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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
143/232

灰色の髪の男


 神殿管轄の治療院を出て、レヌートに教えられた通りに東へ二本、通りを抜けると角の所に緑の草木を模した大きな看板が軒先にぶら下がっているのが見えた。看板には、意匠をぐるりと囲むようにその周囲に、【セミョーノフ】という文字が刻まれていた。どうやら、ここが、目的地のようだ。

「こんにちは」

 小さな硝子の填め込まれた扉を押すと、ちりりと来客を知らせる為の小さな鈴の音のような金属音が響いた。

 中は直射日光が入らないように細心の注意が払われている為に薄暗かった。そして、独特な、リョウにとっては馴染み深い薬草の匂いが鼻先を掠めた。柱の隅に据えられた小さな発光石が煌々とほの白い明かりを放っている。

 中は、広々としていた。壁一面は棚になっており、そこを沢山の小さく切りとられた四角い引き出しが埋めていた。引き出しの一つ一つには、其々中に常備されていると思われる薬草の名前が書かれた札が貼られていた。

 この棚全部が薬草なのだ。なんという量の多さ、それに種類の豊富さだろう。

 リョウは密かに感嘆の息を吐き出した。その内、自分が普段から扱うのは、ほんの一握りだった。

 薬師としての基本的な講義を受けて、それなりに薬草の知識も増えた気になってはいたが、この室内にあるものを目にすると、自分が学んでいたものがいかに狭い分野であったかを再確認させられることになった。

 感嘆と驚嘆に似た思いで棚を見回していると、店の奥にある細長いカウンターの中から声が掛かった。


「いらっしゃい。何をお探しですかな?」

 白いシャツに前掛け(エプロン)を掛けた体格の良い壮年の男が、にこやかにこちらを見ていた。その太い首には小さなルーペをぶら下げている。

 リョウは我に返ると、呆けていた自分の行いを誤魔化すように小さく微笑んでからカウンターにいる店の主だと思われる男の元に歩み寄った。

「神殿の治療院から使いに参りました」

 ―――――――こちらの薬草をお願い致します。

 そう言って手にしていたスタースが作成したという一覧を手渡せば、店主は合点したように頷いた。

「おや、これは珍しい。いつもはスタースが来るんだが、キミは新しい見習いの子かね?」

 一覧に目を通しながら、店主が興味を引かれたようにちらりとこちらを見た。

「いえ。今日は偶々で、別の神官の方と共に治療院の方で手伝いをすることになったので」

 自分が、まだ術師の養成所で学んでいる学生だと告げれば、店主はたちまち相好を崩した。

「そうかいそうかい。キミも養成所の学生さんなんだね。いやね。内にも一人、あそこで学んでいるのがいるんだよ」

「そうなんですか」

「ああ。今日はこっちに手伝いに戻って来ているから。呼んで来ようか。どれ」

 その申し出にリョウは慌てて手を前で振った。

「あ、いえ、お仕事の邪魔をしてはいけませんから。どうかそのままで」

 第一、いきなり呼ばれても自分が相手を知っている確率は低いだろう。運が良ければ見かけたことがあるかもしれないが、基本的に養成所に通う生徒は沢山いる。こちらに来てからまだ半月程しか経っていないリョウには、当然ながら知らない顔の方が多かった。そんな人を同じ養成所で学ぶ生徒だからという理由で呼ばれても向こうも困るだろう。

 と思ったのだが。

「なに。その心配はないよ。この一覧にある薬草を今から用意するのに人手が必要だからね」

 そう言うと店の主は、身体を反転させ、奥へと続く戸口の方へ向かって良く通る声を張り上げた。

「おーい、リヒター。ちょっと手伝ってくれ!」

 男の太い声が紡いだ名前に、リョウはまさかと思った。


 自分の知り合いの中にリヒターと称する友人がいた。

 互いに家の事や出自のことは余り話をしたことが無かった。養成所で新しく出来た友人たちと一緒にいる時は、大抵、集団の中で下らない言い合いをしながら雑談をするのが常であるので、個人的に深く立ち入った話をしたことが無かったのだ。

