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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
幕間~北の砦にて~
120/232

補佐官のかくも難儀な一時

シーリスの右腕、ヨルグの登場です。


「あの、ちょっといいですか?」

 やけに神妙な顔つきで自室の戸口に現れた人物に、ヨルグは僅かに片方の眉を跳ね上げた。

「どうした?」

 ―――――――こんな時間に。

 これから夜も更けようという時間帯だった。

 国境警備を兼ねた軍事拠点である北の砦は、完全には眠らない。兵士たちは交代で当直の任に就き、昼夜警戒に当たっている。この時間、廊下を照らす発光石の明かりは、夜間用に仄暗く抑えられていた。

 薄く開いた戸口からは、室内の明かりが細い線となって外に漏れていた。

 ヨルグはひっそりとした闇の中に佇む小柄な人物を見下ろした。

 訪問者は予想外の人物で。

「何か疑問に思うことでも出てきたか?」

 昼間、急遽用事の入ったシーリスの代わりにリョウの講師役になったヨルグは、昼間の件で、何か質問が出てきたのだろうかと思ったのだ。

 だが、リョウは静かに首を横に振った。癖のない黒髪が、闇から滲み出るように揺れた。

 そして、躊躇いがちに切り出した。

「あの、ちょっとお聞きしたいことがありまして」

 そう言って、些か戸惑うように部屋の主を窺い見たリョウをヨルグは取り敢えず、中へと招き入れた。


「すみません。こんな時間に」

 目に入った小さなテーブルの上には、読み掛けの書物と、グラスに薄く入った琥珀色の液体が揺れていた。

 日中の忙しさから解放されて、漸く得られた寛ぎの時間を、一人長椅子に寝そべって書物を繰っていたらしいヨルグに、リョウは恐縮そうに眉を下げた。

「いや、別に構わん」

 このような時間に、態々自分を訪ねてくるというのは、余程のことなのだろうとヨルグは思った。

 いつもとは違いどこか硬い空気を身に纏った相手を見て、ヨルグは鷹揚に頷き返すと部屋の隅にある簡素な木の机と対になっている椅子を引き出し、自分はそこに座った。そして、リョウには長椅子の方へ座るように促した。


 小さな沈黙が室内に落ちた。

 リョウは明らかに落ち着かないようだった。視線が室内を彷徨う。小さな口を開きかけては、また閉じる。膝の前で握った手を所在無げに動かした。

 ヨルグはその様子を内心、珍しく思いながら眺めていた。

 ヨルグの目から見てもリョウは非常に落ち着いた人物だった。物静かで、よく人を見ている。さり気なく周囲に配慮の出来る思慮深さも兼ね備えていた。

 ヨルグは、じっとリョウが口を開くのを待った。

 だが、中々一向に口を開く気配がない。

「何か、困ったことでも起きたか?」

 助け船を出すように切り出せば、リョウはじっとヨルグの方を見た。

 いつもは穏やかで柔らかい光を湛えている黒い瞳には、戸惑いと逡巡とが表れていた。

 やがて、困惑に似た苦笑のような微笑みがその口元に浮かんだ。

「困ったことと言いますか。気になったことと言いますか。………少々、確認しておきたいことがありまして…………」

 そう言って言葉尻を濁した。

 ユルスナールでもなく、シーリスでもなく、ブコバルはまぁ論外として、リョウが自分を何がしかの相談相手に選んだらしいことが、その言葉から読み取れた。それをヨルグは意外に思った。

 何か問題が起きた場合、リョウは、何よりもまず、ユルスナールを頼ると思っていたからだ。


 リョウが再びこの砦にやってきてから、ユルスナールの周囲の空気は恐ろしく軟化した。目も当てられない程に。

 両者を見れば、何がしかの強い結び付きが出来たことは一目瞭然であった。言葉を多く交わす訳ではないが、ふとした時に交わる視線は、確固たる信頼と敬愛、そして、それ以上の色を含んでいたからだ。

 ユルスナールがリョウに向ける眼差しには、慈しみと優しさが憚らずに溢れている。それを受け止めるリョウの方も、男に心を開き、その好意を受け入れている節があった。ブコバルの話を聞く限り、両者の間には、精神的交換以上の、要するに肉体的な関係もあるらしい。

