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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
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悪魔の囁き

 アルセナールから宮殿の区画に足を踏み入れて暫く、通い慣れた道筋を辿っている時だった。色調の抑えられた赤い絨毯が敷き詰められた回廊を歩いていると隣に音もなく一人の男が並んだ。

「これはこれは、インノケンティ殿。ご機嫌うるわしゅう」

 囁くような小さな掠れ声にスタルゴラド第三師団・団長ゲオルグ・インノケンティは、ちらりと横目に声を掛けてきた人物を見た。

 別段、顔の確認をしなくともゲオルグにはその男の見当が付いた訳だが、反射のようなものである。そして、少し上にある干からびた魚のようなぎょろりとした大きな(まなこ)を見て、溜息を吐きたいのを寸での所で堪えた。

 ゲオルグは、当たり障りのない儀礼的な笑みをその口元に刷くと出来るだけ鷹揚に返した。

「御機嫌よう、クルパーチン殿」

「相変わらず、お美しいですなぁ、ヒッヒ」

 小さく掠れたからかいの呼気にゲオルグは額に青筋を立てそうになったが、それを小さく息を吸い込むことで堪えた。

 この世の中に生理的に受け付けない類の人間がいるとすれば、ゲオルグにとってクルパーチンがそれに当たった。理由など(あげつら)えば限が無い。だが、それは皆、後付けのようなもので、恐らく本能的に感覚の部分で相入れないものを感じ取っているのだろう。深く考えたことはなかったが、ゲオルグ自身はそういうものだと理解している風だった。

 隣から注がれるねっとりとした絡み付くような視線に鳥肌が立ちそうになったが、嫌悪感を表に出すことは決してしなかった。それは大人としての嗜みであることもそうだが、この男に対して負けを認めるようなものだと思っていたからだ。ゲオルグは、一見、飄々と世の中を渡り歩いているように見えて、その本質は、負けず嫌いで自尊心(プライド)の高い男だった。


 これまでの経験上、この男が擦り寄ってくる時は、決まって碌なことがなかった。ゲオルグはこれまで、相手との距離を測りながらこの男を上手くあしらってきたわけだが、ごく稀に有益で興味深い情報を持ってくることがある為に、完全に無視を決め込む事ができなかったのだ。大概下らぬーゲオルグにとってはだー情報の中にごく偶にこれはと思うような貴重なものが混じっていたりするので、その有益・無益の見極めにはいつも骨が折れた。持ってくる話しが全て外れの時は、実に鬱陶しくて仕方がない存在であったが、当たりと思えるものを引いた時の効果を考えると煩わしさを差し引いてもお釣りがくるほどであったので、その確率の低い、だが、見返りの大きい当たり効果を見越して、この男の相手をしているという訳だった。


 クルパーチンは、神殿に仕える神官であった。その割には、酷く俗物的な匂いのする男だ。

 ゲオルグは、視界の隅にちらつく濃い紫色の帯を苦々しい思いで見遣った。

 この男も神官の例に漏れず、簡素な白の上下に帯を締めていた。その帯の色は濃い紫で、神殿の中でもかなりの高位にいることを示唆していた。その為、この男に対して余りぞんざいな扱いができないというのも正直なところであった。


 神殿は建前上、宮殿よりも下位に当たるが、その歴史的な古さは宮殿の王たちの祖よりもかなり遡るので、その実質的な立場は時の政権によって幅があった。

 現在、神殿と宮殿の政治的力関係は、宮殿の方が圧倒的に強かった。それは先代の王から続く、ここ二十年余りの傾向だった。

 かといって、立場上優位にあるというだけで、宮殿は、神殿を無碍にすることは出来なかった。神殿は、この国の中では民の信仰の拠り所でもあり、この土地に根付いた存在で、その影響力は無視できないものがあったからだ。

 宮殿にとっては目の上の瘤とまではいなくとも、時と場合によっては煩わしい存在にも成り得た。

 その力関係の微妙な力学は、其々に仕える者たちの間にも浸透していた。


「随分と良いことがあったようですね」

 鼻歌が聞こえてきそうな程のーといってもこの男が実際に鼻歌を歌う様は全く想像が付かなかったがー軽やかな足取りから、冬の枯れ枝のような細い手足にぎょろりとした大きな目を爛々と怪しく光らせている中年男の機嫌が大層良いことが読み取れたので、ゲオルグは一先ず、そう話を振ることにした。

