揺らぐ魂 揺れる世界
あの後、【アルセナール】に戻るというブコバルと別れて、リョウは当初の目的通り、神殿に向かうことにした。少し寄り道をした形になったが、この場所を知ることが出来て良かったと思った。何よりもブコバルの新たな一面を知ることが出来たのは、思いがけない収穫だった。
緩やかな坂を登り切ると神殿の裏手側に出たようだった。周囲を鬱蒼とした木々に囲まれた中にぽっかりと開けた巨大な空間があった。その中に収まるようにして白い石造りの荘厳な建物が眼前に迫っているのが見えた。リョウは手始めに、ぐるりと周囲をその巨大な白い石壁に沿って歩き、正面の広場の方へ出た。
表側には、一般の参詣客と思しき人々が数多く見受けられた。だが、それ以上に目を引いたのは、白い上下に身を包んだこの神殿に仕えるという神官たちの姿だった。
先日、街中見物に訪れた時にシーリスから教わったのだが、神官たちは装飾の無い踝までありそうな裾の長い上着にその下にズボンを穿き、腰の部分を色の付いた帯で止めていた。帯は柔らかく幅の広いもので、腰をしっかりと留めてから余った部分をだらりと横に長く伸ばす形を取っていた。
その帯の色は、実に鮮やかで色とりどりだった。身に着けている上下が簡素で白い分、それが余計に際立って見えた。目に付く限りの色を挙げてみる。赤、黄、橙、茶、青、緑、紫、水色、黒と実に多様だった。その帯の色は、そのまま神官たちの階級を表わしていると過日、シーリスは言っていた。この白亜の荘厳な建物を背景に静々と神官たちが帯の端を翻しながらゆったりと歩く様は、どこか神秘的で冒しがたい静謐な雰囲気を醸し出していた。
神殿は、広く一般市民にも開かれているという。裏道の方から来たリョウは、ここに来る途中、誰とも擦れ違わなかった訳だが、表側であるこちらの方は、多くの人々でごった返していた。
なるほど、表側の方にも街とこの神殿を繋ぐ大きな坂道があり、そこを人々が思い思いの足取りで行き来しているのが見えた。皆、神に祈りを捧げ、供物を捧げに訪れるのだという。
突如として降って湧いたように(リョウにとってはそのような印象を受けた)現れた人々の姿にリョウは驚いた。ぐるりと参詣客を見渡す限り、ここを訪れるのは年配の人たちが多いかもしれない。この場所には信仰の厚い人々が多く集うようだ。
リョウは、周囲を見渡してセレブロの姿を探した。単に神殿で待ち合わせをしようということで、具体的な場所の指定などはなかった。リョウにとっては初めて訪れる場所であるので、その辺りのことを考慮したのかもしれない。指定をされても逆に困ってしまうからだ。
取り敢えず、参詣客に混じって中に入ってみることにした。
だが、その前に、リョウは意識をセレブロの加護が紋様となって表れている左胸の部分に意識を集中して、セレブロに神殿に到着したと念じてみた。これで、恐らく、セレブロは、自分が近くに来ていることを感じてくれたと思う。
神殿の中は、想像以上に広々としていた。引きずられるように思わず上を見上げる。天井が驚くほど高い位置にあった。
中は、薄暗かった。かなり高い上の方に採光の為の小さな窓が点々と並んでいる。自然光は極力抑えられているようなのだが、暗くてジメジメしたような陰鬱な印象は全く受けなかった。使用されている石材が白色をしている所為だろうか。光が余り入らなくとも、中はぼんやりと明るく浮かび上がるようになっていた。
一言で言えば、不思議な空間だった。周囲を囲む柱や梁には繊細な彫刻が刻まれている。色は、白一色で、街中で見受けられるような色とりどりのタイルや煉瓦、華やかな装飾の色彩の類は一切なかった。
この神殿に祀られているという豊穣を司る女神であるリュークスを模したものだろう。この国の一般的な女性を彷彿とさせる豊満な肉体を柔らかそうな服の襞から晒している。優美な微笑みを浮かべた美しい顔立ちだ。その彫刻を見て、こちらでは偶像崇拝は、別段、問題視されている訳ではなさそうだと思った。
