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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
131/232

アルセナール 3)


 リョウは、改めて気合いを入れるように立ち上がった。大分遠回りをしたが、なんとか目的地に辿り着けたようだ。

 だが、まだまだ安心できない。これからあの【アルセナール】の中に入って、ユルスナールの居る場所を探さなくてはならないのだ。

 【アルセナール】の入り口は広く、両側には門番の任に就く兵士が二名ずつ立っていた。共に隙なく肩当てやら胴当ての防具を身に着け、腰に長剣を穿き、長い槍を持っている。

 リョウは、緊張した面持ちで入り口を潜った。

 門番の兵士に咎められるかと内心、冷や冷やしたのだが、兵士は、通り過ぎる間際に左腕にある腕章を目で確認すると小さく頷いただけだった。


 内部は、外観から受ける印象に違わず、優雅で広々としていた。幅のある廊下の中央には臙脂色の絨毯が敷かれ、大きく切り取られた明かり採りの窓から差し込む日差しは、燦々と周囲を明るく浮き上がらせていた。

 さて、中に入ったはいいものの、ユルスナールの居場所が分からない。

 どうしたものかと考えていると、ちょうど前方から廊下をこちら側に向かって歩いてくる兵士がいたので尋ねてみることにした。

「あの、すみません」

 声を掛ければ、その兵士は書類を手に立ち止まり、見慣れない小柄な人物を不審げに見下ろした。

 この兵士もこの国の男の基準に違わず背が高く、体格もよい為、傍に立たれると言い様のない圧迫感があった。

「なんだ?」

「ちょっとお尋ねしたいのですが、第七師団の団長がいらっしゃる部屋はどこか、ご存知ではありませんか?」

 威圧感のある兵士は、リョウの左腕にある腕章に視線を走らせた。

「お前は第七の所属だな。自分のところの長がどこにいるかも知らないのか」

 思いの外、さげずむように冷たく突き放されて、リョウは内心、尋ねる相手を間違ったと思った。

 だが、表情を変えずに続けた。

「申し訳ございません。お恥ずかしい限りですが、王都は初めてでして、この場所を訪れるのも初めてなのです。今日、急遽、呼び出しを受けたものですから」

 淡々と最もらしい理由を述べれば、その兵士は鼻で笑った。

「ハッ、呆れたものだ。上が上なら下も下という訳か」

 何が気に食わないのかは知らないが、嘲るように吐き捨てられて、リョウは内心の憤りをぐっと堪えた。

 こちらに来て以来、これまで余り初対面の人からあからさまな敵意や負の感情を向けられたことはなかった(【プラミィーシュレ】での一件は特別だったとしても、だ)ので、正直、驚くと共に地味に傷ついたが、敢えて気に留めないことにした。

 どこにいても人がいる限り、様々な人間がいる。馬が合う、合わないということもあるだろう。世の中、善良な人ばかりとは限らないのだ。

 それに、この兵士は、第七師団に何やら含みがあるようだ。余りいい感情を持ってはいないことが言葉の端々に棘となって表れていた。

 軍部の中でも、互いに仲が良かったり悪かったりすることがあるだろうことは想像に難くない。

 知らなかったとはいえ、面倒な相手に声を掛けてしまった自分が、運がなかったという他ないだろう。


「すみませんでした」

 リョウはこれ以上、自分の精神衛生上の為にも、この男の手を煩わせる訳にはいかないと思い、そのまま、軽く会釈をして、通り過ぎようとしたのだが、

「おい、お前。どこに行く?」

 予想に反して、男に引き留められてしまった。

 リョウはなるべく感情を出さないように表情を消し、男を真正面から見上げた。

 どこか尊大な薄い緑色の瞳が、訝しげに細められていた。脇に流した濃い茶色の髪が、一筋、額際に落ちかかっていた。やけに高圧的な物言いが、板に付いた印象を受けるのを内心、苦々しく思った。

