団体戦 第一試合
「始め!」
審判の低い掛け声に、対峙する二人の男たちを囲む空気は、一気に張りつめたものになった。両者ともに剣を構えて、じりじりと相手の隙を窺う。
先に動いたのは、アッカの方だった。腕を軽く曲げ、地面と水平になるように剣先を前に向け、鋭い突きを繰り出した。相手の方は、その第一閃を流すように弾いた。
金属と金属のぶつかり合う鈍い音と刃同士が擦れる甲高い摩擦音が、繰り返し響く。それに長靴が地面を踏みしめ、蹴り上げる音が混じった。
間合いが徐々に詰まっていった。
アッカが繰り出した剣先を相手の男が大きく後方へ飛び退くことで避けた。そのまま向こうの間合いに入ったアッカに相手の男はその場からすかさず薙ぎ払うように剣を横に振るう。アッカは、その軌道を長剣の柄を両手で握り込み、垂直方向に立てることで受け止めた。
―ガキン。
一際、高い金属音が周囲にこだました。衝撃を堪える為に踏み締めた長靴の踵が、土と砂を巻き込んでザリザリと鳴る。
そこから相手もすぐに水平にしていた剣を垂直方向に立て直し、至近距離で交差する剣同士の鍔迫り合いのようになった。
暫し、力の押し合いが続く。だが、両者の力は拮抗していたようで、そのままでは勝負が付かないと判断したのか、相手の方が力任せに押し込み、そこから再び飛び退くことで間合いを取り直した。
二人の兵士は、その場で相手をひたと見据えた。互いの呼吸から相手に付け入る隙を探す。互いの視線は逸らさない。逸らした方が負けだ。
観客は、固唾を呑んで対戦の行方を見守っていた。
スタリーツァ街中の治安維持を一任されている第四師団の兵士たちは、その仕事柄、街の人々と接する機会も多く、その高潔で遅延のないしっかりとした仕事振りは、地元の人々の間では評価も高く人気もあった。一部、ちょっとした例外もあるようではあったが(とりわけ、ここで自分の出番を待っている四番手の兵士のように)、それは第四師団を纏め上げる団長の人徳のなせる業でもあるのだろう。
―セイラム!
知り合いだろうか、観客の中からは相手の兵士の名前らしきものを呼ぶ声が細く長く響いた。
負けて欲しくない。そんな必死さが、掛けられた声には籠っていた。
それから暫くは重みのある打ち合いが続いていた。剣と剣がぶつかる度に金属音と地面を蹴り上げる長靴の音と段々と荒くなる男たちの息遣いが聞こえる。
リョウは、剣のことは全く分からなかった。どちらの方が、技量が上なのかも見当が付かなかった。だが、アッカは押されてはいないと思った。互角、いや、時折、相手が思い描く軌道を僅かに外れる巧みな剣さばきに相手の反応が若干遅れを取っているような気がした。
リョウは両手を身体の前で握り締めていた。指に自然と力が入る。アッカには勝って欲しい。先程、対戦者の名前を叫んだ人たちと同じ気持ちが、心の中を支配し始めていた。
相手が踏み込み、あっと思った時には、ギリギリの所で剣先がアッカの横顔を掠めていた。それでもアッカは落ち着いていた。そして、その動きは俊敏だった。
アッカは、直ぐに剣先を流すように弾くと一気に間合いを詰め、返す一刀を浴びせる。相手の兵士は間にあわず体勢を崩したが、それをどうにか己が剣で受け止めた。だが、片足が後方に大きく下がり、身体の軸が傾いたことが命取りとなったようだ。
次の瞬間、相手の体が大きく開いた所にアッカの方が素早く相手の首元に剣を突き付けていた。
―そこまで!