リュークスは、豊穣の女神であると同時に、先読み、要するに未来予知を司る占いと宣託を得意とする異能の女神でもあった。神殿の元々の成り立ちとこの場所に発展してきた役割を考えれば、後者の方が重きを置かれていると言えるだろう。
―――――――【パラ フェルメ ス リュークス(リュークスの加護がありますように)】
この国の人々が別れ際や挨拶代わりに、よくその文言を口にするのは、恐らく、『これから先、訪れる未来が良いものでありますように』との願いを込めた所から転じているのだろう。
未来予知。これからの未来に何が起こるのか、それが吉事なのか凶事なのか、それを知りたいと思うのは、たとえ世界が変わっても変わることの無い人の欲望のあり方のようだ。
参詣に訪れた人々が祈りを捧げている祭壇のような場所には、だが、女神を模した像ではなく、丸い楕円形のような形をした乳白色の石が鎮座していた。大きさは、かなりある。横幅は、人一人が両腕を目一杯広げた位だろうか。その表面には、複雑な網目のような、織物の織り目のような紋様がびっしりと彫り込まれていた。その中心には、大きな丸い穴が開いており、空洞になっていた。形だけを見れば、それは、まるで人の瞳を模したようだ。
参詣に訪れた人々は、その石の表面に片手を当て、その場所を摩るようにして目を閉じながら、なにやら祈りの文言を小さく唱えているようだった。石の表面をよく観察してみれば、参詣客がよく触れているであろう部分は、刻まれた凹凸の部分が往年の摩擦から滑らかに変化していた。
そうして暫し、お上りさんのような気分で神殿内を見学していた時だった。
―――――――リョウ。
不意に頭の中に響いてきた深みのある声に顔を上げれば、祭壇よりもずっと奥へと続く回廊のような所に、光輝く白い長髪を揺らしながら、こちらに向かってゆっくりと足を進めているセレブロの姿が見えた。
予想通り、セレブロは人の形を取っていた。純白というよりはややくすんだ灰色に近い神官と同じような上下に黒い繻子のような光沢のある帯を腰に巻き、その余った紐の部分を横に垂らしている。その上から同じ色合いの長いカフタンのような襟の無いたっぷりとした外套を羽織っていた。
「お待たせ」
リョウは、セレブロに近寄るとそっと微笑んだ。
人の形を取ったセレブロの姿は、この神殿内の厳かで静謐な空気に実に似つかわしかった。
『迷わなんだか?』
ここに来る途中、迷子にならなかったかとからかうように口にされて、リョウは小さく微笑んだ。
「ううん。大丈夫だったよ」
『そうか』
この神殿は、街全体を一望できる高台の上にあった。それは裏を返せば、街のどこからでもその姿が見えるということだ。それでは迷いようがなかった。
『リョウ。こっちだ』
それから、セレブロに連れられて、神殿の中を奥へ奥へと進んだ。途中、神官たちに擦れ違ったが、別段、見咎められたりすることもなかった。皆、こちらが見えていないかのように何事もなく通り過ぎて行く。それを少し不思議に思った。
そうして暫く歩いて。とある一室に辿りついた。
『ここだ』
目の前には、暗闇がぽっかりと口を開けたような部屋の入口があった。中は暗くて見通せない。まるでこの場所に初めて来た時に使った大木の【うろ】のようだと思った。
リョウは窺うようにセレブロを見たが、セレブロは小さく頷くだけだった。
そして、セレブロに促されて一歩、中に足を踏み入れた瞬間、なんとも形容し難い感覚が全身に広がった。体中の細胞が一気にざわついて、そして治まるような不思議な感覚だった。一度バラバラになったものを再び集めて組み直すような、実体を持つ人としては有り得ないことなのだが、そのような映像が頭の中に浮かんだ。
リョウは、不意に襲った気持ちの悪さに目を瞑った。そして、再び瞼を開けた次の瞬間、自分が四方を石壁に囲まれたこじんまりとした室内に立っていることに気が付いた。
部屋の四隅には、発光石がその光を抑えられて穏やかな橙色の光を鈍く放っていた。壁には複雑な紋様のようなものが描かれた緻密なタペストリーが掛かっていた。
