イオータの出張講義
武芸大会を翌日に控えて、リョウが学ぶ術師養成所内の空気もいつもに比べて、心なしかざわついているように感じられたその日、鉱石処理の講義を終えたリョウは、名物講師であるイオータに廊下を出た所で呼び止められた。
「ああ、リョウ」
「何でしょう、イオータ先生」
小さく招く手にイオータの元に近寄れば、
「キミは、このあと何か用事があるかね?」
今後の予定を聞かれて、別段他に取っていた講義のコマがある訳ではなかったので、
「いえ。特に何もありませんが」
そう返せば、イオータは口元を緩めてその特徴的な発達した犬歯を片側だけちらりと覗かせた。
「そうか。それはちょうど良かった。これからちょっと用があって出掛けるんじゃが、キミも付いておいでなさい」
―面白いものが見られるからの。
そう言って茶目っ気たっぷりに片目を瞑った小柄な白髪混じりの老講師に、リョウは内心なんだろうかと思いながらもお伴することにした。
小柄な老人は足取り軽く廊下を進んで行く。養成所の建物内を過ぎると、そのまま進路を西に取った。
「あの、イオータ先生、どちらに向かわれているんですか?」
ただ付いて来いとだけ言って踵を返した小柄な背中を付かず離れず追って来たのだが、段々と自分が知る養成所内の敷地を越えて隣接する隣の区画に入ったのを見てとって、リョウは心なしか不安そうな声を上げていた。こちら側は、話に聞いている通りだとすれば、この国の王が住まうという宮殿があるとされている場所のはずだった。
その想像を肯定するかのように徐々に空気が煌びやかさを増していった。渡り廊下を一つ越えた所で、明らかにこれまでとは違う空間に足を踏み入れたのが分かった。
「ハハハ。付いて来れば分かる。見てのお楽しみじゃ。何もそうびくびくすることはなかろうて」
落ち着かなさそうに辺りを見回したリョウをイオータはからかうように笑い、流し見た。
「こちらは、もしかしなくとも宮殿の区画ですよね」
イオータの背中にぴったりと張り付くようにしてリョウは背後から小さな声で囁いた。
「そうじゃな」
前を向いたままずんずんと足を進めていた矍鑠とした老講師は、長い外套の裾を軽やかに翻しながら、ちらりと横目にリョウを見ると、心底可笑しそうに喉の奥を鳴らした。
リョウは気後れを感じていた。廊下や窓枠やら天井やらには優美で繊細な金色の装飾が施され、目に映るもの全てが眩し過ぎる程にきらきらと輝いて見えた。頭がくらくらしそうだ。視覚から入るどこか浮世離れした景色に脳の処理が追いついていかない。そんな感じだろうか。
一目で分かる贅を尽くした空間に圧倒されていた。自分がこの場を歩くのが、酷く場違いに思えて仕方がなかった。
途中、擦れ違う官吏のような人々は、皆優雅で洗練された服装に身を包み、何やら書類の束のようなものを抱えながら静々と館内を足早に歩いて行く。擦り切れて着古した外套に飴色になった年季の入った鞄を背にした己の姿が、酷くみっともなく思えたのだ。
「あの、このような格好でこちら側に入っても問題ありませんか?」
この身なりも街中では浮かないが、ここでは酷く場違いな程だろう。その自覚はあった。
半ば恥入りながら心配そうに口にしたリョウに、
「なに、そのようなことなど気にせんでもよい」
その辺りのことはまるで頓着しないのか、イオータは鷹揚に言葉を継いだ。
「キミは儂の大事な生徒じゃ。胸を張っておればよい」
不意に真摯な眼差しで口にされて、リョウとしては、「はい」と頷かざるを得なかった。
そして、イオータはとある豪奢な扉の前で立ち止まると、小さくノックをして訪いを告げた。
重厚な扉が音もなく開く。中から顔を出した官吏と思しき男は、戸口に立つ人物を確認すると丁重にイオータを招き入れた。イオータの隣に立つ小柄な人物に官吏の男が一瞬、眉を寄せたが、無言のまま二人の訪問者を部屋に通した。リョウも小さく目礼を返してから、その後に続いた。
中は、広々とした落ち着いた空間だった。廊下側に比べて比較的装飾は控え目だった。そのことにほんの少しだけ安堵の息を吐いた。