審判の鋭い声が上がり、手にしていた旗を上げた。
「勝負あり。第七、一本」
場の緊張が弛緩し、あちこちでワァァァーと大きな歓声が上がった。
そこで漸く、リョウも詰めていた息を吐き出した。
アッカと対戦相手の兵士は姿勢を正すと一礼し、負けた方が後方へ下がって行った。そして、入れ替わるように今度は第四の方から次の対戦相手が前に進み出て来た。
再び、両者一礼をしてから二番目の対戦者は剣を引き抜き、間合いを取る。そして、審判の合図で試合が始まった。
団体戦の試合は、両師団から一名ずつを選抜し対戦した後、そこでの勝ちを点数にするのではなく、どちらか一方が先に五番目の大将を倒した方が勝ちとされた。各師団共に上位にいる兵士たちは粒揃いであるので、団体戦に出場する個人の技量の差が圧倒的になる場合は余りないが、極論から言えば、最初の一人が勝ち続け五人と試合をし、それで勝者となる場合も有り得るのだ。まぁ、飛び抜けて強い者がいるならともかく、往々にして力は拮抗するものなので、一人勝ちという事態は過去の経験から見ても有り得なかった。
勝った方は勝った方ですぐに次の選手ーましてや大体どこも一番手よりも技量が上と目されている兵士だーを相手にしなくてはならないのだから大変だ。だが、実際の戦闘になった場合、疲れたからなどと悠長なことは言っていられない訳である。この試合は、兵士個人の忍耐と持久力も試されているのだ。
第四の二番手の若者の左腕には、深い緑色のリボンが揺れていた。
―ウルスラ、頑張れ!
男たちの野太い声に混じり女たちの声援も聞こえて来た。
きっとこの会場のどこかで深緑色をした瞳の若い娘が、その若者の雄姿を見守っていることだろう。神に祈りを捧げるような気持ちで。この表舞台には現れない所で、もう一つの物語が既に始まっているのかも知れない。
アッカは、この第二回戦で相手の兵士と引き分けとなった。
引き分けの場合は、そこで対戦者が共に入れ替わることになっていた。
「アッカ、お疲れ様!」
一礼し、後方へ下がる赤毛の青年にリョウは声を張り上げていた。リョウが見学をしている場所からは大分距離がある為、自分の声が届くかは分からなかったが、赤毛の青年は、小さく振り返ると先程までの張りつめた表情からは一転、いつもの優しい微笑を浮かべてこちら側に小さく片手を振った。
周囲の観客は、下がって行く二人の兵士たちの健闘に野次と声援、そして惜しみない拍手を送った。
アッカが下がり、第七の方は二番手のロッソが前に出た。そして、間を置かずして第四の方からも三番手の兵士が出て来た。
第三回戦の始まりだ。
第四の兵士は周囲と比べても幾分小柄な男だった。手にする剣と比べても線が細いように見える。だが、その動きは実に俊敏で、体格からくる力の差をその素早さで補っているようだった。そして、繰り出される剣の動きも洗練されており、実に無駄の無いものだった。
序盤は、ロッソの方が押されがちに見えた。鋭く突き出される剣先を受け、防御の方に多く時間を削られていた。だが、相手の方も中々決定打となる一撃を入れることができない。そうするうちに後半から徐々に体力の差が出て来たようだった。
重みのある一刀を繰り出すロッソの一撃に相手の反応が少しずつ狂いを見せてゆく。相手の一撃を受け流すかに見せた所でロッソが一気に間合いを詰め、相手の剣を巻き込むように力で弾いた。次の瞬間には、相手の一振りがその手を離れ、地面に音を立てて落ちた。
そこで、審判の旗が上がった。ロッソの粘り強さが勝ちを引き寄せた形となった。
第四の兵士は悔しそうに歯がみして見せると落ちた剣を拾い、だが、すぐに表情を改めた。そして、一礼をすると会場を後方に下がった。
会場からは兵士の頑張りを称える拍手と声援が上がった。とりわけ、女性陣からは金切り声のような熱烈な声援が届いていた。女たちに人気のある兵士であったらしい。