 だが、不意に、そう言えば、バリースがリヒターは街の大きな薬種問屋の息子であると話していたような気がすることに思い至った。

 だが、まぁ、同じ名前の別人ということもある。

 そう思っていたのだが、戸口に現れたのは、おっとりとしたどこか柔らかな空気を身に纏うお馴染みの少年だった。

「あれ? リョウじゃないか!」

 客の相手をしろと呼ばれたリヒターは、カウンター越しに立つ人物を見て目を見開いた。

 思いも寄らないことだったのか、少し驚いた顔をしたリヒターに、リョウもひらりと手を振った。

「やぁ」

「おや、この子の知り合いかい?」

「はい。リヒターにはいつもお世話になっています」

 そう言って、恐らくリヒターの父親であろう店主に小さく礼をすれば、

「おやまぁ、これはご丁寧に。うちの子の方が却って、厄介になっているんじゃないかね?」

 さり気なく養成所での様子を聞く為に話しを振ったであろう父親に、

「いえ。とんでもありません」

 リョウも穏やかに微笑み返していた。

 そのまま他愛ない世間話を続けそうになった父親に待ったを掛けたのは、息子であるリヒターだった。

「父さん。仕事は?」

「ああ。そうだった」

 大げさに肩を竦めておどけたような声を出した店の主に、リヒターも同じように小さく肩を竦めて見せた。

 そうしているとやはり親子である。柔和な面立ちをしたリヒターに比べて、父親は男らしい精悍な顔付きをしている為、顔立ちは余り似ていなかったが、リヒターと父親はその身に纏う雰囲気がよく似ていた。


 こんな所にどうしたんだとリヒターからも聞かれて、リョウは簡単にレヌートの講義の一環で、神殿管轄の治療院で手伝いをすることになった経緯を語った。

「成程ね。じゃぁ、レヌート先生ってことは、祈祷治癒の講義も取ってたんだ?」

「そうだね」

「じゃぁ、術師の認可を受けた後は神殿入りするのかい?」

「いや。それはないよ」

 リヒターの問いをリョウは笑って流した。

 そして、元々、この養成所に入ったのも、レヌートの義弟を仲立ちにしてのことだったのだということを付け足した。その経緯からレヌートには後見人のような形をお願いすることになり、その為に祈祷治癒の分野も養成所で学ぶことにしたのだが、神殿や神官の方面は全く考えていないと言い切った。

 それから話しの流れを変えた。

「リヒターは薬師を目指しているんだよね?」

「ああ。この店があるからね」


 そして、リョウがもらってきた一覧にある薬草を父と子が揃え始めた。広い店内を迷わず行き来して、棚を探し当て、求められているだけの薬草を抜き出す。それを一つ一つ袋に入れて、表書きを施して行った。

 リヒターはいつになく真剣な顔をしていた。そうして薬草の棚と向き合う横顔は、いつもより数倍も引き締まって見えた。それは薬師としての顔なのだろう。

 それから全ての用意が終わり、店主が作成した一覧とこちらの一覧、そして、個別に包まれた薬草を一つずつ確認して行って間違いがないことを確かめた。受け渡しの確認に一覧に裏書きを貰い、そして店主の一覧の方にも、リョウは受取人として自分の名前を署名した。署名には、印封と同じ古代エルドシア文字を利用した。これで書類が正式なものとされるのだ。

「じゃぁ、また、養成所の方で」

「ああ」

「スタースによろしく伝えておくれ」

「はい。分かりました」

 そして、ありがとうございましたと謝意を述べて、リョウは【セミョーノフ】を後にした。




 それから、治療院に戻るべく、元来た道を辿っていると、往来で狭い路地から男たちの怒声のようなものが聞こえた。

 ―――――――いいかい、リョウ。ごろつきの類や柄の悪い連中がこの辺りにはいるんだ。だから絶対に脇道に入っちゃ駄目だよ。それに喧嘩を目撃しても、仲裁なんて以ての外、目を合わせちゃ駄目だ。下手に絡んだら因縁を吹っ掛けられて、ややこしいことになるから。

 帰り際、リヒターに口を酸っぱくする程言われた注意事項が頭を過った。


 リョウは、足早に治療院への道を急いだ。その時、脇から一際大きな諍いの声が上がり、思わずそちらへ顔を向けてしまったのだ。それが、恐らく運の尽きだった。

 狭い路地の所で、一人の男が複数の男たちと対峙していた。いかにも柄の悪そうな屈強な男たちに囲まれている。剣呑な空気が漂っていた。男たちは皆、腰に剣を佩くか、短剣を手にしているようだった。一触即発という雰囲気だ。