 この男の場合、始めは自分から擦り寄って来る癖に、肝心な所で勿体ぶる傾向があった。だから、こうしてゲオルグの方から相手にお伺いを立てなくてはいけなかった。それもいい加減、この男に対峙することを煩わしく思うことの一つでもあった。

「ヒッヒッヒ」

 待ってましたとばかりにクルパーチンが含み笑いをした。

 ひゅうひゅうと鳴る喉笛が、ゲオルグには不愉快に響いた。

「おや、お分かりになりましたか? これは私としたことが」

 そう言って「しまった」とでも言いたげに軽く天を仰いで見せる。

 大げさでどこか芝居掛かった仕草にゲオルグは早速、頭の血管が切れるような気がしたが、努めて冷静を装った。

 ここで本心をほんの一瞬たりとも覗かすわけにはいかなかった。研いだ牙は、最後の最後まで大事にして、ここぞという時の為に隠しておくものだ。それは、相手というよりも自分の限界との根競べであった。

「それは大変気になりますね」

 ゲオルグは人好きのする笑みを張り付けた。

 自分の微笑みが相手に与える効果は、十分把握していた。生来のものを利用しない手はないのだ。自分の顔立ちが男らしさとは極地にあることを気に病んだのも子供の頃のほんの一時だけでーよくある反抗期であるー今は、それを十二分に活用することでその時の一時的な懊悩の労力分は既に取り返していた。

「教えては頂けませんか。勿論、タダでとは言いません」

 有益な情報は等価交換が基本だ。手元の駒をいかに相手に上物と見せかけて、それ以上のものを引き出せるか、それはゲオルグとしても腕の見せ所であった。


 こちら側からの取引に応じることを仄めかす符号(サイン)にクルパーチンはそのぎょろりとした大きな瞳を殊更見開いて見せてから、糸のように細めた。

 疑似餌に掛かったのは、相手の方なのか、それとも自分か。

 まだまだ気を抜けない。いや、ここからが本番だ。クルパーチンは、ゲオルグの目から見ても、実に狡猾で抜け目のない男であった。

 クルパーチンは、素早く周囲に視線を走らせると、声を一段と潜めた。

「それでは、つかぬことをお聞き致しますが。いや、ほんとうに些細な、ちょっとしたことなんですがね」

 そんな前置きをしてから、干からびた骨のような手を白い上着の袖からさり気なく前に出した。

 そして、軍部の人間が遠距離(と言っても視界に入るが声の届かない距離だ)の通信で利用する指文字で尋ねてきた。

 それだけ他人に聞かれては不味いことなのか。

 だが、その相手の慎重さの理由は、すぐに判明した。

『【ジョールティ(黄色い)チョールト(悪魔)】が少々入用でしてね』

 何事もなかったかのように手を袖の中にしまうと、クルパーチンは前を向いたまま、一歩後方に下がった。

「確か、そちらにはご用意があったかと思うのですが」


 ―【ジョールティ(黄色い)チョールト(悪魔)】。

 その単語にゲオルグはすっと目を細め、ほんの一瞬だけ無表情になった。だが、すぐに人好きのする笑みを浮かべていた。

 【黄色い悪魔】、またの名を【忘れな草】。それは暗殺など証拠を残したくない時に使用される毒草の名前だった。その毒性は驚くほど強く、効果はぴか一。恐ろしい名前に反して、それは黄色い花弁に赤い斑点が混じる可憐な花だった。全長は小振りな女の掌ぐらいの長さだ。だが、極めて毒性の強いもので、花弁数枚で人一人を死に至らしめるのには十分だった。

 経口摂取が一般的で、その毒の作用の仕方は、実に繊細でひっそりとしたものだった。じわじわと真綿で首を絞められるが如く体内に密やかに回る。そして、眠るように息を引き取るのだ。量にも拠るが、服用から数時間から一日で効果は表れた。

