一兵卒のかくも愉快な日々
北の砦の食堂にて。お馴染の面々が顔を出しました。
「ここ、いいかな?」
掛けられた声にそっと目線だけ上げれば、そこには久し振りに見る小柄な体躯の少年が、円らな黒い瞳を細めて立っていた。
「リ、リョウじゃないか!」
「やぁ、久し振り、ヘクター。元気にしてたかい?」
男にしては穏やかで少し高めの音域は、相変わらず耳に心地よかった。
「あ、ああ。も、勿論だとも」
了承するように首を縦に振れば、ほっそりとした面に人柄の良さが表れている優しい笑みを浮かべると、顔馴染みの少年は目の前のテーブルの空いた席に持っていたトレーを置いて腰を下ろした。
そのトレーの中身は、ヘクターが食べているものと同じで、豆と【ガビャージナ】の肉のスープの入ったお椀と固く焼かれたパンに茹でた【カルトーシュカ】を磨り潰して味付けしたサラダが乗っていた。
だが、その量はヘクターのような一般兵士たちに比べると格段に少なかった。そして、トレーの脇には、オマケのように小さくカットされた黄色い果物【アナナス】が乗っていた。強面料理長ヒルデ特製のこの組合せを見るのも久し振りだった。
ここは、北の砦にある食堂で、ヘクターは仲間の兵士と少し遅めの昼食を取っていた所だった。
ヘクターはこの場所で鷹匠の任に就いていた。
午前中は方々よりもたらされた伝令の統括と情報の収集、こちらから飛ばす伝令の割り振り、そして役目を終えた鳥たちの世話と細々とした仕事は沢山あり、それなりに忙しかった。だから大抵、昼食にありつくのは第一陣、もしくは第二陣がはけた後のことが多かった。
もしかしたら、人によってはもう少し要領よく早く出来るのかもしれないが、他人と比べて些か不器用な所のあるヘクターには、今の時間配分が精々のことだった。
ヘクターは鷹匠としての自分の仕事を気に入っていた。
元々、人見知りをする性質で人付き合いも苦手な方だ。おまけに吃音の癖もある。それが、劣等感で昔からよくからかいの種にもされた。
家族は引っ込み思案なところのある息子を心配したが、幸運なことにヘクターには獣の言葉を理解する能力が花開いた。そして、家族の勧めもあって騎士団に入隊することになったのだ。
ここでの暮らしも、もう三年になる。
ヘクターには人を相手にするよりも伝令としてやってくる猛禽類の鳥たちを相手にする方が性に合っていた。
「は、半年振りか?」
緊張をしている訳ではないのだが、吃音は長じても中々治らなかった。
大抵、初対面の人間は、ヘクターの吃り癖を馬鹿にするものだが、この少年だけは違ったのだ。
ヘクターは、今でもその時のことをよく覚えていた。
緊張気味に言葉を交わしたヘクターに(初対面の相手と対峙する時はいつもそうだ)、少年は何事もなかったように微笑んだのだ。
『よろしく』と自分よりは格段に小さな手を差し出して。
いつもとは違う反応に面食らっているうちに最初の邂逅は終わり、その後、自分と同じように獣たちの言葉を理解する能力を持つ少年は、頻繁に伝令部屋や厩舎の方に顔を出した。
その後、こっそりと気になって、自分の吃音のことをそれとなく話題にすれば、少年は穏やかな微笑みを浮かべて、そんなことは全く気にならないと笑ったのだ。
そして、自分の祖父もそうだったから、懐かしい気がするとさえ言ってのけたのだ。
「ヘクターさんは人より少し繊細なだけですよ。イサークやイーサンもヘクターさんは気配り上手だと言っていました。気にすることはないと思いますよ。理解するのには何の支障もありませんから。寧ろ、もっと胸を張っていいです。ヘクターさんはいい声をしているじゃないですか」
思ってもみないことを言われてヘクターは目を丸くした。
そして、万事控えめで朴訥とした青年が、滅多にない他人からの褒め言葉に固まっているうちに、黒髪の少年は颯爽と踵を返していて、我に返ったヘクターは、内心のむず痒さと静かに沸き立つ嬉しさを堪えるように離れて行った華奢な背中をじっと眺めやったのだ。
小さく感謝の言葉をその胸内に吐いて。
「もう、そんなになるか」
半年振りと言われて、リョウは、どこか感慨深げに息を吐いた。
ここで食事をしたのが、ついこの間のような気がしていたからだ。