「いえ、これ以上、貴殿にご迷惑をお掛けする訳にはまいりませんので、自力でなんとかします。お忙しいところ、呼び止めてしまい申し訳ありませんでした」

 最後に薄らと儀礼的な笑みを刷いて、その場を立ち去ろうとしたのだが、その男は呆れたように息を吐いた。

「お前は場所が分からぬのだろう? 何も、教えないとは言っていないが?」

 不服そうな顔で見下ろされて、暫し面食らった。

 それならそうと言って欲しかった。のっけから嫌みのようなものを言われたので、男には教える気が更々ないのかと思ったのだ。紛らわしいことをする。

「ついでた。近くを通るから付いてくればよい。お前のような胡乱な輩にこの館内をうろうろされても困るからな」

 ――――――いちいち嫌味な男だ。

 高飛車に目線で促されて、リョウは内心、ムカッ腹を立てたが、向こうから見れば自分が不審者であることに違いはないし、一先ず案内をしてもらえそうだったので、その点は素直に従うことにした。

「ありがとうございます」

 親切なのか、そうでないのか、判断がつかなかった。

 早い話、利害が一致したというところか。

 こちらはユルスナールの居所が知りたい。で、向こうは自分のような不審者にこの場所でふらふらされるとかなわないということだ。

「おい、何をしている?」

 ――――――もたもたするな。

「あ、はい」

 再び歩き始めた男の後をリョウは慌てて追った。


 男は自分の速度(ペース)を乱すことなく、足早に廊下を歩いた。背も高く、足も長いので、リョウとの歩幅はかなりの差があった。

 リョウは遅れをとるまいと必死に足を繰り出した。

「それにしても、お前のところは不親切だな。田舎者にまともな案内も付けずにここまで来いと呼び付けるとは」

 男は念のため、こちらに入ることになった許可証の提示を求め、それを改めると、歩調を緩めることなく、そんなことを言った。

 リョウは押し黙った。

 ここでのしきたりが分からないので、迂濶なことは言えなかった。第一、自分は兵士ですらない。自分の認識が甘かったのか、ユルスナールもそこまでは気が回らなかったのか、それは分からない。

 男の言葉は辛辣だが、的を射ているし、どうも迷子になった自分を男なりに不憫に思ってくれたようだ。態度は横柄だが、それが男の標準仕様だと思えば、余り気にならなくなった。というのも、この男は、何故か、北の砦に居る気位の高い馬、スートを彷彿とさせたからだ。スートと同じと思えば、腹立ちは幾分、紛れた。

 この男は、元々気位の高い貴族なのかもしれない。この国は、身分社会が確立されている場所だ。誰もが平等という空気とはやはり違うのだ。自分には余り馴染みのない階級意識が、そうさせているのかもしれない。そう思い、これまでの不愉快な気分を慰めた。

 何も言わないリョウを横目に見て、男は歩きながらふんと鼻を鳴らした。

 だが、別段、気を悪くしたようではないようだ。


 それから黙々と歩いた。渡り廊下のような場所を抜けて、もう一つの建物の中に入った。

 道々、擦れ違う兵士たちが、少し前を歩く男に対し、慇懃に礼をしていった。

 もしかしたら、この男はそれなりに身分の高い兵士(もしくは階級が上か)なのかもしれない。そうであれば、偉そうな態度もそれなりに説明が付く。そんな相手をしょっぱなに引き当ててしまったことは、運が悪かったとしか言いようがないだろう。

 リョウにしてみれば一難去って、また一難であった。


 そこから階段を一段上がる。

 そして暫く歩いて、とある扉の前で足を止めた。

 入り口からは、かなり歩いた。建物も別棟に跨いでいた。確かにこれでは、到底一人では辿り着けそうになかった。

「あの男なら、この中だ」

 簡潔に告げて再び歩き出した男の背中にリョウは謝意を述べた。

「ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げれば、男は振り返って、何を思ったのか、再び、リョウの元に歩み寄った。

「お前、名はなんという?」

 顎を指で軽く持ち上げられて、男の顔を真正面から見る形になった。

「リョウです」

 頭上に沢山の疑問符を並べながらも淡々と男の問いに答えた。

「リョウ…………か。耳馴れぬ響きだな」

 男が名前を反芻して、すっと目を細めた。

「そうですか」

「国はどこだ?」

「分かりません」

 鼻先で訝しげに上がった眉に、リョウは苦笑するように眉根を下げた。

「自分は、孤児だったものですから。出自は分かりません」


 それは、以前、北の砦でシーリスたちと相談をした時に、自分の故郷を聞かれたときの答えとして提案されたことだった。

 自分の顔立ちと色彩はこの国では見慣れないものだから、その出自を必ず聞かれることになるだろう。その時に疑念を抱かれない為に事前にその辺りのことを打ち合わせておいたのだ。