 その中の囲まれていた男と目が合ってしまった。その男が何故か驚いたように目を見開いて、何がしかの声を上げたようだった。その所為で、男を囲んでいた他の男たちが、自然とリョウの方へ視線を向けることになった。

 その中の一人と目が合ってしまった。

 その瞬間、ニヤリと下卑た笑みが男の口元で形作られたのが見て取れた。

 内心、不味いと思った矢先、

「おい。坊主。ちょっとこっち来いや」

 髭面で赤ら顔の男に声を掛けられて、リョウはドキリとした。

 だが、なるべく平静を装うように、

「すみません。急いでいますので。ご勘弁を」

 そう口早に告げてから、そそくさとその場を立ち去ろうとしたのだが、いつの間にやら、こちら側にやってきていた仲間の一人と思しき男に腕を掴まれてしまった。

 いきなり捻り上げるように強い力で腕を掴まれて、声を上げそうになった。顔を顰めてその痛みをやり過ごした。

 リョウは、動揺していた。

 なんだ。一体、何があったのだ。物盗りの類か。金品を強請る積りなのか。はたまた恐喝か。

 だが、自分の身なりはこの界隈に紛れこむくらい貧相なもので、どう高く見積もっても金目の類を持っていそうには見えない筈だった。

 リョウは薬草を入れた袋が入った鞄の紐をきつく握り締めた。これは盗られる訳にはいかない。それに治療院はもう目と鼻の先という距離だった。大声を上げれば、気が付いてもらえるだろうか。そんな胸残用をする最中、心臓が早鐘を打ち出した。

「おら、こっちだ」

「あの、…何なんですか?」

 有無を言わせない力で引っ張られ、あっという間に剣呑な空気を醸し出していた男たちの中に放りこまれてしまった。

 リョウは男たちと対峙していたと思しき男の足下に転がった。いきなり投げられて、咄嗟に手を突いたが間に合わず、尻もちを着く形になった。


「何の真似だ?」

 低く掠れた男の声がすぐ脇からして、リョウは顔を上げた。鋭角な顎の線が際立って見える。尖った鼻先に縮れた灰色の髪が男の輪郭を象っていた。頬は削げ落ち、無精髭が疎らに生えている。顔には、年と共に刻まれた皺が多く見受けられた。

 リョウは体勢を立て直す為に慌ててその場に立ち上がった。

「あ? そいつをおめぇが口にするのかよ?」

 灰色の髪の男が無言のまま、その目を眇めた。

 それに対して、男たちの中でも(リーダー)であるらしい髭面の男が口を歪めた。

「なぁに、この坊主が、どうもおめぇの知り合いみてぇだからよ。ちょっと面ぁ貸して貰ったんだよ」

 リョウは目を白黒させて、対峙する男たちを見た。

 自分がこの男と知り合いだって? そんなことが果たしてあるのだろうか。自分は少なくともこの男を知らない筈だ。

「こんなガキ。俺は知らん」

 灰色の髪の男が、忌々しげに吐き捨てた。

「あんだと、こら」

「すっとぼけんなよ、おっさん」

「ああ。さっき、声を上げたじゃねぇか。おい」

 リョウは静かに後ろに一歩、下がった。逃げる隙を探す。

 良く分からないが、どうも人違いのようだ。

「あの……オレもこの人のことは知りませんし、何かの勘違いのようですから」

 ―――――――もう行っても構いませんよね?

 そう口にして、内心、冷や汗を流しつつ、灰色の髪の男を真正面から見た瞬間、リョウの脳裏を走馬灯のようにとある一つの情景が駆け廻った。

 それは、【プラミィーシュレ】のソーニャが働く【スタローヴァヤ(街の食堂)】で、ユルスナールやブコバル、ドーリンと食事をした時(あれはそう、ドーリンと初めて顔を合わせた時だった)に、テーブルに着く前にある一人の男からいきなり腕を掴まれる形で突然、声を掛けられたのだ。

