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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
133/232

噂話の切れ端 2)


 そんなこんなで、リョウが兵士たちと束の間の休憩を楽しんでいるのと時を同じくして。

 重厚な扉を一枚挟んだ応接室では、ユルスナールたちと客人の情報交換という名の雑談が交わされていた。

 リョウが隣の執務室へと消えて、ユルスナールは一瞬だけ、興醒めな表情を浮かべたが、すぐにそれを引っ込めて、いつもの隊長しかりとした落ち着いた態度になった。

 その変化に気が付いたのは、恐らく、ブコバルぐらいなものだろう。


 ――――――そう言えば。養成所で思い出したが。

 そう前置きして、マクシームがゆっくりと長い脚を組み換えた。

「今、結構、面白い噂が出回っているんだが、もう耳に入っているか?」

 そう切り出した。

「ああ。あれだろ。第三のゲオルグが、日参してるという」

 ――――――宮殿の侍女たちが頻りにぼやいていたぞ。その所為か知らないが、中々こちらに顔を見せないと。

 相槌を打つようにスヴェトラーナが言葉を継いだ。

「日参とは、養成所の方にか?」

 ユルスナールが確認するようにマクシームを見た。

「ああ。どうやらそのようだ。噂になるくらいだからな。日参かどうかは知らんが、かなり頻繁にあの界隈に出没しているということだろう」

「あ? なんでまたんなとこに? あいつ宗旨替えでもしたのか?」

 意外だと言わんばかりにブコバルが眉を顰めれば、

「日参というのは解せないが、大方、術師繋がりで、向こうの講師陣と議論を交わしているんじゃないのか?」

 ドーリンが至極真面目な顔をして最もらしいことを言った。

「どうだかな。あの男がそんな殊勝なタマだと思か? どうせ女でも口説きに行っているんじゃないのか?」

 スヴェトラーナは、顔をあからさまに顰めると嫌悪感丸出しで吐き捨てた。


 第三師団・団長は、艶聞の絶えないことで王都では有名だった。単なる女好きというよりも遊び人と言った方が近いかもしれない。しかも、かなり性質が悪いというのがとある筋での評判だった。

 黙っていても女が放って置かない容姿をしている上に女と見れば取り敢えず声を掛けずにはいられない性格だった。そして、甘い言葉を囁くのだ。

 男にとっては挨拶代わりのようなものだが、それを勘違いして真に受けた女の方が、一人逆上せて後で痛い目に合うというのがよく聞く話だった。男慣れしていない純情な女程、中々にこじれるらしい。

 娯楽(ゲーム)のように女たちの間を渡り歩き、そうして束の間の一時を楽しんでいるというのがもっぱらの噂だった。その毒牙に掛かった貴族の女性や宮殿に仕える侍女の数は知れず。

 だが、元々、恋の駆け引きを楽しむ空気が存在する貴族階級の中では、その行為自体はあまり問題視されていなかった。要するに、【よくあること】なのだ。男を上手くあしらえない女の方にも相応の責任があるというような見方もされた。


 スヴェトラーナは、貴族の出だが、その中でも珍しく、厳格な家風の中で育ったので、こういう軽薄な空気を心底唾棄していた。宮殿の奥向き勤めであるから、知り合いの侍女があの男の毒牙に掛かって傷ついたと知った時は、大層腹を立てたものだった。

 早い話が、女の敵というわけだ。

 なので、大抵、二人が顔を合わせると喧嘩腰の嫌味の応酬のようになった。宮殿内の廊下は、底冷えするほどの冷気と殺気が漂うらしい。二人が鉢合わせをした場面に出くわしたら、巻き込まれない為に速やかに撤退せよというのが、宮殿に勤務する人たちの暗黙の不文律のようになっているのだとか。