そして、その部屋の中央には、小さなテーブルと椅子が並んでおり、そこに一人の老人が腰を下ろしているのが見て取れた。
その老人の顔にリョウは見覚えがあった。綺麗に撫で付けられた豊かな白い髪。峻厳な山の頂を思わせる高い鼻にそれを挟む静かで理知的な灰色の瞳。多くの皺に刻まれたほっそりとした上品な面立ち。
―――――――【デェードゥシュカ】。
思わず漏れたリョウの声に、テーブルの前に座っていた老人は、穏やかに微笑んだ。
「やぁ、いらっしゃい。美しいお嬢さん。またお会いいたしましたな」
そう言って茶目っ気たっぷりに片目を瞑った老人に、
「ご無沙汰いたしております」
リョウも静かに微笑み返していた。
リョウは、そっと傍らに立つセレブロを見上げた。
「セレブロの知り合いって【東の翁】のことだったんだね」
『左様』
セレブロは、事前に話を聞いていたのか、それとも知っていたのかはよく分からないが、したり顔で頷いた。
立ち尽くしていた二人に翁が声を掛けた。
「さぁ、お嬢さん。こちらにお掛けなさい」
その言葉にリョウは擽ったそうに小さく笑った。こちら側で、この格好(要するにズボンを穿いた姿だ)で、女性として扱われたことなど滅多にあることではなかったので、慣れないことに何だか面映ゆかったのだ。
リョウは、勧められた椅子に腰を下ろした。その隣にセレブロも同じように続いた。
「元気にしていたかね?」
「はい」
【プラミィーシュレ】からのこれまでのことを訊かれて、リョウも静かに微笑んだ。
「それは重畳」
翁も小さく口元を緩めると、ゆっくりと息を吐き出した。
「さぁて。何からお話しするとしますかな。お嬢さんを呼んだのは他でもない。この爺めがお話しをしておきたいことがありましてな」
そう言って以前と変わりなく上品に微笑んだ翁に、
「あの、その前にお尋ねしたいのですが、【デェードゥシュカ】とセレブロは、古くからのお知り合いなんですか?」
話しの腰を折るような気がしたが、リョウとしてはまずその辺りのことが気になって仕方がなかったのだ。
「ハハハ。では、まずはそこからお話しするとしましょうかな」
翁は別段、気を悪くする風でもなく鷹揚に頷いた。
言葉は些か乱暴かも知れないがと前置きして。
「私は、簡単に言ってしまえば、そこの【ヴォルグ】の長であるセレブロ殿と似たようなものなのですよ」
そうして、翁は、静かに自分が何者であるかを語り始めた。
それによると。
【東の翁】というのは、とある一人の人間に代々受け継がれている【通称】で、過去と未来、その道筋を【視る】ことができるという特殊能力(要するに【異能】だ)の持ち主ということだった。
【人】ではあるが、限りなく【人】からは離れた存在。単なる【人】というよりもどちらかと言えば、悠久の時を刻むとされている【ヴォルグ】を始めとする獣に近い超然とした存在だということだった。
というのも、【東の翁】は、代々、その魂が生まれ変わるのだという。【東の翁】の人としての寿命は、この国の一般的な人間となんら変わりがないのだが、そこに受け継がれる魂は、遥か太古からの記憶を引き継いでいるのだそうだ。
【東の翁】は、生まれながらに前世の【東の翁】であった人物の魂を引き継ぐ。そして、ある一定の年齢に達した時(その時期は、その時の生によってまちまちであるというが)、これまでの記憶の一部が蘇ってくるのだという。言い換えれば、【東の翁】という存在は、太古からの知識を脈々と受け継ぐための【器】としての役割を担っているということだった。
そういう関係で、セレブロと【東の翁】とは、もう思い出せない位途方もない昔からお互いを知っているのだという。
そして、その異能の能力の一端として【東の翁】には、【人の魂のあり方】が【色】のようにして視えるのだそうだ。
つらつらと淀みなく語られたことを前に、リョウは呆気に取られた。
俄かには信じ難かった。魂が巡る。輪廻を繰り返して。そうして前世の記憶を代々引き継ぐというのだ。その思想自体は、別段、突飛には思えなかったのだが、それは余りに途方もない、目の眩むような情報量の多さだと思った。頭がはち切れないのだろうか。