 ―――――――生まれはどこかと。兄弟の類はいるかと。

 あの時の臓腑が冷やりとした感覚を身体は覚えていた。

「……あ」

 思わずというように小さく声が漏れた。そして、その場で軽く目を見開いたリョウに、灰色の髪の男が鬱陶しそうに舌打ちをした。

「どうやら、坊主の方は、心当たりがあるようだな? え?」

 背後から凄まれるように肩を掴まれて、リョウはぎくりと身体を震わせた。

 だが、全くもって訳が分からない。この男があの時(プラミィーシュレ)の男だとしても、自分とは顔見知りという範疇にすら入れられないだろう。掠るような一瞬の出会いだった。偶々、食堂で声を掛けられた。ただ、それだけだ。擦れ違うようなものであったから、リョウの方は男の顔をすっかり忘れていた程だった。

 それなのに。どうしてこのようなことになっているのだろう。

「あの………オレに…何か……用ですか?」

 口の中がカラカラに乾いていた。震えそうになる声をどうにかして絞り出す。

「用ってほどでもねぇんだがよ。なぁ?」

 そう言って男たちが意味深に含み笑いをし合った。

 途轍もなく嫌な予感がした。

「ああ。ちょっと、このおっさんが口を割らねぇもんだから。こちとら困っちまってよぉ」

「あの……それとオレが……何の関係があるんでしょうか?」

 疑問を呈すれば、

「ああ?」

 反対に凄まれてしまった。

「関係なんて少しでも掠りゃぁ大アリなんだよ」

 それは随分と乱暴な論理だった。

「で、あんた、どうする? あんたの代わりにこいつをやっちまってもいいんだがな」

 髭面の男が、リョウの方を一瞥して顎をしゃくった。

 事態が途方もない方向へ行っていることに気付かざるを得なかった。

 要するにこの灰色の髪の男を脅す為の手段として、偶々、通り掛かった自分が目を付けられてしまったということなのだろう。


「寝言は寝てからにしろ」

「あ?」

 そう低く吐き捨てると、灰色の髪の男が、いきなり目の前の男に足払いを掛けた。目の前の大柄な男が無様に転げ、一瞬の隙ができたのを突いて、男がリョウに目線で『逃げろ』と促した。灰色の髪の男は、豊かな縮れ毛に白いものが混じり、それなりの年齢に達しているようだったが、その動きは俊敏だった。

 リョウは男の意図を悟り、すぐに頷くと地を蹴った。男のことは気になったが、自分がいては却って足手まといになるだろうと思ったからだ。

 だが、全力疾走をしようとした所で、

「あ、コラ、待ちやがれ!」

 追いかけて来た男に斜め掛けにしていた鞄の紐を勢いよく引っ張られ、駆け出した勢いを殺すように動きを止められて、リョウは、背中から転げた。

 鞄の中には先程の【セミョーノフ】で誂えた薬草の袋が入っていた。鞄を置いて身一つで逃げるという選択はリョウの頭の中にはなかった。そのもたつきが悪かったのかもしれない。慌てて前に鞄を抱え直した時に、追って来た男に思い切り背中を蹴り上げられた。

 息の詰まるような衝撃にギュッと目を閉じた。そのまま地面に転がり、リョウはぐっと歯を食いしばった。

「チョロチョロすんな。ガキが!」

 顔を上げた所に忌々しげに唾を吐きかけられて、リョウは顔についた男の唾液を袖で拭った。そして、男を睨みつけた。


 そうこうするうちに男たちの怒声が後方から上がり、鈍い金属音が聞こえ始めた。リョウが振り返ると男たちが皆、抜刀していた。灰色の髪の男は長剣を手に其々の得物を持った男たちに対峙していた。

 互いに一歩も引かない、緊迫し張りつめた空気にリョウの肌は粟立った。

 目の前で起きていることは何だ? どうする? どうしたらいい?