 大抵が毒を盛られたことに気が付かない内に眠る如くに死を迎えた。余りにも自然に息を引き取るように見える為、別名、【悪魔の子守唄】とも影で呼ばれていた。他の毒物とは違い、もがき苦しむこともない。毒を使ったという紫斑のような痕跡も残らなかった。

 それは暗殺に用いるには絶品の毒草だった。

 だが、この【黄色い悪魔】はその効果に反比例するように、滅多にお目に掛かることのできないものでもあった。入手が酷く困難なものだ。国中の様々な品が集まるこの王都スタリーツァでも公には出回っていなかった。

 だが、どの世界にも抜け道というものはあるもので。然るべき闇の経路(ルート)で密かに驚くほどの高値で取引をされる品物だった。知る人ぞ知るというものである。


 兵士であると同時に術師でもある人員を多く抱える第三師団は、スタルゴラドに十ある師団の中でもやや特殊な部隊だった。

 薬草、その中でも毒草の研究を活動の一つの柱として据え、それを軍事目的に利用する為の組織だった。毒草の成分研究とその抽出、そして対処法も含まれる。そうして得られた研究結果を自白や催眠誘導の為に利用することもあった。もう一つの柱は、獣たちを使った独自の諜報活動にあった。

 どうしてもその活動は内向きで秘密裏に行われることが多く、【毒殺や暗殺に長けた集団】と影で後ろ指さされることもしばしばだった。

 そういった仕事柄、薬草・毒草の類は、常に然るべき場所に保存されており、【黄色い悪魔】と名高い希少な毒草も当然のことながらあった。それらを保管している部屋は、専門の術師が厳重な結界を施し、限られた者しか出入りができないように徹底に管理されていた。無論、その第三師団を統括する立場にあるゲオルグは、その保管庫に出入りできる数少ない人物の一人である。


「それは、また随分な話ですねぇ」

 突然とも思える些かあけすけ過ぎる要求に、ゲオルグは見かけ上、和やかに苦笑を漏らしていた。

 だが、困惑の表情は隠さなかった。

 【黄色い悪魔】は第三に保管されている薬草の中でも希少価値の高い部類であった。然るべき伝手を介して、ごく稀に仕入れができるものだ。当然のことながら、おいそれと一つ返事で出せるものではなかった。その研究内容も機密事項に当たる。その辺りの事情は、無論、相手も重々承知のことだろう。

 だが、そこを敢えて突いて来た。手にしている情報がそれに匹敵するものなのか。それともガセネタで大きな見返りを得ようとしているのか。その見極めは、慎重に行わなければならない。


 ゲオルグは、逡巡するような素振りを見せた。

「アレは、中々、手に入るものではありませんからねぇ」

 そう言ってちらりと横目に男を見た。

「何にお使いになるのか、お聞きしても?」

 それを聞くのは野暮かとも思ったが、一応、口にしない訳にはいかなかった。

 その質問は想定の範囲内であったのか、クルパーチンは、薄らと笑みを浮かべた。そうすると口元に小さな皺が寄った。

「ここだけの秘密なのですがね。アレを元に薬を開発しようという話が出ていまして」

「薬……ですか」

「ヒッヒッ。以前、とある持病を持つ神官が誤って口にした所………ああ、抽出した成分をほんの少し舐めてしまったと言っていましたか。その病の症状が改善したという報告があったのですよ」

 それが単なる口実か、はたまた真実かは分からなかった。

「成る程。それは我々としても実に興味深いお話ですね。一体、その神官はどんな持病をお持ちだったのですか?」

「ヒッヒッヒ。ご冗談を。そこはまだ研究段階ですので、はい。お教えすることは叶いませんよ。でないと私の首が飛ぶ」

「そうですか」

 その毒草の成分を研究しているのは、第三としても同じだった。新たな発見があれば、こちらとしても有益な情報になるかとは思ったのだが、向こうにほんの少しでも明かす気が無いのでは仕方がない。別段、研究過程で神殿の神官たちに張り合おうとは思っていなかったので、その辺りは割り切っていた。