 それはさておき。


「養成所に女など殆んどいないだろう?」

 スヴェトラーナの発言を受けて、ユルスナールが養成所の生徒の構成比を思い出しながら首を傾げれば、

「だからさぁ、宮殿の女だけじゃ飽き足らなくなって、とうとう男の方にまで食指が伸びたんじゃねぇの?」

 ブコバルは、ソファーに踏ん反り返ると嫌そうに片手を振った。

「だが、あそこにいるのは年若い少年たちだろう?」

 ユルスナールは、昨日リョウの傍にいた新しく出来た友人たちだという若者の顔触れを思い出していた。

「だからじゃねぇか。むさいのよか、まだ、ほそっこい見目の良い奴がいいんだろ? 女の代わりにするんだから。なぁ、ドーリン?」

「………俺に振るな」

 急に同意を求めるように顔を向けられて、ドーリンはギロリとブコバルを睨み付けた。


「議論が白熱しているところ水を差すようで悪いが…………」

 おかしそうにクスクスと喉を鳴らしながらマクシームが前方から割って入った。

「残念ながら、そういう色の付いた話ではないようだ」

 人を食ったような口振りに、ブコバルは面倒臭そうな顔をした。

「何だよ、シーマ(マクシーム)。それならそうと早く言えよ!」

「………あれか、目ぼしい学生を引き抜こうとしているのか? 自分のところに」

 少し考えた後、ドーリンの冷静な声が響いた。

「恐らくな。詳しいところは分からないが、考えられる理由としては、妥当なところだろう」

 そう言って、マクシームは優雅にカップを傾けた。

「相変わらず、地獄耳な男だ。だが、何もあの男自らが足を運ばなくともいいだろうに。無駄なことをする」

 スヴェトラーナが、ここぞとばかりに冷たく言い放った。

 そんな中、ユルスナールは一人じっと考え込むように口を噤んでいた。その顔が徐々に険しさを増す。眉間にぐっと深い皺が寄った。

 その脇で、ブコバルがふと思い付いたように声を上げた。

「リョウに聞いてみりゃあいいじゃねぇか。あいつはもう【パルトラー(15日)】は通ってるんだろ? ゲオルグみたいな目立つヤツがあんなところでうろついてたら、嫌でも噂になってるだろ。なぁ、ルスラン?」