 この男たちは人を傷つけることに何の躊躇いも持っていなかった。目的を果たす為には手段も選ばない。

 リョウの足は唐突に竦んだ。

 逃げなくてはと思ったのも束の間、片腕を引っ張り上げて立たされた。

「お遊びはそこまでだ」

 その場で後ろから羽交い締めにされると首筋に冷やりとしたものが当てられた。

「そこまでだ」

 リョウの背後から掠れた男の声が、その場に響き渡った。

 横目に見ると鋭い短剣の切先が見えた。小さく反射する自分の顔は言い知れぬ恐怖に引き攣っていた。

「おい、お前。それ以上、無駄な抵抗はよせ。このガキの命はねぇぞ?」

「チッ」

 長剣を手にしていた灰色の髪の男は、舌打ちをするとギリリと奥歯を噛み締めた。

「そいつを放せ。そのガキは無関係だ。関係の無いヤツを巻き込むな」

 低く地を這うような声だった。声量は小さかったが、底冷えするような冷たさに男が本気で怒りを顕わにしていることが感じ取れた。

「ハッ、そいつは無理な話だな」

 震える怒気に喉元に触れる切先が肌に食い込んだ。

「何が望みだ?」

 男が徐に口を開いた。

「何を探っていた?」

「何の話だ?」

「とぼけるな。お前がユプシロンの周りをウロウロしていたのは分かってんだよ」

「何故、それをお前らに言わねばならん?」

「そいつは仕事だからさ」

「金か。……幾らで雇われた?」

「んなのてめぇの知ったこっちゃぁねぇだろ!」

 いきり立った大柄な男の傍らで、リョウを羽交い絞めにしていた背の高い細身の男が舌なめずりをしながら凄んだ。

「こちゃごちゃ言ってねぇで、とっとと吐きな。でねぇとこのガキのほっせぇ首が飛んじまうぜ?」

「…………ツッ」

 ビリリとした痛みにリョウは顔を顰めた。短剣を手にしている男の興奮に合わせて、刃先に力が入り、皮膚が切れたのかもしれなかった。

「おっと」

 後ろの男が態とらしい声を上げた。

「アイツは気が短けぇからな。うかうかしてると動脈を行っちまう」

 それを肯定するように、

「ああ。手元が狂った」

 何処か愉快そうな耳障りな声がして、リョウは観念したように目を閉じた。


 ―――――――その時だった。

 上空を甲高い鳴き声と共に大きな影が舞い、急降下してきた。

「うわっ」

「なんだ?」

 バサリと大きな風を切る音がしたかと思うと後ろからの拘束が離れ、左肩に馴染み深い重みが乗っていた。

 閉じていた目をそろりと開けるとすぐ傍に、よく見知った猛禽類の、尖って湾曲した黄色い嘴が見えた。

「………ヴィー!」

『リョウ、大事ないか?』

「おいおい、なんでぇ、こんな真っ昼間から。ガキ捕まえてなぁにやってんのさ?」

 どこか間延びしたのんびりとし声と共に薄暗い路地の脇から滲み出るようにして影が揺らぎ、その中から一人の男が、音もなく現れた。

 日の光に反射する明るい金茶色の癖の無い髪がさらりと揺れた。その髪は、男の顔左半分を覆っていた。

 ―――――――ルーク。

「おめぇは…………」

「……【片目の鷲使い】…」

「クッソ」

 驚愕の声に続いて、あからさまな舌打ちが漏れ、男たちの間に小さな動揺が走ったようだった。

「何の用だ?」

 鋭い声を発した親分格の髭面の男に、ルークはゆったりとした足取りで歩み寄ると、左肩に己が相棒である大きな鷲を乗せた少年の傍に近づいた。そして、その小柄な体を、腕を取って引き寄せると自分の背で庇うように前に出た。

「何の用かって? 随分な御挨拶じゃぁねぇか。あ? このガキに用があんだよ」

「何だと? 邪魔する気か?」

 ギロリと睨みつけた男にルークはからりと笑った。

「いや? おめぇらが何をやろうと俺の知ったこっちゃぁねぇさ。だがな、このガキは別だ」

 そう言って、この少年は自分の知り合いであるから、妙なちょっかいを掛けるなと言い放った。


 睨み合うこと暫し、分が悪いと判断したのか、髭面の男は、忌々しげに吐き捨てた。

「【チョールトバジミー(クソッタレが)】!」

 だが、すぐに思い直したように手にしていた長剣を腰の鞘に納めた。

「おめぇを相手にする積りはねぇよ。俺だって命は惜しいさ」

 ―――――――おめぇら、行くぞ。

 周囲にいた仲間たちを促すように合図をして、大柄な男はあっさりと背を向けた。そして、撤退の意思表示を理解した取り巻きの男たちは、最後にこちらを睨みつけながら薄暗い狭い路地の中へと姿を消したのだった。



