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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
幕間~北の砦にて~
121/232

見習い厩舎番のかくも爽快な朝

今回は、砦の馬たちとの一幕をお送りいたします。

『ほれ、早くせぬか!』

「分かってるって」

 まるで小舅のようにせっつく栗毛馬のスートに急かされながら、馬場の周囲を巡らす柵によじ登って、リョウは何故こんな羽目になったのだろうかと内心、途方に暮れていた。

「キッシャー、もうちょっとこっちに寄って」

『うむ』

 キッシャーに頼めば、すぐ傍にいるスートがいきり立ったように鼻をぶるりと鳴らした。

『リョウ、そなたがもう少し寄ればよかろう?』

 先程から、チクチクと刺さる辛辣な言葉をリョウは敢えて気に留めないことにした。そして、一先ず、目先のことに集中することにする。

 自分の背丈程はある柵の上で体勢を整えると、目の前にある逞しい黒毛の首の根元辺りに手を着いて、その上に乗ろうと片足を開く。

『かようにお手を煩わせるとは、なんたること!』

 鼻息荒く高慢に嘆く栗毛を横目に、

「よっと」

 黒い大きな背中に跨ると身体の平衡(バランス)を取る為に背筋を伸ばした。

『大事ないか?』

 キッシャーより案じる言葉を吐かれて、

「……多分?」

 裸馬の鬣の辺りを掴みながら、リョウは些か心もとない表情をしていた。

 馬に乗ること自体不慣れであったが、今、キッシャーの背には鞍が置かれていなかった。セレブロの時と比べでも余り大差ない様にも思えたが、獣の背中に乗ると一口に言っても馬と【ヴォルグ】では、やはり感覚が違う。それにキッシャーは軍馬の中でもかなり体格のよい立派な馬だった。

 格段に高くなった視界にリョウはゴクリと唾を飲み込んだ。

『よし、では参ろうか』

「え、ちょっと待って」

 焦った声を出したリョウに、

『なに馬場を一周、軽く流してからだ』

 心配など要らぬとキッシャーは事も無げに言い放った。

『お気を付けて』

『うむ』

 丁重に見送りの言葉を口にしたスートに、キッシャーは鷹揚に首を縦に振った。

 そして、乗り手の心の準備の整わぬまま、軽やかに駆け出してしまったキッシャーの首に、リョウは齧り付く様にして慌てて前傾姿勢を取った。




 こんなことになった切っ掛けは、朝の厩舎小屋での一仕事を終えて、ガルーシャの木を見に行こうと思っていると言ったリョウに、泉の場所を覚えているのかとキッシャーが尋ねた所から始まったのだ。

 道順をしっかり覚えている訳ではなかったが、なんとなく記憶を辿れば大丈夫だろうと答えたリョウに、それでは心もとないとキッシャーが心配そうに鼻を鳴らしたのだ。

 そして、この後は簡単に馬場を駆けて銘々が思い思いの調整をする時間であるからと前置きをして、リョウを自分の背に乗せて案内しようではないかと言ったのだ。

 リョウはその提案に仰天した。

「いや、気持ちは有り難いけど、そういう訳にはいかないよ」

 馬と雖も、キッシャーたちはこの砦の管轄内の軍馬だ。ここにはここの規律がある訳だから、そのような勝手なことは出来ないだろう。それにキッシャーはここの馬たちの中でも、師団長であるユルスナールが使う特別な馬だ。普通に考えて、兵士ではない自分がそんな勝手なことをする訳にはいかなかった。

 そう思って、丁重に断りを入れたのだが、

『なに、かようなことなど問題にならぬ』

 堂々と言い放ったキッシャーに続いて、

『エドガーに話を付ければ構わぬだろうて』

 頼れる兄貴分、御意見番のナハトまでもが、そんなことを言い、

『いいんじゃね? 偶には』

 偶々、傍に居たケッペルが揺るく息を吐いた。

『あの泉のほとりであろう?』

『あそこを抜けるのは気持ちが良いぞ』

 ロイドやリグスまでもが肯定するように合槌を打った。

『なに、さほど距離がある訳でもあるまいに。案ずることもなかろうて』

 そして、いつもは大人しくしているユベルまでもがそんなことを言う始末。


 やけに乗り気な馬たちを前にリョウは目を白黒させた。

 そんなに気軽に構えて大丈夫なのだろうか。何らかの事態で急に馬が要り用になる時だってあるだろう。そんな時に肝心の馬がいないのでは話にならない。特にキッシャーの場合、その乗り手はユルスナールなのだ。