 ブコバルは、そう言ってユルスナールを見たが、声を掛けられた当人は、考え込むようにして空を睨んでいた。

「おい、ルスラン?」

 ブコバルが大きな手をぞんざいにユルスナールの目の前でひらひらと振った。

「ん?」

 話を聞いていなかったのか、顔を上げたユルスナールにブコバルは再び同じ台詞を繰り返した。

「ああ。そうだな」

「そうと決まりゃあ」

 ブコバルはそう言って立ち上がると、のしのしと長い脚を繰り出して、扉の方に向かった。

「マクシーム。その噂が出てきたのはいつ頃からだ?」

 扉を勢いよく開くブコバルの背中を視界に止めながら、ユルスナールが低く聞いた。

「ああ、そうだな、確か……」

 そう言って、のんびりと視線を天井に向けたマクシームの横で、

「ここ五日程のことだと聞いたが」

 スヴェトラーナが表情を変えずに言えば、

「ああ、俺が聞いたのもそんなところか」

 マクシームも鷹揚に頷いた。

 それを聞いて、ユルスナールは無言のまま眉間の皺を一層深くしたのだった。




「おーい、リョウ!」

 いきなり応接室に通じる扉が勢いよく開いたかと思と、中からブコバルが顔を出した。

 お茶を飲みながら、のんびりと兵士たちと談笑していたリョウは、突然のことに驚いて振り返った。

「何ですか?」

 ソファーから立ち上がったリョウに、ブコバルは親指を立てて顎をしゃくって見せた。

「ちょっと、こっち来い」

 内心、首を傾げながらもリョウは大人しく求めに応じた。

「お前にちょっと聞きてぇことがある」

 ブコバルはそう言うと、リョウを応接室の方に引っ張り込んだ。

 そして、リョウは再び、ユルスナールたちがいる部屋に入ることになった。


 部屋の中は、何故か重たい空気が停滞するように淀んでいた。しかも、それは真正面の一人掛けの椅子に座る若干一名が、発生源になっているようだった。

「お茶のお代わりはいかがですか?」

 取り敢えず、話の接穂として聞いて見たが、それは空振りに終わった。

 ブコバルは、気に留めることなく、リョウを促すように自分が座っていたソファーに座らせて、後ろから華奢な肩に両手を置いた。

 まるで逃げるなとでも言いたげな仕草だ。

「あの………ブコバル?」

 リョウは不安そうにブコバルを見上げたが、心の内の疑問もとって付けたような笑みに阻まれてしまった。

 重たい空気の中、最初に口を開いたのは、ドーリンだった。

「リョウ、お前が通っている養成所で、妙な輩が徘徊しているというような噂はないか?」

「はい?」

 リョウは、問われたことの意味が良く分からなくて、目を白黒させながら横に座るドーリンを見た。

「なんですか? また、いきなり。変質者みたいな人が出没しているんですか?」

 あの辺りの界隈はあちこちに関所のような門番の詰め所があり、警備が厳しい筈なのだが、養成所の周囲はいつからそんなに危険な地域になったのだろうか。

「アハハハ。これはいい。大方そんなところだろうな」

 リョウの言葉に、突然、斜交いに座るスヴェトラーナが、声を立てて笑った。その端正な美人顔に似合わない豪快な笑いっぷりに、リョウは度肝を抜かれた。

「え? 本当に怪しい人なんですか?」

 思わず身を乗り出したリョウに、前に座るマクシームが、宥めるように片手を上げた。

 澄ました表情を取り繕ってはいるが、堪え切れない笑いを噛み殺すように口が不自然に歪んでいた。

「いや、そこまで心配をする必要はない。あの男は、それなりに身元はしっかりしているから」

 だが、それはやけに引っ掛かるもの言いだった。

「ええと、つまり、見慣れない男を見なかったかということですか? その人は、それなりに立場のある人なので養成所と外部を簡単に行き来できるけれども、学生たちの中では浮いてしまうというような?」

 リョウが果たしてそんな人があっただろうかと考えながら口にすれば、

「おや、理解が早くて助かるよ」

 マクシームは満足そうに微笑んだ。

 リョウはちらりと横目でユルスナールを見た。

 こちら側に来てから一言も口を開いていなかった。

 ユルスナールは、膝の上で組んだ両手の上に顎を乗せて、その眉間には深い皺が刻まれていた。前傾姿勢で上半身を前に倒しているので、直ぐ目の前に、感情を削ぎ落した作り物のような造形があった。何が気に食わないのか知らないが、酷く不機嫌そうだ。

 リョウはついと手を伸ばすと、ユルスナールの眉間を指で押さえた。そして、皺を伸ばすようにその場所の皮膚を横に引っ張った。

「ん?」

 ユルスナールがなんだとばかりにリョウを見た。

「ルスラン、極悪人みたいな顔をしてますよ」

 リョウがからかうように笑えば、額に置かれた指をそのままに、ユルスナールは不服そうな顔をした。

「すごい皺」

 くいくいと伸ばすように引っ張ってみる。

「君は見かけによらず、中々はっきりものを言うんだな。しかも大胆だ」

 そんな遣り取りを見て、マクシームは目を丸くした後、可笑しそうに笑った。

 その指摘にリョウは慌てて手を放した。

 ついいつもの乗りでやってしまったが、今は客人があったのだ。ユルスナールは曲がりなりにも第七師団の団長で、それなりに地位のある人間だ。今のは余りにも気安く接し過ぎただろう。