壁紙の色は、白から薄い青灰色を基調とした淡い色合いだった。抑えめの臙脂色の絨毯には、この国の伝統的な模様である優美な草花の紋様が描かれていた。
「これは、イオータ殿、お待ちして申しておりましたよ」
中に入ったイオータに一人の男が近づいてくると丁寧な所作で一礼をした。
「お待たせいたしましたかな?」
「いえ。それ程でもございません」
優雅で落ち着いた物腰の初老の男は、イオータの傍に半ば隠れるようにして佇む見慣れない小柄な人物に目を止めた。
「こちらは?」
イオータは、リョウの隣に立つと皺が多く刻まれた骨張った手をその背中にそっと宛がった。
「儂の弟子じゃよ」
朗らかに紹介されて、
「お初にお目に掛かります」
リョウはやや緊張した面持ちで静かに目礼をした。
その様子に男が品のある微笑みを浮かべた。
「そうですか。それは頼もしい限りですね」
そして、イオータとその弟子を次の間へと促した。
「こちらへどうぞ。皆さん、お揃いです」
促されて入った別室には、大きなテーブルが部屋の真ん中に置かれ、その周囲には数人の男たちがテーブルを囲むようにして立っていた。
落ち着いた余り装飾の無い上下に身を包んだ官吏のような人々がまず目に入った。だが、その衣服の生地は光沢があり、上等なものであることが分かる。そして、それぞれに白いシャツの首元には、同じく白いネッカチーフがきっちりと巻かれていた。プラミィーシュレのエリセーエフスカヤでユルスナールやブコバルたちが身に着けていたような装いだった。
「お待たせいたしましたな」
外套の裾を翻し、ゆっくりと中に足を踏み入れたイオータに中に集う面々が振り返った。
居並ぶ男たちは、其々に特徴的であった。一人は、男盛りの重厚感のあるどっしりとした体格の良い男で見るからに威厳があった。その男の傍に、二人の部下と思しき男たちが寄り添っていた。
そして、中にいる男たちと比べると相対的に線の細い印象を受ける優しい面立ちをした文官らしき男が一人。テーブルを挟んでその対面には、兵士と思しき服装に身を包んで腰に長剣を佩いた二人の男ー中年の上長と若い下士官のようだーの姿があり、その隣には、背筋のぴんと伸びた老齢の学者風の男がいた。ひい、ふう、みい、と数えて、総勢七人だった。
イオータは、テーブルの傍に近寄るとそこに広げられている大きな地図を見下ろした。
「イオータ殿。その少年は?」
中にいた兵士の格好をしている中年の男が、イオータの後ろにいたリョウを見咎め誰何した。
「ハハハ。儂の弟子じゃよ。どうぞお構いなく」
上背のある七対の瞳からもの問いたげに見下ろされて、リョウは無意識に唾を飲み込んだが、先程と同じ紹介にそっと目礼を返すにとどめた。
「ですが、このような場にそのような子供を同席させるとは」
兵士の男があからさまに眉を顰めたが、
「なぁに。この子はお役に立つと思いましてな」
相変わらず人を食ったような微笑みを浮かべたイオータに、兵士の男は諦めたように引き下がった。
リョウはイオータの台詞に内心恐々とした。
一体、自分をこのような所に連れて来て何を始める積りなのだろう。そっと窺うようにイオータを見たが、老講師の眼差しはテーブルの上に置かれた地図に向いていた。
「では、始めましょうか」
どっしりとした体格の良い男の傍に立つ部下のような男の掛け声に、場の空気が引き締まった。
それを合図にイオータはリョウを促すようにしてテーブルの周りに立った。
そこには大きな地図と思しき絵図がテーブル一面に敷かれていた。この国、スタルゴラドの地図だ。近隣諸国との境が、地図の端の方にぎりぎりで描かれている。国内の地図と見て良いだろう。縦横に走る街道とそれを繋ぐ街が詳細に記されていた。一番目に付く中心に近い部分に、この国の首府である王都スタリーツァが据えられていた。そこから目線を北西の方角に移せば、北の砦とその少し先には、小さくスフミ村の名前が見て取れた。そこから更に北の方角を見れば、【レース】と表示された広大な空白部分と隣国ノヴグラードとの境になっている峻厳な山脈が描かれていた。
