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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
128/232

学生寮の貴人

お待たせいたしました。再び、あの人の登場です。


 今日一日の講義を終えて、機嫌良く校舎を出たリョウは、出入り口のところでヤステルとリヒターに出くわした。

 二人もちょうどこれから寮に戻るところで、帰路を共にすることになった。

「なんか、いいことでもあったのか?」

 口数が多い訳ではないが、隣から醸し出される軽やかな空気を感じ取って、ヤステルがからかうように歩調に合わせて揺れる黒い髪を手で弾いた。

「随分と楽しそうだよね」

 リヒターからも指摘されて、リョウは小さく微笑むと、先程、イオータの研究室で課題のヒントを貰えたことを二人に話したのだった。

「うっわ、あの地質学者の部屋に行ったのか」

 だが、ヤステルとリヒターが食いついたのは、その講義の内容ではなく、リョウがイオータの研究室を訪ねたということだった。

「あの先生は、この養成所の中でもちょっとした名物だものね」

 相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべて、リヒターがおっとりと口にした。

「ヤステルもリヒターもあの部屋に入ったことがあるのか?」

 二人もあの凄まじい現場を目にしたことがあるのだろうか。

 そう思って尋ねてみれば、

「いや、話に聞いただけだ」

「僕も」

 二人ともあっさりと否定の言葉を吐いていた。

「でも、生徒たちの間じゃ有名な話だよ」

「なんつーか、紙一重ってやつだよな。術師ってのは大体にして変わり者みたいな目で見られたりするけど、あの先生は中でも飛び抜けてるし」

 リョウは、お茶目に笑うイオータの剥き出しになった犬歯を思い出していた。

 あの部屋を見なければ、普通に研究熱心な学者だと思っただろう。だが、ガルーシャの納戸を知るリョウにしてみれば、あの惨状も、まぁ納得の行く範囲内のことだった。

 何かに打ち込んで突出した才能を持つ人というのは、往々にして、常人には理解し難い拘りをみせたりするものだ。それが普通の人には行き過ぎに見えてしまうことも多々あるだろう。それでも、出されたお茶は普通以上に美味しかったし、臨時講義の内容も実に分かりやすく、リョウにしてみれば有意義な時間だった。


「でも、いい先生だよな。教え方は丁寧で分かりやすいし」

 リョウが同意を求めるようにそう言えば、ヤステルとリヒターは、一瞬、虚を突かれた顔をしてから、互いに目配せをし合った。

 そして、ヤステルは奇妙な唸り声を上げると空を仰いで、その赤みのある茶色の髪をガシガシと掻き毟った。

「だぁ~、やっぱ、リョウ、お前、すげーよ」

「へ?」

 突然上がった大声に訳が分からないという顔をすれば、その隣でリヒターが苦笑を漏らした。

「イオータ先生の講義は、ここでは難解だってことで有名なんだよ」

 そして、ヤステルの方をちらりと横目に見ながら声を潜めた。

「ヤステルは、この夏に講義を選択して、散々な目に遭ったらしいよ」

「……そうなんだ?」

「そう。僕も基本理論の方だけ選択したけど、難しかったなぁ。あの先生、興が乗るとすぐに話が脱線するし。まぁ、それはそれで楽しかったんだけどね。試験は大変だった」

 そう言って笑ったリヒターにリョウは曖昧に合槌を打つと、

「オレの場合は、偶々、肌に合ったのかもしれないな」

 軽く流すように小さく肩を竦めて見せた。

 一口に術師といってもその分野は広く、各人が目指す専門性もその素養の特質によって細かく分化する。得手・不得手というのは、往々にしてあるだろう。リョウとしては、イオータの講義内容の分野は、比較的、すんなりと頭と身体に入ってきたから、そういう捉え方をされているとは思ってもみないことだった。


 そんなこんなで、他愛ない雑談を交わしながら、寮への道のりを歩いた。

 学生寮は、その名の通り、養成所で学ぶ学生向けに用意された宿舎だった。寮費は勿論、掛からない。部屋は一区画に三人。扉を開けると、其々の独立した個室と、共同の洗面所と風呂があった。台所は自炊ができるように、各階に一か所、共同のものが設置されていた。

