居候のかくも不運な一日
今回も兵士たちの日常をコメディータッチでお送りします。それでは、どうぞ。
思えば、今日は朝からツイていなかった。
いつものように手櫛で一つに束ねた髪を結えようとして、その結び紐がぷつりと切れたことから始まったようにも思う。
その紐は、元々かなり使い古したものであったので、偶々と言えばそうなのだが、そういう何かの切っ掛けになるような事象は、振り返ってみれば、やはり怪しく見えるものである。
ここ数刻余りの己の状況を反芻してみて、リョウの口からは長い溜息のようなものが漏れていた。
「何か、分からない所でもありましたか?」
比較的広い執務室にある応接用のソファに斜交いに座り、優雅でどこか気品すら溢れる仕草で手元の書類を静かに繰っていた人物から、柔らかな微笑みと共に尋ねられて、リョウは慌てて、小出しにしていた溜息を引っ込めると、誤魔化すような笑みを浮かべた。
「いえ。今のところは大丈夫です」
「そうですか」
柔和な面に人目を惹く菫色の瞳を細めながら、小さく首を傾げた拍子にその人物のほっそりとした顔を象る柔らかそうな薄茶色の髪がさらりと揺れる。後方で緩く結ばれたその髪は、恐らく自分のものと比べても長かった。
そのまま、にこやかな表情を崩すことなくこちらを眺める人物に、リョウは、些か居心地が悪そうに身じろいだ。
「あの、シーリス、どうかしましたか?」
時折、こちらに向けられる生温いような視線にとうとう堪え切れなくなって、リョウは口を開いていた。
「いえ。中々に良いものだと思いましてね」
朗らかな調子でしみじみと言われて、
「………はぁ」
リョウは曖昧な返事をした。
「何せ、ここはむさ苦しい男所帯ですからね。右を見ても左を見ても、目に入るのは髭面か、擦り傷だらけの顔か、一歩間違えば兇状持ちのような顔、それに小生意気な若造の顔。ああ、それから、融通の利かない堅物の顔というのもありますね」
今日も実に爽快。その毒舌は冴え渡り、眩しいまでの笑顔が漏れなく付いてくる。
「ですから、偶には癒しが必要だと今更ながらに痛感している訳ですよ」
その言葉にリョウは改めて自分の格好を見ろした。
今、自分が着ているものは、灰色の使用人風の地味なお仕着せだった。いつぞやの【プラミィーシュレ】で娼館の女主イリーナから譲り受けた女物の服だ。それに、お対になっていた白い前掛けをして、束ねた髪の上から【プラトーク】を巻き、足元は編み上げの【バチンキ】を履いていた。
これらの荷物は、【プラミィーシュレ】からの帰還の際に馬で来ていたユルスナールに自分の代わりに持って帰って貰ったものだった。後で、取りに行くと約束をした訳だったが、間違ってもそれをこのように北の砦の中で着用する羽目になるとは、露ほども思っていなかった。
こうなったのも全て、オレグの所為だ。
リョウは、半ば恨めしい気分で、頬にそばかすの残る、身体は成熟しているけれども、まだどこかあどけなさの残る青年の能天気に笑う顔を思い出していた。
あれは、厩舎小屋での手伝いを終えて、敷地内を宿舎の方へ戻ろうとしていた時だった。
「おーい、リョウ。ちょっとこっち来いやぁ!」
馴染みのある声に呼び止められて振り返れば、ぶんぶんと片手を大きく振っているオレグがいて、リョウはなんだろうかと首を傾げた。
オレグが居る場所には、他の兵士たちの姿もある。
あの場所は、確か水場であった筈だ。別名、洗い場で、夏場には兵士たちが訓練後の汗を流したり、普段は洗濯やらをするような場所だった。
