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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
134/232

貴婦人の邸宅


「おかえりなさいませ。ユルスナール様」

 玄関で出迎えた男に一つ鷹揚に頷くと、銀色の髪をしたこの国の軍部の制服に身を包んだ体格の良い男は、手にしていた外套を預けた。

 足早に邸内を歩きながら、男は、自分の直ぐ後ろを影のように付いてくる黒い上下に身を包んだ男に告げた。

「これからまた出掛ける。夕食は外で取ってくるから、兄上たちには、そう伝えておいてくれ」

「畏まりました。お戻りにはこちらに?」

 慇懃な初老の男の問い掛けに、銀色の髪の男は少し考えるような素振りを見せた後、小さく首を横に振った。

「いや、軍部の方になるやもしれん。なにか急用があれば、そちらに連絡を寄越してくれ」

「承知いたしました。それとパーシヴァル様から書簡が届いております」

「返事は?」

「出来れば早めに欲しいとのことでした。それからリガルスキー様よりお茶会のお誘いが。招待状を頂いております」

「そのようなものなど義姉上たちに任せておけばよいではないか」

 軍服の詰襟を緩めながら、どこか不服そうな声を上げた男に、対する初老の男は小さく微笑みのようなものを浮かべると鷹揚に返した。

「この度、こちらにお戻りになられたことを早くもお耳に挟んだのでございましょう。ご婦人方の情報網は侮れません」

 その言葉に男は小さく息を吐き出した。

「分かった。日時をみて、こちら側の予定を照合してから返答をしよう。いずれにせよ、一度は顔を出さねばなるまい」

「はい。それがよろしいかと」

 そうこうするうちに廊下を歩いていた男とそれに着き従う初老の男は、とある一室の前まで辿りついた。

 そのまま、重厚な扉に手を掛けて中に入ろうとした男に、

「ああ、それから」

 この広大な邸宅の奥向き全般を取り仕切る初老の男は、その耳元に近づくと、一言、二言小さな囁きを加えた。

「分かった。善処しよう」

 途端にどこか苦々し顔をして大きく息を吐いた男に、初老の男は静かに頷くと一礼をしてから丁寧な所作で踵を返し、次の仕事をするべく己が持ち場に戻ったのだった。




 あれから、街に出るのに隊服のままだと都合が悪いということで、一度、着替えに戻るというユルスナールに連れられて、リョウは、ユルスナールの実家だという大きなお屋敷を訪れていた。同じように着替えに戻るというシーリスとは、途中で待ち合わせをすることになっていた。

 名立たる貴族の邸宅ということで、そこは想像以上の空間が広がっていた。

 ユルスナールの実家は、王都の中でも宮殿に近い区画の貴族の邸宅が立ち並ぶ一角にあった。

 目の前に建つ広い邸宅を前にリョウは唖然とした。

 二階建ての重厚な石造りの建物が同じく背の高い堅固な門の向こうに見えた。門から玄関口まではかなり距離がある。それを取り囲む敷地も広々としていた。周囲には似たような門構えの家々が、目測で大体等間隔に並んでいた。

 貴族であるとは聞いていたので、それなりのところだろうとは覚悟していたが、目の当たりにした光景は、遥かに予想を越えていた。

 門の前で、リョウは呆気に取られたように隣に立つ男を見上げた。

 見上げた先にあるその横顔は、当たり前だが、平然として涼しげである。

「ルスラン…………本当にいいところのお坊ちゃんだったんですね」

 半ば放心気味に呟けば、

「なんだその例えは」

 酷薄そうな表情をそのままに、訳が分からないというような顔で見下ろされてしまった。

「こんなものすぐに慣れる。只の家だからな」

 ――――――ほら、いくぞ。

 そう簡潔に吐き捨てて、歩き出した長身にリョウは慌てて付いていった。


 