そして、続いて第四の方からは四番手の男が出て来た。
巨躯を誇る男の登場に周囲の男たちが一斉に湧いた。
浅黒い肌に短く刈り上げた薄茶色の髪、その右目の下には頬桁のところに刺青のような紋様があった。何よりもこれまでの品行方正そうな清潔感のある兵士たちとはかなり趣が異なっていた。
「待ってました、ザイーク!」
「いいとこ見せろ!」
「ここで負けたらただじゃおかねぇぞ! 有り金つぎ込んだんだ。ぱぁになっちまう」
「男だ。ここで挽回しろ!」
観客の男たちの些か品に欠けると当時にかなり切実な願いの籠った野次の類に対して、ザイークと呼ばれた兵士は、緩慢な動作で大きく片手を振り上げることで応えた。
それに応えるように観客の方も一斉に湧き立った。
そして、ゆっくりとした足取りで会場の真ん中に歩み出た。
男はロッソよりも一回りは大きかった。獰猛そうな笑みをその口元に刷いて挑発するように相手を見下ろした。だが、ロッソは相手のそのような挑発には乗らなかった。
暫し、無言のまま睨み合いが続いた。業を煮やしたのか、間に入った審判が、試合を始める体勢に入るように両者を促した。
そして、第七と第四の四回戦、ロッソ対ザイークの試合が始まった。
結論から言えば、ロッソはザイークに負けた。ロッソは二戦続けての出場で相手よりも体力を消耗していたが、それでも果敢に相手に食らい付いていた。だが、そこには自ずと力量の差があったようだ。
剣と剣のぶつかる時の衝撃が、今までの比ではない位に大きかった。丸太のような太い腕から繰り出される重みのある一撃をロッソは時として流し、そして受けた。強烈な一打に低い声が上がる。だが、その中で、ほんの一瞬の気の緩みからか、身体を支える時の軸足の部分がずれてしまった。そこを一気に相手に踏み込まれる形になった。
己が剣を弾かれ、喉元に大剣の切先を突き付けられた時、ロッソは酷く悔しそうに相手を睨み上げていた。対するザイークが、余裕ある態度であったのが余計に内なる闘争心を刺激したのかもしれない。だが、そこはよく訓練された兵士だ。己の感情を表に出すことを良しとしない男たちは、取り乱すことを恥入るように、瞬時に表情を改めると一礼して、次の仲間に後を託すべく後方へ下がった。その内側では、ここでの悔しさを糧に今後の鍛練に一段と熱が入ることになるに違いない。
第四のザイークが勝って、形勢逆転を狙おうとばかりに応援をしていた観客が一気に湧いた。そこに被せるように第七を贔屓している人々の声も負けじと上がっていた。
次に、第七からは三番手であるアナトーリィーが、前に出た。
アナトーリィーは、第七の中でも中堅どころの兵士である。北の砦では面倒見の良い兄貴分として後輩の兵士たちからは慕われていた。大きな図体に似合わず手先が器用で繕い物が得意なのだとか。その事が関係しているのかは分からないが、アナトーリィーが使う剣は、押し出しの強い体格から想像するような力で押すというよりも技巧派だった。
続く第五回戦、アナトーリィーもいい所までいった。序盤は、かなり相手と互角に渡り合っていた。巧みな剣さばきで相手を時には翻弄していたようにも見えた。
剣がぶつかる度に火花が散りそうな程の強打音が響く。一撃を受けた時の衝撃は余程のものであるのだろう。踏ん張る時の気合の声が低く短く、金属同士がぶつかりあう音に混じった。
だが、やはり最終的には相手の方が上手であったらしい。後半、大きな体から繰り出される一撃を流しきれずにアナトーリィーが体勢を崩し、片膝を着いた。そこで、ザイークから振り上げられた一刀にリョウは思わず目を瞑ってしまった。
一際、高い金属音の後、間髪入れずに審判の制止の声が響いた。
