花の影踏み
その日、一組の姉妹が腕を組んで、御付きの女性と男性の使用人と共に、武芸大会が開かれるという宮殿前広場に向かっていた。
邸宅から馬車に乗り、宮殿脇の車止めに降り立った二人の女性は、年の離れた姉妹だった。
共に金色の艶やかな髪をしていた。緩く波打つ髪を持つのは姉の方で、妹は癖の無い真っ直ぐな髪をしていた。二人の顔立ちは、姉が母親似であるのに対して、妹は父親の形質をより引き継いだようで、共によく似ているという訳ではなかったが、二人して並べば、そこには血の繋がりを感じさせる同じような雰囲気が見て取れた。
妹のアリアルダの手には、赤みを帯びた明るい橙色のリボンが風に靡いて揺れていた。それはアリアルダの瞳の色を模したものだった。対する姉の方は、妹よりもずっと控え目な榛色の瞳をしていた。その手にも瞳と同じ色のリボンが揺れていた。
アリアルダが手にするリボンは、武芸大会に出場する兵士へ贈られるものである。
リボンを渡す相手は既に決まっていた。昨年と同じだ。幼い頃よりアリアルダの世界には、一人の男しか映っていなかった。この国でも余り例を見ない銀色の髪を持つ男だ。その色は、代々、この国の北の方位を守護してきた名家、シビリークス家の色だった。
アリアルダの心は躍っていた。それは、男たちが競う剣技を観戦するという高揚感とは別の所にあった。
もしかしたら、今年こそ、自分の秘めた想いに望むような答えが返ってくるかもしれない。そのような期待感に満ちていた。
その期待は、先日耳にした姉の言葉に裏打ちされていた。姉の嫁ぎ先である夫が、その弟の婚礼に前向きな考え方をしているとの話を聞いたからだった。アリアルダが想いを寄せる男は、義兄の一番下の弟にあたった。
周囲には、同じように色とりどりのリボンを手にした若い娘たちの姿があった。綺麗に着飾った可憐な花のような娘たちだ。皆、この日の為に時間を掛けて己を飾る準備に余念がなかった。
娘たちが手にしているリボンは、大抵がその瞳の色を模していた。髪の色よりもその方が、種類が豊富で他者との識別が容易になるからでもある。
目の覚めるような明るい青、水色、くすんだ空の色、深い緑色、新緑の黄緑色、明るい黄色、情熱的な赤みを帯びた茶色。橙色。菫色に明るい灰色。実に色鮮やかだ。
その色とりどりのリボンは、この後、武芸大会に出場する若者の腕に巻かれることになっていた。大会での健闘と無事に試合を終えられることを祈願して、若者の逞しい左腕に翻るのだ。
「アーダ!」
会場へ向けて、淡い桃色のドレスの裾を軽やかに翻しながら貴族の婦女子たち用に設けられた特別席の方に歩いていると、年若い娘たちの一団から声が掛かった。
「御機嫌よう、ジィーナ。それにアーダ」
「御機嫌よう、皆さま」
上流階級のしきたりに則り、小さく膝を折る形で挨拶を交わす。其々にリボンを手にした若い娘たちの瞳は、皆、同じような期待感と幾ばくかの恥じらい、そして不安を胸にきらきらと輝いて見えた。
「マリーナ」
アリアルダは、近寄って来た若い娘の腕を取った。
「おめでとうを言わせてちょうだい、マリーナ。婚約が正式に決まったのですってね」
腕を組んで輝かしい笑顔を向けたアリアルダに、マリーナと呼ばれた娘は、はにかむように微笑んだ後、小さく頷いた。その顔には、眩しい程の美しさと幸せが満ち溢れているのが見て取れた。
「ありがとう。アーダ」
「婚礼はいつになるの?」
「まだ具体的には決まってないわ。それでも軍の方で次の組織編成の話しが出る前にしましょうっていう話しは出ているの」
マリーナの手には、その瞳の色を模した薄い黄緑色のリボンが揺れていた。そのリボンを左腕に揺らすであろう男は、婚約者からの想いを受け取ることになる。
「そう。でも良かったわ、本当に」
アリアルダは、まるで自分の事のように友人の幸せを喜んだ。
華やいだ話は、耳にするだけでも嬉しい。それが親しくしていた友人ならば尚更だ。
「春が来たらがいいわね。沢山の花が咲き乱れる中で。綺麗な髪飾りができるわ」
「ふふふ。そうね」
幸せそうに微笑んだマリーナは、同じようにアリアルダの手の中にある一本のリボンに目を留めた。
「アーダも渡すのね。例のあの人に」
「ええ」
親しい友人同士の内緒話のような小さな囁きにアリアルダも釣られるように微笑んだ。
「アーダの方もそろそろなんじゃない?」
「どうかしら?」
マリーナからの意味深な目配せをアリアルダは笑って流した。