リョウはそっと自分が暮らす森の小屋がある辺りを探った。空白部分の森の辺縁だ。地図を見るとどうしても自分が暮らす場所を確認してしまいたくなるのは何故なのだろう。スフミ村と北の砦からの位置関係から大体の場所を弾き出した。そこから目線を下に持ってくる。中心にある王都との距離はかなりあった。それを見て、自分が随分と遠い所まで来たのだという思いに駆られた。
似たような地図がガルーシャの書斎の中にもあったことをリョウは思い出していた。
目の前の地図には、何箇所か色で囲いの施されている場所があった。北東の方向と東、そして南東の方角。いずれも王都より総じて東の部分だ。そして、その場所には目印の旗のようなものが立ち、そこに鉱石の原石と思しき石の塊が置かれていた。
威厳のある男が、徐に口を開いた。
「その後の鉱脈の変化は?」
それに二人いた兵士の内年若い方が、姿勢を正しながら答えた。
「目立った変化はないとの報告を受けています」
「ふむ。目ぼしいものが出ないのでは、近いうちにここは廃鉱という形を取らざるを得ませんな」
初老の学者風の男が尤もらしく口にした。
「他に当たりの付きそうな場所は?」
「現在鋭意調査中ですが、今の所、見つかってはおりません」
「ならば廃するには時期尚早か」
「しかし維持をするにも問題が」
どこか沈痛な空気が流れ始めていた。
男たちが真剣な面持ちで議論を交わす傍ら、
「さて、リョウ」
イオータが傍らに立つリョウをゆっくりと振り返った。
「ここに石が幾つかある。其々、この国の鉱脈から採掘されたものだ」
そう言うと地図の上に置かれていた石を一つ手に取った。
「これらを一つずつ手に取って見てご覧。キミがこの原石を結晶化するとしよう。その時に一番強く感じる石の成分は何かな?」
「ワタシがですか? 今、ここで?」
「ああ。これまでの授業と同じと思えばいい」
その言葉と共にイオータから手にしていた石を手渡された。
リョウは、その真意を問うように老講師の方を見てから手の中に置かれた石を見た。だが、イオータは静かに微笑むばかりで促すようにリョウを見ている。
「分かりました」
リョウは良く分からなかったが、イオータの言う通りにすることにした。自分をここに呼んだのも恐らくこの為なのかもしれなかった。かといってこれが何を意味するのかについては皆目見当が付かなかった。
リョウは小さな灰色の原石を両手の間に挟み込むと、意識を集中させる為に目を閉じた。これまでイオータの講義で繰り返し行ってきたように石の中に潜む【気】を探る。
そして、頭の中に浮かんできた映像を言葉にしていった。きっと求められていることは、その過程にもあるような気がしたからだ。
「紫……夜明け前の西の空。澄んだ井戸の底のような………冷たい……儚い色」
暫し、瞑目しつつ、リョウは傍らにいるであろうイオータにそっと囁いた。
「このまま結晶化をしても?」
「ああ。構わんよ」
「銀の瞬き………海の凪ぎ………静かな……微かな……風の音」
手の内から爽やかな清涼感のある風が吹いた気がした。戯れのように黒髪がふわりと揺れた。
「………ほう」
どこからか溜息のような小さな息が漏れた。
「どれ。もういいかの」
その言葉と共にゆっくりと目を開く。そして、手の中にある結晶化させた石をイオータに手渡した。
それからリョウは老講師に言われるままに次々に原石の結晶化を行った。
石は全部で五つあった。リョウが精神を集中させて成分を探る間、周囲にいた男たちは、それまでの話し合いを止めて誰も声を発しなかった。
静まり返った室内にリョウの密かな囁きのような文言が流れる。少し離れた所にいた若い兵士が、その文言をさらさらと手にした帳面に書き留めているようだった。
そして、一通り結晶化を終えると、リョウは小さく息を吐いた。
「はい。ご苦労さん。それでは、中を見てみるとしようかの」