 ごろつきのような風体の男たちの姿が消えて、リョウは半ば茫然としたように緩く息を吐き出した。

 ゆっくりと前に立っていた男が振り返った。

「よぉ、姫さん、今度もまた妙なことに首を突っ込んだみてぇだな?」

 苦み走った癖のあるもの言いに、

「自分から首を突っ込んだ積りはないんですが………」

 リョウは苦笑を滲ませたが、その瞬間、一筋の涙が頬を伝って流れた。それを慌てて拭ってリョウはぎこちなく笑って見せた。

「助かりました。ルークさん。ありがとうございます」

 ルークはそっと手を伸ばすと、リョウの頬に付いている泥を親指の腹で拭った。

 この男が現れるのはいつも唐突だ。前触れもなく現れては同じようにいつの間にか姿を消す。不思議な男だった。

 リョウの肩に乗った大鷲のヴィーは、どこかそわそわとしてリョウを見ていた。

『リョウ、大事ないか? おお可哀想に。首に傷が付いておるではないか!』

「どれ」

 その指摘に前に立つルークからも改めるように首に手を当てられて、その手付きが存外優しいことにリョウは形容し難いむず痒さのようなものを感じていた。

『ルーク、どうだ? 傷は浅いか?』

 案じるヴィーにリョウはそっと微笑んだ。

「大丈夫だよ、ヴィー。そんなに心配しなくても。多分、表皮の部分がちょっと切れたくらいだから」

『何を呑気なことを! 傷跡が残ったら如何いたすのだ!』

「大丈夫だ。ヴィー。ちょっと表面を掠ったくらいだ。こんなの傷のうちに入らねぇよ」

『それはおぬしらの場合だろうに。リョウをうぬらと一緒にするな!』

 大げさに反応を返すヴィーにリョウは知らず笑いが漏れた。

 それから少し余裕の出たリョウは、そっと自分の体を見下ろした。地面に転がったりしたのだ。

 案の定、あちこち泥だらけだった。それでも鞄を死守したことに安堵の息を吐いていた。先程までの恐怖は、いつの間にか引いていた。


 長剣を納めた灰色の髪をした男が、リョウとルークの傍に近寄って来た。

「済まなかったな。巻き込んでしまって」

 苦い顔をした男に、

「いえ」

 リョウはそっと首を横に振った。

 リョウとしては何がなんだか訳が分からぬ内に一先ず事態が収まっていて、それ以上の反応が返せなかったのだ。突きつめてしまえば、とんだとばっちりで、運が悪いとしか言いようがなかった。