 それが、『孤児』という設定だった。

 両親の顔は知らない。スフミ村の近辺でとある老人と共に暮らし、今回、育て親の老人がこの世を去ったことで、その伝を頼って北の砦にいる老人の遠い親戚だという兵士を訪ねた。そこで、シーリスたちに出会い、世話になったという筋書だった。

 ガルーシャの名前は、決して出してはならないときつく言われた。

 大体の設定としては無理のないところだったので、それはすぐに飲み込めた。

 二親は、つい最近まで実在したが(きっと今でも恙無く暮らしているだろうが)、もう会うことは叶わないだろうから、内心、心苦しくはあったが、仕方のないことだと諦めていた。嘘をつくことは苦手だが、本当の事を言えないのだから仕方がない。

 それに孤児と言えば、それ以上は、余計な詮索もされないだろうと見越してのことだった。

「………そうか」

 案の定、対する兵士の男は、その理由で納得したらしかった。打って変わって神妙な顔付きをした。そして、それ以上、出自の件を触れることはなかった。


 男は長い指を放すと、どこか不遜で高慢な笑みをその口元に刷いた。

「まぁいい。第七に嫌気が差したら。うちに来い。歓迎するぞ」

 指先で軽く弾くようにリョウの頬を叩いて、そんな気障な台詞を吐いて、どこか高慢な空気をその身に帯びた男は、何故か意気揚々と去っていった。

 リョウは、半ば呆気に取られて、その男の後ろ姿を見送った。

 ――――――なんだ、一体?

 男の姿が見えなくなってから、リョウはその男の名前を聞いていなかったと気が付いた。そして、当然のことながら、あの男が何処の誰かも分からなかった。

 ――――――だが、まぁいいか。

 あの男が何をしたかったのかは分からないが、思ったより悪い人ではなかったようだ。最後に態度を軟化させた男を不可解に思ったが、それ以上は、深く考えないことにした。

 世の中には触れてはいけないことが、ままあるものだ。


 リョウは、気分を入れ替えるとユルスナールが居るという部屋の扉の前に立った。

 そして、姿勢を正すと重厚な扉を静かにノックした。

 中から、了承の声が掛かり、ようやくとの思いで扉に手を掛けたのだった。



 中に入ると出迎えたのは、洗練された物腰の上背のある男だった。きっちりと隙無く正装である明るい灰色の軍服の詰襟を着込み、金色の髪は寸分の狂いなく、丁寧に後ろへ撫で付けられていた。

 体格はよい方だろう。鍛えられたしなやかな肉体の輪郭が優美な隊服の上からでも見て取れた。瞳の色は薄い灰色で、まなじりは薄く上がっている。その姿は、森にいる狼たちを想起させた。

 リョウが訪いを告げれば、中に入ってきた黒髪の小柄な人物の造形を見て、どうやら話を聞いていたらしい男は、鷹揚に一つ頷いた。

「お前が、養成所に通うという学生か?」

「はい」

「ルスランから話は聞いている」

 愛想の欠片もない事務的な態度だが、それは別段、気にならなかった。自分に馴染みある第七師団の領域と思えば、警戒を解くにはそれだけで十分だったからだ。

 男はそう言うと口の端に取って付けた笑みのようなものを一瞬だけ刷き、リョウに適当に座るように言い残した後、別室へと消えた。

 どうやら、ユルスナールを呼んできてもらえるようだ。

 そこで、リョウは、ようやく安堵の息を吐いた。

 ゆっくりと周囲を見渡す余裕が生まれた。


 中は、事務机のようなものが一列に並んだ広い空間だった。壁は相変わらず白とくすんだ空色を基調とした優雅な作りで、調度類も上品でいかにも値の張りそうなものばかりに見えた。