イオータは懐から小さな金槌を取り出すと開封の呪いを小さく口にしてから、地図の上に置かれた結晶化の施された原石を次々と割っていった。中からは色とりどりの小さな鉱石の塊が現れた。大きさはまちまちだった。イオータはそれらを手に取って確かめると、再び地図の上、それらの原石が採掘された鉱脈の上に並べた。
「これは、キコウ石ではありませんか!」
小粒だが深い青さを湛えて鈍く光る石を摘んで地質学の専門家であるという老齢の学者が驚嘆の声を上げた。
「【カラリェーバ】か?」
「ここからは、もうキコウ石は無理だと思っていたが」
地質調査のために派遣されていたという術師の能力を持つ兵士の年嵩の方が唸った。
「偶々ではありませんか? 稀に混じる可能性もあるとは聞いていますし」
その部下であると思われるもう一人の年若い兵士は、そう言うと問い掛けるような眼差しでリョウを見た。
リョウはその視線を正面から受け止めた。
「【気】としては非常に僅かなものでした。何分不純物が多かったので。結晶化されたものが小さいのもその所為でしょう」
男の求める答えになっているかは分からなかったが、リョウは感じたことを告げた。
「だが、可能性としては出るんだな?」
念を押すように再度、年長の兵士から問われて、
「同じような原石を渡されて中の成分を結晶化させよと言われたら、ワタシであれば、恐らく同じ結果になるかと。ですが、これはあくまでも個人的な意見で、他の人の場合は分かりませんが」
結晶化するのにどの成分を探し当てるかについてはそれを施す術師の資質に大いに関係するのだ。肌に合う、合わないということもある。そのことは、術師であれば理解の範疇出あったが、念の為告げた。
「ですが、存続させる為には見合わないかと」
それまでじっと沈黙を守っていた財務官であるという男が、冷や水を浴びせるが如く切り込んできた。
採掘を続ける経費、そして、それを確実に結晶化できる人員の確保を鑑みても、それに見合うだけのものは、出ないとの意見を述べた。
「キコウ石の出る鉱脈は貴重だ」
地質調査隊の上級兵士が、どこか不服そうに口にした。
「ええ。ですが、こちらを止めても、こちら一本に絞れるのではありませんか? その方が、効率が良いと思いますが、いかがでしょうか?」
そう言って、しなやかな手付きで別の鉱脈を指示した。
処理を終えて出て来た石は全部で五つ。キコウ石にアルマ石、リール石、サリト石、シッカ石。どれもこの国の産業を担う為の鉱石としては、実に重要な部類の原料だった。
リョウは先日、イオータの講義の中で聞いたこの国の鉱脈と鉱石の分布図を思い出していた。記憶の中にあるその分布と目の前の地図にある場所を重ね合わせてみる。そして、そこにある微妙なズレに気が付いた。
それから七人の男たちは、テーブルの上の地図を前に喧々諤々と議論を交わし合った。
リョウは、その間じっと地図を眺めていた。
イオータは男たちとの議論に加わることなくリョウの隣でひそひそと囁いた。
「この国の地図を見るのは初めてかね?」
「いえ。家に似たようなものがありました。ここまで詳細なものではありませんでしたが」
「ほう?」
小さく囁き返されたその言葉にイオータは興味深そうに白いものが混じるふさふさとした眉を片方、跳ね上げた。
「お前さんは、どこに住んどると言っておったかな?」
「ちょうどあの辺りです」
リョウがそう言ってスフミ村の先にある森の縁の部分を指示せば、イオータはその細い眼を見開いて、それからさも愉快そうに声を立てて笑った。
「ほっほっほ。そうかい、そうかい。キミはあそこから遥々来たんだね」
イオータはつるりと皺の沢山刻まれた頬を撫でると、何やら一人で納得したようだった。
「あの」
リョウは極力声を潜めてイオータの耳元に囁きを吹き込んだ。
「部外者のワタシがこのような場にいてもよろしいのですか?」
ここは、明らかに重要な話し合いの場だった。政策決定をする会議のような場だった。