 万が一のことを考えて、顔を青くしたリョウであったが、

『リョウ。お主、キッシャー殿の好意を無下にする気か!』

 キッシャーの熱烈な信奉者であるスートのその一言が、多分にも決定打となったのだ。


 そして、一応、簡単に厩舎番の長であるエドガーに話を通した。幾ら馬たちと仲が良いと言っても、流石に勝手をする訳にはいかないからだ。

 エドガーは少し驚いて、初めは渋い顔をして見せたが、『すぐに戻る』というキッシャーの言葉に最終的には諾と頷いた。

 エドガーは、どうにもキッシャーの扱いには慎重であるらしい。

 だが、規則に拠り馬の正式な乗り手でなければ鞍を付けるのは駄目だと言われて、それでも構わないとリョウも頷いた。そして、エドガーに謝辞を述べながら済まないと頭を下げて、馬場に出てきたのだ。

 そして、さて、出発しようという段階になって鐙がないキッシャーにどうやって乗ろうかという問題が発生し、あの柵を足掛かりにすればよいということで、馬場脇の柵によじ登ることになったのだ。


 そして、冒頭の場面に相なった。

 スートはキッシャーと出掛けることになったリョウのことが羨ましいようで、先程からねちねちといたぶるように辛辣な言葉を吐いていた。

 スートは、本当にキッシャーのことを敬愛しているのだ。いや、ここまで来ると偏愛かもしれない。無駄に気位が高い所為で、その感情表現の仕方は直截的ではなく、かなり回りくどいことになっているが、その根底にあるものは変わらない。その事を考えると非常に可笑しくて思わず笑いそうになったが、そうすると却ってスートの機嫌を損ねることになるので、なんとか堪えた。




 他の馬たちと同じように、軽やかに馬場を一周し始めた逞しい黒毛の後に、同じように体格の良い栗毛が続いた。だが、黒毛馬の背中には、何やらいつもとは違うものが遠目にはへばり付いているように見えた。

 その黒毛は、暫く同じように他の馬たちと並走して馬場内を走っていたが、一周半辺りになった時点で道筋を逸れ、柵を勢いよく飛び越えた。

「うわぁ」

『リョウ、口を開くな。舌を噛む』

 すかさず飛んだキッシャーの叱責の声に、

 ――――――分かってる。

 リョウは、心の中で、声を張り上げた。


 不意に馬場から逸れた一頭の黒毛馬の姿に、鍛錬場で訓練をしていた兵士たちの幾人かが気が付いたようだった。剣を扱っていた手を止めて、こちらを指差しながら何やら大声で言葉を交わしている。その向こうに日の光に反射する銀色の髪を認めて、リョウはキッシャーの鬣を引っ張った。

