幻の亡霊
同じ日の昼下がり、一人の男が人気のない坂道を上っていた。長剣を腰にぶら下げた大柄な男だ。
急いている訳ではない。が、男の長靴の足が繰り出す一歩は大きく、のんびりとした歩調ながらも男の背中は見る見るうちに小さくなっていった。
男の手には小さな花束が握られていた。大柄な男には不釣り合いな程の可憐な小さな花が集められた小振りの花束だ。
冷たい真冬の風が、吹きつける度に男の柔らかな茶色の髪を揺らし、荒削りな顔立ちを顕わにした。その瞳の色はよく晴れて澄んだ、だが、少し明度の落ちた冬の空の色と同じ青灰色をしていた。
男が目指す道の向こうには、白亜の建物があった。荘厳な太い柱が並ぶ四つの角には、特徴的な丸屋根が乗っていた。
あれは、この街の中でも一番古い建物と目されている神殿だった。どれくらい古いものなのかは、実の所よく分かっていない。それでも、ここに街が作られる前からあの場所に存在していたというのは、この街に住む者ならば誰もが知る事実だった。
男が目指す場所は、その白亜の城塞と謳われた神殿ではなかった。
緩やかな上り坂を登っていた男の姿は、やがて二手に分かれる道の片方に逸れた。その追分は、注意していないとうっかり通り過ぎてしまいそうなくらいのひっそりとした小道だった。そこは、神殿の裏手側にあるなだらかな丘陵へと繋がっていた。
細い道の終着点で、男は徐に立ち止まった。
男の眼前には、低く刈り取られた草の中に点々と規則だって並ぶ沢山の白い石が、群れを成すように広がっていた。
遮るものの無いなだらかな斜面は、風の通り道だ。舐めるように地面を風が駆け上がり、辿りついた先、男の足元でその長い外套の裾を一斉に翻した。
暫く、その場で佇んでいた男が、再び歩き出した。
丸い石盤の間を縫うように歩く男の足には、迷いが無かった。それもそうだ。男はもうこの場所に幾度となく足を運んでいた。数え切れないほどに。目を瞑ったままでも辿りつけるくらいにその道程は身体に染みついていた。
数多もの石盤が並ぶ中、とある箇所で男は足を止めた。静かに足元の丸い白い石を見つめる。丸い平たい円盤の形をした石の表面には、そこに眠る者の名前が古代文字で刻まれていた。それは、この国の術師たちが印封に使う際に使うものと同じ、飾り紋様のような複雑な文字だった。
「達者にしてたか、エルメリア」
男は手にしていた小さな花束をそっと丸い墓石の前にたむけると、その場所に片膝を着いた。ごつごつとした剣ダコのある節くれ立った指が、そこにある名前を刻む複雑な紋様をいとおしむようにそっとなぞった。
ーねぇ、ブコバル。もう十分よ。
年老いた婦人の穏やかな声音が耳の奥で鳴っていた。
あの時から、既に十年の月日が流れていた。
―あなたも、私たちも、十分苦しんだわ。あなたがそこで足踏みする必要はもうないのよ。いつまでも過去に捕らわれていては駄目。あの子の為にも前を向いて頂戴。
同じ傷を抱えた老夫婦の優しい諫言。気丈な婦人が見せた思いやりだ。
やがて訪れる未来に何の疑念も挟む事無く、ただただ毎日が眩しいくらいに輝いていた日々。
そして、それが一瞬にして崩れ去ったあの日。
あの日も今日と同じような冬晴れの日で。くすんだ蒼穹の雲を薙ぎ払うかのように気持ちの良い風が吹いていた。
「なぁ、お前はどう思う?」
―許してくれるのか。俺が、再び、止めていた時間を動かすことになっても。
『馬鹿ねぇ。そんなの決まってるじゃない!』
男の静かな問い掛けに勝気でお転婆だった少女の鈴のような声音が、風に乗って届いた気がした。
男はそっと目を閉じた。
後悔などしていない。お互いの為にも、あの時の自分にはああするしかなかったのだ。
それでも。その事が、あの少女の死の原因の一端を担ったことに、心のどこかでずっと負い目を感じ続けてきたのも事実だった。
あの日以来、ブコバルは過去の亡霊に取り憑かれていた。幼い頃の輝かしい眩しい程の幻影にがんじがらめに捕らわれているのだ。