恐る恐る目を開けば、上げられた旗が、第四の方を勝者として指示していた。そして、ザイークの剣は、片膝を着いたアナトーリィーの喉元に、対するアナトーリィーの切先は、相手の防具に覆われた腰に当てられていた。
勝負あったとばかりにあくどい感のある余裕のある笑みを浮かべて、ザイークが剣を引いた。アナトーリィーは無表情のまま、剣を引くと立ち上がり、審判と対戦者に対して一礼をして下がって行った。
第四を応援していた観客が二戦続けての勝利に咆哮を上げた。
「すまん………」
心底悔しそうに奥歯を噛みしめた後、ぽつりと漏れたアナトーリィーの言葉にブコバルは、その自分と然程変わりのない大きな背中を擦れ違い様に軽く叩いた。
後は任せておけ。そんな意味合いが込められている。
多くの言葉はいらなかった。
アナトーリィーはよくやった。ただ対戦をした相手の方が一枚上手であったということなのだ。
「借りにゃぁ、きっちり利子付けて返してやるさ」
律儀なところのある男は、「すまん」などと謝罪の言葉を口にしたが、そのようなことは気にすることではないのだ。共に目指すものは同じ。この国の兵士の頂点だ。己が力を出し切って正々堂々と戦ったことに意義がある。同じ釜の飯を食べ、苦楽を共にした仲間の健闘を称えはしてもその結果を貶めたりすることは決してしなかった。負けを一番悔しく思っているのはその本人であるからだ。
「ああ。頼んだぜ」
余裕の笑みを刷いた仲間に敗れた兵士は、小さな笑みを送った。
そして、第七からは四番手の対戦者が、再び湧き起こった多くの声援の中、次なる第六回戦に向かうべくゆっくりと舞台中央へ足を進めたのだった。
「よぉ、待ちくたびれたぜ」
大剣を肩に担ぎ、残忍な笑みを浮かべた大柄の男に、
「そいつは悪かったなぁ」
対する男も悪びれることなく挑発的に薄い唇の端を吊り上げると、待ち構える男の元にゆっくりと歩み寄った。
この時をどんなにか首を長くして待ったことか。その想いは、相手も恐らく同じことであろう。
力では負けないという自負があった。共に昔から好敵手と見做されることが多かった。
この国、スタルゴラドの誇る軍部の中でも、とかく毛色の変わった扱いをされがちなブコバルであったが、この目の前の男、ザイークもそれに負けない位、色々と噂話の絶えない曰くつきの男であった。二人の男がこうして対峙すると軍部の兵士たちの正式な試合というよりもゴロツキ同士の諍い、又は喧嘩のようにも見えるのだから不思議なものだ。
まぁ、当の本人たちはそんなことはこれっぽっちも気にしてはいないのだろうが。
だが、二人は共にこの国を代表する兵士である。上下関係の厳しい軍律の中で揉まれてきた二人にも最低限の礼儀は心得として染み付いているはずだった。
ブコバルは中央まで来ると審判の男に軽く頭を下げた。
「よろしく頼みます」
かつて扱いた弟子の姿に審判の男は「ふん」と尊大な態度で鼻を鳴らしたが、次の瞬間、薄らとその冷徹そうな口元に笑みを刷くと、
「洟垂れ小僧どものお手並み拝見としようか」
そんなことを言い放った。
「望むところだ」
ブコバルは腰に刷いた長剣をすらりと引き抜くと、相手との間合いを取った。
「久し振りに腕が鳴るぜ」
ザイークから漏れた言葉にブコバルも同意をするように男らしい笑みを浮かべた。
ブコバル対ザイークの第六回戦は、これまでとは些か趣が異なった。
とにかく周囲の観客たちの野次がすごかった。途中、景気付けに一杯、引っ掛けて来たのではないかというような男たちの野太いだみ声が、あちらこちらから上がっていた。急に場末の酒場が客ごと移動してきたような感じだった。
約四年前にユルスナールと共に北の砦への赴任が決まって以来、ブコバルも王都に顔を出す機会は随分と減った訳だが、毎年開催されているこの武芸大会の常連者であることが、やはり起因しているのだろう。集まった観客たちの間では、ブコバルはその名前と顔が広く知られているようだった。