その場所には井戸が掘られていて、周囲を囲むように煉瓦で囲いが施されていた。中では水が溜まり、洗い物をしやすいように設計されていた。
洗い場から少し離れた後方には、物干し台とそれを結ぶ綱が一緒に備え付けられていて、シーツなどの大きいものを洗ったりした後は、中々に壮観な長めだった。
少し嫌な予感がしないでもなかったが、無視するのも気が引けたので、取り敢えず傍に寄った。
「なあ、リョウ。暇だろ? 暇だよな? 手伝ってくんねぇ?」
―――――――後で、昼飯ん時でもおかず分けてやるから。
オレグは大きな図体に腰に手を当てながら、やけに爽やかに笑って見せた。ニカッとそれこそ白い歯を見せて。
だが、その足元には、目を背けたくなる程の沢山の洗濯物がこんもりと山のように積まれていた。
リョウはあからさまに顔を引き攣らせた。
「うっわ」
そして、眉を顰めた。
「そんなに溜めこんでたのか、オレグ」
もしかしなくとも、相当、洗濯をさぼっていたようだ。
「アハハハハハ。まぁ、なんだ。固いこと言うなって」
笑って誤魔化そうとするオレグをリョウは白い目で見た。
男所帯であるから、酷い場合は、物臭な性質の兵士によっては相当なものだろうとは思ってはいたが、リョウはこれまでの滞在中で、幸か不幸か、そういった男たちの生活の【暗部】を目の当たりにしたことが無かった。恐らく、綺麗好きな副団長・シーリスの影響(と言うよりも教育的指導の賜物)なのだろうが、皆、割と身綺麗にしていたから(無精髭はままあるにしてもだ)、まさか、こういう如何にもな場面に遭遇するとは、思ってもみなかったのだ。
だが、オレグならば、何となくこの状況も納得してしまう。本人が聞いたら『失礼な!』と眉を吊り上げそうではあるが、目の前には有無を言わさぬ証拠が広がっているのだから仕方がない。
「うへぇ」
余りの光景に、リョウの口から漏れたのは、周囲の兵士たちから伝染したと思われる若い男らしい口調だった。
気を付けないと段々と口が悪くなっている気がする。耳から入る言葉は、概して伝染しやすい。そして、無意識下に言語中枢に働き掛けるものなのだ。
若い兵士の言葉使いは、思いの外、自分の中に浸透していたらしかった。裏を返せば、それだけ、自分がこの場所に馴染んだことになるのだろうが、本来、女であるリョウとしては、その心中は些か複雑であるに違いなかった。
「なぁ、リョウ。手伝ってくれよぉ。兄貴を助けると思って」
少し情けなく眉を下げたオレグを前に、リョウは洗い場と洗濯物の山を見比べた。
「バァーカ、なま言ってんじゃねぇよ、コラ。てめぇのケツはてめぇで拭えっつの」
その傍らで、囲いの煉瓦の縁に腰を下ろして洗濯板を片手にオレグと同じくらい体格のよい兵士が、黙々とごつごつとした大きな手を器用に動かしながらも、険もほろろに言い放った。
大きな体の若い男たちが小さな洗濯板を片手に背中を丸めて洗濯に勤しむ。それは、中々、ある意味、壮観な眺めであった。
傍らでオレグを窘めたのは、この砦の兵士たちの中では中堅どころに当たるアナトーリィだ。口は悪いが、大きい身体の割には意外にマメで良く気の付く所のある男である。顔に似合わず(などと言ったら怒られそうではあるが)手先も器用で、繕い物が上手いことを食堂で小耳に挟んだ。
シーツなどの大きな洗い物の場合は、兵士たちの中では、当番制で洗濯をするらしい。中には、自分の分を弟分的下っ端に押し付ける場合もあるようだが、基本、兵士たちは各自の自己責任で身の回りのものの洗濯を行っているらしかった。