「……で、リョウ。思い当たる節はあるか?」

 やや強引に脱線しかけた話をユルスナールが元の位置に戻した。

 ユルスナールは体勢を元に戻して、椅子の背に身体を預けるようにして足を組み、肘掛に肘を突いて、頬杖を突いていた。

 改まった空気に、リョウは、これまでの情報を整理するように反芻してみた。

 自分の周りで見慣れない人物など居ただろうか。そういう怪しい人がうろついていたという話も友人たちからは聞かなかった。至って穏やかな淡々とした日々だったように思う。

「ここ最近のことですか?」

「ああ。そうだな」

 学生でも講師でもない人物。養成所にいるには違和感を覚えるような。

 そこまで考えて、リョウの脳裏には、ふと、とある人物の顔が思い浮かんだ。

 中庭のベンチで知り合いになったあの人だ。

「…………あ」

 でも、あの人は別段、怪しい人ではないだろう。そんな雰囲気は全くなかった。養成所を訪ねたのも用事があってのことであろうし。

 リョウは、そっと心の中で中性的で艶やかな笑みを浮かべる男の顔を思い出していた。

「なんだ? 心当たりがあるのか?」

 急に押し黙ったリョウに、ユルスナールがずいと身体を乗り出して来た。

「リョウ、気になったことがあるなら、大人しく吐いちまいな」

 ――――――その方が身の為だ。

 両肩に乗っていたブコバルの手に力が入り、リョウはそっと上を見上げて、そして後悔した。

 そこには、何故か兇悪な笑みを浮かべた精悍な男の顔があった。

 何だか捕らわれて自白を強要されている被疑者の気分になった。こんなのは【ツェントル】での取り調べ以来だ。

 そっと横を窺えば、続きを促すようにユルスナールがやけに真剣な顔をしてこちらを見ていた。

「あの……思い当たる節というか、……それに近い感じがしないでもないというか……」

 間違っていたら随分と失礼な話であるので、取り敢えず慎重に言葉を選んだ。

 何と言ったものかと躊躇っていると、

「要するに生徒でも教師でもない人物が居たということだな?」

 的確に合いの手を挟んできたドーリンに、リョウは半ば観念する形で頷いていた。

「お前は、どうやってそれを知った?」

 低く尋ねたユルスナールに、リョウは当時の事を思い出しながら口を開いた。

「少しお話をしたんです。最初は、同じ生徒かと思ったんですが、話している内にそれが違うことが分かって。でも、何をしている人かは知りません。軍部に関係しているというぐらいしか」

「もしかして、その人が君に声を掛けたのか?」

 マクシームが身を乗り出しながら声量を落とした。

 急に接近してきた男らしい顔にリョウは無意識に身を引いていた。

「はい。見かけない顔があるということで、気になったというようなことを仰ってました」

「会ったのは、その一度きり?」

「いえ。その後、大抵、日に一度はお会いしました。休み時間や空いた時間に中庭でお浚いをしていたりすると、どこからともなく現れるので」

 そこまで口にすれば、ユルスナールは、大きな手で顔を覆った。

「念のために聞いておくが、その人はどんな感じの人だった?」

 マクシームの瞳が怪しく光った気がした。

 目の前から醸し出される妙な威圧感にたじろぎながらもリョウは言葉を継いだ。

「こんなことを言うのもなんですけれど、妙に色気のある綺麗な男の人でした。どちらかというと中性的で余り男っぽさを感じさせないような人です。淡い金色の髪に薄い灰色の瞳をしていて」

 その時、急に肩に乗っていたブコバルの手に力が入って、太い指が食い込み、リョウは悲鳴を上げた。

「ブコバル、痛い」

「お、わりぃわりぃ。つーか、リョウ。お前、つくづく面倒なことに頭を突っ込みやがるな」

「なんの話ですか?」

 呆れたように言われて、リョウは思わず後ろを振り返ったが、

「で、その男はお前に何の用だったんだ?」

 ユルスナールの問いに再び顔を前に戻すことになった。

「そうですねぇ。最初は世間話みたいな雑談をしていたんですけれど、途中から雲行きが怪しくなって」

「あ?」

 何故かユルスナールから凄まれて、リョウは肩を揺らした。


 この国の人々は、会話の中で、もう一度、相手が言ったことを反芻したり(つまり、『え、なに?』という感じだ)、直近の相手の発言を確かめたり(『なんだって?』とか)、同意を求めたりする時(『ね、そうでしょう?』あたりだ)に、よく【あ?】という表現を使った。

