたじろいだリョウを見かねてか、後ろに控えていた若い侍女の一人がエクラータの傍に歩み寄った。

「同じように人差し指を差し出してください」

「こう……ですか?」

「はい。そして先端を小さく合わせてください。軽く触れ合うように」

「こう……かな?」

 侍女に教わったように目の前にあるエクラータの小さな人差し指の腹に自分の指先をちょんと当てた。

「これで約束よ?」

 正しかったのか、エクラータが満足そうに微笑んだ。リョウも微笑み返す。面白い習慣をまた一つ知ったと思った。

 それで気が済んだのか、エクラータは年嵩の侍女に促されるようにして元来た道を戻って行った。時折、ちらちらとこちらを振り返る。リョウはその姿を眺めながら、小さく手を掲げると控え目に手を振った。その後ろにもう一人の年若い侍女も続いていった。



「助かりました」

 一人残った若い侍女が、小さく膝を折り曲げて礼を述べた。それを見たリョウは、慌ててその場に立ち上がった。

 突然のことで、懐の中のティーダがずさりと落ちそうになって、空いていた右手を慌てて服の上から腹部に宛がった。相手に感づかれるかとも思ったが、その侍女は気に留めなかったようだ。

「エクラータ様は一度言い出したら中々聞かないお方なので」

「いいえ。ワタシは何もしていませんよ」

 丁寧に謝意を表す侍女にリョウは恐縮した。

 エクラータとは少し話をしただけだ。その話も見方によっては、酷く不躾に思われたかもしれなかった。幼い少女と雖も身分ある方に馴れ馴れしい口のきき方をしていたのだから。それを裏付けるように年嵩の侍女は凄い形相でこちらを睨んでいた。まるで第二のスヴェトラーナみたいだった。

「それでもあのようにエクラータ様が素直にお話しをお聞きになるのはとても珍しいことなのですよ」

 エクラータはなにかと侍女泣かせのお転婆娘のようだ。良く言えば、無邪気で好奇心が旺盛な性質なのだろう。

 くるくると変わる表情豊かな空色の瞳を思い描いて、リョウは小さく笑った。

「あの方は、あなたに随分とお心を開いておいでのようですね」

「そうでしょうか」

「ええ」

 どこか居心地の悪そうに首を傾げたリョウに、年若い侍女は穏やかに微笑んだ。

「あなたは、第七師団の方なのですね?」

 品のあるほっそりとした顔立ちの中に収まる薄い緑色の光彩が、リョウの左腕に回る青い腕章を見ていた。

「いえ、これは仮のもので。ワタシは正式に第七に所属している訳ではないのです」

 ここでまた第七のほうに迷惑が掛かっては不味いと思ったので、正直に告げていた。

「それでは見習いの方ですか?」

「いえ。厳密に言えば、そういう訳でもありません」

 何と言ったものかと曖昧に濁せば、案の定、その年若い侍女は不思議そうな顔をした。

「ワタシは養成所に通う学生です。第七には知り合いがいまして、これは臨時で預かったものなのです」

 失くさないようにと腕に巻いていたと答えておいた。それで相手は納得をしたようだった。

「まぁ、そうでしたの。するとエクラータ様がよくお話しになっていた【夜の精】のようなお方というのは、あなたのことなのですね?」

 その言葉に今度はリョウの方が虚を突かれた顔をした。

 これまでエクラータに会ったのは【アルセナール】に向かう途中で迷子になった折の一度きりだ。それももう七日程も前のことだった。

 目を白黒させているリョウの傍らで、侍女は可笑しそうに喉の奥を鳴らした。

「あなたにお会いになって暫くは、もうそのお話しで持ちきりでしたのよ。『庭先で【夜の精】が迷子になっていた』と仰って」

 その時の光景を思い出しているのか、侍女は微笑ましそうに目を細めるとその口元に品よく手を宛がった。

 リョウは曖昧に苦笑を浮かべてみせるしかなかった。あの時は敷地の広さにほとほと困り果てたということもあるが、いい年をして迷子になったというのは恥ずかしい以外のなにものでもない消し去りたい記憶だ。それを知らぬ場で囃されていたかと思うと穴があったら入りたい気分だった。