 ここで、第七師団に振り分けられた様々な案件を処理するのだろうか。事務方といった感じがする。

 机には、同じように軍服を着た兵士が書類片手にペンを走らせていた。

 静けさの中、紙が擦れる摩擦音とペンを走らせる音、それに中にいる兵士たちの咳払いや身じろぎの音が混じった。皆、其々に忙しそうである。

 リョウは、仕事の邪魔にならないようにそっと扉の端に立って待つことにした。

 机が並ぶ反対側の窓際の方に、小振りな応接用のソファーとテーブルがあったが、そこに腰を下ろすのはどうにも躊躇われた。


 ぐるりと室内を見渡した時に事務机に座り、書類を繰っている人と目が合って、小さく会釈をした。

 その人は、人懐こい笑みを浮かべるとこちら側に向かって手で応接用のソファーを指し示したが、リョウはそれに緩く頭を振って、気持ちだけもらうように感謝の意を込めて、そっと微笑んだ。

 こういうささやかな心遣いは、正直、心に染みた。ここに来る途中に受けた応対(不審者扱いやどこか冷たい横柄な態度)を思えば、涙が出そうだった。


 そうして、ぼんやりと待っていると、先程、体格の良い男が消えた扉が勢いよく開いて、中から、ようやく待ち望んだ銀色の髪と瑠璃色をした双眸を持つ人物が現れた。


 ユルスナールは、リョウの顔を見るとあからさまに安堵したような表情を見せた。

 そして、長い脚を繰り出して、足早に室内を横切ってリョウが佇む扉付近にやってきた。

「リョウ! 余り遅いから心配したぞ。大丈夫だったか?」

 いつになく口早なユルスナールの問い掛けに、リョウはなんとも言えない曖昧な笑みを返していた。

「すみません。遅くなってしまって。途中、道に迷ってしまったものですから」

 正直に吐露すれば、ユルスナールは心苦しそうに眉を顰めた。

「済まなかったな。この場所に不慣れなお前には大変だっただろう」

 ユルスナールがどこまで予想していたのかは知らないが、申し訳なさそうに告げられて、リョウとしては、気にするなとしか言いようがなかった。

「大丈夫です。途中、親切な方々にここまで案内していただきましたので」

 終わりよければ、全てよし。色々あったが、ティーダや先程の男のお陰で最終的に目的地に辿り着けたのだから、それでよしとしようではないか。

 待ち望んだ男の顔を見たら、現金なもので、これまでの不愉快な気分も霧散していた。

「そうか」

 ユルスナールはリョウの背中に手を当てて促すように歩き出した。

 途中、最初にこの部屋で待機していた厳かな空気を持つ兵士に擦れ違うと、

「グリゴーリィー、暫く、此方には誰も通すな」

 そう声を掛けた。

「ああ、了解した」

 ユルスナールの言葉にグリゴーリィーと呼ばれた兵士は、一瞬、動きを止めてこちらを見たが、小さく頷いた。


 そして、ユルスナールに連れて来られた場所は、二間続きの休憩室のような部屋だった。

 ゆったりとしたソファーとテーブルの置かれた応接室が手前の一間にあり、その奥に寝台の置かれた寝室と思しき部屋が見えた。

 ユルスナールはリョウを促して、まずソファーに座った。

 二人きりになって、リョウは漸く人目を憚らずに身体の力を抜くと隣に腰を下ろしたユルスナールの肩にそっと頭を寄せた。

 すると大きな手が背後から回り、腰の辺りをしっかりと支えた。労うように温かい手が堅い服の下の柔らかな線を暴くように撫でて行った。

「済まなかったな。本当は迎えをやる筈だったんだが、ちょっとしたゴタゴタで行き違いがあってな」

 ユルスナールは、顔を近づけると米神や頬桁の辺りに軽く唇を寄せた。

「いいえ、ルスランが謝る必要はないですよ」

 リョウは静かに苦笑を滲ませながら、緩く頭を振った。

「それよりも、忙しかったんじゃないですか?」

 案じるように、そっと隣に座る男を見上げた。

 【アルセナール】の内部は、兵士たちが忙しなく行き来していた。

 この場所はこの国の軍部を取り仕切る中枢だ。自分のような部外者には想像が付かなかったが、中に満ちている活気のようなものを感じ取れば、ここは日々、沢山の業務をこなす為に多くの人員が集う場所であることは理解出来た。

 自分の為に無理をしたのではないだろうか。

 そう思い心配したのだが、

「大丈夫だ。お前が心配することはない」

 そう言って、ユルスナールは男らしい笑みを刷いた。

 そのどこか尊大な態度も男の弛まない努力と自信に裏打ちされたものであると分かれば、なんだか頼もしい感さえあった。比べるのも妙なものだが、先程の兵士の場合とは大違いである。