 初めてこれを耳にした時は、どうしてそこで凄まれるのだろうかとたまげたものだが、今ではすっかりその使い方にも慣れ、自分で使っても違和感を覚えない位にはなったが、これまでユルスナールから自分に対して使われたことは余りなかったので、少々驚いてしまった。

 蛇足になるが、この場合、ユルスナールは、『なんだと?』という意味合いで使ったのだ。


「何を話した?」

 いつにない厳しい雰囲気の男を前にしてリョウは面食らった。何故、急に機嫌を急降下させたのか、その理由が分からない。何か不味いことでもあったのだろうか。

「いや、その、術師になったら、軍部に籍を置かないかと勧誘を受けまして……」

 そこまで言うと、只でさえ鋭く迫力のある男の目が眇められて、リョウは慌てた。

「勿論、丁重にお断りしましたよ? こっちにそんな気は全くありませんから。でも向こうも中々諦めが悪いようで、その後も何度か話を蒸し返されて。今の所、平行線を辿って……いま……す」

 そこまで語り終えると、何故か周囲には言い様のない沈黙が落ちていた。先程の比ではない位、重苦しい沈黙だった。

 リョウの背中には、冷や汗が流れた。良く理解できないが、何か大変なことをしでかしてしまったということは感じ取れた。

 そんな中、

「はぁぁぁぁぁ」

 ブコバルがやけに大げさな溜息を吐いた。

「おっまえなぁ、妙なもん引っ掛けてくるなよ。なんか憑いてんのか、こりゃ」

 緊張感のないブコバル特有の言い回しだが、そこには明らかに非難の意味合いが込められていた。

 リョウは見当違いな八つ当たりをされている気分になった。理不尽な言い掛かりだ。何故、そんな風に言われなければならないのか、全くもって理解できない。

「なにか問題でもありましたか?」

 不可解な気持ちを押し隠すように聞けば、

「大ありだよ」

 軽く頭を後ろから小突かれて、リョウは不機嫌さを隠すことなく口を引き結んだ。

「その男は名乗ったか?」

 再び、ユルスナールから問われて、

「あ、はい。ゲーラさんと仰いました」

 リョウはその人物から聞いた名前を告げた。

 すると。

 一瞬の間の後、何故か周囲は爆笑の渦に包まれた。

「あ?」

「アハハハ。なんだ、そのふざけた名前は」

「うっわ、あの顔でゲーラかよ」

「ハハハハ。それはあんまりだ」

「なんどもえげつない」

 ドーリンまでもが小さく喉の奥を震わせる始末。


 リョウは一人置いてけぼりを食ったように途方に暮れて周囲を見渡した。

 どこに笑う要素などあっただろうか。

 あの人は、自らゲーラと呼んでくれと言ったのだ。

 これまでこの国で培ってきた感覚から言えば、その呼び名とあの人は別段可笑しくもなかった。かなり癖のある人物であるには違いないが、理由なく貶める必要はない筈だ。

 ゲーラと言葉を交わしたことは、そんなに不味いことだったのだろうか。

 だが、それはユルスナールたちから見た見解で、リョウとしては単に少し話をしたということに過ぎなかった。それだけで、どうしてこのような仕打ちを受けなくてはならないのだろうか。勧誘の件もちゃんと断っているし、今後もその意志は変わらなかった。この事で彼らに迷惑を掛ける積りはないし、自分で対処する積りだ。