本当にああするしか方法が無かったのか。それは今でもよく分からなかった。幼い子供の胸算用など高が知れているし、この世の中には、気持ちだけではどうにもならないことがままあり、それを受け入れるのも人生だということに気が付いたのは、あれから何年も先、長じてからのことだった。
あれは昔から気の強い性質だった。
ブコバルは、どこか遠い目をして、なだらかな丘陵を見渡した。大きな雲が、一筋の影となって視界の先を走るように通り過ぎて行った。
一度決めたことには頑として引かない。その意志の強さと頑固さが徒となった。
そろそろ下手な罪滅ぼしなど止めた方がいいのか。毎年、ここに来る度に同じことを思い、そして、同じことを繰り返して来た。
答えは未だ出ていない。
ブコバルは緩く頭を振ると、ゆっくりと空を仰いだ。
降り注ぐ日差しは、男の逡巡を嘲笑うかのように、酷く優しく、そして温かかった。
***
午前中の講義を受けた後、食堂での昼食を挟んで。
リョウは、養成所の敷地を出ると進路を東に取っていた。今、目指しているのは、遠く高台の上に霞んで見える白亜の城塞の如き堅牢な建物、この街の中でも古くからあるという東の神殿だった。
神殿は、高台の上にあった。そこはこの街全体を一望にできる場所であるという。そこでセレブロと待ち合わせをしていた。
昨晩、不意に養成所の寮の自室にセレブロがやってきて、共に神殿に行こうと誘われたのだ。なにやら、神殿にはセレブロの知り合いがいて、リョウに引き合わせたいということだった。リョウの方でもプラミィーシュレでの一件以来、東の翁と名乗った老人のことが気に掛かっていたので、その申し出をちょうど良いと思った。
神殿に向かって緩やかな坂道を登っていると、前方の木陰から不意に一人の少女が現れた。手足の長い可憐な少女だった。明るい赤みがかった巻いた髪を後ろで一つに束ねて、薄い灰色の目をしていた。白い肌に上気した薔薇色の頬が可愛らしい印象を与えていた。
その少女は、リョウの方を見るとにっこりと笑って小さく手を招くように振った。
なんだろうかと思う間もなく少女が歩き出す。途中、小さく振り返っては、ちゃんとリョウが付いてきているかを確かめているようだった。
「あ、ちょっと。キミ!」
声を掛けてみても何やら嬉しそうに微笑むばかりだ。
手を招くように揺らしていた少女が、不意に道を脇に逸れた。リョウは内心訝しく思いながらも誘われるままにその後を付いて行くことにした。
リョウは小走りに駆けた。少女は軽やかにステップを踏む。傍に行こうと思い足を進めるも何故か少女との距離は縮まらなかった。
少女が歩く度に淡いクリーム色のたっぷりとしたスカートの裾が翻った。細くくびれた腰の部分にも大きな共布のリボンが揺れている。歳の頃は、14、5位だろうか。全体的に線の細い、まだ女性としては発達途中の少女だという印象を受けた。
縮まらない距離を不思議に思いながら見失わないように集中して少女の後を付いて行くと、やがて細い小道を抜けて開けた場所に出た。
そこにはなだらかな丘陵が広がっていた。視界の右の方に白い建物が見える。あれが、目指していた神殿だろう。ちょうどその裏手に出たようだった。
その場所は、リョウにとっては初めて見る不思議な光景が広がっていた。
なだらかな背丈の低い芝生だろうか、草で覆われた地面に丸い白い円盤のような石が等間隔に広がっていた。囲碁の白い碁石を盤の上にマスの部分に沿って全部並べたような、そんな印象を受けた。
それをぼんやりと見渡してから、不意にリョウは息を飲んだ。
これに似たような景色を自分は知っている。そう思った。
辺りはとても静かだった。厳かな静寂が満ちているように思えた。聞こえてくるのは、大地を舐めるように走る風の音ばかり。
暫くして、「ああ」と合点した。ここは【墓地】なのだと。
記憶の中にある情景と目の前の景色が重なった。
それから足下にある石の一つを見下ろしてみた。そこには、恐らくこの場所に眠っているであろう人物の名前が、古代エルドシア語で刻まれていた。
覚えたばかりの文字を辿ってみる。
アリョーヒン、享年47。×××年、青の第2月15日。
その表示を見て、この場所が墓地であることを確信した。
―ねぇ、どうしたの? 早く!