「…………それよりも」

 ユルスナールの大きな手が、そっとリョウの頬を挟んだ。首筋を擽るように片方の指先が下りてゆく。そして、反対側の耳たぶに男の擦れた吐息が掛かった。

「今日はゆっくりしていけ」

 ――――――昨日のような邪魔は入らない。

 呪いのような甘い囁きに、リョウは身体の芯が痺れたような感覚を覚えた。

 昨日、忘れかけていた筈の熱を引き摺り出され、それが体内の奥で熾き火のように燻っていた。ほんの少しの火種で燃え盛るに違いない。着火温度は極端に低くなっていた。


 それから、どちらともなく視線を合わせると、昨日の隙間を埋めるように口付けを重ねた。

 柔らかな羽のような口付けが降ってくる。性急さは微塵も感じられなかった。

 本心を言えば、強引に無茶苦茶にされても構わなかった。だが、敢えて、勢いに流されないようなゆったりとした流れ(ペース)を崩さないのは、ユルスナールなりの考えなのかもしれなかった。

 焦らされれば、焦らされた分だけ、その後に得られる快楽は大きい。互いにそれを知っているから、今、ここで先走りそうになる気持ちに待った(ブレーキ)を掛ける。それにいい歳をした大人としては、余り余裕のない様を相手に見せたくはない。どちらも欲張りで意地っ張りだからこそのことでもあった。そんなところは、両者共に似ているかもしれない。

 口付けを交わしながら、ユルスナールの手は巧みに動いていた。

 リョウが身につけていた外套を鞄ごと滑らせ、上着の釦に手を掛ける。腰に穿いていた短剣の付いたベルトも右の太ももに巻いていた短剣のベルトも気が付けば取り払われていた。

 二人の人間が絡み合うには些か手狭なソファーの上に折り重なるようにして、リョウの重心は徐々に傾いで行った。

 ユルスナールの骨張った大きな手は、全身の形を確かめるように隅々まで這っていった。

 やがて、履いていた長靴を落とされる。衣擦れの音の合間にごとりと鈍い落下音が響いた。

 段々と深さを増してゆく口付けにリョウは夢中になっていた。男の首に腕を回し、指先に触れる逞しい肌の感触に半ば陶酔していた。

 だが、暫くして、ふと、ひんやりとした感触にリョウは閉じていた目を開いた。

 視界の隅に銀色の髪の他に、見慣れない優美な装飾の施された天井が目に入った。

 そして、急に我に返り、思い至った。ここは、ユルスナールの職場だということに。

 あの扉の先には、机を並べて、書類を繰っている兵士たちが忙しそうに働いていた。

 こんなところで、自分は何をしようとしているのか。

 リョウは急に現実に戻り、自分の置かれた状況を見て、ぎょっとした。

 ソファーの上で、自分より二回りは確実に大きな男の身体に圧し掛かられていた。その下にある己が上半身は、いつの間にか、シャツの釦は全開で、ズボンの留め金も開かれている。一言で言えば、あられもない格好だった。

 ソファーの周りに身に着けていた筈の上着や外套や長靴が散乱していた。

 ユルスナールの手は、その感触を確かめるように胸元の辺りを彷徨っていた。

「ルス……ラン」

 合わさった唇を解き、身を捩れば、がら空きになった首筋を熱い舌が這っていった。

「駄目……ですよ。こんな……ところで」

 リョウの形ばかりの抵抗など物ともせず、ユルスナールは己が唇と舌先を使って、隠されていた柔らかな肌を味わうように、その舌触りを堪能していた。

「ル…ス…ラ……ン!」

 堪らない刺激に思わず悲鳴のような声が漏れた。

 そこで、漸く、ユルスナールは顔を上げると意地の悪そうな笑みを浮かべてリョウを見下ろした。

「リョウ、余り声を上げると怪しまれるぞ?」

 ちらりと扉がある方へ視線をやってから、からかうように男の目が獰猛な色を帯びて細められた。

 リョウは慌てて音量を抑えて、声を低くした。

「ルスラン、こんなところで、駄目ですよ。向こうには仕事をしてる人たちがいるじゃないですか!」

 扉一枚隔てた向こうでは、日々の業務をこなしている人々がいるのだ。

「気にするな」

「気になりますよ。それに、まだ昼間ですし」

 ここまで流された自分も呆れたものだが、会って早々、こういう空気に持ち込んだ男をリョウは困惑気味に見遣った。せめて夜まで待ってと思うも、ひょっとしたらそんな時間など取れないのかもしれないと頭の片隅で思った。