「それにしても、よくここまで溜め込んだな」
山になった中からシャツらしきものを一枚掴むと、リョウは信じられない気分で呟いた。
独特な汗の臭いと若い男特有の青臭い臭いが鼻に付いた。まさに発酵している感じだ。まさか、黴が生えているのではなかろうか。これを溜めこんでいた部屋の一角もかなり臭ったのではないだろうか。
それ以上のことを想像しようとして、慌てて脳内に展開された映像を消し去った。
恐ろしすぎるだろう。
オレグの部屋には、決して立ち入るまい。そんなことを思ってしまったリョウであった。
そして、リョウは、シャツを摘んだまま、洗い場に蹲ったオレグの手元を覗き見た。
洗濯板を使う手付きはかなり覚束ない。何というか大雑把である。隣のアナトーリィと比べるとそれは一目瞭然だった。今まで気に留めたことはなかったが、オレグはかなり不器用な部類に入るらしかった。
―――――――はぁ。
それ以上、黙って見てはいられなかった。
リョウは、心の内でとっぷりと溜息を吐くと、徐に上着を脱いで、シャツの腕を捲った。それから長靴も脱いで、ズボンの裾を膝辺りまで捲り上げ、オレグやアナトーリィたちと同じ格好になった。
「ほら、オレグ、そうじゃなくて。もっとこう縦を上手く使わないと」
オレグの手元から洗濯板を奪うと、見本として洗い方を実践してみた。
オレグは泥と汗染みの汚れと格闘していた。
「ほら、こうすれば落ちただろう?」
【プラミィーシュレ】でソーニャに教わったコツを披露すれば、
「すっげぇ、ホントだ」
途端に輝いて見開かれた眼差しに、リョウは仕方がないかとばかりに苦笑して見せた。
オレグには、なんだか憎めない所がある。ちょっと出来の悪い弟を見ているような気分だった。
それにリョウとしてはオレグには大きな借りがあった。この砦内でこれ程までに自分が受け入れられているのも、ひとえにオレグの存在があったからだ。
オレグが自分のことを何かと構ってくれたお陰で、すんなりと若い男たち中に溶け込めた形になったのだ。そのことは面と向かって口には出さないものの、感謝をしていた。
「ほら、次を寄越してくれ。オレが洗うから、オレグは濯いで干す方に専念しろ」
最終的に手伝うことになったリョウのその言葉に、オレグは喜色を浮かべた。
「【マラデェッツ】!!!」
そして、嬉々として洗濯物の山の中から、次の一枚を差し出した。
その遣り取りを横目に、隣からは呆れたような深い溜息が漏れた。
「リョウ、適当な所で切り上げろよ? コイツの落とし前はコイツに付けさせろ。ちょっとでも甘い顔すりゃぁ、すーぐ付け上がるんだから。この馬鹿が」
―――――――あんまり甘やかすな。為にならんからな。
流石、頼れる兄貴、アナトーリィである。オレグのことをよく見ている。
後輩の指導に当たる立場からしてみればそれは尤もな事だった。
「そうですね」
その気持ちは良く理解出来たから、リョウも素直に同意を示すように微笑んで見せた。
そうこうする内に、
「オレグ、きたねぇぞ!」
「ずりぃ!」
「そうだ! オレグの分際で!」
同じように洗い場にいた他の兵士たちが、ガヤガヤと野次を飛ばし始めた。
皆、同じようにそれなりに広さのある井戸の周りに陣取って、洗濯板を片手に背中を丸めていた。
今日は朝からすっきりとした晴天で風もあるから、大きな洗い物でも瞬く間に乾くだろう。
絶好の洗濯日和だった。
「ハハハ。いーだろ。お前ら。これも俺の人徳のなせる業だな!」
―――――――なんだって???