 玄関口に入ると、落ち着いた雰囲気の初老の男が音もなく現れて、慇懃な態度でユルスナールを出迎えた。そこはホールのように広い吹き抜けの空間が広がっており、明かり採りの窓から差し込む陽射しに外と同じくらいの明るさが保たれていた。脇の方には上階に上がる階段がある。

 リョウがぼんやりとしているうちに、ユルスナールは待ち受けた初老の男と慣れた様子で留守中の来客の有無やもたらされた書簡についての処理等に付いて言葉を交わし、指示を出していた。

 そして、二人はそのまま廊下を歩き始めた。

 着替えに行く為に邸内を恐らく自室に向かって歩き始めたユルスナールの後をついて行くか迷ったが、リョウは大人しく玄関口で待つことにした。

 ユルスナールと執事らしい男の邪魔をしたくないという気持ちもあったし、何よりもこの場所の雰囲気に気圧されていたからだ。

 リョウは気後れを感じていた。住む世界の違いをまざまざと見せ付けられた気がしてならなかった。


 そうしている内に、戻ってきた執事の男と目が合って、リョウはそっと目礼を返した。

「ユルスナール様のお連れ様ですね。主の支度が整いますまでどうぞこちらへ」

 そう言って、丁寧な所作で別室に案内しようとする。

 リョウはその誘いを小さく首を振ることで断った。

「いいえ。自分は、こちらで待たせていただきます。お気遣いありがとうございます」

 第七師団所属の腕章を着けたままである(その方が都合がいいだろうと言われたのだ)自分は傍目にも上官に付き従う従者といったところだろう。規律の厳しい軍隊では、上官の家で下級兵士、ましてや一兵卒のような輩が寛ぐ訳にもいくまい。

