印封と古代文字
ユルスナールの実家から半ば逃げるようにして背を向けたあの日から、暫くユルスナールとは顔を合わせることはなかった。
あの日、夜遅くに小さなノズリが伝令としてやってきて、小さな手紙ーといっても走り書きのメモのようなものだったが、ユルスナールから届けられた。
昼間のことを済まなかったと詫びる言葉とこの埋め合わせは後日必ず行うということが短く書かれていた。そして、最後に添えられた「ツェルーユー」という一語。
リョウはそのやや特徴的な右上がり気味の掠れた文字を愛おしそうに眺めながら、そっと指で辿った。
こうやって気に掛けてくれることは純粋に嬉しかった。あのような態度を取ってしまった後でも、こうしてユルスナールは自分を案じてくれている。男を試す積りなど更々なかったが、目に見える形でもたらされる繋がりに涙が出そうだった。
あの日、王都見物を終えた後、シーリスとの別れ際に、今日一緒に来られなかったユルスナールへの伝言があるかと訊かれて、リョウは、「自分の為に、余り無理をしないで欲しい」とだけ伝えてくれるように頼んだ。
それは、正直な気持ちだった。ユルスナールには、ユルスナールの仕事がある。それと同じように、リョウにもやるべきことがまだまだ沢山あった。養成所の講義が佳境に入ってきたということもあり忙しくなったのだ。講師たちの方も街を挙げての武芸大会を三日後に控え、その間は授業がお休みという形になるので、その前にある程度キリの良い所まで講義を進めてしまおうと考えているようだった。
***
その日、リョウは古代エルドシア語の講義を午前中に受けた。
古代エルドシア文字は、術師が印封に使う際の文字として、無くてはならないものだった。飾り文字のような複雑なものだ。
今年の春の始め、初めてガルーシャからユルスナール宛ての手紙を預かった時、あの封書の宛名部分にはユルスナールの名が、そして、裏面の差出人の部分にはガルーシャの名前が、古代エルドシア文字で刻まれていた。
その昔、その不可思議な紋様のような文字を見たリョウは、自分には到底読めそうもないと思ったのもだった。ガルーシャも普通に暮らしてゆく分には、その文字が読め無くても日常生活になんら支障はないと朗らかに笑ったものだった。
今、リョウは、その文字を習っていた。その巡り合わせを少し不思議に思った。
かつて、この大地は【エルドシア】と呼ばれていたそうだ。【スタルゴラド】という国が誕生する遥か昔のことだ。
その頃、【エルドシア】の地は、別名【テラ・ノーリ】とも呼ばれていた。
【テラ】とは古代エルドシア語で【大地】を意味し、【ノーリ】とは、【数字のゼロ、物事の始まり、円環】を意味した。
つまり、【テラ・ノーリ】とは、【生命巡る大地】という意味を持っていた。
この呼び名は、遥か昔に失われてしまったという。
一柱の神の名と共に。
古くからこの地に伝わる伝承には、こう記されていた。
【かつて世界は、一つだった】
文字の講義と共にそれが生まれた背景へも言及がなされた時に講師がそう語ったのだ。
その言葉が意味するところは、リョウにはよく理解できなかった。
リョウは文字を鉛筆で何度もなぞった。発音をしながら、基本的な文字の形を頭に叩き入れた。形自体は複雑で難しいが、音の付いた絵柄のようなものだと思えばいいのだ。表音文字で意味を表わすものではなかったが、複雑さだけを見れば、漢字と似ているかもしれない。基本となる母音は6つ。そして、それに組み合わさる子音が33もあった。
手始めにまず講師から配られた一覧から自分の名前の音を探した。印封として使う為には、自分の名前が書けなくては始まらないからだ。晴れて術師となった暁には、それをこの国の機関に登録することが求められていた。かつての署名や印鑑登録のようなものだと考えれば理解は早い。
【リョウ】という音は、二つの文字の組み合わせから成った。子音【エール】と母音【ヨーォ】。その音を表わす二文字が合わさって【リョウ】となる。
紙の上に自分の名前を書いた後、順に知り合いの名前を書き連ねていった。
ガルーシャ、ユルスナールに始まり、シーリス、ブコバル、ヨルグ、アッカ、オレグ、ヒルデ……等、北の砦の面々の名を書いて行く。小半時もすれば、紙は、色々な名前を表わす飾り文字で一杯になった。 まるで緻密な暗号のようだと思った。
新しい言葉を覚えるというのは不思議なものだ。始める前は、単なる記号のような形の羅列にしか思えなかったものが、不意に意味と音を持った【文字】として頭の中に入ってくるようになるのだ。それが長々と法則性に則り組み合わさって文章になる。系統のまったく異なる文字を全て覚えるのは中々に骨が折れたが、一度、覚えてしまえば、最初の取り掛かりとしては随分と楽になった。
練習用に配られた紙の辛うじて空いた隙間の端の方で、リョウは自分の印封を描いてみた。
そして、ふと思った。
シーリスやユルスナールに短い手紙でも送ろうか。印封を施す練習として。
相手側で開封が問題なく行われれば、それは成功となる。上手く行ったらその事を後で伝えてもらえばいいのだ。そう思うとなんだか楽しくなってきた。