不意に朗らかな高い声音が聞こえた気がしてリョウは顔を上げた。
先程の少女の声だろうか。
そう思いぐるりと辺りを見渡して、とある一点でリョウの視線が止まった。
遥か向こう、丘陵の窪地を越えて少し左方向に上がった所に小さく人影が見えた。
よく目を凝らしてみる。それは、黒っぽい外套を羽織った男の姿のように見えた。
その男は一人、ぽつんと立っていた。微動だにしない。まるでその場所だけ、時が止まっているかのようだった。
だが、吹きすさぶ風が、男の外套の裾と髪を揺らす。そうやって、止まっているのは時ではなく、その男そのものであることを知らしめていた。
こちらに背を向けて立っている為、男の顔は分からなかった。
不意に男が、空を仰ぐように上を向いた。
―ビーカ!!!
高らかな少女の声が響いたかと思うと吹きすさぶ風に掻き消えた。それに合わせるかのように、こちらに背を向けていた男が、ゆっくりと振り返った。
男の顔が露わになる。柔らかな茶色の髪に縁取られた男らしい顔立ち。遠く離れている為、その造作はよく分からなかったのだが、なぜか男の瞳の色は、このくすんだ冬晴れの蒼穹を写したような青灰色の色だとリョウは思った。
男の目が大きく見開かれた。口が薄く開き、何かを紡ぐ。
「………ビーカ………」
リョウの口は、なぜかその言葉を吐き出していた。
無意識だった。頭の中に反響した単語を復唱していた。
こちらの言葉が届いたのかは分からない。いや、これだけ距離が離れていて、おまけに風もあれば普通は無理な話だろう。
それなのに。
男の顔が痛みを堪えるようにくしゃりと歪んだ。そして、徐に顔を背けると片手で顔を覆った。
リョウは先程の声の主を探して、ゆっくりと後方を振り返ったが、自分をここまで案内してきたであろう少女の姿は、どこにも見当たらなかった。
リョウは、なぜかあの男を知っていると思った。
―ブコバル。
その瞬間、頭の中に浮かんだ人の名前に自分で驚いた。
そう。あれは、ブコバルだ。
リョウは、ハッと我に返ると足を一歩前に踏み出していた。
そして、いまだ立ち尽くす男の元に歩み寄った。その瞬間、少女の鈴のような笑い声が耳の奥で鳴った気がした。
近づいて来た人物の姿形が露わになって、ブコバルは不意に金縛りから解けたように身体を震わせた。
「やっぱり、ブコバルだ」
近づくにつれて黒っぽい外套を羽織った男の姿は、リョウが良く知る人物の形になった。
それは向こうも同じだったようで。
「リョウ、なんだ、お前。……こんな所で」
近づいて来た人物が知り合いだと分かった為か、ブコバルは気の抜けたような声を出していた。
それにそっと微笑んだ。
「あそこに行く途中だったんです」
そう言って後方を振り返ったリョウは、右手の高台の上に聳え立つ白亜の建物を指差した。
「神殿にか?」
「はい」
「そうか」
「でも、こんな所にこんな場所があるなんて知りませんでした」
リョウは小さく微笑むと周囲を見渡してから、感じ入るように息を吐いた。
所々、丸い石盤の上には、添えられた花束が点々と置かれているのが見受けられた。この場所に花を手向けに訪れる人があるのだろう。
リョウは、ふとブコバルの立つその足元を見遣った。そこには、まだ真新しい小振りな花束が、白い円盤の上にそっと置かれていた。
そこに刻まれた名前を目で追った。
―エルメリア。×××年、黒の第一の月27日。享年17歳。
黒の第一の月27日。奇しくも今日が命日だった。
リョウの視線の先を辿ったブコバルが、小さく身じろいだ
「お墓参りにいらしてたんですね」
「ああ」
「エルメリア……さん。若くしてお亡くなりになったんですね」
「ああ」
リョウは、ふと自分がこのくらいの歳には、何をしていただろうかと思った。
毎日、学校に通って、それなりに楽しくて。小さな悩み事はあったけれども、それも一晩経てば忘れてしまうくらいのささやかなもので。時の経つのも忘れて友人たちとお喋りに興じていた。その後の将来については全く疑いを持たずに、未来はそれなりに輝いて見えた。少なくともそこで自分の生涯が強制終了するとは露も思っていなかった筈だった。
そんな輝かしい未来を残して、そこに眠る少女は永久に旅立った。後に残されたご両親の心痛は、いかばかりであっただろうか。