 リョウが入った区画は、偶々、他の生徒がおらず、一人でその場所を利用していた。

 中は、明るい白色系統で統一され、実に綺麗なものだった。学生用ということで、華美な装飾の類はなかったが、全体的に上品に纏められていた。

 暫く歩くとその宿舎の外観の石壁が見えてきた。周囲の空間に上手く溶け込んだ重厚な造りだ。寮は四階建てで、ロの字型をしており、採光の為に中庭が広く設けられていた。其々の個室は、全てこの中庭部分に面していた。


 玄関を潜れば、途端に特有のざわめきが広がった。

 入り口で寮の管理人に挨拶をする。

 既に顔見知りになった管理人は、帰宅した顔触れの中に黒い頭髪を認めると、小さく手を拱いて声を潜めた。

「おい、リョウ、さっきから、えらくびしっと決めた男前な兵士があそこに来てるんだが、ありゃぁ、お前の知り合いかなんかか? 何でも黒髪の小柄な奴を探してるって言ってよ。最近ここに入った奴だなんて言ってるから、こっちが知る限り、お前しかいねぇとは思ったんだが、何せ相手は中々の強面だからよ。万が一ってこともあるから、お前が来るのを待ってたんだよ」

 管理人は、その特徴的なしわがれ声で、リョウの耳元で口早に捲し立てると目線だけで玄関の奥にある談話や休憩用に置かれた椅子とテーブルが並ぶ空間を示した。

 そこは、何故か、人だかりのようなものが出来ていた。

 ちょうど講義が終わった時間で、学生たちの帰宅が重なる頃合いでもあったが、それにしても直ぐに自室に引っ込む筈の生徒たちが、遠巻きにうろついているように見えた。

 どうかしたのだろうか。

 リョウは、人垣の向こうにいると思われる人物を確かめようと首を伸ばしたのだが、如何せん、高い身長の学生たちに阻まれて、その姿を捉えることは出来なかった。

「リョウ? どうした? 部屋に戻らないのか?」

 管理人の所で足止めを食っていると先に歩いていたヤステルとリヒターが振り返った。

「ああ。先に行っててくれ」

 リョウは取り敢えず、声を張り上げた。

「じゃぁ、晩飯ん時、また声、掛けるからな?」

「ああ。分かった」

「じゃぁ、またね」

「ああ」

 そのまま、階段の方へ歩みを進めたヤステルとリヒターに手を小さく振った。


 その時、玄関付近の空気が不意にざわりと揺れた気がした。

 リョウは、なんだろうかと顔をそちらに向けた。

 すると学生たちの人垣がゆっくりと割れる。そして、その向こうから管理人の言う兵士であるという男が、その姿を現した。

 若い顔触れの学生たちの合間から覗いたのは、光を鈍く反射して輝く銀色の髪だった。

 筋肉質で体格の良い均整のとれた体つきにすらりと伸びた長靴を履いた長い脚が、ゆっくりとこちらに歩みを進める。黒い外套が、男の歩みに合わせて翻った。その下に現れたのは、艶やかな光沢を放つ明るい灰色の詰襟の軍服だった。男が歩く度に、腰に刷いた長剣が小さな音を立てて鳴った。

 リョウは、その人垣から割れて出てきた人物の姿に目を奪われていた。

 酷薄そうな作り物のような造形が変化を見せる。鋭いきらいのある吊り上がり気味の目が、細められ、その薄い唇が弧を描いた。

 リョウは視界一杯に広がる馴染み深い銀色と瑠璃色の対比(コントラスト)に、自然と笑みを零していた。

 鼓動が逸るように高鳴り始めていた。周囲にある筈の雑音が消える。全神経が、とある一点に集約されてゆくのが分かった。

 男の口元が小さく動いて言葉を紡いだ。音は聞こえなくとも、その唇の動きから自分の名前が呼ばれたことが分かった。

「……ルスラン」

 溜息混じりの声は、小さく掠れていた。

 心のどこかで、再び、あの男にあいまみえることを期待していた。

 日中は、余り考えないようにしていたが、夜、寝台の中で一人眠りに就くときに思い浮かべるのは、胸元にあるペンダントと同じ深い青色だった。優しさを湛えた紺碧の色。そして、記憶の中にある低い艶のある声だ。