 そんなことを考えていると目の前に影が差した。

 思いの外すぐ近くに年若い侍女が立っていた。

「本当に。髪も瞳も。真っ黒なのですね。お話しの通りだわ」

 どこか感嘆に似た息を吐いた。

 侍女の細い手がリョウの頬に伸びた。左側の少し赤みを帯びた部分に白くて細い指先が触れた。その瞬間、ぴりりとした引き攣れるような痛みがその場所に走った。

 思わず顔を顰めたリョウに、侍女が囁いた。

「可哀想に。腫れてしまって」

「いえ、どうぞお気になさらないでください。ただの打ち身ですから、すぐに良くなります」

「罪作りな人。恋人を泣かせてしまったのかしら?」

 至近距離で薄い緑色の瞳が細められた。どこかからかうような口ぶりだ。

「いいえ。そのような色のあるお話しではありませんよ」

 妙な方向に流れ始めた空気を払拭するようにリョウは淡々と口にしていた。

「そうだわ。わたくし、腫れによく効く薬を持っていますの。よかったら、塗って差し上げますわ」

 その申し出にリョウは狼狽した。

「いえ、どうぞお構いなく。薬であれば、ワタシの方にも用意がありますので」

 見ず知らずの侍女にそのようなことをしてもらう訳にはいかない。それに自分はこれでも術師見習いなのだ。こういった怪我への対処は、自分の専門分野でもある。

 そのことを挙げて断りを入れたのだが、

「いえ。どうかこちらにいらして下さいな。折角の可愛らしいお顔が台無しですもの。そのままでお帰しするわけにはまいりません。どうかご安心を。効き目は抜群のお薬なんですから」

 それから何度も丁重に断りの言葉を口にしても、何故か侍女は納得せず、頑なに手当てを受けるようにと勧めた。そして、リョウはとうとう根負けする形で頷かざるを得なかった。




「あの、よろしいのですか?」

 宮殿の区画に入り、前方を静々と歩く侍女と同じような格好をした女官たちや官吏と思しき人々、そして要所要所に立つ長剣を腰に佩いた近衛の兵士たち(恐らくスヴェトラーナの所の第二師団の兵士たちだろう)と擦れ違うようになって、リョウは全くの部外者である自分がこのような奥向きの場所に立ち入ってしまっても良いのだろうかと内心、冷や汗を垂らしていた。

 不安が声音に滲んでいるのが知れたのか、先導する侍女は小さく振り返ると『心配することはない、大丈夫だから』とおっとりと微笑んだ。

 先程からこのような遣り取りをもう何度も繰り返していた。

 ティーダは這い出す切掛けを逸した形になって、いまだリョウの懐の中にいた。ただ、手で片手で身体を支えるには限界があったので、ベルトで腰を締める形になっている上着の中に移動してもらった。歩きながら外套の中にさり気なく手を入れて、上着の釦を外し、こちらの方に入るようにティーダを促した。お腹の辺りが妙に膨らむ具合になったが、元々大きめの外套でなんとか誤魔化した。幸か不幸か、今の所、前方を歩く侍女は気が付いていないようだった。

「ティーダ、苦しくない? 大丈夫?」

 落ち着いた色合いの石畳の敷かれた長い回廊をおっかなびっくり歩きながら、小さく囁けば、

『やれやれ』

 大儀そうにぼやきながらも、ティーダはそこから出ようとはしなかった。

『眠くなってきたわい』

 回廊を歩くリョウの内心の動揺とは裏腹にやけにのんびりとした態度でそのようなことを言う始末。

 リョウは苦笑いをしならがも、いざとなったらこの場所に精通していると思われるこの灰色の獣を頼ればよいかと思い直して、腹を括ることにした。


 リョウは少し前を歩く侍女を見た。一つにすっきりと纏められた茶色の柔らかそうな髪が歩く度に小さく揺れていた。

 歳はどのくらいであろうか。自分と同じくらいか、もう少し下か。こちらの女性は総じて大人びて見えるので自分の勘は余り当てにならなかった。ブコバルならばこういうのは得意なのかもしれないが。

 第一、これまで若い女性と接する機会は驚くほど少なかったのだ。俗に妙齢と言われる年頃の娘たちと言葉を交わす機会など殆どなかった。精々がスフミ村のアクサーナとその友人たち位だ。それから【プラミィーシュレ】で出会ったソーニャぐらいなものだろう。

 たとえ儀礼的な遣り取りと雖も、そういう女たちと言葉を交わすことが出来て、本音の所では少し嬉しくもあったのだ。まぁ、向こうにしてみれば、こちらのことは年端の行かぬ少年だと思っているのであろうが。