 ――――――それなのに。

 リョウは、突如として湧いてきた疎外感に虚しさを覚えた。それと同時に腹立たしさと苛立ちと口惜しさと哀しさと、様々な言葉にならない感情が一遍に押し寄せてきて、身体の内側が震えてくるのが分かった。

 この五人は、昔からの知り合いで知識も経験も共通の土台を持っている。張り合おうなどとは更々思ってもいなかったが、訳が分からない内に話が進み、挙句の果てに笑われるのは、それがたとえ自分のことでなかったとしても不愉快で仕方がなかった。

 リョウは拳を握り締めると高ぶりそうになる気持ちを鎮める為に深呼吸をした。

 このままこの場にいてはいけないと思った。きっと感情のままに余計な事を口走ってしまいそうだった。

 リョウは表情を消すと無言のまま、すっくと立ち上がった。

 そして、一呼吸。

 伏せていた顔を上げた時には、余所行きの笑みが張り付いていた。

「それでは話も終わりましたことですし、自分はこれで」

 ――――――失礼します。

 慇懃に礼をすると、その場から立ち去るべく踵を返した。

「あ、おい、リョウ?」

 突然のことにユルスナールが訝しげな声を上げたが、リョウは振り返ることなく室内を横切ると執務室へと通じる扉へ手を掛けた。

「どこへ行く?」

 急に硬化した態度にユルスナールは顔色を変えると椅子から立ち上がった。

 リョウは、扉を開くとその場で振り返り、どこか他人行儀な微笑みを浮かべた。

「今日はこれで失礼します」

 室内に残った人々に軽く会釈をして、開いた扉の向こうへ身体を滑り込ませるともやもやとしたものを断ち切るように空間を遮断した。




 執務室では休憩を終えた兵士たちが仕事を再開し、再び独特な摩擦音の混じる静けさが支配していた。

 応接室へと通じる扉が開いたことでグリゴーリィーが顔を上げた。

 それにそっと微笑んで。

 そのまま、出口に向かおうと足を踏み出した所で、閉じたばかりの応接室の扉が再び勢いよく開いた。

「リョウ、待て。一体どうしたんだ?」

 焦りの表情を隠すことなく、慌てた様子のユルスナールが足早に近寄って来た。

 リョウは歩き出していたが、不意に腕を掴まれて進行を阻まれた。

 思いの外、腕を掴まれた力は強く、リョウは痛みに微かに眉を寄せた。

「今日はゆっくりして行けるんだろう?」

 驚きと戸惑いがユルスナールの声には表れていた。

 リョウは、ぎこちない微笑みを浮かべて自分を引き留めた男を見上げた。そして、困惑を滲ませている瞳に向けて、緩く頭を振った。

「今日はこれで帰ります」

 腕を掴む手を外そうと手を掛けたが、逆にそれを掴まれてしまった。

「リョウ。何を怒っている?」

 その台詞にリョウは苦笑を返していた。そして、出来るだけ静かに言葉を紡いだ。

「怒っているのは、ルスランの方じゃありませんか? ワタシはゲーラさんと知り合いになった経緯をお話ししたまでです。ワタシにとってあの人は、単に挨拶を交わす程度の顔見知りに過ぎません。そのことをあなた方にとやかく言われる筋合いはない筈です。そちらには、そちらなりの事情があることは分かります。ですが、それにワタシを巻き込まないでください。訳が分からないうちに、あんな憤りやら不満やら不機嫌な感情をぶつけられても、ワタシには…どうしようも……ありません」