そして、恐らくこの男の心も。
リョウは顔を上げると命日に墓参りに訪れた男の方を見た。
「【ビーカ】というのは、ブコバルの小さい頃の愛称かなにかですか?」
その言葉にブコバルは目を見開いた。
だが、直ぐにそこで昔を懐かしむような顔をして目を細めた。
「ガキのころの話だけどな」
そして、不意にリョウの方を振り返った。
「それにしてもよくこんな所が分かったな。なんだ、おい。迷子にでもなったのか?」
人を小馬鹿にしたからかうような声音ーブコバル流の御挨拶だーに、リョウは軽く首を振ると、ここに至る契機となったとある少女との不思議な邂逅を語った。
「神殿に向かう途中で綺麗な女の子に会ったんです。歳の頃は、そうですね、14、5くらいでしょうか。明るい少し赤み掛かった茶色の巻き髪を束ねた可愛らしい感じの女の子です。溌剌としたお転婆そうな感じの」
その子が手を振って呼んでいるようだったので付いて来たのだが、なぜかここに来てその姿を見失ってしまったのだ。
事の次第を簡単に告げれば、
「なん、だって………?」
ブコバルは固まって虚を突かれたような顔をすると、次の瞬間、いきなりリョウの肩に掴みかかった。
「おい、リョウ。その子はどんな格好をしていた? どんな奴だった? 瞳の色は?」
掴んだ肩を揺さぶって畳みかけるように問われて、リョウは突然のブコバルの剣幕に驚きを隠せなかった。面食らうように青灰色の瞳を見上げる。
だが、対するブコバルの目はえらく真剣でなにやら切羽詰まったような感じだったので、言われるままに思いつく限りのことを挙げていった。
大きな共布のリボンを着けた淡いクリーム色のワンピースを来た少女であったこと。たっぷりとした生地をふんだんに使ったスカートからは白いレースが覗いていた。全体的に華奢な感じのほっそりとした少女だった。瞳の色は、確か薄い灰色だった。
リョウが自分をこの場所に案内してきた少女の姿形を覚えている限りで挙げ連ねると、ブコバルは不意に掴んでいた肩から手を放し、それから緩慢な動作で、片手で柔らかな髪を掻き上げた。
「まさか………」
そんなはずは。そんなことがあるのかというような信じられない声を上げる。
リョウは、徐に白くて丸い墓石の前に跪くと、そこに刻まれている装飾文字に触れた。
ブコバルの只ならぬ反応を見る限り、あの少女は、ここに眠るというエルメリアであったのだろうか。あれは、あの少女の魂が現れたものであったのだろうか。こちらにも霊魂のようなものが存在するのだろうか。それもとこの場所に残っている誰かの記憶に触れてしまったのだろうか。ブコバルの記憶なのだろうか。そんなことがぐるぐると頭の中を巡った。
リョウは、以前ガルーシャの封書から立ち上るようにして現れた青白い光の粒子が集った幻影を思い出していた。あの時ユルスナールは、それが自分の残像思念だろうと告げたのだ。
そこで初めて、この世界では、人の想いが時として映像の形で残ることを知った。リョウの胸元にぶら下がる瑠璃色の石の付いたペンダントには、ユルスナールの想いが図らずも付着していて、スフミ村のリューバの所で具現化したものを目の当たりにしたことも記憶の中にまざまざと残っていた。
それらの経験談から自分をここに案内したものは、ひょっとしたらここに残る誰かの記憶ではなかろうかと思ったのだ。
とても強い想いだ。それを確かめてみようと思った。
―【パイェヴリャーイ】
呪いの言葉を唱えながら、名前の刻まれた古代文字の部分を指でなぞると淡い光が現れた。それは初めて見る赤みを帯びた光だった。
温かい何かが流れ込んでくるのをリョウは指先に感じていた。光は徐々に大きくなってくる。そして迸る奔流のようになってきた。
熱い。と同時に息の詰まるような強い圧迫感が押し寄せて来た。
リョウは余りのことに目を瞑った。それは、今までに感じたことのないような強烈な感覚だった。
「―――――ッツ!」
思わず堪えるように漏れた声に、
「リョウ?」
ブコバルから心配そうな声が掛かった。
触れている指先を石盤から放そうにも身体が動かなかった。固定されたように刻まれた文字の部分から離れない。
何か途方もない大きなものが入ってくる。侵略される。いや、飲み込まれるような感覚がした。その衝撃を歯を食いしばり精神を集中させることで耐えた。