だが、思い返してみれば、あれは春の終わりの出来事だった。そして、今は冬の半ばだ。季節は確実に移ろっている。
「ここはちっとも変わってないから、なんだか、ついこの間みたいな気がするよ」
「ハハ、そうか。それだけ、お、お前が、こ、ここに馴染んだってことだろう」
ヘクターは残りのスープを掻き込むとひっそりと微笑んだ。
それは、その青年の素朴さと善良さが溢れている優しい笑みだった。
「そ、それよりも、こ、今回はどうした?」
再びの訪問の目的を尋ねられて、リョウは『あ~』と暫し、天を仰いだ後、苦笑に似た笑みを眦の端に浮かべた。
「シーリスにこの国のことを教わることになったんだ」
種明かしをすれば、ヘクターがお茶に伸ばしていた手を止めた。
「ふ、副団長にか?」
「うん」
そう言うと、リョウはヘクターの隣で目を丸くしているもうひとりの兵士に声を掛けた。
「キリルも久し振り」
「へ? あ、ああ」
癖のない明るい金茶色の髪を真ん中で分けた兵士は、突然のことに黄緑色の瞳を瞬かせた。
ここに配属されて三月余り、まだまだ新入りで、分を弁え大人しくしているのが常だからだ。
「あれ? リ、リョウはキリルを知っていたか?」
キリルが北の砦に配属されて来たのは、リョウが帰った後のことだった筈だ。普通に考えれば、二人は擦らなかった。
そのことを問われて、
「ああ、スフミ村で会ったんだ。収穫祭の時に」
リョウが何がしかの目配せをして確認するようにキリルの方を見れば、我に返ったキリルは、内心の動揺をその聡明な顔付きの下に隠して静かに頷いた。
「ええ」
「ああ、あの時か」
「はい」
同じ鷹匠の任に就いているキリルが、例外的に別の任務に当たったのは、秋の中頃、大体一月半ほど前のことだった
ヘクターもその時のことはよく覚えていた。
王都での二年間の見習い期間を経て、第七師団の伝令部に鷹匠として配属されたばかりの所謂、新米兵士が抜擢されたのだ。通常ならばあり得ない異例のことだった。
確か、ロッソと二人で特別任務に当たったのだ。選抜の理由は、キリルがスフミ村の出身であるということだった。
「で、ふ、副団長の講義を受けるって? な、何でまたそんなことに?」
再び、話を元の流れに戻したヘクターに、
「ああ、今日からね。ルスランの好意で」
熱々のスープを美味そうに啜りながら、リョウは淡々と答えた。
「団長の?」
意外な名前が出てきて、ぎょっとしたようにキリルがリョウの方を見た。
キリルにしてみれば、リョウが団長と知り合いとは思ってもみないことであったらしい。
それもそうだろう。軍隊の中での戒律は厳しく、しっかりとした序列もある。新米兵士が団長に気軽に声を掛けられる訳ではないからだ。
「偶々、【プラミィーシュレ】でルスランとブコバルの二人に会って、そういう話になってしまって」
「プラミィーシュレで?」
やはり話の流れが突飛過ぎただろうか。自分でさえそう思うのだから、他人が聞いたら尚の事だと思った。
余程吃驚したのか、どもることなく言葉を吐いたヘクターにリョウも小さく笑った。
それから、リョウは掻い摘んで、自分が再びここに厄介になることになった理由を語ったのだった。
一通り聞き終えるとヘクターは緩く息を吐いた。
「成程な。じゃぁ、ま、また暫らくはこ、こっちにいるのか」
「そういうことになるかな」
「そうか」
「また、ちょくちょく顔を出すよ」
そう言えば、ヘクターは少しだけ嬉しそうな顔をした。
「ああ」
そんなこんなで、暫く振りの食堂で旧交を温めながら、和やかな昼食を取っていると、急に食堂の入り口付近が賑やかになった。
「うお、マジでいやがった。リョウ! ひっさし振りぃ!」
噂を聞き付けた顔馴染みの兵士たちが、ひょっこりと顔を覗かせた。
「ようよう、ちったぁ、大きくなったかぁ? あ?」
片手を上げて、大きな身体を揺らしながら入ってきたのは、そのよく発達した図体には似合わず、この砦で最年少と目されている人物、兄貴分を気取るオレグだった。キリルが入って来た今ではその辺りのことはなんとも判じ難いが。まぁ、下から数えた方が早いという点では余り変わりがないだろう。
相変わらずの調子を懐かしく思い、リョウは自然と笑みを浮かべていた。
「やぁ、オレグ」
「ん? あんまし変わんねぇか?」