男たちの真剣な話声が強弱を伴い聞こえてくる。内容的にもこの国の鉱脈と鉱石、資源開発に関する案件のようだ。そのような重要な機密事項とも思える場に自分のようなどこのものとも知れぬ輩ー向こうにしてみれば、そう見えるに違いないーを立ち会わせて良いのだろうかとその辺りのことを心配したのだが、
「リョウ、お前さんは、もうこの場の一員じゃよ。あれらの石を結晶化させたではないか」
案ずることはないとイオータはリョウの不安を朗らかに笑い飛ばしたのだった。
そうこうするうちに男たちの話が一段落したようだった。
「では、そういうことでよろしいかな」
「ええ。それならば、こちらとしても問題ないかと」
それから、この場を取り仕切っていた威厳のある男とその部下の二人の男が部屋を後にした。
「では私たちもこれで。引き続き調査は続行ということで、報告はまた改めまして」
失礼しますと口にして、地質調査の任務に就いていたらしい二人組の兵士も慇懃に敬礼をしてからきびきびとした動作で去って行った。
地質学者であるという老齢の学者風の男は、一頻りイオータと言葉を交わしてからゆっくりとこの場を後にした。
そして、最後に広い室内に文官であると思しき柔和な面立ちをした男が残った。
柔らな薄茶色の髪を緩く後ろで一つに束ね、淡い空色の瞳をしていた。身に着けているのは、濃紺の地味な上着と生成り色のズボン。目立った装飾はないが、それが却って男の持つ上品で気品あふれる身のこなしを引き立てていた。
イオータの話では、この男は中央の財務官であるとのことだった。その名の通り、この国の財政を司る部署に勤めているということだ。ここでの会議にも予算や財務の立場から意見を述べる為に派遣されたようだった。
財務官の男は、リョウを見ると儀礼的な笑みをその口元に刷いた。観察するような視線が、頭のてっぺんからつま先まで照射された。
リョウも反射的に似たような微笑みを浮かべて男に向き直った。
一見、優しい面立ちをした男の空色の瞳がすっと細められた。捕捉されたような気分になり、リョウは心なしか緊張した。
この部屋にいた男たちは、自分の存在をイオータの弟子ということで不問にしたようだったが、この男はどうも違うようだとリョウは思った。
「どうかいたしましたかな? ケリーガル財務官」
イオータがのんびりと口にしてリョウの隣に立った。
すると張りつめていた空気が不意に緩んだ気がした。
「いえ。イオータ殿のお弟子さんがどのような方かと思いましてね」
ケリーガルと呼ばれたまだ若い財務官は、穏やかな笑みを浮かべた。
「黒い髪に黒い瞳………珍しい色彩ですね。そして、顔立ちも」
財務官の男はリョウの傍に寄ると「失礼」と小さく口にしてから、そっとその手を伸ばし、リョウの頬に手を掛けた。
リョウはそっと目を伏せた。自分の顔立ちのことを面と向かって揶揄されるのは、久し振りのことだった。好奇の眼差しは、余り気持ちのいいものではないが仕方がない。暫く放っておけば気が済んですぐに興味が逸れることだろう。これまでの経験から、これくらいのことを一々気にしてはいられなかった。
「おやおや、これはいけませんなぁ。幾ら、この子が可愛い顔立ちをしているからと言って。これだから宮殿は気をつけなくてはいけない」
イオータがやんわりと窘めるような軽口を叩く。それは、宮殿ならではの軽妙な雰囲気だった。
繊細な、それでも大きな男の手が頬に掛かり、そっと顔を上げさせた。ごつごつとした武人の手ではない滑らかな、それでもペンだこのある文官の手だ。
リョウは、じっとしていた。こちら側の顔を覗き込むようにして男が顔を寄せてきた。
それにしても、どうしてこの国の人々は、こんなにも身体的接触の距離が近く、他人を懐に入れる許容範囲が広いのだろうと今更ながらのことを思った。束の間の現実逃避ともいう。初対面の相手にこのようなことをされるのも、ここではしばしばのことだった。
一番初めは、そう、北の砦で。相手はユルスナールだった。狼たちが鼻先を寄せて、その匂いで確認をするような仕草だった。そんなことを今、この場で思い出したことを可笑しく思った。