その辺りのことを不思議に思って尋ねてみれば、
「なに。全てをきっちりと覚えている訳ではないのだよ」
と翁が可笑しそうに笑った横で、
『都合の悪いことなど綺麗さっぱり忘れておる』
セレブロも合いの手を挟むようにからかいの声を上げた。
「ハハハ。人とは所詮、そのようなものだて」
『何をいうか。おぬしは、その【人】という範疇からは、既に逸脱しておろうに』
気の置けない者同士の応酬は、そのまま続いた。リョウはそれを不思議な面持ちで眺めていた。
【東の翁】として覚醒した人物は、その時から【東の翁】を名乗り、前世の記憶を引き継いでこの部屋を訪れるのだという。そして、この場所で引き続き、生涯の業務に携わるのだそうだ。先読みの能力を持つ【東の翁】の存在は、この神殿の中でもある程度の位を持つ上層部の神官たちに秘匿されて受け継がれて来た謂わば公然の秘密のようなものであるらしかった。
「さて、私の話はこれくらいにしておきましょうかな」
そう言って、ある程度のことを語った翁は、己が身の上話を打ち切ったのだった。
リョウは、それをそういうものだと信じることにした。
こちら側に来てから、不思議な事ばかりが起こっているが、そもそも自分がこちら側に転げ落ちてしまったこと自体が最大の不可思議でもあるのだ。それを思えば、翁の話は余り現実味がないには違いなかったが、十分理解が出来そうな気がしていた。
「それでは、お嬢さんの話に移るとしましょうかな」
翁は、小さく微笑んでから、不意に空気を改めると真摯な態度を作った。
リョウもいよいよ本題に入るのだと思い無意識に背筋を伸ばした。
「以前、私がお嬢さんに言った言葉を覚えていますかな?」
静かな問い掛けに、リョウはそっと頷いた。
リョウとしては忘れる訳はなかった。自分がセレブロの【魂響】という存在で、【大いなる揺らぎ】の中にあると形容されたのだ。あの時の不思議な言葉は、ずっとこの心の奥に謎として突き刺さったままだった。
後日、【魂響】がなんたるものかは、ティーダに聞いて理解出来たが、後者の方はいまだ謎のままだ。リョウとしてもずっとその辺りのことを機会があれば、今一度、尋ねてみたいと思っていたのだ。
そのことを確認するように話せば、翁は満足そうに目を細めた。
「私には、人の魂のあり方が色として視えるということは先程、お話ししましたな」
「はい」
翁の真剣な眼差しにリョウも静かに頷いた。
【プラミィーシュレ】で初めてリョウを見かけた時、【東の翁】には、意図せずして、その魂の色と過去と未来の道筋が【視えた】のだという。それが、余りにも普通のものとはかけ離れていた為、最初、翁もなにかの間違いではなかろうかと思ったということだった。それから、王都に戻り、神殿に伝わる古文書の類を見直しながら、己の引き継いでいる古い記憶をずっと辿っていたのだと言った。そして、今回、セレブロがリョウを伴って王都入りをしていることを聞き及び、あの時の感覚を確かめる為に、リョウをこの場所に呼んだのだと打ち明けた。
「今から少しお嬢さんのことを視たいと思うのだが」
―――――――許可を頂けますかな。
改まって口にされた厳かな言葉を前に、リョウはそっと隣に座るセレブロを仰ぎ見た。
リョウは、何かとても重大な事を言われるのだと感じた。この身に置きたことの謎が少しでも解明出来るのなら、それに越したことはないと思っていた。元の場所に戻れるとは思っていなかった。今となっては、戻りたいという気持ちも薄くなっている。それだけ、自分がこちら側の世界に馴染み始めていて、ここでの生活を掛け替えの無いものだと思い始めていたからだ。
過去と未来の道筋が視えるという【東の翁】。輪廻を繰り返し、想像が付かない程の長い時を、この世界に身を置いているのだという【東の翁】。この老人に、自分の存在はどのように【視えて】いるのだろうか。それは、興味惹かれることではあったが、と同時に底知れぬ恐怖を感じるものでもあった。