リョウが横目に見遣れば、鼻高々にふんぞり返った大きな背中が見えた。
急に大きく出たオレグの態度に、リョウはアナトーリィと顔を見交わせると、あからさまに呆れたような顔をした。
だが、それもすぐに可笑しそうな笑いに変わった。
全く調子がいいったらありゃしない。でも、それが良くも悪くもオレグなのだ。
「しっかしさぁ、オレグ」
ごしごしと洗う手を止めて、リョウは隣で大人しく濯ぎをする為に身体を丸めている大きな背中を振り返った。
「こういう汚れは放って置いちゃ駄目だぞ? 時間が経てば経つだけ落ちにくくなるんだから」
一体、いつ付いた汚れなんだかというような食べ零しみたいな染みに、思わず愚痴の一つも出ようというものだった。
当の本人は、ちらりとリョウを横目に見ると、誤魔化すように態とらしい笑みを浮かべた。
「エヘヘヘ」
「…………全く」
リョウは、だらしのないオレグへの小さな怒りを洗濯板の上にあるシャツの大きな染みに向けたのだった。
せっせと手を動かし続けた甲斐あってか、山のようにあった洗濯物は瞬く間に無くなっていった。その代わりに物干し台の方は、沢山のシャツが風に煽られるようにして翻り、中々に凄いことになっている。
リョウは最後と思われる一枚に手を掛けた。
しぶとい大きな泥の汚れもどうにか落とした。
いい加減、手がふやけそうだ。
冬場になり井戸の水は冷たさを増していた。それでも川の水よりは格段に温かいのだろう。
だが、今も昔も洗濯は重労働であることに変わりはなかった。
度重なる摩擦に指先がひりひりし始めていた。
「終わったぁ!」
「【ウラー】!!!」
最後の一枚を洗い終えると、達成感に思わず大きな声が出た。
「さっすが、リョウ、やるぅ~! よっ、男前! 出来る男!」
調子の良すぎる囃し声に、リョウは思わず、直ぐ傍らにあった薄茶色の頭髪を拳で小突いていた。
「調子に乗るな。これからは溜めこむ前に洗えよ?」
「【ポーニャル】!!!」
そうして、長いこと屈んでいた腰を伸ばそうと立ち上がり、両手を上に突き出して、大きく伸びをした時だった。
―――――――ズバッシャーン。
幾ばくかの衝撃の後、ふと足元を見下ろせば、滴り落ちる雫がぽたりぽたりと乾いた土の上に染みを作っていた。ずぶ濡れになって張り付いた頭髪と顔を手で拭う。そのまま、緩慢な動作で、自分の身体を見下ろせば、シャツがびっしょりと濡れて身体に張り付いていた。いや、シャツだけではない。右半分の下半身、腰から膝に掛けても、生地がすっかり色を変えていた。
どうやら頭から水を被ったようだった。しかも大量に。
冷たすぎる。
「うっわぁ、リョウ!!!」
「がぁ~、外れたぁ。オレグ、てっめぇ、なに避けてんだよ!」
「うっせぇ、ボケ。普通、避けるだろうが! 反射神経舐めんな!」
「馬鹿野郎、何やってやがる!」
「大丈夫かぁ?」
「うわ、派手にやったなぁ。びしょ濡れじゃねぇか」
「おいおい、風邪ひいたらどうすんだ」
後ろを横目で透かし見れば、大きな洗い桶を片手に担いだ兵士の顔が見えた。
焦げ茶色の短い頭髪が跳ね上がっている。あれはグントだ。と言うことは、先に洗い物を終えたグントたちが、オレグをからかおうとしたのだろう。こういった犬のじゃれ合いのようなことはこの砦内ではままあることだ。それに巻き込まれた形になった。なんとツイていない。
リョウは無言のまま、すぐさま洗い場から足を引き抜いて、脱いだ上着と長靴のある方へと足早に歩いた。
リョウは内心、酷く焦っていた。あの桶を見る限り、相当な量の水を被ったのだろう。濡れて身体にぴったりと張り付いた白いシャツは肌を透けさせていて、上手く隠していた筈の身体の線と少年にはある筈の無い膨らみを暴きだしていた。
このままでは非常に不味い。
頭から滴り落ちる水滴をそのままに、リョウは上着と長靴を胸元に抱えると、裸足のまま反転し、宿舎の方へと駆け出した。
「あ、おい、リョウ?」
「すまん、リョウ!」
「大丈夫か?」
掛けられた複数の声に、リョウは我に返ると足を止めて振り返った。