 物静かに目を伏せれば、心得たもので執事の男は何も言わずに奥へと引き返した。


 そうしてリョウは、一人広い玄関ホール内に止まった訳だが、ユルスナールを待つ間、一人、この広い空間を持て余していた訳でもなかった。

 というのも玄関口から二頭の白い毛並みの大きな犬が勢いよく飛び込んできたからだ。

 どうやら番犬よろしく放し飼いにされているらしい。

『おや、かようなところに珍しい客人が』

『はてはて面妖なこと』

 飛び込んできた二頭の犬は、勢いのままに邸内を駆け抜けようとして急停止をし、進路を変えた。

「こんにちは。お邪魔してます」

 リョウが挨拶をすれば、くんくんと鼻を鳴らしながら傍によって、見慣れぬ人間の匂いを嗅ぎ始めた。

『ほうほう、これはなにやらよき匂いがする』

『なんと、どれ、わしも』

 自分とあまり背丈(全長)の変わらない大きな犬二頭にじゃれつかれて、リョウはくすぐったそうに首を竦めた。

 ざらりとした大きな舌で頬を舐められる。

「わわわ、くすぐったい。ちょっと、待って」

『これ、カッパ、そなたがやめい』

『ラムダ、何を言う。そなたこそやめい』

「二頭とも、もういいから」

『『これはしたり』』

 一時的な興奮が治まったのか、二頭は大人しくリョウの足元に控えた。

 リョウもその場で膝を着くと、わしわしと犬たちの顎の下や首筋などを撫でてやった。こうするのもスフミ村のナソリ以来、久し振りの感覚だ。

「キミたちはこのお屋敷に住んでるんだ?」

 落ち着いた所でのリョウの問いかけに、

『『左様』』

 右と左から重低音が重なって聞こえた。

「兄弟? それとも双子?」

『儂が兄じゃ』

 右が鼻を寄せれば、

『儂が弟じゃ』

 左も同じように鼻を鳴らす。

「カッパがお兄さんでラムダが弟だね?」

 二頭の会話と印象から確認するように聞けば、小振りの耳がピンと嬉しそうに立ち上がった。

『これはしたり』

『よう判じたものじゃ』

 感心したように言われて、リョウは小さく笑った。

 正直な所、どちらがどちらかは、当てずっぽうだった。だが、まぁ正解であったようで何より。

 白い艶のある毛並みに腹の当たりに少しだけ灰色が混じっている方がカッパ・兄の方で、同じく白い毛並みに尻尾の辺りに灰色が混じっている方がラムダ・弟という訳だ。

『うぬはルスランの連れか?』

『三男坊もやりおるの』

 二頭の問いかけにリョウも鷹揚に頷いた。

「そう。今、着替えにいってるんだ」

『出掛けるのか?』

『いや、仕事であろう?』

「うん。出掛けるけれど仕事じゃないよ」

 一言話す度に、二方向から一遍に答えが返ってきて、リョウは不思議な気分を味わっていた。


 だが、そうやって存外楽しく過ごしていると。

 着替えを終えたユルスナールが玄関ホールに颯爽と姿を現した。先程の軍服とは違い、装飾の省かれた上下を着ている。要するに見慣れた姿だった。だが、それも王都仕様なのか、生地は十分上等そうなものを使っていることは素人目にも見て取れた。

 大きな白い犬二頭の間に埋もれた黒い頭髪を認めて、ユルスナールは密かに笑みを噛み殺したようだった。

 主の到着を察知してか、素早く耳を立てた二頭に促されるようにして顔を上げたリョウは、ユルスナールのどこか可笑しそうに細められた視線を受けて微笑んだ。

 そのまま口を開こうとしたその時だった。


「ルーシャ!」

 歓喜に満ちた高音のよく響く甲高い声が聞こえたかと思うと、外から一人の若い女性が飛び込むようにして玄関ホールに現れ、足早に目の前を通過していった。

 年若い女性は、淡い紫色の長いドレスの裾を翻して、一目散にユルスナール目がけて走り寄るとその細い腕を目一杯回して抱き着いた。

 リョウは突然のことに度肝を抜かれて、口を半開きにしたまま目を瞬かせた。

 ――――――ルーシャ。

 もしかしなくとも、それはユルスナールのことを差したのだろう。

 幼い子供ならいざ知らず、大の大人に向けるような愛称とは思えなかった。ましてや強面の男に対しての呼び名とするには違和感があり過ぎた。

 リョウは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。

 それは、ユルスナールの幼い頃の呼び名だろうか。

 子供の頃の呼び名を今でも使う相手の登場だ。

 そうこうするうちに広いホール内をやや興奮気味の甲高い女性の声が響き始めた。

「ルーシャ! いつこちらにお戻りになったの? すぐに知らせてくれないなんて酷いじゃない!」

 熱烈な抱擁付きの挨拶をユルスナールは慣れたようにあしらった。

「着いたのは一昨日だが、これまでなにかと忙しくてな。元気にしていたか、アリアルダ?」

 逞しい首筋に齧りついた細くしなやかに伸びた腕をやんわりと外して、若い女性と距離を取った。

「ええ、変わりなくってよ」

「ズィンメル殿と奥方は?」

「お父様もお母様も相変わらず」

「そうか」

「それよりも以前のようにアーダとお呼びくださいな。堅苦しいのは嫌ですわ」

 その女性は、甘えたようにそう口にするとユルスナールの腕を取り寄り添い、嬉しさに満ちて輝いている顔を男へと向けた。

「ねえ、ルーシャ、これからお茶にしましょう? ちょうどお姉さまとの街で評判の焼き菓子を買ってきたところなのよ。これから一緒にお茶にしましょうってお話ししていたところなの」

 白い肌に薔薇色に染まる艶やかな頬。明るい金色の髪を綺麗に結い上げ、ほっそりとした項が顕になっている。瞳の色は赤みがかかった琥珀を思わせる色だった。

 まるで、繊細なお人形のような姿だ。

「いや、せっかくだが、これからまた用事があってな。出掛けなくてはならん」

 やんわりと断りの言葉を吐いた男に、

「もう、お仕事ばかりね。せっかくあんな辺鄙なところから帰ってこられたのだから、偶にはゆっくりしたらいいのに。お仕事なんて部下に任せて置けばいいじゃない。何も隊長自らが動く必要が無いのではなくて? 有能な部下が揃っているのでしょう? お父様がそう言ってらしたわ」