だが、最終的には光の奔流の方が上回り、耐えることが出来なかったようだ。そこでリョウの自我は、一時強制的に外部から遮断され、外から入ってきた何者かに取って替わった。
その瞬間、傍にいるブコバルは、リョウの空気が変わったのを肌で感じ取った。
「リョウ、大丈夫か?」
先程の淡い赤みを帯びた光はなんだったのだろうか。
石盤の前で片膝を着いたまま、急に動かなくなったリョウの肩にそっと手を置いて覗き込むようにしてその顔を見た。
ブコバルは、徐に顔を上げたリョウを見てぎょっとした。
身にまとう空気が、先程までのリョウのものとは明らかに違っていた。姿形は変わらないのだが、それを包む空気が違っている。それは野性的勘の発達したブコバルならではの感じ方だった。
「ええ。大丈夫よ?」
そう言ってリョウは、静かに立ち上がった。
その瞬間、ブコバルは途方もない違和感を覚えた。全身に鳥肌が立つような気持ち悪さだった。
顔の造りや外見はリョウなのだが、その表情は、ブコバルの知るものとは違った。リョウはこんな風に自分を見ない。リョウは決してこんな顔をしない。
ここにいるのは一体誰だ?
「リョウ………じゃねぇな?」
ブコバルは目を眇めると声を低くした。
「誰だ?」
一体、何が起きたというのだ。リョウがエルメリアの石盤に触れた瞬間、その体は淡い光に包まれたように思った。赤みを帯びた光だ。
警戒心丸出しのブコバルを前にリョウの姿を取った何者かは、少し不服そうに口を尖らせた後、からりと笑った。
「やぁねぇ、ビーカ。あたしを忘れちゃったの?」
その口調。その言葉使い。
ブコバルは、口を呆けたように小さく開けたまま、目を見開いた。余りの衝撃に思考が一時停止する。
―まさか。
「酷いじゃない!」
「まさか……」
そんなことがあるのか。
「エルメリア…………か?」
「ええ」
リョウの姿を取っている人物は、エルメリアであることを認めると嬉しそうに微笑み、その華奢な腕を伸ばしてブコバルの男らしい首に抱きついた。
「ビーカ、会いたかったわ。ずっと」
夢を見ているのだろうか。ブコバルは信じられない気持ちで一杯だった。
エルメリアは、十年前に死んだのだ。それも自ら命を断つという形で。
膨れ上がった借金で身動きの取れなくなった実家の為に、借金のカタに裕福な地方貴族の元に嫁いだ。勝気でお転婆な所があったが、元々病弱な性質で、同じくらいの年齢の子供たちと比べても小柄な方だった。そんな少女は、嫁いだ先で早々に短剣で喉を突いたのだと言う。
その昔、嫁ぎ先が決まった直後辺りの頃だ、酷く思いつめた顔をしてエルメリアがブコバルを訪ねて来たことがあった。
あの日のことは、今でもよく覚えている。あの時のエルメリアの表情は、今でも鮮やかに目裏に焼き付いていた。
突然やってきたエルメリアは、ブコバルに自分を抱いてくれと迫ったのだ。
当時、ブコバルは、エルメリアのことを憎からず思っていたには違いはなかったが、余りにも突拍子の無いことに度肝を抜かれたのをよく覚えている。
エルメリアが近々嫁ぐことが決まったということは、ブコバルも知っていた。それはエルメリアにとっては意に染まぬ婚姻であったのだろうが、往々にして親が相手を選ぶ貴族の婚姻などそのようなもので、当時、まだ子供であったエルメリアもブコバルもどうすることも出来なった。
エルメリアは、どうせ知らぬ相手に嫁ぐなら、その前に好いた男と想いを遂げたいと思ったのだろうが、ブコバルはそれを受け入れることはしなかった。
それもそうだろう。嫁いだ先、初夜を迎えた時点で処女である筈の花嫁が、男を知っていたなどということになれば、ただ事では済まされないからだ。恥をかかされたと憤った花婿側にその場で手打ちにされることだってあるだろう。そして、事は当人だけでなく両者の家を巻き込んでの騒動になりかねなかった。純潔を奪った相手である男の方の家をも巻き込む形にだってなるだろう。幾ら年若い少年といえどもブコバルもその辺りの事情はよく分かっていた。だから最後の一線を踏みとどまったのだ。
無茶なことをするなと宥めすかしてようやく相手を思い留まらせて。エルメリアはその夜、泣きそうな顔をしながらも強くブコバルを睨みつけて帰っていった。