 この身体に刻まれた形の無い刻印が、失った熱を呼び覚ます。胸の奥が締めつけられるような感覚に無意識に唾を飲み込んだ。


 リョウは、吸い寄せられるように静かに男に歩み寄っていた。

「ルスラン」

 差し出された腕に自らの体を重ね合わせた。爪先立って、首に回した腕に力を込めると精悍な頬に自分のそれをそっと擦り寄せた。

 鼻先を馴染み深い香りが掠めた。それをなんだか懐かしく思ってしまったことを心の内で可笑しく思った。

「お久し振りです」

「元気にしていたか?」

 大きな手が、頬の輪郭をなぞる様にそっと触れた。

「はい」

 小さく微笑めば、

「そうか」

 男が微かに口の端を吊り上げた。

 多くの言葉は要らなかった。

 いや、話したいことは沢山あった筈だった。今度、会った時は、あんな話をしよう、こんな話をしようと色々と考えていたのだ。新しい生活のこと。この場所で出来た新しい友人たちのこと。毎回苦戦している講義のこと。面白く、実に個性的な講師陣のこと。王都の街並みの印象……等々。でも、いざ、目の前で男の顔を見たら、そういった全てのことが直ぐに吹き飛んでしまった。今、純粋に男の顔を見て、その体温を身近に感じられたことが嬉しかった。

 それでも急激に高まった気持ちを押し隠して、軽い儀礼的な抱擁を解くと、リョウはそっと後ろを振り返った。

「ハノーさん。御心配をお掛けしました」

 カウンターから身を乗り出すようにして顔を覗かせていた管理人に、件の兵士が、自分の知り合いであることを告げれば、人の良い中年の管理人は、その小さな目を見開いて驚いたようだったが、直ぐに相好を崩した。そして、通常の業務に戻るべく、管理人室の中にその体格の良い身体を引っ込めたのだった。




「いつからこちらに?」

「ああ。着いたのは昨日の昼間だ」

 あれから、何故か周囲の生徒たちから注目を浴びていることに気が付いたリョウは、ユルスナールを伴って寮の自室へと戻って来ていた。

 二階の隅にある台所で、簡単なお茶の用意をしてから自室に戻れば、ユルスナールは外套を脱いで、窓がある方の壁に寄り掛かって、外の景色を眺めていた。

「ルスラン、どうぞ」

 お盆の上に並んだ茶器類を机の上に置いて端正な横顔に声を掛ければ、

「ああ、今、そちらに行く」

 ユルスナールは穏やかに微笑んだ。

 淹れたお茶を手渡せば、ユルスナールはカップに口を付けるとその口元を緩めた。

「ああ、旨い。お前のお茶を飲むのも久し振りだな」

 しみじみとそんなことを言った相手をリョウは可笑しそうに横目に見た。

「そんなことを言っても何も出てきませんよ?」

 何だか身体の内側がくすぐったくて仕方がなかった。


 学生寮に現れたユルスナールは、いつになく引き締まった印象を与えていた。

 無造作に掻き上げられていただけの髪は、綺麗に撫で付けられており、軍服の色も光沢を放つ明るい灰色で見慣れないものだった。下に穿くズボンもいつもの黒ではなく、明るい生成り(ベージュ)色だ。上着には沢山の銀色の飾り紐が装飾品として付いていた。襟元には、小さな青い石が徽章として煌めきを放っていた。

 玄関口で颯爽と現れた姿を見た時は、息が詰まるかと思った。それくらい立派に見えたのだ。

 清々しい立ち姿は、その男が持つ硬質な空気に実に似つかわしかった。

「それが正式な服装なんですか?」

 勉強机と対になっている椅子に腰掛けたリョウは、簡素な寝台の上で足を組んだユルスナールをまじまじと見つめていた。

「ああ。今日は朝から、宮殿や軍部の方に挨拶回りをしていたからな。あの中に入る時は、大体、この格好だな」

「そうですか。大変、よくお似合いですよ。さっきは一体、どんな立派な騎士様が現れたかと思いましたもの」

 何処か熱の籠った囁きを誤魔化すように、リョウは淹れたお茶に口を付けると、小さく微笑んでいた。

 対するユルスナールは、心なしかむず痒そうに顔を顰めた。だが、直ぐに思い直したように顔を上げると、

「リョウ、何故そんなところにいる?」

 自分の隣に来るようにと空いた空間を小さく叩いた。

「こっちに来い」

 リョウは椅子に腰掛けたまま、面映ゆそうにユルスナールを見た。

 すごく久し振りという訳ではないのだが、いつもと服装が違うだけで、自分が良く知る筈の男が別人のように見えて仕方がなかった。それが、妙な気恥ずかしさのようなものをリョウの中に生み出していた。