セレブロは、静かにリョウの方を見下ろしていた。虹色に煌めく光彩は、変わらぬ温かさと優しさを滲ませていた。セレブロが、そっと頷き、無意識の内に膝の上で固く握り締めていたリョウの拳に己が手を静かに乗せた。
セレブロは、言葉を発しなかった。だが、元々、この場所に自分を呼んだのもそうすることが正しいと思ってのことなのだろうと思った。
大丈夫だ。自分が付いているから。そんなことを言われた気がして、リョウはそっと瞼を閉じると、セレブロの手を強く握り締めた。
そして、小さく息を吐き出してから、目を開くと、静かに目の前に坐する老人を見つめた。
「お願いします」
「私が視るのは、真実の一部。全てが明らかになる訳ではない。ですが、隠し事は致しません。たとえ、それがお嬢さんにとって過酷なものであったとしても、ありのままをお伝えすることになりますが」
―――――――それでもよろしいかな。
念を押されるように再度、意思を確認されて、
「はい」
リョウも覚悟を決めた。
「それが真実ならば、……受け入れたいと思います」
「よかろう」
リョウの顔に確固たる思いを見た翁は、静かに瞑目をした。
「では、始めますよ」
その言葉を合図に、【東の翁】は己が手をテーブルの上に開き、リョウの目の前で翳した。
「……やはり同じか」
暫くして、瞑目していた【東の翁】がゆっくりと長い息を吐き出した。
そして、鑑定の後、【東の翁】が語ったことは、リョウにとっては全く思いも寄らないことだった。
思考が停止したように頭が上手く働かない。文字として羅列される言葉が、右から左へと素通りするようだった。
―――――――大いなる揺らぎの中にある。
それはつまり、リョウの【魂】が、この世界で安定をしていないことを意味しているのだと翁は語った。不安定な【魂】をセレブロが加護を与えることで、半ば強制的にこちら側の世界に繋ぎ留めている。それをしなければ、恐らく、リョウの存在は、やがてこちら側から消えていたことだろう。
存在が消える。それは一体、どういうことを意味するのか。【死】というのとは違う意味合いにリョウは最初、何を言われたのか良く理解することが出来なかった。
リョウの脳裏には、ガルーシャの最後の情景が浮かんでいた。あの花畑での情景だ。吹きすさぶ風。舞い上がる数多もの花弁と共にガルーシャは、文字通り消えたのだ。
存在の消失。それを聞いてまず思い浮かべたのは、その時のことだった。
「あの………では、…今のワタシは…………」
リョウは茫然として自分の体を見下ろした。自分は、ちゃんとこの世界に存在をしている筈だ。触覚もあるし、痛覚もある。肉体は肉体として、以前と変わらない姿のままある。
それなのに。
「お嬢さんの【魂】は、元々、この世界の理からは外れておりますな」
その言葉にリョウは静かに頷いた。
それは、言われなくとも重々承知していることだった。自分がこの場所では異質な存在、異分子であることは自分が一番理解していた。
「では、何故、ワタシはこちら側に来てしまったのでしょう?……」
それは、この場所で生活をしてゆく上で、もう疑問に持つまいと封印をしたはずの問いだった。
リョウの掠れた声を前に、【東の翁】は瞑目すると、緩く頭を振った。
「それは残念ながら、私には分かりません」
「これまでにそのような例を聞いたことも?」
一縷の望みを託すようにリョウは口にしていた。長い年月を人の中で、人と交わりながら過ごしてきた翁だ。そのような事例がもしかしたら、今までにもあったのではないかと。
だが、返ってきた答えは非情なものだった。
「私も、そこにいるセレブロ殿も、この世界に生まれ落ちてより人には想像が付かぬほどの長い時を過ごして来ましたが、お嬢さんのように界を跨ぐという話は、いまだかつて耳にしたことがないのですよ」
「………そうですか」
この世界はまだまだ不可思議で、未知の領域に溢れている。【人】から見れば特異とも言える自分たちのような存在も、この世界そのものから見れば、実に瑣末な存在に過ぎないのだ。神々の気紛れかもしれない。そう言って翁は小さく微笑んだ。