それでも内心では満更でもなかった。きっと周囲の人たちにも自分の恋路の行方は、その機が熟しているように見えているのだろう。そう思うと周りからも自分の気持ちを認められているような気がして何だか心強かった。
こうしてささやかな喜びを共有しながら、合流した若い娘たちの華やかな集団は、手入れの行き届いた庭に咲き乱れる花々のように、その人工的な美しさを振り撒きながら会場への道のりを辿ったのだった。
***
貴族の婦女子が安心して見学できるようにと設けられている特別席は、団体戦が行われる東の地区に一か所、そして個人戦が行われる西の地区に一か所、其々、日よけとしての天幕が大きく張られる形で設けられていた。
その場所は、遠目にも一目で分かるほどに非常に華やいだ空間だった。その背後に望む豪奢な宮殿は別として、土埃が舞う殺風景な背景の中に突如として女たちの身に着けるドレスの色が浮き上がるのだ。
急拵えの高く張り出した木組みの舞台の上に観覧しやすいようにと席が段々に設置されている。そこにまるで花壇の花々のように赤や桃色、黄色、菫色といった主に暖色系を中心とした明るい色が並んでいた。この日の為に気合を入れて着飾った貴婦人たちの優雅な姿は、見学に集まった男たちの視線と続いて漏れる溜息を誘う光景でもあった。
アリアルダたち一行は、その見学場所に辿りつく前に、団体戦が行われる東側の地区にある軍部の兵士たちの簡易的な控室になっている天幕の方へと足を進めた。マリーナの婚約者は、今回は団体戦の方には選ばれず、個人戦の方に出ることになったということで西側に向かう為、途中で別れることになった。
天幕の近くへ行くと実家から御付き兼護衛として付いて来た男の使用人に目当ての人物を呼んで来てもらえるように頼んだ。
正式な大会の開催は、まだ始まっていない。あと一刻程もすれば、宮殿広場前に整然と整列をした各師団の代表者たちと個人戦の参加者を前に、この大会を取り仕切る軍部の代表者―今年は、西の将軍の番だった―が高らかに開会宣言をすることになっていた。そして、鳴り響く鐘の合図と共に闘いの火蓋が切って落とされることになっていた。
対戦相手の抽選は、個人戦の場合は、当日の朝、出場者の登録を締め切った時点で行われ、団体戦の方もこの日の朝に行われた。そして、共に開会宣言の後に大々的に発表されることになった。対戦状況とその結果は、それぞれ西と東に設置された大きな掲示板の前に張り出され、逐一、それを管理する運営委員会に属する裏方の兵士たちの手で、手書きで更新されることになっていた。
なので、団体戦の方も当日になるまでどことどこが最初に対戦となるかは分からないのだ。それは事前に妙な小細工が行われないようにとのことでもあった。それが、余計に観客側の憶測を呼び、人々の熱気を盛り上げることにも繋がっていた。一般庶民の男たちの間では、どこが優勝するかという賭けも盛んだった。武芸大会が近付いてくると街中の食堂や酒場など、男たちが屯する場所では盛大に賭けが行われていた。
アリアルダは、姉の傍らで胸を高鳴らせながら、目当ての人物が出てくるのを今か今かと待った。
この広大な広場に浸透する集まった人たちの高揚感や興奮の度合いは、遠く貞淑と然るべき品位を保つようにと教育されている上流階級の婦女子たちにも少なからず影響を及ぼしていた。これからの三日間は、まるで街中が流行り病に感染をしたように浮足立つ。この日ばかりは、少々のお転婆をしても大目に見てもらえたのだ。
「ルーシャ!」
やがて、天幕の中から現れた男の姿にアリアルダの顔が輝いた。
「………え………」
だが、その姿が段々と近づいて来るにつれて、視界の中ある男の左腕に揺れる幅広いリボンのような形状の黒い紐の存在に嫌でも気が付かされ、その顔色を無くした。
アリアルダは目を瞬かせた。そこにあるものが信じられないというように。そして、じっと男の逞しい左腕にある一点を見つめていた。
「どうした、アリアルダ?」
記憶の中に蓄積されているものと寸分も違わない表情で淡々と口にされた言葉に、アリアルダは気を取り直したように顔を上げた。
「ルーシャ、左腕を」
アリアルダの手にあるリボンを一瞥し、ユルスナールは相手に気が付かれない程の一瞬だけ躊躇いのようなものを見せたのだが、静かに腕を差し出した。
アリアルダはその場所に手慣れた所作でリボンを巻きつけていった。