「リョウ? どうした?」

 目の端を若干、赤く染めて、恥じらうように男を見てはその目を伏せる。そのいつになく初々しい態度にユルスナールは可笑しそうに喉の奥を鳴らした。

「何をそんなに恥ずかしがる?」

「……だって」

 そう言ったまま、一向に椅子から動こうとしない。

 業を煮やしたユルスナールは、腕を伸ばすとその華奢な身体を自分の方へ引き寄せた。そして、軽々と膝の上で横抱きに抱えると骨張った男らしい剣ダコのある手を柔らかな頬へ滑らせた。

「リョウ、よく顔を見せてくれ」

 ―――――久し振りだからな。

 優しく触れる男の指に、リョウは顔をそっと上げた。

 すると予想以上に甘さを滲ませた瞳にかち合う。その瑠璃色の双眸の中に、同じように溶けた表情を晒している自分の顔が、みっともなく映り込んでいた。

 リョウは、何故か無性に居た堪れない気分になって咄嗟に目を閉じた。すると、ユルスナールが小さく笑ったのが、震える呼気から伝わって来た。

 間を置かずして、柔らかな口付けが降って来た。もしかしなくとも、それは相手には自分から口付けを強請ったように見えたらしかった。

 リョウは閉じていた目を薄く開いた。高い形の良い鼻と同じように閉じていた瞼から伸びる銀色の長い睫毛が眼前に迫っていた。それを見て、再び目を閉じた。

 緩やかに静かに口付けを交わす。換気の為に薄らと開けた窓から、学生たちの賑やかな話声が時折、響いてきた。

 口付けは段々と深さを増していった。混じり合う吐息が、狭い室内を満たしてゆく。

 内に潜む一抹の淋しさには、ずっと気が付かない振りをしていた。いつの間にか贅沢になってしまった自分を戒めるように、新しい環境に慣れようと必死だった。


「リョウ、寂しくはなかったか?」

 口付けの合間に紡がれる睦言に、本心をするりと隠した。大丈夫だと、敢えて微笑んで見せる。それは、自分なりのケジメでもあり、強がりでもあった。

「まだ、そんなに経っていないじゃないですか」

 最後に顔を合わせてから、それ程、時が流れた訳ではなかった。

 溺れる訳にはいかない。心配を掛ける訳にはいかなかった。

「随分とつれないことを言う」

 ―――――俺は寂しくて仕方がなかったぞ?

 そう言って、どこか酷薄そうに笑った男の顔を、胸内に生じた切なさのままに見上げていた。

「そんな顔をするな」

 それは一体、どんな顔なのだろうか。

「これでもかなり我慢しているんだ」

 何を我慢しているというのだろう。

 苦笑を滲ませた男の顔が、視界一面に広がる。リョウは、目の前にある薄い唇へ舌を伸ばすとぺろりとその場所を舐めた。

 ユルスナールは、大きく息を吐き出すと、腕の中にある華奢な身体を力一杯抱き締めた。

 急激な負荷に体中の骨が軋みを立てた気がした。

 頬に触れた胸部から伝わる男の心音が、早鐘を打っていた。

「ルスラン、苦しい…です」

 思わず苦情を言えば、

「この天の邪鬼め」

 そんな呟きと共に強引で執拗な口付けが、追い掛けてきた。


 気が付けば、リョウの身体は寝台の上に縫い留められていた。その上に男の重みが隙間なく圧し掛かる。上着を縁取る様々な飾り紐が、揺れて光を鈍く反射していた。

「ルスラン……駄目」

「何がだ?」

「これ以上は……」

 敢えて忘れていた筈の疼きが引き出されてしまう。

 小さな囁きに衣擦れの摩擦音が混じった。

「ルスラン…………駄目です」

「構わんだろう? これだけ煽っておいてそんなことを言うな」

「煽ってなんか……いません」

「そうか? 俺はお前に会いたくて仕方なかった。お前のこの甘い肌に触れたくて堪らなかった」

 ユルスナールは熱い吐息を吐くと器用に緩めたシャツの胸元を肌蹴させて、鎖骨の下に口付けを落とした。

「そんな…………」

 それは自分も同じだ。こんなに傍に居て、欲しかった温もりが、今、手の届くところにある。このまま流されてしまいたい。この男を感じたいという思いはリョウの中にも強く湧き上がっていた。