この二人の組み合わせには、周囲の野次を寧ろ喜び、嬉々として受け入れているような不思議な空気があった。それが余計に周りの熱気を集めているようだった。
第七の中でも剣でブコバルの相手になるのはユルスナールぐらいなものだった。シーリスともそこそこやりあえるのだろうが、いかんせんシーリスの方がブコバルの相手を嫌がるものだから、ブコバルの中では日々の訓練に対して常に物足りなさというか、ある種の欲求不満のようなものを感じていたのだ。
これまで大きな戦を経験している訳ではない。だが、二十数年前の隣国と大戦は、完全に終結を迎えた訳ではなく、今でも各地で小競り合いのようなものが起きていた。なので実戦経験はある。命を懸けた危険と隣り合わせの遣り取りも間々あることだった。
ブコバル自身、人を斬ったことも殺めたこともあった。それが、任務であり、任務完遂の為にはそれが正しい道であることを信じていたからだ。
絶えず【死】は隣り合わせにあった。戦いの場では一瞬の気の緩みが命取りになる。極限の緊張状態は、これまでにそれなりに経験をしていた。
この場所では、その時に限りなく近い緊張感が疑似体験出来た。
ブコバルは、この高揚感が昔から堪らない程に好きだった。全身の血が体中を駆け巡る。剣と剣がぶつかる一瞬、神経が研ぎ澄まされた一瞬には、快感すら覚える程だった。男ならば誰しもが持ち得る危ういまでの残虐性と闘争心、そこに付加する肉体の痛みまでもが、全神経を高ぶらせ、陶酔の世界に己を誘った。
これは、神官たちが神殿で祈りを捧げ、神のお告げを聞く時のような一時的な精神離脱状態に近いかもしれない。意識と魂と肉体が、辛うじて一本の細い糸で繋がっている。そんなギリギリな綱渡り的状態が、ブコバルの中では快感として変換されていた。
それは自分のみならず、この目の前にいる右目の下に刺青を彫った男もそうなのだろう。
ユルスナールのように何かを守る為、その大義の為に剣を振るう者もいるが、ブコバルの場合は、そういった精神の崇高さよりは、少し外れた所にその意味を見出していた。
国の為、仲間の為、愛する人の為。人がこの国で兵士となりその手に剣を持つ理由は様々だ。勿論、ブコバルの中にもそのような気持ちはあったが、それが第一義ではなかった。その点、ブコバルは利他的であると同時にかなり利己的でもあった。一昔前なら、戦場でこそその持ち味を遺憾なく発揮するような男だろう。
そして、この場は、唯一、公に認められた、心置きなく思う存分相手と剣を交えることの出来る機会であるのだ。北の砦で発散しきれていない日頃の鬱憤を爆発させることの出来るまたとない機会でもあった。
それは恐らく向こうも同じだろう。対峙する相手からも同じように抑え切れない高揚感と内なる興奮が伝わってくるのが、ブコバルには分かった。
「ちったぁ、ものになってんだろうな? おい」
挑発的に吊り上がる薄くて幅の広い唇。うっそりと細められた薄い灰色の瞳に、ザイークもこの状況を自分と同じくらい待ち望み、そして楽しんでいることが分かった。準備万端といつでも飛びかからんばかりに目をギラつかせて、その一瞬を待ち構えている獣のようだ。
「ハッ、そっちこそ、途中でへばんねぇで、少しは楽しませてくれよ?」
視界の隅でかつての師匠でもあった審判が、旗を上げた。その瞬間を横目で確認しながら、ブコバルは嬉々として土を蹴った。
「なんか………ブコバル、すごく生き生きしてる?」
これまでとはかなり変化を見せた会場内の空気に、リョウの口からは小さな呟きが漏れていた。
「うわ………すげぇ……」
その隣でバリースが感極まったように己が拳をきつく握り締めていた。