「お嬢さんがこちら側に来たのは………」
「昨年の春です」
「ふむ」
それから翁は考えを巡らすように小首を傾げると次のような事を語った。
この世界では、数百年に一度の割合で大きな力の交換が起こる。その間、この世界の創世期より存在すると目されている太古の森は、活性化されるのだという。森が大量に大地から多くの力を吸い上げ、それを元に木々が一斉に成長をする。それをこちらの世界では、【芽吹きの時】と呼んでいるとのことだった。二年前の春は、奇しくも、ちょうどその時期に当たっていたとのことだった。
もしかしたら、リョウの【魂】は、その時、ちょうど何らかの原因で元々いた場所から切り離されて、漂っていた所をこちら側の【芽吹きの時】に巻き込まれる形で引っ張られたのかもしれない。あくまでも想像でしかないが、そういうことも考えられなくもないと翁は言った。
リョウは、力なく頭を振った。こちら側に来た前後のことは、正直な所、よく覚えていなかった。気が付いたら、あの森の中に倒れていたのだ。
どこか重苦しい空気が流れていた。
だが、それを敢えて振り切るように、
「そして、ここからが重要なのですが」
そう言って【東の翁】は、真っ直ぐにリョウを見つめた。
翁は、鑑定結果の続きを厳かに告げ始めた。
リョウの【魂】は、今も、揺らぎの中にある。それ故に、翁からは、リョウの過去が視えない。だが、同時に未来も視えないのだと言った。全てが漆黒の如く、闇の中に包まれている。こちら側で生活をしているのならば、こちらに【魂】が完全に移ってきているのならば、未来は視えてもいい筈だった。それが視えない。そのことが意味することは、考えられることとしては一つ。リョウの【魂】は、いまだこの世界に止まることなく浮遊している状態で、このままでは、いずれ消えてしまうかもしれないとのことだった。
リョウは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。頭が真っ白になった。
―――――――このままでは、自分の存在が消える。
こちら側に転げ落ちてから、必死に言葉を覚えて生活習慣も学んだ。そうやって一から我武者羅になって生きてきたというのに。自分はいまだ、根本的な所で【この場所】から弾かれた存在である。そう言われた気がした。どんなにかあがいてもこの世界に受け入れられていない。それは、なんと表現していいのか分からない程の絶望的な宣告を受けた気分だった。
「ワタシは、……【ここ】には、受け入れてもらえない…のですか……?」
やっとのことで絞り出した声は、酷く掠れていた。
突き付けられたのは、直視するには、余りにも厳しい現実だった。
『それは少し語弊があろう』
それまで傍らでじっと沈黙を守ってきたセレブロが、徐に口を開いた。
『リョウ。こやつが言うは、そなたの【魂】がまだこちらでは不完全ということなのだ』
慰めるようにセレブロが淡々と口にする。だが、それは、リョウにとっては、同じことのように聞こえた。
「じゃぁ、この魂を完全にこちら側に移す?…っていうこと? そうするには、どうしたらいいの?」
リョウは、思わず隣に座るセレブロの袖に掴みかかっていた。
心臓が煩い位に鼓動を速めていた。体中の血液が沸騰したように耳の奥がざわざわとする。そして、一気に血の気が引いて行くのが分かった。
「それは………」
『我にも分からぬ。我が精を注ぐことでそなたは半分、こちら側に近づいた』
言い換えれば、それは、セレブロの力を持ってしても、リョウをこちら側に繋ぎ留めておくのがやっとということだった。
リョウは、縋るように【東の翁】を見た。
折角、ここまで来たというのに自分はやがて【ここ】から消えてしまうのか。折角、この場所に馴染んで、それなりに【ここ】で残りの人生を生きて行く心構えが出来たと思ったのに。そんなことがあるのだろうか。あんまりな仕打ちではないか。
―――――――【ゴースパジ】!