 そのようなことを思いながら、少し薄暗い、それでも落ち着いた品のある色使いの廊下を進んで行くと、とある部屋の前で侍女が立ち止まった。

「こちらへどうぞ。少し散らかってますけれど」

 そう言って促された場所は、若い侍女たちの休憩室、若しくは控室のような趣の場所だった。

「まぁ、イーラ、遅かったわね。大丈夫だった?」

 侍女が中に入ると中にいた女たちから次々と声が掛かった。

 リョウは念の為、戸口で一旦、立ち止まった。可笑しな話だが、女たちばかりの部屋に男のように見える自分が立ち入ってよいものかと逡巡したからだ。

「どうぞ。いらっしゃい。こちらで手当てをしますから」

 部屋の中から手を拱いた侍女に周囲にいた女たちが一斉に戸口付近を振り返った。

 中には、少なく見積もっても六・七人はいるだろう。其々に繕いものをしていたり、帳面らしきものを繰っていたり、束の間の時間を思い思いに使っていたようだ。


 リョウをこの場に案内してきた侍女は、壁際の棚へ手を伸ばしながら戸口に立つリョウを見ていた。

 沢山の好奇に満ちた瞳に注目されてリョウは無意識に肩を震わせた。『目は口ほどにものを言う』とはまさにこのことで、憚らずに注がれる視線は其々に雄弁だった。

「まぁ、イーラ、どうしたの? あんな子を連れて来て」

「あら。第七の腕章を着けているわ。兵士………っていうには若いわね」

「見習いの子かしら?」

「なぁに、イーラ。どこで引っ掛けてきたのよ」

「珍しい顔立ちね」

「瞳が黒いわ」

「髪もそうね」

 一斉に甲高い女たちのおしゃべりが、それ程広くはない室内を埋め尽くした。何度聞いても女たちの話声は、高低と抑揚のある特徴的な言葉使いで、まるで軽やかに歌でも歌っているように聞こえるのだから面白いものだ。この国の言葉を覚えたての時は、本当に歌のように聞こえたのだが、その内容を理解出来る今では、語られる言葉のあけすけさに内心ドキリとすることの方が多い。

 リョウは、女たちの迫力に気後れしていた。

「ほら。あなた。いらっしゃい。大丈夫よ。誰も取って食べたりはしないわ」

 若干口元が引き攣りそうになっているリョウの躊躇いが見てとれたのか、侍女からは鈴が鳴るようにころころと笑われて、リョウは曖昧な微笑みを浮かべると

「すみません。失礼いたします」

 軽く会釈をして、断りを入れてから女たちの園に足を踏み入れた。

 小さく湧き立つような妙な外野の反応は、敢えて気に掛けないことにした。

『相変わらず、姦しいものどもよ』

 上着の中で小さくティーダがぼやいた。リョウも心の中でそっと同意をしておいた。

 

 部屋の中には真ん中に大きな木のテーブルが置かれ、その周りには小さな椅子が並んでいた。侍女たちは思い思いの場所に座りながら其々の作業をしていた。壁には大きな棚が並んでいる。