 だが、ここで首を縦に振る訳にはいかないのだ。


 ―――――なぜなら。

 リョウの予感を裏付けるように、部屋の扉をダンダンと叩く音がして、リョウとユルスナールは寝台の上で折り重なったまま、動きを止めた。

「あ、ヤステルたちだ」

 思った通り、晩御飯を一緒に食べようと誘いにやってきたのだ。

「ヤステル?」

 ぽつりと漏れた呟きをユルスナールが聞き咎めた。

 そうこうするうちに大きな声が室内の方まで響いて聞こえてきた。

「おーい、リョウ、晩飯、行こうぜー!」

「ここで新しく出来た友達です」

 身体を起こしたユルスナールの腕の間で同じように上体を起こせば、

「ほう? 男のようだな」

 声を聞いたユルスナールの目がすっと細められた。

 その反応にリョウが白けた顔をした。

「何を言ってるんですか。ここでもワタシは男扱いですよ?」

 ―――――北の砦と変わりません。

 そう言って、くすくすと小さく肩を震わせた。

「晩御飯を一緒に食べようって、いつも誘ってくれるんです」

 リョウがそう明かせば、ユルスナールはあからさまに気に食わないという顔をした。

「おーい、リョウ? 居るんだろう?」

 再び掛かった声に、リョウも返すように声を張り上げた。

「ああ、ごめん、今、行く!」

「おーう! 待ってるぜ!」

 リョウは身体を起こすと、未だ自分の上に乗っているユルスナールを促した。

「ルスラン、退いてください。取り敢えず、待たせる訳にはいかないので」

 邪魔が入ったことが気に入らないのか、不機嫌丸出しで眉を顰めたままのユルスナールにリョウはそっと口付けた。

 そして、隠していたはずの本心をほんの少しだけ覗かせた。

「続きはまた今度、ね? ワタシだって寂しかったですよ?」

 リョウのその言葉にユルスナールは、一瞬、虚を突かれた顔をした。だがすぐに、嬉しそうに相好を崩した。鋭い眦がいつになく下がっていた。

 男というものは実に単純な生き物である。それは、このユルスナールとて例外ではなかった。

「分かった。近いうちに必ずな。その為にはお前の予定を把握しておかないとな」

 俄然、張り切って今後の予定へと算段を巡らせ始めた男をリョウはおかしそうに流し見た。


「ルスランは、今どちらに滞在しているんですか?」

 肌蹴た胸元を整えながら、リョウは手早く部屋を出る支度をした。その合間にユルスナールを振り返った。

「ああ、俺は、本家……実家の方にいる。軍の宿舎の方にしようかとも思ったんだが、実家の方がなにかと都合がいいからな」

 ユルスナールは、手にした外套を再び羽織りながら答えた。

「じゃあ、今からは、そのご実家に帰るんですね?」

「ああ。近いうちにお前も呼んでやる」

 その言葉にリョウはぎょっとした。

「それは、いいですよ。きっとご迷惑をお掛けしますから」

 目の前で否定の意味合いを込めて両手を振った。

 貴族の邸宅だなんて恐ろし過ぎるだろう。只でさえ、養成所の煌びやかな空間に頭がくらくらするというのに。それに好いた男の実家とは、後ろ暗いところのある女にとっては鬼門以外なにものでもない。