そう言って、成長度合いを測るように、リョウの頭の上に大きな手を乗せたのは、お調子者のセルゲイだった。
わしわしと髪を態とに乱されて、
「わわ、止めてくださいよ」
久し振りの洗礼に逃げるように頭をずらすが、ごつごつとした大きな手はしつこく付いて回った。
それを外そうと躍起になっていれば、
「元気そうだな、リョウ」
「アッカ、久し振り」
特徴的な赤毛の青年が穏やかに微笑みながら、セルゲイの手を止めてくれた。
「ありがと。助かったよ」
その後ろに続くのは、ロッソだ。
「ロッソもスフミ以来だな」
「ああ。元気にしていたか、リョウ?」
「ああ」
リョウは、伸びてきた大きな手を掴むとロッソと堅い握手を交わした。
ロッソは、スフミでの一件から、リョウが女であったことを知った口であったが、再びの調子を見て、以前と同じように扱ってくれた。
「おい、リョウ。お前、今度はなにやらかしたんだよ?」
空いていた隣の席にどっかりと腰を下ろしたオレグが、不意に声を低くして尋ねてきた。
「へ?」
問われた意味が分からなくて、怪訝そうに隣を見れば、オレグはリョウの肩に太い腕を回して意味あり気に目配せをした。
「惚けるんじゃねぇよ。お前、朝から副団長のとこに居たんだろ?」
流石、日常の刺激に飢え気味な砦の兵士たち。どこで誰が見ているのかは知らないが、この手の噂が広まるのは実に早かった。
その言葉の通り、リョウは朝からシーリスの部屋の一室で一対一の講義を受けていたのだ。
ここに来たのは、今朝一番の事で、シーリスからは事前に朝一の方が、時間的に余裕があるからと言われてのことだった。
声を潜めて、鼻先を近付けたオレグに、
「そうだけど、それが、どうかしたか?」
頭上の上に疑問符を浮かべながらも、取り敢えずの肯定をすれば、
「ほーら、やっぱ、違うじゃねぇか!」
怪訝そうなリョウの態度を見たセルゲイが大きな声を上げた。
「やっぱり。大体、リョウはお前とは違うだろう。なあ?」
「だよな」
そして、次にアッカとロッソが口を挟む。
「一体、何の話だ?」
益々訳が分からなくなって、首を傾げれば、
「リョウ、おま、副団長に絞られてたんじゃないのかよ?」
オレグがこの世の終わりじゃないかと思えるほどの悲壮感を漂わせながら詰め寄った。
「絞られる?」
この場合は、叱られるということだろうか。
「ああ、説教くらってたんじゃないのか?」
独特の言い回しをセルゲイが分かりやすく説明するように言葉を継げば、
「説教? なんでだ?」
リョウは益々、訳が分からないという顔をしてオレグを見た。
「あ? 違うのか? 俺はてっきり、お前がなんかやらかして副団長の所にしょっ引かれたかと思ったんだけど」
オレグの中では、シーリスの部屋に連れて行かれるということは世にも恐ろしい説教地獄が待っているということに変換されるらしい。要するにオレグ自身は、それなりの経験がある訳だ。
リョウが朝からシーリスの部屋に居ると聞いて、すわ仲間が出来たとでも思ったのだろうか。
「オレグじゃあるまいし。どうしてそうなるんだよ」
リョウが呆れたように隣を流し見れば、オレグはあからさまに狼狽えた。
「おま、薄情な奴だな。俺は心配したんだろうが。あのおっかない地獄の時間をお前が耐え忍んでるんじゃないかって。だって、いいか、想像してみろ。あの神々しい慈愛の女神みたいな優しい顔でさ、口元に薄らと微笑みを浮かべながらだぞ、これでもかってくらい舌鋒鋭く怒られるんだぞ。次から次へと飛び出す罵詈雑言の数々」
そして、当時のことを思い出したのか、痛む胸を摩るように大きな手を心臓の辺りに当てた。
「ああ。あの時、俺は思ったね。もう一生、この人を怒らすまいってさ。今でも軽く夢で魘される始末さ。悪夢だよ。いや、悪魔か?」
そして、どれだけ、その説教部屋の顛末が恐ろしい出来事であったかを滔々と語るオレグの横で、周りにいたセルゲイやアッカ、ロッソたち他の兵士は、徐々にその顔色を無くしていった。
前に座るヘクターの顔を見れば、ぞっとするほど真っ青になっていた。その隣に座るキリルの顔色も心なしか悪いものになっていた。
目が合ったアッカはしきりに自分たちの背後を見るように合図を送った。
これは、もしかしなくとも。