そして、エルメリアはとある地方貴族の元に嫁いだ。
エルメリアが、自ら命を断ったと聞いたのは、それから半月程経ってのことだった。
公には、病死ということで届けられた。それは、外聞を気にした嫁ぎ先の配慮であったようだ。
訃報を聞いた人々は、若くして亡くなった花嫁のことを悼み、嘆き悲しんだ。元々、病弱であったということもその信憑性を裏付ける形になった。
エルメリアの遺体は秘密裏に実家に返され、そこでひっそりと親族だけの立ち会いの下、葬儀が行われたと聞いた。
エルメリアの喉には、無残にも切り裂かれた跡があったという。自らの喉を突いたということがそれから知れた。それによる失血死が死因だった。
あの時、棺の中に静かに横たわる幼馴染の少女の姿を遠目に見て、ブコバルは唐突に気が付いたのだ。失った少女のことを好きだったという己の気持ちに。
あの日以来、ブコバルの目裏には、思いつめた顔をしたエルメリアの表情が頭から焼き付いて離れなかった。
あの日以来、そのことがブコバルの中に暗い影を落としていた。明るい少女の幻覚が幻影のように立ち上り、目の前にちらついて止まなかった。
それ以来、ブコバルは、女性と遊びはしても心から愛する人を作ってこなかった。女好きというのは、二度と手に入れることの出来ない存在によってぽっかりと空いた空虚さを埋める為の誤魔化しなのだ。
それを本人が自覚しているかどうかは分からないが。
今、ブコバルの目の前にいるのはリョウだが、そこに薄らとかつてのエルメリアの姿が重なった。
背丈も体つきもちょうど同じくらいだろうか。
だが、あの日から、既に十年の歳月が流れているのだ。
今更、なんだというのだろうか。
ブコバルは途方に暮れたような顔をしながら、首に齧りついていた華奢な腕を外した。
「どういうことだ、エルメリア? リョウに何をした?」
今、気懸りなのはその部分だった。
「少し身体を借りただけよ」
リョウの姿をしたエルメリアは可笑しそうにクスクスと笑った。記憶の中にあるのと変わらない屈託のない笑顔で。
「この人は凄いわ。あたしと波長が合って吸い込まれたのよ。だって、この人は空っぽなんですもの。温かで、とても気持ちが良くて。この人ならあたしが見える。あたしの想いを分かってくれるって思ったの」
ブコバルは、エルメリアが何の話をしているのか理解できなかったが、リョウの術師としての素養のことを言っているのだろうと見当を付けた。
「じゃぁ、これは一時的で、リョウは、ちゃんと元に戻るんだな?」
「ええ。大丈夫よ?。この人の自我はちゃんとこの片隅にある。あたしが今、こうして前に出ているのが分かっていると思うわ」
その言葉にブコバルは安堵の息を吐いた。
信じられない事には違いなかったが、実際に目の前で起きていることなのだ。不思議ではあったが、信じない訳にはいかなかった。
エルメリアは表情を改めるとブコバルをそっと見上げた。
「ずっとあなたに謝りたかったの。ビーカ。こちらではもう何年経ったの?」
「十年だ」
「………十年。……そう。そんなに。あなた、すっかり男らしくなっちゃって。吃驚したわ」
男の成長した姿にエルメリアは眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「お前はあの時のままだな」
「ええ」
エルメリアはそっと目を伏せ、再び視線を上げた。そして、真正面からブコバルの青灰色の瞳を見つめた。あの頃と変わらない色合いの瞳だ。
「ごめんなさい。ビーカ。あなたをずっと苦しめて。まるで当てつけみたいにあんなことをして。それだけがずっと心残りだったの」
そう言うとエルメリアはどこか苦しそうな顔をした。
「あなたが毎年、ここを訪れる度に苦しんでいるのが分かったわ。だからもう終わりにしましょう? あなたがこれ以上負い目に思うことはないの。みんなあんなことをしたあたしの所為なんだから。あたしはもう平気だから。ずっとそれだけが言いたかったの。でもそんな機会なんて無くて。あたしの想いに気が付いてくれる人もいなくて。そんな時に偶々この人が現れたの。あなたの知り合いだったなんて吃驚ね」
「そうか」
ブコバルはそれだけを口にするのがやっとだった。