 リョウの言葉に、ユルスナールは不服そうな顔をした。

「お前が変に気を回す必要はないが。………まぁ、おいおいな」


 そして、リョウはユルスナールを伴いながら寮の自室を出た。

 外の廊下には、ヤステルとリヒターだけでなく、バリース、アルセーニィ、ニキータ、要するにいつも一緒に食事をしている五人が勢揃いしていた。

「ごめん、待たせたな」

 扉を開けたところで、ヤステルの男らしい笑みにぶつかった。

「いや、大丈夫だ」

「お客が来てたんだ。下まで送ってくるから、先に食堂に行っててくれないか。直ぐに追い付くから」

 五人の若者たちは、リョウの後ろから現れた体格のよい男の姿に目を見張った。

「ああああ~!」

 バリースがいきなり大声を出した。

「ちょ、バリース、うるせぇ」

 ヤステルが慌てて、バリースの口を塞いだ。

「気持ちは分かるけど、それは不味いでしょ」

 リヒターも目を丸くしながらも呆れたようにバリースを見た。

「…………うっそ」

「…………あ」

 アルセーニィとニキータは、ぎょっとしたように目を白黒させていた。

 誰もが信じられないという顔をしている。

 バリースの大声に顔を顰めたリョウは、仲間たちの視線が隣にいるユルスナールに注がれているのに気が付いた。

 内心、苦笑い。

 確かに、ユルスナールはこの場所では目立った。只でさえ、人の視線を集める男振りだが、今の服装はこの国の軍部の正装で、贔屓めに見ても、はっきり言って文句なしに格好よかった。


 リョウの隣にいたユルスナールは、仲間たちの反応に別段、嫌な顔をするでもなく、徐に一歩、前に出た。

「リョウが世話になっていると聞いた。感謝する。ありがとう」

 存外、柔らかな声音で、ヤステルたちに話し掛けた。

 いち早く反応を返したのはヤステルだった。

「いえ、とんでもありません」

「これはこの通り世間知らずだから、迷惑を掛けるやもしれんが、宜しく頼む。仲良くしてやってくれ」

 そう言って、リョウの肩に手を置いた。

 リョウは急に保護者のような顔をしたユルスナールを内心くすぐったく思ったが、顔には出さなかった。ユルスナールの好意に口を挟む積もりもなかった。

「もちろんです」

「そうか」

 目を細めたユルスナールにやや緊張した面持ちで五人が頷いた。

 そして、ユルスナールがリョウの背中を促すように押した。

「じゃあ、オレはこの人を送ってから合流するから」

 リョウが間に入るようにして停滞気味の空気の流れを変えた。

「ああ、分かった」

 そして、五人とは反対方向に踵を返した二つのちぐはぐな背中に、バリースが声を上げていた。

「あの!」

 振り返れば、大柄なヤステルに後ろから羽交い締めにされる形で、身を乗り出しているバリースが見えた。それは、例えるなら、犬が尻尾を振って今にも飛び掛かって来そうな勢いに見えた。

「あの、不躾を承知でお尋ねしますが、軍の第七師団の団長さんですよね?」

 掛けられた声にユルスナールは、表情を変えることなく静かに頷いた。

「あの、今年も武芸大会に出場なさるんですよね?」

「ああ」

「俺、応援してますから!」

 その言葉に、ユルスナールは男らしい笑みを浮かべた。


 二人のやり取りに、リョウは昼間、ヤステルたちが武芸大会の話をして盛り上がっていたことを思い出した。

 バリースは感激したように固まっていたのだが、すぐに背を向けたリョウにはその様子はよく分からなかった。


 階段を二階から一階に降りながら、ユルスナールが口を開いた。

「あれが、お前の言う新しく出来た友達か?」

 何を思い出したのか、小さく笑う。

「はい。皆、不慣れなワタシに気を使ってくれて。優しいいい子たちです」

 穏やかに目を細めたリョウにユルスナールが緩く息を吐いた。

「そうか。お前にしてみれば、まぁ、年の離れた弟のようなものか」

 リョウの実年齢を知るユルスナールは、リョウが彼らに抱く感情をそう評価した。

 勿論、そこにはユルスナール自身の希望的観測も入っていることだろう。

「そうですね」

 リョウもユルスナールの妙な嫉妬の矛先が鈍ったことを感じ取って苦笑を漏らしていた。

「楽しくやってるようで、安心した」

「シーリスにも言われました」

「会ったのか?」

「はい。今日の午後に。義兄のレヌート先生を訪ねて来たところでした」

「そうか」

 リョウは、それからシーリスに会った昼間のことを掻い摘んで話した。

 そう言えば、シーリスもユルスナールと同じ格好をしていたことに今更ながらに思い至った。だが、あの時は思いがけず知り合いに出会えたことが嬉しくて、そこまで頭が回らなかった。勿論、正装はシーリスにも実によく似合っていたが、ユルスナールの時のような衝撃は受けなかった。それは、恋の欲目か知らないが、冷静に考えれば、現金なものである。