 小さくともリョウの声は静まり返った室内に響いていた。

 自分で言っていて、酷く悲しくなってきた。涙が滲みそうになって、慌てて顔を背けた。

「ですから、今日の所は、これで失礼します。色々と混乱してしまいそうですので」

 その述懐に、ユルスナールはあからさまに動揺したようだった。リョウの反応は、恐らく、思ってもみなかったものなのだろう。

 リョウが顔を背けた際に眦に溜まっていた涙が、一筋、頬を伝って落ちた。

「ルスラン、放してください」

 リョウは、こんな時でも微かに微笑みを浮かべて、困ったように掴まれた腕を見た。その様子は、どこか痛々しくさえあった。

 これならば、直接怒りを顕わにしてもらった方が、ずっとマシだった。まさか、このように哀しい微笑みと共に詰られるとは思ってもみなくて、胸が痛んだ。

 ユルスナールは、髪を掻き毟ると大きく息を吐き出した。

「リョウ、済まなかった。だから、そんな顔をするな」

 ユルスナールはリョウの身体を引き寄せると、まるで壊れ物を扱うようにそっと抱き締めた。そして、涙の滲む顔を自分の胸元に押し付けて、宥めるように軽く頭と背中を叩いた。

 ユルスナールは自分の至らなさを苦々しく思いながら口を開いた。

「リョウ、悪かった。お前に不快な思いをさせたな。俺の考えが足りなかった。謝る。だから、機嫌を直してくれ」

 ユルスナールは腕の力を緩めると、リョウの顔を覗き込んで頬に残る涙の跡を指で拭った。そして、その眦に許しを乞うようにそっと口付けた。

 広い執務室内は、異様な程の静けさと緊張感に満ちていた。誰も物音の一つも立てない。息をするのも躊躇われるように、じっと、信じられない面持ちで、この成り行きを見守っていた。応接室へと通じる扉は全開状態で、ここでの一幕は、全てあちら側にも筒抜けていた。

 停滞した空気を打ち破ったのは、応接室の方からその長身を現したブコバルだった。

「あー、ルスラン、その辺にしとけ」

 ブコバルは、そう言うと態とらしく咳払いをした。

 そして、どこか苦い顔をして、

「リョウ、悪かったな。お前がそんな風に受け取るとは思わなかった。取り敢えず、こっちに戻れ。な?」

 意外な程に優しい声音で諭すように言った。

 リョウは、顔を上げると気まり悪そうに目を泳がせた。

「すみません。みっともない真似をしました」

 それから、改めて周囲を見渡して、自分の置かれた状況を思い出したようだ。

 神聖な仕事場でなんてことをしでかしてしまったんだろう。

 穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさが込上げて来た。まるで癇癪持ちの子供みたいなことをしてしまった。