 簡素な木の丸椅子に腰を掛けるように勧められて、リョウは大人しく従った。

 そこに手当てをする為に軟膏と油紙、布の切れ端を手に侍女がやってきた。


「あの、お名前をお聞かせくださいませんか?」

 自分の名前を名乗ってから、リョウは改めて侍女の名前を尋ねた。ここまでしてもらって名乗らない訳にはいかなかった。

「まぁ、イーラったら。名前も聞かずに連れて来たの? いつになく積極的ねぇ」

 斜交いに座るふくよかな女性がおおらかに笑った。

「もう、そんなんじゃないわよ」

 すぐに入った茶々を慣れたようにあしらいながら侍女が微笑んだ。

「イーラよ。よろしくね、リョウ」

「はい。こちらこそ」

「あらまぁ、そうやって笑うと随分と可愛らしい感じになるのねぇ」

 年嵩のどっしりとした体格の良い侍女が、リョウの方に身体を寄せながら顔を覗き込んだ。

「あらあら、本当に髪も瞳も真っ黒なのねぇ」

 そうして感心したように口にする。

 リョウは、ただただ大人しくじっとしていた。

「あら左側の頬が腫れているじゃない。どうしたの? 誰かに叩かれたの?」

「あらあら大変だわ」

「まぁ、可哀想に」

 周りに座る女たちから矢継ぎ早に言葉を重ねられて、

「まぁ、そのようなものです」

 リョウは曖昧に微笑んだ。

 対するイーラは手当ての用意をしながら、だからここまで連れて来たのだと言った。


 気が付けばリョウの周りにはわらわらと侍女たちが集まっていた。ここまで来ると何やら見世物になった気分だが致し方ない。これもある意味、いつものことなのだ。

「さらさらとして素敵な髪ね」

 無造作に紐で括っただけの黒い髪の束へ一人の侍女が手を掛けていた。

「ほら、御覧なさいよ。こんなに指通りもいいわ。細い【ノーチ】の糸みたい」

「ターネェチカ、退いてちょうだい。そこにいたら薬が塗れないわ」

 軟膏を手にしたイーラに、薬ならば自分で塗るから大丈夫だと声を掛けたのだが、すげなく却下されてしまった。

「動かないでくださいね」

 イーラの細い指が頬の腫れた部分に軟膏を塗り込んでいく。些細な刺激は少々痛んだが、我慢した。

「肌も綺麗ね。肌理が細かくて。羨ましいわぁ」

 イーラが軟膏を塗る反対側からうっとりと囁かれて、リョウは心の中で苦笑いをした。

 やはり女たちだ。幾つになっても御洒落や美容に関心が高いのは共通項だ。

「何かお手入れをしてるの?」

 興味津々に尋ねられて、顔を動かせないので横目で問いを発した侍女を見た。色白で頬にそばかすが残る愛嬌ある顔立ちをしていた。

「いえ、特には………」

 こちらでは石鹸で顔を洗うだけだ。かつてとは違い何も特別なことはしていなかった。ただ、こちらの水は身体に合っていたのだろう。普段、鏡を見るようなことをしていないので、その辺りのことは良く分からない。ひょっとしたらシミだらけになっているかもしれない。

「まぁ、ユーリャったら。男の子がそんなことをする訳ないじゃない。おかしな子ねぇ」

「あら、でもいい所のお坊ちゃん方は、ちゃんとお手入れをしているそうよ? この間、アルーハーン様が仰ってらしたもの」

 頭上を行き交う女たちの舌は実に滑らかだった。上着の中のティーダが絶え間なく続くお喋りに閉口したように身じろいだ。

 するとリョウのすぐ脇で繕いものをしていた体格の良い侍女が、リョウの外套の合わせ目から覗く灰色の尻尾に気が付いたようだった。

「あら、あなた。懐に何を隠しているの?」

 その瞬間、中にいるティーダの身体が強張ったのが分かった。

「どうしたの? マーシャ?」

「なにかいるみたいよ?」

 大人しく薬を塗られている時だったので、身体を思うように動かすことが出来ず、あれよと思う間に隣から外套に手を掛けられた。

「あらまぁ」

 そこには、こんもりと妙な具合に膨らんだ上着とその釦の隙間からは長い尻尾が飛び出していた。

 『頭隠して尻隠さず』という珍妙な塩梅だった。

 リョウは大きく息を吐くと、

「ティーダ。観念しなよ?」

 そう口にしてから、静かに上着の釦を外して行った。やがてその合間から、ひょっこりと灰色の獣が鋭い二本の牙を剥き出しにして顔を覗かせた。

「きゃぁ!」

 思いがけないものだったのか周りの侍女たちから悲鳴のような声が上がった。

 ティーダは上着の縁に手を掛けて、なにやらぐったりとした様子だった。

「ティーダ、大丈夫?」

『ああ』

「まぁ、ティティーじゃないの!」

 薬を塗っていたイーラが吃驚して手を止めた。そして、まじまじとリョウの方を見た。

 エクラータがあんなにも必死になって探していたのだ。それに付き合うことになったイーラも随分とあちらこちらを探したのかもしれない。

 申し訳ないことをした……のかもしれない。

「すみません。匿ってくれと頼まれたものですから」

「あら、あなた。ティティーの言葉が分かるの?」

「はい」

 上着から這い出たティーダは観念したのか、リョウの膝の上に乗っていた。リョウは宥めるようにその毛並みをそっと撫でていた。

「随分と懐いているのねぇ」

 大人しくしている小さな獣を見て、感心したような声が漏れた。

「さぁ、終わったわ」

 軟膏を塗ってその上に油紙を張り、その上から当て布を張った。何だかとても大げさになった気がしたが、折角の行為を無碍にすることも出来ずにリョウは素直に『ありがとうございました』と謝意を口にした。

 イーラは『どういたしまして』と微笑んで、手を洗い片付けをするべく隣の部屋に行った。そのほっそりとした後姿をリョウは些か複雑な気分でそっと見送ったのだった。



 中座してしまった武芸大会の行方も気になるし、手当てをしてもらったのでそろそろお暇しようかと腰を上げかけた時だった。

 俄かに控室の戸口が賑やかに色めき立ったきがした。

「まぁ、嬉しいわ。いつもありがとうございます」

 先程よりも幾分音域の高い侍女の華やいだ声が室内に響いた。

 その弾んだ声に戸口の方を透かし見れば、若い侍女たちに囲まれるようにして立つ男の横顔が見えた。

 淡い金色の繊細そうな細い髪が真っ直ぐ顎の所まで伸びている。そこで切り揃えられた髪は、艶やかに光沢を放っていた。

 視線を感じたのか、その男がゆっくりと振り返った。そこにある薄い灰色の光彩と目が合った瞬間、相手が小さく目を見開いた。だが、すぐに男にしては実に艶やかで綺麗な類の微笑みを浮かべたのが分かった。