「ああ、平気だ。気にするな。濡れたから、着替えてくる!」
声を張り上げてそう簡潔に言い放つと、己の部屋に戻るべく宿舎の方へ走り出した。
そして、漸く辿りついた玄関先で、運悪く、この砦の幹部連中に出くわしてしまったのだ。
やはり、今日は厄日か何かなのだろうか。そういう概念がこちらにあるとは思えなかったが、そう口にせずにはいられなかった。
ここまで裸足で駆けて来てしまったから、足裏だけでも簡単に埃を落とそうかと隅の方でもたもたしていたのが良くなかったのかもしれない。ここでの生活は、室内も普通に土足であるから、本来ならば、そのような事を気にしなくてもよかったのだろうが、余りに気が動転していた所為で、ついつい幼い頃から身体に染みついていた【室内土足厳禁】という習慣が、無意識の行動として現れてしまったようだ。
すっかりずぶ濡れになったリョウを見て、ユルスナールはぎょっとして、黒い長靴の踵を踏み鳴らしながら足早に寄って来た。
「リョウ、何だ、そのザマは?」
「あ、いや、その」
男の鋭い声に驚いてか、しどろもどろになったリョウに、近づいてきたシーリスが柔らかく声を掛けた。
「おやおや。びしょ濡れじゃないですか。可哀想に。ああ、ほら、早く拭わないと、風邪をひきますよ?」
そう言って、懐からハンカチを取り出すと、濡れそぼった顔を拭い始めた。
そこで漸く、最初の衝撃から立ち直り、人心地ついた気分で顔を上げた。
冷たい水を被った所為か、リョウの唇は青くなっていた。
「洗い場で、その、洗濯に付き合うことになって。そこで運悪く水を被ってしまったようで」
オレグの名前は敢えて出さなかった。そして、グントたちの名前も。別に彼らを責めたい訳ではないからだ。
「おうおう、何だぁ、えらいことになってんなぁ」
ひょっこりユルスナールとシーリスの合間から顔を覗かせたブコバルは、リョウの姿を見て目を丸くした後、直ぐにその口元にニヤニヤといやらしい笑みを刷いた。
「こいつぁ、えらく気前がいいことで」
うっそりと細められた青灰色の瞳の視線の先を辿り、そこに透けて形が顕わになっている自分の胸元を認めて、リョウはぎょっとして咄嗟に腕で前を隠した。
「………ブコバル」
窘めるようにユルスナールがその名前を呼んだ。
そこに、つい今しがたまでは三人と一緒にいた筈のヨルグが大きなタオルを手に戻って来た。
こういうところは流石、有能な補佐官だ。
「リョウ、これを使え」
「あ、ありがとうございます」
差し出された物を受け取ろうとしたのだが、リョウの手が伸びる前に、ユルスナールがそれを掴み、リョウの上に頭からすっぽりと被せた。そして、片方の手で、黒い髪を束ねていた組み紐を解くと、滴り落ちる髪の水分を拭うように存外、優しい手付きで、拭き始めた。
「全く、風邪をひいたらどうするんだ。今は冬場なんだぞ」
その声に合わせるかのように、大きな手の下から、小さなくしゃみが漏れた。
「ほら、言わんこっちゃない。大丈夫か?」
「はい」
「一緒にいたのは誰ですか?」
何故か弾んで聞こえたシーリスの声音に、リョウは小さく肩を跳ね上げた。
ここで、一緒にいた兵士たちの名前を挙げたら、皆、シーリスの地獄の説教部屋へ直行なのだろうか。そもそもの元凶となったオレグなんぞは、ここぞとばかりに絞られるのではなかろうか。
リョウが内心、恐々としていれば、
「それにしても、おまえ、ズボンも濡れてるじゃねぇか、その分じゃぁ、下着までぐっしょりなんじゃねぇの?」
ブコバルがやけに楽しそうに言い放った。
人の不幸を餌にするとはけしからん男だ。
リョウは思わず、ブコバルの長靴を履いた膝の部分を裸足で蹴り上げていた。弁慶の泣き所だ。入る角度によっては相当痛い筈だ。
「イッ!」
小さく顔を顰めた相手に、ほんの少しだけ溜飲が下がった気がした。
「リョウ、こっちへ来い」
粗方水分を拭った後、ユルスナールに、有無を言わさぬ低い声で促された。
そして、大きなタオルを肩に掛けたリョウは、ユルスナールに伴われて団長室に入り、そのまま浴室へと押し込まれる形になった。