 であるから、何かあった時には必ずユルスナールの所へ向かうと思っていたのだ。そして、ユルスナールに話づらいことがあるとすれば、恐らく、シーリス辺りに行くだろうと。

 だが、リョウは自分を訪ねてきた。それもこんな夜分に。

 相変わらず乏しい表情の裏側で様々な憶測を捏ね繰り回していると、リョウが意を決したように口を開いた。

「ピョートルさんから、ヨルグは医学の知識が豊富にあると伺いまして」

 ピョートルと言うのは、この砦の軍医の名前だった。

 ヨルグの家系は術師の中でも、代々医師を多く輩出していた。恐らく、その辺り事を聞き齧ったのだろう。

「医学といっても俺の場合は一般的な知識に少し毛が生えた位だぞ? 専門的な事柄は、軍医に任せた方がいい」

 元々、家には医学関連の書物や学術書が沢山あり、ヨルグの父も兄も医師であった為、小さい頃より特殊な環境に身を置いているとは思ってはいたが、ヨルグ自身、専門的に医学を学んだ訳ではなかった。精々、興味があった分野を少し掘り下げたという位だ。

「どこか、具合でも悪いのか?」

 心配そうな色をその薄茶(ヘーゼル)色の瞳に乗せたヨルグに、リョウは慌てて目の前で手を小さく振った。

「いいえ。身体はどこも悪くはありません。寧ろ、健康すぎる位ですよ。こちらに来てから風邪も引いていませんし、大きな病気もしていません」

「そうか、ならばいいが」

「あのですね、初めはブコバルに聞こうかとも思ったのですけれど、やっぱり、それは躊躇われて。シーリスに話を振るにしてもあんまりですし。偶々、ピョートルさんの所で、ヨルグの話を聞きまして…………」

 そう言ってどこか言い難そうに目を伏せた後、漸く踏ん切りが付いたのか、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前にある真剣な顔付きに、ヨルグも改めて気を引き締めた。

「恥を忍んでお尋ねしますが、こちらでは【避妊】という概念はありますか?」

 そして問われたことにヨルグは面食らった。

 無表情のまま、目を瞬かせること数回。油回りの悪いブリキの玩具のように首を僅かに横に傾げた。

「……【避妊】とは、詰まり?」

 繰り返された言葉に、リョウは自分が散々考え抜いて選び出した単語が相手に上手く伝わらなかったことを悟った。

「早い話が、女性が妊娠をしないようにする為の措置です。……ええと、……その、……男女の交わりの時に」

 そう言って居た堪れなかったのか、リョウは恥ずかしさに目元を赤らめ、視線を逸らした。


 ヨルグに対してとんでもない質問をしているという自覚はあった。

 だが、ユルスナールに直接確かめる訳にはいかないのだから仕方がない。ブコバルは、そちらの方面では経験豊富であることは知っているが、こういう相談をするのは論外な相手だった。シーリスのことも考えない訳ではなかったが、どうにも二の足を踏んでしまって。そんな時に、偶々軍医の所でヨルグが医師の家系であることを耳にしたのだ。医学の知識も豊富にあるらしいことを聞き及んで、ならば大丈夫かと当たりを付けたのだった。真面目な四角ばった所のあるヨルグであるならば、淡々と簡潔に必要最低限の情報を与えてくれるのではないかと踏んで。

 これまでユルスナールとそれなりの関係を持ったが、リョウは男の精を体内に受け入れていた。男の方にそれらしい(詰まり避妊の)素振りは全くなく、このままずるずると同じ状態を続けていれば、ひょんなことから妊娠しかねなかった。


 今の状態でそういった事態に陥ることは、リョウとしては避けたかった。自分の立ち位置が、酷く中途半端な状況にあるからだ。【術師】としてこの国に正式に認められた訳ではない。この国の片隅に暮らしてはいるが、ここの人々にとっては、依然【異分子】のままだ。

 それに、万が一そのようなことになって、ユルスナールに迷惑を掛ける訳にはいかなかった。

 れっきとした貴族の子息で師団長の地位にある男が、どこのものとも知れない相手を孕ませたというのは、醜聞以外の何物でもないだろう。普通に考えて、貴族であるユルスナールには、正式な結婚相手、若しくは親の決めた許嫁の類がいてもおかしくないのだ。男に並々ならぬ好意を寄せているのは本当の事だが、だからと言って、その先に必ずしも幸せな未来が続くとは思ってはいなかった。