 と思ったのだが、

「なんでぇ。相変わらず能天気だな。ちったぁ、文句の一つぐらいかませよ」

 呆れたようにルークがこちらを流し見たのだが、リョウとしては、こんな所で男に不満をぶつけても不毛だろうと思ったので、苦笑をするにとどめた。

「あの、ひょっとして、【プラミィーシュレ】でお会いしましたよね? 【スタローヴァヤ(街の食堂)】で」

 確かめるようにリョウが男を見上げれば、

「ああ。そうだったな」

 男が小さく口の端を歪めた。

 男はすっと手を伸ばすとリョウのぼざぼざになった髪を手櫛で梳いた。その手付きは意外な程に労わるような優しいものだった。

「お前はここ(王都)の人間か?」

「いえ。今、こちらで養成所に通っているんです」

 普段は、この国の北の辺境、スフミ村の先の田舎で暮らしているのだと告げれば、

「そうか」

 男はただ一言、そう口にしただけだった。


「リョウ、おめぇ、使いの途中じゃなかったのか?」

 不意にルークから言われて、リョウは今更ながらのことに思い至った。

「そうでした」

 鞄を掛け直した時、ふと目の前にある男の二の腕の部分が破れて切れているのが見えた。薄らと血が滲んでいる。

「これから治療院に戻るところだったんです。怪我の手当てをしますから、どうぞご一緒に」

「治療院………というのは神殿が開いているやつか?」

 男が何かを考える風にこちらを窺い見た。

「はい」

「お前は神官見習いなのか?」

「いえ。今日はお手伝いです」

 男は始め、このような怪我などかすり傷で、大したことではないと固辞したのだが、リョウの戻る場所が神殿に関係する施設だと聞いて、考えを改めたようだった。

「分かった。世話になろう」

「はい。ご案内いたします」

 話しがある程度纏まった所で、ルークが声を掛けた。

「じゃぁ、リョウ。俺は行くぜ?」

 その傍らで、ヴィーが小さく首を傾けた。

『我は、暫くそなたの傍に』

「ヴィー、頼んだぜ」

『承知』

「ありがとうございました。ルーク」

 リョウは深々と頭を下げてから顔を上げた。

「暫くこちらに?」

「ハハ。そいつは分からねぇな。風の吹くまま、気の向くままさ」

 口角を少しだけ吊り上げて、ルークは飄々と口にした。

 その返答を実にらしいと思った。

 リョウは、ルークが何をしている男なのか分からなかった。知っているのは、僅かな事だ。ユルスナールたちと知り合いで軍部の中でもそれなりに顔が利くということ。そして、北の砦にいる新米兵士、キリルの父親であるということ。それから大鷲のヴィーの相棒であること。

 そんな男が、偶にこうして、まるで計ったかのような間合い(タイミング)でひょっこりと顔を出すのだ。謎が多い男だが、謎は謎のままに、それを突きとめたいとは思わなかった。自分が深く立ち入る必要の無い所に男は立っている。そう思うことにしていた。

 それからひらりと気だるげに手を一振りすると、いつもと同じ軽薄な空気をその身に纏いながら、影の男は薄暗がりの闇が濃淡を描き出す狭い路地の向こうに姿を消したのだった。

『では、参るか』

「そうだね」

 リョウは左肩に乗った大きな鷲の喉の辺りを小さく擽ると、傍らに立つ灰色の髪の男を促すようにして、気分を新たに治療院へと向かったのだった。




 治療院に戻ると中にいたレヌートとスタースは、リョウの姿を見て訝しげに眉を顰めた。

「遅くなりました。すみません」

 存外、手間取ったことを詫びて、鞄の中から薬草の入った袋を取り出すとスタースに渡した。薬草の入った袋が、然程傷んでいなことを確認して、心なしか安堵した。

 出掛けた時とは打って変わって、どこか草臥れて薄汚れた感のあるリョウの姿を見て、

「リョウ、何があった?」

 不意に顔付きを真剣なものに改めたレヌートにリョウは穏やかに微笑んで、深刻な空気を軽く受け流した。

「途中、喧嘩に巻き込まれてしまって……。ですが薬草は無事ですよ」

 その言葉にレヌートは目を見開いた。そして、すぐさまリョウの傍に走り寄った。

「どこか怪我はないか? 大丈夫か?」

 鬼気迫るレヌートを前にそっと苦笑を滲ませると、

「あちらの方が腕に怪我を。どうか見てあげてください」

 リョウは戸口脇でひっそりと控えていた灰色の髪の男の方を指示した。

 その言葉にスタースが心得たように赤い帯を靡かせ、男を診察台の方へと促した。

「お前も喉を切られただろう。診てもらえ」

 淡々とした男の声に、

「なんだって! リョウ、見せなさい」

 レヌートが血相を変えた。

「少し刃先が当たっただけですから大丈夫ですよ」

「どうして刃物が首に掛かるんだ?」

 仰天したレヌートが焦った顔をしてリョウの首筋を改めた。

 刃物が首に当たる状況がどんなものなのかは簡単に想像が付いた。

 使いに出したはいいが、こんな刃傷沙汰に巻き込まれるとは思ってもみなかった。この辺りも治安は余りいい方ではないのだが、昼間ということもあってレヌートとしては大丈夫だろうと高をくくっていたところもあったのだ。

 レヌートは、リョウの細い首筋に走る薄い赤い線を見て、痛ましげに顔色を曇らせた。

「済まない、リョウ。私がキミを使いに出したばかりに」

 苦しげに吐き出された言葉にリョウはそっと頭を振った。

「いえ、大丈夫です。ちょっと吃驚しただけで。大事はありませんから」

『リョウ、はよう手当てをしてもらえ』

 肩に乗ったまませっついた大きな猛禽類にレヌートは今更ながらに気が付いたようで、片眉を跳ね上げた。

「知り合いのヴィーです」

 そして、ヴィーの相棒であり、自分の顔見知りでもあった人間の男に揉め事の仲裁に入ってもらい事なきを得たということを序でに語った。


 リョウを丸椅子に座らせたレヌートは、外套を脱がせた後、首の傷が見えるように顎を上げさせた。そこに消毒を施し、軟膏を塗り込んだ。

 外套を脱いだ時、背中の部分に痛みが走った。きっと痣になっているに違いないと思った。強かに蹴り上げられたのだ。食い込んだ長靴の爪先は痛かった。その時の衝撃を思い出して思わず顔を顰めた。