「避けないんですか?」
どこかで聞いたことのあるような台詞と共に男の柔らかな面立ちが迫っていた。
「避けた方がいいですか?」
いつかの繰り返しのようにリョウはそんな言葉を口に乗せていた。
どこか面白がるように男が鼻先で笑った。
唇がもう少しで触れようかとする時、
「ケリーガル殿、そのくらいにしておきませんと奥方に叱られますぞ?」
小さく咳払いをしたイオータが間に入った。
それを契機に頭上に掛かっていた男の影が引き、リョウは、そこで詰めていた息を小さく吐き出した。
「実に興味深い………」
そんな小さな呟きが、耳に届いた気がした。
財務官は、不意に良いことを思い付いたとばかりに後方にいるイオータを振り返った。
「イオータ殿。お茶を御一緒にいかがですかな? 勿論、そこのお弟子さんも入れて」
その誘いにイオータは白々しい顔をして大げさに肩を竦めた。
「やれやれ、お前さんが誘いたいのは儂ではなくて、その子だろうに」
「そんなことはありませんよ。先程の鉱石処理は実に興味深かったですから。その辺りの事を、お茶をしながらでもお聞かせ願えませんか?」
にっこりと人当たりの柔らかい笑みを浮かべた。
イオータは暫し、考える風に顎に手を当ててから、とんでもないことを言ってのけた。
「リョウ。儂の代わりにお茶に呼ばれてきなさい」
「はい?」
リョウは、戸惑うようにイオータを見た。
「儂はこれから養成所の方に戻らねばならん。お前さんだけでもゆっくりとしてお行き。この男の所ならば、いいお茶に美味しいお茶菓子が付いてくるからの」
―この男の茶は上手いぞ。
そう言ってにんまりと何かを誤魔化すような愛想笑いを浮かべてから、さっさと背を向けた小柄な老人の背中にリョウは呆気に取られた。
「あの……イオータ先生?」
その声に心細そうな匂いを感じ取ったのか、イオータが戸口付近で一旦足を止めて振り返った。
「なぁに、大丈夫じゃ。この男はちゃんと心得ておる。心配せんでもよい。美味しい茶を馳走になってくればよい。先程のことで疲れたであろう?」
後はよろしく頼んだとばかりに茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた白髪混じりの老人は、そうして颯爽と背中を向け、扉の向こうに消えたのだった。
リョウは、内心都合の悪いことを押し付けられたのかと思った。美味しいお茶に目が無いはずのイオータが、お茶のお誘いを断るというのは、余程のことかもしれない。逃げられたのか。
一人、室内に残される羽目になったリョウに、
「それでは、師匠の御許しも頂きましたことですし」
財務官は、感情の読めない笑みを浮かべた。
リョウは腹を括るしかなかった。これで何か面倒なことになったら絶対にイオータに話しを振ろうと妙な気合を入れたのだった。
「それでは、場所を移しましょうか?」
ここは会議室のような場所であるのでお茶をするのは別の場所になると言われて、リョウは静かに先導する財務官の後を付いて行くことになった。
本心から言えば、この場から逃げ出したかった。ここは余りにも煌びやかな空間でどうも落ち着かなかった。自分が酷く浮いた存在に思えてならなかった。
努めて平静を装ってはいるが、どこか気もそぞろな表情を見せているリョウを横目に財務官ケリーガルは、小さく喉の奥を鳴らした。
「宮殿は初めてですか?」
「はい」
緊張の所為か、ぎこちない笑みを浮かべたリョウを財務官はからかうように見た。
「そのように硬くならなくとも大丈夫ですよ」
「……はい」
そう言われてもすぐに緊張が解れる訳ではない。
「ふふふ」
まだまだ硬さの残るリョウの様子を何故か楽しそうに財務官は見ていた。
財務官は、途中、擦れ違う人々と優雅な仕草で挨拶を交わし、時には言葉を交わし合った。歩調は、さり気なくリョウのものに合わせてくれているようだった。気配りのある人だと思った。
だが、それでこれから自分を待ちうけているであろう事態にリョウの心が晴れた訳でもなかった。