 鈴の鳴るような軽やかな声は、まるで歌でも歌っているかのように滑らかに抑揚のある旋律を紡ぐ。

 ほんの少し拗ねたように女が口を尖らせれば、

「そうは行くか」

 ユルスナールは苦笑を滲ませた。

 優しいよく知る相手を宥めるかのような声音だった。

 そうやって寄り添う二人の姿は、絵になると純粋に思った。


 リョウは不意に見てはいけないものを見てしまった気分に陥った。

 これまで目を背けて余り考えないようにしてきた現実が、目の前で展開されていた。

 覚悟が出来ているなどとは聞いて呆れる。それをこのようにして思い知らされるとしても、まだ先のことだろうとどこかで思っていた。

 自嘲的な笑みが薄らと口元に浮かんでは消えた。

 ユルスナールの隣に立つのは、きっとあのような女性だ。突き付けられた現実は、余りにも唐突で、残酷だった。

 リョウは喉元に競り上がってくる苦いものを慌てて飲み込んだ。このような醜い気持ちを勘づかれてはならない。

 そして、そっと目を伏せた。

『いかがした?』

『顔色が優れぬぞ?』

 すぐ傍から二対の切れ長な目に覗き込まれて、リョウは咄嗟に表情を取り繕った。

「いや、大丈夫だ。なんでもないよ」

 そう口にしてみるものの、それを告げる表情は些かぎこちなくなっていた。

 これ以上追及されては敵わないと思い、逆に質問をした。

「あの綺麗な人は?」

『ああ、あれはアリアルダ』

『あの男から見たら義理の妹といったところか』

『あの姉がルスランの長兄に嫁いでな。親戚関係にある』

『元より付き合いはそれなりにあったがの』

「つまり、幼馴染み…ってことかな?」

 幼いころからユルスナールのことを知る人たち。少なくともあの女性は、ユルスナールに並々ならぬ感情を抱いていることが傍目にも良く分かった。

『ああ、そういうことになるか』

『ほれ、噂をすればじゃ』

 ピンと尻尾を立てたラムダが見る方向を同じように見やれば、優雅に着飾った一人の婦人が、淑やかに玄関ホールの中に入ってきたところだった。薄い灰色の外套に淡いくすんだ黄色のドレスの裾が翻る。

「まぁまぁ、アーダ。急に駆け出すからなにかと思えば。あらあら、ルーシャが帰ってきたのね」

 静々と長いドレスの裾を滑らせながら、目鼻立ちの整ったすっきりとした顔立ちの女性が現れた。先程の若い女性よりも随分と年上な印象だ。気品溢れるおっとりとした佇まいは、いかにも良家の奥方という感じを受けた。

 その女性は、ユルスナールとその傍に寄り添う年若い女性の方を見ながらも、不意に視線をずらすと、二頭の大型犬に挟まれるようにして片膝を着く見慣れぬ人物に気が付いたようだった。

「あら、カッパとラムダも先に行ってしまったと思ったらあんなところにいたのね。あら、どなたかしら? あんなに懐いているなんて珍しいわね」

 おっとりと微笑むその女性と目が合って、リョウは静かに目礼を返した。

「あら、あなた、ルーシャの新しい付き人かしら?」

 そのまま、興味が惹かれたようにこちらに歩み寄ってきた貴婦人に合わせる形で、傍にいる二頭を促しながら、ゆっくりと立ち上がった。

「まぁ、随分と可愛らしい感じの子が入ったのね」

 その女性はそう言って目を細めると白い指を伸ばして、リョウの頬にそっと触れた。

 目線は、やはり自分よりも幾分上だった。この国の基準に漏れず、二人の婦人は背が高かった。足下のヒールのある靴もそれを助長していることだろう。

 イリーナの時も思ったが、この国では女性でも意外に初対面の相手に対して身体的接触を持つようだった。間合いも随分と近い。まぁ、向こうとしては自分の外見から判断して、子供に接しているような積りなのかもしれないが。