周囲をひしめく群衆が集うこの場に飲み込まれるのではなく、この場そのものがあの二人の勢いに飲み込まれている。満を持して野に放たれた野生の獣のように伸び伸びと大きな剣を振るう様は実に鮮やかで、生き生きと輝いて見えた。心の底からこの勝負を楽しんでいるということが、会場でぶつかり合う男たちの大きな体全体から伝わってきていた。ここまで来るとその剣が【真剣】であるとか、怪我をするのではないかというような心配は、最早、リョウの中では感じなくなってきていた。それ以上に目の前で繰り広げられている剥き出しの力と力のぶつかり合いに夢中になっていた。
―反則技の多いブコバルですが、恐らく、一番、実戦向きでしょうね。
今年の春先に北の砦で耳にしたシーリスの台詞が、不意にリョウの頭を過った。
相手のザイークと呼ばれていたあの男も随分と楽しそうだ。大柄な二人が繰り出す剣さばきは、ぶつかると火花が散るのではないかと思えるほどに端から見ていても強烈なもので、剣と剣がぶつかるというよりも大きな肉体同士がぶつかるというような錯覚を覚えた。
ここで再び、立ち会う二人に注目をしてみよう。
暫く打ち合いを続けていると徐にザイークが口を開いた。
「そろそろ身体が解れてきたかよ?」
「ああ。十分だろ」
これまでは慣らしの準備体操のようなものであったらしい。
ブコバルの言葉に、ザイークがとある提案をした。真剣勝負を始める前のお約束のようなものだ。
「俺が勝ったら、お前んとこの【玩具】を貸せ」
「ああ? なんだそりゃぁ?」
打ち込まれた剣を弾きながら、ブコバルが怪訝そうな声を張り上げた。
相手が訳の分からないことを吹っ掛けてくるのは今に始まったことではなかったが、ブコバルには突拍子もないことのように聞こえた。
「お前んとこでチョロチョロしてんのがいるじゃねぇか。【チョールナヤ・コーシェチカ】がよぉ」
ブコバルはそこで相手が何を言わんとしているかを理解した。
要するに控室の天幕の所で顔を出したリョウのことを言っているのだろう。どの面下げて【コーシェチカ】などと口にするのか。ブコバルは全身に鳥肌が立ちそうになった。そんなのを借りて、一体、何をするつもりなのか。考えるのもおぞましい。
「ああ? お前にそんな趣味があるなんて知らなかったぜ。【コーシェチカ】を愛でるっつうタマじゃねぇだろがよ」
「こう見えて俺は動物好きなんだよ」
ニヤリとあくどい感のある笑みを浮かべたザイークに、ブコバルは心底嫌そうな顔をした。ザイークのような男が、何かを可愛がる様など天と地がひっくり返っても想像できそうになかった。
「そいつぁ、無理だな」
ブコバルが、気合十分、大きく剣を横に薙ぎ払うと、ザイークはその巨体に似合わず、思いの外の俊敏さで間合いを取って飛び退いた。
「なんでだよ? ケチくせぇな。ちょっとぐれぇいいだろう?」
ザイークが絡むように踏み込んできた。
重みのある一撃を真正面から受けながら、ブコバルが相手のしつこさに嫌そうな顔をした。
「あー、そいつは俺の一存じゃぁ決められねぇ」
リョウを賭けにザイークと試合をしたなんてことがばれたら、それこそ若干一名に本気で殺されそうだ。こんな下らないことであらぬ恨みを買いたくはなかった。
その言葉にザイークの顔にこれまで以上に残忍な笑みが浮かんだ。
当人としては機嫌よく、よい思い付きに心が躍った末の感情の発露であった訳だが、なぜかそれは傍目には兇悪な類なものに見えてしまうから不思議だった。そういう意味では、ザイークという男は、人生でほんの少しだけ損をしているのかもしれない。
「へへ。そうかい。なら、おめぇをぶちのめして、序でにそっちの頭もねじ伏せりゃぁ、文句はねぇ訳だ」
しつこく食い下がる相手をブコバルは一蹴した。
「ほざけ、このどアホが。そう易々とやられてたまるかよ。寝言は寝てからにしろ!」
口慣らしも済んだ所で、
「じゃぁ、そろそろ本気出して行くか?」