男たちの腕に巻かれる願掛けのリボンは、一本でなければならないという決まりは、別段無かった。女たちから人気のある兵士にはそれこそ沢山のリボンが集まったが、それを腕に巻いてもらえるか否かは、男の側の腹積もりに掛かっていた。それでも大抵、常識的な本数というものはあるもので、精々いっても腕に翻るのは、二・三本というのが上限だろうという暗黙の了解のようなものはあった。ブコバルなどは女性関係も幅広く、意外にマメな性質でもあったから、それこそ毎年、自分のリボンを付けてくれと迫られることが多々あるようだったが、意外や意外、これまで実際に受け取ったリボンを腕に巻いたことはなかった。それは恐らく、若くして亡くなった幼馴染の少女、エルメリアの存在が、心のどこかでずっと引っ掛かっていたからなのかもしれない。
それはさておき。
現れたユルスナールは、生成り色の隊服を身に着けていた。闘技用に極力装飾の類が省かれた実用性重視の服装だ。簡素な立襟のシャツに同じ色のズボンだ。それに黒い長靴を履いていた。試合の時には、その上に胸当てや肘当て、小手当て、肩当てといった一連の防具を身に着けることになっていた。
だが、軍部の兵士たちに限り、この服装は最初の二日間だけのもので、最終戦に勝ち残った男たちは、最終日、三日目の天覧試合に臨む際には、正式な軍服に身を包むことが要求された。
兵士たちは、この日ばかりは通常、左腕に着けている軍部の所属を表わす腕章を右腕に付け替えていた。左腕はリボン用に敢えて空けておくということなのだ。ユルスナールの右腕にも第七師団所属を意味する青い腕章が巻かれていた。
「ルーシャ。今年こそは優勝してくださいね。応援していますから」
昨年は、実に惜しい所まで行ったのだ。試合会場の広場に立つ男の腕に自分の瞳と同じ色の明るい橙色のリボンが翻る様は、とても誇らしかったのをよく覚えていた。
アリアルダは、黒いものが巻かれている上に重ねるように自らのリボンを括りつけた。
「それにしてもルーシャ、酷いじゃない。私が付ける前に他の人からリボンを貰うなんて」
アリアルダは、少し拗ねたように口にしていた。
胸の奥がざわりとした騒いだ。自分以外の女がこの腕にリボンを巻く権利を得たかと思うと心の奥底に黒々とした澱のようなものが溜まって行くのが分かった。
それにユルスナールもユルスナールだ。毎年、必ず自分がリボンを用意するのを承知の上で、他の女のものを受け入れるなどとは。
気心の知れた気安さからつい苦情を口にしていたが、ユルスナールはアリアルダを一瞥しただけで、その腕に先に巻かれていた黒いリボンのことには一切、触れなかった。
ーああ、これはどうしてもと頼まれて仕方なく。
そんな弁解のようなものでもいい。男の口から言い訳のような言葉を聞きたかった。
それで、きっと自分は「しょうがないわね」と安心できるのだ。
強面で冷酷そうな印象を見る者に与える造形をしているユルスナールだが、その本質は、情に厚い優しい男であることをアリアルダは知っていた。女性の涙に滅法弱いことも知っていた。無表情に見える顔の中で、その濃紺とも瑠璃ともいえる深い青さを湛えた瞳が、困惑気味に揺れるのを知っていた。
この男のことをよく知るのは、自分だけだ。幼い頃からシビリークスの家と交流のあったアリアルダには、そんな自負があった。
長じるにつれて、氷の美貌と謳われたその父親の形質を兄弟の中でも一番に引き継いだユルスナールは、貴族たちの社交界の中でもある意味、特別な目で見られる存在だった。
かつて、その父親であるファーガスに恋破れた若い女たちも其々に嫁ぎ、子供を儲けた。中でも娘を授かった女たちは、儚い夢の続きを見るように、その昔、恋い焦がれた男の息子の元に己が娘を嫁がせることを願った。
ユルスナールは、これまで社交界では、必要最低限の付き合いしか持たなかった。四年前に北の砦に赴任が正式に決まってからは、一年の殆どを王都より遠く離れた北の辺境で過ごしている。その姿を垣間見ることができるのは、冬場のこの一時、武芸大会が開催される前後の短い期間だけだ。
ユルスナールの王都入りを素早く聞きつけた貴族たち、特に年頃の娘を抱えている家は俄かに色めき立って、お茶の誘いやら音楽の鑑賞会やら、パーティやら、様々な用事にかこつけて、いまだ独り身を通しているシビリークス家の三男坊を誘った。だが、その招待状に対しても、大抵は軍部の方での仕事が詰まっているからとの理由で丁重に断りの手紙が届けられるのだ。
父親の若かりし頃を彷彿とさせる美丈夫であるにも関わらず、浮いた噂の一つもないユルスナールに狙いを定めている家は、声高にせずとも多かった。