「キッシャー、ルスランに一言、言っておかないと」

 念の為、主の許可がいるだろう。これでは事後承諾に近かったが。

 その言葉にキッシャーも諾と頷いた。

『うむ。承知』

 そして、リョウを乗せた逞しい黒毛は、颯爽と鍛錬場の方へ向かった。と言っても、その上に跨る乗り手は些かぎこちがなかったが。


 鍛錬場の外側を大きく迂回する形で、キッシャーは駆けた。

 自分たちの方へ疾駆してくる大きな軍馬に、兵士たちが何だ何だと顔を見交わせた。

 鍛錬場の直ぐ脇で、キッシャーは軽やかに止まった。

 リョウは体勢を整えてから片手を振り上げると、こちらに気が付いて動きを止めたユルスナールに向かって声を張り上げた。

「ルスラン! キッシャーをちょっとお借りしますね!」

 ユルスナールはぎょっとしたように目を見開いて、こちらへ駆けてきた。

「あ、おい、リョウ!」

 だが、それを合図とするようにキッシャーが嘶いて、己が主の到着を待たずに、駆け出してしまった。

「何処へ行く!」

 大きな良く通る声を張り上げたユルスナールに、リョウもキッシャーの首に齧り付きながら、声を張り上げた。

「ガルーシャの木を見に!」

 そして、瞬く間に視界から消えた人馬を、ユルスナールは複雑な顔で見送った。

「あんのじゃじゃ馬め」

「おうおう、何だありゃ。リョウか?」

 騒動を聞きつけてユルスナールの隣にやってきたブコバルも、同じように小さくなって行く黒毛とその背中に張り付いていた人物を透かし見た。

「隊長、いいんですかい? キッシャーの背には鞍が付いてませんでしたぜ?」

 近くに居て一部始終を見届けていたサラトフがそう進言した。

 そこには、楽しげではあるが一抹の不安のようなものが眦に覗いていた。

「ハハハ、こいつは豪気だ。裸馬かよ」

 愉快そうに豪快な笑みを浮かべたブコバルへ、ユルスナールは苦々しい視線を送った。

 だが、直ぐに思い直したように片眉をくいと挙げて、厩舎小屋の方へと声を張り上げた。

「エドガー!!!」

 良く通る張りのある声が辺りに響いて、厩舎小屋の方から古参兵士のエドガーが何だとばかりに顔を覗かせた。

 そして、ふさふさとした白い眉を小刻みに動かして、鍛錬場の方へ現れた

「何でございましょう?」

「キッシャーはどうした?」

 その問いにエドガーは、先程のリョウとキッシャーの顛末を手短に語った。

「鞍はどうした?」

「規則ですから。正式な乗り手以外は付けられないと申しましたら、それで構わないとのことでしたので」

 つらつらと淀みなく流れたエドガーの口説に、ユルスナールは額に片手を当てると、大きく溜息を吐いた。

 己が馬の気性を鑑みれば、エドガーの取った判断は一概に責められなかった。それに日頃から規則を守るようにと言っているのは自分の方なのだ。それがこんな形で裏目に出るとは思っても見ないことであったが。

 ―――――――あのお転婆め。

 ユルスナールは、軽い舌打ちをして、己が愛馬とそれに乗った小柄な背中が消えた方角を透かし見た。

「全く、落馬でもしたらどうするんだ」

「ハハハ。大丈夫なんじゃねぇ? 【ヴォルグ】の長の背中に軽々と乗ってやがったじゃねぇか。似たようなもんだろうよ」

 そう慰めになるようなならないような微妙なことを言って呑気に笑うブコバルを横目に、ユルスナールは、僅かに口の端を下げたのだった。




 ユルスナールの心配を余所に、リョウを乗せたキッシャーは、軽やかに風の中を駆け抜けていた。木々の合間を縫うようになだらかに上昇する斜面を駆け上がる。

 視界を流れて行くのは色とりどりの緑の濃淡だ。差し込む光に反射する枝々が風に揺れて、薄暗がりの中で星の瞬きのように見えた。

 鬱蒼と生い茂る梢が、トンネルのように頭上を覆う場所を抜けた。


 視界が開けると泉のほとりに出ていた。

 そこには、記憶の中にある情景と寸分違わぬ景色が広がっていた。

 この辺りは常緑樹が殆どで、表面上、目立った季節の移ろいは余り感じられなかった。

 鬱蒼と茂る木々、深い森に続く林の一角。それらに縁取られるようにして佇む小さな泉。

 凪いだ水面は、吹き込む風に柔らかな日の光を反射して、キラキラと輝いていた。

 陽射しだけを取るならば暖かい。だが、空気は身を切るように日々、冷たさを増してきていた。


 リョウはキッシャーの背中から降りると泉に向かって歩みを進めた。

 両手を外套のポケットの中に入れた。

 一陣の強い風が吹き抜けた。無造作に括った癖の無い髪が躍るように宙を舞う。その風は、ざわざわと梢を揺らし、水面を波立たせた。

 眼下の水面に映り込むもう一つの世界、薄く伸びた青い空と薄らとたなびく白い雲、それを縁取る木々の緑が、一瞬にして掻き消えた。


 リョウは泉の縁を回って、ガルーシャの種を植えた場所を目指した。

 セレブロと一緒に植えた種。その場所には、目印として隣にある木の枝に小さな飾り紐を結び付けていた。その紅い紐が、そよぐ風にたなびいていた。その役目が続くように、紅い紐にはセレブロから教わった保護の呪いが掛けられていた。