「ああ」
二人の男たちの碌でもない会話は、幸いにして観客の方には伝わっていなかった。遠目には、何やら声を掛け合っているようにも見えたが、距離があればそれは呪詛の類を気合として発しているようにも取れなくなかったからだ。
だが、それらを届く範囲で聞かされていた審判は、いつまでたってもガキ臭い所の消えない男たちの莫迦らしい遣り取りに内心呆れの溜息を吐きながらも、この場を固唾を呑んで見守っている観客たちの手前、無表情を通していた。
―じゃれあいはそこまでにしておけ。
そのような意味合いを込めて、審判がギロリと二人の対戦者を睨みつけたように思えた。
それが合図であったのかは分からない。だが、突如として咆哮のような雄叫びが中央から上がった。
ブコバルとザイークの顔付きが、一瞬にして変化を見せ、獲物を狙う捕食者の目付きに変わった。この場が、疑似的な生と死を懸けた究極の極限状態に陥ったように思えた。
そして、一気に間合いを詰め、懐に飛び込んだのはブコバルだった。力では互角、いや、ややもすればブコバルの方が劣るだろう。だが、ブコバルの肉体は野性の獣のようなしなやかな柔軟性を持っていた。
打ち込み、ギリギリの所で剣を引く。そして身体を素早く反転させると間髪入れずに踏み込んだ。
そして、次の瞬間、己が剣の切先を斜め背後から男の太い首元に突き付けていた。
―そこまで!
審判の声が旗と共に上がった。
「勝負あり」
「フゥーラァァァァ!」
その瞬間、獣のようにブコバルが吠えた。
―ワァァァァァァア!!
杭と荒縄で区切られた即席の会場を取り囲む群衆からは、これまでの比ではない程の歓声と野次が湧き立つように上がった。
「チクショウ!」
思わず悪態を吐いたが、剣を納めて振り返ったザイークは、満更でもないというような晴れやかな顔をしていた。互いに全力を出し切った結果ということなのだろう。額際に流れる汗が潔くも光って見えた。
「楽しかったぜ。相棒」
大歓声の轟く中、ゆっくりと手を差し出したブコバルに、ザイークはパンと打ち鳴らすように己が掌を叩き付けた。
そしてその口元に薄らと笑みを刷いた。
「今度は、負けねぇ。首洗って待っとけよ」
「ああ。望むところだ」
そして、正々堂々と戦いを果たした両者は、力一杯その拳を握り締め、握手を交わしたのだった。
その後、ある種、異様な興奮に包まれる中、ブコバルと第四師団の最終相手、団長との試合である第七回戦が行われた。
第四の団長はかなり人気があるのか、あちこちで声援が響き渡った。その中でも「頼んだぞ!」とか「頼むー!」といったどこか悲痛すらある男たちのだみ声ーきっと団体戦で第四に賭けた男たちなのだろうーが、この勝負の行方と心中しかねない勢いで最後の声援を送っていた。
「ひょっとしたら、ここで決まるかもな」
様々な野次と歓声がうるさい位に湧き起こる中、リョウの後ろにいたヤステルがそんなことを言った。
「え、でも、団長って、さっきの身体の大きな兵士よりも強いんだろ?」
リョウは振り返ってヤステルを仰ぎ見た。
剣の腕が強くなければ団長にはなれない。ついこの間、街中で第五のウテナとイリヤがそのような事を言っていたのだ。それにこれまでの流れから相手もかなりの腕前で、さぞかし熾烈な立ち会いが行われるのだろうと思っていたのだが、
「あー、なんてーの? 多分、あの人たちはなんか別格な気がするんだよな。第五とか第一だったら、団長まで引っ張り出されるんだろうけど…………」
そう言ってヤステルはブコバルが立つ前方を見つめながら言葉尻を濁した。
ブコバルの方が第四の団長よりも強い。それは、過去の試合と対戦成績を見てきたヤステルなりの分析のようなものなのだろう。きっとヤステルの頭の中には、兵士たちの番付のようなものが独自であるのかもしれない。
「まぁ、見てのお楽しみだよ。ほら始まる」