「済まなかったな。エルメリア」
「どうしてそこでビーカが謝るの?」
「俺はお前に何もしてやれなかった」
そうだ。あの時、もう少し違う別れ方をしていたら、エルメリアは自暴自棄にならなかったかもしれない。それをずっと悔んでいた。
「そんなことないわ!」
エルメリアは首を横に振ると苦々しい顔をしたブコバルにそっと微笑んだ。それは、どこか自嘲的な哀しい笑みだった。
「馬鹿な事をしたわね、あたし。生きていればもっと楽しいことがあったかもしれないのに………。でも、あの時は、それが分からなかった」
ブコバルは抱擁を解くと、そっとエルメリアの頬に手を伸ばした。
宥めるように大きな手でその柔らかな頬を触りながら、自分の額をエルメリアの額に押し付けた。
エルメリアは、その大きな手にそっと頬を擦り寄せた。
「でも、漸く、これであたしも旅立てるわ」
そう言って見上げるとそっと泣き笑いのような顔をした。
「あたしは、叶うことならあなたの妻になりたかった。でも駄目だったわ。だから、あたしの分まで幸せになってね。そうじゃないと許さないんだから!」
当時のままの勝気な台詞にブコバルは小さく笑った。
「随分なことを言うじゃねぇか」
小さく口の端を吊り上げたブコバルにエルメリアは口早に囁いた。
「ビーカ、さようなら。ありがとう。この人によろしくね」
不意にエルメリアの身に纏う空気が変わったとブコバルは感じた。全面に出ていた眩いばかりの幻影が霞み始める。エルメリアが消えようとしていることが分かった。
「もういい。それ以上しゃべるな」
ブコバルは、エルメリアをきつく抱き締めると貪るように口付けた。
最後のお別れだということが分かった。
ービーカ。ビーカ。ビーカ。さようなら。ありがとう。ごめんなさい。
口付けの合間に繰り事のように繰り返される呪縛のような言葉。その言葉を全て飲み込むようにして、ブコバルは深く愛しい女の呼気を奪い取った。
そして、そっとエルメリアは目を閉じた。眦から一筋の涙が頬を伝って流れていた。
そこでエルメリアは身体の力を抜いた。リョウの身体からすっと離れ、その意識と交代したようだった。
鉛のように重く沈んでいた身体が、急激に軽くなって上から引っ張り上げられるような感覚がリョウを捕らえた。暗闇から急激に明るい場所に引き摺り出される。眩い光が差し込み、目眩がしそうだった。
唐突に意識が戻った時、リョウは自分が外部からきつく拘束されて、息苦しくて堪らないことに気が付いた。電灯の明かりが付いたようにぱちりと目を開いた。そして、眼前に迫っている見知った男の顔に吃驚した。
「ンンン――――――!」
気が付けば、熱い舌が口内を蹂躙していた。
ブコバルと口付けを交わしているのか!? 何でこんなことになっているのだ?
覚醒直後、余りの出来事に頭の回線が焼き焦げたように真っ白になった。鼻で息をするのを忘れるくらいだ。
リョウは、息苦しさに、慌ててブコバルの胸の辺りを叩いた。
「ン、ン、ン、ンー!!!」
区切った音節で名前を呼ぶように声にならない悲鳴を上げた。
そして、リョウが唇を解放された時には、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。
ブコバルは、口付けを交わしていたはずの相手が、エルメリアでなく、いつものリョウに戻ったのを感じた。
涙目でこちらを見上げる顔は、信じられないという表情をしていた。その事に内心安堵の溜息を吐いた。
「リョウ……か?」
確認するような言葉にリョウは、目を白黒させた。
ブコバルは何を言っているのだろう。決まっているではないか。
「はい?」
自分の意識が沈み、何かに取って代わられたということは薄々感づいていた。客観的に外から自分を眺めている妙な感じだったのだ。もう一人の自分の姿をした自分ではない別の誰かの存在を感じていた。それも熱くて切ない程の途方もない【想い】を抱えた誰かだ。
あれは、エルメリアという少女だったのだろうか。
あの石盤に刻まれた文字に触れた時、指先から沸騰した血液が逆流するかのように流れて込んで来たのは、ブコバルへの複雑な激情とも言うべき感情の奔流だった。愛しさと自分の気持ちに応えてくれなかったことへの恨めしさと。はち切れんばかりの愛憎、張り裂けそうな程の強い魂の叫びだった。