もし、この世界に、この願いを叶えてくれる神がいるのだとしたら。
ぽっかりと空いたような喪失感にリョウは、ただただ茫然とした。足下をすくわれるというのは、このことだろう。
余りの衝撃に言葉を失ったリョウの対面で翁は静かに言葉を継いだ。
「今、私に言えることは、お嬢さんの時が止まったままだということなのだよ」
その証拠に、お嬢さんには、【メシャーチィニィイ】が訪れていないのではないか。
その言葉にリョウは愕然とした。
指摘されてみればそうだ。こちら側に来て以来、女としての生理的機能である月経が止まっていた。それを不可解に思いながらも、忙しさにかまけてここまで来てしまったのだ。自分の体の事について相談をするような相手もいなかった。ガルーシャが生きていれば、そのことを聞けたのかも知れないが、そのガルーシャも今はいない。
自分の体が、二年前から時を止めたままである。それは恐らく、【点】として辛うじて【ここ】に片足を突っ込んで、ゆらゆらと揺れているような状態なのだ。
リョウ自身は、女として月経が訪れないことに、これまでのことが余りにも大変であったからだろうとどこか軽く考えていた所もあった。ストレスが溜まったり、環境が変わったりするとその周期がかなりずれこんだりするからだ。
ユルスナールと身体を重ねるようになって、女として愛されることを再び知るようになって、いずれ元に戻るのではないかとどこか楽観的に考えていた。それがどうだ。こちらでは、その機能がちゃんと働いていなかったのだ。妊娠のことをあれだけ心配していたというのに。何と言うことだろう。それ以前の問題だったのだ。
リョウは不意に笑いたい気分に陥った。とんだ空回りをしたものだと。
「それでは、ワタシは、このままでは、やがてこちらから消滅してしまうのかも知れないのですね?」
自分が正しく理解をしたかを確認するために口にしたのは、余りにも残酷な言葉だった。
「具体的なことは私にも分からない。それが一年先か十年先か、それとも三日後か。私に視えるのは、今、お嬢さんが置かれた状況でしかないのです」
「ということは、どうすればいいのかも………?」
その問い掛けに【東の翁】は緩く頭を振った。
「私の方でも引き続き調べてみるとしましょう。神殿に残る古文書の中には、その辺りのことを書いた記述が見つかるかもしれない」
それから翁は不意にリョウの方をみると力なく笑った。
「済まないね」
情けなく白い眉毛を下げた翁に対して、リョウは小さく微笑んだ。
「いいえ」
どうしてそこで【デェードゥシュカ】が謝るのだろう。
リョウの中では、翁を責めるような気持ちは、全く生まれていなかった。寧ろ、話してもらえたことを有り難いと思った。何も知らずに、突然、この世界から消えてしまうよりは、自分の今の状況を知ることが出来たのだ。慰めにもならないが、今となっては、そう思うより他なかった。
『リョウ』
セレブロにそっと肩を抱かれて、リョウはその胸元に顔を埋めると目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐き出した。
「ありがとう。セレブロ」
『なんだ?』
「ワタシをこちらに繋ぎ留めてくれて」
セレブロは、これまで自分がそのような中途半端な状況にあることを一度も口にしなかった。きっと心配をしながらも見守っていてくれたのだ。そして、自分がこの状況をある程度、理解できるようになるまで待っていてくれた。ここに案内してくれたのもこのことを知らせる為であったのだろう。