 束の間の激情に現を抜かしていられる程、夢見がちな年頃でもなかった。自分がユルスナールと恋人のような甘い疑似関係にあるのも、今、この時期だからであって、やがて、この関係はとある分岐点に行き着くだろう。そして、ユルスナールと自分は恐らく違う軌道を歩き始める。それは、もしかしたら、それ程遠い未来のことではないかもしれないのだ。

 それは、すぐに予想がついたことだった。

 ユルスナールは、良くも悪くも家柄に縛られた貴族の出身で、自分は辺境の片隅に暮らす異邦人だ。元々、住む世界が違い過ぎるのだ。そのことを考えると、どうしようもない程に胸の奥が軋みを立てたが、それが客観的に見ても妥当な、当然起こり得るであろう現実に思えた。

 この地でしっかりと両足を着いて立つ為にも、現実に目を逸らす訳にはいかなかった。たとえ、それが自分にとっては残酷な結末を呼んでいようとも。

 ユルスナールとの関係が踏みこんだものとなって以来、リョウはそういうことを覚悟するようになっていた。

 いずれ、ユルスナールとその隣に寄り添う誰かを見送ることになったとしても、恐らく、自分のユルスナールへの気持ちは変わらないだろう。それほどまでに強烈な印象をこの身に刻みつけられたのだから。どうやっても拭えない程に。

 その気持ちは、そっと真綿に包むように心の奥底に潜ませて、やがて訪れるその時を笑顔で迎えられればいいとまで考えていた。その時に、もし、天の計らいで男の種を宿すことが出来たら。その時には、責任を持って新しい命を育んで行きたいとさえ思っていた。

 それならば、きっと残りの人生も生きて行ける。この森の片隅であろうとも。他のどの場所であろうとも。


 そのようなリョウの心の内はともかく。

 質問をされたヨルグは、呆気に取られたように目を見開いた。

 リョウはそれを苦笑を滲ませながら見遣った。その口元には、自嘲とも取れるような曖昧な笑みが浮かんでいた。

「すみません。こんなことを聞くのはどうかと思ったのですが、他に尋ねるべき人が思い当たらなくて。ルスランに聞くには、どうにも躊躇われてしまって。それに、この国に於ける男女間の貞操観念やその辺りの事情も知っておきたいと常々思っていたので」

 最初の第一関門を突破したことで、どこか吹っ切れたような顔をしたリョウを前にして、ヨルグは、口元に大きな手を当てると、暫し考えるように目を伏せた。

 日頃から鉄仮面と揶揄されることの多いヨルグの無表情も、こういう時はいいように作用した。その内心はともかくも、表面上の相手の反応を余り気にしないで済むからだ。

 その間、リョウは畳みかけるように言葉を継いでいた。

「あの、こちらでは、男女が身体を重ねるのは、その、結婚を前提にした場合が殆どなのですよね? あ、いや、違うか。結婚して、初めてそういう関係を持つ方が殆どなのか。詰まり、嫁入り前の娘が、男に身体を許すことは、通常、考えられないのですよね?」

 これまで見聞きしたことを鑑みれば、この国に於ける男女間の恋愛関係が、かつてのように自由奔放であるとは到底思えなかった。貞操観念も固い方だろう。

 いい意味でも悪い意味でも、女性は伝統的な枠組みの中で守られた存在で、風紀も自分の目から見ればかなり保守的で前近代的だった。それは、女性たちの服装(肌の露出が少なく、スカートの裾も長い)に良く表れていた。一般庶民の間では、そこまで厳格でないのかも知れないが、貴族階級では、その辺りの線引きはかなりきちんとされていることだろうことは想像に難くなかった。


 ヨルグは顔を上げると、静かに長い脚を持て余すように組み替えた。そして、膝の上に組んだ手を乗せると緩く長い息を吐き出した。

「基本的にはそうだな。一般庶民と貴族階級、都市部と農村ではそれなりに意識の差があるには違いないが」

 淡々としたヨルグの説明にリョウは静かに頷いた。

「そうですよね。その辺りのことは大体予想通りでした。因みに、ここにいる兵士たちの意識も基本的にはそのような土台の上にあるのですよね?」

 念の為、確認をすれば、

「まぁ、建前上はな」

 ひじ掛けに肘を突いて、長い人さし指をこめかみの辺りに当てながら、ヨルグは溜息のようなものを吐いた。

「成る程」

 そこにある何がしかの含みに、リョウはさもありなんと頷いた。

 やはり、そこは若者たちの事だ。古い因習への反発や禁忌への興味は多分にもあるのだろう。生理的欲求を持て余しても、その捌け口はそれなりに用意されているという訳だ。それがヨルグの使った『建前上』という言葉の中に含まれていた。