 いきなり頬を触れられても、リョウは顔色を変えることなく、無言のまま、静かに目礼をするに止めた。

「あら、随分と恥ずかしがり屋さんなのね?」

 口を開かないリョウに、その女性がからかうように言った。

「義姉上、その辺りにしておいてください」

 一部始終を見ていたユルスナールが見かねて間に入ったが、それも余り効果が無いようだった。

「まぁ、堅いことを言わないでちょうだい、ルーシャ。あなたが付き人を連れてくるなんてなんて珍しいじゃない。それにこんなに珍しい顔立ちをしているのですもの。黒い髪に黒い瞳なんて、わたくし初めて見たわ。ふふふ。お伽噺の【夜の精】みたいね」

 貴婦人はそう言って、じっとリョウの顔を見つめた。

 リョウは居心地が悪そうに身じろいだ。自分がまるで見せ物になったような気分だ。相手に他意はないのだろうが、余り気持ちの良いものではない。

 これまでの会話の内容から、この女性がユルスナールの兄嫁なのだということは分かった。カッパの言を借りれば、長兄に嫁いだ人なのだろう。


「そうだわ。折角だから皆でお茶にしましょう?」

 いい思い付きだというように貴婦人が手を合わせれば、

「それはいいわ、お姉様、ルーシャにも先程そう誘ったばかりなのよ」

 意気投合して顔を輝かせた二人に、ああこの二人は姉妹なのだということをぼんやりと思った。

 ちらりと横目に見たユルスナールは、どこか苦い顔付きをしていた。困惑をしているようだ。珍しいことがあるものだ。どれくらい年が離れているのかは知らないが、長兄の兄嫁ということで、常日頃から頭が上がらないのかも知れない。

「いや、義姉上、アリアルダにも話したが、これから出掛けるので」

 その口調はやはりどこか遠慮をしたものだった。

「まぁ、随分とつれない事を言うのね。偶に帰って来たと思ったら。さぁさぁ、よく顔を見せて頂戴、義弟に会うのも随分と久し振りだわ」

 そう言って、義姉はユルスナールの方に歩み寄ると、その華奢な手を伸ばして男の頬に手を当てた。

 その子供に対する様な仕草にリョウは、何らかの力関係(ヒエラルキー)を垣間見た気がした。

 ユルスナールも実家に帰るのは随分と久し振りのようだ。この分だと親しい家族との時間を優先させた方がいいのだろう。折角の空いた時間を自分に付き合わせるのは申し訳ない気がした。それに余り遅いとシーリスも心配するだろう。

 年若い妹の方は、愛しい男との時間を邪魔する軍部の人間(この場合はリョウである)を冷めた目で睨むように見ていた。

 向けられたある意味あからさまな感情に苦笑い。あの子もあの子なりに必死なのだろう。恋をしている乙女というものは、強く逞しいものだ。

 それにしても今日は色々と上手く行かない事が続くものだ。

 今日一日、これまでの事を思い返しながら、リョウは内心そんなことを思った。ひょっとしたら、そういう巡り合わせの日なのかもしれない。


 リョウは二人の姉妹に挟まれている男に静かに向き直ると声を掛けた。

「隊長。この後は、どうぞこのままご実家でご家族とお過ごしになって下さい。自分の方はお気になさらず。こちらはなんの問題もありませんから。折角のお休みを有意義に使わなくては罰が当たります」