「リョウじゃないですか。このような所でどうしたんです?」

「……ゲーラさん」

 それはこちらの台詞でもあった。まさか、このような所で顔を合わせるとは思わなかった。

 戸口に立っていたのは、第三師団の団長であるゲオルグ・インノケンティだった。

 侍女たちの視線も一気にこちらに向いた。

「こんにちは」

 再びの注目に居心地の悪さを感じながらも挨拶を返せば、ゲオルグは、つかつかと中に足を踏み入れ、丸椅子から立ち上がったリョウの傍に来た。

「まぁ、インノケンティ様。その子とお知り合いなの?」

「ええ」

 侍女の問い掛けにゲオルグは振り返ると鷹揚に頷いた。

「おやおや、怪我をされたんですか。このような所に」

 リョウの左頬を見たゲオルグは、その形のいい眉を顰めた。

「ああ。これは大したことではありません。ちょっとぶつけてしまって。イーラさんが念のためにと手当てをして下さったので」

 繊細で柔和な面立ちがずいと寄ってきて、リョウは咄嗟に身体を引いていた。

 近づいたまま、ゲオルグの視線がついと下に降りた。

「おや、ティティーも一緒なのですね?」

 そう言って、にっこりとどこか白々しい感のある笑みを刷いた。

 リョウの腕の中でまどろむように目を瞑っていたティーダは、閉じていた目を片方だけ上げて、すぐに感心なさそうにそっぽを向いてしまった。

 何やら含みのありそうな関係だ。


「インノケンティ殿」

 注意を喚起するような響きを持った男の声が、戸口の向こう、廊下の方から響いた。

「ああ、今、行きますよ」

 ―――――――名残の挨拶くらいさせてくださいな。

 ゲオルグは、手土産である菓子の類を手渡した後、一頻り、侍女たちに愛想を振り撒いていた。

 シーリスから、第三師団の団長は、ブコバルとは違った意味合いで女性関係が手広いとのことを聞かされていたが、奇しくもその評判を目の当たりにした気分だった。

 恐らくゲオルグは、驚くほど強かで根回しの上手い男なのだ。単なる女好きということもあるのだろうが、こういう宮殿の下支えをしている侍女たちを味方に付けるのは、ちょっとした裏の情報収集や人間関係を円滑にしてゆく上で、大事なことに違いない。

 定期的な貢物を欠かさないというのを聞き及んで、実にマメな男だと思った。そして、きっとあの類稀に整った容姿も武器になっているのだろう。


 ちょうど潮時だと思った。

「それではワタシもこれで」

 このまま暇を告げるべく声を掛ければ、

「あら、もっとゆっくりしていけばいいのに」

 繕いものをしていた侍女に引き留められた。

「いえ、皆さまのお邪魔になりますので」

「まぁ、控え目なのね」

 それから、戻ってきたイーラにもう一度、ありがとうと礼を述べて、リョウは賑やかな侍女たちの控室を後にしたのだった。


 戸口を出た所で一緒になったゲオルグにこれからどうするのだと聞かれて、武芸大会の会場である宮殿前広場に戻るのだと伝えれば、ちょうど良いから自分も一緒に行こうと言われた。

 ここまでの道のりが少々覚束なかったので、リョウはその申し出を有り難く受けることにした。腕の中にいたティーダは、疲れたので昼寝をすると言って、来た時と同様にふらりとまたどこかへ行ってしまった。

 ゲオルグの傍には、もう一人、連れの男がいた。自分にとっては最早お馴染みになった白い簡素な上下に艶やかな濃紺の帯を締めた神官と思しき男だった。どことなく影のある密やかな空気を身に纏う壮年の神官だった。

 リョウはその神官に軽く会釈をして、途中まで同行させてもらえるようにと許しを請うた。神官はちらりとゲオルグの方を見て、その繊細な面立ちが了承するように頷いたのを見てとってから、静かに首を縦に振った。

 こうして再び、武芸大会の会場に戻るべく、些かちぐはぐな組み合わせの男たちとリョウは行動を共にすることになったのだった。



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