 それから管理人のいる部屋の脇を軽く会釈して通り、玄関に出た。

「リョウ、明日、また連絡を入れる」

「はい」

 玄関から外に出たところで、ユルスナールが足を止めた。

「いい子にしてろよ? いくら周りは男だらけだからと言って余所見をするな、いいな?」

 妙なことを心配するユルスナールをリョウはからりと笑い飛ばした。

「する訳ないですよ、余所見なんて」

 そんな暇などあるわけはない。

「そうか?」

 からかうように眉を跳ね上げたユルスナールに、リョウは表面上、ムッとしてみせた。

「そんなに信用なりませんか?」

 それはそれで業腹だ。

 だが、むくれ面も心の中で密かに待ち望んでいた相手を前にそう長く続く訳はなく、すぐに柔らかな笑顔になった。

「なるべく早いうちに続きをしよう。俺の我慢も限界に近いからな」

 ユルスナールは、リョウの柔らかな頬に手を滑らせてその感触を楽しむと最後に耳元で名残惜しそうに囁いた。

 深い瑠璃色に場違いな熱が揺らいでいた。

 それを正面からまともに見てしまったリョウは、内心のむず痒さを堪えるように微笑んでいた。

「はい。楽しみにしていますから」

 思いの外、素直な言葉を吐いた相手に満足そうに微笑むと、ユルスナールは軽く頬に触れるだけの口付けを落としてから踵を返した。

 リョウは、その逞しい背中が夕暮れ時の温かな橙色を背景に視界から消えるまで、その場所で見送ったのだった。


 それから、ゆっくりと身体を反転させると、足取りも軽やかに寮の中へ入り、五人の仲間たちが待つ食堂へと向かった。

 あの様子だと、ユルスナールとの関係を根掘り葉掘り聞かれそうだ。

 興奮したバリースの顔を思い出し、質問攻めに合う事態を予想して内心たじろいだが、それでも、ユルスナールに出会えたことが、かなり気分を上昇させていたのは間違いなかった。

 いつもは煩わしく思われる詮索もあの男の事を話すと思えば心が弾んだ。

 思っていた以上に浮かれている自分に内心、苦笑い。

 だが、そんなことも今の自分には楽しく思えるのだから、人を好きになるということは、実に不思議な変化を人の心にもたらすものだとしみじみと思った。


 そして、食堂に現れたリョウを待っていたのは、異様な程の熱気を憚ることなく剥き出しにした五人の若者たちだった。

 その余りの迫力にさすがのリョウもたじたじだった。そして、あっさりと前言撤回したい気分になったのだった。中でもバリースには鼻息荒く詰め寄られて、何故か、隊長と並んで第七師団の双璧との呼び声高いという(リョウはその時初めて耳にしたのだが)ブコバルに会わせる約束まで取り付けさせられてしまう始末。ブコバルは神出鬼没だから、そう都合良く会えるかは分からないと一応釘を刺して置いたが、相手の迫力に負けるように首を縦に振ったリョウに、バリースは俄然張り切っていた。

 そして、それからは、いかにあの二人が尊敬に値する凄い兵士であるかを滔々と語るのに付き合わされる羽目になったのだ。

 食事を終えたリョウは、やけに疲労困憊していた。主に精神的な面で。

 だが、それも終わってみれば楽しい一時でもあった。

 この王都(主に少年たちの間)でのユルスナールとブコバルの知名度と人気の高さには、正直、驚いた。ユルスナールはともかく、あんなきらきらとした目でブコバルを語られると反応に困ってしまう。リョウにしてみれば、ブコバルは癖のある、むさ苦しい女好きにしか見えなかったからだ。まぁ、あんな見かけでも、人の心の機敏には聡いし、いざとなれば仕事はきちんとするようだが。前途洋々たる若者にブコバルのような男になれとは、天と地がひっくり返っても言えそうになかった。本人が聞いたら確実に怒りそうだが、それがこれまでの付き合いの中で、リョウがブコバルに対して抱いた感想だった。

 まぁ、それはともかく。

 その日から、リョウの日常は、急に色が付いたように賑やかになったのは間違いがなかった。


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