 だが、まず、仕事を中断させてしまった無礼を詫びなければならない。

 リョウは、ユルスナールの腕の中から離れると室内を振り返り、深々と頭を下げた。

「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。どうか続けてください」

 その言葉に、目があったグリゴーリィーは頷くと他の兵士たちを通常業務に戻るように促した。

 そして、ややぎこちないながらも、紙の摩擦音やペンを走らせる音が聞こえて来たのを背に、再び応接室の方に戻ることになったのだった。

 中に入ると、

「お騒がせいたしました」

 微妙な空気の中、リョウはスヴェトラーナとマクシーム、そしてドーリンに非礼を詫びた。

「いや」

「気にするな」

「リョウ、済まなかったな」

 ドーリンまでもが謝罪の言葉を口にして、リョウは小さく微笑むと緩く首を横に振った。

「てかさ。この辺でいいだろ。お前らも忙しい身なんだから、いい加減、戻ったらどうだ?」

 ブコバルのその一言で、この場はお開きになった。

 帰り際、ブコバルは客人二人に何事かを耳打ちした。二人は目を見開いて顔を見交わせたが、何も言わずに頷いただけだった。

 そして、二人の客人は其々の業務に戻るべく、自分たちの持ち場に帰ったのだった。




 シーリスが【アルセナール】にある第七師団の執務室に顔を出したのは、そんなぎこちない空気が漂っている時だった。

「どうしたんですか、一体?」

 開口一番、室内に漂う微妙な空気を感じ取って、シーリスはぐるりと周囲を見渡した。

 発生源を探す。その視線がとある一点で留まった。

 そこには、目の縁と鼻の辺りが少し赤くなっているリョウの姿があった。

 泣いたのだろうか。いや、この場合、泣かされたのだろうか。自己抑制の取れた落ち着いた性格をしているリョウが人前で取り乱すのも珍しいことだ。

 シーリスは、真っ先にリョウの元に歩み寄った。

「リョウ、こちらにいましたか。ちょうど良かったです。あちらへ連絡を入れようとしていた所だったんですよ」

 シーリスは、敢えて何気ない様子でこのいつもとは違う雰囲気には触れずに用件を切り出していた。

「どうかしたんですか?」

 シーリスに向けられた表情は、いささか硬さが残るものの、心配しているような影のようなものはなかった。それを感じ取ってシーリスは安堵の笑みを浮かべた。

「昨日お約束した街中見物に出掛けませんか? ちょうど時間が空きましたので誘いに来ました。今からでもどうですか? どうせなら夕食も一緒に取りましょう。美味しいと評判のお店に案内しますから」

 そう言って自信たっぷりに片目を瞑ったシーリスに、

「本当ですか!」

 リョウは途端に表情を明るいものにして食い付いたようだった。素に近い反応で作ったようなものではない。それを見て、シーリスも柔らかく微笑んだ。

 その横で急に入った横槍に不満そうな顔をしている強面の男が一人。そして、その状況を面白がっている態度のでかい男が一人。そして、その様子を一歩引いた立ち位置で淡々と眺めている物静かな男が一人いた。

 原因はここにあるのだろうことは容易に想像が付いたが、その中身までは流石のシーリスも分かりかねた。だが、それはこの場で追及することではないだろう。

「あ、でも……」

 リョウは、顔色を変え、躊躇うようにそっと隣に立つ不服そうな顔をしている男を仰ぎ見た。

 ユルスナールは、瞬時に表情を柔らかいものに変えると(その変わり身の早さにはシーリスも開いた口が塞がらなかった)、リョウの腰の辺りに手を伸ばし、そこを優しく叩いた。

「お前の好きなようにしろ」

 何の罪滅ぼしかは知らないが、酷く甘ったるい声を出していた。

 リョウは喜色を浮かべて頷いた。

「だが、俺も一緒に行くぞ?」

 そう言って、ユルスナールは横目にシーリスを見た。

 シーリスは、心の内でげんなりしながらも傍目には鷹揚に見えるように肩を竦めた。

「はいはい。どうぞ、構いませんよ」

 そして、序でとばかりにその横に視線を流した。

「ブコバルはどうします? それからドーリンは?」

 この二人も一緒に付いてくるのだろうか。

 そう思って訊けば、

「あー、俺はこの後、家に戻んなくちゃなんねぇから駄目だわ」

「俺は仕事が残っている」

 どうやら、二人は不参加のようだ。

「そうですか。それは残念ですね」

 そう口にしてはみたものの、言葉尻ほど残念には思っていない様子で、シーリスはおっとりと微笑んだ。

 その後、シーリスは、この場所で渉外活動や中央との折衝といった内部調整に携わり、この執務室全般を取り仕切っているグリゴーリィーと二、三簡単に連絡事項を取り交わす傍ら、さり気なくこの場であった一連の出来事について事情を聞きだしていた。

 そして、後に残すこの部屋の兵士たちに当たり障りのない情報を差し出してから、恐らく不自然な空気の原因となった二人を引き連れて、この場所を後にしたのだった。


ゲーラというのは、ゲオルグの愛称でした。

恋をしている間というのは、上手く感情がコントロールできずに、時として突発的激情にとらわれたりするものですが、今回のリョウも恐らくそのような感じです。いきなりな展開で分かりにくかったかもしれませんが、そのようなものだと思っていただけると助かります。

さて、今後ゲーラがどう絡んでくるのか。作者自身ドキドキしております。

それでは、また次回にて。

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