罪と過ちの円環
とうとう始めてしまいました。第四章のプロローグ的なお話です。
―――――――【レス・スヴャシェンニィイ(聖なる森)】に神の御柱が立つ。
一年余りも前に東の神殿にもたらされた御告げが、再び、取り沙汰され始めたのは、この春先のことだった。
一人の男が、高台の上から遥か前方に霞む白亜の城塞を見つめていた。
周囲をぐるりと強固で堅ろうな白い石壁が囲む。その場所を中心として四方八方に網の目のように広がるのは、この国の街や村々を結ぶ街道だ。整備された広い道は、商いの荷を積んだ幌馬車や貴人を乗せた立派な馬車、騎乗した旅人や大きな荷を背中に担いだ商人など、様々な人々が行き交う様子が遠目にも窺えた。
色とりどりの煉瓦と彩色された壁が織りなす精巧な玩具のような街。
だが、あの内部には目も眩むような数多もの人々の暮らしがある。日の出から日没まで、いや、場所によっては昼夜問わず、眠ることのない人々の暮らしがあった。
長く伸びた鈍色の縮れ毛が風に靡いていた。尖った男の鼻と高い鼻梁から続く下がり気味の眦、そこにある赤みを帯びた茶色の瞳を掠めては、宙に踊った。
男の視線の先には、この国随一の繁栄を誇る王都【スタリーツァ】があった。この大陸にある諸外国の都市と比べても長い歴史を刻む古き都である。中央に聳える尖塔には、王の居城を知らしめす旗が優雅に風に翻っていた。
だが、今、男の目は、その悠然と佇む壮麗な街並みを映していなかった。
男の目裏には、とある双子の姿が焼き付いていた。残像のように立ち上っていた。
まだ年若い、屈託のない笑顔が二つ。
一人は、黒い豊かな縮れ毛を高く結い上げた飴色の肌をした女。瞳は限りなく黒に近い茶色だった。
そして、一人は、浅黒い肌に黒い瞳の男。長く伸ばした癖の無い焦げ茶色の髪は、風が吹くと戯れのようにさらりと揺れた。共に彫の深い、良く似た面立ちだ。
遠い西国の血を引くと言われていた忌み子たち。キルメクとの国境沿いの寒村に、病がちな母親と共にひっそりと暮らしていた。
隣国キルメクでは、双子は縁起が悪いと見做されていた。双子を産んだ母親は、そのうちどちらかを手放し、一族を取り仕切る女の下に預けるのが決まりだった。生まれたのが男と女であった場合は、後継ぎとなる男の方が優先された。共に同性であった場合、よく乳を飲む方を母親の手元に残した。
二人の母親は、この掟に背く形で家を出奔したのだった。そして、知り合いの伝手を頼って、この【スタルゴラド】の片隅に居を移した訳だったが、その場所でも、待ち望んでいたような穏やかな日常が得られた訳ではなかった。
というのも。
この国の西南地域の農村では、黒をその色彩に持つ者は、ある種の禁忌と見做されていたからだ。
黒い瞳を持つ女に誑かされて身を滅ぼした男の話や黒髪の男に騙されて世を儚んだ娘の話が、教訓めいた歌となって古くからこの地方に伝わっていた。
黒は滾るような熱さを秘めた禁忌の色。それをその身に持つ者に不用意に触れてはならない。触れたら最後、その身を焦がし、やがて全てを焼き尽くされてしまう。
黒は、人を惑わす魔力のような特別な力を体現している。
素朴な人々は、そのような言い伝えを未だに信じていた。
それは、往々にして、この国に比べて格段に開放的な風紀を持つお国柄の人々と交わった際に生まれた、この国の先人たちが得た苦い教訓であった訳だが、両者の関係性を客観的に眺め、そこに生じる文化的、若しくは風習の差異を詳らかにする中立者がいない限り、この国では、この国の人々の立場と常識に基づいた、ある意味、一方的な見方からしか、その教訓が語り継がれないものであるからだ。
だが、それは未知のものと交わった際の人間の防衛本能でもあった。そうやってこの国の人々は、先人の失敗から得た貴重な経験を元に己が身を守ってきたのだ。
ちょうど同じ頃。
禁忌を冒して生まれた命に東の神殿に仕える神官たちは、恐れ慄き、と同時に狂喜した。
神殿の奥深く、限られた神官たちの間に口伝で伝わる古の物語には、こうあった。
【黒は全きを飲み込む力。闇は無限の始まり。そが色を持つは内なる力を宿す。そを神の御許に還せしめよ。言祝ぎに応えむ。―――――――リュークス】
それは気の遠くなるような長い年月を経て失われてしまった切れ切れの記憶だった。虫食いだらけの穴開きでも、その伝承は神に仕える者たちとっては、崇高なる意味を持っていた。