 そう言って慇懃に敬礼をしたリョウに、ユルスナールは虚を突かれた顔をして、目を見開いた。

「リョウ、何を言っている?」

 訝しげに細められた目に、

「優先順位が違います。自分の方は大丈夫ですから」

 敢えて穏やかに微笑むとその傍にいる二人の女性に対して、

「ご迷惑をお掛けいたしました」

 小さく頭を下げた。

 その言葉に姉妹は俄然、喜色を浮かべた。

「そうこなくっちゃ。良かったわね、ルーシャ」

「まぁ、よかったわね、アーダ。ルーシャもほら、折角のお休みなら、なにも問題ないでしょう? あの子の言う通り、家族との時間は大切にしなくては駄目よ。さ、こちらでお茶にしましょう? 美味しい焼き菓子を買ってきたのよ。ああ、それはアーダから聞いたわね」

「ねぇ、ルーシャ、行きましょう? あんな従者なんか放って置いて構わないわ。ねぇ?」

 姉妹の心を躍らせた会話にリョウはほんの少しだけ傷ついた顔をしたのだが、それも直ぐに消えてしまった。

「それでは自分はこれで失礼します」

 そう小さく口にするとリョウは踵を返した。

 ユルスナールの顔は見られなかった。

「リョウ、待て」

 玄関口まではなんとか平静を保って足を進めた。そして、そこを潜り抜けると、一目散に駆け出した。

「あ、おい、リョウ!」

 ユルスナールの焦った声が後方から聞こえたが、気が付かぬ振りをして、そのまま駆け抜けた。


『帰るのか?』

『よいのか?』

 門を目指して駆けていると左右の脇に白い毛並みの大型犬が並んだ。ちらりとこちら側を案じるような視線を向けてくる。

 門の所まで着くと来た時と同じように小さな脇の潜り戸を抜けた。

 柵の前で、リョウは追ってきた二頭に柵越しに向き直った。

 こちらとあちらを隔てる境界線だ。世界の違いをまざまざと見せ付けられた。それを早い段階で知ることが出来て逆に良かったのかもしれない。今なら、まだ引き返せる。

 そんなことを頭の隅で考えた自分に嫌気が差した。

「じゃぁ、またね。カッパ、ラムダ」

 柵越しに伸ばした手で二頭の頭を撫でた。もうここに来ることもないだろう。

『そなた、何故かように苦しげな顔をしておる』

 兄のカッパが、気遣わしげな声を上げた。

「急に走って疲れちゃったみたいだよ」

 そう言って小さく笑ったリョウに、

『嘘を吐くでない』

 弟のラムダが詰るように言った。

「中々、現実は上手く行かないものだね」

『何の話をしておる?』

『分かりやすく話せ』

「気持ちだけではどうしようもないことがあるってことだよ」

 煙に巻かれたような顔をした二頭に、リョウはそっと微笑むと小さく手を振った。

 別れの合図だった。

 それ以上は何も言わずに、リョウは来た時とは全く真逆の気持ちを内に抱えたまま、大きな屋敷に背中を向けた。

 そして、小さくなって行く小柄な背中に二頭の犬が吠えた。

『おい! そなた名は何と言う?』

「……リョウ…」

 届いたのは、聞こえるか聞こえないかの音だった。風に運ばれて来た小さな哀しさを隠した声色に、二頭の犬はそっと顔を見交わせた。

『リョウと言ったな』

『ああ。リョウと言った』

『ルスランの所為か』

『左様、大方、あの三男坊の所為だろう』

 二頭はじっと柵越しに、馬の尻尾のように揺れる黒髪が視界の隅から消えるのを見つめていた。

 やがて、その姿が視界から消えた。

『戻るか』

『ああ。せっついてみるか』

『止せ。あやつは我らの言葉を解さぬ』

『……なれど』

『まぁ、なるようにしかなるまいて』

 先程とは気分一転、尻尾をだらりと下げた二頭は、大人しく屋敷へと戻るべく踵を返したのだった。


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