 緑の濃淡の中で、それは直ぐに見つかった。

 ―――――――あそこだ。

 リョウは自然と駆け出していた。

 紅い紐の括られた木の枝は直ぐに見つかった。そして、その隣へ視線を流す。


 そこには、見上げる程の大きな若木が一本、すっくと立っていた。

 こんなにも大きくなっている。リョウは余りの成長ぶりに呆けたように顔を上げた。

 背丈は、優に自分の二倍はあるだろう。しなやかに伸びた枝ぶりは、まだ細いながらも立派であった。

「…………すごい」

 感嘆の息を吐いたリョウの隣に草を踏み締める音がして、大きな黒毛の馬が立った。

『ほう、これがそうか』

 キッシャーが同じように首を擡げていた。

 リョウは直ぐ脇にある鬣をそっと撫でた。

「春に種を植えたんだ。それが、もうこんなに」

 驚異的な成長速度だ。このようなことがあるのだろうか。

『ここの水が合ったのだろう』

「そういうものなの?」

『ここには良き気が満ちておる。長も力を分けたのだろうて』

「セレブロが?」

『うむ。ここに長の御印が結ばれておる』

 そう言ってキッシャーは、若木の根元部分を鼻で示した。

『リョウ、触れてみよ。おぬしならば見える筈だ』

 リョウは、キッシャーに促されるようにして、その場所に掌を当ててみた。

 ―――――――【パイェヴリャーイ(出でよ)

 リューバがその昔、見せてくれたように呪いの言葉を口にした。


 すると、その場所が柔らかな光を放ち、ぼんやりと虹色の光線が膨れ上がるようにして出てきた。踊るような文字が現れ、風に遊ぶ木の葉のようにくるくると舞い始めた。

 その形は、自分の胸元に現れている紋様に似ている気がした。セレブロの印封だ。

 そして、様々な光を帯びた飾り文字は、流れる音符のように若木の幹の周りを帯のように回り始めた。

 それに連動するようにして周囲の空気が揺らいだ。小さな色とりどりの光が、丸く弾けては虹の軌跡をなぞってゆく。震えた気が共振して、クスクスと微かな笑い声のようなものが聞こえた気がした。

『ほれ、水と大地、光と風の精が戯れておる』

 キッシャーがふうと鼻息を吹き掛ければ、青と緑と黄色の渦がふわりと跳ねた。

「……わぁ………」

 リョウは初めて目にするその光景に心を躍らせた。

 木の根元に膝を着いたリョウの周りを色とりどりの光が遊ぶように舞った。手を差し出せば、その内の青い光が指に留まった。指先で弾けば、ふわりと光同士がぶつかり、混ざり合って、また新しい色合いの光が生まれた。

「ふふふ」

 思わず小さな笑みが零れた。とても不思議だ。光そのものが生きていて、悪戯に飛び跳ねているようだ。

『ここはおぬしが暮らす長の森に近い。故に、かようにも精霊たちの気が濃いのだろう』

 この場所には精霊がいるとはセレブロから聞いてはいたが、その輪郭とも言えるものを実際に目にするのは、初めてのことだった。

 リョウは目を細めると小さく囁きを口に乗せた。具現化されたこの類稀な一時を少しでも目裏に焼き付けようとするかのように。

「綺麗だね」

『ああ』

 それから、リョウは眩しそうに空を仰ぎ見ると、そっと瞼を閉じた。

 日が大分高い所にまで昇って来ていた。

 風が吹いていた。

 ざわざわと木々の梢を揺らす音が漣のように聞こえていた。

 甲高い鳥の鳴き声が響いた。


 やがて、その口からは軽やかな旋律が聞こえ始めていた。

 それは、大分前にスフミ村のアクサーナから教えてもらった歌の一節だった。

 この国の古いお伽噺の一節。この国に住む子供から大人まで、皆が知る英雄譚の一節だ。

 遥か昔、まだ、この国が【スタルゴラド】と呼ばれ始めて間もない頃のことだった。この地には大きな戦があって他国より侵略を受けた。男たちは勇猛果敢に対する敵に対峙したが、最終的に戦には敗れ、国土への侵入を許してしまった。侵略者は略奪の限りを尽くし、戦利品として若い女たちを奴隷として連れ帰った。その時に捕虜となって祖国を離れざるを得なかった女たちが、遥か遠い故郷を懐かしみながら歌うのだ。連行中の束の間の休息と宴の席でのことだった。