 あっさりと引いて見せたゲオルグにクルパーチンは、ほんの少しだけ白けた顔をした。

 だが、すぐに意味深な目配せをするとそっと屈み込み、ひそひそとその耳元に囁いた。

「ほんの少しでいいんです。分けて頂いた暁には、その仔細と結果をきちんとお知らせするとお約束いたしますよ」

 ―いかがでしょう? 早々悪いお話しではありますまい。

 そうして窺うように隣を見た神官に、第三師団長は、尚も考えるように首を傾げた。

「…………そうですねぇ」

 第三としては、別段【黄色い悪魔】の成分解析を急いでいる訳でもなかった。新しい情報を得られるのに越したことはないが、近年、宮殿内での暗殺事件も一時期に比べるとその数がめっきり減っている為、そちらの方面での出番が余りなかったのだ。

 急いで飛び付く話でもない。それが正直なところだろう。

 予想よりも中々好感触を得られないことに焦れたのか、クルパーチンは、ほんの少し身体を前傾すると声の調子(トーン)を変えた。

「ここだけの話ですがね」

 ひゅうひゅうという掠れた呼気が、ゲオルグの耳朶を震わせた。

「近々、神殿で儀式を行おうという動きがあるんですよ」

 思いがけない言葉に、安定した歩調を繰り出していた筈の足が、動きを止めた。その隙に後ろにあったはずの神官の枯れ枝のようなひょろりとした身体が、前に出ていた。

 ゲオルグは少し前にある細い背中を見遣った。回廊を歩く白い衣の背には影が掛かり、男の姿を暫し儚い闇が包んだ。

「……儀式ですか」

 そして再び、同じ歩調を取り戻すと神官の横に並んだ。

「それは宣託を得る為のものですよね」

「ええ」

 横目に見た神官の顔には、どこか恍惚に似た表情が浮かんでいた。

「そう言えば、二年前の宣託の解明は出来たのですか?」

 凡そ二年前、同じように宣託を受ける儀式が行われた時に、宮殿と神殿との間でちょっとした騒動が起きたことは記憶に新しかった。前触れもなく行われたという儀式に宮殿側は困惑し、そこで得られた宣託の内容も何とも曖昧で抽象的であった為に、その後、その解釈を巡って宮殿と神殿との関係が、ぎくしゃくしたものになったのだ。その時の影響は、まだ両者の間に残り、きちんと解消された訳ではなかった。

「我々が聞くのは、神の言葉。それが必ずしもそちら側の望むものになるとは限らない」

 前を向いたまま、掠れた声が懐に潜む短剣の刃を反射させた。

「それは、そちらも同じことではありませんか。聞こえてくる言葉が、必ずしも求めているものにはなるとは限らない」

 返す刃も、その切っ先は鋭く、相手の喉元を突かんとする。

「いや、そもそもその前提条件すら…………」

 換気の為に開けられた窓から一陣の風が吹き込み、その言葉尻をかき消して行った。

 一瞬、全ての音が止んだ気がした。

 だが、次の瞬間、小さく喉の奥を鳴らす掠れた呼気が、束の間の沈黙を震わせた。

「ヒヒヒヒ。そこは私の管轄外でして、残念ながら、お答えすることは出来ませんな」

 ほんの一瞬だけ覗いた真実の欠片は、再び深淵の闇の中に隠れてしまった。

「……儀式………ですか」

「ええ。勿論、これはまだ内々の極秘事項ですが」

 やがて、廊下を二手に分かれる分岐点に辿りついた。男が向かう筈の神殿は右手に、そしてゲオルグは左手に向かう予定だった。

「どうかご検討をよろしくお願いいたします。ヒッヒッヒ。良いお返事が頂けることを期待しておりますよ」

 ―それでは御機嫌よう。

 濃い紫色の帯を締めた神官は、枯れ枝のように細い身体を小さく前傾して笑みを浮かべると、何事もなかったかのように通路を右に折れ、神殿がある方向へと向かった。

 男が身に着けている白い筈の衣が、影を背負い灰色に見えた。ひらりと揺れる紫色の帯が男の影を踏んでいた。

―忌々しい悪魔め。

 心の中でひっそりと悪態を吐いてみる。心が揺れ動いたのは確かだが、相手の条件を飲むには、まだ対価がそぐわない気がした。

 ゲオルグは、まるで悪い夢を振り払うかのように頭を振った。そして、気持ちを入れ替えるように顔を上げると、再び目的地に向けて進路を左に取った。


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