「堅いことを言うな」

 ユルスナールが唆すような言葉を紡いだ。

 だが、ここで流される訳にはいかないだろう。

「だって、いつまた誰かが来るか分からないのに」

「それは大丈夫だ。此方には入らないように伝えてある」

「でも、急ぎの案件だったらどうするんですか。万が一ということもあるでしょう?」

「そんなものなどない。表のグリゴーリィーが対処する」

「…………でも」

「もう十分待った」

 抵抗を続けるリョウにユルスナールは痺れを切らしたように、その口を塞いだ。

「もう、黙れ」

 ――――――せっかくの時間がもったいないだろう?

「それとも、俺とこうするのは嫌か?」

 長く執拗に唇を合わせて、リョウの口腔内を蹂躙して行った舌先が名残惜しそうに唇の端を舐めた。

 それはずるい聞き方だとリョウは思った。

 嫌な訳があろう筈はない。それでも、事に応じるのに時と場所はある訳で。

 理性と衝動の天秤が大きく揺らいだ。

 それでも、リョウの理性は、いつ誰が踏み込むとも分からない職場で、ユルスナールの期待に応えることには二の足を踏んでいた。

 こんなところで、仕事の合間に情人(イロ)を連れ込んだことが外に漏れたら、それこそ、ユルスナールの立場を悪いものにするのではないか。醜聞もいい所だろう。

 敢えて、このような人の気配のする場所を選ぶことで却って興奮の度合いを増す性癖の人もいるだろうが、生憎、リョウはそういう性質ではなかった。こういうことは、秘めやかに人知れず行うものだ。誰にも邪魔をされない場所で。いつ誰かに見咎められるかもしれないというようなスリルなど求めていなかった。第一、集中できない。