 【風の翼に乗って飛んでお行き 遠き故郷へ 我らが歌よ】

 この身が奴隷に堕ちても、あの懐かしき故郷の景色は変わらない。この身に代わって、歌声を届けておくれ。なにものにも縛られない自由な風に乗って。

 郷愁を誘う、どこか切ない筈の歌詞であるのに、その言葉を乗せる旋律は故郷の景色の美しさと素晴らしさを謳う喜びに満ちていた。

 きっと当時もこのような風が吹いていたのだろう。女たちの歌声とその想いを乗せて。

 虜囚となった女たちのその後は分からない。異国の地でその短い生涯を終えたのかもしれない。きっと過酷な運命が待っていたことだろう。それでも、いつの日か、故郷に帰ることを夢見て、再び、自分たちが生まれ育った雄大な景色を見ることを夢見て、命を繋いでいたのかもしれない。

 この歌に想いを託して。

 それは、帰るべき祖国を失った自分の境遇に似ている気がしてならなかった。話の中の女たちに比べたら、自分の境遇は遥かに恵まれていることだろう。同じなどと言ったら罰が当たるかもしれない。

 それでも、その歌は心に沁みた。するりと自分の中に入ってきたのだ。


 リョウの眦には薄らと涙が滲んでいた。それをそっと指先で拭う。

 いつになく感傷的になってしまった。らしくないことだ。

 リョウはその口元に自嘲とも取れる苦笑を滲ませていた。

 キッシャーは何も言わずに傍らに寄り添っていた。時折、思い出したようにのんびりと草を食んだ。

 静かで穏やかな時が、風と共に流れていた。

『そろそろ、戻るか』

 ゆっくりと立ち上がったリョウにキッシャーが声を掛けた。

「そうだね」

 それから、泉の脇の湧水で喉を潤した。


 砦に戻る前に、リョウは再びガルーシャの若木を振り返った。

 周りに立ち並ぶ木々に比べたら断然細いが、その若木は、しなやかで強靭なまでの生命力に溢れていた。伸びる枝葉は瑞々しい。それは、この春に種から生まれた新しい命だった。まるでガルーシャが姿を変えて蘇ったかのようだ。

 ―――――――また、来るからね。

 リョウは心の内でその木に呼び掛けた。

 それに応えるかのように梢が風にさらさらと揺れた気がした。

 今度、この場所を訪れた時にはどんなにか大きくなっていることだろう。今後の密かな楽しみが一つ出来たと思った。


 そうして、北の砦に戻ろうという時になって、リョウははたと思った。行きはキッシャーの背に跨るのに馬場の柵をよじ登ったのだが、ここではどうしようか。

『リョウ、乗れ』

 促すようにこちらを見たキッシャーに、リョウは躊躇するかのように複雑な顔をして見せた。

「このまま乗れるかな?」

『試してみればよい。無理なら徒歩(かち)にて帰るか?』

 ―――――――それでも構わんぞ?

 からかう様な声音に、リョウはムッとして大きな黒毛を仰ぎ見た。

「やってみる。キッシャーこそ、踏ん張ってね。なるべく気を付けるけど、蹴ったらごめん」

 一応、先に謝っておく。

『余り強烈なのはあやまる(ごめんだ)ぞ?』

 飄々とおどけるように返したキッシャーに、リョウは神妙な顔付きで頷いた。

「分かってる」

 そう言って、目の前の少し高い所にある背中に両手を掛けると勢いを付けて飛び上がった。

「よっと」

 開いた足をすかさず背中に引っ掛ける。

『ほれ、齧り付け』

 多少、無様な形にはなったが、なんとか踏ん張ってその背中に上がることが出来た。

『リョウ、大事ないか?』

「うん。平気。キッシャーこそ、大丈夫だった?」

『うむ。心配など無用』

 跨る位置を調整して、行きと同じように体勢を整えた。

『では、行くぞ』

「【パイェッハリ(ラジャー)!】」

 こうして、調子だけは滅法よい合図と共に、再び、立派な黒毛馬は地を蹴ったのだった。


 そして、リョウを乗せたキッシャーは、颯爽と北の砦に戻った訳だったが………。


 黒い癖のない髪と同じく、黒い尻尾を靡かせた人馬は、馬場の前に仁王立ちをして己が愛馬と愛し子の帰りを待ち構えていた強面の砦の長(ユルスナール)に敢え無く御用となった。

 そして、その日、厩舎の端っこでは、やや神妙な顔付きで己が主と保護者のお小言に耳を傾ける黒き人馬の姿が見受けられたというのが、食堂の兵士たちの間を賑わした専らの噂であった。


幕間を始めてから中々第四章に入りませんが、あと一、二話程続く予定です。四章への前振りの部分として、少し人物像や背景を掘り下げた形にしていますので、もう少しお付き合い下さい。

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