どこまでも温かくて優しい【ヴォルグ】の長。
『案ずるな、リョウ。そこまで気落ちすることもない。こやつが血眼になって調べる。我も出来る限りのことをする故に。我はそなたと繋がっておる。そなたに何らかの変化が現れれば、即ち、我の知るところとなる』
「うん。そうだね」
セレブロなりの最大限の心遣いにリョウは感謝の気持ちで一杯になった。
正直、このようなことになるとは思ってもみないことだった。まさに青天の霹靂だ。
この世界に来て、もうすぐ二年になる。
ガルーシャに拾われてセレブロに出会い、ガルーシャを失ってからは、ユルスナールを始めとする北の砦の兵士たちに出会った。人生というのは、本当に山あり谷ありで、幸せと不幸せは一本の糸のように常に交互に縒り合わさっている。そして、今、順調かに思われた時、これまでの幸せを嘲笑うかのように衝撃の事実を知らされるに至った。
リョウは、不意にユルスナールの顔を思い浮かべた。この事実をユルスナールに伝えるべきか否か、心が揺れた。だが、結論として、正直に話す勇気はなかった。
この日、リョウは、初めて、叶うことならば残りの人生をこの国で、いや、もっと突き詰めるならば、あの男の傍で、終えたいと思ったのだった。
不思議と涙は出なかった。もしかしたら、まだ実感が湧かないからかもしれない。
それもそうだろう。病を得て、余命宣告をされたのならともかく、いずれこの存在がここから消滅するかもしれないと言われてもピンとこなかった。それは、余りにも漠然としたことだからだ。後で、ずっしりとこの重みが現実に圧し掛かってくるのかも知れないが、具体的な時間の限度が、現時点では提示された訳ではなかった。
リョウは気持ちを入れ替えるように顔を上げた。些か強引な手段ではあったが、敢えて浮上させるように自分を鼓舞した。下を見たら限が無い。悩み始めたら限が無いのだ。カラ元気でもないよりはマシだ。
未来のことは分からない。もしかしたら、こちら側で【魂】が安定して、問題なく済むかもしれないし。その逆に、この状態が続き、やがてここから消えてしまうかもしれない。それが、元の場所に戻ることを意味するのか、それとも【死】を意味するのか、それすらも分からなかった。
それならば、これまで通り、やるべきことをやるしかないだろう。いつ訪れるかも分からぬものに怯えていては、何事も始まらない。【術師】になって、この国に認められたい。その目標は、まだ果たせていなかった。
どれ程の時間が残されているのかも分からない。それでも、最後にもう一度、あがいてみようと思った。
願わくば、残された時間が出来るだけ長くなりますように。そう祈るしかないだろう。
この日、リョウは、この世界を司る神々に心から祈りを捧げたいと思った。
そして、この日の出来事は、今後のリョウの人生の選択に大いに影響を及ぼすこととなった。この日を境にリョウの深層心理の中で、気が付かない程の変化をもたらすことになったのだった。
リョウは、【東の翁】の部屋からの帰り道、神殿の祭壇で一人、静かに祈りを捧げた。セレブロは、何も言わずにリョウの傍に寄り添い、好きにさせてくれた。
その姿をじっと遠くから見つめていた人物がいたことには気が付かなかった。
この後の夜の出来事を「ムーンライトノベルズ」さんの方で連載中のMessenger 短編集Insomniaに載せています。もしよろしければそちらもどうぞ。