恐る恐るリョウが振り返れば、
「誰がなんですって?」
―――――――随分と楽しそうですね。
凍てついた冷気を背後に背負いながら、にこにこと途轍もない笑みを浮かべるシーリスの顔があった。
その瞬間の、オレグの顔といったら。
蛇に睨まれた蛙の如く、一気に石化したように固まったと思ったら、
「ウギャー!!!」
と悲鳴を上げて、
「スンマセン、副団長。別に他意は無くてですね。久し振りにリョウの奴の顔を見たもんですから、懐かしくなっちまってついつい」
『アハハハ』と濁すように笑って誤魔化してみたが、相手に通じないことを見て取ると、それから掌を返したように、平伏、平謝りだった。
「ええと、シーリスもお昼ご飯ですか?」
オレグのその様子が余りにも見ていて居た堪れなかったので、リョウは思わず助け船を出すように間に入っていた。
シーリスは仕方がないと呆れたように小さく息を吐いてから、優しい手を差し伸べたリョウに微笑んだ。
「いえ。リョウを探していました」
「オレに、何か?」
「ええ。急用が一件入ったので、先にそちらを優先しなければならなくなりまして。午後からの講義は少し待って下さい」
「はい。構いません」
「片が付いたら知らせますから。申し訳ないですけれど、それでいいですか?」
恐縮そうに寄せられた眉根に、リョウの方が慌てて立ちあがった。
忙しいのを承知で無理を言ったのはこちらの方なのだ。リョウとしては、勿論、シーリスに日常業務の方を優先してもらいたかった。
「はい、勿論です。こっちこそ、すいません、お忙しいのに態々時間を取って頂いて。オレのことはお気になさらずに。その間、厩舎か伝令小屋の方に居ますから」
そう言って微笑めば、シーリスは穏やかな笑みを浮かべた。
「そうですか。助かります」
丁寧な物腰とその口調は相変わらずで、そうして、きびきびとした動作で踵を返した背中をリョウは何とも申し訳ない気持ちで見送った。
シーリスの事だから、きっと昼食もまだなのだろう。シーリスは忙しくとも、そういう素振りを決して見せないのだ。有能で強ち多くの業務をこなせてしまうから、忙し過ぎることにすら気が付いていないのかもしれない。あのままでは身体を壊してしまう。
唯でさえ貴重な時間を削ってもらっている。そう思うと居た堪れなかった。
料理長のヒルデに頼んで厨房を借りて、【ブテルブロード】みたいな軽く摘めるものを用意して差し入れでもしよう。自分にはそれ位しか出来ないから。
リョウは、そう気持ちを入れ替えると途中になった食事を一刻も早く終わらせようと再びテーブルに向き直った。
食堂から消えたシーリスの姿にオレグはあからさまにほっとした顔をしていた。
「うぉー、助かった。命拾いしたぜ」
きっとシーリスにとっては、オレグに説教をする間すら勿体ないに違いない。
リョウは何とも言えない気分で、能天気そうに笑うオレグの顔を眺めた。
「【口は災いの元】」
「なんだそれは?」
ぽつりと漏れた呟きをロッソが聞き咎めていた。
「オレの故郷に古くから伝わる格言だよ。余計なことは口にするなってこと」
「成程な」
「【沈黙は金なり】とも言う」
「へぇ」
「……って、お前のことだろうがよ!」
気の無い合槌を打って、未だのほほんとした顔を晒しているオレグに業を煮やしてか、セルゲイが勢いよくその頭を引っぱたいた。
騎士団に入隊して兵士となる位だから、その中身は決して空っぽという訳ではないのだろうが、やけにいい音が辺りに響いた。
「うぉ! 何すんだ!」
手を上げたセルゲイをオレグは不服そうに睨みつけた。
「それはこっちの台詞だ。このうすらトンカチ」
「あんだと! このボケ!」
いつものことながら、そのまま低次元の言い争いが続きそうになって、
「ああもう、オレグは少し黙ってくれ」
リョウは自分の【タレールカ】の小皿の上にあった果物を摘むと有無を言わせずにオレグの口の中に放った。
楽しみに取っておいた甘味である【アナナス】をオレグごときに奪われるのは癪だったが、そろそろ平穏が欲しい頃合いだった。
独特の酸味と甘さ溢れる水分の多い果物である【アナナス】の味に、オレグがにんまりと頬を緩めた。そして、もぐもぐと口を動かしながら、暫し、棚ぼた的な褒美を堪能する。