「よく温まれ。いいな?」
湿った髪を梳く様に撫で付けられて、リョウは苦笑を滲ませながらも素直に頷いた。
別に態々団長室でなくとも、今、間借りしている一室で十分であったのだが、それは口には出さなかった。
「着替えは用意しておく」
そう言って、ひっそりと微笑んだ冷たいきらいのある面に、リョウは内心、一抹の不安を覚えないでもなかったが、水を浴びてからそれなりに時間が経って身体が冷えてきたのも確かであったので、直ぐに風呂を使うことにした。
【プラミィーシュレ】では、この国にも【シャワー】があることを知った。こちらでは【ドゥーシュ】と呼ばれていた。
その機能は、ここにも備わっていたりするのだろうか。
そう思って、浴室をよく観察してみれば、浴槽の上部に似たような注水石が見つかった。
そして、すっかり冷えてしまった身体を温かな湯を浴びて温めたのだった。
ヨルグが持ってきてくれた大きなタオルで身体を拭く。それをそのまま身体に巻いて、リョウはそっと浴室の扉を開けた。
そこは寝室で、大きな寝台にはユルスナールが腰を下ろしていた。
戸口から顔を覗かせた黒い頭部に気が付いて、ユルスナールが小さく微笑んだ。
「温まったか?」
「はい」
「そうか」
着替えを用意しておくと言ったユルスナールであったが、その周りにはそれらしき物は見受けられなかった。
「あの、ルスラン。着替えは?」
おずおずと聞いてみれば、
「ああ。今に持ってくる」
そう微笑むとユルスナールはリョウに傍に来るように促した。
タオルを巻いただけの姿は、酷く落ち着かなかった。ブコバルが指摘した通り、ズボンの方もかなり濡れていて、結局下着まで行っていたのだ。
リョウは、浴槽の中でざっと着ていたものを洗った。後で、持って帰って干さなくてはならないだろう。
ユルスナールの下に行けば、引き寄せられて、いつの間にか逞しい腕の中にいた。
「もしかしたら、バレてしまったかもしれません」
先程の洗い場での顛末を簡単に話した後、リョウは少し複雑な顔をして微笑んでいた。
対するユルスナールは、少し考えた後、静かに口を開いた。
その口元には薄らと笑みが刷かれていた。
「アナトーリィは、ああ見えて勘がいい奴だから気が付いたやもしれんな。だが、あれは思慮深い男だ。口も固い。まぁ、好奇心は人一倍ある奴だから、後でこっそり確かめに来るかも知れんが、心配はいらないのではないか」
確かに、ユルスナールの言う通り、アナトーリィに関してはリョウも心配はしていなかった。
「オレグやグントたちは気付かんだろう」
「……だといいんですけど」
宥めるように抱いた肩を男の手が優しく撫でた。
「まぁ、気が付かれたら最後、お前は堂々としていればいい」
「無駄に混乱を招くことにはなりませんか?」
「ハハハ、そうなれば暫くは砦内がざわつくだろうな」
リョウの心配を余所にユルスナールは大して深刻には捉えていないようだった。逆になんだか楽しんでいるような節がある。一時はどうなる事かと思い肝が冷えたのだが、この砦の長がそう言うのであれば、余り気に病む事もないのかもしれないと思い直した。
「それよりもルスラン、こんなところにいていいのですか?」
「ああ、大丈夫だ」
忙しい筈の男の予定を狂わせてしまったのではないかと案じたのだが、気にするなと微笑まれてしまった。
すると、隣の執務室の扉が開く音がして、リョウは無意識に肩を揺らした。
直ぐに寝室の扉が軽くノックされて、
「ルスラン? お持ちしましたよ」
シーリスが訪ねてきたことが分かった。
ユルスナールの了承の声に扉が開く。
「え、ルスラン?」
タオル一枚巻いただけのリョウは驚いて、身を隠す為に立ち上がろうとしたのだが、肩に回された男の腕に動きを阻まれてしまった。
リョウは居た堪れなさにそっと目を伏せた。
だが、中に入って来たシーリスは、寝台に座るリョウの姿を見ても、別段、気に留めた様子は見られなかった。
「はい。こちらでよろしいですかね。解れ掛かっていた所は繕っておきましたから」