その時の激情の一部を思い出してか、いまだ夢現の中を彷徨うように茫然としたままのリョウに、いち早く冷静さを取り戻したブコバルが、この短い時間の間に何が起きたかを簡潔に告げたのだった。
そこでリョウは、自分の中にエルメリアという少女の【想い】が入り込んだ事を知ったのだった。リョウが徒に石盤に触れた所為で、そこに残った【想い】がこの身体を一時的に乗っ取るまでになったらしかった。
俄かには信じられない出来事にリョウは唖然とした。そして、軽率な行動を取った自分を戒めた。
「済まなかったな」
そのまま、どちらからともなく地面に腰を下ろして。
それからブコバルは、ぽつりぽつりと墓石に刻まれたエルメリアという少女との関係を語り始めた。
リョウは、それを黙って聞いていた。
幼馴染のような少女の自殺。輝かしい未来を残して少女は自ら命を絶った。それが、少女に唯一出来た最後の抵抗とも言うべき意思表示だったのだ。そして、その原因の一端になったであろう自分との関わり。
「………そうだったんですね」
全てを聞き終えたリョウは、長い息を吐き出した。去来する様々な思いに先程まで体内を駆け廻っていた激情の波を昇華させるように。
女好きで手が早いことで有名なブコバルに隠された過去は、余りにも痛ましかった。
その時の悔恨を少しでも薄める為に、女たちと身体を重ねるのだろうか。だが、それも一時的な快楽の後には、底知れぬ虚しさが残るだけだろう。
リョウはこの日、初めて、ブコバル・ザパドニークという男の本質を垣間見た気がした。
リョウはそっと隣に座るブコバルの横顔を盗み見た。
膝を抱えて座るブコバルは、まるで別人のように小さく見えた。。
「なんて顔をしてるんですか」
リョウは態とらしく明るい声音でからかうように口にすると、手を伸ばしてそっとその男らしい精悍な輪郭に触れた。
静かに佇むブコバルの横顔には、迷子になって途方に暮れたような不安を滲ませた幼子の表情が浮かんでいた。そこにまだ幼さの残る少年の姿が重なって見えた。
そんなブコバルを見るのは、初めてのことだった。いつもの飄々としてふてぶてしいまでの尊大な態度は欠片もない。
リョウは手を放し、そっと微笑むと、小さく息を吐き出して遠くを見つめた。
「こちらでは【人の想い】というものは、時として物凄い力を持つものなのですね。こうして形となって残り、現れるくらいに」
それを具現化させる為には、特殊な能力を持った術師の介在が必要なのだろうが、それでも形にならない筈の【人の想い】が目に見える形で提示されるのは、かつての常識では考えられないことだった。
「忘れることなんて出来るかよ…………」
エルメリアに自分の事は忘れてくれとでも言われたのだろうか。
どこか苦しげに小さく吐き捨てたブコバルに、
「無理に忘れる必要はないと思いますよ」
リョウはそう口にすると、なだらかな丘陵を吹く風に揺られる芝生の軌跡を眺めた。
「あの子が言いたかったのは、ありのままの事実を受け止めることだと思います。かつての衝撃的な出来事を客観的に見るのは、とても難しいことですが、それが出来て初めて、過去を過去として捉え、そこから一歩、踏み出すことが出来ると思うんです。そうは言っても【過去】にはどうしてもその時の【余計な個人的感情】というものが付いてきてしまいますから、口で言う程容易ではありませんが」
そう言うと小さく微笑んだ。
「少しずつでいいんです。今日、ブコバルは、エルメリアの本当の【想い】を見つけた。十年という途方もない時間は掛かりましたが、全く知らないよりはずっと良かった筈です。それで、少し、心が軽くなったのではありませんか?」
「………ああ」
ちらりと横目に見たブコバルは、一瞬だけ泣きそうな顔をした後、不意に小さく笑った。
「そうだな」
そうやって空を仰いだ精悍な男の横顔に涙が一筋流れたことにリョウは気が付かない振りをした。
くすんだ冬晴れの蒼穹は、男の瞳を映して淡い空色に染まる。
この日も、あの時と同じように、心地の良い風が吹いていた。
ブコバルの意外な過去が明らかになりました。そして少しずつ、リョウに隠された秘密が暴かれることになりそうです。