―――――――このお子様め。
一人が口を噤んだことで急に静まり返った食堂に、リョウは肩を竦めると、漸くほっとしてテーブルに着いた。
そして残りの食事を平らげながら、オレグを見た。
「なぁ、オレグ。こんなところで油を売ってていいのか?」
アッカやロッソ、それからセルゲイもさっき、午後からの訓練があるからと食堂を後にしたのだ。
中々腰を上げない隣に尤もな質問をしてみれば、
「うぉ? げ、不味い」
周囲の様子を見て取って、慌てて立ちあがった。
「リョウ、ごっそさん、またな!」
そうして大きな身体は弾丸の如く食堂から飛び出して行った。
ふと、食堂から覗く窓の方を遠く見遣れば、鍛錬場の方へ向かうオレグの背中が豆粒ほどに見えた。先に着いていた仲間から案の定、小突かれている。
そして、天性の野性的感かは知らないが、こちらの視線を感じ取ったのか、これだけ遠く離れているというのに食堂の方へぶんぶんと手を振った。オレグは視力がいいのだろう。
リョウも笑いながらそれに手を振り返していた。
なんだかなぁと思いながらも、以前と変わらない日常が、可笑しくもあり、そして、愛しくもあった。
そうこうしているうちに、先に食べ終えていたヘクターとキリルが席を立った。
「じゃぁ、またな」
「ああ」
「お先に」
「ヘクター」
振り向いた相手に、
「後でそっちに顔を出しても?」
「ああ」
鷹匠は柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
そのまま、キリルもヘクターと連れだって食堂を後にしたのだが、何を思ったのか、不意に踵を返してリョウの下に戻って来た。
「なぁ、あんた」
食事を終えて立ちあがったリョウに、戻って来たキリルが声を掛けた。
「なんだ?」
「あんた………」
「リョウで構わないよ」
言いたい言葉を探しあぐねているのか、口を動かしながらも視線が彷徨う。
リョウは辛抱強く、キリルの言葉を待った。
「ホントはどっちなんだ?」
その問いにリョウはからからと笑った。
詰まり、キリルの中では、スフミ村で会った時の印象と今の自分が余りにもかけ離れていたから、戸惑っているということなのだろう。
身に着けている物と口調が少し違うだけで、それほどまでに変わるだろうか。そう思うと何だか可笑しかった。
だが、自分の核となる部分は、なんら変わりが無い。
リョウは居心地悪そうに身じろいでいるキリルの目をしっかりと見据えると、穏やかに微笑んだ。
「どちらもワタシですよ。ですが、ここに居る間は、ロッソと同じように接して下さい。その方が、無駄に混乱を招きませんし、ワタシの方も気が楽ですから」
そして、再び少し空気を変えると、徐に手を差し出した。
「ということで。改めて、よろしく、キリル」
「あ、ああ」
目の前に差し出された小さな白い手をキリルは戸惑いながらも取った。
そして、少しだけ握った手に力を込めてから離す。
キリルは、ここにいる屈強な男たちと比べれば、まだまだ線の細い方だった。それでも、やはり男である。その手は、温かくて大きなものだった。
そうして去っていった後ろ姿に、リョウは思い出すように声を掛けていた。
「そう言えば、【プラミィーシュレ】でキミの親父さんに会ったよ」
その言葉に、キリルは瞬時に動きを止めた。
ゆっくりと、どちらかと言えば母親似の繊細な顔立ちが振り返る。真中で分けられた癖の無い明るい金茶色の髪が、さらりと揺れた。そこに、もう一人の男の幻影が重なった。
「あ?」
「『ヨロシク伝えてくれ』だってさ」
取り敢えず、【ルーク】からの言伝を伝えれば、キリルの表情が、何か苦いものを飲み込んだように顰められた。
「……あんのクソオヤジ」
小さく呪詛の言葉を吐き出して。
その本心までもは分からないが。
まぁ、父親と息子の関係など、往々にしてそのようなものだろう。
そうして去って行くしなやかな背中を、リョウは小さく微笑みながら見送ったのだった。
補足的に、リョウのトレーに乗っていた食事の件で少し。
ロシア語で【ガビャージナ】は牛肉、【カルトーシュカ】はジャガイモ、【アナナス】はパイナップルのことです。全く同じものがある訳ではありませんが、似たようなものだと考えて頂ければ幸いです。