怪訝そうに後ろを振り返っていたリョウを隣からリヒターが突いた。そこでリョウも再び顔を正面に向け直した。
第四の団長は、ザイーク以外の系統を引き続ぐかのように凛とした立ち姿の立派な風格を持つ男だった。きびきびとした動作の一つ一つが、丁寧で品があった。茶色の真っ直ぐな髪を短く刈り、斜めに分けて横に流していた。見るからに真面目で堅物といった印象を受ける正統派な美丈夫だろう。
「よっ、待ってました、隊長!」
場所柄、周辺警備や通常の仕事の合間を縫って駆けつけた第四所属と思われる兵士の集団が直ぐ近くにあった。兵士たちは、中で戦っている出場者たちと同じ黄色の腕章をその左腕に巻いていた。
「隊長、頼んだぜぇー!」
仲間内からの声援に第四の団長は慣れた仕草で片手を上げて応えていた。その端正な顔立ちに小さく笑みが浮かべば、どこからともなくキャーというような女性たちの黄色い悲鳴が上がっていた。
度重なる熱戦に場が温まり、観客たちの盛り上がりも最高潮に達しているからなのだろうが、剣士たちの一挙手一投足がもたらす周囲の反応は、見ていて面白かった。
リョウたちが見学をしていた場所の直ぐ近くにも第四の兵士がいて、大きな声援を送っていた。それを目の当たりにしたリョウは、大っぴらに声を上げることを控えた。
第七回戦の結果は、ヤステルの予想通り、ブコバルの勝ちだった。第四の団長も実に惜しかった。いや、ずぶの素人であるリョウから見れば、ブコバルとは互角のように思えたのだが、最後の最後でブコバルの方がほんの一瞬、動きが早かったようなのだ。
第四の団長の動きは実に洗練されていた。まるでお手本となる型を見ているような気分だった。だが、洗練された技よりも野性味溢れる実戦派の方が勝ったということなのだろう。リョウが、気が付いた時には、ブコバルの剣の切先が団長のすらりとした喉元に突き付けられていた。
審判が高らかに試合の終了を告げた。
歓声と落胆に似たどよめきが、色々な箇所から同時多発的に渦巻いて突発的な花火のように立ち上っていた。
最後、ブコバルは第四の団長と握手を交わした。団長は負けたというのに何故か晴れやかな笑顔を見せていた。にこやかに言葉を交わしているようだ。そして、ブコバルの腕を取ると高らかにそれを天へと持ち上げた。
それは、勝者を称える仕草だった。
それを見た観客たちは、壮絶な戦いを繰り広げた男たちに惜しみないと拍手と賛辞を送った。リョウたちも同じように大きな拍手を送っていた。
「がぁぁぁぁぁ」
直ぐ近くにいた第四所属の兵士たちが落胆の声を出していた。
「肉ぅぅぅ~」
「計画がパァだな」
初戦で一勝をしたら肉料理を奢る。内輪でそのような賭けでもしていたのだろうか。それとも上位入賞者か優勝者には肉が振る舞われるとか。そのような褒美があったりするのだろうか。
男たちの会話から釣られるようにしてそのようなことを想像した。
「でも、しゃーないっしょ。相手が第七じゃ」
「まぁな」
「てか、お前に言われてもなぁ」
仲間内でも剣の腕はいまいちなのか、慰めるように肩を叩いた一人の兵士が、逆に周りから小突かれていた。
見る方も参加する方も、この武芸大会の一戦、一戦には悲喜交々の様々な情景があるようだ。
再び、開始の時のように会場の真ん中で審判を中心に整列を始めた兵士たちに、周りを取り囲んでいた観客たちは、一際、盛大な拍手を送った。
終わってみれば、結局、第一試合ではユルスナールの出番はなかった。まだまだ先が長いには違いないのだが、それを少しだけ残念に思った。
初戦は、ブコバルが美味しい所を攫っていったようだ。だが、まぁそれも見る側の醍醐味であるのだろう。意気揚々と晴れやかな顔をしている青灰色の瞳の男を見て、リョウはそんなことを思った。
男たちの熱き戦いはまだ始まったばかりだ。