リョウは早速、ユルスナールに宛てて短い手紙をしたためてみた。そして、封の部分に講義の内容を思い出しながら、自分の名を印封として刻む。同じように宛名にユルスナールの名前を古代文字で刻んだ。これで、受取人が開封の意図を持ってその場所に触れない限り、封書の開封が出来ないようになった。
果たして術式は、上手く作用しただろうか。
それから、リョウは養成所の中庭に降り立つと、口笛を吹いた。お世辞にも上手いといえるものではなかったが、甲高い独特の摩擦音が響いた。
近くにこの辺りをうろつく暇を持て余した獣がいないだろうか。誰か、自分の呼び掛けに応えてくれるものはいないだろうか。翼を持つものであれば一番手っ取り早くていいのだが。
そう思い、遥か上空を見上げていたリョウの足元でカサリと草を踏む音がした。
ゆっくりと視線を下に転じれば、そこには艶やかな灰色の毛皮を纏う小型の獣がこちらに向かって悠々と歩いてくるのが見えた。重さを感じさせないどこか気取ったような足取りだ。
あの小さな豹のような形をした獣には、リョウも見覚えがあった。いや、忘れる訳はない。先日、自分の窮地を救ってくれたのだ。それから、セレブロから貰った加護の事を詳しく語って聞かせてくれた有り難い存在だった。
灰色の獣は、ゆったりとした足取りで直ぐ傍まで来るとこちらを見上げつつ目を細めた。
『なにか用か?』
「ティーダ!」
思ってもみなかった獣の登場にリョウは驚いた。
リョウは直ぐさまその場に膝を着くと、手触りのよい柔らかな毛並みに手を伸ばした。そして、身体全体で擦り寄ってくるティーダを思う存分撫でて摩った。こうしているとまるで人に飼われている猫のようだと思った。ただ、ティーダの場合、その口元には大きな鋭い牙が二本覗いているが。
ティーダが気持ち良さそうに喉を鳴らした後、リョウは徐に用件を切り出した。
「お使いを頼みたいんだ。アルセナールにいる知り合いに、この手紙を渡して欲しいと思ってね」
そう言って手にした小振りの手紙を軽く振って見せた。
『急ぎのものなのか?』
低く尋ねたティーダに、リョウは小さく笑った。
「ううん。そんな大層なものじゃないんだ。今日、印封の授業を受けたから、その術が上手く掛かっているかどうか確かめたいと思ってね。どうせなら実地でやってみようと思ったんだ」
『そういう訳か』
リョウが術師の養成所で学んでいる事を知るティーダは、その言葉にしたり顔で頷いた。
『相手は誰だ?』
「ティーダが頼まれてくれるの?」
なにやら高貴な匂いのする獣に自分の瑣末な用事を頼むのもどうかと躊躇したのだが、
『その為に呼んだのであろう? あんな下手っぴな合図では他のものには、中々気付いてもらえまいて』
リョウの口笛が余程、調子はずれだったのか、可笑しそうに鋭い牙を見せて笑ったティーダに、リョウは拗ねたような顔をした。
だが、ティーダはそのようなことは気にも留めずに促した。
『ほれ、相手は誰だ?』
「名前は、ルスラン。第七師団の団長で、アルセナールにいると思う」
それから、リョウは手短にユルスナールの身体的特徴(髪と瞳の色のことだ)を語った。
その人物にティーダは心当たりがあったようだ。
『シビリークス家の末か?』
「うん」
ならば、全く知らない相手よりも話が早いだろう。
「ルスランがいなかったら、第七師団の人の誰かに渡して貰って構わないから」
『恋文かなにかか?』
急に下世話な勘ぐりをしたティーダに、
「そんな楽しいものじゃないよ」
リョウは慌てて両手を前で振った。その仕草はある意味あからさまで、却って、ティーダにはその事実を肯定しているように見えたのだが、賢しい獣はそれ以上は触れなかった。
『まぁ、よい』
小さく笑った後、リョウが手にした封書をまじまじとみたティーダは、徐に小さく息を吐き出した。
『リョウ、念の為、表と裏に普通の文字で宛名と差出人の名を書いておけ』
「へ?」
『この文字は通常の者には読めぬ。普通の兵士達には、何がなんだかさっぱりだぞ?』
よく考えてみれば当たり前のことなのだが、すっかり失念していたことを改めて指摘されて、
「そう言えば、そうだね」
リョウは苦笑を滲ませながらも、その通りだと思い、その封書に現代の文字で情報を書き足した。
『では参る』
「うん。ありがとう。頼んだよ」
ティーダは小さな封書を口に銜えると颯爽と踵を返した。
「後でお礼をするから、欲しいものやなにかしてもらいたいことがあったら、遠慮しないで言ってね」
軽快に走り去って行く小柄な豹に似た獣の背中に、リョウはそう声を掛けた。
ティーダは、途中、振り返ると、足を止めてこちらを見た。
それで言いたいことは伝わったのだろう。
それから、灰色の獣の姿は、瞬く間にリョウの視界から消えていた。
「さてと。お昼を食べたら、セレブロの所に行かなくちゃな」
今日は、この後、セレブロと東の神殿を訪れる約束をしていたのだ。
リョウは、そう言って大きく天を振り仰ぐと、今後の予定を頭の中でざっと組み立て直しながら、校舎である建物の中に入っていった。