「ルスラン、やっぱり無理です。落ち着かない」

 駄目だと苦言を呈しても、

「心配するな。直ぐに場所など気にならなくさせてやる」

 ユルスナールは、既に乗り気のようで、自信たっぷりにそう口にした。こちらの言葉に聞く耳を持たないようだ。

 ――――――だから、そうではなくて。

 リョウの心の内の叫び声が届いたのかは分からない。


 ―――――が、その時だった。

 ちょうど図ったかのような間合い(タイミング)で、部屋の扉が勢いよく開いた。そして、複数の足音と、話声が波のように押し寄せては引いた。

 瞬時に扉が閉まる音がして、リョウは身体を固くした。

 幸い、ソファーは扉から部屋の動線に並行して並んでおり、扉の方向に足を向けていたので、向こうの様子は見えなかった。

「うお? おいおいおい、マジかよ。ルスラン、昼間っから、んなとこでおっぱじめんなよ」

 ――――――こんな時に限って。

 聞き慣れた声と共に、こちらに近づいて来る足音がして、リョウは居たたまれなさに目を閉じた。

 ――――――万事休す。だから言ったのに。

 こんな時ばかり嫌な予感は当たるのだ。

 耳元で、ユルスナールが忌々しげに舌打ちしたのが聞こえた。

「……ブコバル、取り込み中だ。あっちへ行ってろ」

 ユルスナールは、底冷えするような低い声を出したが、それを物ともせずに、ブコバルは長靴の底を鳴らして、こちらに近づいて来た。

 上方に影が差した。そして、優美な紋様の描かれた天井を背景に、記憶の中にある造形よりは幾分こざっぱりとした、よく知った男の顔が逆さまに視界に映り込んでいた。

「よぉ、リョウ、元気にしてたか?」

 この状況を楽しむようにしてニヤニヤと意味深な笑みを浮かべたブコバルに、リョウは諦めたように息を吐いた。

 ユルスナールの手が止まったのはいいが、その代償がブコバルの乱入だと思うと複雑で仕方がなかった。こうなれば、どちらがマシだったかは分からない。

「ええ、お陰さまで、ブコバルも相変わらず、お元気そうで何よりです」

 逆さまに映る色艶の良い精悍な顔立ちと好奇に怪しく輝く青灰色の瞳に、リョウは淡々と返していた。

 綺麗に髭をあたった口元が、逆さのまま、にんまりと弧を描いた。

 ここまで来れば開き直るしかないだろう。ブコバル相手ならば、自分もかなり面の皮が厚くなったと思う。

 リョウは、辛うじて残る隙間から肌蹴たシャツを手繰り寄せ、前を掻き合わせた。

「ルスラン、退いてください」

 ユルスナールが、ぐったりするように脱力してこちら側に目一杯体重を掛けていた。その重みにリョウは息が詰まりそうになった。一向に引こうとしない相手の下から、身なりを整える為にリョウは抜け出そうともがいた。

「ブコバル、何の用だ?」

 昨日に引き続き、いい所でまたもや邪魔が入り、ユルスナールは苛立たしげに闖入者を睨みつけていた。

「おうおう、おっかねぇなぁ。んなこと言っていいのかよ、ルスラン。まだ入って来たのが、俺でよかったじゃねぇか、なあ?」

 だが、対するブコバルは飄々と肩を竦めて、同意を求めるようにリョウを見たが、リョウは口の端を引き攣らせただけだった。

「グリゴーリィーが居ただろう?」

 それは、言外にブコバル以外なら遠慮をしたであろうということが仄めかされていた。

「ああ、人払い中だとは言われたぜ?」

 ―――――――だけど、中に居るのは術師養成所の学生だって言うじゃねぇか。

 つまり、ブコバルは中に居る相手が、リョウであることが分かっていたのだ。それが知らない相手ならともかく、ブコバル自身もよく知る人物である。それならば、入室に何を躊躇うことがあるのかということだった。

 ユルスナールは、徐に身体を起こすと不機嫌な表情を隠さずに髪を掻き上げた。

 リョウはその隙にソファーから這い出ると、周囲に散らばっている上着やら長靴やら外套やらを抱えて目に付いた隣の部屋に駆け込んだ。そして、その場所で、再び身なりを整えることにした。

「でもよぉ、こっちはドーリンだけならまだしも、第一と第二が揃って顔出しに来たんだぜ。うっちゃっとけねぇだろうがよ。流石に」

 些か面倒臭そうに告げられたブコバルのその言葉に、ユルスナールはあからさまに苦々しい顔をして、押し黙った。

 要するにブコバルの判断は正しかったということなのだ。

「な? 俺でよかっただろ?」

 得意げに胸を反らしたブコバルに、ユルスナールは大きな溜息を吐いた。

「分かった。どうせ単なる挨拶だろう。こっちに通してくれ」

「りょーかい」

 そうして立ち上がったユルスナールは、手早く乱れた着衣を整えると、寝室の方に隠れたリョウに声を掛けた。

「リョウ、済まないが、これからここに来客がある。その間、そこで待っていてもらえるか?」

 同じく元通りに身なりを整えたリョウは、戸口からひょっこり顔を覗かせると穏やかに微笑んだ。

「ならば、お茶の用意をしましょうか?」

 その申し出にユルスナールは、少し考える風に顎に手を当てた後、小さく頷いた。

「そうだな。頼もうか。場所はグリゴーリィーに聞いてくれ」

「はい。分かりました。御客人は何名ですか?」

「俺とブコバルを併せて、五人か、その内一人は、ドーリンだ」

 【プラミィーシュレ】で世話になった第五師団の団長の名前が上がり、リョウは懐かしさに口元を緩めた。

「分かりました」

 そして、先程までの甘い空気が嘘のように、清々しい表情で部屋を出ようとしたリョウの腕をユルスナールは、咄嗟に引いていた。

 怪訝そうに向けられた顔に掠めるだけの口付けを落とした。

「済まないな」

 中途半端に煽られた所で終わり、燻る熱を些か持て余すようにして苦笑を滲ませた男に、

「別にいいですよ」

 リョウも同じように苦笑気味に返していた。

 そして、与えられた用事をこなすべく、先程の広い執務室のような場所へ通じる扉を開いたのだった。


またもや、いいところで邪魔が入りました。やはり、ここはブコバルです。中々、二人きりにはなれない模様。ユルスナールには、もう暫く、悶々としてもらいましょう(笑)

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