そのような状況の中でも実の姉がシビリークス家の長男に嫁ぎ、これまで以上に強い結び付きを得たアリアルダは、自分が、少なくともシビリークス家にとって、いや、もっと突き詰めれば、ユルスナールにとって、特別な存在であることを疑わなかった。その他大勢の遠巻きに想い焦がれるだけの娘たちよりも一歩も二歩も確実にユルスナールに近い所にいると思っていた。
―それなのに。
男の左腕には、あろうことか、自分のものよりも先に黒いリボンが翻っていたのだ。その事実が、少なからずの衝撃をアリアルダの中に生み出していた。
黒い瞳を持つであろうと思われる女の存在に、アリアルダは臓腑が冷やりとするのを認めざるを得なかった。それは、現実で初めて感じた危機感のようなものだった。
その女は、少なくともユルスナールの心を捕らえたのだ。左腕にリボンを巻くことを許される位には。これまで圧倒的な優位性を保っていたはずの己が足元が、突如として軋むように揺らいだ気がした。
「ねぇ、ルーシャ」
アリアルダの細い手が、男の腕に掛かるもう一つのリボンに触れていた。
そのリボンは、女たちがよくするような蝶々結びでもなく、両端をだらりと流す固結びでもなく、片方だけの輪を縦にした不思議な結び方をしていた。
この黒い紐を下に引いたら、きっとこのリボンははらりと落ちるだろう。自分を不安にさせているこの黒い紐を思い切り引いてしまいたい欲求が、不意にアリアルダの頭の中に擡げてきた。
「アリアルダ?」
だが、その思考は、続いて聞こえてきた自分を案じるような低い声に途絶えてしまった。
その声に引き寄せられるようにアリアルダは顔を上げた。
いつの頃からか、以前のように親しみを込めて【アーダ】と呼んで欲しいと頼んでも、ユルスナールは自分との距離を測るように敢えて丁寧な態度を崩さなくなった。それがアリアルダには不満だった。姉はそのことをユルスナールがアリアルダのことをきちんとした大人の女性として節度ある態度で接してくれていることの表れだと言ったが、アリアルダは、何だかユルスナールとの間に見えない透明な壁ができたようで、もどかしくて仕方がなかった。
―いつまでも子供のままではいられないわ。
姉のジィナイーダは、事あるごとにアリアルダをそう諭した。
男の目に留まるように美しくなりたい。早く大人になりたいとずっと思っていた。そして、歳を追うごとに娘らしく、そして女らしくなり、輝かんばかりの美しさを誇ると周囲の人々からは言われるようになった。
それなのに、いざその年齢になってみると、思い描いていた景色と自分が今立つ景色は、随分と違って見えた。それをどうしてなのだろうと不思議に思っていた。
アリアルダは頭上から聞こえた声に、胸に去来する様々な思いを振り切るように揺るく頭を振った。
ユルスナールは、すぐ近くに、今もこうして変わらず手の届く所にいる。まだ見ぬ影に恐怖や不安、嫉妬を感じるのは、莫迦らしいに違いなかった。
―その人は誰?
喉元まで出掛かった言葉は、声にはならなかった。
「いいえ、何でもないわ」
アリアルダは目の前にある男の逞しい手を取ると、その甲の部分にそっと己が額を押し付けた。
「御武運を」
かつて、戦地に赴く大切な人たちを見送った女たちのように、祈りの文言を口にしていた。
「ありがとう、アリアルダ」
ユルスナールは、小さく微笑むとアリアルダの頬に掛かっていた後れ毛をそっと耳の後ろに掛けた。
さらりとした金色の髪は、艶やかに日の光を反射して細かな煌めきを放っていた。
ごつごつとした男らしい指先から伝わる温もりは、変わらずに優しいままだ。それを信じたいと思った。
黒い瞳の女。キルメクの女だろうか。それとも混血か。
その時、アリアルダの脳裏には、ふいに一人の人物の顔が思い浮かんでいた。先日、シビリークス家にユルスナールと共に現れた少年のような年若い男だ。腕に第七所属を意味する腕章を付けていた。
あれは、ユルスナールの部下であっただろうか。違うと訂正されたような気もするが、ユルスナール以外に関心の無かったアリアルダは、その辺りの事を全く覚えていなかった。ただ、ユルスナールがいつになく気に掛けていた存在であったことを内心、忌々しく思ったのだ。
今、唐突に、あの男が、黒い瞳をしていたことを思い出した。そして、その髪の色も黒であったことを。
まさか、あの男の係累なのだろうか。姉弟であれば、その色彩はあり得るだろう。
機会があれば、その辺りのことを確かめてみようと密かに思った。
そうして、開催宣言までの間、再び天幕へと戻って行く逞しい男の後ろ姿を眺めながら、アリアルダは、その左腕に靡く明るい赤みを帯びた橙色のリボンをじっと見つめたのだった。