「しみるか?」

 それを消毒がしみる為と勘違いされて、リョウは慌てて違うと訂正をした。

「大丈夫です」

 寮の部屋に帰ったら軟膏を塗ろう。手が届かない所だったら、セレブロを呼んで人型になってもらおうかと胸の中で思った。



 男の治療を終え、リョウの持ってきた薬草を一覧と照合したスタースは、問題ないと請け負った。受け渡しの際の裏書きも確認する。

「リョウ、ありがとう。助かったよ」

 柔らかく目を細めたスタースに、

「はい」

 リョウも嬉しそうに微笑んだ。

 治療を終えた灰色の髪をした壮年の男は、神官(スタース)に丁寧に礼を述べた。

 男とスタースは傷を改めている最中に何やら小声で話をしていたようだった。二人とも真剣な面持ちで、一瞬、険悪な空気になったような気がしたのだが、それはどうもリョウの思い過ごしであったようだ。

 そして、帰り際、何を思ったのか、リョウの元に近寄るとその頬にそっと指で触れた。リョウはそれを自分の揉め事に巻き込んでしまったことへの謝罪の気持ちの表れだと受け取った。

 こうして灰色の髪をした壮年の男は、治療院を後にしたのだった。


 それから、リョウはレヌートと共に養成所のある区画へと戻った。

 リョウの肩には精巧な置物のように大きな鷲であるヴィーが乗り、歩調に合わせて器用に平衡(バランス)を保っていた。

 岐路に着く間、リョウはいつもより饒舌に言葉を紡いだ。ひょっとしたら、それは些かあからさまであったかもしれない。

 レヌートが怪我の件を気に病んでいることが分かったからだった。どこか沈んだ空気を背負ったレヌートを見て、リョウは気にしないでくれと言いたかった。自分は平気だからと。

 【セミョーノフ】が養成所で知り合った友人の実家であることも話して聞かせた。父親と息子の顔は余り似ていなかったが、仕草がそっくりでなんだか微笑ましかったと笑顔を絶やさずに続けた。

 レヌートは軽やかに響く、少年にしては幾分高めな声に静かに合槌を打っていた。


 養成所の近くになり、学生寮と校舎を隔てる分かれ道の所で、レヌートが不意に足を止めた。

「リョウ」

「はい」

 真面目な顔付きをしたレヌートにリョウも一転、同じように表情を改めた。

「最終的な判断はスタースの報告を待ってからになるが、それが問題なければ、これで私の講義を修了にしよう」

 その言葉にリョウは顔を綻ばせた。

「本当ですか?」

「ああ。私の目から見ても、大丈夫だろう。このまま外に出しても恥ずかしくない位にはなっている。勿論、まだまだこれからも精進が必要だがな。後で正式な修了印を出しておこう」

「ありがとうございます」

 リョウは顔を輝かせた。

 レヌートの修了印をもらえるということは、最終試験への道が開かれたことを意味していた。勿論、分野はレヌートが受け持った【祈祷治癒】に限られる。そして、最終試験を受けて、それに合格すれば、【祈祷治癒】の【術師】としての登録認可が下りることになった。

 それはリョウにとって何よりの朗報だった。目に見える形で、目標に一歩、近づくことができたのだ。


 このまま学生寮に戻ると言ったリョウに対し、レヌートは養成所の講師の部屋に戻ることにした。

 そこでお別れだった。

 リョウは再度、今日一日の講義に対する礼をレヌートに対して述べた。

「レヌート先生。今日はありがとうございました」

「ああ。こちらこそ助かった」

「それでは失礼します」

「ああ」

 そして軽やかに遠ざかってゆく小柄な背中を見送りながら、レヌートは静かに表情を改めると、その口元に浮かべていた笑みを消した。そうすると柔らかな面立ちと言われる神官の隠れた一面が覗いた。

 レヌートは深く息を吸い込んだ。そして、あの少し風変わりな空気を持つ少年を神殿のおぞましい揉め事に巻き込んではならないと改めて気を引き締めたのだった。


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