そう言って、いつも通りのにこやかな微笑みと共に差し出されたのは、リョウにとっては、身に覚えのある服だった。
灰色の使用人風のワンピース。【プラミィーシュレ】で娼館の女主イリーナから譲り受けた代物で、ユルスナールに持ち帰って貰ったものだった。
リョウは、虚を突かれたようにシーリスとユルスナール、そして、差し出された灰色の女物の服を見比べた。
「これを?」
ここで着るのか。
間借りしている部屋に戻れば、もう一着分の着替えはあった。
この場所で、明らかに女物だと思われる物を着てもよいのだろうか。
内心の戸惑いを余所に、シーリスは穏やかな微笑みを浮かべながらリョウを促した。
「さぁ、そのままでは風邪をひいてしまいますから。こちらをどうぞ」
「あの、いいんですか?」
「ええ、勿論」
やけにいい笑顔のシーリスに、リョウはそっと確認するようにユルスナールを見たのだが、無言で頷きを返されてしまった。
シーリスの持ってきた服を手に取ったリョウであったが、そこで、ふと重大なことに気が付いた。
もしかしなくとも下着がない。
「どうかしましたか?」
リョウの困惑にいち早く気が付いたのは、やはりシーリスだった。
「ええと、その、結局、下着まで濡れてしまったので………」
それだけで言わんとすることは、相手に伝わったらしかった。
「ああ、それなら心配いりません。ブコバルが何やら言っていましたから」
―――――――ブコバルが?
突然、飛び出した意外な名前に驚くのも束の間、その台詞に合わせるかのように都合良く寝室の扉が開いて、噂をすればなんとやら、無精髭の精悍な顔付きがのっそりと現れた。
「ほらよ。リョウ」
ブコバルはその手に何故か袋を持っていて、それをリョウに差し出した。何やらやけに楽しそうではある。
そして、簡潔に告げた。
「イリーナからの土産だ」
―――――――イリーナさんから?
内心、訝しげに思いながらも、リョウはその袋を受け取ると恐る恐る中を開いた。
そして、中から出てきたものを手にして、固まった。
「………………」
「イリーナのヤツがよ。これが無くっちゃぁ始まらねぇだろうって言ってたぜ」
ブコバルがニヤニヤと意味深な目配せをしながら言い放った。
袋の中には、靴下と靴下留め、そして女物の下着が一揃い収まっていた。
「そっちは新品だって言ってたから、大丈夫だぞ」
リョウの手にするものを見て、シーリスも顔を綻ばせた。
「ああ、ちょうど良かったですね」
いやいやいや。何もそこまでする必要はないだろうに。誰かに見せたりする訳ではないのだから。部屋に戻れば、男物だが一応、下着はあるのだ。
それにしても何故、時間差でイリーナは態々このようなものを自分に寄越したのだろうか。しかもブコバルに託すなんて。イリーナは自分のことを少年として疑っていなかった筈ではなかったか。
ぐるぐるとした疑問に答えたのは、ユルスナールだった。
「あれは完璧主義者で、中途半端を嫌うからな」
暫し、手にした物を見詰めたまま動きを止めたリョウの傍らで、ユルスナールまでもが納得するように、土産の理由とその元になったイリーナの気性を分析してみせる始末。
「いや、別に、何もそこまでしなくとも…………」
控え目に異議を申し立ててみたのだが、
「何を言う?」
「何を言うんです?」
「何、言ってやがる?」
この服を着るのならば、下着も靴下もそれなりの物を着けなければならない。
妙な拘りというか、持論を持ちだした三人に(今回は、それが何故かぴたりと一致した)、リョウは思い切り顔を引き攣らせたのだった。
三対一では勝ち目など無い。
こうして、リョウは不可解な気持ちを抱えながらも、渋々と言われるままに着替えることとなったのだ。
そして、使用人風の格好をしたまま、引き続きシーリスの講義を受けることになったという訳だった。
元々は違う話にするはずだったのですが、本題に入る前にいつものことながら大脱線をしてしまいました。かなり長くなったので、キリのよい所で切ります。
次回に続きます。