 リョウは神妙に合槌を打った。


 いつしか、両者の間には、学問を論じるかのような真面目な空気が漂い始めていた。議題の内容はともかく、リョウとしては真剣であったし、対するヨルグもそれを真正面から誠実に捉えたからだ。

 そうして暫く、この国の人々の恋愛観や結婚観といった意識について話し合って。


 ―――――――少し、踏み込んだことを聞くが。

 そう前置きをしてから、ヨルグは一つ咳払いをすると、これまでと同じように淡々と口を開いた。

「ルスランとは、既にそういう関係にあるのだな?」

 肉体関係を持っているのかと問われて、リョウは恥じらいながらも頷いて見せた。

「つまり、お前が見た所、ルスランは何も対処をしていないということか」

「ええと。ワタシが知り得る限りでは、恐らく。それよりも、こちらでも対処法があるんですか?」

 半ば半信半疑の問い掛けに、ヨルグは小さく笑った。

「お前の国ではどうだった?」

 医師を多く輩出する家系としての血が騒ぐのか、途端に興味深そうな顔付きになったヨルグに、リョウは自分が知り得る限りのことを話した。

 男の場合や女の場合。飲み薬のことやフィルムを始めとする器具のこと。ゴムのように素材そのものが無い場合は、極力噛み砕く様にしてその役割を説明した。

 それから話は、自然と医学の分野に移った。身体の仕組みや体内器官のこと。中でも、生殖機能に於ける女性特有の身体の変化やその体内に妊娠に適した周期的な(リズム)があることにヨルグは興味を惹かれたようだった。それから、細胞から始まる妊娠の仕組みやその過程。足りない語句をヨルグの手助けを借りて少しずつ手探りで補い合いながら、訥々と議論を交わした。

 ある程度のことを話し終えると、

「お前の国は、中々に医学が発達していたのだな」

 感じ入るようにヨルグは感嘆の息を漏らしていた。

 それにリョウは静かに頭を振った。

「専門的な分野を見ればそうかもしれません。ですが、まだまだ未知の領域、不治の病というのは沢山ありました。そういう点では、こちらと大差はない気がします」


「【ニェジェーリ】の実というのは聞いたことがないか?」

 ―――――――この位の、小さな赤い実だ。

 そう言ってヨルグは親指と人差し指の間を豆粒ほどの大きさに開けた。

 不意に流れが変わった矛先に、リョウは首を横に振った。

 これまでガルーシャやリューバ、セレブロや森の狼たちから、それなりに薬草の知識を教えてもらったが、その言葉は耳にしたことが無かった。

「薬草の類ですか?」

「いや、小さな蔓科の植物に生る実だ。赤い色をしている。それが、この辺りでは一般的な対処法の一つだな」

「それをどうするんですか?」

 磨り潰して服用するのだろうか。

 思わず身を乗り出したリョウに、ヨルグは小さく笑った。

「どうすると思う?」

 いつにない変化球だった。

 リョウは少し考えてから、思いつく限りのことを言った。

「そのまま食べるんですか? それとも磨り潰して果汁を飲む? いや、それとも乾燥させたものを粉にして服用するとか? ああ、でもその作用の仕方が分からなければ何とも言えないか」