祈りには対価、つまり、貢物が必要だ。それが大きければ大きいほど、得られるものも大きかった。
病がちの母親が身罷った頃には、残された二人の子供たちは、もう独り立ちをしてもよい年頃になっていた。そして、母親の弔いを終えてから一月ほど余りの後、親子三人がひっそりと暮らしていた寒村の東屋から、忽然と二人の姿は消えていた。
村の人間に聞いても、元々周囲から距離を置かれていた親子のことを特別に気に掛ける村人は居らず、子供たちの行方は分からなかった。貧しい暮らしに嫌気がさして、新たな職を求めて村を出たのだろうかと思い、街道沿いにある近隣の村々を探してみたが、二人の姿は見つからなかった。
この辺りでは余り見かけない特徴的な色合いを持つ男女だ。街道を行けば、それなりに目撃情報が得られるのではないかと当たりを付けて、あの小さな寒村を起点に街道沿いの村や町をくまなく探し歩いた。
だが、あの双子に関する手掛かりは、何も得られなかった。
そして、とうとう街道の終着地点である王都【スタリーツァ】にまで行き着いてしまったのだ。途中、【プラミィーシュレ】で、あの双子を彷彿とさせるような色合いを持つ少年を見掛けた時は、何らかの手掛かりを得られるかも知れないと心を高鳴らせたが、それも不発に終わってしまった。
二人の消息を尋ねる旅はまだまだ続いていた。傭兵や用心棒のような仕事をしながら、男はこれまで旅を続けてきた。
その合間に、風の噂に王都にある東の神殿で大々的な儀式が行われたことを耳にした。
今から約二年前、ちょうど男がこの旅を始めた頃と時を同じくしていた。
儀式というのは、神殿の通常のお勤めに則り宣託を得る為のものであったという。
どのような宣託が下されたのか。その内容は分からなかった。
東の神殿は、豊穣の神【リュークス】を祀る為のものであることは、この国の人間であれば、誰もが知る所であったが、その内実は多くの謎を秘めていた。神殿は、この国の王族と密接な繋がりがあり、それ故に、その場所は神聖視されていた。
男は神殿や宣託といった事柄には全く興味が無かった。別段、信心深い方でもない。
それなのに、その噂は何故か男の心に引っ掛かった。
男は前方を見つめたまま、緩く瞬きを繰り返した。
軽やかに歌い笑う二人の男女の残像が瞬く間に消えた。
そして、それに代わるようにして男の視線を捉えたのは、王の居城から見て東に位置する高台の上にある白亜の荘厳な建物だった。四隅には特徴的な丸屋根が乗っている。
あれが、東の神殿だ。
男はゆっくりと片手を額に宛がうと、降り注ぐ日の光を遮るように、遠く煌めきを反射する丸屋根を眺めた。
あの場所に、何らかの手掛かりがあるのだろうか。
王都は途轍もなく広い。そして、そこには沢山の人々が暮らしている。それに【スタリーツァ】には国内外を問わず、近隣諸国からも多くの人がやって来た。その中からたった二人の人間を探し出すというのは、恐ろしく骨の折れることに違いない。
だが、男は諦める積りなど更々なかった。それが唯一、あの二人の実の父親として、自分に残された罪への贖いだと考えていた。
この場所で何らかの手掛かりを得られるかもしれない。何故か、そんな気がしていた。
そして、男は、気持ちを新たに一歩、定めし都へと向かって足を踏み出したのだった。
澄み切った蒼穹は天高く、今日も気持ちの良い風がこの大地を吹き抜けている。
それは、冬も半ばのよく晴れたとある日の出来事であった。
補足その1):ここに登場した男は、第91話【スタローヴァヤの看板娘】の段で、出てきた人物です。皆さま、覚えていらっしゃいますでしょうか。
補足その2):ロシア民謡の中には、黒い瞳を持つ女に恋をして破滅をした男の話や、黒髪の男に恋をするなというようなお話が歌われたものがあります。黒は情熱を表す色でもあるようです。恐らく、各地を旅する【ロマ】の人々との交わりを念頭に置いたものなのでしょう。その流れを汲むスペインのフラメンコではありませんが、ああいったラテン系の熱いものに接触した上でのこととでも思って頂ければ。
初回から謎だらけです。見切り発車的な感が否めませんが、上手く話が繋がるように精進したいと思います。次回以降は、またがらりと雰囲気を変えて行ければよいかと考えています。