 一人ぶつぶつと独り言を言ってから窺うようにヨルグを見るが、どれも不正解のようだった。

「分かりません。降参です」

「ならば、ヒントをやろう」

 単に答えを出すのではなく、筋道を作って、考えさせながら正解に辿りつかせようとするヨルグは、講師役としては打ってつけだった。

「はい」

 そうして正解まであと少しというところだった。




 ――――――――コン、ココン。

 室内にどこか性急な感じのするノック音が響き渡った。

 束の間の生徒と教師の臨時講義は、それに阻まれて、一時中断した。

「はい」

 ヨルグが了承の言葉を放って椅子から立ち上がると、部屋の扉が勢いよく開いた。

 そこから顔を覗かせたのは、銀色の髪を無造作に撫で付けたユルスナールだった。

 そこにはいつもの余裕ある淡々とした表情が抜け落ちて、些か焦りの色が浮かんでいた。

「どうかしましたか?」

「ああ、済まないヨルグ、こんな時間に。リョウを見なかっ……た……か?」

 吊り上がり気味の深い青さを湛えた瞳が、部屋の中に居る黒髪の人物を捕らえると、見開かれた。

 リョウは、思ってもみなかった人物の登場に肩を揺らしたが、内心の気まずさを誤魔化すように小さな微笑みを浮かべると小首を傾げてみた。

「こんなところで何をしている?」

 剣呑さを含んだ男の低い声が響いた。

「ヨルグに臨時講義を受けていました」

 嘘は言っていない。リョウは淡々と事実を述べた。

「こんな時間にか?」

「はい」

 何と間の悪いことだろう。正解まで、自分が欲しい情報まであと少しというところで、このことを一番知られたくない男が顔を覗かせるとは。

 リョウは心の中で落胆の溜息を吐いた。

「すみません。ワタシをお探しでしたか?」

 ユルスナールが自分を探している理由の一端は想像が付かなくもなかった。なぜなら夜はユルスナールの部屋に来るように言われていたからだ。久し振りの邂逅に胸が高鳴ったのも事実だった。

 約束を取り付けたものの、中々やってこない相手に痺れを切らしたのかもしれない。いや、心配を掛けてしまったか。

 だが、リョウの中での優先順位は、気になっていたことを確かめることの方が高かったのだ。

「………リョウ」

 つれない相手に対してか、ユルスナールが複雑な顔をした。


「ルスラン」

 そこへ、この部屋の主であるヨルグがすかさず間に入った。

 このままでは、この部屋で痴話喧嘩の類が勃発しかねなかった。それに巻き込まれることは何としても避けたかった。

 ヨルグは、ユルスナールの耳に何事かを耳打ちした。

 ユルスナールの瞳が驚きに見開かれる。

 だが、すぐにそれが些かばつの悪そうなものに変わった。

 その後、二人の男たちは小声で何やら遣り取りをしていた。そして、最終的に態度を軟化させたのはユルスナールの方だった。

「済まなかったな」

「いえ」

 短く否定の言葉を述べたヨルグに、ユルスナールは苦笑に似た笑みを刷いた。

 そして、気を取り直したように、部屋の中にある長椅子に恐々として一人腰を下ろすリョウへと声を掛けた。

「リョウ。部屋に戻るぞ」

 カツカツと靴音を響かせて室内に入ってきたユルスナールは、有無を言わせずにリョウの腕を取り、椅子から立たせた。そして、そのまま戸口へと向かった。

「あの、ヨルグ? 先程の答えは?」

 リョウは内心焦りながらも、戸口際で臨時教師の方を振り返った。

「ああ。それならば問題ない。俺がちゃんと教えてやる」

 その耳元で、ユルスナールの声がやけにねっとりとした囁きを吹き込んだ。

 ざわりと身体の奥に漣が立った。

「手取り足取り、実地でな」

 恐る恐る見上げた先には、兇悪な笑みに弧を描く男の口元が見えた。そして、その上の瑠璃色の双眸には、いつぞやの獰猛な色が滲み始めていた。

 ―――――――【ボージェ・モーイ!(何と言うことだ!)】

 リョウは口の端を引き攣らせた。

 もしかしなくとも相手を無駄に煽ってしまったのだろうか。

 視界の隅でヨルグが肩を竦めたのが見て取れた。そして、一つ、大きく頷くと、緩慢に片手をひらりと振った。

 もう行けということだろう。

「何だ、俺では不満か?」

「………いえ。お手柔らかにお願いします」

「そうか」

 満足そうに微笑んだユルスナールに腕を引かれて、リョウはヨルグの部屋を後にした。

 だが、去り際、束の間の教師に礼を述べることだけは忘れなかった。

「あの、ヨルグ、ありがとうございました」

 閉じかけた扉の隙間から、鉄仮面の名を恣にする優秀な補佐官が、何とも言えない実に複雑な表情をしていたことをリョウは見逃さなかった。

 そして若干の居た堪れなさを感じながらも、ズンズンと先を歩く男の後頭部を同じように複雑な気分で眺めたのだった。


 二人の夜は、これからが本番である。

 こうして、束の間の臨時講義は、教師を変えた形で続くのだった。それが吉と出るか、凶と出るかは、リョウ本人のみぞ知るというところである。


個人的にはかなり気になった部分でしたので、ついつい筆の走るままに書いてしまいました。この続きは、ムーンライトノベルズ掲載のMessenger R18 短編集 "Insomnia" の方に掲載してあります。もしよろしければ、そちらもどうぞ。次回は、普通の流れに戻ります。失礼しました。

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